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ミネソタは北ダコタと大きく異なっていた ミネアポリスは憎まれた穀物取引の中心地であり, セントポールとダルースは産業と運輸の要地であった さらに都市はいうに及ばず, 片田舎でさえも民族的に多様であった 共和党は産業の豊富な献金や新聞の支援で長くこの州の政治を支配していた しかしアイリッンュセントポー

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8.デヴィッド・モントゴメリ

「農労党」

広瀬和重 【要約】 労働者自身の政党の必要性は長く主張されてきた。しかし労働者の政党とは何か, アメリカの政治的枠組の中でそれはどのように機能するのだろうか。両大戦間期に 全国的な労働者の政党を創出しようとする努力の中でミネソタ農労党(Farmer- LaborPartyofM1nnesota)は州最強の政治勢力となった。その努力の成果 を検証することは,労働者の政党が今日そして未来において何を意味するかをはっ きりと理解する一助となろう。 第一次大戦後新しい政治運動を創出する試みはストライキの波と大量生産型産業 におけるアメリカ労働総同盟(AmirlcanFederationorLabor:以下AFL と略記)の急成長の中から生れた。戦時の経験は日常生活に及ぼす政府の権力を誰 の目にも明らかにした。戦前に労働者が利用できた主な政治上の代理機関であった 社会党は三つに分裂していた。革命的分子はコミュニスト・インターナンョナルと 提携するようになった。1922年までに共産党が小さいながら有力な勢力として出 現した。社会党もミルウォーキーなどでは有力であった。しかし戦前の党員の多く は党を見捨て,純粋な選挙運動に賛成した。そして最も重要な出来事が無党派連盟 (Non-PartisanLeague:以下NPLと略記)の創設であった。 NPLは北ダコタの社会主義者によって創設された。A・C・タウンリー(A、C・ Townley)らが心に描いた農民救済策は農民と労働者の規律ある組織をもって共 和党予選会に参加することであった。支部の会合が候補者選出の母体となった。こ の運動の奇跡的な成功は,1917年の共和,民主両議員のそれぞれのおよそ8割が NPL幹部であったことで明らかである。州知事のみならず両院を支配した1919 年の開期中に,州立銀行,揚穀機,ひょう災害保険,労働者補償金,所得税と相続 税が創設された。アメリカ史上これほど劇的な民主主義の実践は見当たらない。 北ダコタの主要政党の予選会でNPLがそのプログラムに宣誓した候補を選ぶこ とに成功したことは近隣の諸州にその影響力を即座に及ぼした。1920年までにミ ネソタでは5万人のメンバーを擁し50人以上の地方議員を当選させた。しかし, -55-

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ミネソタは北ダコタと大きく異なっていた。ミネアポリスは憎まれた穀物取引の中 心地であり,セントポールとダルースは産業と運輸の要地であった。さらに都市は いうに及ばず,片田舎でさえも民族的に多様であった。共和党は産業の豊富な献金 や新聞の支援で長くこの州の政治を支配していた。しかしアイリッンュセントポー ルでは民主党が勢力を張り,ミネアポリスでは市長に社会主義者トーマス・ヴァン ・リアー(momasVanLear)が選出された。ミネソタの政治反乱はNPLの影 響を受けてはいるが,独自の形態をとっており,そのなかで労働者が果たした役割 は明らかであった。 戦争と戦後の恐慌はミネソタの農民と労働者を結びつけた。アメリカの宣戦布告 に対する反対は広く支持され,この州代表の連邦議員9人中4人が参戦に反対投票 した。NPLが政府に忠誠を誓ったにもかかわらず,戦争反対派がNPLの会議で は人気があった。だが市電運転手のストライキを端緒としたツインンティーでのゼ ネストに対して州知事は公共安全委員会を設置して,反戦派とくにNPLを激しく

弾圧した。さらに,1918年の予選会期間中NPLの会議は19地区で禁止され,

タウンリーは翌年治安妨害で投獄されてしまった。 予選会から政党へ

農民のNPLと労働者のNPLは当初別々に機能していた。ところが両者の結合

した力は共和党を混乱に陥れた。民衆の怒りを鎮めるために明らかに譲歩がなされ

ねばならなかったが,しかし鉄鋼派共和党と穀物派民主党はどちらが勘定を払うか

で互いに争っていた。そのため1920年の共和党予選会では5996の票がNPL候

補に流れてしまった。労働者側は産業公有の思想を紹介し,予選運動を新党結成へ

とかえる運動に転換させ,新党と全国的な第三政党運動との連携を準備した。 NPLはその成功が予選会を通じてもたらされたことを理由に新党結成の考えに 反対であった。しかしウィリアム・マホニー(W111iamMahoney)らの活発な労

働組合活動家達は機が熟していると確信した。農民と労働者は共和党の容赦ないデ

フレ政策と民主党の無能によっていかに酷く疎んじられてきたかを感じていた。労

働者のNPLは1922年の選挙でPLP(Farmar-LaborParty:以下PLPと

略記)に合流するように農民に促した。綱領は労働者の要求に焦点があてられてい

たが候補者は農民運動出身であった。PLPはこの選挙でミネソタの第二政党とし -54-

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て確立された。 最も重要なことは,PLPが二大政党とは別の会費制の組織を作った点である。 党は新聞および教育機関を持ち,年二回の総会で候補者に誓約させる綱領を決議し た。また党が唯一信頼できたことは党員の投票率の高さであった。 ところが全国政党設立の試みは挫折してしまった。戦後恐`院の中で基幹産業の労 働組合は事実上一掃され,AFLの中で革新主義の基盤となった。一方,1922年 には鉄道・鉱山の公有化の促進と連邦議会への労働者の味方の選出を求めて革新的 政治活動議会(ConferenceforProgressivePoliticalAction:以下 CPPAと略記)が設立された。しかしその指導者は新党結成を望まなかった。1924 年初頭までに,PLPが全国的第三政党設立のためセントポールに代表を送るよう に全国の労働者組織や他の組織に要請したとき,サミュエル・ゴンパース(Samuel Gompers)や他のAFLの指導者は組合員の中の新党支持者を猛烈に攻撃した。ま たCPPAはロパート.M・ラフォーレット(RobertM・LaFollette)による大 統領選挙に望みをつないでいたが,彼は労働者の政治的要求を支持したが労働者の 政党の考え方を非難した。こうして早くも全国的政党は消えていった。 いわゆるクーリッジの繁栄の時代にPLPの支持は投票者の20~25筋に沈滞 し,主として貧窮した農民や行き詰まった労働組合員に支えられていたが,大恐慌 の到来は州と全国の運動双方に新しい力と方向を与えた。1928年にマホニーやジ ョン・デューイ(JonnDewey),W・曰.B・デュポイス(W・巳.B,DuBois) らによって結成された独立政治行動連盟(theLeagneforlndependent PoliticalActlon:以下LIPAと略記)は新しい労働者の政党結成のための運 動における組織化の主力となった。1955年までにLIPAの努力は多数の労働団 体から新党結成の要求をひきだすのに役立った。しかしこのような希望は1956年 に突然費えてしまった。労働者無党派連盟(Labor,sNonpartlsanPolitical League)がローズペルト再選に全力を投入し,社会党は独自の大統領選挙戦を行 うことを決定した。1956年5月にLIPAは,新党が共産党によって支配される 結果を避けるためミネソタPLPに新党結成の全権を引き渡す決議を行った。ミネ ソタPLPはローズベルト民主党を無視して全国運動の先頭の立つ立場にはなかっ た。 -55-

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共同国家へ FLPはミネソタで民衆運動の波に乗って権力掌握へ向った。農民休日協会は抵 当農場の競売を阻止し,産業労働者はストライキによって企業連合のオープンショ ップを打ち破るべく闘っていた。また1954年には失業保障,農業抵当猶予を求め るためワシントンに多くのロビー運動が押し寄せた。これらを背景にしてPLPのフロ イト゜・オルソン(F1oydO1son)は1950年の州知事選挙で57兜の票を得て当選 し,52年,54年に再選された。 恐'院の最悪の時期に行政に携わったとはいえ,PLPは他党の様に敗北しはしな かった。新聞や有権者は1955-54年の激しい闘争をFLPの責任だと非難したが, それは労働者への一層の支持と,オルソンと党の綱領の急進化をもたらすことにな った。1954年の大会は単にニューディールにこだましただけではなく,「平和的, 合法的方法で資本主義を廃絶するための。.。迅速な手段」を要求した。 続く4年間企業側のPLPに対する敵意は燃え盛った。それにもかかわらず労働 組合運動の急成長は労働者階級の票を固め,1956年にはエルマー・ペンソン (ElmerBenson)が58筋の得票で知事に当選したほどであった。しかし決定的 弱点はPLPが基盤とした労働運動の分裂にあった。AFLは興隆する産業別組織 委員会(CommitteeforlndustrialOrganization:以下CrOと略記) と工場およびPLPの会議で闘ってきたが,CIOでは共産党が強く,AFLでは トロツキストが有力であるという事実によって特別のイデオロギー上の強烈さがこ の争いに注入された。AFLは共産党によるPLPとCIOを通しての人民戦線建 設の努力に反対した。 敗北と連合 1958年にPLPは岐路に立たされた。大恐`院が二度目の景気後退に陥るにつれ て共和党勢力は全国で急激に増大した。ミネソタでは保守派がFLPの立法プログ ラムを行き詰まらせた。州知事ペンソンのライバルであるH・ピーターソン (HjalmarPeterson)は次第に反ユダヤ的に傾いた知事の指導に反対した。共 和党もFLPを支配する「ユダヤ人の赤い陰謀家」を描いたビラを貼った。ローズ ペルト大統領がペンソンの助けを求める訴えを無視している間に,合衆国下院では マーティン・ダイス(MartinDies)が非米活動委員会を調査のためミネソタに派 -56-

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遣した。 共和党候補ハロルド・スタッセン(HaroldStassen)が5996の得票で当選 したのに対して,ペンソンは5496を得たにすぎなかった。難局を切り抜ける絶望 的な努力の中で,PLPは1958年の大会で社会主義の姿勢全てを払拭することで, プログラムの後退を埋め合わせた。しかし,これは総崩れであった。党員は激減し 運動の内部分裂は激しかった。主だった党指導者たちは,組織から共産主義者と思 われる者を粛清し,民主党との合同を果たそうとした。LIPAと協力した人びと も同じ道を歩み,1958年以降すべての人はローズペルト再選のために努力を捧げ た。 PLPは,左翼の指導者が反ファンズム戦争における団結とテヘラン精神の名の もとに合同運動に合流した1944年に終焉を迎えた。共和党と民主党は会費納入会 員によって運営される労働者と農民を中心とした政党を滅ぼしてしまった。しかし その政党は幾つもの選挙に勝ち,今日まで残っている革新的な政治的雰囲気をミネ ソタ州に吹き込み,アメリカでも社会主義のための政治に従事することは可能であ ることを示した。 PLPは未来の行動に有用なガイドを提供したが,他方で考慮すべき大きな問題 も残している。今日,チカノや女性解放主義者などの新しい社会グループは有機的 な社会主義的政治の中でどう包み込まれねばならないか。大衆政党とマルクス・レ ーニン主義的前衛政党は相互にどのような関係をもつべきであろうか。1958年に PLPが成した様に,攻撃に直面して社会主義の帆を切り取ることは賢明であろう か。それとも旗を高く掲げたまま敗北して次のラウンドを始める大衆的な社会主義 の基盤を消滅させずにおくことができたであろうか。決議の領域を越えて,今日, 労働者の政党をどう動かせるであろうか。これらの問題は我々がミネソタの労働者 と農民の遺産に沿って行動すべきであるとするならば,実生活の中で練りに練って 結論を出さねばならない。 -57-

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