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「詐欺師フェーリクス・クルルの告白」の成立

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(1)

「詐欺師 フェー リクス・ クルルの告 白」の成立

三 枝 圭 作 (昭和62年5月19日受理) トーマス・ マ ンの「詐欺師 フェー リクス・ クルルの告白」のなかで

,ク

ルルは「長 い間

,

この草 稿 は鍵 をかけた小箱のなかに眠 っていた。たっぶ リー年間

,意

欲 はふ るわず

,こ

の企画 になんの効 果があるか とい う疑い も湧いて

,己

,忠

実にあ とを追 い

,一

枚一枚原稿 をか さねなが ら

,告

白を 続 けるとい うことがで きなかった」と述懐 しているが,「クルル」の成立 には

1年

どころか

,実

はほ ぼ40年にわたるたび重 なる中断 と「挿入」の歴史があった。詩人 自身

,作

品完成 の約10年前

,つ

ま り1943年の時点で

,そ

の事情の一端 を次の ように説明 している。「あの ときは『ヴェニスに死す』を 書 くために『クルル』の稿 を中止 したわ けであったが

,あ

れか ら二十二年経 った今

,昔

書 きやめた ところに再 び新 しい筆 をつないでゆ くのは

,そ

れな りに面 白いことか もしれない。 そ うす ると

,あ

れ以来書いた作品や副産物 はすべて

,三

十六歳 の ときの計画である『クルル』 にさしこむ挿入で, そのためには人間一代 の期間が必要で あった とい う格好 に なって くる」♂Eberhard Hirscherは こ のような断絶 を

Mit den,,Bekenntnissen des Hochstaplers Felix KruH“

hat Thomas

Fann jahrzehntelang ein lustiges Versteckspiel getrieben,3)

とユーモラスに表現 している。マンの作家生活 で

,他

の作 に類 を見ない長期 にわた るこの断絶のあ いだに,その草稿 は拡大 され,"Fortsetzungen“ が公刊 され,それ らのなかか らたびたび朗読 も行 な われたのであるが

,そ

の結果,「クルル」 はマ ンの生涯で最後の物語作品 となって しまった。 一方

,エ

ー リヒ・ヘラーが「『フェー リクス・クルル』 をたの しむには学識 な ど不要である。 この 作品は

,ど

んなや っかいな素材で もみごとな庖丁 さば きによってた くみに料理 し

,

どんな陰 うつな 意想で もフモールによって きわめて優雅 に目的地へ とみちびいてい くような作品か らつね にか もし だされ る

,あ

の幸福 な

,軽

がると空を とぶ ような

,単

純素朴 さの錯覚 をうみだす ゴ)と述べているよ うに,「クルル」を理解するには「魔の山」,「ヨセフ」あるいは「ファウス トゥス博士」な どに対す るような知識 は必要ではないか もしれない。 しか し

,ヘ

ラーはうえのす ぐあ とで次 の ように続 けて

(2)

168 三二 いる。「そ うはいって も軽がるととぶようにはこばれてい くものの重みを考慮 にいれてお くほうが, 読者のたの しみがいっそう増すであろう」恩 た しか に

,作

品は軽 く読み とばせ る ような ものではな い。 とくに

,Kuckuck―

Gesprachを 頂点 とす るクルルの「教養体験」は「魔の山」を想起 させ るも のがある。 クルルはショー シャ夫人 な らぬウプレ夫人 にヴィク トル・ ユゴーの戯 曲「エルナニ」の 詩旬で口説かれ るし,「なにしろ『自然発生 によって大地 よ り生 じた有機的生命体 をも含めて

,

した がって石か ら人間 にいた るまでの文字 どお りあ り とあらゆる存在についての啓発 と教示が教養 とし て』彼 に与 えられ るのである」

'

このような「ファウス ト的」な個所 は別 として も,この作品の重み を理解す るために

,そ

の40年にわたる成立史 をた どってみ ることは無意味ではあるまい。 トーマス・ マ ンは1909年の春に「大公殿下」 を完成 し

,そ

の同 じ年 に詐欺師小説 に とりかかる。 彼 はそのあた りを「略伝」のなかで回顧的に次 の ように述べている。「『大公殿下』を脱稿 したのち, 私 は『詐欺師 フェー リクス・クルルの告 白』 を書 きは じめていた一― この腹案は一風変 った もので, 言い当てた人 も多かったが

,マ

ノレスクの回想録 を読 んで思いついた ものである」

P

マンはまた, 1909年 11月 2日 に「目下私 は一つのエ ッセイを書 いているが

,こ

れは『精神 と芸術』 とい う表題 に なろう。更に比較的長 い物語 『詐欺師』 と取 り組 んでいる。 これは心理的に先の大公小説のある種 の補足 を意味す るであろう。」とも語っている。 ところで

,

トーマス・ マンが「クルル」の構想 を得たのは1905年

,あ

るいは1906年頃 にさかのぼ ると推定 され る。 そ して

,ひ

き続 き基本構想 は練 られたが,「大公殿下」の完成が近づ いた1909年 3 月25日

,彼

は自分の創作の新 しい時期が始 まる とい う意味のことをハインリヒ・ マン宛 ての手紙で 書いている。

Im ubrigen halte ich mich so ungefahr und bereite A/fehreres vor i einen Essay, . .. ,und eine

Novene,die sich ideem an》 K〔 6nigliche〕 H〔Oheit〕 anschheβen wird,aber doch eine andere

Atmosphare haben und,glaube ich,sozusagen schon etwas》 18 Jahrhundert《 enthalten wird. Uberhaupt ist rnir inllner,als beganne nun eine neue》 PeriOde《,Wie schaukal sagen wirde.9)

さらに

,翌

1910年 二月10日付 けの同じく兄ハインリヒ宛ての書簡には,「私は詐欺師の告白のために 蒐集 し

,記

録 し

,研

究 していますが

,こ

れは私の もっとも風変 りなものになるで しょう。私にはこ んなところがあるのか

,と

時 どき驚かされる始末です」)とある。「クルル」の執筆ははか どり

,こ

の 年の夏にはその一部が家族の前で朗読されるまでになる。 この章の冒頭の引用でもマン自身が触れているように

,彼

が この小説の構想を得るについては, 1905年にルーマエアの詐欺師マノレスクの回想録の ドイツ語訳を読んだことにある。それは,,Ein Fttst der Diebe,Memorien“ 及び

"Gescheitert.Aus dem Seelenleben eines Verbrechers“ とぃう表題 の

ついた

2巻

本 で

,ベ

ル リンの出版社 ランゲ ンシャイ トが宣伝用 として彼に贈った ものであった。

(3)

「詐欺師 フェー リクス・ クルルの告 白」の成立

169

1871年のルーマニア生れで

,18歳

でパ リにや って きた この男 は

,世

界 を股 にか けて詐欺 の妙技 を 発揮 した。滞在 した都市 はヨーロッパやアメ リカの大都市か ら

,は

るか 日本 の横浜 にまでわたる。 彼のね らいは主 に宝石 で,当時の金で3,500万マル クほ どの額 を盗 んだ という。彼 は最初 Marguis de

Manolescuと 自称 し

,続

いてHerzog von Otranto, そ してFiirst Lahovaryと 自称 した。 しか も, 単期間 とはいえ

,実

際 に伯爵令嬢 と結婚 さえした。身の危険 は

,た

びたび精神病 の仮病 を使 ってた くみに くぐり抜 ける。彼 は

,ま

さに世紀転換期の典型的詐欺師 として豪勢に暮 したのであった。 このように,「クルル」執筆の きっかけはマノレスクの回想録であったが

,こ

こで

,マ

ンが「 クル ル」に着手す るまでの前史 をぶ り返 ってお く必要がある。1901年には「ブデンブローク家の人々」 が出版 され

,そ

の翌年dramatische Novelle「 フィォ レンツァ」が初演 され る。その他 目ば しい著作 を列挙すれば,「小男 フ リーデマ ン氏」(1897年),「道化者」(1897年),「 トリスタン」

(1903年

), 「 トーニオ・ クレーゲル」(1903年 ),「ヴェルズンゲ ンの血」(19o6年

)な

どがあるが

,こ

れ らに共 通するテーマはKunstlerprOblemであ り,それは「 トーニオ・ クレーゲル」において頂点 に達す る。 また

,1909年

,「クルル」に着手する直前に完成 したFurstenrOman「大公殿下」の主人公 クラウス・ ハインリヒは

,題

名 の示す通 り芸術家ではないが

,や

は りこれ ら一連の芸術家小説の主人公たちの 精神的分身であることはまちがいない。元来「クルル」は,「『大公殿下』の対 となる作 として」)考 えられていたのであった。やがて

,マ

ンは「クルル」 に着手する。彼 は後年主人公 クルルについて こう語 っている。「 このフェー リクス・クルルは残忍な犯罪者 なんかではないが 〈にもかかわ らず英 雄〉であ り,〈深淵のぶちに生 きる〉人間です。 したが って私好みのタイプのヴ ァリエー ションで, 内的には深 くコンズル・ ブデンブロークや 〈道 に迷 った市民〉 トーニオ・ クレーゲル,『ヴェネツィ アに死す』のグスターフ・ ア ッシェンバ ッハ に似 てい ます」♂)このように

,マ

ノレスクの回想録 は , マンに従来か らの共通のテーマであるKunstler― Burger―PrOblemの風変 りなヴァリエーションを思

いつかせたのであった。 それに力日えて

,回

想録の文体 もマ ンの注 目をひいた。 これ らの点 に関 して マンは「略伝」のなかで次のように述べている。「取扱 った問題 は

,も

ちろん芸術 と芸術家 とい う主 題の新 しい方向転換

,す

なわち

,非

現実的な存在形式の心理学であった。一方文体 の点で私 を魅了 した ものは

,手

本 にした回想録が荒削 りな形で暗示 して くれた自叙伝体 の直接法で

,こ

れはこの と きまで一度 も試みた ことがなかったのである」と9こ うして,マンは自分の詐欺師 に もマノレスクのよ

うにIch―

Formで

schriftstellernさ せてい くことになる子)ク ルルはマノレスクと同様 に18歳でパ リ

ヘやってきて

,詐

欺師の道 を歩み始める。両者 とも響 きのよい名前 を持ち

,仮

病使 いの名人で

,い

とも簡単 に役人 をあざむき

,い

ずれ も世界旅行 にお もむ く。

ところが

,両

者 の歩みはまるで違 っている。 クルル はマ ノレスクの生れ変 りではない。マノレス クは腕 の立 つ大泥棒であるが

,ク

ルルにはパ トロンがいず こか らともな く現れ るのである。彼 はい ゎばFortunaの庇護 を受 けている。宝石類 は思 いもよらぬ形で彼の手 にはいる。貴族の称号です ら,

(4)

170 三二 枝

自ら求めず して他人か ら提供 され る。マノレスクが永遠のほら吹 きならば

,ク

ルル は天成 の美貌 と 美声で前者 を凌駕する。回想録 に対する「クルル」の決定的な違 いをGuido Steinに きいてみよう。

Die entscheidende Veranderung liegt aber in der asthetischen Aufwertung des 1lochstaplertums von Fehx Krun,der seine betrugerische Scheinexistenz mit deni schOnen Schein des I(tinstlers auf eine Stufe stent und sich dem ktinstlerischen,,Fach“ zu rechnet.15)

その うえ

,マ

ンは「 クルル」 にイロニーやパ ロディを付加 しているのである。 こうみて くると

,単

なる回想録書 きが書 いたマノレスクの回想録 には

,文

学的価値 はない とみてよか ろう。 しか し

,素

材 としての価値 は十分 にあった ことがわか る。つまり

,Hatt Wyslingが

指摘 しているように,回想 録 はマンの「クルル」への,,erste Anregungen“ を与 えたのであった。 ところで

,1909年

に「 クルル」が書 き始 め られた ことはすでに述べた通 りであるが

,や

がて執筆 中止の歴史が始 まる。トーマス。マンは言っている。「 'F常 にきわ どい平衡 曲芸 ともい うべ きクルル の回想記調 を長 いあいだ続 けて押通 してゆ くことは

,

もちろん

,困

難であった。 この調子か ら休息 したい という願望が

,新

しい構想 を捉 える助 けになって

,そ

のため1911年春 にはクルルの稿 を続 け ることを中止 した。中●妻 と私 とは五月の一部分 をリドで過 した。幾つかの奇妙な事情や印象 と

,新

しい事物 をひそかに見張 っている態度 とが共働 した結果

,創

作のアイディアが起 って来ず にはいな かつたが

,こ

のアイディアがやがて『ヴェニスに死す』 という名で具体化 されたのである。 この短 篇 は

,他

の企て と同様

,ご

く控 え目な意図の ものであった。詐欺師小説の仕事 に割 りこます

,一

気 呵成の即興詩で

,素

材か らいって も分量か らいって も

,ほ

ぼ『ジンプ リツィシムス』誌 に適当な物 語 くらいに考 えていたのだ」ぎ) 「 ヴェニスに死 す」の執筆 はこの年の 7月 初 めに始 まった。1912年

,こ

のア ッシェンバ ッハの物 語の完成後

,2, 3ケ

月間ではあったが

,マ

ンは「クルル」の仕事 に帰 ることもあった

p同

年マ ン は「クルル」の第

1巻

5章

,つ

まりMusterungsszeneを 「 ある長篇の断片」という形で発表 してい る。 しか し

,こ

こにまた中断がはいる。 「1912年の五月か ら六月にかけて

,私

は臨時入院者 とい う格で

,三

週間ダヴォスの妻のそばで暮 しなが ら

,あ

の不思議な環境 の印象 を集めた。

_そ

れ らの印象か ら

,ヘ

ルゼル山地 を背景 とす る簡 潔な短篇の観念が出来上 った。 この短篇 も

,何

とか して稿 を続 けたい とい う誘惑 を感 じていた詐欺 師の告白の仕事の間に,手 早 く挿入 しようというつ もりであった」を働 以上はマンが「魔の山」成立の 由来 を述べた ものだが

,彼

はこの計画 を1913年 7月24日にエルンス ト・ ベル トラムに宛 てて次 のよ うに書 き送 っている。「三週間南の海岸 に行 っていたお蔭で,また元気 を回復 しました。に もか かわ らず

,例

の奇妙 な長篇小説 はいぜん棚上 げ した まま

,差

当 りもう一つ短篇 を準備 しています。 これは『ヴェニスに死す』の対 をなすユーモラスな作品にな りそうです」と

9こ

うして,その頃書 き始 作

(5)

「詐欺師フェーリクス・ クルルの告白」の成立

171

め られ た この「 や や長 めの短 篇小 説」 のた め に,「 クルル」 の執筆 は中断 された。 ところが

,こ

"Zauberberg“ Novelleは千 ペ ー ジ を起 す

Romanに

ぶ くれ あが り,「手 早 い挿入」の はずが,何と12年

間 に もわた って し まうのであ る。

1924年 に は

,よ

うや く「魔 の山」 が完成 す るのだが

,マ

ンは相変 らず「 クルル」 を中断 した まま で ある。1925年 4月12日

,彼

Max Rychnerに

宛 てて書 いてい る。

Besonderen Eindruck hat打 r gemacht, zu sehen, 、velche Wichtigkeit Sie dem"Fenx Krun“

unter meinem Versuchen beimessen Wahrhaftig,ich s01lte das Ding fertig zu machen suchen; es spricht mir selbst, immer wenn ich innerhch daran ruhre, nOch mancherlei Sonderbares AInusantes. Aber iFnmer Wieder schiebt neues, anderes sich davOr, was "erst noch rasch“ gemacht sein mOchte,一

――

z.Z.sind es historisierende,kostumliche Dinge,Joseph in Agypten,

Spanisch―Niederlandisches,Erasmus―Luther...20)

周知のように,このJOseph Stoffは 長篇

3部

作 にぶ くれあが り,「クルル」は1926年の この「 ヨセフ」 小説の執筆開始 によって

,ま

た もや中断 されて しまう。 しか し

,マ

ンは「 ヨセフ」を書 きなが ら「ク ルル」の ことを忘れて しまったわ けではない。1928年 2月 4日 には次のような記録がある。「クルル, 彼のお もしろい運命の物語 は残念 なが ら

,外

的事情 のために未完の まま残 っている (この物語 は断 片 しか出版 されていない)。 今や このヨセフが別の仕方で

,別

の意味で古い計画 を遂行するのだろう か? 『いや

,ク

ルルは著者の想像力の中に深 く眠 ったまま

,生

き続 けてい ます よ。 ある日彼 は再 び目 をさますで しょう』」計)さ らに同年10月 28日には,マンは次のように言 っている。 「私の詐欺師小説の 継続 と完成 も放棄 したわけではあ りませんよ。で も今 は

,つ

まりこの冬 は外か らの多 くの要求 を満 たすために仕事 を中断せねばな りません」♂) ところが

,そ

の うちにマ ンは執筆中の この聖書小説 に「 ワイマルのロッテ」をはさみ入れたい と いう計画 を抱 くようにな り,9「クルル」はまた また休息 して しまう。マンは1942年まで「ロッテ」 にかかわっていたが

,さ

らに別 の事態が発生す る。今度 は「 ファウス トゥス博士」が割 り込んで き たのである。それにはカーチャ。マ ンのすすめもあった。「かれはこの四部作20を 完成 したあ と,中● またなにかす こし大 きな もの を書 く気にな りました。かれは『クルル』を書 きつ ぐか

,そ

れ とも没 落 への道 を歩みつづ け

,つ

いに国家社会主義 とい う奈落 にまでおちこんで しまった時代の全過程 を 包 みこむなん らかの作品 を書 くか, どち らにした ものか迷 っていました。『クルル』は

,そ

のパ ロデ ィーぶ うの調子 を最後 までた もちつづけるのはむずか しい とい う判断から

,中

断 された まま放置 さ れ ていたのです。わた しは

,今

回 も『クルル』をまず とりあげるのはやめて,『ファウス トゥス』を 書 くように と

,し

き りに勧めました。〈そうで しょう〉とわた しは言いました。(『ヨセフ』は

,も

ち ろん時代 とさまざまな関係 をもっていることは間違いないですけど,それで も,言ってみれば,す こ

(6)

172 三三 枝 作 し逃避的な感 じが しないで もあ りません。 もし

,続

けてい ままた『クルル』をとりあげるとなると, 逃避的傾向がいちだん と強 まるのではないか しら。わた しは,『ファウス トゥス』計画 をおすすめに なった方がいい と思 いますわ〉 結局

,か

れ もそ うしました」ζ9 1943年10月 7日 付 けの手紙 でマ ンはDieter Cunzに宛 てて書 いている。

FeHx Kruns 11。 chstapelei ist ein wenig》 zuruckgebheben《,da sie durch Josさ ph ins Attythische

hinausgewachsen ist.Trotzdem kann ich lhnen sagen,daβ ich nach AbschluF des》 Ernahrers《

an dem Punkte war,den Krull、vieder aufzunehmeno Schlieβ hCh hat dann doch eine 40 Jahre

alte NOtiz,die den Kern eines Musiker―Romans bildet,den Sieg davongetragen― ―fur diesmal.26)

こうして

,1947年

に「 ファウス トゥス博士」が完成す るや

,そ

の年 に「 クルル」 はた しかに浮上す る。「 この ところたい した ことはしてい ません。頭の中であれ これ とやってみなが ら(音の『フェー リクス・ クルル』の断片 を書 き足 して

,老

後 の楽 しみに

,本

格的な悪漢小説に仕立 てる というのは どうで しょうか)イ)と トーマス・ マンは11月25日付 けの手紙でヘルマ ン・ ヘ ッセ宛 てに書 いている。 しか し

,こ

の度 も「 クルル」は沈んで しまう。「 クルル」は「選 ばれ し人」に道 をゆず ったのである。 ちなみに,「選 ばれ し人」は1948年 1月 に執筆が開始 され

,完

成 は1950年 10月 26日

,刊

行 は翌年 3月 であった。 ここで「クルル」中断の歴史 にひ と息いれ よう。

1910年11月,トーマス・マ ンはワイマルヘ講演旅行 に出かけ,かつての学友 Vizthum von Eckstadt 伯爵の客 となって感動的な歓待 を受 け,「クルル」か ら初 めて公の朗読 を行 なう。翌1911年 1月には ルール地域及びヴェス トファー レンヘの講演旅行で,「クルル」やい くつかの短篇小説 か ら朗読 して いる♂)以来,「クルル」 はしば しば朗読 され る。 そして「クルル」の中断中にもそれ は行 なわれた。 以下 目ぼ しいもの をひろってみよう。1914年にマ ンは招かれてスイスに旅 し

,ツ

ュー リヒ

,ル

ツェ ル ン

,ザ

ンク ト・ガ レンで,「生みの悩 み」,「神童」,「大公殿下」及び「クルル」か ら朗読 している し

,1916年

10月23日にはブレスラウで

,11月

5日 にはベル リンで「 クルル」か ら朗読 している♂)翌 1917年にはハ ンブル クヘ行 き,「ネ申童」,「生みの悩み」,「大公殿下」,「クルル」か ら朗読 したぎ)さ ら に1929年

,マ

ンはノーベル賞授賞式 に出席のため12月 7日 に ミュンヘ ンを発 った。途 中ベル リンに 立 ちより

,国

際学生協会の レセプションで「 クルル」か ら朗読 している。同月 9日 にはス トックホ ルムに着 き

,■

日はハー ド・ スケジュールのなかに終 えたが

,翌

12日に ドイツ・ スウェーデン協会 のために「 クルル」,「トーニオ・ クレーゲル」,「神童」か ら朗読 した

:D1950年

代 になる と,ト ーマ ス・ マンはすでに75歳を越 えているに もかかわ らず

,相

変 らず数多 くの朗読 を行 ない

,そ

の多 くは 「クルル」か らなされている。例 えば

,1955年

5月

,

リューベ ック市庁舎での名誉市民証授与式に 列 した後

,彼

は市立劇場で「 トーニオ・ クレーゲル」,「若 きヨセフ」,「クルル」か らそれぞれ朗読

(7)

「詐欺師フェー リクス・ クルルの告白」の成立

173

,同

年 6月 6日の80歳の誕生 日の前 日の晩 には盛大 な祝賀会が開催 され

,マ

ンはその席で「 クル ル」か ら朗読 を行 なう認 といった具合である。 これ らの事実は

,マ

ンの数々の朗読が反響 を呼んで いることを物語 るものであ り

,彼

自身の未完の ままになっている「 クルル」への関心のお とろえて いないことを示 していると思われ る。 以上みて きた ように

,

トーマス・ マ ンの「 クルル」は幾多の朗読会 によって知 られていたのであ るが,一 方では,個々の章の

VOrabdruckeに

よって もその名 は公 になっていた。早 くも1911年には,

"Bekenntnisse des IIochstaplers Fehx FruH. Bruchstuck aus einem Roman. Der Theaterbuch“ という題 目で,Muller Resё ―Kapitelが S.Fischer Verlagの,,Almanach“に現れた。そ して1919年, ハ ノ ー フ ァ ー の Kestner― Gesellschaftの

Sammelband ,,Das Kestnerbuch“

の な か で,

"Schulkrankheit“なる表題の もとに

,第

1巻

の第

6章

が出ている。 さらに

,1925年

6月 初 めには, ウィー ンの,,Neue Freien Presse“ において「 クルル」のMusterungsszeneか らの試T/Fが活字 になっ た。ず っととぶが,マ ンは1951年以来,,Neue Rundschau“ 誌 にい くつかの未発表の断片 をのせている。

他方,「クルル」は上述の

VOrabdruckeに

よってのみな らず

,断

片 としてなが ら,やがて正式 に出 版 され ることに もなる。即 ち,1922年ウィー ン,ライプツィヒ及び ミュンヒェンのRikola Verlagか

ら「詐欺師 フェー リクス・ クルルの告 白―一幼年時代 の巻」が「計画全体 の断片ゴ)と して公刊 され

ている。それはクルルの父の破産 とその自殺 にいたるまでの部分 を含んでいた。この,,Krull“―Fra送1llent

,翌

1923年に単行本 として,シュ トゥッ トガル トのDie deutsche Verlagsanstaltか ら発行 され,

1932年には,InseI Buchereiの Nr,312と してライプツィヒのInsel Veriagか ら干1行された。それ故, 「幼年時代の巻」は独立の作品であった とさえいえよう。1937年には,アムステルダムの出版社Querdio

Verlagで 先の「幼年時代の巻」をさらに拡大 した版が出版 される。 この版 は第

2巻

の最初の

5章

, つまりMusterungsszeneま でを含んでいた。結局未完に終 ったのであるが

,1954年

に「 クルル」が,

「回想録第

1部

」 として最終的に出版 され るまでの刊行事情 は以上の如 くである。

1951年 9月 ヶ トーマス 。マ ンはツュー リヒ近郊のKloten空港 よ リアメ リカ合州国へ帰国の途 につ

いた。彼 はニュー ヨークには 1日 滞在するが,シカゴにいる末娘Elisabeth Mann― Borgeseの もとに 3日 間留 まった際

,同

地の,,Museum of National History“ を訪れ る。 この経験 は

,さ

っそ く「ク ルル」の Kuckuck― Gesprachに 応用 され ることになった。

Chicago hat ein hervorragendes〉 Museurn oal onalual historyく , das wir nicht nur einmal,

sondern auf meinen Wunsch noch ein zweites Tal besuchten. Es sind da die Anfange des organischen Lebenttirn Meere, als die Erde nOch wust und leer war― ―, die ganze Tierwelt, Aussehen und Leben des Fruhmenschen(auf Grund der Skelettfunde plastisch rekonstruiert)

(8)

174 E三

h6chst anschaunch dargestent.

)ie Gruppe der Neandertaler (mit deren Typ eine

E1ltwicklungshnie abbricht)in ihrer Hohle vorgesse ich nie und nicht die hingebungsvon

hockenden Ur―Kunstler, die die Fels、

vande, wahrscheinhch zu magischen Zwecken,

t

Tierbildern in Pflanzenfarben bemalen. Ich war vollig fasziniert, und eine eigenttimliche

Sympathie ist es,die einen bei diesen Gesichten erwarmt und bezaubert.34)

マ ンの体験利用 については

,K.シ

ュレーターが興味深いことを書いている。「 ヴェノスタ候爵に な りす ましたクルル に『いつかきっと叶えられ る』 はずの教皇への謁見の場面 も

,

もし

,こ

の小説 が第二部 まで完成 されていた ら

,ま

ちがいな く描かれていたにちがいない。そのさいには

,

トーマ ス・ マン自身の体験が

-1953年

,青

春 の一時期 をお くったローマを再 び訪れた とき妻 とともに 教皇 ピウス十二世 に個人的謁見 を許 されたさいの体験が一―利用 されたであろうことは疑 う余地が ない。未完 に終 った作品のなかでは,『その ときには

,な

ん とひざまづいてく聖なるお方 さま(Votre Saintetё)〉 と言わなければならないのだそうだが,それ もまた大 いに楽 しい ことだ ろう』と予示的に 記 されているにす ぎないが」ぎ)これ らの引用 に関連 して

,こ

こでヵ―チャ・マ ンの言 うところもきい ておかなければな らない。体験 を自作に利用す るに際 しての

,妻

か ら見たマ ンの一面が述べ られて いるか らである。「かれは

,あ

とで小説 に利用す るために

,ひ

とを仔細 に観察 してお くな どとい うこ とはあ りませんで した。 あるときだれかに会い

,そ

の人の ことが記憶の片隅 にの こる。小説を書 い ているうちに

,た

また まその人がぴった りの登場人物がでて くる。そこで

,記

憶の片隅 にねむって いた人の出番 となる

,

というわけです。決 して

,は

じめか ら意図 していたわけではあ りません。 そ んなことは話のほかです。老クルルー家の場合 にも

,同

じような ことがあ りました。 そのモデルに ついて訊ね られた とき

,

トーマス・マンはこう答 えた ものです。『そうですねえ

,ラ

イン河の船の う えで半時間 ほど眺 めていた ことのある人たちですよ』 基本的に こういう具合で した。かれは

,い

ち ど心 に とめた人間な ら

,ど

んな人間で も描 きだす こ とがで きたのではないで しょうか」評) 以上では

,い

ずれ もマンガ創作 に自己の体験 を引 き出 して くることが述べ られているが

,

この よ うな面 とは別 に

,彼

は一方では

,早

くか ら小説のために各種 の資料 を集め

,体

系的に仕事 をする と いう規立正 しい作家で もあった。

Ich sanllnle, notiere und studiere fur die Bekenntnisse des HOchstaplers, die wohl mein

Sonderbarstes werden.37) と1910年 1月10日付 けの手紙 で兄ハインリヒに伝 えているように

,彼

は創作 に関連 の文献

,新

, 雑誌

,画

報 などを集 め

,そ

れ らのなかか ら切 り抜 き

,抜

き書 きをし

,メ

モをとった。 いずれ も一定 の観点 に従 って秩序づ けられ

,整

理 され る。 この頃 に収集 された資料 は晩年 まで保存 されていて, 1951年に「 クルル」の仕事が再開された際にも利用 されるのであるが

,こ

れ らの資料 の東 には

,そ

(9)

「詐欺師 フェー リクス・ クルルの告 白」の成立

175

れぞれ次の ような表題 がつけられていた という。

"Kur―und Lustorte“,"Interieurs“ ,,,Elegante Festhchkeiten“,"Weibhchkeit“,"Sport“ ,"I10tel.

Reise,(Dandy Gartenarbelt)Heilnat.Zuchthausaufseher``, "Reisen``, "Coups Carisson“ ,

"Gefangenscha■ “,,,Allgemeines“ .30 ところで

,マ

ンガ対 象 を描 く際の

,そ

の詳細 に して正確 な記述 は広 く人の知 るところであるが, そのために「 クルル」の場合 にも

,集

め られた多 くの これ らの資料のなかで

,各

種 の絵が重要な役 割 を果た していた。 それ らの絵 は

,絵

はが き

,広

,新

,グ

ラフ雑誌

,旅

行案内書 な どの もので あ り

,大

部分 は特 に芸術的に価値が高い といった ものではない。この点では「マノレスクの回想録」 が単 なる素材 の域 を出なかったの と同様で

,要

す るにフィクション化のための手がか りとして使わ れたのであった。 い くつかの実例 をみてみよう。税関で

,パ

リのセ ン ト・ ジェイムズ 。アン ド・ アルバエイ・ ホテ ルに到着の際 に

,あ

るいはデ ィナーにお もむ くときに

,そ

の都度ちが った衣装で登場す るウプレ夫 人 は,1910年か ら1913年にかけて

,ベ

ル リンのグラフ雑誌,,Die Woche“にのっていたそれぞれ別々 の写真や絵 に もとづいて描 き出されているぎ)ク ックック教授夫人のためにはロシアの踊 り子

Anna

Pawlowa(1882-1931)やイタリアの女優

Anna Magnaniな

どの写真力汗U用されたなのWilhelm Gwinner

のSChOpenhauer―

Monographieの

Titelportratに使われたショーペンハウエルの肖像画 は,クックッ

ク教授の描写 に役立 った♂)また

,マ

ンは「『アムバ ッサ ドールのグラン ド・ホテルの庭 園風 にしつ ら えられた屋上 テラス』での晩餐の場面の描写 には

,古

い雑誌か ら切 り抜いてあった『夏の炎暑 にう だる世界都市のなかのオアシス』 と題 された詳密 に描かれた絵 を細部 にいたるまで利 している。 そ の絵 には

,ヴ

ァン ドーム公爵夫妻やギ リシアのゲオル ク王子夫妻

,あ

るいはガブ リエ レ・ グヌンチ オな ど,かつての ヨーロッパの上流人士たちが集 っているさまが描かれているが

,小

説のなかでは, 彼 らは無名の端役 にされていて

,た

だ貴婦人たちの『流行 のつばが広 く

,大

胆 に反 った帽子の ファ ッション』だけが

,す

ぎ去 った時代の幼想的な付属品 として印象的に措かれているにす ぎない」F)彼 は利用 した絵 の利用すべ きところは利用 し

,不

要の部分 は省略ない し簡略化するのである。 さて

,こ

こで再 びマ ンの「 クルル」執筆 に話 をもどそう。1951年

,こ

れ までの長 い「 クルル」中 断の歴史が終 り

,よ

うや く「 クルル」完成のための第

2段

階の仕事の時期が始 まる。 まず

,マ

ンの Erich von Kahler宛 ての同年 2月 1日の手紙 をみてみ よう。

Da aber der》Erwahlte《 abgetan und in Druck ist,habe ich den uralten》 Felix KruH《 wieder

vorgenOHllnen und setzte ihn,ins l」 nbekannte schlendernd,fort,ohne rechten Glauben,daβ iCh

ie nOCh damit fertig werden werde. . . . Ich habe tatsachHch auf demselben Munchener

(10)

176 = 枝

fortgefahren.43)

さらに

,12月

23日 には

Paul Aman可

屯て に書 いて いる。

Ich habe allerlei Weiteres an den Krun― Memoiren geschrieben,laufe aber immer Gefahr ins

》Faustische《 Zu geraten und die Forin zu verheren,44)

このように して

,マ

ンは四十数年前 に放 り出したままにしていた「 クルル」 をその仕上げに向って 書 き継 ぐことに したのである。 そ して

,1954年

9月 末

,つ

いに「詐欺師フェ∵ リクス・ クルルの告 白―一回想録第

1部

」の出版 にこぎつける。脱稿 したのは半年 ほど早 く

,同

年 2月 の ことであった が,そ の量 は1913年まで,と書 きためていた部分の

3倍

にぶ くれあが った。この期 に書かれた物語は , クルルのパ リヘの旅立 ちに始 まり

,世

界旅行の最初の 目的地 リスボンでの滞在 で終 っている。 この 部分 とそれ以前 に書 きためていた部分 との間には

,ほ

ぼ40年の執筆体止があったのであるが

,そ

の つなぎ目はまるで識別できないほどに成功 した。「かれ は四十年間 も放置 しておいたあ とで,1951年 にぶたたび『クルル』 を書 きつぎはじめた とき

,完

全 にむか しと同 じ調子 をた もつ ことに成功 しま した。基本的には縫 い目す らまるでわか らない くらいですす)とカーチャ夫人 は述べている。 しか し

,以

上 の ような「 クルル」出版 にいたるまでの最終段階において も

,例

によって

,執

筆の 道は平坦で はなかった。 は じめの うち

,仕

事 は進歩 し

,1951年

■月20日に,「クルル」の「旅立ち と 到着」及び「サーカス」の章が断片 として,,Die Neue Rundschau“ 誌に掲載 されるに至ったが,ま

たもや道が とざされて しまった。その期間は

,1952年

5月 か らほぼ

1年

にわた っている。 また短篇 がはいって きたのだ。その年の11月,「クルル」はいつ出るのか とい う間に対 してマ ンは答 えている。 「おそ らく二年の うちにね。で も分 りませんよ。 目下私 は『欺かれた女』 と題 する

,小

さい写実的 な物語 を書 いています」♂)ま

,翌

,つ

まり1953年 4月 に「クルル」はどうなっているのか とたず ね られて

,彼

は,「さあ,『クルル』 は目下休上です。 その代 り私 は

,五

月 に ミュンヒェンのメル ク ール誌 に出 る予定の短篇を書いているところです。ほぼ『ヴェネツィアに死す』の分量の短篇ですイ) と応 じている。 この短篇 とは

,い

うまで もな く「欺かれた女」の ことにほかな らない。 以上

,数

々の執筆中断の状況 を眺めて きたが

,こ

の ように作品の執筆がひ とまず中断 されるとい うことは

,作

者 に とって

,

ともか く仕事 を継続す る意志 はあるとい うことを示す ものであろう。 し かしその反面

,こ

の ことは

,作

者の この仕事 に対 する疑問 も頭 をもたげて きた とい うことではなか ろうか。マンには

,長

い中断のあいだに時 として「 クルル」 を書 き続 ける気がすす まな くなるふ し が うかがわれ る。以下 そのあた りの事情 を検討 してみよう。 1951年

,ほ

ぼ40年後 に「クルル」の第

2期

の仕事 を始 めた頃

,マ

ンは

Hermann Kesten宛

ての未 公開の手紙 のなかで次 のように述べてい る。

Die Vollendung steht in weiter Ferne. Es ist ■1lr o■ zweifelhaft, Ob ich noch die Laune aufbringen werde,das Buch durchzufuhren.48)

(11)

「詐欺師フェー リクス・ クルルの告白」の成立

177

また,「私が この長篇 を書 き始 めたのはすでに四十年以上 も前の ことで,そのあ と他の仕事 のために 中断 しましたが

,時

間 と力 さえ許せばいつかは完成 したい と思 って最近 また とりあげたわ けです。 完成がいつになるかは言 うことはで きませんが

,一

,二

年 は続 くか も知れず

,そ

れ はいろいろの事 情次第ですね」49と の言 もある。 さらに

,1954年

2月,「回想録第

1部

」の脱稿後マ ンは言 う。 イ

Das ist nun ein Band von vierhundertvierzig und einigen Seiten,》 Der Memorien Erster Tellく,

der im September erscheinen son― ―――

Frattent irnmer noch, aber Fragment

、vrid das wunderHche Buch wohi bleiben,auch wenn mir Zeit und Laune gegeben sein sonten,es noch um

vierhundertvierzig Seiten weiterzufuhren . . . Das ist 、vohl das Charakteristischste, 、vas ich

dardber sagen kann : Daβ es 、VOhl einmal abbrechen und auhё ren, aber nie fertig 、verden

wird.50) うえの三つの引用 において

,マ

ンはいずれ も「クルル」の未完成 を予感 しているのである。 ここで, 最後 にもう少 し引用 してみよう。彼 は,1952年 4月18日付 けFerdinant Lion宛 ての手紙 に書 いてい る。 「私なぞ

,本

当は,いまさらフェー リクス・ クルルの回想録のようなものを背負い込 むべ きではなか ったのです。題材か ら言 って も所要エネルギーか ら言 つても,あ らゆる点で,私の年齢 むきの

de mon

ageも のではあ りません。汎性愛主義だの宝石泥棒 だの一 残 り少ない人生の何年かをこんな冗談 ご とに費 していい もので しょうか

?し

か もこの冗談 ごとは

,難

しくて

,馬

鹿馬鹿 しい ときています。 最近書いた中に とても面 白い部分があるのは事実ですが

,そ

れで も私 は

,途

中で打切 ろう

,断

片 に しては厖大だけれ どもそこい らで止 めて置 こう

,そ

して

,例

えば

,あ

なた も勧 めて下 さっているエ ラスムスを扱 った短篇のような

,私

の気持 をもう少 し引立てて くれそうな新 しい作品 にかかれ るよ うにしよう,と思 うことが よ くあ ります」♂)これにす ぐ続 けてマ ンは,「しか し

,他

F私

は,『そ こい らで止 めてお く』習慣の まった くない男です。中●元来私 は

,自

分の能力の限界 内では

,物

事 を最後 までや りぬ く気性 の人間ですF)と書 きなが ら,「ただ し

,根

本的に言 つて

,私

の使奉 は『ラ ァゥス ト ゥス博士』までで終 った らしく,『選 ばれ し人』がすでに冗談めいた後奏曲だったのですか ら

,い

ま 書 いているものに至 っては

,も

はや暇つぶ しに過 ぎませんr)と要件 を結 んでいる。 前述のように,「回想録第

1部

」が出版 されたのは1954年の ことであ り

,作

者マ ンは翌年の1955年 に生涯 を閉 じてい るので

,こ

の小説 は永遠 に未完 となったが

,た

とえここで作者 の死が なか った と して も

,以

上の ことか ら筆者 には

,彼

,も

ともとその完結 を信 じてはいなかった し

,ま

,完

結 させ るつ もりはなかった と思われてな らない。表題の

,未

完 を意味す る「回想録第

1部

」 とい う言 葉 は

,こ

の意味で極めて象徴的である。

(12)

178三

枝 圭 作

1)トーマス・ マ ン全集 ⅥI 新潮社 1972年

p284

2)トーマス・ マ ン全集 Ⅵ p538

3)Eberhard Hirscher i ThOmas Mann VOlk und Wissen Volkseigener Veriag,Berhn 1973,S 190

4)トーマス・ マ ン反語的 ドイツ人 エー リヒ・ ヘ ラー

/前

田敬作・ 山口知三訳 筑摩書房 1975年

p437

5)同上

6)トーマス・ マ ン K・ シュレーター/山口知三訳 理想社 1981年 p203/204

7)トーマス・ マ ン全集 X p 330

8)トーマス 。マ ンは語 る V・ ハ ンセン,G・ ハ イネ編

/岡

元藤則訳 王川大学出版部 1985年 p.23

9)Thomas Mannノ/Heinrich Attann Briefwechsel 1900-1949. S Fischer Veriag,Frankfurt a M.1984,S 95 10)トーマス・ マ ン全集 ⅥI p.566

11)トーマス・ マ ンは語 る p341

12)同上

,p44/45

13)トーマス・ マ ン全集 X p 330

14)Eberhard Hirscher:Thomas WIann S 192

15)GuidO Stein:「 ΓhOmas 【ann Bekenntnisse des IIOchstaplers Felx KruH:KLInstler u KOmδ diant Sch6ningh, PaderbOrn.IMunchen wien Zurich. 1984,S 12

16)トーマス・ マ ン全集 X p 331

17)Eberhard Hirscher i ThOmas Mann S.191 18)トーマス・ マ ン全集 X p 332/333

19)トーマス・ マ ン全集

p109

20)GuidO Stein:Thomas Mann Bekenntnisse des HOchstaplers Fehx Kru■ S 14 21)トーマス・ マ ンは語 る

p123

22)同上,p131

23)Thomas Mann:Briefe 1989-1936 S,Fischer Verlag,Frankfurt a. 1 1962,S 424

24)「ヨセフ」4部作 の こと。

25)カーチャ・ マ ン 夫 トーマス・ マ ンの思 い出 山口知三訳 筑摩書房 1975年 p121

26)Thomas Mann i Briefe 1937 1947 S 336

27)ヘッセ ンーマ ン往復書簡集 井手責夫・ 青柳謙二訳 筑摩書房 1972年 p171

28)Hans Blirgin,Hans∼Ottoふ江ayer,Thomas Mann Eine Chronik,Frankfurt a M 1965,S 33 29)評伝 トーマス・ マ ン 菊盛英夫 筑摩書房 1977年 p262,308

30)同上,p311

31)同上

,p354

32)同上

,p515

33)ト ーマス・ マ ン全集 X p 331

(13)

「詐欺師フェー リクス│クルルの告白」の成立

179

35)ト ーマス│マン K・ シユレーター/山口知三訳

p204/205

3o)ヵ ―チヤ・マン 夫 トーマス ●マンの思い出 pll13

37)ThOmaS Mann/Heね

tich MannヽBFiefV∝ hsel 1900-1949.S 104

30 GHido Ste :ThomaS Mann Boたenntnisse des Hochstaplすs Feユ Krull s 16

39)Halls Wyslthg(■ gl unter Mitarbeit von Yvonne Schlnidlin― Bild ulld Tёxl bei ThOmas Mann― Eine DokutnentatiOn,Bern 1975,S184ff

46)Ebenda,S,124f` 41)Ebenda,S l10■

42)ト ーマス・ マン

K,シ

ュレーター/山口知三訳 p,204

43)ηttomas Mann:B efe 1948-1955.S,188

44)Ebenda,S,237

4,)カ ーチヤ・ マン 夫―トーマスー・ マンの思い出 p.121/122

46)ト ーマス│マンは語 る p,841

47)同上

,p348

43)Hans Bitrgin,Hans・ otto WItayer,Thomas Mann.Eine Chronik,S.1231

40

トーマス ●マンは語 る p1335

50)HanS Burgin,Hans―Otto rayer,Thomasヽlaコn.Eine chlonik,Si 244 51)ト ーマス ●マン全集 p.543/544

52)1司上,p.544

(14)

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