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H<~ 聖書巨人 J~ 期 l

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(1)

興 喜 天 満 神 社 初 瀬 の 土 地 柄 初 瀬 の 地 主 神 輿喜天満神社の由緒 社 殿 -e l -御 神 像 覆 屋 : i 拝 殿 :j 神 輿 ・ : : 祭礼と渡御巡幸 境内の鳥居と石造物: 石造物(三)石碑 聖跡廿五霊社順拝双六とその概要 連 歌 長 谷 寺 縁 起 あ と が き 題字 長谷寺験記(鎌倉時代末期写) 上巻第十一話より集字

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(2)

蝋刷用ヨ仰中 炉いれ 1Ja 字饗旨ベロ...¥)略国君主書

-H<~聖書巨人 J~ 期 l

(3)

唱草津!

中寺虚心開削

特霊長人}在昧

(4)

F 田園 1I1 十 l' 1 ~信仰 1主圏個

~fa

語:~~~

時官補

(5)

初瀬町内図

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宵捌

宣 同

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さ い ご く か ん の ん れ い じ 占 う ふ だ し 占 興喜天満神社は近鉄大阪線長谷寺駅の右手向こう、西圏三十三ヶ所観音霊場第八番札所 長谷寺の東方にこんもりとした原生林の山、標高四五五

m

、植物体系で国の天然記念物に よ 曹 さ ん ず え じ ん や t 指定されている山が与喜山(天神山)である。その西側の中腹、標高二一四

m

、参道口の 天神橋から標高差約六二

m

、石段数二七五段を上った広場に西向きに鎮座されている。 敷地は、明治維新の神仏分離令と昭和二

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年頃の農地解放令により興事天満神社の境内 場と合わせてちょうど杓子状の土地で、 鳥居の所で巾約六

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、奥行約九八

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、 つ ぼ た ん せ 面積約三六八

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平方

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約一八四

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坪、六反二畝)である。 か ん 4 い か の お り ベ の す け ふ じ b ら し げ よ り 止 が 長谷寺に保存されている寛永一五年(一六三八年)八月に絵師狩野織部佐藤原重頼が措 はせでらけいだいず いた﹃長谷寺境内図﹄によれば、興喜天満神社境内と思われる付近には名称まで付けられ に 占 ほ う 魯 占 う ど う は ち お う じ よ 曹 じ こ う し ん y z d て、興事天神、拝殿、如宝経堂、八王子、三重塔、与喜寺、荒神堂、 一番巾の広 1 -は極端に狭くなり、朱塗りの鳥居から石段の両側約三

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巾での神殿までと、神殿周辺の広 いところで約四三

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、 天神橋前に鳥居が措 か れ て い る 。 書占 a t b また、享和年間(一八

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頃)に描かれた長谷寺境内の建物の大体の位置と、その大き わ 曹 で ん し ろ た ゅ う し や き ︿ ら ぱ し ゃ さ(寸法)を記した図によると、輿喜天満神社本殿、脇殿白太夫社、脇殿標葉社、拝殿、

(6)

こ う し ん ど う か ん み よ う い ん れ ・ ん が 再 ま く り 荒神堂、菅明院(連歌之閣、庫裏)、手水鉢屡形、 い け 惇 ヲ 池坊役人岩井刑部居宅等、多くの建物が記録されている。 与 喜 寺 、 か く や ど う 八王子社、晴夜堂、鳥居、小 このように、以前は大変賑わっていたであろう境内は、明治維新の神仏分離令のために 仏関関係の建物は総て取り除かれ、本殿周辺だけの神殿だけが残された。そして、長谷寺 せ ん 曹 本堂横の瀧蔵権現三社が興喜天満神社本殿の右側に遷座された。そのために標葉社を左に 移動遷産し、白太夫社を本殿と棲葉社との聞に遷座され現状のように担られ、境内の様相 は前記の﹃長谷寺境内図﹄からは一変してしまった。 天神社司 2

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拝殿 ぷ お お 払 王

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境内国事和年間作成縮尺約垢 しlま泊、;;. 長谷寺 観音への祈り よ り 転 載

(7)

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興喜天満神社を語る前に 初瀬という土地の神聖さについて考えてみたい。 西国三十三ヶ所観音霊場第八番札所長谷寺の東方に国の天然記念物に指定されて いる与喜山原生林がある。この山は昔か勺立川熊対仰向伊⋮開削された御神体山として信仰され 、対制炉心蹴慰問比較艇部峨ご一↓船哨巾 J と 山 川 崎 、 山 山 山 山 川 川 、 双 制 崎 、 円 九 邸 時 と 多 く の 名 前 を 現 在 、 もった山である。 菅原道真公は長谷寺十一面観世音菩薩を深く信仰し、 4 レ も わ 、 a ど う し ゅ ご A 曹 n , い ん ち っ し L A t b と 当山は是天照大神隠設の地、諸神冥道の守護の瑚なり。 -, 鳥 何 居 度 を と 立 な で く 以 長 て 苔 神 寺 明 に を 参 崇事詣 め さ ば れ 山 里 の 西 の 入

安手大 井い鳥 御ご居 門上を 内清澄なるべし﹂と話され、自ら鳥居を建立する場所を指示し、 建立された。それは配制

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年︿八九八年)十二月のことで、額(菅原道真公銘 耐 鶴 間 加 す 功 徳 成 就 墜 諸 悌 経 行 瑚 諸 天 神 祇 在 此 山 振 威 験 ) も 掲 げ ら れ た 。 し か し 残念乍ら苅対十四年(一五四五年)に倒壊し、すぐ再建されたが、再度享保五年二七二

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年)夏、ゲ出桝十八世棋風智正が建て直しをしている。高さ三丈一尺(約九・国米)、 幅二丈四尺(約七・三米)の大きさの大鳥居である。額銘は東寺の長者検校法務東大寺兼 華厳宗長吏道怒大僧正の揮棄であった。しかし残念ながら、天保十二年二月二六日の火災 によって焼失し、今はその礎石の一部が残っている。銅の額は長谷寺大講堂に移されたが 、明治四十四年の大講堂の火災によって焼失してしまった。 ぷ ざ ん 曹 よ く せ 撃 た じ か ら お の み こ と - P Z また、長火口寺の由一一旦山玉石集に﹃此の鳥居の東の山の麓には手力雄命、西の山の尾には豊 島 事 つ ひ 拘 み こ と た ま あ い で ん い ん ち つ 秋津媛命鎮座し玉ふ。一説にこの二神を伊勢大神宮の相殿とす。天照大神曙聾の地と菅公 の た ま 晶 わ 宣へる。併せ思うべし﹄と記している。このことで菅公が大鳥居を建立された目的が説明 えしかのうおワベのすけふじわらしげよりかんえい されているようである。そして、絵師狩野織部佐藤原重頼が寛永十五年八月吉日に描いた ﹃長谷寺境内図﹄には、この鳥居に﹁伊勢太神宮大鳥居﹂と説明記入されている。 A た ま ここで初瀬の地と天照大神と深い関係がわかる。そこで天照大神の御霊がどのような経 過で伊勢神宮に鎮座されたかを訪ねてみたい。 その御霊を代々の天皇が身近でお守りされ、 じんむてん 神武天 日本国を代表する神は天照大神で、 の う か い か 皇から第九代開化天皇までは天照大神の御霊と同じ御殿で起居を共にされていたが、天照 し ん い お そ 大神の神威に畏れられ不安が高まってきた。そこで天皇は御霊をお慰めするため、改めて い つ 曽 ぺ い し こ り ど め の み こ と 島 ま め か ぐ や ま 粛部氏に命じて石凝姥命に天香具山の土から天照大神の御霊としての鏡をつくらせられた す じ ん ﹀ 正 す 曹 い ワ ひ め か き ぬ い む ら 。そして第十代崇神天皇はその六年、皇女豊鋤入姫命に命じて大和三輪山の麓、笠縫邑に L 草 的 ひ も 為 量 ・ ま つ 磯城神離を立て天照大神の御霊を把らせたことが、 天照大神の御霊と天皇とが別々の建物 に住まわれることになった初めである。 4 5

(8)

-そして第十一 その後、豊鋤入姫命は天昭一大神の御霊の安まる聖地を求めて転々とされ 代都口天皇の皇女関脇村 m がそれを引き継がれて数十年の歳月を費やし、現在の伊勢の地に 鎮座されたのである。 こうして御霊を奉じて遷幸されていった第三番目の聖地が桜井市初瀬にあったとされる 伊

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品 村 部 で こ こ で 艶 榔 川 郷 命 が 八 年 間 、 御 霊 を お 間 り さ れ た と さ れ て い る 。 手 、 の 巴 六 体的な場所は判然としないが、与喜山の麓付近ではないかという説もある。 せ ん -﹂ う 天 照 大 神 の 御 霊 が 恐

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られてより、現在の伊勢の地に遷幸されていった経路は概略次の 通りである。 御 鏡 の 作 成 か が 日

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鏡号 劫〈作

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円リ五坐民 国二天草 師か照

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白 社 奈 良 県 磯 城 郡 田 原 本 町 八 竜 六 五 四 三 美品名な奈な伊い 和わ方

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久〈豆つ 之内浜

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佐き加か 御

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浜苦志お 室2 や宮

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や宮

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'Eぎの 戸、 中

浜 の 宮 天 照 大 神 吉よ笠宮

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宮事邑

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代 7G 御 杖 代 島 曹 の A や 七 . 阿 紀 宮 古 曹 は た の み や 八 . 佐 佐 波 多 宮 なばりのいちもりのみや 九 . 隠 市 守 宮 島 な ほ の み や 十 . 穴 穂 富 島 へ つ み え の A や +一.阿閉柘殖宮 ひ く も の み や + ニ . 日 雲 宮 き か た の み や 士 一 . 坂 田 宮 い く ら か わ の み や +四.伊久良河宮 なかじまの A や + 五 . 中 島 宮 内 し ろ の み や 宗 . 野 代 宮 和 歌 山 市 秋 月 豊

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御 命;還 幸 の 経 路 奈 良 県 桜 井 市 三 輪 伊勢皇太神宮) 京 都 府 加 佐 郡 大 江 町 富 山 奈 良 県 桜 井 市 初 瀬 和 歌 山 県 海 南 市 毛 見 和 歌 山 県 海 南 市 高 浜 奈 良 県 桜 井 市 三 輪 や ま と び め み こ と 倭姫命 (阿紀神社) 奈 良 県 宇 陀 郡 大 宇 陀 町 迫 間 (篠畑神社) 奈 良 県 宇 陀 郡 榛 原 町 山 辺 (蛭子神社) 三 重 県 名 張 市 鍛 冶 町 (神戸神社) 三重県上野市上神戸 立

1

敢 志L 国 神 神 社 社 三 重 県 阿 山 郡 伊 賀 町 上 柘 植 滋 賀 県 甲 賀 郡 甲 西 町 三 雲 間 神 社 ) 滋 賀 県 坂 田 郡 近 江 町 宇 賀 野 (天神神社) 岐 阜 県 本 巣 郡 巣 南 町 居 倉 (酒見神社) の L ろ (野志呂神社?)三重県桑名市多度町下野代 愛 知 県 一 富 市 伊 勢 町 本 神 戸 - 6一 7

(9)

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ー そ野町方言鹿か 原;蘇め高

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磯 や 富 --t:r i:ナ 五い滝 十す百 鈴

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応 、 富ヰ宮

1 -﹂ A J H f 、 (神館神社?) 三 重 県 桑 名 市 江 場 神 戸 (忍山神社) 三 重 県 亀 山 市 布 気 神

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加 山

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社 乃 ) 神 社 重 県

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童 市 垂 7]< 三 重 県 松 阪 市 山 添 町 宮 の 前 (磯神社) 三 重 県 伊 勢 市 磯 町 (多岐原神社) 三 重 県 度 会 郡 大 宮 町 三 瀬 川 ( 滝 原 富 ) 三 重 県 度 会 郡 大 宮 町 野 後 ︿ 伊 勢 神 宮 内 宮 ) 三 重 県 研 勢 市 宇 治 館 町

我が国の地主神は、古事記での天昭一大神と対臨封税一

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院 関 り 神 話 か ら 、 大 盟 主 命 で あ ろう。その大盟主命が大和盆地の中央の東、一ニ輪山に院脱され、一二輪山自体が昨掛川恥とな お お hb じ ん じ ゅ さ い し って大神神社として祭把されている。 そ の 三 輪 山 の 南 の 谷 の 奥 に 三 輪 山 を 小 さ く し た よ う な山がある。 よ 書 き ん これが初瀬﹁与喜山﹂ である。 乙 L 戸 し ん この与喜山にも大国主命が三輪山と共々に地主神であられたと患われるが、 し た で 晶 ひ め み こ と お お く ら ひ め み こ と 瀬 ) の 地 主 は 大 国 主 命 の 御 子 の 下 光 比 売 命 ( 大 倉 比 売 命 ) に お 譲 り に な っ た の で は な い だ い わ く ら ろ う か 。 そ れ は 与 喜 山 頂 の 磐 座 に 下 光 比 売 命 の 御 霊 が 相 ら れ て い た と 伝 え ら れ て い る 。 と こ ろ が そ の 御 霊 が 何 時 の 頃 か 、 与 喜 山 の 中 腹 に 釦 駅 す る

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可 制 制 部 の 北 脇 に 鰍 飢 刷 出 と せ ん ざ え ん 曹 L き な い し ゃ し て 遷 座 さ れ 、 延 喜 式 内 社 に 指 定 さ れ た 。 そ の 後 、 鍋 倉 神 社 は 与 喜 山 麓 に 移 さ れ 、 明 治 維 すきのおのじんじ* 新 、 神 仏 分 離 の 政 策 に よ り 鍋 倉 神 社 は 素 蓋 鳴 神 社 境 内 に 移 さ れ た が 、 ど う し た こ と か 今 は ほこら品事ぽじんじゅ そ の 拘 は 秋 葉 神 社 に 変 わ り 、 そ の た め に 下 光 比 売 命 の 御 霊 は 、 素 輩 鳴 神 社 の 御 祭 神

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配 瞬 時 A こ と 高 い で ん ご う し し き な い し ゃ な べ ︿ ら じ ん じ ゃ 尊 と 相 殿 で 合 把 さ れ 、 式 内 社 鍋 倉 神 社 の 姿 は 消 え て し ま っ た 。 し か し 与 喜 山 麓 に 鎮 座 さ れ な べ ︿ ら か い と ていた場所には﹁鍋倉壇内﹂の地名が残っている。 与 喜 山 ( 初 8 9

(10)

-ここで大国主命に係わって、 大国主 け 門 前 向 針 制 、 料 地 主 神 で は な い か と の 説 も あ る 。 即 ち 、 っ た 。 そ の 時 、 部 川 岬

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部制が二神に協力して国を治め 命が出雲の海岸で小彦名命と出合 るように話された。それから二神 は協力して農作、医薬等を開発し国を治めたことから、 小彦名命の地主神説が生まれたも の と 思 う が 、 この初瀬には小彦名命に関係した具体的な 伝 承 は な い 。

じんむてんのう 初瀬の配封地は、漏出監切とされてきた。それは、初瀬川上流の瀧蔵山日以い川武日! の 側 出

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U U ( 神名不詳)が船駅され、三社(伊町市部駅北伊殿前駅 t 判 断 一 玉 餅 ) を 祭 柁 巴 暑 く ら ど ん げ ん された。これが瀧蔵権現となられた c ま た 、 思 単 語 、 双 即 日 一 t 年奨酉秋八月十五日の夜、長谷観音堂の東慨の平い日同所に明 星天子が餅似の姿で降臨され、保町ぃ μ刈げ親しく合われて、﹁私は上古より三神里の地主 せ い や ︿ ' ﹂ と 誓 約 さ れ て い る 。 神 で あ る 。 今重ねて十一面観音堂を守護する。 このことから初瀬の 地主神は瀧蔵権現であることがわかる。 3 初瀬の地主神で 役目を 本書、由緒の項で述べるように ロ 川 制 例 対 刷 出 部 苅 械 に 譲 ら れ た こ と に つ い て は 歴史的 あった瀧蔵権現が、その地位、 m ふ く じ と う だ い じ に長谷寺が興福寺や東大寺との聞に、 ふ じ わ ら し か す が た い L ゃ 長谷観音信仰と藤原氏・春日尤社等との閣に じ L ・しんすがはらみちぎ h 現在の初瀬の地主神は菅原道真公である。

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原 、 , i 、 、 捜 戸 M F I l l

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マ 1 ー 手 4 日 h 、 何等かの要因があったように想像され る が 、 黒 縛 脇 本 三 愉 門大神神社 :fllf A三輪山 円桧原神社 白 河 桜井市 萱 謙 帥 J Pハ

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和 田 白 木 門海底権現神社 湖 蔵 天理市 Jr井 笠 10 可 -τ i

(11)

興喜天満神社の

す 吉 ︿ 第六十一代朱雀天皇の頃 t : 3 J こ り だ ゃ っ た け ま ろ は せ で ら 宇 ん 曹 占 う 酬明州側の里に神蹴太夫武置という人がいて長谷与 J 難行を心が け仏道の修行に励み 霊力を身につけ 時の天皇のお悩みをも欧り除くなど 神仏の深い 御心に出った暮らしを送っていた。 武麿が苅駅いん年九月十八日の夜、長谷寺観音堂で惨行中、少しまどろんだ寅の刻頃に夢 だいいとくけん を見た。それは影駅 U j 曲川部を着た舗が突然現れ﹁私は大威穂験の神である。この山に住ん だ い し 占 う ﹀ で大聖にお合いしたく思う︿ ﹂と話されたところで夢から覚めた。 武麿が不思議に思っていた二日後の夕方 か り 害 ぬ L 4 う ぞ く 一人りの翁が武麿の家の前の石に狩衣装束で 人は十八日の夢に見た人である。 しかしその容姿は気高く思、えた。よくよく見るとこの お き な か ん め ん ど う 武麿は不思議に患って近付くと翁は立ち上がり観音堂の ぼんやりとした様子で珪っていた。 方へ歩き始め す ¥ に 路 翁 慢 の の

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下 坂

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ろ を し 登 疲 二ーほど進んで四つ辻から川に下りて水を浴び れた様子だった。武置は早速家に一興り食べ物を持参したが、 らずに小路を進まれた。武摩川山説明上人配が前で追いつき、そこでおーい凶事沌お清め一し じ ゅ う い ち め 4 か ん ぜ t A 同 宣 ペ ド リ d も A た。端倍以肌釈し喜ばれたがすぐ観音堂へと向かわれた。そして十一意観世音菩薩の宝前で ち ん 吉 た 普 く ら ど ん げ ん し ゃ 創部された。続いて観音堂の東に鎮座する瀧蔵権現社の前で念請さ札た すると急に空か ら黒雲が下りてきて翁を覆い その朝一昔、が拝殿の中まで流れ込んでいった。武嘩は益々不思 か り 曹 ぬ し よ う ぞ ︿ そ く た い し ょ う ぞ く 黒宮古いか晴れ、狩衣装束であった舗は束帯装束に変わり、多 ど ほ っ で ん と Fb くのお供と共に拝殿から出てこられた。猶よく見ると瀧蔵権現社の御宝殿の扉が開き、中 議に思い自をこらしていると から束帯装束の人がお供を連れて翁の前に出て挨拶を交わされ、共々に拝殿に登り話し合 わ れ た 。 ノ、 司司 うだいじんし?っにいてんまでんじんすがはらなにが L む じ つ ぎ ん ぞ う Z F ド ﹁私は右大臣正二位天満天神菅原の某である。無実の議奏によって西方(ガ新札)に ざ い ご う 還された。その時悪心を起こし多くの人々を損じた。その罪業に深く苦しんいる。こ だ い し ょ う ち ぐ う の山に住んで大聖に憤遇してこの苦悩を取り除きたく思う。そこでこの山に町 J

分 程の土地をお与え下さい。 じ し ゅ じ ん は せ ﹁私は普からこの山の地主神として初瀬の川上に住んでいる。この地は似問問 お う ち ん と こ ア か ほ う 曹 け ど り L ょ う ず い そ う こ ん ご う ふ と つ は 応の地で鎮護盟家の場所として、この宝藤一は化度利生の瑞相、金剛不動の宝石である a L ゅ じ よ う ふ く ぶ ん あ ら 。昔から衆生の福分が多い時はこの宝座が顕われ、顕が少ない時は小福となる。今は し ゃ か し ゆ く え ん ど 止 い 釈迦の宿揚が少ないが宝庫は顕われている。これを護揮し大聖(十一面観世音菩薩) ほ ん 嘗 ょ た き く ら や ま の法度をお助けするために本拠の山︿瀧蔵山)を出てここにいる。私は静かに本拠の も ど が F ん し ゅ ご 山に一庚り遠くからこの伽藍を守護し、時には十一面観世音菩捷にお合いしたく思う。 事 で ん て ん ま て ん じ ん ゆ ず じ し ゅ じ

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この山を今から貴殿天満天神の君に譲ろう。そして永くこの山の地主神に 瀧蔵権現 願わくは、 - 12-句 、 U 1 i

(12)

なってもらいたい。﹂と申されると お お ﹂と尋ねられた。すると瀧蔵権現は東方の山︿大 天神﹁どの場所に住めばよいでしょう。 制炉山)にある松の大樹を指さして、 まんだら町 hh だ ん 島 ︿ L ゅ ぜ ん ﹁あの松の本は因呈陀羅峰として断悪修善に最もよき地である。 あの大樹の下で住む がよいであろう。﹂ ら い じ ん な ひ び これを閉かれた天神は、即座に雷神となって天に登り鳴り響き、指示された松の大樹の 下に鍬配された。このことが府宇口川町制引の起こり︿苅駅いん年九四六年)で、はじめ三年 ご し ん た い た け ま 与 し ん だ く 民 て ん り ・ く 聞は関知もなく松の大樹を御神体としていたが、武麿に神託があって、天暦二年︿九四八 も と ほ う で ん ど し ん れ い ま つ 年)七月武麿が松樹の本に宝殿を建て御神霊をお担りしていたが、改めて同年九月二十日 よ 嘗 て ん e Z じ ん じ φ 郷内で氏神として担ったのが興喜天満神社で、 に現在の神殿の地に社殿を建て、 日本で最 初の天神社といわれている。 瀧蔵権現の話の中で、天神のおさまる場所を指定されたとき最もよき地である。 れ た こ と か ら 、

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の地名が生まれたといわれている。 Z J E η u t F う i z リ ま 2 9 4 う 曹 占 う じ φ き い L ん ト 持既定山大武麿は役行者の再身ともいわれている。 と申さ

輿喜天満神社

同月.

鳥向付ら杉の大樹に挟まれた百数十段の石段の上に石垣があり、後の山から高さ一四

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糎の瑞垣が社殿は凶うように正面中央に中門を置き、一一一面配べ約五(紀伊ぐらされた中に それぞれの社が鎮座されている。 ただ八王子社は参道の石段脇に鎮座している。 ︹中門︺ ひ ら か ら も ん け た ゆ 書 平 唐 門 桁 行 二 三

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糎 こけらよ曹 墨根は柿板葺であったが破損がひどくなり、 は つ ゆ き 梁行五五糎 虹梁 平成四年四月現在の鮒概斡に 修 復 さ れ た 。 流事〔 造平本 間 殿 社 〕 破

2

風う 付

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造 梁行二七

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糎 桁 行 一 八

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糎 ひ は だ よ 曹 お お い や 屋根桧皮葺覆屋を付けている。 堂々とした建物で、将と聞がの船棚がコ一宇部で正面は五組と見事な軒目りである。正 面は二枚の両開色の扉で、その両側の杭猷には立派な彫刻が施されている。 現 在 の 本 殿 は 概 心 旬 、 か ら 長 谷 寺 第 三 九 世 駒 市 伊 m 門僧正が対伊十五年二月二

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日に再建さ ぷ ん か ( 文 化 十 五 年 向拝二七

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糎 こ う ら ん 高欄付 れたことがわかる。 一八一八年) A ι τ 1 E 4 15

(13)

-本殿内に残された棟札のなかに本殿の屋根葺替等で文化十五年以前の次のような棟札 が あ る 。 菅

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出主 明う寛

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住ん九 了 乙 性 酉 稔党 こ い け ぽ つ ら い い だ い 小池坊僧正頼意代 表 守

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年 奉 預 葺 梅宮替 心え当 暁工所 住 天 使 神 盛 社 五月吉祥日 元禄十三庚辰戴 い け 厚 う 小池坊第十四代増正英岳 五月吉祥日 表 前 年 奉 預{彦 慈ヒ遣

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当 院工社 住 天 龍ネ申 書 社 ︿ 裏 ﹀ 菅明院宥賢 出日日記日文明四壬辰年六月吉祥臼彩邑之 ︹註︺寛文九年:一六六九年 元禄十三年:一七

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年 文明四年;一四七二年 - 16ー 本 事f殿 保品前

六 の

辛 両 丑 側 年 に 三 狛 月 犬 吉 が 日 あ る ( 摂 ネ 土 長谷寺古図 泉州堺の布遺善右衛門官開平二部 同久右謝門回開治兵衛 間市右衛門 が寄進している。 獄料十五年二六一一一八年)には 本殿を挟んで右に白太夫社 左に桜葉社 と参道の脇に八王子社が記されてはいるが、 i f h d z 骨 う ー ヰ 炉 ず が こ う ラ ン ど っ ば ん ぷ 骨 G 臼 太 夫 社 奉 仕 遣 高 欄 付 屋 根 は 鋼 板 葺 現在の瀧蔵権現社は記されてはいない。 7 = 正 り ょ う は い 相 約 六 五 糧 前 約 八 五 糎 向 拝 巾 二 二

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糎 榔 祭 神 御神徳 由 緒 創 建 き ︿ ら ぽ し ゃ 。 理 葉 社 御 祭 神 御神徳 由 緒 度主向 会

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拝 春宮一 彦 ~O

糎 子 孫 繁 栄 す が は ら こ れ よ し 菅原道真の父菅原是普卿が、世継ぎの誕生を伊勢神宮の青年神宮度 ; と ょ う け だ い ド V ん ぐ う げ く う 託して豊受大神宮(外宮)に祈願されて誕生されたのが菅原道真で 会春彦に あ る 。 それ以来度会春彦は守役として道真公に仕、ぇ、菅公亡き後、ご遺品 を土佐高 知におられた菅公の長男のもとへ届けられ その地で七九才の生涯 を閉じら れた。度会春彦は若い頃から白髪であったので白太夫と呼ば れ た と い う 。 不明であるが、 本殿の再建と同時期のように思われる。 社 伊い殿 予よは 親上自 王す太 夫 社 と 殆 ど 同 型 円 i 守E 4 喉の病気平感.音楽︿声楽)上達の守護神 客 船 吉 野 喜 の 第 三 皇 子 む 村 議

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対 話 を 兼 任 し て い た が 唱 古 宮 ヮ む ほ ん 仲成の陰謀によって謀反の罪を負わされ、母と共に

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出 寸 ( 奈 良 県 高 市 郡 明日香村)に幽閉され、そこで毒を飲んで自害した。しかし後に慰釈がは こ う ぽ う だ い し れ、弘法大師が伊予親王母子の霊を弔い川原寺で法要を営なわれた。 い っ き い き 占 う 川原寺の修行僧遣も一切経の写経を奉納したということである。 ふ じ わ ら の 藤 原 また

(14)

パ よ L a w のうかんげんえん号ヲ 伊予親王は管弦演奏の名手であった e y z J ば ん ぷ 嘗 屋根鋼板葺 梁約四五糎 向拝巾九八糎 は ち お う じ L e e 八王子社 か す が ず く り 春日遣 け た 桁約四八糎 大きな封踏の上に鎮座されている。 す書のお舟みこと 素 輩 鳴 尊 御 交主 神 天寺向 照寺拝 大詰四 神

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0

品糎 御神徳 家内安全・家族繁栄・五穀豊穣 由 緒 不 詳 = s t ら r ' U 4 4 き ん L e か す が ず ︿ り ど う ほ ん よ 撃 。 瓶 蔵 栓 耽 三 社 春 日 造 屋 根 銅 板 葺 桁 約 一

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糎 梁約九三糎 向拝巾一九

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糎 御祭神 向 拝

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本殿より 御神徳 家内安全・繁栄 五穀豊穣 由 緒 この三社は明治五年の神仏分離によって長谷寺本堂横の三社がこの場所に 遷座されたものである。従って楼葉社が少し北に寄り、本殿との聞に白太 夫社が遷座され現在の状況になった。

よ 嘗 て ん ま ん じ ん じ ゅ ど L ん ぞ う す が は ら み ち 害 ね そ ︿ た い よ う 惇 つ け わ ふ ん ぬ 曹 占 う そ う 、 . h r ・ - , 興事天満神社の御神像菅原道真公は東帯姿の座犠で容貌は険しく憤怒の形相で﹁凱り苅 じ ん 神﹂とよばれているそのもののお姿である。

昭和三年八月十七日より文部省古社寺保存会の手によって解体修理された際の記録によ 、 ょ せ 曹 つ ︿ り 年 ヨ し ん だ い そ で 軍 主 ︿ が ι ると、御神像は寄木造の等身大の神像で、両側に袖をひろげ、目は玉恥か全体に彩色が施 嘗 じ か ん h u p い た だ ほ う そ で か ︿ L ゃ く され、巾子冠を戴き、抱を着け、袖に隠した両手に拐を持ったお姿で座っておれれる。 調査時の報告された御神像の法量は次の通りである。 ひ じ ﹂ 可 J " " n ひ害 膝 ひ ざ 膝 け ん 命 穴 坊 奥マ張守張す尺 貫 法 頭冠頂上までの高さ 三尺一寸六分 一尺九寸七分 頭頂上までの高さ 二尺五寸七分 二尺四寸八分 顔 長 六寸三分 一尺九寸 顔 巾 五寸四分 長 二尺八寸 顔 奥 七寸七分 長 八寸三分五厘 そして胎内の背面に次のような墨書銘があった。 奉造立 興喜大明神

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(15)

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元ん勧士正;

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己 善 ぜ ー 未 阿 島 排 士 五 弥 み 月 陀 だ 八 仏 考 日 ( 正 元 元 年 : ・ 一 二 五 九 年 ) 神 そ 鏡 の は 上 ーム.鼻、 、 ノ¥長 稜

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珍 形

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でいい と 御神協の頭部の中に、縦に一面の神鏡が納められていた。 径六寸二分、重さ二百六匁、 ぐ ん じ よ う く ち び 晶 ベ 叫 表面・長谷宇守本尊十干面観世音菩薩の伊釈を細線で彫刻し、頭髪には群青を唇には紅 を 点 じ 、 断 郡 山 い お 立 ち で は あ る が 、 し 加 脈 問 ぽ お 持 ち で は な い 。 裏面:・対抗十嵐の文字が八文字あり、 古代日本文字との説があるが残念ながら解説され て い な い 。 この神鏡について民府のほどは不明であるが次のような話が伝、えられている。 長谷中町駅料開病問が印刷町民此で参禅している時、伊野の国の男にであった。するとそ吋 男は開桝新院がしるしを見せようと言って、天を仰いで大きく息を吐くと、それが忽ち頭 部となり、その中から竹﹂ぃ鴎蹴出前一一口艇が腕われ、同時に鏡一一回が飛んできた。それは、 苅樹二年七月一日午の釈だった。行円はそれを受けて持ち帰り同年八月三日に長谷寺観音 は せ き と 堂の西北の隅に聞が﹄建てふ山ったという。その夜、長谷の里には大雪が降ったという。 この話の中で、甲斐の国の男は何らかの神様であったのかもしれない。また、菅原道真 ほ ん ち 公の本地が十一面観世音菩薩とされているから、 この神識が菅原道真公に縁があって神像 内に納められたのではないだろうかと想像する。 ず し る く た い 高 ん ち このほか御神像の南隣の厨子には六駄の小神像が安置されている。 その中で二幹は彫刻 途中の感じで、容姿も判然としない状態である。砲の四駄の作は粗雑ではあるが御神像の へ い 島 ん じ だ い お姿である。作風は平安時代様式を感じさせる御神像もある。この御神像は毎年秋の例祭 み ・ ﹂ し の際、神輿に順番に搭乗され初瀬町内を渡御巡行されていたが、現在は神輿の都合上、新 しくされた御神霊が代行されている。 て ん り や く こ う ど め だ ゅ う か け ま る 天潜二年神殿太夫武麿の発願によって与喜山の松の大樹の下に社殿を造営して菅原道真 し ょ う げ ん 公の御霊を担ってより、現御神髄が把られた正元元年までの約三百二十年間の断桝俳は何 を御神体にされていたのか、神鏡か、慨を概られていたものか、 または前記の小神爆が把 られていたのか判然とはしないが 小神像が把られていたのではないかとの思いを深くす る 社殿に残されていた棟札から、 あ い で ん し ん ず し 昭和四年御神像修理の際に、相殿神と共に厨子が新調さ れている。従ってそれ以前の御神換はそのままのお姿でおいでになったので、御神像の色 があせ御神慢が損揮したのではないだろうか。 その時遣られた厨子の右の扉には松、左には梅の絵が描かれている。 - 20-- 2120--

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21-左の厨子には本御神儀を小さくしたような、江戸中期頃の作と思われる菅原道真公の御 神像が安置されている。

本殿を保護するために造られた建物で大変な気の配りようである。 ぶ ん か いつ頃から建てられていたものかは不明であるが、文化十五年の本殿再建以前に覆屡 の修理に関して次の棟札が残されている。 (表﹀一の奉葺当社覆屋井拝殿 正徳四年甲午天四月吉祥日 小池坊第十七世僧正隆慶 年 預 金蓮院秀柴 別当菅明院昌春 (裏)一町奉葺当社覆屋井拝殿 小池坊第十七世 菅明隣住和州窪氏昌春一房文意 。(表)一の奉葺当社天覆屋 宝暦二壬申歳 五月吉祥日 小池坊第二回世僧正信怒 年 預 慈眼院元怒 別当 菅明院有慶 ( 表 ﹀ V ハ奉上屋葺替 宝麿二壬申年五月十二日 棟梁署州名古屋住 上原甚蔵口吉 上原新平政家 上原新助政次 山田甚助政長 (裏)奉上屋総葺替 明和五年戊子九月吉祥自 尾州名古屋住今和州初瀬川上住 上原甚蔵 桜井善助 小池久蔵 秋山清吉 ︿表)¥奉上屋葺替 宝永九子年十一月吉日 初瀬川上棟梁 上原甚蔵 同 政 治 郎 小池久蔵 小林和助 - 22-- 2322--

(17)

23-(裏)御上葺 天満宮御屋祢方 この後、続いて文政十年に覆屋の再建をし、これより約百五十年後の昭和五十三年に覆 屋の遺替、がなされ現在に至っている。 1もら i , . y t p r ‘ 1 i 宅1 r r :11'., iil

ふ イ J 同凡

拝殿は本殿の下の広場を挟んで西に建てられている。拝殿の創建は不明であるが次の ような拝殿修復の棟札があることからそれ以前の建物である。 (表)一的奉葺当社覆屋井拝殿 正徳四甲午天 四月吉禅日 小池坊十七世僧正隆慶 年 預 金蓮院秀柴 別当菅明院昌春 ︿裏)一の奉葺当社覆屋井拝殿小池坊十七世菅明院住和州窪氏昌春一房文意 この拝殿は、昭和六十年に屋根の修理と壁を塗り替えた関口七問、奥行二問、前に半間 ぬ れ え ん の濡縁のある建物である。そして、向かって左端の一室に昭和五三年まで使用されていた み こ し 神輿が収納されている。 拝殿が修理されるまえまでは、向かって右側面の壁一面に落書きがあった。落書そのも のについては良いとは言えないが、年月が経過した今となっては、興喜天満神社へ遠くか お か だ こ う し ぷ ざ ん が く ほ う ら参拝者のあったことがわかる。そのことで岡田果師僧正が豊山学報に次のように発表さ れている。 昭和二十八年の秋、台風のあった数日後、思うともなく天神社ヘ詣で何心なく拝殿のよ こへまわってみて驚いた。嵐のために白壁が剥落したその下に、無数の落書が、或は濃く 或は淡く、毛筆もあり、鉛筆も交り、中には木片で引っかいて、二間四方のかべは余白も 融込 拝殿の側壁に書かれた落書さ 昭初

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7~26 日糧事 - 24-- 2524--

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25-ないほどのヒドイ落書群である。あまりのきたなさに上塗りをかけて穏したものが、今ま た落ちて昔の姿を現したのである。なるほどここのこれは、法隆寺や、東大寺三月堂、唐 招提寺、西大寺のそれのような文化的価値はない。しかし私たち郷土人にといっては尊い 記録を意外なところから発見したものであると喜びに堪えない。明治五年から同じ三十年 頃までの、大阪、京都、堺、北海道、青森、秋田、山形、岩手、宮城、新潟、石川、栃木 、群馬、東京、埼玉、神奈川、静岡、三重、奈良、兵庫、広島、鹿児島、と判読できるだ は い は ん ち け ん む き L L も ふ 書 え ち けでもこんな府県名が入り交っている。廃藩置県閣もない頃であるから、武蔵、下総、越 ご か が り ︿ ち ・ う こ k ご と 後、加賀、陸中などと国名も使つである。もちろん興事天神自らが悉くこうした諸国の人 よれ嘗 たちを呼びょせたのではなく、一には伊勢参宮者が長谷観音へ立ちよる余涯を受けたもの た い な い 草

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ん こ う こ す い よ 、こには長苔観音即興喜天神(胎内鏡の示すが知く)という信仰鼓吹に依るものと思うが 、とにかく半世紀前までの隆盛をこの落書に見て、うたた今昔の感に堪えないものがある 。以下略 そして、この十年後の台風でこの落書のある壁の一部壊れた。辛うじてその時の写真で 偲ぶことができるが、昭和五三年の修理の際、新しい壁が塗られ以前の様子は全部消えて しまった。なお、軒に掛けられていた連歌の額も今は無くなってしまっている。

輿

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現在の神輿は、昭和五四年、従来の神輿が大きく、重かったので地町駅民側部制炉困難と なり、小型で重量も軽くした神輿が駅寸建設株式会社より寄贈され、渡御巡行の神事を受 け 持 っ て い る 。 従来の神輿は、拝殿に向かって左端の一室に収納されている。 ぞ う は ほ の 神 輿 は 、 巾 約 一 一 一

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糎 、 高 さ 約 二 一 一

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糎、担ぎ棒約一 総漆塗りしんいい日て角々には細かく腕針がれた前鈍の板が張られている。形は八角形、屋根 はい同の陣笠玖で、黒の漆塗り。角の駅間同丸く盛り上げ料が針られているが、その先じ は蕨手があったのではないだろうか。頂きには金色の大きい恥駅が乗せられる。正面は朱 塗りの扉になっており、他の七面は黒地に金で楓制の樹配が大きく掛かれている。問、三課 た 晶 曹 のほは

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裏に同日]の掻が細かく並べられている。内部のお古細かい旗第ぷ

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四十 の黒漆塗りの台座があり、神輿渡御巡行の際、御神像を安置するための座布団が置かれて 一

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糎、全長約三四

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糎で いる。とにかく立派な神輿である。 この神輿が遣られた時期は不明であるが、長谷寺に保管されている輿喜天満宮祭礼図︿ 長谷寺第二四世能化信怒憎正が描かせた)の中にこの神輿が描かれているが、この図では - 26-- 2726--

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27-梅鉢の紋章は屋根に描かれている。また残された記録には、文政三年(一八二

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年)に神 輿の修理が行われている。 ︹ 註 ︺ 信 怒 僧 正 ・ : 能 化 就 任 ほうれ曹 蹴 斡 口 一 年 ︿ 一 七 四 六 年

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宝 暦 十 年 二 七 六

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年) 収 納 さ れ て い る 神 輿 - 28-興喜天満神社祭礼図掛軸 ︿ 彩 街 図 ) Q U n r 臼 大 き さ 縦 一 五 五 ・ 三 糎 巾 九 九 糎 江戸時代中期の作長谷寺第二回世信怒僧正が描かせた祭礼図 (信怒僧正能化就任延享三年

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宝暦十年) 一 七 四 六

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一 七 六

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(20)

祭礼と神輿渡御巡幸

1 t F t L E し e E z e h ・ ﹄ L 品、よじゅんこう 炉 開 制 首 お 靴 椛 社 の 祭 礼 と 神 輿 渡 御 巡 幸 は 、 鎌倉時代末期これ毎年九月二十日に斎行されて き て い る 。 創始当時は長谷寺と興事天満神社が一体となり、興喜天満神社の諸行事については長谷 ろ︿ぼう 寺がそれを運営していた。即ち、長公口寺山内の六坊が順番で例年祭を担当していた。その ﹁ 関 川 町 問 問 ﹂ と い う 同 町 駅 が 組 織 さ れ 、 興 喜 天 満 神 社 の 祭 礼 を 斎 後長谷寺との関係を保ちつ﹀ 行していった。 ﹁ 対 F W 和 駅 町 訓 話 ﹂ 等 に 詳 し く 記 載 さ れ て い る 創始当時の祭礼の様子は やまとめいしよき ﹁ 大 和 名 所 記 ﹂ 。また、長谷寺に保存されている﹁興喜天満宮祭礼図﹂では、祭礼・神輿渡御巡幸の様子 が異時間図で措かれているので具体的にそれを知ることができる。 ここでこれ等を総合して当時の神輿渡御巡幸のようすを再現してみたい。 a n ・ ﹂ ' l w 一・祭礼祭典終了後、午前二時頃、神殿前で御神体の御分神を八角形の神輿に移し拝殿前 の広場におろす。ここで行列を整えて渡御巡幸に出発する。 二-天神橋の下方﹁ m川町伊鳩飢﹂(時間町の家の前)の石上に奉置する。ここで長谷寺坊中 ん げ ん そ う

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害 防 そ な の う ま から出仕して、管弦を奏し、甘酒を供え能を舞った。 三.切石御旅所の奉斎をすませ、 脅 か は し ず め お た び し ょ つぎは﹁中の播詰御旅所﹂ お 曹 な み ず ご り (翁が水垢離をした所)前で 奉置し、前場所切石御旅所と同様に管弦を奏し、甘酒を供え能を舞った。 四中の橋御旅所の奉斎をすませ、つぎは夜明けまでに神輿を長谷寺仁王門前︿翁が町駅ぅ し よ う に ん ぴ ょ う す ・ 上人の廟の前に居られた時、武麿が神酒等を勧めをした所)で奉置し、夜五ツ(午後 八時頃まで奉置される。 (これまでの神輿渡御巡幸の行程は、由緒の項で述べた縦♂桝燃が対抗川町との出会い お曽なた曹︿らごんげん から翁が瀧蔵権現と語り合われた場までの再現である。) 五・神輿が仁王門前に奉置されている間、郷中から間前﹁着け馬に乗り、あるいは

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の む し 中 じ ん が さ ど う ま 晶 ぐ そ く 武者、また陣笠に胴丸の具足を着し弓、鉄砲を持った武者、そして幼い子供達が駅昨 ね 弓を背負った大勢の行列が町内をにぎにぎしく嫌り歩いた。それを警護するために町 は お り 内から羽織を着た人達が多数奉仕をしている。また夜には仁王門前に印刷丸山叫が造ら れ、かがり火の一対で印刷と出討が五番奉納される。町々からはが杭判官がくりだし、太鼓 み こ し 事 炉 ι を打ちならして神様を元気付け、夜が更けてから神輿は本殿に凧獄され、 か ん 包 ﹂ う 殿に還幸される。 御分神が神 この情景は美しく見事なもので、近郷からはこの﹁判明炉黙り﹂を一目見ようと多くの参 拝者、見物客で初瀬の町も大変賑わったという。 - 30ー ーi q J

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み え い と と か か 本殿脇の前 m m 院がは獄駅会が催される。連歌会では菅原道真公の御影を床に掲げ、長谷 寺の抑制伊をはじめ、連歌衆が参加されていた。 ︿連歌の項参照)

2

と う な か ま 明治初期に神仏分離令が施行されたために、興喜天満神社の祭礼については﹁頭仲間﹂ に代わって﹁ザ宇航桝わ﹂︿略して税制払)が組織され、従来通りの祭礼行事が継承され ていった。そして祭礼日が対駅都の十月二十日に移っていった。 ところが、神輿渡御巡幸について、長谷寺仁王門から興喜天満神社本殿還幸されず、日 王門から町内そしてが宇猟畑町榔肌を渡御巡幸されるようになった。そして還幸されると磐 臨の

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却炉上にしばらくの間安置されてから御分神が神殿に還幸される。 ス J 興喜天満神社祭礼の神輿渡御巡幸は第二次世界戦争のため、昭和十二年二九三七)か 二十年(一九四五)と翌昭和二十一年(一九四六)の閣は中止されてた。

4

昭和二十二年からは従前通りの神輿渡御巡幸は復活した。 ところが神輿の損傷と重量の 関係で、軽量で小型の神輿が藤一建設株式会社から昭和五十四年二月に奉納されその責め を果たしていた。 しかし、社会情勢の変化により神輿の担い手が不足し始め、昭和六十一 一 年 か ら 渡 御 巡 幸 は中止となった。 R J 氏子の念願により平成五年(一九九三﹀ 十月より神輿渡御巡幸を復活することになった 興喜天満神社秋の例祭が斎行される日は大きく変化し、十月二十日に近い日曜日、とな った。それに伴って神輿渡御巡幸の行程は以前と大きく変更された。ネれは初めの渡御巡 幸の主旨から変化し、町内渡御巡幸に重点が置かれている。 即ち、午前十時からの祭典を終え、御分神を神輿に配し、本殿前広場で寸一円九献をあげ 午前十一時頃神輿渡御巡幸の出発となる。摘路は次の通りである。 事 ワ い し お た び し ょ い せ つ じ ぽ L

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八 ! 神 社 出 発

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切石御旅所

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伊勢辻橋

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胤仰川柳川町

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国道二ハ五

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' -3 ・ ︿ 晶 、 d う こ う じ は せ

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馳向区妙光寺

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初瀬小学校前

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町内

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折り返し

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町 内 へ

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興喜天満神社還幸 このように時代と共に変化簡略化をされているが、何とかして伝統ある初瀬祭りを持続 されるべく氏子一問、興事天満神社社務所では努力している。 - 32

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33-引川出

八 王 子 社

:口一図

叩口一回

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与事寺跡

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社 図

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/ 押 し 三 重 航 日伊勢街道: a 宮 内 ぺ υ

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一 宮 明 院 跡

興喜天満神社境内の

鳥居と石造物

(それぞれの所在場所は、興喜天満神社境内図の番号による。) d鳥 居 ︺ 初瀬川に架かる天神橋から石段八十余段上に旧伊勢荷道に面して立っている。 高さ 約五八つ糎 巾 約四八

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糎 創建は不明であるが、額銘は藤沢遊行寺第十四代他阿上人太空和尚の筆の伝えがある。 現在の額は﹁天神宮﹂の銅額で、書は口口法親王 ロの部分は塗料のため判読不能 裏面銘 奉掛和長谷寺与喜山/天神宮鳥居額/諸願成就之所 ロ二月吉祥臼 大阪心斉橋筋 松下七郎 -35-額の大きさ 縦八

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糎 横四七糎

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磐足 座

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与喜山には数ケ所に磐座が点在しており、その中で興喜天満神社境内に三ヶ所の磐座 が本殿の前の石垣の下にあり、それぞれの神様が鎮まっておられる。 が曹占ういし島まてらすおおみかみ 梯 形 石 : ・ 天 照 大 神 千 度 ま い り 石 の 隣 ︿つがたい L 高めのこやねのみこと 沓形石:・天児屋根命鵠形石の左上 大きさ

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高さ 七

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高 さ 一 一 二

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たなどこるいしふとたまの且こと 掌石:・太玉命 高さ二

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糎 大きさ巾一ニ

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× 一 六

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この三つの磐座は古事記に記載されている﹁苅の棋芹﹂の様子を再現しているようであ 沓形石の右上 る。即ち、天照大神が天の岩戸にお隠れになった時、神々が相談をして、太玉命は天刊哨 戸の前に立てた榊にげハ対私の川町卦と、げハ貯の鏡を飾り付けた。天児屋根命はその前で祝詞 を割以いた。その伊野があって天照大神を元に戻っていただくことができたという。

1

自主 い ぬ 犬 ︺ 右

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酎 台座正面 基壇正面 基壇左面 狛犬の大きさ 狛犬台座 唐風台座 上段基壇 中段基壇 下段基壇 左 恨

1

台座正面 基壇正面 形 状 て み ず ぽ ち ︹ 手 水 鉢 ︺ 奉 左面 米 駅間三年(一八六七年) 丁卵正月 紀 国 屋 掠 兵 商 井 谷 金 字 国 屋 清 七 銭 屋 善 兵 衛 萩 原 屋 清 次 良 灰屋長七 鍵 屋 治 右 衛 門 戸屋祢市良 小 西 矢 右 衛 門 扇屋又市良 辻屋与八 灰 屋 茂 兵 衛 畳 屋 長 七 吉住貞造 郡 山 屋 半 兵 衛 味 問 屋 祢 兵 衛 紺 屋 平 次 良 油 屋 安 兵 衛 榎 屋 五 兵 衛 角 塵 勘 之 助 播 磨 屋 吉 兵 衛 留 師 屋 祢 兵 衛 了 子 屋 清 蔵 狛犬高 仁 興 屋 祢 清 治 良

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四糎 一 三 三 糎 七八糎 奥 行 四三糎 高 一 五 糠 発起人 巾 巾 七四糎 八七糎 奥行 六一糎 守合 同 八 糎 巾 一 二

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糎 奥 行 八九糎 高 五八糎 巾 一 五 二 糎 奥 行 一 -七 糎 高 四三糎 巾 一 八 六 糎 奥 行 一 五 三 糎 高 三五糎 献 右 面 天神講中 槽 屋 七 兵 衛 河井主人 興 喜 板 兵 蔵 福 知 屋 源 兵 衛 興 喜 板 兵 助 吉 野 屋 栄 治 郎 角屋善六 田中屋 辰 巳 屋 清 治 良 熊 野 屋 喜 兵 衛 吉 野 屋 喜 兵 衛 ね ず み 屋 嘉 兵 衛 井 谷 屋 源 六 江 戸 屋 普 六 増 屋 利 兵 衛 胡麻屋又三良 灰 屋 平 助 伊勢屋 春 槽 皮 屋 甚 蔵 井 谷 屋 源 治 右側狛犬とほぼ同形 銘 けい晶ん 慶安三暦(一六五

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年)九月吉日/与喜山/奉寄進/手水鉢 上辺関口 高さ 奥 行 七二糎 下辺間口 一 二 六 糎 奥 行 七二糎 - 36ー - 37ー

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手水屋 水 溜 関 口 一一一輝 奥 行 室 根 瓦

2

葺主深

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糎 梁行二四

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纏 桁行二七五糎 慶安三年(一六五

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年) 註︺境内最古の石造物 長谷寺本堂の大改修の年に寄進されている。 r--¥ ︹ 千 度まいり石︺ 品 九八糎 一 七 糎

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享 一 回 現 側 面 銘 巾 道

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刊 は V、4 A , 標(みちしるべ)︺ 1 . 正面 右 面 晶 下部厚 ひだり いせみち 施 主 伊 三 郎 七五糎 下部巾 四六糎 上部巾 三二糎 二六糎 上部厚 一 三 糎 対側にあったものが移動させられている。 ︹註︺この道標は道路の反 ひだりくわんおん道 2 . 正面 3 . 正面 ︹ 石 1 . 正面 2 “正面 右 面 左面 裏面 晶 晶 碑 裏面 口 同

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糎 上部巾 一 二

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糎 下部巾

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糎 (註︺この道標の書体は、 判 読 函 難 厚

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糎 与喜浦区内道標 ﹁くわんおんちか道﹂ 与喜浦内伊勢街道の道標に似ている。 事 ょ う ほ 享保五年(一七二

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年)建立 天神道 七三糎 巾 六七糎 厚 一 八 寝 ︹註︺この道標は移動している。 な し 下部をセメントで固定され裏面下部の文字は読め 按楓樹植培記念 昭 和 二 年 二 九 二 七 年 ) 十 一 月 長谷寺事務長 奈良営林署長 一 回

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糎 巾 糎 摩 一 五 糎 天然記念物与喜山暖帯林 昭 和 三 十 二 年 二 九 五 七 年 ) 十 二 月 八 目 指 定 昭和三十五年(一九六

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年)三月十日建立 文 叱 財 保 護 委 員 会 塚 本 賢 暁 天 田 次 衛 - 38-- 3938--

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39-石碑高 台座高 3 . 正面 左面 高 一 一 一 一 糎 三

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糎 厚 二八糎 巾 四 一 一 糎 七七糎 厚 七九糎 巾 聖跡廿五拝第六番 与喜浦山天満宮賓前 東京沙門行誠書 発 起 人 東 京 松 浦 武 四 郎

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三糎 一八回五糎 厚 一八・三糎 巾 ︹註︺この石碑については別の項で述べる。 本朝菅廟十霊社随一 興喜天神宮 4 . 正面 右 面 石碑高 台座高 本社より観音えゆきぬけ 一一八糎 三八・五糎 j享 二五糎 巾 五五糎 一一七糠 厚 八

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糎 丸味のある台座 ︹註︺本朝菅廟十霊社については不明。 巾 ︹ 石 燈 龍 ︺ 1 . 正面 総高 形 態 常夜燈 か え い 嘉永元年(一八四八年)申九月 左面 上森町 裏面 一 九

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糎 宝珠高 一 五 糠 笠 高 一 七 組 火 袋 高 二 八 糎 四角柱型 竿 高 六 八 纏 二重基壇高 四七糎 最下基壇巾 六七纏 3 . 正面 2 . 前記六.石燈鱒と同形 岩井幸治 形 態 4 . 正面 形 態 天満宮 左面 宮崎善七 裏 面 事 和 年 二 月 吉 日 神前型 総高 二七六糎 宝 珠 高 二 八 耀 笠 高 二

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糎 火 袋 高 三 二 糎 竿 高 六

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糎 四重基壇高 一一九糎 最下基壇巾 一四六糎 天満宮 右 面 裏面 端山門人中 曽ょうわ 享和二壬成年︿一八

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二年)二月吉日 左 面 燈 明 施 主 寺 垣 内 社 中 前記三.石燈鰭と同形 よ 嘗 て ん ま ん じ ん じ ゃ べ っ 与 つ か ん み よ う い ん れ ん が : ι v f i J じ ι この石燈寵は、興事天満神社の別当菅明院で営まれた連歌の会に的叫制社関係の方々 が参加し、その人達が石燈瀧(三)と共に寄進されたものである。 か ん ぶ ん え ん ぼ う ︹註︺長谷寺第九世能化頼意僧正(寛文六年

1

延宝三年)が江戸中期に連歌を復興した - 40

-

(26)

41-F h J . 正 面 裏面 形 態 ' i り 与 3 そうしよう 時、炉一郎密から忍可という宗匠を迎、えて指導を受けたという。 て ん し ょ 奉献(筆書)左面 昭 和 八 年 ︿ 一 九 三 三 年 ) 二 月 廿 二 日 神え大 前

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阪 型主南 堀 江 岩西利恒建之 総高 一 一 ム ハ 宝珠高 四

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糎 笠 高 二 六 糎 火 袋 高 三 一 糎 竿 高 六 四 糎 三重基壇高 八六糎 最 下 基 壇 巾 九 八 ・ 五 糎 7 . 正 面 6 . 前記石燈龍五 と同形 右面 与 喜 社 常 夜 燈 対 M h 六年己巳歳(一八

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九 年 ) 九 月 吉 日 菅 明 院 宥 舗 代 裏面 竹村又左横門尚規 遠江入野 形 態 変 形 神 前 型 総高 三

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三・五糎 宝 珠 高 二 四 糎 笠 高 二 六 糎 火袋高 四八糎 竿 高 九 八 糎 五 重 基 壇 高 九 五 糎 最下基壇巾 一 九

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糎 この石燈鵠は 竹村又左衛門尚規が菅明院宥静僧正に依頼して寄進したものである。 竹村尚規は、連歌の会に参加していた人のようで次の歌が残っている。 はっせ山はるはる遠くまうて来て 祈るこころは神もしるらむ ね か は く は 神 も あ は れ と み し め 縄 か ん せ い 寛政十二年庚申一年(一八

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年 ) 九 月 吉 臼 た﹀ひとすしにたのむ心を 9 . 正 面 8 . 前 記 七 . 石 燈 舗 と 同 形 か ん 管 ヲ 寛 保 二 壬 成 年 ( 一 七 回 二 年 ) 二 月 裏面

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正 面 形 態 常 夜 燈 常 夜 燈 右面 寛 保 二 壬 成 年 二 月 裏面 的場某 神 前 型 総高 一八九・五糎 宝 珠 高 三 三 糎 笠 高 一七糎 火 袋 高 二 八 糎 竿 高 五 三 糎 二重基壇高 四六糎 最 下 基 壇 巾 七

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糎 最 下 基 壇 に ﹁ 下 川 上 中 町 ﹂ の 銘 あ り ︹註︺この九、十の一対の石燈龍は、以前この地に﹃鰍担制部﹄が鍬官し、その社前に

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正 面 形 態 設置されていた石燈簡と伝、えられている。 か ん せ い 寛 政 十 一 年 己 来 年 ( 一 七 九 九 年 ) 九 月 常 夜 燈 右面 神 前 型 総高 一一五糎 宝 珠 高 三 五 糎 笠 高 二 一 躍 火 袋 高 コ 二 ・ 五 糎 竿 高 七

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糎 二 重 基 壇 高 四 五 壇 最 下 基 壇 巾 一二ハ糎 ワ ω 4

(27)

-43-ロ.正面 形 態 日.正面 形 態 日.正面 形 態 5 . 正面 16

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正面 形 態 出.正面 形 態 四.正面 形 態 最 下 基 壇 に 施 主 衆 中 の 銘 あ り 常 夜 燈 右 面 寛政十一己末年九月吉祥日 左 面 施主 辻 井 某 神前型 総高 一五九糎 宝 珠 高 四 一 糠 笠 高 二 一 理 火 袋 高 三 一 糎 竿 高 六 八 櫨 二 重 基 壇 高 四 五 糎 最 下 基 壇 巾

永 代 常 夜 燈 裏 面 弘 化 三 丙 午 年 ( 一 八 四 六 年 ) 八 月 吉 祥 日 辻屋興八 四角柱型 A せ 泊斗& 総高 二三七糎 宝 珠 高 二 八 糎 笠 高 二 三 糎 火 袋 高 三 一 糎 竿 高 八 六 糎 最 下 基 壇 巾 九 七 寝 重 弘

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基 イヒか壇 ニ 晶 丙 五 午 一 年 畑 ) ¥ 'IJ皐 月 吉 祥 日 灰屋長七 永 代 常 夜 燈 裏面 前記+一千石燈龍と同形 軒町叫二壬成年(一八

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二年)二月 無銘 左 面 形 態 神前型 総 高 二 二

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糎 宝 珠 高 三 五 糎 笠高二一一揖 火 袋 高 三 四 糎 竿 高 六 六 糎 二 重 基 壇 高 四 九 糎 最 下 基 壇 巾 一一四糎 最 下 基 壇 に 銘 あ り 石 工 お つ き か 忍 坂 庄 之 助 施主衆中 正 面 常夜燈 左 面 享 和 二 壬 成 年 二 月 形 態 ・ 他 の 銘 は 前 記 主 石 燈 龍 と 同 じ か ん せ い 寛 政 十 二 年 ( 一 八

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年 ) 九 月 常夜燈 右面 神前型 総高 二二ニ糎 宝 珠 高 三 六 ・ 五 糎 笠高 一九糎 火 袋 高 三六糎 竿 高 六 二 ・ 五 糎 二 重 基 壇 高 四 回 糎 最 下 基 壇 巾 九 五 ・ 五 糎 最 下 基 壇 に 施 主 衆 中 の 銘 あ り 戸 h u a A τ 常 夜 燈 右面 口 口 口 年 九 月 吉 田 神 前 型 総高 二二七糎 宝 珠 高 四

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糎 紳 サ ヱ 阻 同 一九糎 火 袋 高 三 五 糎 竿 高 六 六 糎 二 重 基 壇 高 や ま と と お い ち 大 和 国 十 市 郡 棲 井 め い じ 明 治 二 十 三 年 ( 一 八 九

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年 ) 寅 六 月 吉 日 建 之 五一糎 最 下 基 壇 巾 九 六 ・ 五 糎 献 燈 右 面 施 主 山 本 幾 登 左 面 裏面 周旋方 五味原長七 中山高吉 圏 井 清 三 郎 四角柱型

(28)

総 高 二 七

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糎 宝 珠 高 四 八 糎 笠 高 二 六 糎 火 袋 高 三 二 糎 竿 高 九 六 糎 三重基壇高六八糎 最下基壇巾九七糎 20 前記+九.石燈龍と同彩

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正 面 与喜山天神石燈龍 め い れ 事 明慨晴元乙来年︿一六五五年)七月大吉日 形 態 四角柱型 総 高 二 一 五 糎 宝 珠 高 一 ニ

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糎 笠高二七糎 竿高八二糎 火 袋 高 三 八 糎 基壇高 ) 五 程 ︹註︺境内最古の石燈龍 明替元年 明暦元年銘石燈寵

興喜天満神社境内石造物

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正面 聖跡廿五拝第六番 興喜山天満宮賓前 側 面 発 起 人 東 京 松浦武四郎 この石碑は、松浦武四 郎が菅原道真の聖跡の中から 一十五社を選出し 、各社にこの ト で つ な石碑と鏡が奉納された。松浦武四郎は文政元年二月六日、コ一宏県ぺ宏杭 。 し ん が ︿ 巳 、 . 5 J した。七才のとき、真学寺駅周和尚に手習いを 学を 学 三A び 雲

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町 十 小 お 三 野 町 才 江 え で で j章つ松ミ 藩

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四 斎良男 に と 漢 し て 誕 習 得している。十七才では京都、 二十八才で初めて

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へ 渡 り 、 大阪の学者を訪 ね 樺

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問 を を 訪 積 ね み 重 江 ね 戸 て A...し】 っ た 。 更に翌年噸夷 の帰途﹁佐渡 日誌 」ー ﹁ 日 光 余 誌 ﹂ を 記 し 、 ー「 十二才に三度目の蝦夷地の探検を実施し、 --, 航蝦夷日誌﹂などの著作を刊行している。 蝦夷大概図﹂ 二十八才、幕府より﹁蝦 夷地御用のお覆い入れ﹂の命を受け、幕府の役人として蝦 夷 地 の 調 査 を 行 い 、 ﹁東西蝦夷山 川地理取調図﹂二十八冊を刊行している。 明治維新後には蝦夷地開拓 御用係となり、北海道名、道内国名、郡名 を選定し、北 海道 の命名者として従五位開拓判 官に任命され ﹁北海道の名付け親﹂と称賛 されたが、明 ム ロ 年 (松浦武四郎五十三才) で自分から官職 位階を辞している。 - 46-司 i

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(29)

-蝦夷地の探検に始まり日本六十余州の深山の探査や、和歌・漢詩・絵画・築刻等、多芸 多才ぶりを存分に発揮した偉人である。特に法自すべきことは アイヌ人の良き理解者で あったことであろう。 松浦武四郎は明治七年頃より全国の神社仏閣の参拝・参詣の旅を始め、 天神信仰を深め、部同町民読の聖跡の順拝を念願し、京都北野天満宮に参拝した時 み り ょ う 日が同神社に奉納していた大神鏡(裏面は日本地図)に魅了された o h V 齢 p + ' 禰輔に大神鏡を遣らせ、 そ で 京 都 鏡 師 力日かこ 金

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に その後 明 j台 知 人 有 識 者 地元神社氏子等、 多方面からの協力を得て 八年に京都北野天満宮と東京上野東照宮へ、十二年に大阪天満宮へ、十三年に大和吉野山 臥駅天満富へ、十五年には福岡丸軒掛川天満宮へ夫々の神社へ奉納している。そうこうして いる時、明治十四年の初夢に菅原道真公の聖跡数ヶ所とその晴拝の路程を教えられたとい ぅ。そこで夫々の聖跡に神鏡と石碑(神鏡の前記五神社以外には直径約二十五糎の小神鏡 )、と併せて坑鰍駅税庁一絵馬を奉納し噸拝されようとしたが、 残念乍らこの願いは果たせ な か っ た よ う で あ る 。 後 日 、 略 記 の 明 治 十 七 年 の 項 に 次 の よ う な 記 録 が あ る 一 : い ま と か わ ち い ず 且 せ 勺 つ M M ま 三月十八日間州都伊此に登らんとて旅途に付き、大和、河内、和泉、摂津、播鷹、但 ; 五 島 : し ま h p -t ち 拶 T お う み や ま し ろ 飢 副 湖 、

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校、器使、越前、近江、山城等を経て 六月十八日東京に帰り、 甲申遊記を著 す 。 (明治十七年は甲申の年) 奉 北 納 野 ー

語宮

正 北野天満宮発行えはがき 日本地図三大鋭より転載 - 48

-

(30)

49-此の行に、諸所の天満宮二十五ヶ所に鏡及建石を納む。 この記録から聖跡廿五霊社各社への神鏡、石碑の奉納は済まされたようである。この発 想には、娘イシが明治八年に他界した心痛も加わっていたかもしれない。 す ご ろ く 以上のことから松浦武四郎はこのことを双六にすることを思いたち、明治十九年(松浦 武四郎没前二年)に菅原道真公の聖地二十五ヶ所と、その濁辺で菅公に関連した聖地を加 曹 、 き っ と す が は ら い ん て ん じ ん ふ り だ し だ ざ い ふ えて、京都菅原院天神を振出に、菅原道真が大宰府に向かわれる道中を順次西下し、大宰 せ勺つじ占うぐうて 4 L ん 府到着後折り返して京都に向かい、摂謹上富天神から北野天満宮で終わる双六が作成され た 。 その後、友人で考古学者であった岸根武香が松浦武四郎の遺志を継いで左記

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が 刊 行 さ れ 別 千ちに 歳も

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が 念ん刊 御 ど 行 神えさ 蹟

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れ 女めた 具ぐ 梨り 全 図 -BJ 41A , f、 、 明治三十四年十二月十五日発行 (2) 聖跡二十五霊社順拝襲六 松浦武四郎遣 古梅居士題 ここで松浦武四郎が各神社へ奉納した神鏡と石碑の概略を述べる。 ︹大神鏡︺大きさ直径約一米 鏡裏面には、奉納日、地図、歌、協賛者氏名、鏡製作者等が鋳込まれている。 北野天満宮 京都市上京区御前通今出川馬喰町 ︹神鏡奉納寄付人︺ 山田茂七 ︹ 奉 納 日 ︺ 明治八年六月二十九日 鏡 の 銘 明治七成年五月吉日 ︹ 地 図 日本本州北部.北海道.揮太 r--¥ 歌 ¥_j 幾としかおもいふかめし北の海 道ひくむすでになし得つるかな r--¥ 銘 ¥_j 明治七成年五月吉日 松浦武四郎阿倍弘 ︹ 鏡 作 者 ︺ 山城国金森禰輔作 上野東照宮 東京都台東区上野公園 ︹神鏡奉納寄付人︺ 松浦武四郎 ︹ 奉 納 日 ︺ 明 治 八 年 ︹ 地 図 東

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日 照主本 る 全 御A 土 稜いの 威つ地 は 図 北

海 南の小鳴西の閣一まで r--¥ 歌 ¥_j 冨岡百錬 秦蔵六 山田茂平 r--¥ 銘 、_/ 明治八年亥年 松浦武四郎阿倍弘 ︹ 鏡 作 者 ︺ 山 城 園 住 金森禰輔作 大阪天満宮 大阪市北区天神橋二丁目 - 50-- 5150--

(31)

51-︹神鏡奉納寄付人︺ 風月堂 慶応二年(一八六六年)風月堂栄次郎が松浦武四郎宅を訪問している。 ︹ 奉 納 日 ︺ 明治十二年五月四日 鏡銘は明治十二年一月吉日 地 図 千島から沖縄までの日本地図 r-

歌 天満の神のこころめかしこさを この神鏡の光にもしれ ¥_j 幹 事 西京 山田茂兵笥・西京 富岡百錬・西京 秦蔵六 東京 益田友雄 r← 銘 ¥_j 明治十二年己卯一月吉日 奉拝聖跡廿五社 松浦武四郎阿倍弘 ︹ 鏡 作 者 ︺ 鏡 匠 1 j 域国住金森欄輔作 吉野天満宮 奈良県吉野郡吉野町吉野出 ︹神競奉納寄付人} 松浦武田郎 ︹ 地 明 治 十 四 年 五 月 二 十 八 日 鏡 名 は 明 治 十 三 年 五 月 なぴ曽 吉野熊野惨験場七十五牒の各場所名と、それに関連した場所百余ケ所が ち ょ う か ん f 鳥蹴図的に表現されている。 お お 且 ね な か が け は ら い 曹 ょ う じ ゅ 大峯中駆抜行者 ︹ 奉 納 日 ︺ 図 幹 事 長 嘗竹林院三十七世古浬龍敬 幹 事 大 阪 北村栄治郎・大阪 小西普道・西京 山田茂兵衛 吉野 宮城晋一 吉野 古津龍賢・前鬼 五鬼熊義真 r-、 銘 ¥_j 明治十三年辰五月 東 京 松 浦 武 四 郎 阿 倍 弘 ︹ 鏡 作 者 ︺ 西京金森禰輔 大宰府天満宮 福岡県大宰府市大宰府 ︹神鏡奉納寄付人︺ 小野湖山 名は悪 文化十年

1

明治四十三年 滋賀県郷土 三井寺の鍋塚の碑文を書く。 ︹ 奉 納 日 ︺ 明治十五年五月九日 鏡 銘 明治十四年五月 大神鏡は明治三十七年に焼失したが、その拓本が三重県三雲町松浦武四郎 記念館に掛軸になって保存されている。 地 図 菅原道真の聖跡が鳥瞭図的に表現されているが、中央部が歌の文字の ためにうまく写

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だされていない。

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歌 」ーノ あふぎみればいよいよたかし 二十五天満宮の威稜在所

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銘 、ー」 明治十四年辛巳五月吉辰 奉拝聖跡二十五社 東 京 松 浦 武 四 郎 阿 倍 弘 ワ 山 戸 h d

句 。

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(32)

北村徳次郎・大阪宮崎口口衛 筑前 江藤正嶺 山田茂兵衛・西京 筑前 栗原祢兵 幹 事 西京 ︹ 鏡 作 者 ︺ 鏡匠西京金森欄輔作 以上の外に、上宮天満宮には松浦武田部の遺志を汲み有志によって大鏡が奉納されてい る。大きさは前記五社とほぼ同じである。 る ︹銘︺中央に大きく﹃上宮天満宮﹄と上方に﹁上﹂の文字を挟んで奉納と書かれてい 上富天満宮の文字を挟んで 右側に神鏡講社 左側に明治廿二年四月吉日 上田辺村 松下京太郎 下方に世話人の氏名が列記されている。 高槻村 松下仙太郎 高槻村 前川源次郎 上田辺村 田辺増次郎 丹、 __L キ ナ 寺本熊吉 全 川村三四郎 干す 左下 京都六角 中嶋吉次郎 細工人

小石

鏡 碑

上田辺村 東村藤太郎 全 干す 員 、 沼 代 助 富田村 怒田三治郎 手専方 山本石松 仁 一 市 一 五 之 助 ﹄ 町 J 4 ー 、 w u H ・ 3 院 剛 ザ 寸 ハ 肉 ロ 奉 納 鏡 聖跡第六番 興事山天満宮 施主東京松浦武四郎

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"j o.;D冒「・-'~."~~Mず-..."~片'.対向、、弘、I!:~-:r iJ 揮 牽 者 印 d a τ 戸 hu -

(33)

55-︹ 小 神 鏡 ︺ 前記六社以外の神社へ奉納された小神鏡(大きさ直掻約二十五糎)の裏面には大体次の 文字が鋳込まれている。 右側・:聖跡

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番 中 央 : ・

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天満宮(大きな文字) 左 側 : ・ 願 主 東 京 松 浦 武 四 郎 奉納石神は、高さ一米前後、正面巾約十八糎 せ ん ル Z , け い 尖頭形にした四角柱で安山岩が懐用されている。 側面巾約十七・五糎 表面を平滑にし、 p o p h d ︹ 奉 納 石 碑 ︺ 刻まれた文字は浅く判-読が難

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いものもある。碑文は大体次のようである。 正面 聖跡廿五拝 第

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揮普天 竜

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背 者 富 氏 賓 名 前 (石碑の碑文は、当時の著名人の揮竃によるものである。) 側 面 発 起 人 東 京 松 浦 武 四 郎 加えて世話人等の氏名が記入されたものもある。

(34)

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噛慢記

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