史 料 紹 介
青木津右衛門家文書について
今回は、彦根の青木津右衛門家文書を紹介しましょう。青木家は、かつては彦根藩に仕えた武士の
家でした。寛文元年(一六六一)、青木津右衛門峯頼が彦根藩三代藩主である井伊直澄の中小姓と
して召し出されて以降、青木家の歴代当主たちは、内目付(藩士の監察・内偵など)、佐野奉行(下野
国佐野に置かれていた彦根藩領の支配)、作事奉行(藩内での造営や修繕を管轄)、代官役(藩主直
轄地の年貢徴収・訴訟の受け付けなど)のほか、彦根藩の色々な役職を務めました。
江戸時代の藩は領地を治めるにあたって複雑な政治機構を作り上げており、その中には職務内容
が細かく分かれた数々の役職が置かれていました。そして藩士たちは、家格や禄高などに応じてそれ
ぞれ役職を与えられていたのです。一口に「彦根藩士」と言っても、藩士たちの職務は各自さまざまで
あったわけです。
幕末の彦根藩は、外国船の来航に対する江戸湾の警備、藩主である井伊直弼の幕府大老への就
任、そして桜田門外の変による直弼の死など、まさに激動の時期を迎えます。元治元年(一八六四)
に長州藩が京都において会津藩・薩摩藩と衝突した「禁門の変(蛤御門の変)」では、彦根藩も御所の
警護にあたっていたため、長州藩との間に戦闘が起きました。この時、青木家の七代目当主・津右衛
門頼実は、長州藩士を一人討ち取っています。
しかし江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜による大政奉還の後、彦根藩は薩摩・長州の新政府側を支
持するようになり、明治元年(一八六八)には津右衛門(この頃は「貞兵衛」と名乗る)も官軍の一員と
して関東方面に出動します。そして、旧幕臣の大鳥圭介が率いる軍勢と下野国の小山(現、栃木県小
山市)において戦闘し、戦死するのです。この時、青木貞兵衛が率いた彦根藩士の小隊も一人を除い
て全滅しています。
彼の最期は世間で語り継がれ、絵師・花陽楼国員による錦絵「当世武勇伝」の一枚としても取り上
げられました(写真参照)。また、彼の三十三回忌には弟の青木三郎を発起人として、小山の天翁院
という寺に記念碑が建てられるのですが、この建碑には旧彦根藩士で沖縄県令などを歴任した西村
捨三や、福井県知事であった石黒務らも名を連ね、井伊家からも補助金が出たようです。記念碑につ
いての一連の史料は、青木家文書の中に残っています。
(附属史料館 青柳周一)