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ウィリアム・モリスとバーナード・ショー--芸術と社会主義の基本関連---香川大学学術情報リポジトリ

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(1)

ウィリアム・モリスとバーナード・

ショー

≠芸術と社会主義の基本関連−Ⅶ

木 村 正 身 Ⅰ・・臥P”トムスンとモリス解釈の現段階。ⅠⅠ.モリスとレヨ−の社会 主義の基本的異同点。ⅠⅠⅠ一・モリスとショ−の接触の推移。ⅠⅤ.モリ スの芸術観と社会主義。Vl・ショーーの芸術観と社会主義。ⅤⅠ.結論。 Ⅰ エドワ−ド・トムスンが,1955年の大著1)でウィリアム・モリス(William Mo工r■is,1834−1896)解釈に画期的な視野を開いて,すくなくともモリスの社 会主義者として−の側面についでマッケイルやグレイ汐アによるモ.リス評価2)の 資料的・視角的諸制約を過去のものたらしめてから叫そのこと自体を,進歩 陣営ほかりでなく,保守アカデミズムや私的解釈泥までが異口同音軋認めるに いたったことほノ,留意に値する3)馴− ,はや4分の1世紀が経過した。この間 1)E.P.Thompson,mlliam MoYrirs,RomantictoRevoluiionar.y,MerlinPress 〉 1955;Ⅰ■eVised1977・なお,拙稿「クイリアム・モリス解釈の新段階」,『一番川大学経 済論芯』,第29巻第5号,ほ,同番初版の論旨とその発刊直後の評価状況とを紹介した ものである。以下,フqdI−スト・ネームなしの“Thompson〃は,EりPりThompson を示す。

2)J。Wn Mackai1.The Lif♭of■mlliam MorYis,Longmans,Green,1899;J Bruce GIAsier,Willam MoY’Y・iSa71d the Ear!yDaysqf.theSoci’alistMovement,

etc,Longmans,Green,1921.Cf“Laurence Thompson,The Enthusiasts.:A

β∠クg′〃動γq/■.わ加=紺♂g混血肌〝ββ7■〝CβGJαS∠e㌢,Gollanz,1971

3)トムスソの解釈に一・致した近年の研究例として−,RaymondWilliams,Cultur・e

Sociei.y1780−・1950,Chatto& Windus,1958(esp.PtいⅠ,Chap.7);Paul Thompson,The肋Y■k of William MoY’ris,Heinemann,1967;JackLindsay, William MbT■ris:his Lijb and WoY・k,Constable,1975;Philip Henderson, lri]/La”Zl[()′′Es,仇S L擁▼.IIblk m)d FTi(7Z(!!,Tharnes&Hudson.1967.

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香川大学経済学部 研究年報 20 ヱ9β0 叫・2 ■【 紅モリス研究ほ資料的にも満発に進行し,未公開の1次資料類(マックイルの モリス伝が伏せざるをえなかったD.G.ロゼッティ関係などの私的資料を含 む)の状況もはば知られ,接近可能化がすすみ,古典化したマツケイルのモリ ス伝を資料的に補った近代的視角からのへンダースンのもの4)も出たし,へ・ン ダースン編の沓簡集5)に.続く若干鼻糞書簡群の公表6),ルマイアに.よる釘197 点の公開講演全部の詳細な書誌と,うち従来未公開のぺ−パ一−−10点の公刊7), さらにメイ、エ」−ルによるもう1点の公表8)などがあり,他方,この期間に2次 的モリス研究も相当の点数にのほったようであるし,ウィリアム・モリス協会 (1955年設立)も,不断にアブ・ツ・デートなモリ汐ア′−ナを提供して,モリ ス研究の利便を高めてきた。しかし,それにもかかわらず,思想家モリスの実 体像について\エドワード・トムスンが蔓示した解明結束ほ,あらかじめいえ ほ,筆者の目の届くかぎりでは,大筋においていまだほとんど乗り越.え.られて いないようにみえる(ただし,ポ−ル・メイエ・−ルの最近の業績と論点につい ては,後述参照)。 その大筋とは,モリスの革命的社会主義ないし政治運動の全体をボヘミアン 気賀の天才的芸術家にありがちなきまぐれとしてモリスの不滅の業績を芸術構 動に限定する従来の主流の解釈を,徹底的に打破するという点をコロラリ′−と しながら,発1に,モリスの社会主義ないし共産主義は,けっしてきまぐれで ほなくて,かれ自身の芸術実践のうちに醸成された「ロマン的反抗」(“Roman・ ticRevolt”)L∼∼19椎紀イギリスの支愈的プ)Vi7ヨア・イデオロギ−たる功利 4)HendeISOn,よ∂よd..他の研究が用いていない1次資料の駆使による伝記事情の解明 が特色となっている。

5)Pllilip Henderson(edし),The LreiteY’SOfWilliam Morrisio his Famil.y ダ㌢’gβ形d5,Longmans,G【・e∋n,1950.

6)R.Page Arnot,William MorY、よs,theManandiheMyih,includingL,etie7・’S Of Tn/[ta7)LJ4011i]EoノL.1J‘7ho/Z(11td Dr ]0/〃G!ass(,LalrrenCe&WishaIt,

1964〟

7)Eugene D.LeMire(ed.),The U71如bli15hed Lectures of William Morris, Wyne State University Press,1969

8)PaulMeier,“An UnpublishedL・eCtureOfWiuiam Morris‥‘HowShallWeLive

Then?‥1J乃fβγ’紹αfJo〝〃J々βぴ∠紬=げ5〃C≠α/〟ブ\5fβrγ,Voi.XVI,1971,Pt,.2,pp.

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ウィリアム・モリスとバーナード・レヨ− − β・】 主義へのロマン的批判一一−−」の展開のきわめて切実で必然的な弁証法的帰結とし て到達されたものであるこ.と。第2に,とうしてモリスが到達した革命的社会 主義ほ.,『資本論tヨ(簿1巻)への本格的理解に立っており,歴史の弁証法的理 解の点,労働者階級の立場紅たち,労働者自身の階級闘争に.よってのみ革命を 達成しうるとした点,・そして労働価値論紅よる搾取理論に立脚して分配よりも 生産様式の変革を求めた点で,厳密に科学的,すなわらマルクス主義的であっ たということ。第3に.,晩年のモリスほ,運動に重大な頓挫があったあとも, −・旦獲得した科学的社会主義の立場をすこしも変更しなかったこと。以上が, 筆者が理解したかぎりでのトムスンのモリス解釈の大筋であった。 トムスンのこの本の刊行後も,モリスの社会主産の特徴ほやはり中世的・回 顧的な点にあるとして,そ・れをモリスのクラフソマン1/ツプのなかへ解消させ ようとする試みも依然跡を絶ったわけでほ.ないが(たとえば,ペグズナ・L−,プ ラドリーー),9)しかし大勢としてほトムスンの開拓した地平ほ不動のものとな り,近年のはとんどの研究ほ,クィリアム・モリス協会の活動をも含めて,そ の地平で遊行しつつあるといってよいであろう。 しかし,正確にいえば,モリス解釈の現代的水準において,あらためて重要 な・問題提起が,とくにポ−ル・メイエ−・ルの,トムスンの著書に劣らない大著 (仏文,1972年。英汎 2巻,1978年)10)によっておこなわれ,トムスソの解釈 ほ,ここにはじめて本格的な挑戦を受けた。メイ・エ−ルの論旨の詳細の検討ほ ぺつに.ゆずるとして,要するにメイエ」−ルは本吉で,モリスが明確な,しかも創 造的なマルクス主.義省であったことを,ある意味ではトムスンをさらに越えた 正統マルクス主義的見地から,膨大・網羅的・徹底的で周到な文献立証・叫一古 典的・ユ・−トピア的その他の思想要素のモリスへ・の影響の点検,マルクスの思 想およびマルクス主義が文献またほ、エンゲルス。グループとの直接接触をつう じて∴モリスにどう伝わったかの検討,モリスに・おける共産主義社会およぴそれ

PevsneI,Pioneers of MbdeY’n Designl:−from William MoY’YiSio

l穐Iter GroPi払S,revised PenguinBooks Edition,1960,pp.20−26;IanBradley, William Mo〃is and hisIVorld,Thames&Hudson,1978,pp.94−96,115

10)PaulMeier,La?ens6eutobiquedeWillamMorris,虫ditionssociales,Paris,

1972 Trl(!i‘:11L ML,rriゞ (Jt(;11<7r.tjゞ′ DJCd17L(r.t【.FIank Gubb、2 ヽ・OIs.. Harvester Press,1978

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香川大学経済学部 研究年報 20 ヱ9∂0 ∼ J − への過渡期たる社会主義にかんする著述に.おけるあらゆる要素の検出叫によ って,体系的にあきらかにし,とくに.,モリスがマルクス主義を自分の社会主 義的思想・行動の指針として受動的紅承認したという紅とどまらず,すすんで 積極的紅マルクスの理論を自己のものとし,かつみずからそれを展開させたこ と,モリスの思想ほ理想主義的でも夢想的でもなく,論点明確であり,過去だ けでなく現在および未来を包摂した歴史の階級闘争史的理解,搾取諸体制の弁 証法的な交替展開および資本主義から共産主義への移行(その過渡期としての 社会主義の介在)の理解など,輪廓明確感然たるものがあることを,鋭意かつ 説得的に論証した。 −・見,トムスンとメイエールとのあいだにほ基本的な論点のくいちがいはな いようにみえるが,イギリスのニュー・レフトの代表学究たるトムスンにあっ ては,既述の要約の3点のうち,第1の点が第2の点紅劣らぬ重要性をもつも のとして展開されており叫そのことはトムスンの著苔の副題からもうかがえ る鵬,マルクス主義者モリスは,あくまで19世紀イギリス独自の傍流思想た る“ロマン的反抗”に乗ったモリスの必然的,弁証法的な帰結としてとらえら れ,この動的なレフト過程の全体がモリス思想の独自な特質として強調されて いるとみられるのに対して,メイエ−ルでほ,完成された正統的マルクス主義 者モリスとい う固定的・ドイツ的な枠組みが先行し,いわばそれが前期のモリ スのロマン性を裁いており,前期モリスほ後期モリスの捨て石,もしくほ序曲 とみなされたという印象がつよい。はしなくもわれわれは,ここ紅.トムスンと メイエ−ルとから,初期マルクス問題とおなじ問題をモリスについで提起され たといえるであろう。ここまでくると,モリス解釈はきわめてソフィステイケ −テッドな水準に到達したこととなり,この解答は容易でほなくなるが,いず れにして−もトムスンおよぴメイエールの仕事ほ,とも紅,モリスの思想および 実践の諸内容が,この間題の検討に堪えるだけの豊富で特色のある実質を備え ていたことを示したと,たしかにいえよう。 それでは,トムスンは,メイエ」−ルの挑戦にどう反応したであろうか。その 回答ほ,トムスンの上記の著書の改訂版(1977年)によって,はぼうかがうこ とができる。すなわちトムスンは,まず,この改訂版の「まえがき」11)で,本

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ウィリアム・モリスとバーーデー・ド・ショー・− − 5 −一 番の本来の趣旨が,モリスの伝記研究というよりも選択的な解釈研究にあった こと,また,本書が,執筆当時の著者自身のつよい政治実践的姿勢と,しかもそ れがマルクス主義知識陣営の通念とくいちがったこととから,「ミックスした」 評価史を頂戴したけれども,ともかくもモリス自身は,「ヨ一口ツパ共産主義知 識人の第1世代の卓越した1員であり,・エンゲルスの友であり,べ」−−ベル,リ ープクネヒト,、エリナ−・・マルクス,ベルン1/云タインの同志,同僚であった.」 し,†H−当時の錯雑した脈絡のなかでマルクス主義的伝統に総体的に・関与し,この 伝統へ・の独創的貢献の重要度ほ,プレハーーノフやラブリオヲのそれにまったく 劣らない」のであって,こと笹「モリスの歴史的・・ユ」−トピア的思想がマルク スの黙した若二F論点を補充し,1880年代のマルクス主義者たちのすでに硬化し つつあった諸教条に.一億の改修を提起した点で,むしろ現代においていっそう 蚤要であること.」などを,指摘したのだった。 さらに,改訂版の巻末につけた長文の「追記:1976年」12)は,「まえがき」の 趣旨にあわせながら,−・方でほ,本番が本来,イギリス・ロマン主義のモリス による「転形」とその結果を,モリスみずからマルクス主義と統合させた点に, モリス社会思想の特色があることを論証しようとしたものであることを弁明す るとともに,他方では,この視点からモリス研究に.おける「モリス/マルクス 主義問題」自体を現時点で批判的に考察する必要があることを,詳細に論じて いるので,その状況を瞥見しておこう。 第1に,「追記こ1976年」でポジティグに弁明された力点として注目されるの は,本書が「中心的側面においては,ロマン的伝統および去リスに.おけるその 転形(tranSformation)についての議論」をおこなったものだとされ(その点 では,レイモンド・ウィリアムズの検討主題−−「功利主義へのロマン的批判」 一肌を,両人それぞれちがった側面について手がけたことに・なる,とトムスン はいう),18)革命的社会主義および史的過程の弁証法的理解へのモリスの到達 は,かれが「〔ilて統的〕マルクス主義に到達したからではなくて,かれを背後で 12)Ibidり“Postscript:1976,”pp.763−816なb,この追記は,多くの注で新文献の 網羅的紹介を行っている。 13)Jみメd,.,p.769

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香川大学経済学部 研究年報 20 ー 6 − ヱ9ざ() 衝きうごかしたロマン的伝統の力全体によるものであった」14)ことを,とくに 強調している点である。 トムスンは,とくに=Anti・Scrape”(古代建物保護協会,SPAB)時代にほ じまっていたモリスによるロマン的伝統の「転形_仁に.ついて,マルクスとの接 触に先だっラスキンの啓示鵬それは,「モリスが,か−ライルの反動的な“封 建的社会主義”を拒否してパゴシック様式の性質”〔.『ヴェネチアの石』第2巻 弟6章〕のラスキンをあたらしい意味のものに転じさせた」15)ことをさす仙 の重要な役割を再指摘し,16)すすんで,さらに巨視的に.ほ,モリスの審美的生活 のなかに,キ・−−ツからラファ、エロ前派にいたる審美観の展開紅よ・つて−青年期以 来着実に醸成されていったロマン主義の大きなi■軌道_璽があったから,そうし た啓示が可能となったのだと,トムスンほ考える。17)要するに,「■モリスは,そ の背後に転形されたロマン的伝統の力をいうばいに備えた,共産主義的ユ−ト ピアンであった」18)と,はっきりいってよいだろうと1するのである。これほ,諸 要素の分解整理と項目ごとの再構成という,フラン∵ス的な分類学的方法で,モ リスが忠実な正統的マルクス主義への帰順者だったことをもっぱら論証するこ と紅向かったメイ、エ−ルの静態的見地19)とほちがった,いわば伝記弁証法的と 14)J∂柑.,pp.782−783. 15)J∂紘,p.808 16)J∂id.,p.783..ちなみに,この啓示から得た教訓は,各時代の芸術は,その社会生 酒の表示であるという命題からすすんで,歴史の弁証法的な展開(「スパイラル」)を モリ.スに体得させたという点にあることを,トムスンは指摘するが,1880年紅モリス が唯物史観に立った叙述をしたとして引用した出典が,ただしくは1888年のものなの で,論旨上,このまちがいは盛大であろう。 17)′∂idりp、.808. 18)J∂摘.,p.792 19)メイエールの本の目次ほ,次のとおり(人名のファ−スト・ネ−・ムほ,省客)。・−−・一一一筋 1部:神々と悪魔たち。Ⅰ‖ 宗教。ⅠⅠいブルジョア的認識。第2部:諸想源と彫轡。前 文。Ⅰ.一ユ一−トピア文学(1いプラトー・ンとカンパネラ。2いモア。3.バトラ−。4.ジ ェフアリーズ。5ベラミ −)。ⅠⅠ・・中世主義とそのユ−トピア(1い スコット,キ・− ツ,ラファエロ前派,ブレイク。2.コベット。3,.歴史家たち。4… キリスト教社会 主義。5.カ一ライル。6.ラスキン)。‡汀マルクス以前的社会主義とその延長(1 バブーフ主義。2.サソーンモン。3。.フー・_.リエとコン1ンヂラン。4.ルイ・−フ●ラン。5 オクエン。6.ジョ一汐。7.無政府主義文献)。ⅠⅤいマルクス主義。第3部:共産主義 社会。Ⅰ‖ 未開社会か社会主義か−一一選択肢の弁証法。ⅠⅠ。.ユ−トピアの必要性。ⅠⅠⅠ

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ウイリアム・モリスとバ−ナ−・ド・ショー − 7 − もいうべき動態的見地から帰結した解釈であることが注目される。トムスン は,この解釈を,本書初版以後のモリス解釈史の進展を点検したうえで,あえ てみずから再確認したわけであって,当然あわせて,その点検状況をくわしく 述べて.いる。 すなわち貨2に・,この「追記::1976年」では,トムスンほ,かれ自身みとめる とおり,ウィリアムズ20)とおなじように/功利主義へのロマン主義的批判という 基底的主題のうえにモリスを据えながら,、この20年間にあらわれたモリス研究 著述群を網羅的に展望しているのであるが,とくに4人−−スタンリー・ピア スン,メイエー・ル,M.M.−H.アバンスール,汐ヨン。グッド鰍…の研究21)を 選んで重点的に検討を加え,そのさいの理論的考察視点として,なんらかの既 成の観念からする理論的枠組みによる「抑制」(repression)が真のモリス像を ゆがめ,それ自身あたらしいモリス神話−∬かつての反マルク.ス的・プル汐ヨ ア的なモリス神話とほ反対極のスタ1/オタイプ鵬をつくりだし,モリス思想 における重要な側面をこれに.よって切り捨てることになるのではないかという 問題を,追究していることが,注目される(この問題提起自体についてトムス ンほ,とくにアバンスールに負うとしている)。そして,ここでほ,4人のうち まさにメイエ−ルの著作が,現時点に.おける「正統マルクス主艶」ないし「■マ ルクス=レ−・ニン主義」という枠組みの提示者として,措定されている。この 枠組みほ,いわば「モリス→(・ユ一トピア的から科学的へ)→厳密・忠実な正 統マルクス主義者→大団円」とでもあらわせるような解釈図式(ただし,この 図式は,便宜\筆者のもの)を示すが,この図式ほ,モリス思想の特質のただし い把捉のために−・定の抑制的効果をもつのではなかろうか。トムスン白身,本 書初版においては,不可避的に相当程度にこ.の枠組みと解釈方法に.よる抑制紅 社会主義−−2段階。ⅠⅤ.第1段階。Ⅴ..第2段階・一国家の衰滅。ⅤⅠ.生産的話力。 ⅤⅠⅠ…「能力におうじて各人から」。ⅤⅠⅠⅠ.「欲求に.おうじて各人へ」。ⅠⅩ‖、日常生活の 美。Ⅹ.芸術および歴史の弁証法。ⅩⅠ.人間。結論。(以下客) 20)T血ompson,0♪.cJf・りp.7(;9

21)Stanley Piez・SOn,肋r扇sm andihe Origins ofBriiish Socialism.1S,73;M. M.・HLAbensour,“Les Formes de L,Utopie Socialiste−Communisteけ,thesepour le Doctorat d>Etat en Sciencepolitique,Parisl,1973;John Goode,“William Morrisand the Dream of Revolution”,in:John Lucas(ed.),Liieraiure

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香川大学経済学部 研究年報 20 − β − ∫9β∂ 服していたのではなかったか。22) このような反省のもとに,l・ムスン自身,メイ1エ・−−■リレのモリス解釈に・対して 1976年時点からの批判的吟味をおこなうとともに,正統マルクス主義的枠組み 紅よる解釈に対する他の3人のそれぞれの見地からの批判に注目したわけであ った。すなわち,ピアスンほ,イギリス文化に.おける「土着の知的な諸伝統」 たる功利主義,非国教主義,およぴロマン主義(カ十ライルおよびラスキンに 仲介されたものとしての)の土壌が,導入早々のマルクス主義を,また,マル クス主義とロマン主義との「合体」(.iunction)をせっかくたしか紅なしとげた モリスを,ともに.たちまちこの国の土着プルiyヨア文化に「同化」(assimilate) させてしまった点こそが,むしろモ.リス解釈上の根底問題だとして,メイエ′−− ルやトムスン(初版)の枠観みの無効を指摘した(ちなみに,トムスンは,こ の点に、ついて−ほ,ピアスンの提起側面を背走しながらも,反面,その「 ̄文化」 や「同化」の概念が没イデオロギ−・的・没政治的方面へ問題を拡散させ,歯ど めをなくする危険があることに注意を喚起する)。28)また,アバンスーールは,フラ ンス・マルクス主義内部の「左派」の立場から,アーノットからモーートン ,メ イ、エール,トムスン(初版)まで皆,マルクス主義的伝統のなかでのあたらし いモリス神話づくり鵬とくに「・ユ−トピア社会主義」規定の教条化のもとで, 社会主義2段階論以外にほおよそ・未来社会の考察を封じたままでの,モリス社 会主義の「科学性」だけの・−・辺倒的な検証作業−−−一に従事してきたことを批判 し,「■マルクス主義の伝統のなかで,ドメラ・ニ−ヴュンホイスとともに.=左派” に属した」とみられるモリスの社会主義の特色について「ユ一トピア的か科学 的か」という二者択劇を問うこと自体の無効さを,提起した。24) さらに.,グッドほ,モリスの創作的著述の意義が,ウィリアムズやトムスン (初版)のような政治論の決定論的枠組みでは過小評価されてしまうことを批判 し,モリスの社会主義も創作活動も,ともにその源泉ほ,むしろマルクス主義 22)本番の初版刊行(1955年)は.,1956年2月のソ連邦共産見第20回大会での公的なス ター・リソ批判以前であった。同年6月のボズナン(ポ−ランド)事件,10月のハンガ リー事件を契機に.,トムスンはソ連中心的なマルクス椚L′−・エソ主義と決別し,イギ リス的ニュ−・レフトとレての立場を鮮明紅した。 23)Thompson,OP.、Cii・,pp1773−779。 24)′∂よdりppl.786−794..

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ウイリアム・モリスとパ−サード・ショー ー・9 − との出会いに先だったとこ.ろの,文明をめぐる「疎外」(alienation)の認識と 文明絶望とへの主体的対応にあったし,また,モリスに.おけるロマン主義とマ ルクス主義との統一・の事実も,かれの内面における疎外状況を止.揚せず,つま り大団円とはならず,したがって『、ユ−トピアだより』はぺレミスティックな 作品であり,晩年のモリスの創作活動は,マルクス主義の決定論的展望の枠と かれ自身の革命的心情とのあいだの緊張の表現形式となったのだとした。25) そ・してトムスン自身は,改訂版の時点で,正統マルクス主義的モリス解釈の 枠組みの抑制的効果に.ついてのこれら3者の問題提起にあらためて全体として 同感しながら,しかしけっしてマルクス主義的伝統の放棄ではなくて,そのな かでの正統派的枠みの弾力化と拡大とを要望するという鱒地から,メイエール の「重厚でしばしば有益な」仕事の丹念で網羅的な文献立証ぶりを評価すると ともに,その解釈姿勢に.率直なきびしい批判を加えている。28)すなわち十ムス ンほ,モリス/エンゲルス関係や,社会主義同盟(SL)の『宣言』の付記夢 C項(モリスが起草。社会主義の2段階論およびスパイラル進行論を含む)の 思考の創始者の推定にかんして,メイエ−・ルがモリスをもっぱら無知で追随的 な学び手として前提したまま推論している点紅反論するとともに,とくに.,モ リスがすぐれてラスキンからの啓示でみずから革命的に.転形(tranSform)さ せたイギリス・ロマン主義の伝統の意義を,メイ、エ−ルが,過小評価し,マル クス主義が−・方的にロマン主義を「クチバレや羽軸もろともたぺてしまうこ.と ができた」27)かのようにみなして,「モリスの思想の本当の原動力についての理 解を失う」28)ことになったことを,批判したのであった。 トムスンによれば,「セリスがマルクス紅負うとして認めたものは,歴史過程 紅ついての全面的なあたらしい啓示ではなくて〔−その啓示ほ,すでに.ラス キンから獲得ずみ鵬筆者〕,l…‥資本制生産様式の諸効果についての特殊な理

解なのであった。」29)これは,たんに「マルクスによるマルクス主義への転回」と

25)J∂よd.,pp.794−799 26)J∂∠−d.,pp,780−786 27)J∂よd.,pい785. 28)∫∂オd.,p.783. 29),30)′∂∠d.,pu784.

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香川大学経済学部 研究年報 20 −ヱ0・−・ ヱ9β0 してサーませることでは,ない。モリスの場合は,「−2つの強い伝統の統合」なの であって,マルクス主義は,ロマン主義を抹殺したのちでないと,主権を握れ なかった。」30)だから,たんにモリスのロマン主義に一・定のマルクス主義諸観念 が「添加」されたとするピアスンの見解も,モリスがマルク欠主義者紅なった とき,ロマン主義=理想主義から「脱脚」したと判断するメイエーールの見解も ー ともに支持できない,とトムスンは断定する。要するに,モリス研究の現代的 意義ほ,モ.リスのマルクス主義者としての適格化過寮の検討よりも,モリス紅 よるロマン主義の転形作業(モリスとモリス主義との関係)の把握と,かれがそ れを通して得た未来社会への独特な展望とにあり,あわせて,それを受容しえ ない正統マルクス主義的枠枠組みの硬直した狭さと抑制作用を改貸して,社会 主義の未来のためにすて‖こアバンスーリレも例示した「新ユ−・トピア主義」(たん なる法制・政治的モデルづくりという古典的ユ・一トピア主義とは区別されたも のとしての)の系譜をふまえて,あたらしい・ユートピア論を喚起させることに

ある。したがって,いまやモ.リスほ,「マルクス主義者でもあれば,・ユ・′一トピア

ンでもあった」31)と遠慮なくいっていいし,「共産主義的ユートピアン」32)だった とも揚言していいだろう,とされる。 さて,.以上のようなトムスンの最近の見解に対しては,当然各方面からの反 響,ことに.正統マルクス主義陣営からの反批判が予想され,いな,すでに有力 な反撃もあらわれつつあるようである。33)また,筆者の率直な印象として,あ らゆる解釈ほ理論的な枠組みを必要とするし,トムスン自身のロマン主義「転 形」説という枠組みからさえもまた,あるいはモリスがどこかヘイグェL−ドし てゆきほすまいか,という一・抹の不安に駆られるものがある。グッドの試みが, その可能性を示しているといえなくほないだろう。が,ここでは,もほやその ゆくえ紅は立ち入らない。筆者がここであらためて関心を集中したい点は,と もかくもトムスンが,みずからの本格的・画期的なモリス研究のあと,なお20 年間のパ・−スぺクデイブと,そのあいだに.進展したモリス/マルクス問題の省 31)J∂‘dリp.791. 32)J∂Jdりp..792.

33)Perry Anderson,ArgumentlS Wi’thin EngliSh Marxism,Verso,1980.Cf William Morris Society,Newsletler,140ctober1980,p.7

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ウイリアム・モリスとバーーナ・−ド・ショーーー −−ヱヱー一 案とを,アカデミック・実践両面でふま.え.て,あらためてイ・ギリス・ロマン主 義のモリスーこよる「転形一」という表現のもとで要約的に屑確認した事実の諸内 容が, モリス思想の理解のためにきわめて大きい重みをもつにちがいないとい うことである。そして,この事実の具体的内容と経過とがどのようなものであ ったかは,もとよりトムスンの部厚い研究の全巻をつうじて,しかしとりわけ その策2部第7・第8章(改訂版でほ,それぞれ発6・第7章)叫 および第4 部を中心として,精力的・情熱的に∵解明されたところであった。ただ,その「転 形」の論証のポイント検出作業ほ,「必然と欲求」(第4部の表題)の論理を中 心とした豊富な脈絡からする議論の展開のうち紅,当然とほいえモリスについ て即自的に,すなわち総じてモリス紅絶対内在的におこなわれ,つまり誰かモ リスとほタイプの興る▲適当な思想家との.財鮫に.おいて対自的にほおこなわれて いないため,この「庵形」がモリスに独自のものであった所以,その客観的必 然性の説明が,もうひとつほっきりしないよう紅筆者に.は思われるのである。 そこで筆者は,モリスと対置すべき思想家一芸術家であると同時に.社会主 義者でもあり,スケ−−ルに.おいてモリスに.匹敵し,かつ,年齢こそ大きくちが え,社会主義眉としての活動中心期についてほ.モリスと同時代人■であり,また モリスと格別に親しくもあった思想家十−として,大胆な試みだが,G.B.ジョ

ー(George Bernard Shaw,1856M1950)を選んでみたいと考える。もっとも,

おなじく芸術家だといっても,モリスほ主とし■て詩人。エ匠(ノ\ンデイクラフ ツマン,またほ.簡単に,クラフソマン)・建築=装飾芸術家であったが,レヨ−− の本儀は,音楽=文芸評論と劇作とにあぅた。また,おなじく社会主義者だとは いえ,モリスほ,一億線紅革命的社会主義者=マルクス主義者となり,死ぬまで かわらなかったが,ショーは,19世紀でほフェビアンどまりであり,また,20世 紀に.入ると静々のニユアンスを着脱するコレクティダイストとして長命したか ら,レヨ−の思想の全体像の問題は,それ自身−・筋縄でほゆかない性質のもの であろう。しかし,便宜およそ・世紀転換期ごろまでのレヨ・−をモリスに.対比さ せてみるとき・,両者の類似と相違,共鳴と反発ほ,−・方ならぬ交友関係のもと できわめて興味ある相互照射を示していると考えられ,その状況の吟味は,両 34)初版908ぺ一汐に対して,改訂版ほ,Ⅹiii+825ぺ・−ジで,全般的紅絹小されている。

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香川大学経済学部 研究年報 20 ーエ2一− J9βク 者の思想の特質とその必然性を相当程度に浮かびあがらせるのに.役立つのでは あるまいか。 あらかじめいえば,筆者として.は,トムスンが鋭意解明したところに.従って, イギリスに.おけるロマン主義または「■ロマン的反抗」の伝統のモリス紅よる継 承とその終着的「\転形」は,当初からラスキンの強烈な啓示に導かれて発足し たモリス自身の反功利主義的芸術精神が,それ自身はミドルクラス個人主義起 源のものでありながらも,とりわけ視覚芸術仙一絵画・’建築・装飾…の独自 な民衆的・クラフソマン的な実践に集中・展開し,この実践に.おいて醸成され た芸術・社会の階級性・歴史性紅かんする切実な具体的な弁証法的問題認識が モリスをしてブルジョア個人主義からの階級飛躍をとげさせたという経過のう ちに.,基本的に自律的な帰結として態成されたものであり,マルクスとの出会 いがとの「転形」のいわば画竜点晴的な契機となるとともに.,35)すすんで,こ の「転形」の結果の全体が,社会民主連盟(SDF)参加やエ.ンゲルス・グル ープとの交流を踏み台とする革命的社会主義運動への全面的参加を契機とし て−,ついにマルクス主義とのフルな融合・合体をとげることとなったものと, 理解したいと思う。 そして,こうしたモリスの思想・実践の展開とちょうどあいならんで,あた かもモリスが選び残したもう1つの平行する道を歩むかのように,レヨ−は, モリスが視覚芸術(visualarts)またほ装飾芸術(decorative,Orlesserarts) と対置させたところのもう1つの芸術汐ヤンル,サーなわち思考芸術(medita・ tive arts)または知性芸術(intellectualarts)の遥を,Vェリ−やワグJLJ−Iの 強い啓示によってまさに選び,小説,音楽=文芸評論,ついで劇作に転進する とともに,筆者の見解では,この知性芸術家としての個人主義リアリズムとい う名のミドルクラス・ロマン主義の推進面に.おいてレヨーーが文学的アナ−キズ ムへと拡散しようとするのを,いわばもう1人のレヨ−,すなわちブルジョア 社会主義者(フェビアン)がプレ一−キをかけるという,レヨ・−独自の二元論的 思想世界が展開されたと考え.られるのである。ちなみに,この点,おなじフェ ビアン枢軸でありながら芸術的関心をまったく欠いていたクェツプ夫妻に.は, 35)Thompson,OP.cjt・,p.785.

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クイリアム・モリスとノく一−ナ・J−ド・ショーーー ¶・Jβ− そうした問題はほじめから存在せず(一一・定の意味でヒュ.−バート・ブランドを べつとすれば,他のフエビアンたちもみなそうであつた),この意味でクェツプ 夫妻ほ,モリスとの対比に.堪ええないであろう。 筆者は,以下,このように芸術および社会主義払おける平行した2つの道を モリスとレヨ∵・がそれぞれ典型的に歩んだと考えられる状況を,とくに両者の 交流が始まってからモリスが死ぬまでの期間に一一応限定して考察し,それに・よ って,第1に.,モリス紅独自な装飾芸術と社会主義との本源的に一元的な関連 状況の展開を中心に,かれのロマン主義「一転形」の位相を筆者なりにより明瞭 ならしめるとともに,策2に,レヨ−のフェビアニズム選びが,レヨ一自身の 述懐の表現では「本能的な感じに.よって導かれた」36)という,その嚢の意味, サーなわち知性芸術家ショ−と社会主義者レヨーとの連結の・一・種アーティフィレ ヤルな性党を,なにはどかあきらかにすることに努めてみたいと思う。この課 題は,あらかじめいえほ,とりわけ芸術と社会主義との基本的関係を両者がそ れぞれどう考え,また反応しあったかという点を中心として対比考賂87)するこ と紅よって,おのずからとき掩ぐされてくるのではあるまいか。すでにレヨ′−− の側からのA.ヘンダースンやIi.ピアスンの観察を端緒に,ア−・ノットやス トークスやベイレ∵/の研究にもみられるよう紅,38)モリスとレヨ一−の比較研究

36)G“Bernard Shaw,The Fabian Societ.y・=ItSEaYl,γHistoY二y,Fabian Tract

No‖ 41,1892,p.4

37)部分的考案として,拙稿「シ′ヨ−・におけるフェビアン社会主義の確立過程」,『唇川 大学経済論温』,第50巻第3・4合併号,1977年10月。

38)Archibald He:1derson,Bernard Shaw,Playbo.y and Probhct,W.Appleton, 1932;ditto,George BerjlaYd Shaw,Man qfthe Ceniw.y,W.Appleton,1956; Hesketh Pearson,BeY’)7ar’d Shaw,His Life and Pcrsonality,Methuen,1942&

1961;R.Page Arnot,BelnaTd Shaw andl酢lliam MoTYis,TranSaCtions of the Wiiliam Morris Society,1957;E.E。StokesJr.,〃William Morris and Bernard Shaw:A Socialist・・Attistic Relationship〃,unpublisheddoctoralthesis, Univ.of Texas,1951;ditto,“Shaw and Wi11iam Morris”,TheShawBulleiin, No.4,Summer1953;ditto,“Morrisand Bernard Shaw〃,ThcJournalqf’

William Morris Societ.y,Vol.Ⅰ,No。1,Winter1961;JamesW。血1se,Rez)0

J〟タメ♂〝メ\ざわメ〝エβ〝♂のg:A∫f〟(わ,q/■ダ如 と加〃/朗od∂∬ ∫oc∠αJよβfざ,0ⅩfoI・d U.Pり

1970,eSppp‖122−130;Joseph O‖ Baylen,“George Bernar・d Shaw and the

Socialist League.SomeUnpublished Lettersハ,Iniernational斤evieu,OfSocial 月わわγ・γ,Vol.ⅤIl,1962,Pt.3

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香川大学経済学部 研究年報 20 ユタβ0 ーJ4− ほ,近年それ自体ようやく1つのデー・マとされつつあるといっても差支えない が,ここでほ,上述の視点から問題を限定したうえで,筆者なりめ接近を試み たい。なお,両者ともそれぞれ本来参照すべき私的伝記事情も多いが,本稿で ほ.,あえて必要最少限以外,その側面にほふれないでおくことにするム 以下,順序として,まず両者の社会主義者としての歩みの側面における異同 状況,また,当時の社会主義運動を背景としての両者の相互接触の経過に伴っ て,それぞれの社会主義思想がどう対応しあいながら推移したかについて;基 本的事項を確認することから出発サーることに・しよう。 ⅠⅠ まず,社会主義者としての活動をめぐる両者の基本的共通地盤と対立点につ いて−。両人とも,1880年代(とりわけ,1883年以降)のイギリスのいわゆる「社 会主義の復活,」期において,きわめて顕著で代表的な社会主義者として,執筆 に,講演に.;そして屋外集会でのアジテ−レヨン世精力的紅没頭した点で共通 している。だが,労働史家たちが,今日では常識として注意するとおり,89)・一 般に1880年代の「社会主義の復活」は,いまだ労働運動の高給紅直接支えられ たものではなく−−労働運動がリベラル・レーーパ一時代から脱してにわか紅高 まるのは1889年のロンドンの港湾労働者スト以降,すなわち90年代であって, 「社会主義の復活」の衰退といわばすれちがいに.ニューー十ユニオ土ズムが発逸 し,それが独立の労働者政見づくりの母胎となるのである冊,むしろまず, 圧倒的に.イギリス・プル汐ヨアジ′−の自己認識,すなわちこの国のブルジ ョア 知識人に.よる“middle−Classconsciousness”の展開,紅もとづいていたわ あって,モリスもレヨ」−も含めて,この時期に活動したはとんどすぺての社会 改良家。社会主義者たちが皆,この共通基盤紅樺さしていたし,その点,「社会 主義.」または「共産主義」という用語が最初に・この国で用いられたときに・意味 したオクエ.ン主義がヴィクトリアン。ミドルクラスの自己認識の初発形態であ らたことと,前後符合したものといってよい。 しかし反面,パリ・コミュ−ン後の大陸およびアメリカの近代的社会主義お 39)たとえば,E。J.Hobsbawm,“BernardShaw’s Socialism”,ScienceandSocieiy, Vol.XI,Fal11947,pp.305−308,31ト312.

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ウイリアム・モリスとバーナ・−ド・ンヨ−・ −ヱ∂− よびそれに準ずる諸思想が,70年代後半の「大不況」(この国初の最期恐慌)に 触発された失業・貧困問題の深まりとそれへの保守・自由両党の対応失敗とに 伴い,多くの亡命家群による啓蒙,その著書の導入,直接の訪英講演等のかた ちで80年代に顕著に移植。宣伝され,従来のせいぜいミル的土地改革思想どま りだった単調な状況を−・変させ,上記の基盤のうえでではあるが,この国では じめ・て近代的な水準で,星雲状態的な革命的寡聞気をかもしだしたわけであっ て,加えて,社会主義諸団体ほみな当初の相当期間,それぞれ未定型なままに 多少とも実質改良主義的,革命的および無政府主義的な要素を同時併存させて おり,この状況ほ1886年ごろまでほ継続したとみてよい。民主連盟(DF,18 81年6月発足。84年8月にSDFに改称)ほ,当初相当期間,かならずしも革 命的旗傾がほっきりしなかったし,また,レヨーが述懐しているように・,フェ ビアン協会も,ある時期までじゅうぶん叛乱的であった。40)こうした−・般脈絡 におけるモリスとレヨ・−の社会主義者としての共通性が,まず確認できよう。 しかしながら他面,両者の社会主義の内容は,当初からたがいに大きく,根 深く異っていた。モリスほ,50歳ちかくにもなってから,.丁.S.ミルを反面教 師として−DFに参加する(1883年1月)とともに,バックスらのエンゲルス・ グル−・プの手はどきで『資本論』第1巻(フランス語版)によ・つて本格的にマ ルクスを学び,その全精力をあげてまっしぐらに全面的に革命的社会主義=マ ルクス主義に突入し,やがてそこから分裂したSLを,またさらにそこから分 離したそのノ、マ・−スミス支部だったハマ・−スミス社会主義協会(HSS)を,率 いながら,終始マルクス主義を横槍しつづけ,みずからは富裕なイギリス・ミ ドルクラスの1員であったのにかかわらず,それとの断乎たる「絶縁」(りre・ nounce”)を宣言して唯物史観に立脚した労働者階級の立場に.立ち,富裕だっ たとはいえ資産を運動のために投じて惜しまず,階級闘争とプロレタリア革命 の主張を続けてかわらず,またその点,議会的政略や具体的政策立案ほブルジ ョアi>−に.資するのみとして,その一・切を「慎むこと」(“abstention”)を主張 した。あわせて,これはモリスにとくに特徴的な主張だが,革命に」句けての「不 満」(=discontent”)醸成の芸術・社会教育と,革命の暁の未来社会の本義をlユ ニ−・クに説いてやまなかった。−だが,.以上ほ,じつはごく建て前的な側面で 40)Shaw,T如ダα∂iのト釣肌e頼,etC・,pい4,

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香川大学経済学部 研究年報 20 J9β0 −−ヱ6− の・モリスの革命的社会主義の要点にすぎない。 モリスの顕著なとうした革命的社会主義そ・のものを存.立させた独自な要因 ほ,な紅であっただそうか。この点モリスには.,.以上の晩年の社会主義者とし て−の楕動期に先だち,1876年以降の自由党の急進的立場からの政治活動展開期 があるが,さら鱒その前紅は,1864年の病気以来のながい没政治的な芸術実践 専念期がある。これらをつうずるモリスの転進の全体像を,マッケイルほ,「芸 術家や文人によくありがちな」自然の資性だとして−,「かれの生来の社会主鼠」 (=hisinnate Socialism”)と呼んだが,41)これは,モリスをポへ・ミアン化するこ とで問題をはぐらかす中途半端な解答でしかあるまい。トムスンの大著が挑ん だのは,まさにこのような解釈軋対してであった。すなわち,モリスの芸術観 自体濫,かれの革命的社会主義を必然的に導く独自に明確な要因があったので ほあるまいか。あらかじめいえば,モリス社会主義の夷の特色ほ,その芸術観 の特色に.帰着するものと考えられる。こ.の点ほ,後段で吟味しよう。 それ紅対してレヨーは,モリス同様ロンドンを中心紅活躍したミドルクラス 左派知識人だが,文人としてのこの地位は,ダブリンの没落旧家の崩壊家庭か ら遁走して独力で苦学力行しながら,ひとえ紅卓抜なかれ自身の才能によって 早くに.獲られたもので,しかも聡明なかれほ,この地位を,その罪意識と−・終 に獲得したものと思われる。かれは,モリスとは異って,せっかく苦心して得 たドルクラス知識人としての立場を維持して,プロレタリア−トの立場とは鵬・ 線を画する旨を公然と練りかえしながら,同時に社会主義を志し,H.、ジョーージ にインスパイアされて当初SDF集会にも出て,『資本論』を知り,しかし「本 能的な感じによって」フェビアン協会(FS)を速んで加入し,・だが同協会の 初期の戦闘的な星雲状態下の論議と思索ゐなかで,モリス同様,一一・且『資本 論卦に深く感銘・共感し,以後しばらくマルクス擁護の第一\人者たることを自 負しつつ論陣を張りながら,やがてノ、ムステッド研究グループのなかで汐エグ ォンズ経済学に洗脳され,42)「近代社会主義」紅ほマルクスの価値論は.不要だと 宣言するにいたり,汐ヨ−汐やS.クェッブの教示紅よって最大限に拡充され たリカ−ドゥ的レント概念をマルクスの剰余価値範疇に置き替え,収奪者は国

41)Mackail,OPりCit.,World>s Classics Edition,1950,i,p“348.

42)参照,拙稿,「■ショーとクイックステイ−トーーーーーーイギリス社会主義思想史のひとこま −、・」,香川大学経済学部『■研究年報』15,1975年。

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ウイリアム・モリスとバ−ナ−ド・ショ− −ヱ7− 民全員であるとし,この理論を限界効用理論と合成してフェビアニズム独特の 経済理論(分配社会主義)をみずから、つくりあげるとともに,『資本論』から は形而上学でなく,もっぱら歴史を学べ,と称しながら,43)じつは唯物史観の かわりに,クェップ夫妻や他のフェビアンと同様,たんに進化論的歴史主義を 修得したと解される。44)こうして,周知の議会主義的・漸進的に.分配の平等を 目ざし,その−∵助として行政の社会化(自治体社会主義)や公営企業と私企業 との競争などを政策論として打ちだすところのブルジョア社会主義=フェビア ニズムの最も戦闘的な宣伝家となり,クェップ夫妻ととも虹フェビアン協会の 枢軸となって長命しながら,総じて無知。愚昧で政治的組織力もないと考えら れる労働者階級に虐按訴えるかわりに.,主としてミドルクラスにその立場を「 渉透」させることに努めた。つまり,レヨ−の社会主義の特色は,そのままフ ェビアニズムのそれにほかならない。−・だが,以上もまた,あらかじめいえ ば,じつはフェビアンとしてのレヨーの表面的特色の要約にすぎないのでほな かろうか。 第1に,レヨ−ほ,90年代,とりわけ20世紀紅入ると,フェビアニズムの表 見的な思想上の栄光拡大(「フェビアン神話」の自己宣伝的成立)とほ裏腹な実 践的諸挫折の進行−−ニーー・方でほ,実質的に有効な社会経済政策にかんする自由 見のり−・ダーシツプの確定,他方では,ニユ−。ユ・ニオニズムとの交流不能に もとづく労働者政党づくりからの遊離45)−Ⅶに事実上失望し,この二元的結末 に興ざめて,しだいに協会の第一\線から退き,やがて,おそらくその埋めあわ せとして「生命力」概念を用いたあたらしいコレクティブイズムの再構成に向 かうことになったと推定される。発2に,総じて以上の過程の背後に,じつは もう1人のレヨ」−−¶知性芸術家一一一・・・・・がいて,レヨ」−の社会主義を不断に裏口 操作していたのでほあるまいか。すなわち,かれの社会主義がフェビアニズム であったあいだは,それを相対的・選択的たらしめるように,ま−た,やがて 43)参照,拙稿,「G.‥バ−サ一−・ド・レヨ−〈カ−ル・マルクスと『資本論』〉(訳)」, 『香川大学経済論叢』第49巻第1号,1976年4月.. 44)参照,拙稿,「レヨ−,ワイルド,クェツプ大数−−−歴史意識をめぐって−一−−」,香 川大学経済学部『研究年報』18,1978年。 45)Cf.A小M∴McBI・血■,ダα∂査−α乃∫βC∠αJ査川れ即紹∴軌確煩■1Sカタ¢Ji軌√S,Jββ4−J9ヱβ, CambIidge UりP。,1962,paSSim.

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香川大学経済学部 研究年報 20 ヱ9β∂ 叫−ヱg− 「生命力」主義者になると,みずからの社会主義を−・膚のファレズム的思考(超 人主義)に近づけるように.,それぞれ規定したのでほなかろうか。つまり,ジ ョーーのフェビアニズムは,以⊥二義の意味できわめて二元的,相対的である点 に,その本当の特質があると考えられる(ちなみにモリスの革命的社.会主義も, クェップのフェビアニズムも,それぞれ独自の意味で,ともにきわめて−・元的 ・絶対的であるといえよう)。この点もまた,後段で観察しなければならない。 以上,われわれは,社会主義にかんするモリスとレヨ血の立場の異同点につ いて,一応基本的事項を瞥見した。次軋,当時の社会主義運動のもとでの両者 の私的および思想的相互接触関係の推移について,素材を社会主義思想そのも のに限定して,人筋をたどることに.しよう。 モリスほショーーより22歳あまりも年長だったけれども,社会主義者としての 中心活動期については,両者ほ完全な同時代人であり,しかもこの期間中,瘡 接に/不断に接触しあい,識りあってからモリスが死ぬ1896年までのあいだ,社 会主義湛.ついての上述のような基本的対立紅もかかわらず,いわば肝胆あい照 らサともいうべき,きわめて親密な友散開係鵬あるいほむしろ,芸術上の大 先輝と新進後輩という関係を伴・つての,社会主義者としての知的な盟友的関係 ・肘を樹立・継続してかわらなかった。両者ほ,1884年春のSDFの1集会で はじめて出会った。ハマ小・・・・・ スミスのモリス宅(「ケルムスコット・ハウス」)の 馬車庫が社会主義集会用に改造されて毎週日曜日の佼に開放され,その集会後 に報告発表者がモリス家の晩餐に招待されるという習慣紅うまく乗って,レヨ −は,たちまちモリス家の常連客の1人となった。かねて1876年,ダブリンの 崩壊家庭から志を立でてロンドンに出て,なんとか芸術関係の文筆活動で生計 を支えるぺく,やみくもをこ読書するとともにノ」\説を書きためながら(計5点, 79−83年執筆),必死にミドルクラス知識人の世界に一人前に出入する資格を得 るための弁舌術や礼儀作法や速記術を,そしてとくにJ/ェ1−の啓示で1881年 初に菜食主義を,それぞれ学んで「自己教育」する無名の貧乏背年だったが, こうした努力でみずから獲得した知的新環境のなかで,各種の討論集会,講演 会に出席し,とくに1882年9月のへ・ンリ・−・ジョーージの講演にインスパイアさ れで以来,に.わかに社会問題に・目ざめつつあった。はじめてモリスと会った時 舟では,ショーーほ,モリスの芸術家・コニ屈としての名声を知りながらも,いま

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クイリアム・モリスとバ−・ナ−・ド・ショ− −J9− だモリスの業績の内容についてはわきまえるところが少なかったが,レヨ一に. とってのモリスの業繚と人柄と,そしてその富裕な家庭環境など,幾重ものつ よい魅力のほどが,察せられる。 他力モリスほ,レヨ」−・と会う以前,後者が最初に.公表した小説『非社会的な 社会主義者』(A〝〃〝ざ〃CブαJ助cよα/∠5・才)46)をフエビアン派の『ツ・デー・』誌上 で興味をもって読んでその有能さを知っていたから,直接交流も,当初から大 いに進んだであろう。やがでショーーは,しばしばモリス宅でくつろいで原稿書 きをしてさえいる。こんなかたちでのレヨー・のモリス家への接近が,社会主義 ぎらいのモリス夫人から,故意か偶然か,牛脂入りスープを知らずに棋らされ たり,・仙・時モリスの次女メイとのプラトニック・ラグが進んだりするというエ ビソ−ドをも生んだことほ,のち,レヨーー自身が回顧しているとおりである。47) だが他面,両者ほ,社会主義運動のなかで出会い,しかも社会主義上の両者 の見解のちがいは,早々にたがいに.明白になり,その面でほ両者は,′モリス存 命中はいわばイデガロギ一的にしらけた間柄でありつづけたことが注意され る。この点,ストークスも,「 ̄レヨ】−は,社会主義者としてモリスと出会った。 1884年春のSDFの集会でのこの出会いは,両省の関係の基調を決めるのに.大 きく作用したわけであって,この基調ほ19性紀末社会主義のり文脈”のなかで つねに考えられなければならない。‥…社会主義運動のなかでショーー】とモリス が単受した交友関係ほ,イデオロジカルというよりもむしろパーツ・ナ・ルなもの だった」4S)と注意し,この観点から社会主義運動における両者のパ・−・ソナルな 友情的連帯関係の継続にもっぱら注目した。そしてストークスほ,私的に腹蔵 なく両者が語りあった話題が芸術・文学方面であったこと,この側面では両者 ほ,「とりわけてディケンズやラスキンなど,多くの共通な好みをもち,芸術・ 建築紅かんする2人の見解が多くの点で一・致集中した」こと,「ラファエロ前沢 へのレヨ−の共感がモリスとの交際によってつよめられ,両者の芸術観の交換 46)To・Day,New Series,March・December1884。この雑誌掲潮時ほ,無署名。1883 年執筆。単行ほ,1887年。

47)Shaw,“Morris asIKnew Him〃,in May Morris,William MorY’is,Artist,

lyグー〟〝,5∂CよαJよ・ざ≠,2voIs.,1936,Vol.ⅠⅠ,pp、ix一ⅩⅩ,ⅩⅩiii−ⅩⅩiv

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香川大学経済学部 研究年報 20 −20− ユタβ0 をうたがいもなくいっそう容易にした」こと,また,モリスのアーツ・クラフ ツ運動や讃:籍装偵への関心に.ついてもショーほ影響を受けたことを,あわせて. 強調し, こうした芸術面でのショ−のモリスへの心からの高い評価と賞讃が継 続したことを,くわしく跡づけている。 だが,ストーークスは,芸術観だけでなく,社会主義観をも含めたモリスの思 想全体のショーに対する永続的影響ほ,モリスの死後にはじめて−あきらかにな ったとして,「最終的分析」におけるレヨ−−のモリスとの関係,およびモリスか ら受けた彫幣を,「舞1に,モリスの影響軋,ショ−の社会主義を広げ,ヒュ ーマナ・イズし,さもなければ冷たく統引的なフェビアニズムどまりとなったほ ずのものに,暖かさと色彩とを添えるという効果があった。さらに,モリスの 簡例ほ,他の若干フェビアンたちとほ興った人としてのレヨーをして,基底的 社会変革が導かれるべき目標をば,いっ・そ・うほっきりと念頭紅眉かせることと なったし,また,20世紀におけるショ一−のマルクス的革命主義への部分的逆転 に役だちさえしたかもしれない。最後に,モリスは,他の場合もさりながら, その特殊に社会主義的な著作において,日常生活に/おける芸術の壷要性を強調 したが,この強調点は,レヨー自身もまた説いて倦まなかったところでもあっ た。実際,モ.リス自身の蚤要な達成事項の1ったる芸術と社会主義とのリンク ということほ,ショーのモリスとの関係における第1重要点であり,レヨ岬自 身の見解に大きな役割を果たした。おそらくこの点こそ,両者の関係の最も重 要な知的結果だと考えてよいであろう。」49)と要約している。一−しかし,以上 のストー・クスの言克明は,全体としてム−ド的なばかりでなく,重大な飛躍をお おいかくしているのではあるまいか。というのも,モリスの存命中の肝心の社 会主義止の両者の探い対立点をめぐる経過の考察を伏せているからである。む しろ「1930年代にショーーが述べたよう紅ほ,両者の関係ほかならずしもつね紅 スム−ズで静穏なものでほなかった」叩ことを強調するノ\ルスの見解のはうが, 基底問題に肉迫すると思われる。さらに,ストークスの要約の第3点ほ.,疑問 であり,後段で点検するとおり,むしろショ」一については逆なのではないかと 考えられる。以下,ハルスの確認した状況を中心参考としながら,両者の関係 49)J∂よd小,ppい18−19 50)Hulse,β久(〃,p.123.

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ウィリアム・モリスとパ・−ナード・ジョー −2ユー の経過をやや詳細に拾っておこ.う。 ⅠⅠⅠ まず,モリスがショー・・の社会主義的文才と宣伝力を愛して,SLの機関誌 『ザ。コモンウイール』編集中,ショ」−の投稿をしきりに.誘ったことは事実だ が,その内容についてしばしばトラブルをかもし,モリスはJ/ヨ−をやわらか くたしなめるために気を使っている。たとえば,1885年3月にショーが投じた, 当代の性慣習を批評して社会主義の場合を推論した1稿は叫,モリスから,自 分としてほ内容に異議ほないが,SLのメンバ−たちが反対するおそれがある として,返却して‥いる。また,翌86年5月4日何のモ・リスのレヨー宛の手紙52) ほ,投稿を依赦しながらも,条件をつけ,「冗談はべつとして,われわれの承認 ずみの政策と員正面から対立するような論文ほ.頂かぬはうがよいと思う」の で,「経済論,たとえばジュグカ・ンズと取り離んだもの」を願う,としている (ちなみに,その1年余り前に∴レヨ−・はクイックステイードのマルクス『資本 論』批判へのかれ−・流の試験的反批判58)を書いていたので,モ.リスは,この手 紙の時点でもなぉH/ヨ−が依然同じ見解でいるものと信じたのであろう。じつ はレヨ岬白身ほ,それを書いた直後の85年後半から86年初にかけて,既述のと おり,ハムスタッド地区での研究会でクイックステイ−ドらに直接再教育され て,コぺルニクス的紅旋回し,ジュグォンズ経済学そ・のもの紅急速に.帰依しつ つあったのであるが,54)モリスはショ」−・のこの重大な経済思想上の変化のこと を,まだまったく知らなかったものと思われる。そして,ハインドマン的教条 主義からは自由なレヨ−の先刻の独特な『資本論』擁護を,とりわけ欣快とし たのであろう)。

51)Shaw Papers,British Museum,Add.MS50693.Cf.Hulse,ibid 52)IbidりBI・itish Museum Add.MS50541(provisionalCategOry),Quoted:Hulse,

ダ∂ゴd.

53)Sha20,“TheJevoniazICriticism of Marx.(A Comment ontheRevいP.H Wicksteed,sArticle)〃,To・Da.γ,NewSeries,Vol.ⅠⅠⅠ,No.、1,January1885,pp. 22−26.その訳を,前掲拙稿「ショーとクイックステイード」紅収めてある(28−35ぺ

−ジ)。

(22)

香川大学経済学部 研究年報 20 ー22− ヱ9β0 他方,1885年1月から87年10月までのあいだのレヨ叫からSLの書記宛の残 存書簡計22点55)を点検すると,モリスを経由しないSI.へのレヨ−・の見解は全 体として暫城的で,i/ヨーへの講演の依頼のための情報提供の不足への不満 や,講演テ−・マにかんする解釈のゆきちがい,そうした口実によるレヨ・−・の依 頼拒否などが目だち,とくに1885年4月13日何のものほ,SLのス−ダン戦争 反対にかんする2つの決議案が,レヨ・一に.断りなしに】1司志ショー」の支持を 期待する旨の伺記をつけて配布されたこと紅強く反発し,「’私ほフェビアン協会 のG.バ−サーード・レヨ−であり,1個人主義国家のメンバー・であって,それ ゆえ誰の同志でもありません」58)と述べたうえ,2つの決議案の内容のいずれ をもほげしく批判している点で,目だっている。 ところで,1885−86年に『ツ。デー・』誌に連戦されたショーの小説『カッレェ ル・バイロンの職業』(CαぶカβJβ.γデβ形’ぶP叩/■β∫ざよ0〝)57)が,86年に澤行出版さ れ,モリスはこれを,文学作品としてのできばえについては若二F留保しながら も,「シ′ヨーー民の書いたものほすべて,かならずわれわれのえせ社会への弾劾 を伴っているが,同社会の愚昧について−の本苔におけるほどの辛らつな批刺ほ ,他に容易に見当らないだろう」し,「その意図する点ほ.,ことどとく良心的か つ芸術的紅達成されている」5S)と賞めた。 しかし,1886年秋から87年いっぱいは,労働者の言論・集会の自由と失業・ 貧困対策とを求める運動が高まり,これと平行して統叫・的な社会主義政党の結 成の必要が社会主義者たち紅よって楢感されほじめるとともに,各種社会主義 団体の見解の相違が表面化したクリティカルな時期であり,86年9月のフェビ アン派主催のFS,SDF,SLの3者共同討議(於,アンダ・−トン・ホテル。 モリスもショーも出席)が,その状況を象徴した。つまり,フェビアン派(べ 55)まとめてBaylen,J鋸,C∠f.に所収。

56)Shaw toJいL.Mahon(Secretaryof the SocialistLeague),13thApril,1885い Baylen,loc.cit.,pp..431−432;DanH.Laurence(ed),Bernard Shaw,Col・

JβCf♂dエβ才子β′.SJβ74−ヱβ97,Max Reinbardt,1965,p.131.

57)Tb・Day,New Series,Ap班1885−March1886.1882−83年執筆。単行は,1886

年。

58)r加C加椚別働郎戚,Vol.2,No27,July17,1886,p小126小 Fully quoted:

(23)

ウイリアム・モリスとバ−・ナード・レヨ】・・】】■ −2β− サント夫人とブランド)提案の社会主義統−・政党組織化動議は,47対19で可決 されたが,「’議会的競争への参加」をやめるべき旨のモリス動議の追加条項案 は,27対40で否決されたのである。59) こうして表面化したFSとSLとの対立ほ,SDFとの3つ巴の対立の・−L環 とレて両人を否応なく公的場所での対立にもちこむことになる。一方では,S Lの内部対立∵仙すなわち,「議会派」(エンゲルスを事実上の審判者とする革 統マルクス主義グル一−プ)と「反議会派」(J.レインらのピ,ユく−リスト。モリ スほ,当時この側にいた。事実上,アナ−キスト・グル−プを含む)との対立 …・− が,1887年5日のSL第3同年次大会で頂点に.達し,議会派の敗北に帰し た結果,レイン=モリス・グループの反議会主義的政策姿勢がSLのそれとし て対外的に.も顕在化すること軋なった。他方,FSでほ,レヨ−,ブランド, べサント夫人らのグル・−ブは,協会内の「ウイルスン夫人同情派フェビアンた ちとの仲たがいを避けるため」60)便宜,一一・時的に.1887年2月に「フェビアン議 会連盟」(FabianParliamentaryLeague)をつくって事実.上のFSの政治執行 部となり,これによってSLに近かったウイルスン夫人の追随者たちをたくみ に非強制的に締めだし,これをつうじてFSの議会主義の旗印をほじめて決定 的紅確立した。つまり,フェビアン協会はここでフェビアニズムをようやくは じめて明瞭紅定型化させたわけである。 こうして,いまや,とくに議会主義の是非をめぐるSLとFS,したがっ・て モリスとレヨ・−とのイデオロ単一的対立ほ,あまり紅決定的となる。ただし, この状況にかんする ,「両者それぞれ,相手を軽蔑的非難語たる パアナ・」−ヰス ト”呼ばわりするほどになり,すくなくともある短期間はおたがいの本当の位 置を誤解したようにみえ.る」(ハルス)叫という要約は,文中の「’ァナーーキスト」 を「個人主義的アナ⊥キスト」と訂正することを要しよう。いずれにせよ,シ カゴ事件(1886年5月。7月処刑)のショックをふまえ,モリスにとっては「シ ョ−の本当の傾向は,個人主義的アナ・−キズムに向かっている」82)ものとみえ,

59)Shaw,The Fabian Societ.y,etC.,pp.12−14

60)∫∂よ♂.,p小13

61)Hulse,〃♪1.(れp.124

62)Morris toMahon,June17th,1887.Arnot,William Morris,the Man and

(24)

香川大学経済学部 研究年報 20 ・−24− 79ββ 他方,ときあたかも,マルクス理論の放棄を戦闘的に公表・論争しつつあった レヨ−− 】・かれほノ,87年5月,『ぺル・メル・ガゼット』紙上でハインドマンと 論争しながらマルクスの価偵論ほ近代的社会主義には無用だとの主張を展開 し,8a)さら紅8月には,『ザナンヨナ・ル・リフか一マー』紙上で『資本論』第1巻 の英訳書(.エイダリング=ムア訳)への書評を3回連載し,64)マルクスの歴史 観ほ採るべきだがそ・の形而上学的価値論は棄却すべきだ,と主張しつつあった 一冊にとってほ,モリ′スとそのSL一∵⊥「1人の金持ちの所有物」65)−は, 理論的に.も実践的にも,まちがって:いるばかりでほ.ない。すすんで,「SL′のな かで狂信的に個人主義的なアナ−キズムと現存社会の暴力的顔役の唱導とに従 うところの党派に,モリスが自分の票の重みをかけ,支持を与えることで,〔二束 会主義〕運動の発展のクリティカルな時期に.運動をよごしたということは,じ ゅうぶん明白にわかる」呵 とさえ,レヨ」−・ほ,87年9月号の『ツ・デー』誌掲 載論文「職いのための一首」で,挑戦的に提言したのだった。 こ.の時期のモリスの行動ほ,当時エンゲルスも,「バックスとモリスは,無政 府主義者の影響を強く受けている。この諸君は.,事態をその生身ででくぐりぬ けなければならない。なんとかそこから脱出ほするだろう。しかし,大衆が遊 動に入るまえに,こうした小児病症状がおわるということほ,まったくしあわ せなことだ。」即)と洞察的に.批評したとおり,社会主義政策的にはまさにショー の批判に催した状況だったといってよい。しかしレヨーは,のち「無政府主義」 というレッテルのかげのモリスの真実な未来社会思考について,大きく学び直

63)Correspondence:Shaw,“Marx and Modern Socialism〃,PallMallGa2eiic, May7,1887;H・M.Hyndrnan,“Marx’s Theories”,ibid.,Mayll;Shaw, “Socialists at Home”,May12;Hyndman,L’Marx’s Theories〃,May16;Annie Besant,“Ma工・Ⅹ,s Theoryof Value”,May24,1887.

64)Shaw,“KarlMar・Ⅹand DAS KAPITAL”,etCい,The NdtionalRqfbrmer,7,

14&21August,1887,拙訳,前掲,排43)参照。

65)Shaw to Pakenham Beatty,27th May,1887,Laureuce(ed,),Collected

エβJf♂′■′ゞJβ74−Jβ97,p.170,

66)Shaw,“A Word for War”,To・・Da.y,New Series,Vol.8,No.46,September

1887,pp,82−86.

67)マルクスからW.リ−プクネヒt・へ,1886年5月12日付。『■マルクスnこエルグルス全 集』,大月書店版,第36巻,426ぺ」−ジ。訳文は,一・部筆者のもの。

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