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Title セクシュアリティ概念の刷新に向けて S フロイトの精神分析の視点から ( Digest_ 要約 ) Author(s) 古川, 直子 Citation Kyoto University ( 京都大学 ) Issue Date URL

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Academic year: 2021

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Title セクシュアリティ概念の刷新に向けて ―S・フロイトの精神分析の視点から―( Digest_要約 )

Author(s) 古川, 直子

Citation Kyoto University (京都大学)

Issue Date 2016-01-25

URL https://doi.org/10.14989/doctor.k19391

Right 学位規則第9条第2項により要約公開

Type Thesis or Dissertation

Textversion none

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セクシュアリティ概念の刷新に向けて ーS・フロイトの精神分析の視点からー (論文要約) 古川直子 本論は、近年のジェンダー/セクシュアリティ研究の枠組を批判的に継承し ながら、フロイト思想のアクチュアリティをセクシュアリティという観点から 明らかにすることを目指すものである。これまでの研究において、フロイトの セクシュアリティ論は、生殖という目的に対する人間のセクシュアリティの可 塑性という主張に切り縮められることで、その本質が決定的に誤解されてきた。 本論は、現在の社会学における「性」研究における理論的困難に対するオルタ ナティブとしてのフロイトの意義を明らかにすることを目的とした。 本論はまず、近年の社会学においてセクシュアリティという語が「無定義概 念」とされつつも、実質的にセックス(生殖性)を基盤とする現象であるとい う前提が保持されているという点は、ジェンダー/セクシュアリティ研究の理 論的困難を兆候的に示すものであることを指摘した。 現在のセクシュアリティ研究では、人々が「性的とみなすもの」という「意 味づけ」のレベルへと議論を転換させることで、セクシュアリティという語の 定義の問題はうまく解消されたかのように思われてきた。しかし、これらの研 究において実際に行われてきたのは、「無定義概念」ではなく、「セックス」(生 殖器、性行為)をめぐる意味づけの変遷を語ることである。 このセックスとセクシュアリティという二つの用語の関係性が真正面から問 われることもないまま、しばしばセクシュアリティはセックスについて語る際 の簡便な用語として曖昧に了解されてきた。すなわち、セクシュアリティとは セックスを参照項とした視線の認識の枠組を意味する一方で、この語は時代や 文化に応じて異なるかたちで分節化を被るような、共通の基盤を表すものとし ても使用されてきたのである。 こうした「セクシュアリティ」という概念の不明瞭さは、あえて明言する必 要すらないほどのカテゴリーの自明性と、現状への批判的な視線が奇妙に組み 合わさったことで生じ、それによって概念定義の問題には立ち入らずに、これ をテーマとした研究は隆盛するという事態が生じている。「セクシュアリティ」 が、生殖器とそれに関わる行為としての「セックス」を何らかのかたちで参照

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し、その概念の存立そのものを支える基盤としていながらも、それらの関係は 明示されていない。 このような現状は、社会構築主義への転回によって導入されたセックス/ジ ェンダー/セクシュアリティという三つの概念を区分し、「性」を「自然」から ラディカルに離床させるというジェンダー/セクシュアリティの社会学的研究 の射程そのものを後退させうる危険を有するものであった。 もしセクシュアリティが程度の差はあれセックスに基づく体験であるなら、 人間には多かれ少なかれセックスというカテゴリーを参照する生得的志向が備 わっているということになり、生物学的性差としてのセックスを社会的に有意 味な差異として切り出す知のあり方自体を問うというジェンダー概念の意義を 切り崩しかねないからである。 さらに、このセクシュアリティという語をめぐる定義の不在は「他者」とい う要素の導入によって補填される傾向にある。しかし、「他者への欲望」として のセクシュアリティ論もまた、セックス(生殖性)に由来する欲望というモデ ルそのものを問いなおすことなく温存している。この種の議論は同時に、近年 英語圏を中心とするアセクシュアリティ研究の進展において批判されつつある ような、「他者への(性的)欲望」をすべての人間にとって普遍的かつ特権的な 体験として前提する規範化の問題を孕んでもいる。 すなわち、現在のジェンダー/セクシュアリティ研究における理論的困難は、 セクシュアリティがセックスに由来するというモデルが批判されながらも、そ の枠組を抜け出すことができないでいるという点に集約される。本論は、この 生殖性(セックス)に由来する欲望としてのセクシュアリティ概念を根底から 覆すオルタナティブとしての可能性を、フロイトの精神分析にみいだした。 第 1 章では、まず従来の精神分析研究におけるセクシュアリティという概念 の理解が、近年の社会学的議論と同型の問題を抱えていることを確認した。両 者に共通するのは、セックスに対するセクシュアリティの可塑性を強調する傾 向である。しかしそれはむしろセックスとセクシュアリティの概念的癒着を不 問に付すという結果を生んでいる。このような「生殖に結びつかない性」を強 調する一般的な議論とは異なり、フロイトにおけるセクシュアリティ概念が、 それを規定する基準そのものを根本的に変更していることが示された。 さらに第2 章・第 3 章では、主体を内から脅かす危険としてのセクシュアリ ティという精神分析独自の視点を考察した。内的危険としてのセクシュアリテ

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ィという視点は、エネルギーの蓄積による「中毒」としての不安の発生を論じ た初期情動論を起点としている。すなわち、身体的緊張が心的表象と結びつく ことによって質的に分化した情動に変わるという過程が、何らかの原因によっ て「心」の関与が低下し、阻害されたときに不安が生まれるという議論である。 そこでは、質的に最も未分化な情動、すなわち「情動の通貨」としての不安 の理解が示された。この経済論的不安論は、心的に処理できないリビードとい う観点をつうじて、心的に拘束できないセクシュアリティの外傷性(欲動の危 険)への着眼を準備するものであった。この経済論的不安論と、セクシュアリ ティの外傷性を結びつけるのは、現実不安と神経症的不安の関係をめぐるフロ イトの考察であった。 恐怖症をめぐる彼の分析は、外的危険に対する現実不安に見えるものが、じ つはリビードに由来する神経症的不安をその内実とし、それが二次的にもっと もらしい対象に結びついたものにすぎないという知見をもたらした。フロイト は後期不安論において外的危険の重要性を強調しながらも、現実の危険として 「去勢」をもちだすことで、最終的には心的に処理できないエネルギーの蓄積 としての不安という初期の見解に回帰したのであった。 この現実不安に対する神経症的不安の優位は、外的危険に対する内的危険の 根元性という彼の主張を支えている。欲動(セクシュアリティ)が主体にとっ ての内的危険であるのは、それが通常の方法では処理できないような大量の興 奮をもたらすからであった。それは「快原理の彼岸」に位置づけられるような 原初的な拘束作業を要求し、原抑圧はこのセクシュアリティの外傷性に対する 防衛手段として規定されていた。 転移や反復強迫といった現象は、すべて内的危険としてセクシュアリティの 性質と、それに対する防衛(原抑圧)の不十分さに起因するものであった。原 抑圧において手つかずのまま放置されたセクシュアリティは主体の「内なる敵」 であり続けるために、たえず拘束の試みを惹起するからである。後期欲動論に おける「死の欲動」の導入は、こうしたセクシュアリティの外傷性をめぐる視 点を引き継ぐものであり、それが対象との結合を求めるエロースと対置されて いるという事実は、精神分析固有の意味でのセクシュアリティが「他者への欲 望」(エロース)との対立において理解されていることを示していた。 第 4 章では、このような内的危険としてのセクシュアリティの源泉としての 無意識という心的領域の性質を、社会学的自己物語論との比較によって考察し

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た。『心理学草案』の量とニューロンという神経学的モデルは、自己の物語論的 構成という社会学と共通の着眼を提起していた。フロイトは「翻訳」というタ ームによって、相互に関連づけられた表象(記憶)のまとまりとしての自我の 構成を論じた。精神分析の自己物語論によれば、自我とは記憶を因果的・時間 的に整序することで生み出される一貫した物語であった。 この観点によれば、原抑圧とは翻訳という自己物語化の作業が頓挫したとき に生じるのであり、物語としての自我の統一性から切り離され、当初の強度を 保ちつづけるような特殊な心的領域を生み出してしまうのであった。この「翻 訳の残余」としての無意識という、主体の内なる異物こそが精神分析における セクシュアリティの源泉であることが明らかにされた。このように翻訳という 自己物語化の作業を阻み、外傷を引き起こすような体験は「体験された当時に は理解できず、のちになって理解される」ような出来事であり、なおかつ「性 的」な性質をもつものと規定されていた。 初期の誘惑理論では体験に対する理解の遅延を生み出すのは思春期であった が、幼児のセクシュアリティの発見後、この区分を維持することは困難となる。 これ以後、体験と理解の時間差は、幼児期の体験の一般的性質にまで敷衍され たかに見えたが、「原幻想」の内容たる体験の類型性には、フロイトが性的外傷 として想定した出来事の本質が示されていた。 第5 章では、このような幼児期の性的外傷となる体験を考察するために、J・ ラプランシュによるフロイト読解を参照した。フロイトは誘惑理論の放棄後も、 大人による身体の世話そのものが子どもにとっての誘惑であるという視点を改 めて支持した。ラプランシュは、無意識の翻訳モデルと世話としての誘惑とい う観点を統合することで、独自の誘惑理論を提示する。 彼は、近年の乳幼児研究の知見(アタッチメント理論)に依拠しながら、生 後まもなく保護者とのコミュニケーションに参与すること、さらにそれは主と して非言語的な交流であるという知見を重視する。アタッチメントという自己 保存のコミュニケーションはいわば、大人側の無意識がノイズのようにして混 入するための基底的コードであり、搬送波なのである。子どもは自己保存のコ ミュニケーションをつうじて大人の性的な無意識に遭遇し、それによって受動 的な立場を強いられる。 フロイトが誘惑という体験の本質と考えた受動性は、大人の無意識に対する 無意識をもたない子どもの受動性なのである。精神分析における無意識は「性

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的」なものとして着想されているが、それはセクシュアリティの原抑圧によっ て生み出されるのが無意識という心的領域であるということを意味している。 本論が採用したラプランシュによる精神分析理解は、身体の世話こそが誘惑 であるというフロイトの着眼を引き継ぎつつ、そこに大人の性的な無意識とい う要素を導入した。彼の議論によれば、体験された当時は理解できず、のちに なって理解できるようになるという出来事は、人間にとって普遍的な状況(「人 間学的な意味での根源状況」)にまで「一般化」されたのであった。 このようにフロイト=ラプランシュによる精神分析のセクシュアリティ概念 は、1)セックスをその中心とせず、2)生誕直後から開始されるコミュニケ ーションにおいて出会う他者からの「メッセージ」の翻訳の残余(=無意識) を源泉とし、3)主体の自己破壊という作用ゆえに「他者への欲望」と対立す るという三点において、通常のセクシュアリティ理解を根本的に変更するもの であった。 このような精神分析独自の視点が、現在の社会学におけるセクシュアリティ 研究になしうる理論的貢献として、まずセクシュアリティがセックスに基づく 現象であるという理解そのものを問いなおすという点が挙げられる。それはセ ックスとセクシュアリティの概念的癒着を解消し、さらに差異を切り出す意味 作用そのものとしてのジェンダー概念をセックスから独立させるという点で、 社会構築主義の到達点を正当に引き継ぐものである。 第二に、「他者」というタームのポジティヴな含意によって深く問われること なく流通してきたセクシュアリティの定義(「他者への欲望」)に対する精神分 析の視点の意義が指摘される。この種のセクシュアリティ理解は、生殖行動と いうモデルを前提にすることで、しばしば性的な関係を他者との特権的な出会 いの場と見なし、すべての人間が生得的かつ普遍的に他者への欲望を有すると いう規範的認識を導いてきた。この種の主張において問題とされてきたのは、 欠如と相補性の水準に位置づけられる他の個体としての他者であるが、精神分 析のセクシュアリティ論は「内なる他性」としての無意識という視点から、コ ミュニケーションの次元で出会う他の個体としての他の個体としての他者と、 他者自身のうちに存在する(性的な)無意識という他者という二種類の他者を 区別する。 フロイト=ラプランシュのセクシュアリティ論は、無意識を備えた性的存在 としての他者との出会いが、非性的存在としての子どもを性的次元へと導くと

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いう着眼によって、他者の異質性を欠如と相補性に基づく差異の次元としての 社会的コミュニケーションではなく、コミュニケーションに対する夾雑物とし ての無意識のなかに見いだす。精神分析のセクシュアリティとは各人が平等に 無意識という「閉じ」を自らの内に抱えているという生の局面を指し示すもの であり、「他者への欲望」を規範化することも普遍化することもない新たな視点 からセクシュアリティを理解する可能性を提示するものなのである。

参照

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