DOI: http://doi.org/10.14947/psychono.38.12 109 中村: 書評「視覚心理学が明かす名画の秘密」
三浦佳世著
視覚心理学が明かす名画の秘密
岩波書店,2018
見るということはそれ自体がすでに創造的な作業であ り,努力を要するものである。フォービズムを代表する 20世紀のフランスの画家,アンリ・マティスは,芸術 創作における「見る」という行為をそう表現した。実際, 絵画を目の前にしてじっくりと目を凝らして見ると,現 実を切り出した写真とは異なる表現に溢れていることに 気づく瞬間がある。しかしながら,芸術家が巧みに仕掛 けた視覚のトリックは,どことなく不思議で面白い印 象,得体の知れない違和感として浮かび上がってくるこ とも多い。こうした名画に隠された秘密とその魅力を, 視覚心理学を切り口として解き明かすことを試みたのが 本書『視覚心理学が明かす名画の秘密』である。著者は, 長年視覚心理学研究を牽引し,感性心理学の先駆をなし た三浦佳世先生 (九州大学名誉教授)である。 本書は,岩波書店の雑誌「図書」に三浦先生が連載さ れた内容を土台として,新たなトピックを加え単行本と して刊行されたものである。そのため,どこから読み進 めても内容を理解できる構成となっている。目次をめ くって,自分の好きな画家の名前を見つけて,そこから 読み始めてみるというのでもよいかもしれない。芸術作 品について知覚心理学あるいは神経科学の観点から解説 した書籍はこれまでにいくつかあったが,最新の視覚心 理学の知見までをカバーした著書は多くない。手に収ま りのよいサイズの本書のなかには,フェルメールやモネ をはじめ,ジャクソン・ポロック,伊藤若冲まで,70点 に及ぶ多彩な作品が紹介され,それぞれが視覚心理学の 研究知見と見事に融合されている。 本書はさまざまなジャンルの絵画作品を,視覚心理学 の枠組みに沿って,6つの章と22のトピックにまとめて 紹介している。6つの章は,空間認知,奥行き知覚,形 態視,色と質感の認知,運動と時間の認知,美と魅力の 認知,にそれぞれ対応しており,本書がいかに多様な視 点から絵画作品に切り込んでいるかがわかる。トピック ごとにみると,作品をめぐる美術史や画家の人物像が初 学者にもわかりやすく解説され,続いて視覚のトリック の謎解きが始まる。1つのトピックがフルカラーの挿絵 とともにおよそ5, 6ページでコンパクトにまとめられて いるので,常に読者を飽きさせない。 ここでは本書の魅力を伝えるべく,第1章の冒頭に登 場する絵画の構図,特に右と左という空間配置にまつわ る話を紹介したい。17世紀のオランダの画家,ヨハネ ス・フェルメールは,市民の日常生活の一コマを巧みな 写実と質感表現で描いたことで知られる。彼の絵画に は,左上から柔らかな光が差し込む構図が多く,この左 上から射し込む光が,絵画にどことなく穏やかで,落ち 着いた印象を与える。フェルメールに限らず,西洋絵画 の多くは左上に光源を設定する構図を実に多く採用して いるらしい。フェルメールがこの光になにか特別な意味 を込めようとしていたのかどうか,その真相を知る術は ない。だが,視覚心理学の実証研究はこの左上からの光 について興味深い事実を明らかにしている。さまざまな 光源位置から照らされた物体の凹凸を判断する際,右利 きの人ならば左上30–60°に光源が設定された場合にもっ とも素早く判断できるというのだ。考えてみれば,私た ちの身の回りには,左上から光が差し込む環境は珍しく ない。例えば,自分の通った学校の教室を思い出してみ てほしい。教室の窓は左から太陽光が射し込む設計に なっていたため,右利きの方は右手で文字を書くとき, 影に覆われずに済んだのではないだろうか。私たちは左The Japanese Journal of Psychonomic Science
2019, Vol. 38, No. 1, 109–110
書 評
110 基礎心理学研究 第38巻 第1号 上から射し込む光を日常的に経験し,それが積み重なる ことで,左上から射し込む光に無自覚のうちに親しみや 落ち着きを感じるようになっているのかもしれない。光 の方向を意識して改めてさまざまな絵画を鑑賞し直して みると,今までとは違った見え方を発見できるだろう。 本書では,フェルメールのほかにも,優れた画家の技 巧が,視覚心理学者の目線を通して次々と語られていく。 クロード・モネがまるで色の恒常性を超越するかのごと く描きあげたノートルダム大聖堂の連作。ラトゥールが キャンバスに描き出す眩いばかりの光の輝き。ジャクソ ン・ポロックがアクション・ペインティングに込めた見 えない秩序。ページをめくるたびに名画の謎解きの面白 さを幾度となく体感頂けることと思う。 本書の著者は,画家と視覚研究者は透徹して対象を観 察することで,共通したものを発見することがあるとい う。視覚研究者は厳密な実証実験を通してそれを発見す るが,その何世紀も前に,画家は作品の創作過程でそれ を発見していたのかもしれない。本書のなかにはそれを 示すような絵画が多数紹介されている。例えば,新印象 派のポール・シニャックが点描法で描いた 「井戸と女性」 をじっくり眺めてみると,鮮やかな色使いで描き出され た海景とそこに佇む女性に,輪郭線が描かれていないこ とに気づく。著者は,シニャックの描く輪郭の周囲で は,意図的に明暗が強調されており,まるで神経系の側 抑制によって生じる「マッハ・バンド」が絵のなかに再 現されているかのようだと指摘する。シニャックの仕掛 けたこのトリックなしには,この絵を象徴する鮮やかな 印象はそれほど際立つものにはならなかったかもしれな い。本書の醍醐味は,画家の類まれな洞察から生まれた 表現を知ることで,私たちヒトの知覚の性質を学べるこ とにあるのではないかと思う。 改めて読み返してみると,絵画の謎解きという側面か ら本書を楽しむこともできるが,むしろ絵画を切り口と して,視覚心理学や感性心理学の最新の知見を学べるよ うになっていることにも気づく。主観的輪郭やクレイ ク・オブライエン現象など視覚心理学ではお馴染みの現 象から,空間と評価の表象,モーション・ライン,トラ イポフォビア等,著者らの感性心理学研究の最新知見に も触れることができる。視覚心理学を学ぶ学生や研究者 には,自然科学と芸術学の接点を体感し,新たなインス ピレーションを受ける契機になるだろうし,美学や芸術 を学ぶ学生や研究者には,視覚心理学を通した芸術理解 という新たな視座を与えてくれるだろう。 絵画を鑑賞してみることの面白さは,表層にあらわれ る美しさや印象を体験することだけにとどまらない。見 る側の私たちがどんな知識や経験,動機づけを持ってい るかによって,絵画には異なる見え方が立ち現れる。著 者の言葉を借りると,「作品は理解されるために存在して はいない」,むしろ,「鑑賞者がそれを前に,感じ,考え, 結果として,心がはずんだり整ったり,あるいは世界が 広がったり見方が変わる,そういう力をもつものとして 存在している」のである。本書を読み進めるうちに,今 までとは違った絵画の見方を発見することの面白さを体 感してもらえるのではないかと思う。芸術の秋に推薦し たい一冊である。 (早稲田大学理工学術院 中村航洋)