明 和 学 園 短 期 大 学 紀 要 第 二 十 三 集 二 〇 一 三 明 和 学 園 短 期 大 学
No.23
Contents
〔Articles〕1 A Project of Gunma no megumi,a blessing for Gunma by an Industry-Government -University Cooperation Project-A Development of Stollen using Ingredients
from Gunma only- Yumiko Nagai,Masako Takahashi,Satsuki Oomi,Kumiko Okabe 2 Roles of Food Labels and Nutritional Ingredient Labels
-A Study of Boxed Lunches bought from Convenience St
ores-Sizuka Watanabe,Yumiko Nagai,Keiko Horiguchi 3 A Study of Practical Use of Mulberry Leaves Yumi Kimura 4 A Study of the Dietary Habits of Infants and the Improvements in home-made
boxed lunches,Obento Yumiko Nagai,Masako Takahashi,Yuki Sato,Daisuke Machida, Kazunori Takamura,Keiko Horiguchi 5 Do things for yourself for living an independent life-A Study of the
Relations between Exercise and Diet throughout a humans life st ages-Focusing on Awareness of Health,Diet and Exercise
researched on Junior College Women Students(Part III) Maki Nagai,Sizuka Watanabe 6 Humanistic Ideas used in the Dialogue
-From Sprache und Erziehung by O.F.Bollnow Yoko Amamiya 7 A Study of Struggle for Murakata Wazo Rice Paddies
-the Signs of the New Spirit of Meiji in the District- Hiroshi Koyama 8 A Concert,NPOs model activities,held at a Building of Cultural
Assets sponsored by the Agency for Cultural Affairs Reiko Matsumoto 〔Notes〕
1 The Results of the Amount of Seafood consumed at home by Junior College Students Masako Takahashi,Yumiko Nagai,Kazunori Takamura,Keiko Horiguchi 2 An Analysis of the Volume of catechin in Green Tea found in a Plastic Bottle
by a tartaric acid iron method Daisuke Machida,Masako Takahashi,Yumiko Nagai, Yuki Sato,Keiko Horiguchi,Kazunori Takamura 3 The Results of a Questionnaire about Snacks for Preschool Children
Yuki Sato,Daisuke Machida,Masako Takahashi, Yumiko Nagai,Keiko Horiguchi 4 What Snacks are given to Children at Manbo House Yuki Sato,Yasuko Noguchi 〔Article〕
1 A Study of Ryokan
-An Image of Ryokan and his wisdom for living in an uncertain world- Takeo Shiozaki
2013
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SSN 1348-8791
23
目
次
【論 文】 1 産官学連携「ぐんまのめぐ実」プロジェクト 主材料オール群馬県産シュトーレンの開発について 永井由美子・高 橋 雅 子・大海さつき・岡部久美子…… 1 ……… 2 食品表示・栄養成 表示の役割 コンビニエンスストアの弁当から一 察 渡 邉 ・永井由美子・堀 口 恵 子…… 15 ……… 3 桑葉食品の活用 ………木 村 祐 美…… 33 4 幼児期の食生活のあり方を える 手作り弁当を中心に 永井由美子・高 橋 雅 子・佐 藤 有 記・町 田 大 輔・高 村 一 知・堀 口 恵 子…… 45 ………… 5 自 のことは自 でする」自立した生涯をおくるために 各ライフステージにおける運動・食事の関連指標を探る 女子短大生の 康・食意識と運動状況を中心に(第3報)…………永 井 真 紀・渡 邉 …… 55 6 対話の人間学的 察 O.F.ボルノー『問いへの教育』から ………天 宮 陽 子…… 69 7 村方和蔵田地一件再論 地方における“明治維新”の胎動 ………小 山 博…… 77 8 文化庁 NPOによる文化財 造物活用モデル事業」におけるコンサート ……… 本 玲 子…… 97 【研究ノート】 1 短期大学生の家 における魚介類の摂取状況について 高 橋 雅 子・永井由美子・高 村 一 知・堀 口 恵 子……111 ……… 2 酒石酸鉄法による市販ペットボトル緑茶中のカテキン含量の 析 町 田 大 輔・高 橋 雅 子・永井由美子・佐 藤 有 記・堀 口 恵 子・高 村 一 知……117 ………… 3 未就学児のおやつについてのアンケート調査 佐 藤 有 記・町 田 大 輔・高 橋 雅 子・永井由美子・堀 口 恵 子……123 ……… 4 子育て広場「マンボウ」におけるおやつの取り組みについて 佐 藤 有 記・野 口 泰 子……131 ……… 【論 文】 1 良 寛 私 良寛像と無常の世に生きる知恵 塩 崎 猛 雄…… 12013
明和学園短期大学
Journal of Meiwa Gakuen
Junior College
No. 25 Contents
2015
2015
Journal of Meiwa Gakuen
25
目 次
明和学園短期大学
明 和 学 園 短 期 大 学 紀 要 第 二十五 集 二〇一五 明 和 学 園 短 期 大 学 〔Articles
〕1
An investigation into the root causes and the suitable measures for
“Bullying
”with the help of
jurisprudence -Forming a view from a judgment of a civil case for claiming damages- Kenji Ogiwara
2
The Soundscape of sound toys and handmade musical instrument for children:
Survey of students studying early childhood education
Reiko Matsumoto
3A survey on the use of mobile phones by university students
Kikuji Omi
4
The transition that is in participation form of students stadying early childhood
education at
Manbo House
Akiko Inoue
5
A Study of evaluation scale for dialogue approach -An analysis of world
café-Wakaho Otoyama, Yoko Amamiya, Emi Shiozawa
6
A Study of Men's Participation in Child Rearing based on
“Papa's Talk
”
-A Practical Report- (Part II)
Yoko Amamiya, Emi Shiozawa, Wakaho Otoyama
7 “
Do things for yourself
”living an Independent Life -A Study of the Relations
between Exercise and Diet throughout each of life's stages focusing on Awareness
of Health, Diet and Exercise researched on Junior College Women
Students-
Foor years of Summary (Part V)
Sizuka Watanabe, Maki Nagai
8
Antioxidant effects of food and health
Yumi Kimura
9
Boxed Lunches bought from Convenience Store: A Study of Food additive and
requirement for twenty years Sizuka Watanabe, Masako Takahashi, Yumiko Nagai, Keiko Horiguchi
10
Practice and problem of nutritional student teaching in a junior college
-The influence a training exerts on behavioral modification-
Maki Nagai
〔
Note
〕1
Analysis of the catechin content in the commercial tea leaf extract by a tartaric acid iron method
Daisuke Machida, Kyoko Jinbo, Masako Takahashi, Haruko Onoe, Akane Takahashi,
Yuki Sato, Manami Kawamura, Yumiko Nagai, Keiko Horiguchi, Kazunori Takamura
〔
Article
〕1
Local literature to read aloud inscribed on literary monuments
Takeo Shiozaki
【論 文】 1 法思想で探る「いじめ」問題の深層と対策 ――ある損害賠償請求訴訟判決から見えてくること――
荻 原 健 二
1
2 音の出る玩具・幼児と遊べる楽器をめぐる音風景(1
) ――幼児教育を学ぶ学生に対する調査より――松 本 玲 子
23
3 大学生の携帯電話の使用に関する調査小見喜久治
35
4 「子育て広場マンボウ」におけるこども学専攻学生の参加形態の変遷 井 上 暁 子45
5 対話アプローチにおける評価指標の開発 ――ワールドカフェの事後評価の分析――音 山 若 穂・天 宮 陽 子・塩 澤 恵 美
61
6 「パパたちによる子育てトーク」を中心とした男性育児参加啓発促進の試み ――実践報告(第2報)――天 宮 陽 子・塩 澤 恵 美・音 山 若 穂
71
7 「自分のことは自分でする」自立した生涯をおくるために ――各ライフステージにおける運動・食事の関連指標を探る―― 4年間のまとめ(第5報)渡 邉 ・永 井 真 紀
83
8 食品の抗酸化機能と健康木 村 祐 美
93
9 コンビニエンスストアの米飯弁当 ――食品添加物と食品・栄養量の20
年間調査―― 渡 邉 ・高 橋 雅 子・永井由美子・堀 口 恵 子103
10
短期大学における栄養教育実習の実践と課題 ――実習が行動変容に及ぼす影響――永 井 真 紀
121
【研究ノート】 1 酒石酸鉄法による市販紅茶葉抽出液中のカテキン含有量の分析 町 田 大 輔・神 保 京 子・高 橋 雅 子・尾 上 治 子・高 橋 明 音 佐 藤 有 記・川村茉那実・永井由美子・堀 口 恵 子・高 村 一 知135
【論 文】 1 文学碑に記された声に出して読む郷土の文学塩 崎 猛 雄
1
〔論 文〕
法思想で探る「いじめ」問題の深層と対策
―― ある損害賠償請求訴訟判決から見えてくること ――
荻 原 健 二
1 はじめに
我々は、言葉で考え、言葉を使って考えを伝える。一見言葉とは無縁に見える仕草や表情であっ ても、それらが意味を持つかぎり、必ず言葉に変換される。唇に人差し指を付ければ「黙りなさ い」という言葉になり、ウィンクをすればシチュエーションに応じた言葉となる。 言葉による伝達は、言語の体系が異なっていても成立する。太古から現在に至る人類の交流がそ のことを証明している。シルクロードや大航海時代はそのダイナミックなシンボルといえるだろう。 言葉は記号の1種である。ルートウィヒ・ウィトゲンシュタインによれば、記号の生命は記号の 使用であるという1。それゆえ、言葉は意味の伝達に使われてその本領を発揮する。 不特定多数の人々が日々の生活の中で同じ思いを1つの言葉に託すという状況は、ミラクルと呼 ぶに値しよう。では意味の共有を可能にするものは何なのだろうか。そこには、国家による管理通 貨制度が実現する以前の通貨と共通するものがあるように思われる。百年程前までの人類が、金、 銀、銅、宝石、貝殻を取引に利用できたのは、煎じつめれば、みんながそれらを価値あるものと信 じているという神話のようなものが成りたっていたからにほかならない。人類がある言葉に共通の 意味を持たせられるということは、人間は必ず心を通じ合えるものだとみんなが信じているという ことを示しているのではなかろうか。 人類は言葉で仲間を作り、長い人類史を築いてきた。その間に言葉は姿を変え、意味も変化させ て、現在に至っている。その生成消滅には、社会構造と生活形態の変化、そしてそこで生きる人間 の意識が色濃く反映している。我々が使う言葉は、日々の行動・生活と一体なのである。言葉への 興味は人間や生活に対する関心にほかならない。日常言語学派の哲学者J.L.
オースティンは、「こ とばへの鋭敏な感覚は、現象の理解を研ぎ澄ます。」2 といっている。 ここで言葉の意味の変化を知る1つの例として、「建前」という言葉をとりあげてみたい。「建 前」という語句は、良きにつけ悪しきにつけ、我々が日常的に使う言葉である。 昭和40
年代にベストセラーとなった「『甘え』の構造」の著者として知られる土居健郎氏が、「表 と裏」という著書の中で「建前」について面白いことを書いている。参考になる部分を以下に引用 する。 「建前と本音という言い方がこの頃しきりと使われるが、この場合ややもすれば、建前は表向きのこと 法思想で探る「いじめ」問題の深層と対策(荻原)で云わば嘘であり、本音こそ本当であるという意味合いが含まれていることが多い。したがってあるこ とが建前に過ぎないと云えばその価値を否定したことになり、本音が出たということではじめて安心す るほどである。しかしこのような傾向はもともと以前からあったとは思われない節がある。というのは 言葉の由来から見て、建前本音という場合の建前と、家屋の建築で棟上げのことをいう建前とは、本来 同じ言葉であったにちがいないと考えられるからである。すなわち棟上げの際は、建築主は棟梁とその 手下たちに酒食を饗応するほど、これは大事な機会とされている。なお茶道で抹茶をたてる御作法のこ とを点前と云うのも、やはり同じ言葉なのであろう。ともかく建築でいう建前にせよ、茶道でいう点前 にせよ、それが無ければ家屋も建たず茶道も行われない重要なものなのであるから、もし建前と本音と いう場合の建前がもともとこれと同じ言葉であるならば、それが重要でないはずはないと云うことがで きるのである。」3 「建前は表向きのことで云わば嘘であり、本音こそ本当であるという意味合いが含まれているこ とが多い。」という記述は、法の世界から見た時、衝撃的な文章である。というのは、表向きのこ とが嘘であるということになると、まっとうな法はこの世に存在できなくなってしまう。 しかしこのような雰囲気がないこともないというのが大方の思うところでもあろう。我々の中に 存在するこの意識、あるいは雰囲気が歴史的にいつ頃形成されたのかは大いに興味の湧くところで ある。私見を申せば、それは江戸時代に醸成されたのではないかと思っている。わが上代において 広く社会規範を総称して「のり」とよんでいたが、それは「宣る」から転化した言葉であるとい う4。7世紀初頭の十七条憲法の「憲」には高く掲げるものという意味が含まれているといわれ、 その後の律令格式も広く周知されている。鎌倉時代の御成敗式目、さらに時代は下って大内家壁 書・今川仮名目録などの分国法や、明智光秀軍法などの戦国期の武家法はそれぞれ詳細かつ明瞭に 関係者に示されている。それどころか分国法の1つである六角氏式目では、六角氏当主と在地領主 たちとの間で交わした起請文まで付されている。それに対し、江戸幕府は「依らしむべし、知らし むべからず」を二代将軍秀忠以来の基本路線とし、その方針を修正しようとしたといわれる八代将 軍吉宗のときに完成した「公事方御定書下巻」でさえ、幕府の基本法典でありながら秘密法典で あった。 ローマ法においても、「法律(レークス)」という言葉は、「読み上げること(レゲーレ)」に由来 するという5。そもそも法とはその社会集団の構成員に認知・承認されて、はじめてまともに機能 する。三権分立における司法とは、具体的な争訟事件について、法を適用し、宣言することによっ て解決する国家の作用をいうのであるから、「表向きのことは嘘である」では法の立つ瀬がないの である。 ところで土居健郎氏は精神科医であるから、建前と本音のさらなる関係を精神医学の対象として 次のように述べる。 「また事柄の性質上、建前は表に出すもので、本音は出さないものなのだから、本音が内に隠れている こと自体が悪いのでもない。ただ当の本人が自分の本音に気付かず、敢えてこれを否定することが困る 明和学園短期大学紀要
のである。というのは、本音の存在に気付かないと、これをコントロールすることができなくなり、そ の結果、本音が極めてグロテスクな形でのさばることになるからである。」6 「さて建前と本音の二本立ては精神のバランスを保つ上で非常に大きな役割を果たしている。実際この 二本立てはバランス感覚そのものであると云ってよい。そしてこの点を説明するためにもまた甘えの心 理から入るのが分りよいのである。というのは甘えというのは本来相手次第であり、その点本質的に不 安定なところがある。したがって甘えたくとも甘えさせてもらえない時は、容易に恨みに転ずる。ある いは甘えというものが始めから恨みの可能性を秘めており、反対に恨みが前面に出ている時は内に甘え を秘めていると云ってよいのかもしれない。ところでこれは精神分析の方で愛憎半ばする状態を称して アンビバレンス(両価性)というのに相当する。要するに甘えだけで他に何も支えがないと、容易にア ンビバレンスの状態に陥る危険が存するのである。しかし建前は、それを守っている限りは他の人々の 好意をあてにできるので、少なくともその分だけは甘えが満たされることになり、その意味で甘えに対 する支えとしての効果を発揮することになる。そして建前によって処理されない思惑は本音としてしま いこまれているので、アンビバレンスは云わば構造化され、そのような形で許容されることになる。す なわち建前と本音の二本立てが自覚されているところでは、アンビバレンスが無意識に放置され、コン トロール不可能になるということがない。このことが建前と本音の二本立てが精神のバランスを保つ理 由であると云えるのである。」7 法の観点からすると、「建前は、それを守っている限りは他の人々の好意をあてにできるので、 少なくともその分だけは甘えが満たされることになり、その意味で甘えに対する支えとしての効果 を発揮することになる。」というところに注目したい。人々の好意をあてにできる建前とは、人々 から承認され支持されている建前ということである。承認され支持される建前がその社会集団に存 在するということは、人と人とのつながりに信頼関係があり、そのつながりを統御する手段として の建前も人々から信認を得ているということである。 たとえばこのことを「いじめ」に当てはめてみよう。「いじめは許されない」という建前は我々 の社会に厳然として存在し、誰でも知っているし、承認しているはずである。それにもかかわら ず、「いじめ」が無くならないのはなぜなのだろうか。土居氏の言葉を借りれば、いじめてやろう という「本音が極めてグロテスクな形でのさばる」からなのか。そしてそれは、「建前を守ってい る限りは他の人々の好意をあてにできる」ことがなくなっているということなのだろうか。 ある社会集団において、「建前を守っている限りは他の人々の好意をあてにできる」ことがなく なってしまうということは、建前が人々の承認と支持を失うということである。それはまさに千石 保氏が著書「『まじめ』の崩壊」のなかで指摘されたコンサマトリー(
consummatory
そのこと自 体、即自性、「ノリ」)化現象8そのものである。建前が攻撃され、ちゃかされ、ごまかされて、面 倒くさいものとして無視されていく。 いじめが現に問題となっている場面で、「いじめは許されない」という建前とならんで、敬遠さ れる建前の1つが正義であろう。正義とは何だろうということが話題にならないだけでなく、正義 法思想で探る「いじめ」問題の深層と対策(荻原)そのものへの関心が失われ、不正が行われていてもさほど驚かなくなる。正義という建前は邪魔者 として嫌悪され、「本音がグロテスクな形でのさばる」ことになる。これを無法地帯という。 我々は「建前」という言葉から、「いじめ」の深層の一面を知ることができる。つまり、赤裸々 な欲望・私欲とは一線を画し、十分に客観的とは言えないまでも大まかな原理原則を意味する「建 前」が、人々の意識の中で軽視されているところでは、「いじめ」の発生する確率が高いというこ とである。 ところで上記の土居健郎氏のご指摘は精神医学的な立場からのものであるが、ここで「いじめ」 に関わる裁判に眼を転じてみよう。裁判の判決文は当然のことながら言葉で構成される。それは公 定的な文章であり、様々な議論を終結させるものである。それだけに我々は判決文に無関心であっ てはならない。 かつてある公立中学校で発生したいじめ事件の損害賠償請求訴訟における控訴審判決(東京高裁 平成6年5月
20
日判決 判例時報第1495
号42
∼56
頁)は、事実関係を詳細に認定しており、「い じめ」にかかわる判決として画期的なものである。 この判決をもとに、この事件に関わった教師たちの法意識を検討し、法思想の視点から「いじ め」問題を考えてみたい。とりわけ、「ローマ法を通してローマ法の上へ」「目的こそすべての法 の創造者である」というモットーで知られるルドルフ・フォン・イェーリング(1818
∼1892
年)、 「法秩序の段階構造」と「根本規範」で法学に大きな足跡を残したハンス・ケルゼン(1881
∼1973
年)、日常言語学派の影響を受けて言語論的転回という概念的枠組みを法理論に導入したH.L.A.
ハート(1907
∼1992
年)の法思想を中心に、「いじめ」の深層と対策を探ることとしたい。 具体的には、闘争のなかに汝の権利、法を見出せと説いたイェーリングの「権利のための闘争」 (小林孝輔・広沢民生訳 日本評論社)、要件と強制的制裁を規範的に結びつける法命題を基礎に法 の一般理論を展開したケルゼンの「純粋法学第二版」(長尾龍一訳 岩波書店)、主権者命令説や自 然法論の批判的検討を通して法的思考の一般的枠組みを明確にし、現代法哲学に大きな影響を与え たH.L.A.
ハートの「法の概念〔第3版〕」(長谷部恭男訳 筑摩書房)を参考にすることとする。2 判決が認定した「いじめ」の実態
前掲の裁判は、自殺した被害生徒の両親が、加害生徒の父母・学校設置者・費用負担者に対して 起こした損害賠償請求訴訟の控訴審である。言うまでもなく、この裁判は刑事裁判ではない。しか し、引用する部分からだけでも、傷害罪・暴行罪・脅迫罪・強要罪などの構成要件に該当する可能 性があると思われる行為を読み取ることは容易である。どうしてこのような事態になってしまった のか、なぜこの状態から脱却できなかったのか、そしてどうしてこれを防ぐことができなかったの かを検討していくことは、現在においても差し迫った深刻な問題である。 この事件の「いじめ」の実態を把握し、それに対応した教師の法意識を検討していくのに必要と 思われる部分を、「判例時報1495
号」の判決文から、少し長くなるが、5箇所にわたり引用する。 明和学園短期大学紀要判旨では、要約する人間の価値観・判断が入り込む可能性を否定できない。判決文をそのまま読 み、裁判において明らかとなった事実に基づいて考察することが肝要と考える(判例時報において 名前は仮名となっている。引用部分冒頭のA∼Eは筆者が便宜上記入した)。 A 7 原判決二二枚目裏二行目の「一部、」を「一部が寄せ書きをしたほか、秋夫ら数名の生徒が「ドッ キリに使うから書いて。」、「レクリエーションの劇に使うためのお別れの言葉を書いてほしい。」、「弔い のためです。」、「ジョーク、ジョーク。」、などと言って」と改め、同行の「甲田六夫」の次に「(当時五 八歳・教職経験三七年)」を、同三行目の「乙田六夫」の次に「(当時五六歳・教職経験三五年)」を、 同行の「丙田七夫」の次に「(当時二九歳・教職経験五年)」を加え、同二三枚目表八行目から九行目に かけての「「こんなのもらっちゃった」」を「しょんぼりと沈んだ様子で「おれ学校でこれを渡された よ。担任の先生も書いているんだよ。」」と、同一一行目の「その後」を「同年一〇月頃から一郎は秋夫 及び春夫らからほとんど連日何かにつけて殴られるようになっていたが、その一〇月ないし一一月頃」 と改め、同裏二行目の「格別嫌がる様子もなく」を削り、同四行目及び五行目〈同三五頁一段最終行目 ∼二段三行目〉を次のとおり改める。 「また、同年一〇月頃、春夫は、教室内で一郎をエアガンで四発位狙い撃ちしたことがあったが、そ のプラスチック強化弾は当たると神経がしびれるような痛さを感じさせるもので、一郎は痛さに顔をし かめていた。 同月中旬頃、授業中の教室内で、秋夫及び春夫は、一郎の激しくまばたきをする癖をとがめ、春夫に おいて「三秒に一回だけ、おれがよしと言ったらまばたきをしていい。」などと言い、一郎がそのとお りにしなかったと言い掛かりをつけ、二人で数回一郎を殴打したほか、その頃、語学教室前の廊下で秋 夫、春夫を中心とする六名の生徒で一郎を取り囲み、飛び蹴りの標的にし、蹴られた一郎は約一メート ル位飛ばされて廊下に転倒し痛がっていた。また、第二学期中に、授業中の教室内で、一郎は、秋夫に 制服の襟を立ち襟にさせられ、上着の裾をズボンの中に入れさせられ、髪を水で濡らされて立たされた ことがある。」9 B
10
原判決二四枚目表九行目〈三〇行目∼三一行目〉の「使い走り」から「した。」までを「秋夫、春 夫らは、同人らの命令、指示などについて従わなかったり、これを拒否するような態度を執るとその都 度一郎に対して殴る蹴るなどの暴行を加え、一郎が本件グループから離脱し重宝な使い走り役がいなく なることを防ぐため入れ替わり、立ち替わり一郎に対して脅しの電話を繰り返した。」と、同裏七行目 の「野球拳遊び」から同八行目〈同三段一六行目∼一九行目〉までを「力ずくで一郎の上半身を裸にし て、冷え切っているコンクリート製の滑り台に無理やり仰向けに寝そべらせたり、うつ伏せになって逆 さに滑り降りるなどさせたほか、鳥肌を立てて寒がっている裸の一郎の上半身に丁川が口に含んだ水を 吹きかけたりした。」と、同一一行目の「気運」から同行〈同二三行目∼二五行目〉の末尾までを「こ とを共謀し、秋夫及び春夫らは本件グループ以外の二年A組の男子生徒らのほとんど全員に対しても一 郎を「シカトする」(村八分的に仲間外れにする)ことを指示した。」と、同末行の「右のような状況を 反映して」を「秋夫、春夫を初めとする本件グループによる右のようないじめから免れるため」と改 法思想で探る「いじめ」問題の深層と対策(荻原)め、同二五枚目表二行目〈同三〇行目〉の末尾に「また、一郎は、一二月中には、登校しても二週間の 間、四時間目の授業の後給食を食べずに体育館の裏に隠れており、校内巡視中の戊川教諭に発見される と「ここにいさせてほしい。」と懇願した。」を加え、同五行目の「実情」から同末行〈同四段三行目∼ 一六行目〉までを次のとおり改める。 「一郎が本件グループからの仕返しを恐れて、控訴人らには分からないように乙山担任に対し控訴人 らに実情を話すことを止めてほしいという仕草をしたのを見て、控訴人らに自らが把握していた一郎の 状況等については何の説明もせずに家庭訪問を終えてしまった。 乙山担任は他の教師らの認知した秋夫及び春夫の状況もその都度知らされて十分に認識しており、乙 山担任らは被控訴人丙川ら及び丁原らに対し、電話で又は同人らを呼び出して、繰り返し秋夫及び春 夫の状況を説明し、家庭での指導を要請していた。加えて、被控訴人丙川らは、控訴人太郎から前記 のようにいじめを止めさせるように抗議を受けており、また、被控訴人丙川春子は中野富士見中学校 の
PTA
の副会長の役職にあり、当時の第二学年の状況を特によく知り得る立場にあったが、被控訴人 丙川らは、学校から知らされた秋夫の行状について秋夫に一応確かめること等はしたものの、秋夫が黙 りこくっていたり、事実を否定したりすれば、それ以上問いただすこともせず、小言を言う程度で済ま せ、むしろ秋夫をかばうような態度で終始しており、被控訴人丙川らの秋夫に対する指導は全く不十分 で実効がない状態であった。被控訴人丁原らは、学校から知らされた春夫の行状のほか、怠学、喫煙は 当然直接認識しており、学校からの連絡があれば春夫を叱ったりはしていたが、春夫に対しては全く実 効がないままであった。」10 C 3 原判決二七枚目表一〇行目〈同三段二行目〉の末尾に「しかし、丙林教頭や乙山担任らは、一月に なってからの右のような一郎の度重なる欠席について控訴人らに対して全く連絡をせず、一郎が欠席を 続けている事情等についても確認しようとしなかった。」を加える。 4 原判決二七枚目裏一行目の「登校したが、」を「登校した。丙山が一郎を同行して登校したのは、 学校内で本件グループの他の生徒らと共に一郎に集団的暴力を加えるためであり、一郎は」と改め、同 七行目の「一郎は、」の次に「非常に」を加え、同一〇行目から同二八枚目表五行目〈同二二行目∼四 段三行目〉までを次のとおり改める。 「乙山担任自身は、同月一三日に、春夫に授業を抜け出したことを注意して逆に春夫に「なんだてめ え」と言われて胸部を蹴られ、全治三週間の右前胸部打撲、右第五、第六軟骨不全骨折の傷害を負わせ られていたことなどもあって、本件グループの生徒らを恐れており、校内で一郎を探し回っている春 夫、丙山に対し毅然たる態度をとろうとせず、教育相談室で電灯をつけず暖房も入れず一郎と共に身 を潜めていた。丙山及び丁川らは結局一郎を発見できなかったため、その腹いせに丁田教諭に対して 「せっかくつかまえてきたのに、なんで逃がしちゃうんだよ。」などと大声で怒鳴り悪態をついた上、下 駄箱から一郎の靴を持ち出してこれを大便所の便器内に投げ込んで引き上げた。その間、一郎は、教育 相談室で乙山担任に対し本件グループの生徒らの仕打ち等が恐ろしいこと、本件グループから抜け出し たいことなどを話したが、一郎が一人で帰宅すると途中で丙山らからどのような仕打ちを受けるかもし れないと述べるので、乙山担任は、控訴人花子に対し一郎を迎えに来るように電話連絡をした。そし て、乙山担任は、右の電話で駆けつけてきた控訴人花子及び一郎に対し「本件グループには一四、五人 明和学園短期大学紀要という多数の生徒がいるので、本件グループから抜けるのはやくざの足抜きと同じように大変だ。今後 のやり方としては転校という方法も考えられる。今後も暴力事件が起こるようだったら警察に入っても らうしかない。」などいう趣旨の話をし、二日後の二月一日の土曜日に控訴人らの家庭を訪問してよく 話し合いたい旨を述べて二人を帰宅させた。 右一月三〇日の夜、控訴人らと一郎とは学校のことを話し合ったが、一郎は「転校はしたくない。お れには何もこわいものなんかない。明日から頑張るから心配いらないよ。」と述べた程度で終わってお り、控訴人らとしては一郎の言動から翌日の家出を全く予測していなかった。」と改める11。 D 同年九月以降の出来事のうちでも、同年一一月一五日の教室内におけるいわゆる葬式ごっこは秋夫ら 数名の発案であったが、秋夫及び春夫らばかりでなく、本件グループとは無関係の二年A組の他の生徒 らも加わった形で行われ、一郎の追悼のための寄せ書きの色紙には二年A組の生徒らのほぼ全員と第二 学年の他の学級の生徒らの一部のほか、乙山担任ら四名の教諭が加わっていた点で特異なものである。 一郎が本件グループの他の生徒らから離反し、本件グループを離脱しようとする態度を同生徒らに対 して示すようになったのは同年一二月になってからであるが、一郎がいつ頃からそのような本件グルー プに対する離反、離脱の意思を持つようになったのかは必ずしも明らかでない。しかし、同年九月以降 秋夫及び春夫らを中心とする本件グループの他の生徒らの一郎に対するいじめは次第に激しくなり、一 〇月、一一月頃には急激に悪質化していたのであり、一郎は既に同年九月中旬頃には買い出しを見とが めた丁谷五郎教諭の事情聴取に対し「春夫達のグループから抜けたい。使い走りはもう嫌だ。」と述べ ていることからすると、いじめが激化するにつれて、一郎はいじめに耐えかねて次第に本件グループの 他の生徒らに対して反感と疎外感を深め、本件グループからの離反、離脱の意思を固めていったものと 見るのが相当であり、葬式ごっこの行われた当時には相当程度その意思を固めていたものと考えられ る。葬式ごっこをされ色紙を受け取った一郎は、その場では格別の反応は示さなかったものの、帰宅後 控訴人花子に色紙を見せ、しょんぼりと沈んだ様子で「おれ学校でこれを渡されたよ。担任の先生も書 いているんだよ。」と述べていたのである。 葬式ごっこに加わった秋夫、春夫を初めとする多数の生徒ら及び教師らとしては悪ふざけという意識 であったとしても、事前には全く何も知らされずに、いきなり教室という公けの場で、しかも学級の生 徒らほとんど全員が参加したような形で行われる、そのような自分を死者になぞらえた行為に直面させ られた当人の側からすれば、精神的に大きな衝撃を受けなかったはずはないというべきであるから、右 葬式ごっこはいじめの一環と見るべきである。特に、一郎からすれば、本件グループの他の生徒らのい じめに耐えかねて右生徒らに対しても反感と疎外感を深めていた時期に、秋夫、春夫ばかりでなく本件 グループ以外の多数の生徒に担任教師らまでが加わって、一郎の存在を否定するような行為が行われた ことは大きな衝撃であったというべきであり、帰宅後に一郎が控訴人花子に述べた前記の言葉はそのこ とを示しているといってよい。色紙の寄せ書きに加わった教師らは、本件グループの問題行動が激化し ていてそれが校内の異常事態の主たる原因をなしており、一郎が本件グループ内で使い走り役等に使役 されているのみならず、種々のいじめを受けていることを認識していたにもかかわらず、その軽率な行 為によって集団的いじめに加担したに等しいものというべきであり、担任教師らまでが寄せ書きに加 わっていたことは一郎にとって教師らが頼りになる存在ではないことを思い知らされた出来事であった 法思想で探る「いじめ」問題の深層と対策(荻原)
というべきである12。 E 前記第二認定のとおり、乙山担任は、既に昭和六〇年七月初めまでの時点において、一郎が本件グ ループの生徒らと行動を共にして授業の抜けだし、怠学、授業妨害等の問題行動に出るようになったこ とを認識しており、さらに、控訴人太郎あての前記の手紙から明らかなとおり、本件グループ内では一 郎は子分的な立場にあり、早晩気の弱い一郎が他のメンバーらからいじめの対象とされるおそれのある ことを予見していたのである。そして、その後も昭和六一年一月三〇日までの間、乙山担任、戊田校 長、丙林教頭らを含む中野富士見中学校の教師らは、本件グループ内において一郎が授業中にすら使い 走りをさせられ、あるいは、秋夫、春夫らから暴力の行使を含むいじめを受けていることを繰り返しそ れぞれ目撃し、他の教師から連絡を受けるなどして認識していたばかりでなく、昭和六〇年一二月以降 一郎が欠席を続け、登校しても隠れていたりすることも承知していたのである。 一方、第二学年第一学期以降時を追うに従って秋夫、春夫らの問題行動は次第に悪質化し暴力的色彩 をますます強めて、そのため同校内は異常事態となっていたが、中野富士見中学校の教師らは、一郎の 使い走りやいじめの被害を知ってもその実情を究明しようともせず、加害者である生徒らに対しても場 当たり的な注意をするにとどめ、その保護者らに対しても遠慮がちな連絡、注意をする程度で終始して いた。 そして、昭和六一年一月三〇日には、校内で傍若無人に一郎を探し回る本件グループの生徒らに対し て教師らは制止することもできず、毅然とした対応を示さなかったばかりか、本件グループの生徒らの 仕打ちに対する恐怖を訴え、グループから離脱したいと述べる一郎に対し、乙山担任は「本件グループ から抜けるのは、やくざの足抜けと同じように大変だ。」とか「転校という方法もある。」などと述べる に止まったのである。 当時、生徒間のいじめの問題は公立小中学校における緊急課題とされてあらゆる機会にその重要性が 強調されており、中野富士見中学校についても、いじめ問題の理解といじめに対する指導の在り方等に 関する各種資料が繰り返し多数配布され、いじめの問題を主題とした教師研修会にも校長、教頭、教師 らが繰り返し参加する等していたが、本件いじめにおいて一郎の置かれていた状況はこれらの資料等で 取り扱われていたいじめと同質のものであり、しかも、中野富士見中学校の教師らは右のように早い時 期から本件いじめの実態を認識し得る手掛かりを豊富に得ていたのであるから、右各種の資料等で強調 されているとおり、適切な問題意識を持って事態に対処していれば、早期に本件いじめの実態を認識し 得たものというべきである。そして本件いじめは昭和六〇年一〇月頃以降急激に悪質化しており、当時 の状況は既に一郎の心身に対し大きな悪影響の生ずるおそれが存したというべきであるから、中野富士 見中学校の教師らが適切な対処をしていれば、その当時においてそのような実態を認識し得たはずであ るというべきであるが、結局、同教師らは適切な問題意識をもって対処することを怠ったため、最後ま で本件いじめの実態を正しく把握し、教師全体が一体となって適切な指導を行い、保護者、関係機関と の連携、協力の下に本件いじめの防止のため適切な措置を講ずるということができず、かえって、葬式 ごっこにおいては一部の教師らは一郎にはいじめ側に加担していると受け取られるような行為に加わ り、また、一郎からの助けを求める訴えに対しても、教師の側としては一郎の絶望感を軽減させるに足 りるような対応を全くしなかったといってよい状況であって、その結果、一郎が昭和六〇年一〇月頃以 明和学園短期大学紀要
降も悪質化した本件いじめに長期間にわたってさらされ続け、深刻な肉体的、精神的苦痛を被ることを 防止することができなかったものであるから、中野富士見中学校の教員らには過失があるというべきで ある13。
3 判決文から見える教師の法意識
上記A∼Eは、判決が認定した事実と評価のほんの一部であるが、これらからだけでも教師集団 のいくつかの特徴を読み取ることができる。 ① 甲田教諭は当時58
歳・教職経験37
年、乙田教諭は当時56
歳・教職経験35
年、丙田教諭は当時29
歳・教職経験5年(A)というのであるから、関係する教師の教職経験は十分である。 ちなみに担任の乙山教諭は、判決によると当時56
歳、教職経験36
年、一郎が1年生の時の学 年主任であったという。 ② 傷害、暴行などを含む被害生徒に対するいじめが、授業中あるいは教室、廊下などで行われ ている(A)のであるから、教師はいじめの存在およびその実態を容易に知り得る状況にあっ た。現に、判決は、「乙山担任は他の教師らの認知した秋夫及び春夫の状況もその都度知らさ れて十分に認識しており」(B)、「教師らは、本件グループの問題行動が激化していてそれが校 内の異常事態の主たる原因をなしており、一郎が本件グループ内で使い走り役等に使役され ているのみならず、種々のいじめを受けていることを認識していた」(D)、「教師らは、本件グ ループ内において一郎が授業中にすら使い走りをさせられ、あるいは、秋夫、春夫らから暴力 の行使を含むいじめを受けていることを繰り返しそれぞれ目撃し、他の教師から連絡を受ける などして認識していたばかりでなく、昭和六〇年一二月以降一郎が欠席を続け、登校しても隠 れていたりすることも承知していたのである。」(E)と認定している。 ③ 「一郎は、一二月中には、登校しても二週間の間、四時間目の授業の後給食を食べずに体育 館の裏に隠れており、校内巡視中の戊川教諭に発見されると『ここにいさせてほしい。』と懇 願した。」(B)ということをはじめ、教師たちは多くの事実を把握しているにもかかわらず、そ の実態を究明しようとしなかったために効果的な対応がとれなかった。判決は、「教師らは適 切な問題意識をもって対処することを怠ったため、最後まで本件いじめの実態を正しく把握 し、教師全体が一体となって適切な指導を行い、保護者、関係機関との連携、協力の下に本件 いじめの防止のため適切な措置を講ずるということができず」(E)と判示している。 ④ 「一郎が本件グループからの仕返しを恐れて、控訴人らには分からないように乙山担任に対 し控訴人らに実情を話すことを止めてほしいという仕草をしたのを見て、控訴人らに自らが把 握していた一郎の状況等については何の説明もせずに家庭訪問を終えてしまった。」(B)という 教師の判断は、現実から目をそらし、現実の深刻さに立ち向かおうとしない姿勢の結果といわ ざるをえない。 法思想で探る「いじめ」問題の深層と対策(荻原)⑤ 「丙林教頭や乙山担任らは、一月になってからの右のような一郎の度重なる欠席について控 訴人らに対して全く連絡をせず、一郎が欠席を続けている事情等についても確認しようとしな かった。」(C)とある。教師のこのような行為は安全配慮義務に反しているが、教師集団に安全 配慮義務という意識がないことを覗わせる。 ⑥ 「乙山担任自身は、同月一三日に、春夫に授業を抜け出したことを注意して逆に春夫に『な んだてめえ』と言われて胸部を蹴られ、全治三週間の右前胸部打撲、右第五、第六軟骨不全骨 折の傷害を負わせられていたことなどもあって、本件グループの生徒らを恐れており、校内で 一郎を探し回っている春夫、丙山に対し毅然たる態度をとろうとせず、教育相談室で電灯をつ けず暖房も入れず一郎と共に身を潜めていた。丙山及び丁川らは結局一郎を発見できなかった ため、その腹いせに丁田教諭に対して『せっかくつかまえてきたのに、なんで逃がしちゃうん だよ。』などと大声で怒鳴り悪態をついた上、下駄箱から一郎の靴を持ち出してこれを大便所 の便器内に投げ込んで引き上げた。」(C)という状況は、教育の場としてはいうまでもなく、通 常の社会として見た場合にも、無法地帯に成り下がったことを示している。 ⑦ 葬式ごっこの「色紙の寄せ書きに加わった教師らは、本件グループの問題行動が激化してい てそれが校内の異常事態の主たる原因をなしており、一郎が本件グループ内で使い走り役等に 使役されているのみならず、種々のいじめを受けていることを認識していたにもかかわらず、 その軽率な行為によって集団的いじめに加担したに等しい」(D)行為に出た教師が複数いたこ とは、判決が言っているように「特異なもの」(D)である。 ⑧ 「いじめ問題の理解といじめに対する指導の在り方等に関する各種資料が繰り返し多数配布 され、いじめの問題を主題とした教師研修会にも校長、教頭、教師らが繰り返し参加する等し ていたが、本件いじめにおいて一郎の置かれていた状況はこれらの資料等で取り扱われていた いじめと同質のものであり、しかも、中野富士見中学校の教師らは右のように早い時期から本 件いじめの実態を認識し得る手掛かりを豊富に得ていたのであるから、右各種の資料等で強調 されているとおり、適切な問題意識を持って事態に対処していれば、早期に本件いじめの実態 を認識し得たものというべきである。」(E)と判決が指摘しているように、いじめ問題の研修も 受け、資料等にも多く触れていながら、教師たちは適切に対処することができなかった。 前記引用のA、B、Cには、加害生徒たちによる被害生徒に対する執拗かつ悪質な行為が数多く 記されている。 犯罪には「それじたいにおける悪」と「禁じられた悪」があり、それぞれ刑事犯と行政犯、ある いは自然犯と法定犯の区別に対応する。
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世紀後半から台頭してくる近代派刑法学の創始者の1人 であるガロファロは、自然犯とは憐れみまたは誠実という人類の基本的道徳感情を欠くことから生 じる犯罪であるとしている14。 いたずら(悪戯)とは人の迷惑になるような遊びや悪ふざけをいうのであって、刑事犯、自然 犯にあたる行為もしくはあたるだろうと思われる行為をいたずらとはいわない。判決文を読むか 明和学園短期大学紀要ぎり、加害生徒らの「いじめ」行為は迷惑、いたずら(悪戯)、悪ふざけというレベルを超えてお り、憐れみや誠実さを欠いた「それじたいにおける悪」、ないしはそれに近いものといわざるをえ ない。 刑法第
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条は「十四歳に満たない者の行為は、罰しない。」としている。14
歳未満の者は、精神 的成熟が不十分なために、是非の弁別能力または弁別にしたがった行動能力が一般的に未熟である ことを考慮してこのような規定となっている。したがって、14
歳以上の者は刑法上責任能力者とさ れる。少年法が18
歳未満の者の刑の減軽等を規定しているのは、刑法上の責任能力を有する場合で あっても、精神的な発育の途上にあり、その犯罪行為は「環境の影響」による場合が多く、それだ けに教化改善の可能性が成人の場合よりも大きいので、刑罰よりも矯正を本質とする保護処分の方 がふさわしい場合が多いと考えるからである15。 犯罪防止のための「環境の影響」の大きな要素の1つが教育であり、学校教育においては教師 が、家庭教育においては保護者がそれぞれその任を中心的に負っている。とりわけ、ルール・社会 規範・法・正義・責任・強制・権威などにかかわる遵法精神の形成には、集団を対象とする学校教 育の専門家たる教師の役割は大きなものがある。 ここで権威(Authority
)とは、「他者の行動に影響や統制を与える力(権力)を使える権利」16 の ことをいい、それは換言すれば、そのルール・規範の成立の手続や内容が正しいと思うから自発的 にそのルールや規範に従うということを意味している。すなわち、そのルールや規範に「権威があ るから自発的に従う」場合を指すのである。ちなみに、ルールや規範に従う場合のもう1つの考え 方は、「強制されて従う」というものである。 上記③、④、⑤、⑥、⑦、⑧に共通しているのは、ルール・社会規範・法・正義・責任・強制・ 権威といったテーマに対する教師の関心や意識が薄いということである。③において、いじめられ ていることを認識している生徒が給食も食べずに隠れている状況は、教師でなくても成人としての 責任感があれば放っておけない異常事態と思うだろう。④において、精神的な発育途上にある生徒 が、日常的な暴力などに晒され困難な状況に置かれているのに、その保護者に対し沈黙してしまう のは、正義感の欠如と見られてもしかたがない。⑤において、激しいいじめを受けていることを認 識している生徒が長期間欠席しているのにもかかわらず、無関心でいることが問題とならない学 校・教師集団の無責任さは、規範や正義に対する認識の浅さに起因している。⑥において、学校が 無法地帯化しているのに何の手も打てない教師たちは、言葉でもって法や正義について語れないこ とを示している。⑧において、いじめに関する研修を受けても適切な問題意識をもって対処できな かったのは、教師たちの関心が社会規範・正義・責任に向いていないからである。 そして教師のルール、社会規範、法、正義、責任、強制、権威に対する認識・関心の欠如を象徴 するのが、⑦の葬式ごっこにおける色紙の寄せ書きである。いじめられていることを承知している 生徒に対するこのような行為を悪ふざけという意識で行うということは、「いたずら」と「憐れみ や誠実さを欠いた『それじたいにおける悪』」との区別がついていないともいえよう。 このような法意識のもとでは、「忘れ物をするな」というルールと、「暴力をふるうな」という2 法思想で探る「いじめ」問題の深層と対策(荻原)つのルールは、同列のものとして区別なく扱われるかもしれない。もしかしたら、前者への罰の方 が重いかもしれない。 現にこのいじめについて、「どうしたらよいか」「どうすべきか」ということが、教師間、教師・ 生徒間、生徒間でどれだけ真剣に考えられ話し合われたのであろうか。 法(規範・ルール)は「∼べきである」(当為)の世界のことであり、「∼である」(事実)の世 界とは区別される。「人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにすべきである。」と いう記述と、「
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進法で1に1を足すと2である。」という記述は明らかにその性質を異にする。ハ ンス・ケルゼンはこのことについて次のように書いている。 「それでは『規範』とは何か? それは通常、あるべきことないし起るべきこと、特に人間が特定の仕 方で行動すべきことを意味する。それは、意図的に他者の行動に向けられた、特定の人間行為のもつ意 味である。意図的に他者の行動に向けられる行為には、ある行動を他者に命ずる場合(命令)、他者の ある行動を容認する場合(許可)、そして特に他者にある権限を与える場合、即ちある力、特に規範設 定力を賦与する場合(授権)とがある。この意味での行為は、意志行為と呼ばれる。ある人間が、何ら かの行為(命令・許可ないし授権という行動)によって、他者に何らかの行動をとらせようという意志 を表示する場合、その行為の意味は、相手がこれこれの行動をとるで『あろう』という命題では表現で きず、ただこれこれの行動をとる『べきだ』という命題でのみ表現し得る。」17 「『あることが存在する』という存在的事実の記述の命題と、『あることが存在すべきだ』という規範を 記述する命題とが本質的に異なることは、何びとも否定できないであろう。『あることが存在する』と いう命題から『あることが存在すべきだ』という命題を導き出すことも、同様に『あることが存在すべ きだ』という命題から『あることが存在する』という命題を導き出すことができないことも、何びとも 否定できないであろう(註略−筆者記入)。」18 「A君はB君をいじめている。」という記述と「A君はB君をいじめてはならない。」という記述 は、その性質を異にする。前者は事実であり、後者は規範(当為・ルール・建前)である。した がって、それぞれに対処する態度・方法も違ってくる。事実に対しては正確な把握(ファクト・ ファインディング)が大切となり、規範に対しては考え方・判断・実行が重要となる。規範の中核 をなすのは、「どうすべきか」という考え方である。 規範においてはさらに、その周知とそれが守られるための条件の整備が不可欠である。その整備 する条件の中で最も肝腎なものの1つが、規範に違反しているかどうかを判定し、違反している場 合にはどのような罰・制裁(サンクション)を加えるべきかを決定する者の存在である。 「法の歴史は、ルール違背という事実を有権的に確定する公的機関の不在の方がはるかに深刻な欠陥で あることを強く示唆する。」19 教育の場である学校(教室)で、ルール違背という事実を第1次的に確定するのは教師である。 前掲の教師たちがその役割を果たしていないところに、この「いじめ」が深刻化した主たる原因が 明和学園短期大学紀要あったといえよう。 教師がその役割を適切に果たしていくためには、ルール・社会規範・法・正義・責任・強制・権 威といった法認識の形成に必要な要素について、関心を持って考察し、理解しようとする姿勢が求 められる。 学校(教室)において法や正義を担うのは先ず教師であり、その教育・感化を受けて児童生徒も 法や正義に関わっていく。教師が法認識の形成に努力することは、「いじめ」対策として極めて有 効と思われる。そこで法認識の前提となる法規範について、ケルゼンと
H.L.A.
ハートの説くとこ ろをみてみたい。4 法規範の構造
⑴ 強制的社会規範 法認識の形式を意味する法源として、憲法・条約・法律・政令・規則・命令・条例などの成文法 と慣習法・判例・条理などの不文法がある。 そのような法規範の本質は強制的社会規範ということであり、行為規範、裁判規範、組織規範と いう特質をもつ。 法が強制的社会規範であるとは、平等で自由な個人から成りたつ社会において、法を破る者があ るときには、その者の力を超える力でもってその者に法を強制するということである。法は第三者 の強制によって支えられる規範である。そこが同じ社会規範である道徳や慣習と異なる。このこと についてケルゼンは次のように説明する。 「法は強制規範であることによって、他の社会秩序と区別される。その本質的要素は、社会的に有害と 見做された事態につき、その効果として、対象者の意思に反してでも執行され、抵抗される場合には物 理力をもってしても執行される強制という要因である。」20 「強制の要素を法概念に取り込むことによってのみ、法は他の社会秩序から明確に区別され、社会的諸 関係の認識にとって極めて重要で、『法』と呼ばれる社会秩序にとって最も特徴的な要素が、法の判別 基準に高められることになる。特に、法の認識にとって最も重要な対象は近代国家法であり、その国家 は本質上強制秩序、領土を効力範囲とする集権的な強制秩序である。法とその国家との関係に関して は、法を強制秩序であると定義することによって、正しい認識が得られるのである。」21 「ある程度の実効性をもつ社会秩序は、心理的強制力をもっている。宗教秩序などは、法秩序以上の心 理的強制力をもつかもしれない。この心理的強制は、法と他の社会秩序との区別の基準とはならない。 法が強制秩序であるというのは、法(より正確には法観念)が心理的強制力をもつからではない。法 は、法的要件の効果として、生命・自由・財貨などの価値物を強制的に剥奪する強制行為を定める故に 強制秩序なのである。その要件をなすのは、何よりも人間行動であり、その人間行動を強制行動の要件 と定め、その要件事実を行った者(及びそれと結びついた者)に向けて発動する。それによってその行 動を禁止し、違法化し、抑止することを定め、その反対の、社会にとって望ましい、有益で合法的な行 法思想で探る「いじめ」問題の深層と対策(荻原)動へと導くべく規律するのである。」22 法は強制的社会規範であるがゆえに、全ての人間に可能なことを要求する。法の求めることは誰 でも実行できる当然の事柄であり、道徳のようにより高度なレベルの行為を問題とするわけではな い。それゆえ、「法は道徳の最低限」といわれる。 ⑵ 法と道徳の異同 法は外面的規範であり、道徳は内面的規範であるとはカント(
1724
∼1804
年)以降の一般的な考 え方であるが、その意味するところは、法は外面的な行為を判断の対象とし、道徳は良心に依拠し 心の持ち方を問うということである。しかし、それは法と道徳が全くの別物であるということを意 味しない。遵法精神に欠け面従腹背の精神が蔓延しているところで、法秩序の永続性を期待するこ とはできない。法規範が道徳によって支えられ、強制や威嚇がなくても守られていくことが望まし い。H.L.A.
ハートは法と道徳のそのような関係について次のように指摘する。 「責務・義務にかかわる道徳的および法的ルールの間には、したがって、一定の刮目すべき類似性があ り、そのため、共通の用語が使われることは偶然とは言えないことが分かる。その類似性は、以下のよ うに要約できるだろう。両者はともに、拘束される個人の同意の有無とは無関係に拘束力を持ち、同調 へ向けた真剣な社会的圧力によって支えられる。両者とも、遵守することは称賛の対象とはならず、当 然なすべき社会生活への最低限の貢献と考えられる。さらに両者とも、特別な活動や場面ではなく、生 きる上で、日常的に繰り返される状況での人々の行動を統御するものであり、また、ある社会に固有の 現実的あるいは空想上の必要性に対応するものも含みえるが、両者とも、人間の集団が共に生きる以上 は明らかに遵守の必要な要求もする。人の身体や財産に対する暴力の禁止、正直さや誠実さの要請は、 法と道徳のいずれにも見られる(注略−筆者記入)。」23 ⑶ 一次ルールと二次ルールH.L.A.
ハートは、イギリスの法哲学をそれまで支配してきたジョン・オースティンの、法は主 権者の強制的命令であるという考え方(主権者命令説)を批判的に検討し、法をルールの体系とし て捉え、法体系を一次ルールと二次ルールからなる二重の体系として考えた。すなわちルールとい う観念を、個々人がなすべき、またはなさざるべき行動を定める基本的な一次ルールと、一次ルー ルの認定・導入・廃止・変更・違背を最終的に確定する二次ルールという2つの類型に区分した。 「より基本的な一次ルールは、人に何ごとかをするよう、あるいはしないよう要求する。別の類型の ルールは、第一のルールにある意味で寄生する二次ルールである。それは、人が行為や発話により、新 たに一次ルールを導入し、廃止・変更し、あるいは多様な仕方でその適用範囲を確定し、その作用を統 御することができるよう定める。一次ルールは義務を課す。二次ルールは、公私の権限を付与する。一 次ルールは、物理的な動きや変化を伴う行為にかかわる。二次ルールは、物理的な動きや変化だけでな く、義務や責務の創設や変容をもたらす作用について定める。」24 明和学園短期大学紀要ルールの存否に関する疑いを解決する認定の二次ルールが受容されていれば、責務に関する一次 ルールを識別するための権威ある標識を手にすることができると
H.L.A.
ハートはいう。すなわち 認定の二次ルールは、何が法であり、法でないかを決定するルールであり、法の妥当性を確定する 最高のルールだというのである。そして法秩序の基礎について次のようにいう。 「威嚇に支えられた命令への習慣的な服従が法秩序の基礎だという学説の強みは、法秩序の存立と言わ れる複雑な現象に関するこのどちらかと言うと受動的な側面を現実に即して考えるよう強いる点にあ る。他方、この学説の弱みは、法秩序で働く公務員や法律家による立法、法の認定、法の適用といった作 用に(それだけではないが)顕著に見られるどちらかと言うと能動的な側面を覆い隠し歪曲する点にあ る。法という複雑な社会現象をありのままに見ようとするなら、両方の側面に着目する必要がある。」25 「この理論(主権者命令説−筆者記入)が現代の国内法秩序の顕著ないくつかの特徴を説明し得ないこ とはすでに示した。それにもかかわらず、多くの理論家の心を捉えたことからしても、曖昧でミスリー ディングな形ではあれ、この理論には、法の重要な側面に関する幾ばくかの真理が含まれている。しか し、こうした真理は、認定に関する二次ルールが受容され、責務に関する一次ルールの識別のために使 用される、より複雑な社会状況においてはじめて明確に表現され、その重要性も適切に評価される。こ の状況こそ、法秩序の基礎と呼ばれるに値する。」26 責務に関する一次ルールと認定に関する二次ルールの組み合わせに法秩序の核心を見ることがで きるというのである。そして、ルールを遵守する行動を記録し予測するにとどまらず、自身や他者 の行動の評価の規準としてルールを使う人々の観点を内的観点と呼び、そこから語られ、なされる ことは、二次ルールが社会秩序に付加されることで拡張され多様化されるという27。 ⑷ 内的観点と外的観点H.L.A.
ハートは、自身はそのルールを受容せず単なる観察者の立場からかかわるものを外的観 点と呼び、そのルールを受容し行動の指針として用いる立場を内的観点と呼んだ。ルールは外的観 点から観察され記述されるだけでなく、内的観点から理解され、判断の基準となって、はじめて生 きたルールとなる。それを次のように説明する。 「観察者がこうした外的観点に厳格にこだわり、ルールを受容する集団のメンバーが彼ら自身の規則的 行動を理解する仕方を勘案しないとすると、彼らの生活に関する観察者の記述は、ルールに基づくも のとは言い得ず、したがって、ルールによる責務や義務の観念に基づくものではあり得ない。その記 述は、観察可能な行動の規則性、予測、蓋然性、徴候(sign
)に基づくものである。こうした観察者に とって、集団のメンバーの正常な行動からの逸脱は敵対的反応が発生するであろうことの徴候であり、 それ以上のものではない。彼の見方は、交通量の多い道路での信号の役割を観察しながら、赤いランプ が点くときは車が停止する確率が高いと述べるにとどまる者のそれである。厚い雲が雨の降る徴候であ るのと同様、彼はランプを、人々が一定の仕方で行動する単なる自然の徴候として扱っている。そうす ることで彼は、観察対象である人々の社会生活のある局面全体を見落とすことになる。彼らにとって赤 いランプは他者が停止するというただの徴候ではない。彼らは赤いランプを、彼らにとっての停止すべ 法思想で探る「いじめ」問題の深層と対策(荻原)き信号とみなしている。つまり、赤いランプが点くときは停止することを行動の規準とし、責務とする ルールに従って、停止すべき理由とみなす。それに言及することは、彼らが自身の行動をいかに理解し ているか、その仕方を明らかにすることである。彼らの内的観点から理解されるルールの内的側面を勘 案していることになる。」28