著者
金子 俊夫
著者別名
Kaneko Toshio
雑誌名
経営論集
巻
38
ページ
1-28
発行年
1992-03-30
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00005702/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja1839年 におけ る反穀物法 運動 」
J。839
年 にお=け る反 穀 物 法 尊動
金 丿 子丿 俊 夫 目 次 犬 づ ご はじ めに ・・ ... ・1.1 月28 日の大集会2,lyondon 令議 への準 備3.1836 年 か ら39年 の不況4.London で の失 敗 いヶ お わ.り に ……・ … …y 1 1, It じめ1こ ニヘ , ト ・f: …… 一八1 ∧ ,犬 , いへjManchester 反 穀物法 協会 の 結成 によっ て 在由 貿易 運動 は組 体 系 化 さ れ,……それ は1839 年 に な る とヤ 層 活 況 を呈 し たの で あ っ た。 イギ タ ス に お い て産 業 革 命 ぱ工 業 イ昿) 最 も,著 しい 出 発 点 で 鳶 っ な 。mm 世 紀 よ り綿 織 物 工 業 仁 よう て開 始 さ れ た 新 し い生 産 様 式 とI: れ を 包 含 す る機 械 制大 工 業 制 度 は,◇綿 織 物工 業 に り ど ま づらず?へ都市 化 現 象i と 剔 こ他 の 全 ての 工 業 部 門 やヽと波 及 し, 農業 社 会 か ら工 業 社 会 へ し転 換 刄 て い っごた ので あ る。 こ の よ う な 経 済 社会 奮実現,し か イダ,リ 不は。 大こま宍か に 表 現 す るな らば ,19 世,紀 初 め 以 降 半 世 紀以 上 に わたっ て「世 界 の工 場 」とし て,\よ り正陣 には1820 年 か ら1880 年 まで の時 代 を さ す が, その 経 済 的 優 越 性 を 世 界 に示 し たの で あ,る9 上卜 …… ごこ綿織 物 の輸 出 力^mm 的 産業 で 弗 っ な.毛 楸 物 の そ れを 凌 駕 七 だ の は9 世 紀 に 入っ て す ぐ の 耳 とで あ りし181,0 年 帽 よ余 輸 出 額 の56 % 々古to り り, プ1820 年 に は輸 出 総 額3,640 万 ポ ンド 中√ 綿 梨 品 は。・。1,650万 ポン ド て'杓45 % , そ 七 て1830 年 に は輸 出 総額3,830 万 ポン ド 中,1940 万 ポ ンド で 過半 数 の約51 % を 占 めた 。 すな わ ち イギ リ ス輸 出 製 品 の 中 で √づ綿 製 品 が 最 も大 きな割 含 を 占 め た時 期 は,19 世 紀 前 半 , と く に1810 年 か ら40 年 に か け て で め っ た 。 そ し て1820 年 代 か ら50 年 代 に か け て , 世 界 の 原 料 綿 花 り お よ そ 半 分 を イ ギ リ ス 綿 工 業 が 消 費 し て い た 几 こ り よ う な イ ギ ジ ス 資 本 主 義 の 発 展 を 支 え て い た の がLancashire の 数 多 く の 都 市 や 農 村 に 存 在 し て い た 綿 工 業 , と り わ けManchester の そ れ で あ っ た 。 し か し な が ら こ の よ う な 発 展 の 時 代 に お い て , 穀 物 法 問 題 が 顕 著 に 茸 場 し て き た1880 年 代 卵 年 代 に か け て は 必 ず し も 希 望 あ ふ れ る 順 風 満 帆 な 時 代 で ぱ 作 か っ た 。 と く に1834 年 か ら37 年 の 時 代 は 好 況 期 で あ っ た が,1838 年 か ら42 年 の4 年 間 は 恐 慌 と 沈 滞 の 時 代 で あ っ た 。1843 年 か ら 穀 物 法 が 廃 止 さ れ た1846 年 犀 好 況 期,1847 年,48 年 は 恐 慌 と 沈 滞,1849 年 か ら52 年 は 再 び 好 況 期 で あ っ た 。 こ の よ う な 景 気 変 動 の 中 で , 産 業 革 命 以 来 の 工 業 化 , 都 市 化 現 象 に よ っ て も た ら さ れ た 諸 問 題 が , 社 会 的 諸 矛 盾(i) と し て 表 面 化 し , 激 し い 階 級 闘 争 を 生 み 出 し た の で あ る 。 よ り 具 体 的 に は ,1830 年 代 後 半 に お け る 農 業 状 況 は 悪 く , 小 麦 の 年 平 均 価 格 げi835 年 に1 ク ォ ー タ ー 当 た り39 シ リ ン グ で あ っ た が,1839 年 に は71 シ リ ン グ に 高 騰 し か た め に , 綿 織 物 工 業 の 産 業 資 本 家 は 彼 ら の 労 働 者 に 対 し 高 賃 金 を 保 証 せ ざ る を え な く な り , 彼 ら に と っ て 憎 む べ き 法 律 で あ る 穀 物 法 令 ど う し て も 撤 廃 す る た め に , 全 力 を 尽 く す と 誓 い め っ た の で あ る 。 聊 ま け に 旧 支 配 者 で あ る 地 主 階 秘 り 農 業 利 益 を 保 証 し て い る こ の 法 律 が 原 因 し て , 外 国 工 業 が イ ギ リニ ズ エ 業 に 容 易 に 競 争 を 挑 ん で き て い る か ら な= お さ ら で あ う たy す な わ ち い815 年 の 穀 物 法 御 行 以 来 イ ギ リ ス9 綿 棒 物 工 業 が 影 響 を 号 け , 綿 製 品P 輸 出 が 停 滞 し すこ の で あ っ な 。 犬 と え ば, ニ 翌1816 年 に は 綿 織 物 の 輸 出 量 が 前 年 め75 パ4 セ ン ノト に 減 少 し , そ 回の 後10 年 以 上 に わ た ら て 伸 び 悩 ん だ の で あ っ た 。 一 方, 上半 製 品 の , よ り白糸 , 紡y 糸 は1815 年 と1829 年 の 輸 出 量 を 見 る と, ニ5.5 倍,6.78 倍 と クそ れ ぞ れ 大 幅 な 伸 び を 見 せ て お り( ソ こ れ が ヨ ー ロ ッ パ 諸 国 の 綿 織 物 工 業 が 台 頭 ず る 丿1 ……つ の 要 因 と な り ,Manchester の 綿 織 物 製 造 業l :ii 者 は1830 年 代 求 心 入 心 と 保 護 貿 易 主 義 カ ユペ 自 由 貿 易 主 義 へm 弗 玲 を 熱 望 し 始 め た の で あ っ た 九 大7・・ヽ… …… ニ…… ダ ニ 丿 コ … …ニニj ・ 。・・。。・・ 。。 ・.j丿 土 そ 七 で 彼 ら は1838 年9 月 にManchester 反 穀 物 法 協 会 を 設 立 し , そ れ 以 降: 自 由 貿 易 思 想 を 流 布 ず, る た め の 具 体 的 活 動 を 奏 ヤ シ ペ ー ン と小 う 形 で 辰 開 しII | ・ だ 。j す な わ ち √ 講 師 派 遣 に よ4 巡 回 演 説 方 式 ノを 採 っ: た の で あ る 。づ し か し 運 動 に 対 す る 干 匪 れ と い う こ し も 手 伝 い , 子 れ ‘ ニ よ 言 直 樟 の 効 果: は 得 ら れ な か っ た が,j …… 協 会 は1 つ の 大 字 な 成 果 を 得 な 。 ニ1 つ は , 埼 初 の 下 院 議 員 再 挙 に 多 く
1839年における反穀物法運動3 の協 会 会 員 が 当 選 し, 議 会 活 動 を通 じ て の 穀物 法 反 対 運 動 の 推 進 に見 通 しが たっ た こ とで あ り, 更 に2 つ め は, 不作 と不況 に よ る 商工 業 界 へ の 大 打 撃 が 原 因 とな り, 穀 物法 廃 止 にた い し て,Manchester 商 業 会 議 所 の積 極 的 な賛同 を得 た こ とで あ っ た 。その 後 の 運 動 はManchester 商 業 会 議 所 の会 員 を 中 心 に運 営 さ れ,Manchester 学 派 の 基 盤 を形 成 し て い くの で あ っ た。RichardCobden( キ ャ リ コ 奈 染 業 者) ,JohnBright( クエ ー カ ー 教 徒 の工 場主) ,J.B.Smith(Manchester 商 業 会 議 所 会 頭, 反 穀 物 法 同 盟 初 代 会 長),T.Potter(
初 代Manchester 市 長),R.H.Greg ・w.R.Greg 兄 弟(Greg 商 会 経 営 の 綿業 者),G.Wilson( 反 穀 物法 同 盟2 代 目会 長),H.Ashworth ・E.Ashworth 兄 弟( 紡垂 業 者),ThomasBazley(Manchester 商業 会 議 所 会 頭) らが 代 表 的 人物 であ る。 そし て1838 年12 月 に はManchester 商 業 会 議 所 の 総 会 が, 穀 物 法 廃 止 を議 会 に 請願 す るた め,2 回 に わ たっ て 臨時 に 開催 さ れ た。 し か し な が ら商 業 会 議 所 の性 格 と し て は 穀 物 法 の 全 面 廃 止 とい う点 で 必 ず し も統 一 さ れ て お ら ず 矛 盾 を有 し て い た ので あ っ た。 臨 時 総 会 開 催 の 要求 書 に 署 名 す る大 多 数 の者 は 適 度 な固 定 関 税, あ るい は穀 物 価 格 に応 じ て 税 額 が 変化 す るSlidingScale 法6)に賛成 し て い た ので あ る。 総会 にお い て商 業 会 議 所 会 頭 のG.W.Wood はSlidingScale の修 正 を求 め た の に対 し,Cobden は穀 物 法 の 全面 撤 廃 を 主 張 した ので あ っ た。 こ の2 回 の 総 会 に お い てCobden は 頭 角 を あ ら わ し, 反 穀 物法 運 動 の 中 核 を。占 め, 翌1839 年1 月 の反 穀 物 法 協 会 の 全 国 大 会 開 催 を 計 画 した ので あ っ た。 か くし て,1839 年 に 入 っ て以 来Manchester 反 穀 物 法 協 会 は1 月10 日 にManchester のYorkHotel で, 次 いで1 月22 日 にCornExchange で800 人 の大 集会 が 開 か れ,大 い に盛 り上 が り を見 せ ,2 月 にLondon で 会 合 す るこ とを 申 し合 わ せ た 。 そし てManchester 反 穀 物 法 協 会 の 運 動 は その後 次 第 に効 果 を上 げ, 会 員 増 大 とい う成 果 を 見 た。 こ こ に協会 の運 動 を一 層 強 固 な もの へ と組 織 ・ 体 系 化 し, その 目 標 を明 確 化 す る必 要 に迫 ら れ,1 月28 日 に 集 会 を 開 き, 運 動 目 的 ・ 方法, 協会 の 組 織 ・ 統 制 を 決 定 し た, い わゆ る 「11 ヶ 条 決 議 」 を 発 表 す るので あっ た。 こ の 集 会 以 後 , 協会 活 動 は その決 議 に従 っ て一 層 活 発化 を み せ,2 月のLondon 集 会 を 経 て,3 月 に は 各地 の団 体 を統 合 す る こ とに よっ て,「 反穀 物 法 同 盟 」 を 結 成 す る に至 るので あ る。
本稿 で は1 月28 日の集会以 降 に焦点 をあ て, その後 の自由 貿易運動 の経 過 を明 らかにしてみたい。 1 。1 月28 日の大集会1838 年9 月 にManchester 反 穀物 法協会 が成立 して以 来,協会の活動 は活 発化 し, その後会員 が増大 す るにつ れて√ 運動の 目標 を明確化 する必要 に迫 られ, ここに1839年1 月28 日,「London 会議 」の前に,協会 の規則 を検 討 し
決定 す るた め,J.B.Smith を議 長 として,Manchester のMarketStreet にあ
るNewall'sBuildings で その年 最初 の年総会 を開 いた。 そして次の 「11 ケ条 決議 」 が採択 さ れた。 第1 条 本協会 は「Manchester 反 穀物法 協会」とす る。その目的 はあ らゆ る合 法的 手段 により,地 方反 穀物 法協会 の結成, 講師派遣, 小冊子の配布, 新聞 へ の論 文掲 載, 議会 への 請願 などの活動 を促進 さ せ, 穀物 法の早 急 な る 完 全 な廃止 を実現す るこ とで あ る と, こ こに宣言す る。 第2 条 協会 のすべ ての総 会あ るいは委員会 におい て, 政 党 に関し ての討 論 は行 わず, また どの よう な建議 も提案 せず, また宣言 された協会 の目的 に 一致 し ない問題 は受 け入 れ ない。 第3 条 すべての協会会 員 は年会 費 を前納 す る事 とす る。 第4 条 会員 は年 間5 シリング, もし くは それ以上 の会費 を納 入し, 資 格 証明 書を受 け取 るこ と。 会員 は協会 の総会 に出席 し√ かつ議 事 に参加す るこ とがで きる。 第5 条 協会の運営 役員 は,評 議委 員会 に帰属し,会 長,副会長,収 入役, そして各母体 から選 出さ れた100 名の会 員 か らなる。 第6 条 評議 委員会 は12 名の会員, 定数3 名か らな る「実行委員会」 を設 置し, もし必要のあ る場 合 は協 会 の業 務 を管理 す る義務 を もつ別 の委員 会 を 設け るこ とがで き る。 第7 条 評議 委員会 は財政 委 員会 を設 置す るこ とがで きる。 構成員 は8 名, 定数 は3 名 とす る。 業務 は協会 の会計 に関 す るす べての財政 を取 り扱 う。 そ して収 入役 にすべ ての財政 を任 せ る と ともに その全会 計を監 査 し,監督 す る。 第8 条 協会 の会長, 副会 長, 収 入役 はすべ ての委 員会 に構成員 として参 加 す るこ とがで きる。 丿 第9 条 すべての委員会 は その最初 の会議 にお いて,議 長 ならびに副議 長
1839 年 に お け る 反 穀 物 法 運 動5 を 選 任 し な け れ ば な ら な い 。 ’y ’I ・ ・。 第10 条 評 議 委 員 会 は 小 委 員 会 の 報 告 を 受 け る た め , そ し て す, べ て の 業 務 を 取 り 扱 う た た め に , 少 な: く と も2 週 間 に ! 回 ぱ 開 催 さ れ な け れ ば な ら な い 。 第11 条 協 会 規 則 の 変 更 は 行 わ な ヤ レ た だ し,Manchester の 新 聞 ぺの2 紙 以 上 の 公 告 に よ る,1 週 間 の 告 示 の 後 に 召 集 さ れ た 総 会 で の 変 更 を 除 く(7)。 こ れ ら の 規 則 は 穀 物 法 廃 止 を 唯 一 最 大 の 目 的 と し て , 協 会 の 努,力 は こ の 獲 得 に もっ ぱ ち 向 け ら れ る べ き で あ る ノと い う 明 確 な 約 束 を 含 ん で ぃ すこの で あ4 。 ま た 会 費 は 年 間5 シ リ ン グ と , 従 来 通 り の 金 額 が 踏 襲 さ れ た 。 ,ニ の 金 額 は 社 会 の あ ら ゆごる 階 級 の 力 を 結 集 す る た め に 設 定 さ れ た も の で あ 勺 , も ぢ ろ ん 協 会 の 運 営 は こ これだ け で は 十 分 で は な か っ た6 こ れ を 補 完 し た の が か つ てR.Cobden が 提 案 し た 寄 付 金 制 度 で あ っ た 。 ・・ \ こそ七 て 上 記 「11 ケ 条 決 議 」‥に 従 っ て , 評 議 委 員 会 , 財 政 委 員 会, ニ 実 行 委 員 会 そ し て 請 願 委 員 会 が 設 置 さ れ た の で あ る 。 そ れ ぞ れ の 委 員 会 に は こ れ ま で の 協 会 の 運 動 に 活 躍 し た も の や 。 今 後 の 活 動 の 坤 で 重 要 な 地 位 を 占 め る も犬の が 含 ま れ て い る の で 構 成 会 員 名 を 次 に 記 し て お \く 。 ,11 評議 委員 会 一 犬 仝 長J.B.Smish (£150 ). 副会 長C.J.S.Walker. 収 入役
事
員
幹
委
JamesKershaw( £100).JohnBallantyne. ElkanahArmitage( £50).JosephAdshead 。TamesAshworth.Edw.Ashworth.J.R,Barnes( £50).ThomasBurgess.AndrewBannerman.RobertBunting.JohnBrewer. R.H. ヶGreg( £100):H.H.Grounds.JremiahGarnett.J.S.Grafton.WilliamGoodier.GeorgeHadfield.EdwardHall. 犬JamesHampson.ThomasHopkins. JohnMacfarlane. HenryMarsland. SamuelMarsland. HenryMc.Connell. ThomasMolineu χ.F.C.Morton.WilliamNicholson.RobertNicholson.WilliamNield.WilliamBesley.JosephHeron.
John しBrooks( £100).HollandHoole.w.R.Callender(
£100).IsaacHudson( £50).JamesCarlton.JamesHudson.JamesChapman.JohnHyde.RichardCobden(
£100).ThomasHarbottle.WalterClarke.JamasHowie.MatthewCurtis.
十WilliamHarvey.JamesChadwick( £50).AlxanderHenry.J.
・C.Dyer( £1,100).JohnHigson. ,.GeorgeDi
χon丿 十ThomasHigson.S.D.Darbishire( £50).RobertHolland.PeterEckersley.JamesKarshaw( £100).EdwardEvans.WilliamRockett.WilliamEvans.WilliamLindon.RichardT.Evans.WilliamLabrey.JamesEdwards.F.Lowe.J.G.Frost.JamesMurray.J.H.Fuller.JohnMalin.StephenSmith.JohnEdwardTaylor.RobertStuart( £100).JornWhitlow.AbrahamSmith( £50).JohnWilkinson.SamuelStocks レSamuelWatts.JohnStanding.WilliamWoodcock.IsaacShimwell,AbsalomWatkin. AaronNodal. JohnNaylor. PhilipNovelli( £100).JosephNadin,iun ・・.JohnOgden.J.S.Ormerod.BenjaminPearson.RobertN.Philips.ThomasPotter.ArchibaldPrentice.JonathanRawson にJohnRobley.JohnRostron( £50).WilliamRawson.HenryRawson.JohnShattleworth.JonathanShaw よJ.B.Scott.ThomasSmith.George ノWilson.C.J.S.Walker.T.H.Williams.HenryWadkin( £50).p.F.Willert.W.B.Watkins よ (カ ッコ内 の金額 は1 月26 日 までの個 人的寄 付金で あ る。) 財 政 委 員 会 委 員Jas.Kershaw,Treasurer.RichardCobden.HollandHoole レ
ThomasHarbottle.
W.R.Callender.
HenryRawson レ
J.C.Dyer. EdwardHall. p.F.Willert.実行委員会 委 員RichardCobden.ArchibaldPrentice.WilliamRawson.EdwardHall. 請 願 委員 会 委 員WalterClarke.EdwardHall.SamuelLowcock.ArchibaldPrentice.IsaacShimwell.JohnBright,Rochdale.W.Perkins.JohnOgden.MatthewCurtis. W.R.Callender. JamesChapman. WilliamEvans. JamesHowie.
JohnBlackman.
GeorgeSmith.
JamesNaylor.
J.S.Ormerod.
HenryRawson.
JohnStandring.
GeorgeWilson.
HenryAshworth
Bolton.
1839 年 に お け る反 穀物 法 運動7 WalterClarke. GeorgeWilson. GeorgeDi χon.PeterEckersley. ThomasHopkins. WilliamGoodier. AaronNodal. EdwardWorthington. JohnGadsby. JamesHowie. J.Groves. WilliamRockett. Wm.Barratt,Newton 几 そして, 次 の委員会 も設置さ れるこ ととなっ た。 臨時委員会 委 員WilliamBickham.ArchibaldPrentice.WilliamRawson.W.R.Callender.WilliamEvans.GeorgeWilson.ThomasWoolley 几RichardCobden.
HenryRawson.
SamuelLees.
こ こで 評議 委 員 会 の会 員 を見 てみ る と50 ポ ン ド か ら100 ポ ン ド の 多 くの大 口 寄 付 者 の名 前 が 含 ま れ てお り, 協 会 の 活 動 資 金 の 調 達 の 重 要 な手 段 で あ っ た 寄 付 金 制 度 が 重 視 さ れ て い る こ とが 理 解 で き る。 ただ ちに協 会 ぱ,(1)講 演会 の開 催,(2)小 冊 子 の 配 布 ,(3 )議 会 へ の 請 願 促 進, な ど の活 発 な キ ャ ン ペ ー ン を 開始 し た已 こ れ ら 日 常 の 協会 の業 務 運 営 は小 執行委員仝にゆだ ねられていた。それには協会 会長のJ.B.Smith ほか,R.Cobden,G.Wilson,A.Prentice ら,そし て そのほかにManchester の2 ・3 の自由 貿易主義 者であ る活動的指 導 者 が含 まれていた(11)。 2.London 会議へ の準備 しかしなが ら,2 月 に議 会 の1839 年会期 が開か れる と協会 の 関心 は それに 注が れた。協会 の代 表者 た ちがLondon に集結 し,いろ いろ な工業 都 市か ら の現状 を訴 え, 現 存 す る窮乏 を緩 和す る方法 を議会 に提 案 す るこ とを決定 し
た。い わゆ るLondon 会議 の 開催であ る。Manchester 協会 の指導 者 た ちはLondon
会 議 が近 づ くにつ れて, 慎重 な態度 を とり続 けた。 先月,1 月22 日 の集会で は, 招待者 の中 か ら多 くの欠席 者を出した か らで あっ た。 そし てい まだ多 くの穏健 派 自由貿 易主 義 者 が存在 し, 協会 は, 穀物法 の廃 止 は可 能で あ ろ うか, 強 く その廃 止 を要求 す るこ とが賢明であ ろ うか, とい う危惧 を抱 いていたので あ る。 しか しなが ら他方 におい て, 穏健派 の主張 す るSlidingScale の修正 要求で は広 く全 員 の同 意を得 るこ とは困難 であ り,一 致団結 した 運動 を維持 す る唯一 の方法 は, 穀物法 をはっ きり と非難 し, それらの完 全 な る, かつ早 急 な廃 止 を主 張 す るこ とであ る, とい うこ とも理解 し ていた。 この ような動揺 を払拭 す るこ とがLondon 会議 の準備段 階の作業 の1 つで
あ り,J.B.Smith,R.Cobden を はじ めとし,Birmingham のJosephSturge
やRadical 指導 者 らによっ て進 めら れ,そのほか議 長の 選出, 議事 の進 め方,LiberalPress (自由新聞 )との協 力 などが準備 されたので あ る(1≒ また協会 は 穀物法 に反対 す る人々の感覚 を啓蒙 す るためA.W.Paulton をLondon に派 遣 し, 講義活動 に着手 させ たのであ る。 そして女王 が議 会開 催の た め通 行す る道 順に, 安いパ ンを 要求 す るポ スターを はっ た りもした。 か くして, この よ うな準備の もとで , かつ, 不況 の深 刻化 とい う社会 情勢の なかで2 月4 日
月曜 日,PalaceYard のBrown'sHotel にてLondon 会議 を開催 した。 い
まやLondon が活 動 の舞台 となっ たので あ る。London 会議 に参 加した各地
Manchester Bolton: Liverpool: Grasgow: Leeds: Stockport: Kendal: Huddersfield: Preston: Birmingham: London: そ の 他 : J.B.Smith. C.T.S.Walker. GeorgeWilson. EdmundAshworth. JoshuaWalmsley. AleχanderJohnstone.EdwardBaines,jun.J.Slack, 市長.J.Edomondstone.IsaacWilson, 市助役.Brook.Parker.JosephSturge.E.Edwards.ColonelThompson.Dr.Bowring.C.p.Villiers,M.P 。 1839 年 に お け る反 穀 物 法 運 動9 R.H.Greg. W.Rawson. A.W.Paulton. J.Aikin. WilliamWeir. HamerStanfield. 市役所書記.W.Wilson. Shaw. Bradford. w.Weymouth. M.A.Taylar. Thos.Thornely,M.P. 。 Ewart, 後 にLiverpool のM.P.'"'
3.1838 年 から39 年の不 況 こ こで 当時 の社会状 況 について若干 ふ れてみ るこ とにす る。1838 年 の農業 不況 が食料 品価 格 を大 幅 に騰 貴さ せたこ とは第1 表 において 証明 し う るこヽとく, 小麦 の収穫 が大 き く不足 し たので あっ た。 第1 表1838 年より1839 年初 頭の週 平均小 麦価格 1838年 価 格 指 数 1839年 価 格 指 数 第39週404142434445464748495051525361s.lOd. 6211 649 660 657 664 695 7211 7310 734 731 756 784 784 782 100 102 106 108 108 109 114 118 120 120 120 124 128 128 128 第1 週2345678910111213141580s.2d. 816 814 793 770 741 716 7110 7210 738 741 713 6811 688 683 131 134 133 130 126 121 117 116 118 121 121 117 Ill 112 112 出所:ThomasTookeandWilliamNewmarch,AHistoryofPrice,andoftheState0
卵heCirculation, 斤vm1793to1837 ,Longman,1838,vol.4,pp.410-413 より作成。
1839年における反穀物法運動111838 年第39 週 には1 クォーターあた り,61 シリング10 ペ ン スが年末 には約1.3 倍 の78 シリング4 ペン スに騰 貴し,その後 も上 昇 を続 け,翌1839 年1 月の 第2 週 には81 シリング6 ペン スに達し,1838 年 第39 週時 との比較で1.34 倍 と な り,1818 年11 月の平均イ而格82 シリング5 ペン ス(14)以来 の20 年 ぶ りの高値 とな った。そして1838 年の小麦の収穫 と1834年 の それ との差 はお よそ700万か ら800 万 クォーター(15)で1838 年 の不足分 は400万 クォータ ーO と言 われてい る。その結 果,小麦ぱ1839 年 には第2 表のご とく,約264 万 ク ォーター が輸 入 さ れ,第3 表 によれば外国穀 物類 が約466万 クォーターが 国内消費 のた め倉 庫から放出さ 第2 表1827 年 か ら1839 年 ま で の イ ギ リ ス に 輸 入 さ れ た 穀 物 単位:小麦粉・Cwt.,その他・Qrs 年 小 麦 大 麦 カラス麦 小 麦 粉 1827 1828 1829 1830 1831 1832 1833 1834 1835 1836 1837 1838 1839 283,236 715,242 1,544,969 1,414,262 1,857,278 405,884 247,625 131,566 46,530 162,778 452,369 1,240,138 2,638,593 208,117 168,673 281,752 131,715 369,024 101,147 85,221 87,187 68,455 81,631 91,911 2,439 581,086 1,741,091 166,423 541,858 499,947 617,568 31,862 23,335 175,266 117,673 129,625 413,710 50,981 674,554 94,348 151,038 461,895 560,249 1,627,742 224,068 170,092 149,554 84,684 279,602 346,325 439,910 793,660 出所:ThomasTookeandWilliamNewmarch,op.cit,vol.3,p.292.
第3 表1823 年( 穀物に 関税 が課され た最初 の年)以 降の, 穀 物・あら粉 ・ およ び小 麦粉 の,輸入 量・国内 消費用 放出量 ・ および 関税支払 額 年 輸 入 量( クォーター) 国内消費用放出量( クォーター) 支 払 関 税 額 1823 1824 1825 1826 1827 1828 1829 1830 1831 1832 1833 1834 1835 1836 1837 1838 1839 53,866 612,594 1 ,060,8372,252,2712,622,2831,294,3782,694,4322,691,8843,570,569668,42248!,506560,056321,206643,5021,325,9301,534,7304,591 ,099 12,362 677,195 834,425 2,098,944 2,998,866 1,237,494 1,959,355 2,649,348 2,265,392 475,680 112,408 236,902 439,988 408,217 842,326 1,960,475 4,657,146 £.s.d. 10,31043 176,383156 304,919155 442,755149 792,934158 196,83402 907,32055 790,87700 547,80900 309,67600 36,25200 99,41600 201 ,67300152,79140580,20000183,000001,084,87000 出所:ThomasTookeandWilliamNewmarch,op 。ぷ。vol.3,p.293。 このよ うに突然大 量の 外国穀物 が輸入 され, 消費用 として放出 さ れたこ と は, ただ ちに市場 を圧 迫 す るこ と となり, 小麦価 格に跳 ね返 り,1839 年1 月 に 第2 週 を頂点 とし小 麦価 格 は暫時 下落傾向 を示 し,6 月 には その月の平均 価 格で68 シリング8 ペ ン スとなっ た。 その問労働 者階級 は「高 いパ ン」 に困 窮 し たの に対 し, 農業 家だ けが その利益を享受 したのであっ た。London 会 議 が開催さ れ, また反 穀物法 協会 の運動の1 つ として「安 いパン」 を求 めた ビ ラを, 女王 の議 会開 催の た めに通行す る道順 には り紙 したのは この ような 時期 におい てであ っ た。 彼 らは, 白由貿易制度の もとで は外国 穀物 の輸 入 ぱ ほかの外国商品 と同様 に一 般 に イギ リス製造品 との交 換 として行 われ, た と え食料価格の騰 貴があっ た として も, 労働雇用 に対 す る需要 の増大 が原因 と なっ て労働者階級 は高 賃金 を取 得 す るこ とがで き, 大 きく埋 め合 わせ る と主
1839年における反穀物法運動13 張 した ので あ る。 し か し な が ら, 製 造 業 地 方 にお い て は 不 況 が 広 が り, 第4 表 の ご とく綿 花 の輸 入 は1839 年 に は 前 年 の5 億785 万 ポ ン ド か ら3 イ意8,940 万 ポ ン ド へ とお よ そ3 分 の2 へ と減 少 を 示 し, 雇 用 の減 退 , 労 働 賃 金 の低 下 を 引 き起 こ した 。 く わ え て食 料 品 価 格 が あ る とき に は2 倍 近 く に 高騰 し, その ほ か 特 に, 茶 , 砂 糖 な どの 生 活 必 需 品 の輸 入 も1839 年 に は 減 少 し て い るこ と も手 伝 い, 価 格 が上 昇 し, 労 働 者 階 級 は 二 重 の 困 窮 に 陥っ た の で あ る。 第4 表 諸商品のイギリスへの輸入量 年 綿 花 コ ー ヒ ー 亜 麻 大麻、絲 工のもの 羊 毛 生糸肩 び 屑 絹 粗製砂糖 茶 た ば こ、 未 加 工 1838 1839 1840 1841 1842 1843 1844 1845 1846 lbs. 507,850,000 389,396,000 592,488,000 蕉 風000531,750,000673,193,000646,111,000721,979,000467,748,000 Ids. OJ,UOu, \J\J\J41,003,00070,250,00043,317,00041, 瞰00038,942,00046,523,00050,377,00051,634,000 cwts. 1,626,276 1,223,701 1,253,240 1,346卸1,145,7591,437,1501,583, 桝1,418,3231,146,743 cwts. /oU,o/d qqt;,m 648,068 652,165 585,905 735,743 913,233 931,850 880,810 lbs. 52,594,000 57,379,000 49脈00056,170,00045,881,00049,243,00065,713,00076 耶,00065,117,000 lbs. 4,404,354 4,788,738 4,459.542 4,734,755 5,388,100 4,964,203 5,899,187 5,816,327 5,280,000 cwts. 5,035,373 4,678,219 4,035,845 4,908,018 4,756,011 5,020,569 4,880,075 5,820,890 5邱 邱 lbs. 40,413,000 38,158,000 28,021,000 30,787,000 40,742,000 46,612,000 53,147,000 51,056,000 54,768,000 lbs. 30,162,000 35,605,000 36,680,000 43,935,000 39,526,000 43,755,000 37,610,000 32,944,000 52,787,000 出所:ThomasTookeandWillamNewmarch,op.cit.,vol.4,p.435. しかしながら,穀物法推進者達は次のように昨今の状況を説明している。1. 価格の変動は,確かに大 きく, かつ大いに困窮を もたらすものであると ぱ言え,以前の時期の経験の中で起こっ たいくつかの事例 を越 えるものでぱ ないこと。2. 穀物法は, それによって市況が非常に悪化しかときは,国内の生産者が
外国産の供給から保護され, また諸価格が我が国内生産の不足 を示す高さに まで上昇した ときは,これまでなかっ た規模 の外国産 の供給が非常に低い関 税を もって導入されたのであ るから,望 ましい作用をしてきたのだ というこ と。3. すべての農産物が,穀物法 とかかわりなく,年々の天候の相違 その他の 原因によっ て,価格の変動を必然的に受けやすい ものであ る(1. そして更に続けて言う。 すなわち, より高い代価を取得している土地所有者や農業 資本家は製造業 者や商人 にとってはよりよい取引相手であり,労働者に とっ てはよりよい雇 用者に違いないが,一方において,後者の製造業者・商人・労働者の諸階級 は自分かちの食料を得るために, より高い価格を支払 わねばならないという こ とで, それ以上の埋め合 わせをしている(1≒ この論法ぱ穀物法の及ぼす効果を主張した もので はなく,今日の不況が穀 物法 によるものでない, と弁明したにすぎない。 そして今日の食料価格の高 騰の原因を穀物法に求 めるこ とは困難 として も,食料品の高価格が労働者階 級に対し雇用を増大させ,強いては賃金の上昇 につながる, という考えは自 由貿易主義者を納得させるこ とはできなかっ た。 4.London で の失敗London で の反 穀物法運動 の最 初の集会は協会 に とっ て十分 な効果をあ げた とは評価で て きない。 その間の事 情 を明 らか にしてみ よ う。London で の協会 の諸活動 がChartists の反 対 に直面 し, 大 い に妨 害さ れ たので あっ た。反 穀物法会議 であ るLondon 会議 と同 じ時期 にChartists の 国民 集会 が開 か れたので あった。Chartists の代 表者 た ちが会 議 に出席 すべ くLondon に到 着 したさい,彼 らの使用す る宿舎,Brown'sHotel がすで に自 由貿 易主義 者 によっ て予約 さ れてし まっ たので あ る。Chartists の代表者 た ちは不満 を表 現 し なが ら も, 別の ホテルに移動 す るこ とを余儀 な くされた。 この よ うな会 場 の取 り合 いに端 を発し,Chartists は敵 意 をむ き出 し にした。 彼 らは労働 者 の前で さかん に反 穀物法運動 を,穀物法 問題 を前面 に出すこ と に よっ て注意 を そら そう とす る中産 階級のご まか しで あ る と非難 し, かつ彼 らの運動はPeople'sCharter に具体的 に表現 さ れてい る政 治的権利 を獲得す るた めの戦 いで あ るこ とを訴 えた。反 穀物法協会 は彼 らの活動 に より圧 倒さ
1839年における反穀物法運動15 れ,またLondon 会議 当日の参加者 の少 ないこ ともあ り,失望 の 色は隠 せな かった。 当 局の興味あ る発表 によれば, こ れは安 息 日で あ る日曜 日に旅行 す るこ との不 本意が 原因 してい る と指摘 してい る顔(London 会議 は翌 月曜 日に 始 まり, そして参 加者は しだい に増大 していっ た)。London 会議(2 月4 日) は議会 での活動 に重点 を置 き,theBarofHouse( 下院懲 罰制裁 所) で の聴 聞 に対 応 するため, 資料 整理 に着手 した。議会 が 開催さ れる と彼 らの失望 は倍 加 した。女王 ぱ議会 開催 演 説の 中で穀物法 につ いて一言 も触 れな かっ たので あっ た。しかし協会 代表団 は,Kendal 出身の国 会議員で,Manchester 商業会議所 の会 頭であ るGeorgeWilliamWood が 演説の中で 穀物法 を取 り上 げ るこ とを決議 し, 彼 に期待 した。E.Buller が高 価格が現 存穀物法 によ り持 続さ れるこ との不 可能制 を論 じたあ と,つ いでG.Wood が演壇 にのばった。彼 は穀物法 がいかに製造業 者 そして労働者 に対 し悪 影響 を与 えて い るか を強調 した。 この点 に関 しては 自由貿 易主義 者は満足 を 得たのであっ た。 しかしながら, 国家の繁 栄問題 に敷行 す るに至 り演説を誤 っ てし まっ た。 彼 は現在 の不況 を軽 視し, 商工業 は繁栄 状 態 にあ り, 貧困は 製 造業者 の賃金 引 き上 げ にあ る と論 じたので あっ た。Tory 党党 首,RobertPee ト( 閣 僚 には入っ てなかったが) は次 のよ うに反 論す る。 穀物法 は地主 階 級 に とっ て絶対 必 要な ものであ り,Wood の統計 が証 明 してい るよ うに国家 が繁栄 してい るな ら, あ えて 穀物法 を変更 す る必 要 はなド1), と。 議 会 に出席 して い る自由貿易主義者 や傍聴 席の協会 代表 者 の突然 ので きご とに対す る憤怒 は想 像で きよう。 彼 らは何 か月 に もわたっ て イギ リ ス製造業 の不振を証明 す るため に資料 を蒐集 して きた。 そし て彼 らは今 日の不況 が高 い食料価格 に起 因 してい るこ とをあ きらか にし, 穀物法 に起 因 す る貿易のひ ず みを証 明す るこ とに努力 し てきたのであ る。 こ こ に それらを証明 する彼 ら の蒐集したい くつ かの証 言があ る。 これらの証 言 ぱ当時 の イギ リス製造業 の 不振の状況, 特 に外国 市場 にお け る状況 をかな り詳 細 にあ きらか にしている のでここに掲 げ てお く。
証 言1.Mr.Kempton,Massachusetts (北 アメリカ)の製 造業 者の証 言。 問い: アメリカ商 品 はイギ リ ス商品 と比較 して,低価 格で販売 さ れてい ます か。 答 : はい。 われ われぱインド に商品 を輸 出 し,特 別 関税を支払 い, イギ リ ス製品 よりさ ら に安 い価 格で 販売 してい るこ とを知っ て い ます。 問 い:あ なた の製 造業 は何で すか。 答 :粗糸紡 績織物業 (spinningandweavingcoarseyarn )です。 問 い:輸出 用で すか。 答 :ぱ い, そうで す。 問 い:市場 は どこで すか。 答 :南アメ リカ, 西 インド, 東 インド市場で す。 問い : それらの市場で 同種 の イギ リ ス製造業 とうまく競争で きる とお思 いで すか。 答 : ぱい,思 い ます。 しか しなが らわれわれは多々不利 な立場 に置 か れて い ます。 問 い: その よ うな不利 な状 況 に もか かわ らず, われわれ( イギ リ ス) と競争 で きますか。 答 :ぱい。 それぽ か りで な くあ なたが た(イギ リ ス)の 市場 を浸 食 してお り, すで にい くつ かの 市場 か らぱあ なたがたを締 め出 してお ります。 問 い: それ らはどこの市場で すか。 答 :メ キシコ ならび に南 アメ リカ市場で す。 わが国 の大手企業 の数社 は そ れらの市場で, 長年 懸案 の イギ リ ス製造業 に利益 を与 えるので はな く, わが国 の製 造業 に利 益 す る価 格で の大契 約を結 んで ぃ ます。 問い :あ なたがManchester や イギ リスの そのほかの製 造業地 方 を訪問 して 確 か めた こ とか らこの よう な状 況が言 えるので す ね。 答 : はい, そうで す。 証言2.Mr.TimothyWiggin, 合衆国 と親密な業務関係を有し,綿織物製造業 に興 味を持つアメリカ人。 問い:あなたは長年綿織物製造業 に従事してきましたか。
1839年における反穀物法運動 」7 答 :私 は長年 この 製造業で利益 をあ げて きました。 問 い:合衆 国 の綿織 物 製造業 は近年 繁栄 してい ます か。 答 :繁栄 し てきてお り,今 も繁栄 してい ます。 問 い:あ なたは第三 市場 にお いて, いかな る商品 も, わ れ われ( イギリ ス) と競争 しう る可能性があ ると思 い ますか。 答 :あ る種 の綿製品 製造業 者は彼 らの織物 に対 す る需 要 をすで に南 アメリ カ, スミルナ, コン スタンチ ノ―プ ルで 見いだ し てい ます。 問い: それはあ なたが従事 してい る製造業で の目立っ た特徴 で すか。 答 :はい・, そうで す。 証言3.Mr.JoshuaBates, アメリカの製 造業 者で,BaringBrothers 社のパ ート ナ ーで もあ る。 問 い:合衆 国の綿織 物製造業 は近年利益 をあげ てい るか否 か知っ てい ますか。 答 :綿織 物製 造業 が利益 をあげ てい るこ とを知っ て い ます。 問い:綿織 物製 造業 に投 資さ れた資 本は,数年 前 に多大 な利益 をあ げ ました か。 答 : その通 りで す。 問 い: アメリカ合衆 国 からの綿織物 の輸 出 は大量で す か。 答 :大 量の綿製 品 が輸 出さ れてい ます。 問い:あ なた は急 速 に工業化 し ていくに必要な資源 をア メリ カ は有 している こ とにお気づ きで すか。 答 :疑 い の余地 はあ り ません。 問 い:ヨー ロッパ 諸国で行 われてい るあ らゆ る改良 と発明 が合衆 国で も行 わ れてい るで しょ うか。 答 :確 かに行 われてい ます。 証言4.Mr.WilliamGraham,Glasgow の製造業者。 十 問い:外国 との競争が利益に影響していると思いますか。 答 :はい。今やあらゆる外国市場で, われわれの強固な る織物業 とアメリ カ製造業 とが競争しているのを知っています。
問 い:あ なたの製造業 種 は何で すか。 答 :主 に重 量のあ る家庭 用織物 で す。 問 い:東 インド 市場で 彼 らに会 い ます か。 答 :ぱい。 最近12 か月以内で すが, カ ルカ ッタ市場 に彼 らが持 ち込んで, そして特別関 税を支払っ て もなお かつ われわれの商品 より安 価 に販売 してい るこ とを聞 き ました。 問 い: アメ リカ は それ らの製 品 を大 量 に輸 出 してい ますか。 答 :相 当 に輸 出七 てい ます。 問 い:あ なたが輸 出 してい る市場で, 増大 す るアメ リカ 製品の競争 を知っ て い ます か。 つ 答 : いた る ところで 見かけ ます。 問い:世 界の どこで すか。 答 :メ キシ コで,最近5 ない し6 年 間 に,相 当で す。ブ ラジフレで も大量 に, ブ エ ノス・ アイレ スに も相 当 に。 マニ ラ, シンガ ポール に も進出 し始 めてお り, また セント・ ド ミンゴ に もで す。 問 い:彼 らは地 中海, あ るい はド イツ市場で も競争を展開 してい ますか。 答 : われ われは数年 ほ とん ど地 中 海 に入っ てお りませ ん。以 前マルタで ア メ リカ製造業 者 に販売 を妨害 さ れたこ とがあ りました。 証 言5.Mr.KirkmanFinlay,Glasgow の製 造業 者。 問 い:あ なた は最近5 年 間 の アメリカ合 衆国 の綿織物製 造業 の 発展 にお気づ きで す かノ 答 : その問題 に関す る非 常 にた くさ んの手紙 を見たこ とがあ ります。 問 い: それは最近の10 年 間 に発展 し たので はないで すか。 答:1814 年以 来成長 し ました。 問い:合衆国 からの綿製品 の輸 出 があ るか否 か知っ てい ます か。 答 :あ り まし た。 問い: アメリカ から輸出 さ れたの は どんな国で すか。 答 :すべ ての国 に輸 出 し よう としてい ます。 彼 らは大 変活動的 で, 勤勉で, 企業 心 を持った人 々で ,進 出 し た国で どこ も市場 を獲 得し ない とい う こ とは ほ とん どあ りません。 私 の 知 るレところで は,特 にト ルコ と南 ア
1839年における反穀物法運動19 メリ カ だ と断 言で き ます。 また イン ド 市 場 も獲 得 し た と聞 い て お り ま す。 問 い :優 勢 か , 劣勢 か を アメ リカ に 見 て み る と, ア メ リ カ 製 造業 の 発 展 を 阻 止 す る もの は何 もな い とい うの が あ な た の 印 象 で す か。 答 : その 通 りで す。 アメ リ カ 製 造 業 を引 き下 ろ す 手 だ て は な い と思 い ます。 環境 次 第で 多 か れ少 なか れ急 速 に増 大 し, 恐 る べ き もの とな るで し よ こ のような資料 をこ れまで 長期間 にわた り収集 し たに もかか わらず, 運動 を牽引 すべ き指 導的機 関のひ とっで あ る商業会 議所 の会頭 自 らが彼 らの努 力 をい とも簡単 に崩壊 してし まったので あ る。 しか もWood はこ れまで に, 商 業会議 所の反 穀物法 請願書の提 出 に反対 し, 協会 を悩 ませ たこ とがあ った。 すぐ にChalesPelhemVilliers,Wolverhampton の下 院議 員, が反対立証 を 試 みたが失地 を回復 す るこ とはで きなかっ た。当 日演説を傍聴 したParks はCobden に次 のよ うな手紙を出 し,Wood を非難 し てい る。 「さ て……, なん とあ なたがたのManchester 商業 会議所 会頭 はか わいい 人で あろ う。彼 はThermpylae の窮乏(23)を守 れないば か りか,敵 に わき腹を 開 いて しまっ た。『ぐ ずぐ ずしないで 葬 られてし まい なさい』がR.Peel の彼 に対 す る態度で, 彼 の愚 かな頭( 中 は空で あ るが) を押 えつ け, ぞして残酷 に突 き刺したノ 私 は傍聴席で 激し い非難 の声 を耳 にした。 ……あ たか も彼 が 穀 物法 問題 を打 ち壊 す計 画を立 てた よ うな もので あ っ た。 ひ とかどの人物 か らひっ たくりへの堕落で あろ う。 で きるな ら会 議所 の会頭 という彼 の名目的 地 位 を免職 すべ きであ る。 さ もない と穀物法 問題 の成否 の分 かれ目に, 常に あ なたがた に汚水 を浴 びせ,破 滅 を招 くであ ろ うグ)」 そして自由貿易主義者の下院議員 はWood の失態 を, ただ ちに帽子 を目深 に かぶっ て帰宅 したいよ うな大変 なダ メー ジ(25)と表 現 した。 連 日 にわたって 善後策 を協議 したが功 を奏さ なかっ た(≒2 月7 日 にC.P.Villiers は穀物 法 の影 響 を公聴会で 審問 す る動機 を提出し た が,J.Russell 卿 に反対 されて し まっ た。 そして2 月18 日 にはBrougham 議 員 が上 院議 会 に穀物法 に反対す るい くつ か の請願書 を提 出し, この問題 に 関 して証人を議 会 の委員会 に喚問 す るよう動議 を 発したが,採 決 も行 わずに 否 決 さ れてし まっ た(≒ またVilliersも同 日, 穀物法 反対 の多 くの請願書を提
出 したの ち,これを審議 す る委員会 の設置 と,そこで の公聴会 の開 催を要求 す る動議 を提出 したので あ るが,同 様 に採決 もなされず否 決 さ れてし まっ た呪 そして翌2 月19 日 に もVilliers は穀物法廃 止を求 め る多 くの 請願書 を提 出 し たあ と,議 会で 演説 し, 製造業 の不振を訴 え, 最後 に次 の よう な動議 を述 べ た。 「穀物法 の影響 に不満を いだ く, 今月15 日に議 会 に提 出 した 請願書 の主張 を養護す るた め,Smith,RobertHydeGreg, その他 を証 人,代 理人,弁護 人 としてこの議 会 の懲罰 制裁所で 審議 す るこ とを要求 す る謬」 議会 はこの問題 を一 般民 衆の利益 に極 めて重大 なか か わ りを持つ 問題であ ることを認め,一晩だけ十 分 な時 間を かけて討論す るこ とを決 定し た。RobertPeel 卿 が,穀 物法 の廃 止 は農業 家 に とっ てぱなはだ し く不公平 な もの にな る, したがっ て穀物 法廃 止 に反 対の決定 をなすべ きだ, と彼 の所信 を述 べたあ と 動議 の採 否を投 票 した結果,361 対172で否決 さされて し まっ た哺。閣 僚で この 動機 に賛成票 を投じ たの はSirJ.C.Hobhouse,LordMorpeth そし てc.p.Thomson で,J.C.Rice,LordPalmerston そしてLordJohnRussell ら は反対 した≒ 翌朝,Brown'sHotel で 各地 か らの著 名な自由 貿易主義 者 らをふ くむ多数 の 参加者によ り集会 が開 かれ,動議 が否決さ れる と思 わなかっ た もの は もち ろ ん,成功 す る とは予 想 していなかっ た もの も大 いに議 会 に対 し不満 を表明 し, 気勢 をあ げ,興 奮状 態 に陥っ た。 このなかで,R.Cobden は次の ような 演説を し,彼 らに新 たな希望 を与 えた。 「議会 は われ われの意 見聴取 を拒否したが, 気落 ちす るこ とはない。 われ われは300万民 衆 の代表 者であ り,大都市を団結させ る証 人で あ る。そしてわ れらの協会 は封 建的 穀物法 略奪者 に立 ち向 かうハンデ 同盟 のご とき者だ。 ラ イン川,ダ ユユーブ 川, エ ルベ川 の岸壁 に そび えたつ 城 は封建 的圧 制者の要 塞であっ たが, しかし彼 らはハンデ 同盟 により防備を はがさ れて し まっ た。 臣民 はあ ら ゆる略奪 の恐 怖 か ら解放さ れ,平和 に彼 らのブ ド ウ園 を耕作 す る 一一方, 彼 らは今 や 過去 の 絵 画 的記 念 物 とし て眺 望 を 装 飾 し てい るに過 ぎな い辿o」 一 連の議会活 動 にお け る敗北 の中で協会代表者 た ちはこの演 説で 光明 を見 いだ したのであ っ た。彼 ら はCobden をhopefullspeaker と呼 び,以 来 そ の後 の自由貿 易運動 の中で 彼 ぱ指導 者 としての地位 を確固 た る もの にした。
1839年における反穀物法運動21 希望 を もっ た協会 の代 表 者たちはJohnRussell 卿,Wellington 卿 などの 指導 的政治家 に,Wood の失態 の説明を聞 いてほ しい旨 の手紙 を送 る活動 に 着 手したが, 結果 は素っ気 ない拒絶であっ た。Wellington 卿 からは次の よう な返 事が届い た。 「私 は本 日, あ なたが たからの手紙 を受 け取 る栄 誉 を持 ちました。私 はい かなる政党を も満 足 させてい ない。 どの ような代表 者 を も紹 介 さ れる栄誉 も 持っ ていない し, あ なたがたを紹介さ れる栄誉 を持 っ て いない。 私 はあ なた がたの派遣 す る代表 者 について, 新聞の記事以 外 ぱ何 も知 り ませ ん。 そして あ な たがたの指 定 し た時 間 と場所で の会見の申 し込 みを拒 否 す るこ とをお許 し下 さいo(33)」 か くして,Manchester 反穀物 法協会 の工ondon にお け る議会工 作 は その 出発点 にお いて こ とご とく惨 敗の憂 き目を見て しまっ た。 そして彼 らの失望 を誘っ た もの はほ か も存在 した。協会 キャンペー ンの ひ とっ で あ るLondon で のAbrahamWalterPaulton の講演はほ とんど成功 を みなかっ たのであ る。Manchester 協会 の 副会 長,C.J.S.Walker は それ らの い くつ か に出席 し, その感想をGeorgeWilson に手紙 にし書 き送っ てい る。 「私 は昨夜,Crown&Anchor で のPaulton の講 演 を聞 きにいっ た。聴 衆 は100人 もい な かっ た。入場料 ぱ無料であっ たが,刺激 に な るような内容 の 話 は何 もなかっ た。私 は悲 七いかな失望 した。私 の考 えで は,Paulton の演説 ぱあ まりに も雄 弁家 的で, ののし り調で, 断言的で あ り, あ れで は議論 はで きないし, 問題 を研 究す るこ とはで きないで あろ う。 彼の 協会 への功 労 はま ず ない と確 信 し ます。m」 \
一 方Kendal におい てManchester 商業会議 所 のWood 非難 集会 が開 かれ,
そして1839 年度 の理事 選出がお こな われ,Guardian 新 聞 のJornEdwardTaylor が次 の よ うな理事 のリ ストをWilliamRead の同 意 を えて提案 した。 JohnAnderson. AleχanderBannerman.SamuelFletcher.WilliamHarter.F.R.Hodgson.HenryHouldsworth. W.Atkinson. ThomasBazley ,jun.RichardBirley.William ・Gibb.RobertGladstone.JohnMe.Vicar.
J.C.Prescott.
GeorgeSandars.
LeoSchuster.
JohnSmith.
J.B.Smith.
HenryTootall.
JamesMurray. TamesAtherton.
WilliamNield.
HenryNewbery.
ThomasTownena. Geo.Wm.Wood,M.P.". 失態 を演じたG.W.Wood の名前 をこのリストのなかに見 るこ とはで きたが,R.Cobden は含 まれてい なかっ た。そこて1.C.Dyer は 自由貿易問題 につ いて 理事 た ちの意見 発表 を要求 し,そし てWood の演 説を商業会議所 は是 認 すべ きで ない とし,次 の よう な別 の理事 者 名簿 を提案 した。RobertHydeGreg.
RichardCobden.
BenjaminPearson.
HollandHoole.
HenryMc.Connell.
JosephSmith" 。
JamesBurt 。RichardRobert.JamesKershaw.JohnCheetham.JohnLloyd.
J.C.Dyer.
HenryAshworth.
W.R.Callender.
AndrewBannerman
JohnSpencer.
修 正案 にみられ る理事 は ほ とん どが反 穀物法協会 の会員であっ た。 ひ とつ の政 略, あ るい ぱひ とつ の商業 政 策 にかた よりす ぎる とい う反対 があっ たが,Dyer は穀物 法廃 止 に賛成 す る理 事会 を堅固 にする目的で構 成 されてい る と否 定 した。そしてGuardian 新聞 によ れば「賛成多数」で,ManchesterTimes によれば 「反対120 よ り20多 い 賛成」で 承認さ れた‰ 一方穀物法 の存 続 を支 持 す る土地所 有者 らは2 月26 日にLondon で 集会 を 開 き「TheCentralAgriculturalSociety (中央 農業 委員会 )を設立 し,こ の 年 に入 り急激 に活 発化 したManchester 反穀物法協会 の活動 に対 処 す る方策 を検討 し, 次の事項 を確認 し た。1. 多額 の国債が イギ リ スに存在 し, それに対処 す るには税金 が必要 とさ れてい る。1. 一つ の譲 歩 は次 々 とほかの譲 歩 を引 き出すだ けで あ る。1. 農業労働者 は,小麦価 格 が1 ク ォータ ーあ た り80 シリング か ら100シ リ ング という高価 格を維持 す る ときに高 賃金を得てい る。 ニ1. 反 穀物法運動 は投機業 者 や扇動 者 によっ てお こ された ものであ る。1. 農業 家 は救貧 税 を支 払っ てい る(38)。 彼 らは これらを反 穀物法 協会 と同 様 に印刷物 にして 全国 に配布, 宣伝 す る1839年における反穀物法運動23 こ と とし, また協 会 の 運 動 を積 極 的 に妨 害 す る方 針 を決 定 し た。 そし て ただ ち にManchester 反 穀 物 法 協 会 がLondon 会 議 の 報 告 を代 表 者 か ら受 け るた め2 月28 日 に穀 物 交 換 所 で 集 会 を開 い た とき, 彼 ら は会 場 に暴 徒 を派 遣 し, こ れを妨 害 さ せ た の で あ っ た 。 おわりに かくして,1838年9 月 にManchester 反穀 物法協会 が成立 して以来,この 時期 の協会 活動を区分 して み る と2 つ の時期 に分 けるこ とがで きる。 第1 期 は1838年9 月か ら1839年1 月であ り, 第2 期 は1839 年2 月以降 の時期であ る。 第1 期においては,1 月10日に全国大集会を開き,同月22日の集会ではLondon 会議 を決 め,同 月28 日集会で は「11 か条 決議 」を採択 し たのであっ た。 この ように1 月 まで の活動 は 日1 日 と進 展 し,途 中Chartists 運動の勃 興を みた が, 運動 は活 発化 したので あっ た。 しかし, 第2 期 に入 る と事態 は一変 す る。す なわち2 月初 めの議会で のG.W.Wood の演 説によ り失望 の時期 に突 入す る。1 月 まで の活動 を足 がか りに し,2 月の議会工作 を成功 に導 き穀 物法 廃止 へ と大 な る成果 を上 げ ん とした が,Wood の失態 によ り運動 は後 退 を余儀 な くさ れたので あ る。そしてさ らに 運動 に対立 す る土地所有 者の組織で あ る「TheCentralAgriculturalSociety 」 の対立によ り,Chartists 運動 に加 えて反 穀物法運動 への対 抗の度合 いが一 層激 しくなっ た。 しかしなが ら失望 期 にあ っ て も運動 に とっ て注目すべ き事 実を指 摘 す るこ とがで きる。混乱 のなか か らの救 出の きっ かけをR.Cobden があ た えたので あ る。彼のhopefullspeaker としての 登場で あ る。彼 に より運動 の体 制 が建 て直され, の ちの運動 の最 も優秀 な指 導 者 のひ とり とな り, 今後 の運動が彼 によって大 い に牽引 さ れた ので あ る。 すな わち1839年3 月 に入 る と議会工 作 失敗回復 のた め運動を一 層強 固 な もの とすべ く組織づ く りが なさ れ,各地 の 団体 を一本化 し て反穀物法 同盟 を結成 す るこ ととなっ た。1846 年の穀物法 廃 止 まで同盟 に よる運動 ぱ7 年 間継 続 さ れるのであ る。 当時の状勢 の中で 保守党(Tory 党)が1828 年のslidingscale を踏 襲 し,自 由党(Whig 党)はfixedduty を主 張 し, 自由貿易論者 は穀物法 の早 急 かつ 完全 な撤廃 を目指 し,そして労 働 者階級(Chartists )は現時 点 にお いては 自 由貿易に反対 の立場 を取っ たので あっ た。
註 田 輸出において綿織物が毛織物を追い越しだのは下表のご とく1802年であった。 イギリスの毛織物と綿織物の輸出 単 位 : ポ ン ド 1797 1798 1799 1800 1801 1802 1803 毛 織 物 綿 織 物 4,625,000 2,446,000 6,178,000 3,544,000 6,435,000 5,556,000 6,918,000 5,323,000 7,321,000 6,465,000 6,487,000 7,130,000 5,291,000 6,467,000 出所:ポール・マントウ著,徳増栄太郎,井上幸治,遠藤輝明訳 『産業革命』東洋 経済社,昭和48年,123 頁。 (2) イギ リ スにおけ る輸出 総額,綿製品輸出 額 とその総輸 出 額 に占 める その割 合 は 次 の とお りで あ る。 単位:100万ポンド 年 総 輸 出 額 綿 製 品 輸 出 額 割 合(%) 1800 1810 1820 1825 1830 1835 1840 1845 1850 1855 1860 1865 1870 1875 1880 1885 1890 24.3 34.1 36.4 38.9 38.3 47.4 51.4 60.1 71.4 95.7 135.9 165.8 199.6 223.5 223.1 213.1 263.5 5.8 19.1 16.5 18.3 19.4 22.1 24.7 26.1 28.3 34.8 52.0 57.3 71.4 71.8 75.6 67.0 74.4 23.9 56.0 45.3 47.0 50.7 46.6 48.1 43.4 39.0 36.4 38.3 34.6 35.8 32.1 33.9 31.4 28.2 出所 :吉岡昭彦 編著 『イギ リ ス資本 主義 の確立 』御茶 の水書 房,1968 年,18 頁, な ら びに河 野 健二, 飯沼二郎 編 『世 界資本主義 の形成 』 岩波 書店,昭和42 年,86 貞 よ り作成。
1839年における反穀物法運動25 (3) 産業 革命が作 り出 した矛盾 は, その 第1 は, 自立 的 な手工業者 や職人が仕事を 失 うと同時 に,工 場 の内部で は熟練工 にか わっ て少年 や婦 人が大 量に雇用さ れ, 賃金の実質的 な低下 が生じ, 全体 とし ての労 働者 階級 の賃 金及び労働条件 が悪化 したこ とであ る。 矛盾の 第2 は, 大工業 の形 成 につ れて, 経済 界が好況 と不況 の 周期的 な景気 循環の波 に洗 われ, 生産 停滞 と倒産 によっ て労働者 の失業 と賃金切 り下げが生じ たこ とで あ る。 資本家 に とっ て利潤 率 の低下 に対抗 するための最 も 手近な方法 は賃金の切 り下げであ っ た。機械 化 が それを容 易 にした。マンチェ ス ターの綿業 家 た ちが穀物法反対 のキャ ンペ ーン を くりひろ げたの も,賃金引 き下 げ によっ て不況 から脱却 したい とい う彼 らの熱 望 のせいで あった。 矛盾の第3 は, 貧農,農業 労働者 の運命 のなかに見 られ る。 イギ リ スで は, マル サ スの予言 に も かか わらず, 農業 生産は 発展 をつづ け,1830 年 代 には穀物 の98パ ーセントを供 給 しうるほ どに達した けれど も, し かし その間 に自立的 な農民経営 はほ とんど消滅 し,1851 年 の数字 によれば, イギ リ ス農村 の社会 構 成ぱ土地 の7 分 の4 を所有 す る4,000人 の地主 と25万人の農場経営 者 ( その大 部分 は50エ ーカ ーか ら500エ ーカ ー に及ぶ農場 の経営者であ る) と,125 万 人の労働者 と僕婢 からなっ ていた。農業 労働者の惨 めな生活 をささえ, かつ それをおしつ けた ものは, じゃが い もとい う 「不幸な発見」(ホブ ズボーム)で あっ た。じ ゃがい もは わずかの地面で 人間を生 きながら えさせ るための絶好 の作物で あっ た。 ア イル ラン ドの惨めな小作 農は, イギリス資本主義の圧迫の もとにあっ て,じ ゃが い もによっ てかろ うじて生 きの びた。しかし そのアイルランドで,1846 年 から51年 までの わずか5 年 間に,約1,000 万 人が餓 えと貧窮 によっ て死 に, さ らに100万人 が島 をすてて新大陸 その他に移住 し た。 イギ リ スの資本家, 産業 家は アイル ランド の工 業化 を認 めなかっ たば かり で なく, その非工業化 を推 進し, お くれた農村 を もっぱ ら低 賃金労働者の供給源 とみなし, 放置した。 この政策 はさ らに大規模 にインド に適用さ れるこ ととな る。 (河野健二 著 『西洋経済史』岩波書店,1980 年,237-239 頁。)
(4) イギリ ス綿製 品の輸 出 量 年 代 綿 織 物 ( 百 万 ヤ ー ド ) 指 数 よ り 糸 (百 万 ポ ン ド ) 指 数 紡 ぎ 糸 (百 万 ポ ン ド ) 指 数 1815 1816 1817 1818 1819 1820 1821 1822 1823 1824 1825 1826 1827 1828 1829 253100 18975 23794 255101 20380 25199 266105 304120 302119 345136 336193 267106 3651 封363143403159 0.2100 0.2100 0.3150 0.3150 0.3150 0.4200 0.5250 0.6300 0.6300 0.6300 0.7350 0.8400 1.3650 1.3650 1.1550 9100 16178 13144 15167 18200 23256 22244 27300 27300 34378 33377 42467 45500 51567 61678 出 所:B.R.Mitchell,AbstractofBritishHistoricalStatistics,Cambridge,1962,p.182. よ り 作 成 。 (5) かっ てManchester 産業 資本家 は外国 からの競争 の脅威 に対 し, こ れを撃破 し た実績を有 してい るので, 自由貿 易の主張 にはかなり強固 な ものがあっ た。 す な わち, 産業革 命の開始以降,Manchester 綿織物製造業 に とっ て最 大 の敵で あ る インド か らキャ リコが イギ リ スに流入 した。 こ の輸 入を独占 していた のが「東 イ ンド会社」で あっ た。 この貿易独占を打破 すべ く束 インド 会社 を攻撃 し,1813 年 に茶 を除 くすべ ての商品 の自由貿 易を実現 したので あ るふ (6)1828 年 に穀物 法 が改正 さ れ, 小麦価格が クォーター 当り52 シリング の時,34 シ リング8 ペン スの関 税を課 し, こ れを基 準にして税率を スラ イド させ,73 シリン グに達 した時1 シ リング の関税 を課 した もので, こ れは国 内小麦価 格が一一定の価 格に達 す るまで 厳格 に外国穀物の輸 入を禁止 す るので はな く, 国内価 格の変化 に 対応 して関税 も変 化 す るものであ り,価格 に下落 が生 ず れば関 税 も下 落させ る と いうように, 保護 の程度 を価格の低落 につ れて調整 す るこ とによっ て, 穀物価格
1839年における反穀物法運動27 の安定を図っ た ものであ った。( 拙稿 「 イギ リ ス穀物法反 対運動前 史」経営論 集, 第19 号,1982 年,44 頁。)(7)ArcibaldPrentice,History 好theAnti-Corn-LawLeague,vol.1,FrankCass,1968,pp.104-105.(8)Ibid.,pp.105-106.(9)Ibid.,p.106.(10)DonaldGroveBarnes,AHistoryo 戸heEnglishCornLawsfrom1660 −1846,A.M.Kelley,1961,p.241.(11)NormanMcCord,TheAnti-CornLawLeague1838-1846,UnwinUniversityBooks ,1968,p.42.(12)
た とえばBirmingham の代 表者で あ るBoulty はLondon 会議で 非 常 に軽薄 な 演説 をし, それはManchester 協会の指 導者 にとっ てぱ不愉 快 な もので あっ たが, その部分 は新聞 に掲載 さ れなかっ た。(NormanMcCord,op.cit ,p.43.)(13)ArchibaldPrentice,op.cit,p.107. ㈲ThomasTookeandWilliamNewmarch,AHistoryofPrices,andoftheStateo 戸heCirculation,from1793to1837,Longman,1838,vol.2,p.390.(15)Ibid.,vol.3,p.13.(16)Ibid.,p.13.(17) なお,1838 年9 月1 日か ら1839年11 月30日 まで の15 か月間 に,4,532,651 クォー ターの小麦及 び小麦粉 の輸 入があ った(Ibid.,p.290.) 。 印 如 り 剛n-C3di3.S3 Ibid.,v).29. Ibid.,p.53. NormanMcCord,op.cit 。p.45.DonaldGroveBarnes,op.cit,p.241. (22)AMemberoftheCobdenClub,TheFreeTradespeechesoftheRightHon. CharlesPelhamVilliers,M.P.,vo 口,KeganPaul,Trench&Co.,1883,pp.56-59. 臼 テルモピ ュ ラ イの戦 いをさ してい る。 ペルシャ戦争 中の1 戦 闘。 前480年 夏,ペル シャ王 クセル クセ スが陸海 の大群を ひ きいてテッサ リアに侵 入す ると, ギリシャ連合軍 はアル テミシ オン岬の沖 に海 軍 を, テルモピュ ラ イThermopylae の天険 に スパルタ王レ オニダ スの指揮 する約7,000 の陸軍を配置 した。レ オニダ スは2 日の問 よくこの地 を守 り, 敵 に大損害を 与 えたが,3 日目 に内通 者がギ リシャ郡 の背後 に出 る間道 をペル シ ャ軍 に教 えた ために,腹背 に敵 の攻撃 を受 け, レオニダ ス他300 の スパル タ軍は玉砕 し, その他 のギ リシャ軍は退却 した(『世 界大百科辞典』第15 巻,平 凡社,1971 年,637 頁)。
-^ l -O t o " f ^ ' o S ' ■ S > -5 3 -S S -5 3 . 5 3 <^:!S" £i-SS . ︱ ' C < 3 C O " " ^ ^ 内 り G り り り り 囲 C & t -O & f O i r o C V 2 NormanMcCord,op.cit,pp.46-47. Ibid.,p.47. ArchibaldPrentice,ob.cit 。pp.109ごno.AMemberoftheCobdenClub,op.cit.,p.46.C.R.Fay,TheCornLawsandSocialEngland,CambridgeUniversityPress,1932,p.90 ・DonaldGroveBarnes,op.ci 乱p.242.AMemberoftheCobdenClub, 「op.cit.,p.46.ArchibaldPrentice,op.cit.,p.ll4.Ibid 。,pp.114」15.NormanMcCord,op.cit,pp.47-48.Ibid.,p.48.ArchibaldPrentice,op.ci た,pp.110-111・Ibid 。p.m.Ibid.,pp.11] ト112.A.ArmitageSmith,TheFree-tradeMovementandit'sResult,Blackie&son, 1908,p.69. 付 記 本 稿 は1991 年 度 東 洋 大 学 国 内 特 別 研 究 の 成 果 の 一 部 で あ る。