敦
煙
本
提
謂
経
の
研
究
︵ 下 ︶
1 1 1安世高誇分別善悪所起経との類似
1 1 1牧
田
諦
c::t 7己一、諸経録における分別善悪所起経
本研究の︵上︶において、私は塚本善隆博士が三十年以前に護表された﹃提謂経﹄の扶文をふくめて、従来未見の ス タ イ ン 本 ︵ S 二 O 五一文書︶の﹃提謂経﹄巻下の全文を提示し、かっその後宇が、安世高誇として大蔵経に牧められ ている﹃分別善悪所起経﹄とはなはだしく類似していることを指摘し、中園梯教における漢誇悌典、経録に記録さ れた安世高誇と停える多数の経典、そのものについても慎重な考慮を要することを述べた口私は、老人好みの骨董 趣味に賢一するような意味では、いわゆる﹁敦燈皐﹂という言葉には積極的には賛成できない。いくら正倉院に奈良 朝時代の稀賓が蔵せられていても、それらの研究は正倉院墜と稽し得ないと同様に、前後数百年間にわたって、中 園本土や敦伯屈などで書骨持された古寓経、文書類などがまったく偶然に、無作為的に蓄積されて、たまたま二十世紀 初頭に護見された敦健文書の類は、敦埠の土地・文化そのもの L 究明に役だっ若干のものを除いて、すくなくとも 悌教文献においては、その多くは中園本土おそらく長安・洛陽などの中原地方を中心に護達していた悌教の賓態を 知る上に重要な役割を果していることは否定できない。敦煙悌教文献の多くは、中園本土の悌教の貫態を知るため 敦 煙 本 提 謂 経 の 研 究 ︵ 下 ︶ 二 ハ 五一 六 六 の補助的な役割、また疑経研究などの場合はその根本的な役割を果す重要性を持っているとはいえ、 そのものではない。中央から千数百キロも離れた敦爆の地の悌教そのものは、中園悌教史の初期においては、東西 梯教交渉の閥円であった時期もあったが、今日われ/\が知り得る範圏では、敦煙の併教は中園本土の傍教の影響 下において考察されねばならないし、六十七年におよぶという吐蕃の敦爆占領期と勺えども、漢誇悌典を中心とす る悌教が中心をなしていたことに注目しなければならない。好古的な趣味の場からはなれて、敦煙悌数文献を見直 ﹁ 敦 煙 併 教 ﹂ すどき、もはや﹁敦煙学﹂の場から、﹁中園悌教史皐﹂の場へと轄回することが要求される。 従来、疑経なるものは惇統的な悌教皐者によってはなはだしく蔑視され、中国の撰述になる疑傍経典なるものは 悌教にあらずとして、軽視されてきた。今日の教義撃中心の中園悌教皐においては i それも嘗然の成り行きであっ たかも知れない。しかし、今日のわれ
f
\が依援する漢誇悌典論疏などは、いずれも萄版にはじまる宋版大臓経以 後 の 、 いわゆる印刷経典にもとづくものが多い。そして、日本の併教事界で、奈良時代に停来、室面罵された﹃三論 玄義﹄のごとき、教皐的には重視されていながら、中園には後に停えられず、大賊経にもおさめられていないこと は注目すべきである。そのような例外は別として、この大蔵経の組織構成の中心となったものは﹃開元程教録﹄で ある。印刷経典のみならず、書寓大騒経についても、﹃開元韓数録﹄の﹁入戴録﹂が基幹となって、大臓経の編成 長潟が行なわれている。それは、撃の三界寺大蔵経の警についての、長安喜界に援助を求めた文章伊ょっ ② ても知られるし、白居易が自力で寄附した蘇州開元寺蔵経棲の書潟大識経に閲した文献からも知られる。 ど く に 伯 仲 宗 に 通 じ 、 そ の 文 性 愈 高 く 、 今古に博達したと停えられる。智昇によれば、経録の撰述の目的は、経典漢語の員係、すなわち、翻課経典である か︵異経︶、中園人の撰述回収託になるものか、抄出であるか︵疑経︶などの甑別がその重要な問題貼であるとする。﹃開 長 安 西 山 宗 一 珊 寺 の 智 昇 ︵ 六 六 八 l 七四 O ︶は、その皐系を明かになじ得ないが、元理教録﹄巻十八の疑惑再詳、偽妄乱異を録する中について、これらの問題を考察してみると、 疑惑再詳録で、十四部十九巻 係妄範異録で三百九十二部一千五十五容 を算するのである。 こ と に 、 偽 妄 劇 札 口 県 録 で 、 偽経どは邪見もて造るところ、もって員経を説るものなり、大師︵稗尊︶、影を諮してよりほとんど二千年、魔教 きそい興り、正法衰損す、頑愚の輩ありてより悪見迷心もて諸経を健造し流俗を証惑す、邪言、正を観す、かな しまざるべけんや、今、員僑あいまじわり、是非一概となること、誓えばかの明山の賓玉の瓦石と流れを同じく し、謄部の異金の鉛銭と債を湾しくせんことを恐る、ここに員備の分つべきものを件別して、濁れる涯と清む滑 ど、流れを異にして、後に患を胎すことなきようにしたい︵取意︶、 と記すことによって知られるように、道安の﹃綜理衆経目録﹄をふくめた﹃出三蔵記集﹄以来の、中国歴代の経録 の総括としての開元種教録の中に示された、己県経僚経の問題は、漠詳経血ハであることが員経たることの不可紋の要 いかに時代に遁醸した経典であっ 件であり、経録によって疑僑経典と判定されたものは、ことのいかんを問わず、 ても傍妄刷島県として、批難され、排斥されたのである。 必ずしも党語なり、その他の西域の言語に通じていたとは思われない中国人の経録の編集者によって、翻誇経典 であるかいなか、己県経疑経の剣定が行なわれた後に、大小乗経律論及ぴ聖賢集停、総じて一千七十六部五千四十八 巻、四百八十秩に及ぶ現行書寓大蔵経の目録である﹁入寂録﹂上下二巻が﹃開元懇教録﹄巻十九・二十に牧められ ている。第十九巻の﹁大乗入蔵録﹂上には、大乗経律論六三八部三七四五容二五八峡、第二十巻の﹁小乗入戴録﹂ 敦 埋 本 提 謂 経 の 研 究 ︵ 下 ︶ 2ノ\
七
二 ハ 八 下には、小乗経律論三三
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部一七六二巻一六五帳、一O
八部五四一巻五七軟にのぼる党本翻出の賢聖集俸と、中園 人撰集の賢聖集停を併せて、こ L に書潟大蔵経の組織が完成したのである。智昇はこの二容の﹁入蔵録﹂の最後に、 大貫積経に編入されている密迩金剛力士経以下の諸経の出入を正して重複をさけることを明らかにし、また﹃大周 刊定衆経目録﹄には、海度三昧経・観世音三昧経・高玉観世音経などの十部十五容を正蔵に入れているが、これは 奮の経録に僑疑の経として録していることから知られるように、己県経ではないと甑別する理由を記している。そし て、現行の﹃開元韓教録﹄程二十、巻末に附記されている、智昇の開元録編集品︵開元十八年、七コズ U ︶ よ れ ノ 三 十 徐 年 後 の 日 附 の あ る 。 興元元年︵七八四︶八月一日於正覚寺新潟入蔵、便作此目録、 の記事によって知られるように、﹃開元韓数録﹄の入蔵録を基準として大蔵経が書寓されたことが知られる。智昇 によって異織を甑則されて、こ L に漢誇大蔵経の大小乗経律論、西土中土賢聖集停五千四十八巻の組織が確立する の で あ る 。 智昇がとくに、諸経録に僑疑としているのにか L わらず、武周録に正経として入癒しているのは正しくないとし て、湾度三昧経などの疑経十部十五容を翠げて、﹁入戴録﹂から除いて載せずと明断な解決を下していることが知 られる。にもか、わらず、かの安世高評と稀する分別善悪所起経のみについて考察してみても、多くの矛盾がある のである。﹃出三蔵記集﹄巻四には、分別善悪所起経一巻を、他の八四五部八九回答とともに、失課雑経録に、失 課経典の一種として翠げ、安世高翻課とはしていないのである。惰の法経らの編集になる﹃衆経目録﹄巻三にも、 なおこれを承けて、衆経失誇二五O
部二七一容の中に、 一 名 十 善 分別善悪所起経一巻十悪経と記録しているのである。 安世高の傑にいたって、 法経らの﹃衆経目録﹄から三年おくれて、開皇十七年︵五九七︶に費長房によって上進された﹃歴仇三賓紀﹄巻一、 この分別善悪所起経は他の多くの疑わしい経とともに安世高誇と冠せられたのである。 ﹃出三蔵記集﹄省二では、安世高所需の経論は三十四部四十巻と推定され、しかもその中、四諦経などの四経は、 遺安は﹁安世高の撰に似たり﹂と、ひかえめな注を施しているほどである。﹁歴代三賓紀﹄が何にもとづいて、こ のような安世高評と惇える経典を数多く録したのであろうか。他の二経録、﹃彦珠録︵巻三︶﹄と﹃静泰録︵単位三︶﹄は いずれも﹃法経録﹄を承けて紗出・別行として、正式の大蔵経の中にはふくめていないのである。 ﹃静泰録﹄巻一の末に附された記事によれば、長安大線持寺借智通は、貞観九年︵六一二五︶四月、勅によって宮廷 で一切経を寓したさいに、唐初の書家として聞えた椿遂良らとともに校定にあたっているが、この分別善悪所起経 は蛍然書寓されていない。貞観十一年四月には、皇太子が長安延興寺で一切経を書寓しているが、これにも、入戴 目録記載の員経・賢聖集停のみを封象としているのであって、分別善悪所起経などの別生に属する紗出別行のもの いずれも書寝入蔵のわくからはずされているのである。 しかるに、麟徳一元年︵六六四︶撰集の長安西明寺道宣の﹃大唐内典録﹄倉一では、﹃歴代三賓紀﹄の設を承けて、 安世高葬経の部教を一百七十徐部一百九十徐容︵歴代三賓紀は一百七十六部一百九十じ巻︶としている。 は 、 八 一
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部一二八七巻にも及ぷが、 道 宣 が 、 ﹃ 大 唐 内 典 録 ﹄ で 、 従 来 、 ﹃出三蔵記集﹄や﹃梁高信停﹄に、安世高所詳の経は三十九部としているの に、あえて新たにこのような大部な安世高誇経典の名を翠げたのは、 ﹁余慶詞求究、検群録紀述世高、互有出夜、﹂ いろ/\の文献資料をつぶさにさがしもとめて、安世高の翻誇が河西江南においてなされ、大部の課経が ありながら、たんに目録が分散してしまって、その名を知られなかったにすぎないとして、この新しい安世高所課 と し て 、 敦 煙 本 提 謂 経 の 研 究 ︵ 下 ︶ 一 六 九一 七 O の多くの経名を列記したと記している、この記事は、あきらかにその全文が﹃歴代三賓紀﹄巻四に依援しているの司 であって、わずかに、﹃歴代三賓紀﹄に、﹁一貯賞詞・:﹂とあるのを、﹁余慶詞・:﹂と、一字を饗えたのみにすぎない。 ﹃大唐内典録﹄巻十には、歴代所出衆経録自の僚に、秦時の理利防らがもたらした経録として古経録一巻を初めと して、二十九種の衆経録を翠げ、それらを参照したことを述べている。それにしても、竺法蘭・安世高以下の課経 目録の解説に謝する這宣のとりくみかたは、このように、いささか安易に失する憾みがあることはいうまでもない。 道宣の﹃大唐内典録﹄編集から三十一年後の天冊高歳元年︵六九五︶十月二十六日に、洛陽悌授記寺沙門明佳ら七 十名の借が則天武居の勅を奉じて編集し上進した﹃大周刊定衆経目録﹄は、その名の示すどおり、出具経疑経の刊定 をして、正しい衆経目録とするの意であり、 ﹁苦海を出づるの津梁・迷塗を導くの眼目﹂として、疑僑の経典を刻 挟し正法をして久住せしめんがために正経を存し、その備本を去ろうとしたことを序文に記している。 東都洛陽の併授記寺には、印度婆羅門種の慧智が華究の音に通じてその名を知られ、地婆詞羅・賓思惟らの翻経 には、詮義・度語の役を果していた。長害二年︵六九一二︶には﹁観世音領﹂ 一巻を掴持出したと﹃宋高僧惇﹄巻二に停 えている。明佳も出家以来、併授記寺にあって、ことに律を専らおさめ、 は、その代表として、﹁都検校刊定目録及経員偽﹂の肩書をもっていた。 六十七歳の則天武后が唐室に代って周を稽したのは天授元年︵六九O︶九月壬午であるが、それに先だっ二か月、 東貌園寺の償法明らが大雲経を僑撰し、則天武后を禰勅俳の下生どなし、まさに唐に代って閤浮提の主となるべし ④ との文があったことは、著明な事賞であった。また則天武后がかつて市井の一薬貰りであった宮崎小賓を幸して宮中 ﹃大周刊定衆経目録﹄の纂集にあたって にたやすく出入せしめんがために借となし、懐義と名づけた。洛陽の白馬寺の修復成るとともに、彼をその寺主と’ したのはその五年前、垂扶元年︵六八五︶の冬であった。それ以後、自にあまる懐義の非行ゃ、則天武后の寵愛、垂
挟四年には懐義に明堂落成の功をもって左威衛大将軍梁園公を賜うほどの偏ょった行賞さえ行なわれ、 永 昌 元 年 ︵六八九︶九月には、新卒道行軍大纏管として、兵二十高をひきいて突販を討たしめることさえあった。その後も懐義 に朔北道行軍大穂管を任じたりして、寵任は目をそばたしめるものがあったことは、唐の史書に著しい事買である。 しかも則天武店は、金輪聖一珊皇帝・越古金輪聖紳皇帝・慈氏越古金輪聖一珊皇帝などの悌教臭の濃い寧競を加えて、 そのたびに天下に大赦し改元するといつった、常軌を逸したことが行なわれた。妖借懐義に封する寵愛も増してい った。則天武后は懐義にかの有名な爽符の大像を作らしめた。その悌像を奉安する天堂の造営が風害のために意の 如く進渉せず、日に寓人を役し、費やすところ高億をもって敷へ、懐義は財を用うること土のごとしといわれるほ どの浪費をなしたが、武居は全く意に介するところがなかったという。ようやく自らの勢威に購った懐義は白馬寺 に力士の借となったもの一千人を擁して、附近の公私の田宅を侵弁してその大をはかり、すでに七十二歳の老齢に あった則天武居の宮中に入ることをさけたといわれる。延載二年︵六九五︶正月、侍暑の沈南謬が則天武居の幸を得 たときくや心に憧り、爽神大像を杷った天堂に火を放った。劫火は明堂にまで類焼して夜どおし燃えつけ、け、 ザ つ
"
"
にことごとく焼失してしまった。さすがに則天武后もこの事件によって目をさまし、懐義に謝して警戒を怠らず、 たま/\二月には妊士をして、璃光殿前の樹下で懐義を殴殺し、その戸を白馬寺に迭り、懐義は敷奇な生涯をどじ た の で あ る 。 この年の十月二十六日に、明栓らの﹃大周刊定衆経目録﹄十五容が上進されたのである。その纂集に参輿した義 撃の慣の中には、翻経大徳として崇先寺上座法賓・併授記寺紳英・大幅光寺園測︵六二一丁六九六︶・漢三戴翻経大徳 大幅光寺義部、また大雲経の作製に功のあった中大雲寺都維那象城廓開園公玄範・併授記寺主昌卒鯨開国公徳感・ 大一繭光寺都維那譲章懸開園公慧僚、その他、嘗時の代表的な借を数多く参加させてはいるが、その内容にいたって 敦 煙 本 提 謂 経 の 研 究 ︵ 下 ︶ 七七 ほ、すこぶる粗雑の難なきを得ない。 安世高評としての分別善悪所起経も、﹃大周刊定衆経目録﹄容九、小乗重課経自の中に、﹁長房録に出づ﹂として、 後漢代安世高誇として定着するのである。それは経の内容を精密に分析検討しての結論ではなく、さきに記したよ ﹃歴代三賓紀﹄の設を鵜呑みしたにすぎない。 ﹃大周刊定衆経目録﹄の内容については、智昇がその撰集に成る﹃開一元韓教録﹄容十、総括群経録中の大周刊定 衆経目録を許するなかに、この経録の編集にあたって、参輿した法匠は林のごとく多数で、その徳は重く、その名 う に 、 車 に 、 は高い人たちばかりであるが、じっさいにその事にあたったのではない、た、
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末撃のものをさしずしてやらせたに ⑤ すぎず、監修が嘗を得、す、機を逸したのであると指摘しているのは安醤な見解である。が、それは同時に、彼自身 の経録編修についての批評ともなるものであることを知る必要がある。 智 昇 か ら 、 ﹂のような批評をうけている ﹃大周刊定衆経目録﹄は、併教の名をはずかしめた問題の妖借懐義が慮断されたあと、おそらくは併教界の人心一 新の希望をもふくめて、 ﹃大唐内典録﹄以後の新課出経典、前代すでに翻調拝されていて、しかも誇経の目録に入れ られていないもの、また経目に入っていても、あやまって疑僑と注記したもの、これらについて改正増補したとす るものである。分別善悪所起経を﹃歴代三賓紀﹄の説を承けて、後漢安世高誇としながらも︵審九︶、十善十悪経の 異名を持つ、もう一本の分別善悪所起経のあったことを、大小乗閥本経目の篠に翠げている︵巻十二︶。 西音恵帝の代に支法度が訴詳したという分別善悪所起経︵巻七︶と、東音孝武帝の代に竺曇無蘭が揚州謝鎮の西 寺で翻詳したという十善十悪経があり︵巻八︶、これらの混請のためか、大周朝に新たに書寓する大蔵経の目録であ る﹁見定流行入戴録﹂の中には、分別善悪所起経・十善十悪経はおさめていなないことは注目すべきである。もとy
\十善十悪経は﹃出三蔵記集﹄巻三には、安公云出阿昆曇と注記する安公失語録の中に見えるもので、歴代の経録の編集者が果して巌密な審核を行なって鹿理したかすこぶる疑わしいものがある。 ﹃大周刊定衆経目録﹄の編集蕪雑を指摘した﹃開元韓教録﹄は、分別善悪所起経のみについていっても、前者が あえて﹃入蔵録﹄におさめなかったこの経を、後者は、後漢三蔵安世高詳の七十六部の一として、合計五千四十八 巻、四百八十秩の中に入蔵し、員経としての地位を輿えているのである。 この﹃開一元韓教録﹄の分別善悪所起経についての決定は、その後永く員経としての地位を確固たるものとして、 印刷大蔵経にうけつがれてきたものである。
二
、
提
謂
経
に
つ
い
て
兄弟ど稀される提謂・波利の二長者が菩提樹下に悌陀成道ののち、久しく食を揺らなかった程寧に最初に挫蜜を 供養したことは、﹃四分律﹄巻三十一・﹃五分律﹄容十五などに記すところである。この説話が議展して玄英三臓 の﹃大唐西域記﹄倉一に痔与えるような縛喝園の大城西北五十里に提謂城、城北四十里に波利城があって、それT
\ の城中に高さ三丈鈴の翠堵波があり、これは傍成遁後提謂・波利の二長者が成道後最初の供養をなし、併もまた成 道後最初の説法として、二人に五戒十善を読き、さらに記念としてその爪髪を授けたので、これを頂戴して故郷に 持ち障り、如法の制式にもと*ついて悌教史上最初の悌塔を建立したとの記事をうむのである。すでに記したように、 上述の諸経典や太子瑞謄本起経などに設かれるインドの提謂・波利二商主︵長者︶の説話にヒントを得て、北貌の曇 靖が中園風に撰述した提謂波利経二容は﹃出三蔵記集﹄巻五、新集疑経僑撰雑録にも記録され、﹁奮別有提謂経一 巻﹂として、道安以後、梁の借一桁の頃に江南における疑経としての提謂経の流出悼を知るのである。そして、これ以 後の各経録もこれを承けて、疑僑経典として提謂経を記録しているのであり、これは﹃大唐内典録﹄ ︵ 巻 十 、 歴 代 所 敦 短 本 提 謂 経 の 研 究 ︵ 下 ︶ 一 七 三一 七 四 出疑れ経論録︶も同様であり、﹁大周刊定衆経目録﹄栄一十五では﹁僚経目録﹂として、目録とは別行して、とくに異 僑をきびしく刊定した中に、提謂波利経一部二巻をふくめて二百二十八部四百十九部の偽経を列翠し、これらが大 蔵経の中に混入することをふせがんがために、 以上の経は古来、傍謬として停えられてきたものである。その文言が冗雑であり、義理は溌浮であって、併設の 名を倫んではいるが、ついに人矯のはかりごとにすぎないことをあらわにしている o 衆寸迷墜せしめること、 もっぱら斯れによらないものはない。故にくどくどしく、その名前を書きあげたのである。 と 記 す ほ ど で あ る 。 ﹃開元副伴教録﹄巻十八にも以上の諸説を承けて、玉石朱紫形を逃るところなしとして、提謂波利経を俄妄凱同県録 の中に記録している。いま、しばらく、嘗面の分別善悪所起怒と以上、提謂経について諸経録の取りあつかいかた を検討したのであるが、 ﹃関元理教録﹄において、分別善悪所起経は後漢安世高誇の異経、提謂波利経ば中園人曇 靖撰述の疑経と判定され、したがって、以後の書寓大職経からはもちろん、宋以後の印刷大蔵経からも、提謂波利 経は完全に姿を消すのである。後漢安世高誇と惇える分別善悪因果経が異経と断定し得る根撲は全くない。今日に 現在する、大正大識経に安世高需と停える数多くの経典の中に、確買に安世高課というものは、 たとえば道安が ﹁ 安 般 注 序 ﹂ に 、 昔、漢氏の末に安世高なるものあり、博聞稽古、特に阿毘曇を専らにす、その出す所の経典は禅敷に最も悉し、 ⑦ こ の 経 ︵ 安 般 守 意 経 ︶ は 其 の 課 す る と こ ろ な り 、 と、安世高課を断言しているものはきわめてすくない賞例であり、古くから安世高が西紀一五六年頃翻課したと
L
て知られている入本欲生経のごときは、その経序に道安は、斯の経は安世高の課して耳目言となすに似たり、言は古く、文は悉しく、義は妙に、理は椀たし W と記すように、安世高にもっとも近い遺安︵一三四
l
三八五︶でさえ、その謬経にきわめて慎重な態度をとっているの で あ る 。 ま し て 、 ﹃出三蔵記集﹄で安世高誇としていない分別善悪所起経を、惰代になって、確固たる根擦もなくして安 内容においてもどうてい安世高謬とは推定し得ないものを員経としィながらも、 そ の vつ え
、
な お 世高諜と確定し、 ﹃大周刊定衆経目録﹄では﹁見定入蔵録﹂におさめなかったものを、 ﹃開元理教録﹄ではついに大蔵経書罵の基準 としての﹁小乗入蔵録﹂の中におさめたのである。 同一の教設内容を持ち、文辞も全くひとしい表現をもちながら、後漢安世高課分別善悪所起経は巽経としてつい に大蔵経の中に残されて今日にいたっているし、出三蔵記集以来北園沙門曇靖撰述とされた提謂経は疑僑の経典と して大蔵経の坪外におかれて、ついにその痔承を紹ち、わずかに敦爆石室の中に千年の眠りについて、ようやくそ の一本に今日の私たちは曾うことができたのである。私たちは、中園併教の歴史を考えるうえに重大な誤謬をおか していることに気づく。 上下に通じて世の正しいすじみちとしての﹁経﹂というものに封する中国人の惇統的な畏敬の念、それは経こそ が、知識人をはじめ、中園で文字をもちい得るもののすべてが、もの心のついた時からくりかえし習慣的に教えら れ、覚えさせられ、それに随従することが世に立つ人の嘗然の姿であるとして、幾千年の久しいい間もそのことは承 けつがれて、中国知識人の常識どなってきた。インド悌教における修多羅︵ ω己g
︶ も ま た 、 ﹁線はよく華をつらぬ き、経はよく緯を持つ、此の方には線の稽を貴ばず、故に経を容す﹂︵華巌経疏者一︶どいわれるように、俳陀の教 設もまた漢語に﹁経﹂と担評された。そして、いったん翻調評された﹁悌経﹂に封する畏敬の念は、中園人が自己の宗 敦 煙 本 提 謂 経 の 研 究 ︵ 下 ︶ 一 七 五一 七 六 教として外来の悌教を受容するために、中園人自身がよりどころとすべきものは、あくまで翻謬の過程をふんだも の、または翻課経典の清整を望んだ経典撃者、経録撰集者によって、いかなる経過によってでか、ともかく何某需 とされた経典であり、外来品開教が中国人自身の宗教となるためには嘗然経なければならない、中園人自身の撰述に ﹁ : : : ・ : 経 ﹂ と 傍 稽 す たとえそれがいかに時宜にかなったものであるにせよ、 なる、時機相臆の経典なるものは、 ることは、まことにおそるべき悌法を汚す行局として、このような疑問問経典ど稽されるものは、経録編修者によっ て、かたくななまでに拒否されたことは周知のところである。しかも、いま見てきた分別善悪所起経のように、か つては、正鰻不明の失誇経典であるとされても、二百数十年後に編纂された経録に、異経として登録されれば、そ れがそのま L 員経として、宋版大戴経の中におさめられ、ついに今日にいたるのである。﹁経﹂の権威を保たんが ために、翻誇の悌経にあらずとするものを経蔵の中から排除して、後皐の迷塗に壁せんことをふせごうとする。し かし、従来の経録一編修者の操作を見れば、いわば機械的な方法に堕して、いち
f
\、経の内容にたちいって員撃な 検討がなされたとは言い難い。前述のように梯教史研究の第一人者と言われる南山遁宣にしてなおかっこの誤りを おかしているし、智昇もまたこれをくりかえしているのである。 品開陀の金言であり、直読されたものとして尊崇しておかない経本も、すでにひとたび漢課されたものは、その党 語、胡語のいずれにせよ、原本については全くすて L 顧みないことは、中園俳教史に普遍的な事買である。漢掴評さ れて経典としての地位を得たものは、讃請するとせないとにか、わらず、員経として大蔵経におさめられる。たと え漢課であろうとなかろうと、経録に員経として記録されることが必要となる。そして、思惟形態、それを育む風 土の相異・言語理解の困難から生ずる漢語悌典の難解などから、併教の異義をよりよくったえようとして、中園人 自身の理解による沖圃人の経典の撰述は、 たとえそれがいかに時宜に遇うたものであっても、 ﹁経﹂の神聖を汚すものとして排除されなければならぬとする、中華至上主義の立場か hりすれば一見あい矛盾する事態をうむこととな っ た の で あ る 。 た ま
y
\敦煙の石室にのこされたがゆえに今日われf
\が見ることのできる敦煙本提謂経は、この立場から見れ ば、北地にあって北貌太武帝の破併ののち、民間に悌経の流布を紹ち、讃請すべき経典の無いのを慨いて、曇靖に よって撰述され、翼賛上に各地に流行し、惰の開皇ごろ︵五三|六 O O ︶にも、中原の地にこの経設に吟て月 たがいにはげましあったと惇え に二回、白義によって粛曾がひらかれ、多くの信者が集まり、正律を儀範として、 る道宣の﹃農高僧惇﹄巻一︵曇曜惇附見︶の記載のように、庶民の踊信するところでありながら、しかも大蔵経から はその名を求めることもできやす、疑経として蔑視をうけることを徐儀なくされているのである。しかも後の併教皐 者は、このような生きた併教の現賓には眼を向けることを避け、た、三文字として残された経疏をもって悌教のすべ てであるとして、その注樟細疏に身を浸するのである。奈良時代に早く日本に痔わった﹃三論玄義﹄のごときも、 不二の貫相を穎わすの指針として日本では非常によく讃まれておりながら、中園本土ではつとに散在してその惇承 を知らず、三論宗もまもなく法相宗の惇来とともに中国にそのあとをたつという扶態にたちいたっている。中園併 教史の現買を、今日の我々の周圏にある文献による研究もさることながら、さらに深く嘗時の宗教とその梯教の賓 態を十分に認識して研究を進めねばならないのである。、敦煙本提謂経と他の提謂経侠文について
上述のように、吐曾によく信仰されていた提謂経がまったくその姿を中国の悌教界から消えさるのは何時ごろで あるかは、あきらかにしがたい。敦煙本提謂経︵ S ・ 二 O 五一︶の書種から剣断すれば、本誌創刊競に述べたごとく、 敦 煙 本 提 謂 経 の 研 究 ︵ 下 ︶ 一 七 七一 七 八 唐の盛世、開元ごろの寓経と見られ、その費整な書品から推しても、相嘗な知識人︵借をふくめて︶によって筆寓さ れたものであることが窺がわれるのである。このことは、北貌の曇曜とほぼ同時代の曇靖がこの提謂経を撰述して から二百年ほど後の唐の中原の地に、なお提謂経が行なわれていたことが推測されるのである。 塚本善隆博士の提謂経研究に附せられた提謂経侠文二十一篠︵以下、塚本侠文と略稽︶と、敦煙本提謂経巻下︵首候︶ の全文は前挽掲載のごとくであるが、雨者を比較してみると若干の問題がみられる。 付 塚本侠文が敦煙本提謂経岩下の中に見えるものは
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、 −﹀、ヴ 4 、 t ・ 、 司 止 の三項であり、それも全くの同文ではなく、 ゃ 、 出 入 が あ る 。 法苑珠林巻八十八所引の塚本侠文げは若干の文字の異同増減はあるが、敦煙本提謂経巻下の首二十四行とほとん ど一致していて、長安西明寺遁世の﹃法苑珠林﹄編纂嘗時︵線章元年、六六八年︶の提謂経と、敦煙本提謂経巻下が 同一系統に属するものであることが知られる。塚本侠文5
は、智顎の﹃法華文句﹄容十之上に見えるもので、たと え ば5
は 、 ﹃ 法 華 文 句 ﹄ に よ れ ば 、 五戒盛岡諸梯之母、欲求梯道、讃此経、欲求阿羅漢、讃此経、 とあって北地の五時義を難ずる中に、提謂経に説く五戒十善について述べているが、敦煙本提謂経巻下には、 世の富貴を求めんと欲する者は是の経を讃め、後世の長毒を求めんと欲する者は是の経を讃め、骨貴を求めんと欲 す る 者 は 是 の 経 を 讃 め ﹂ に つ 件 、 い て 、 後 欲求併道者、讃此経、欲求羅漢道者、讃是経、欲求賠慧者、譲是経、欲得閉三悪道者、讃是経::: ﹁五戒矯諸俳之母﹂はない。もっとも、 よ り さ ら に 後 の 方 に 見 ら れ る ︵ 創 刊 競 一 五 五 頁 ︶ 。 ど あ り 、 ﹁五戒師矯重﹂、﹁五戒十善、師矯童、震以度人﹂などの句はこれ ﹃法華文句﹄の引用は、智頭の達意的な引用もまじっているのかも知れない D ﹃ 法 華 文 句 ﹄ に
5
に績いて﹁又一五﹂として引用する塚本侠文 6 の 、 五戒者天地之根、衆霊之源、天持之和陰陽、地持之高物生::: の提謂経文は、敦煙本には該嘗するところがない。塚本侠文却に見える、 欲得不死地、嘗偏長生之符、服不死之薬、持長築之印、 の句も﹃法華文句﹄では5
に績いて﹁又云﹂とするものであるが、これも敦煙本には見出し得ない。 巻二三に引用した塚本侠文2
の 、 提謂経云、如有一人在須禰山上、以繊緩下之、 甚 過 於 是 、 ﹃ 法 苑 珠 林 ﹄ 一人在下、持針迎之、中有旋嵐猛風吹、鑓難入針孔、人身難得、 がようやく敦燈本︵創刊誠二ハ四頁︶に、人身のまことに得難いことを説いた筒慮の節略として符合する。これらのこ とから、﹃法苑珠林﹄の引用した提謂経は、敦煙本提謂経巻下のそれとほ Y 一致することが確認される。﹃法苑珠 林﹄巻八八にもと、ついた塚本侠文時の引用は、塚本侠文げに見えるものの意を取ったもので、格別にその全文が提 謂経にあったとは思えない。 口義楚が五代後周世宗の時に﹃懇氏六帖﹄を上進したのは穎徳元年︵九五四︶五月であるが、その編集は乙巴の 時、後耳目の開運二年︵九四五︶に始まっている。その巻六・三長粛月、の傑に引用する提謂経は、﹃法一苑珠林﹄容八八 の八戒功能部に引用する提謂経と同じ部分は塚本侠文相却におさめられていず、後半の一部分が録されているが、義 楚の嘗時に提謂経が世に行なわれていたのかどうかの剣定は困難である。 m w に記すような提謂経の月六粛の説明的 な文辞は、おそらくは﹃大智度論﹄巻十三に見える、 月六粛日使者太子及四天王、自下観察衆生布施持戒孝順父母者:・:・ 敦 燥 本 提 謂 経 の 研 究 ︵ 下 ︶ 一 七 九一 八 O の文に、その源流があることと推察され加すでに鳩摩羅什も、 ﹁如四天王経中併設﹂として、下界に案行して衆 生を観察することを明している。この﹃四天王経﹄は﹃出三蔵記集﹄省四にも、貌呉代の失誇としてその名を録し て い る 。 劉 宋 の 求 那 政 陀 羅 ︵ 一 二 九 四 l 四 六 八 ︶ 需 の ﹃ 雑 阿 含 経 ﹄ 巻 四 十 に も 、 於月八日、四大天王勅遺大臣、案行世間、震何等人、供養父母沙問婆羅門、宗親尊重作諸一繭徳、見今世悪、畏後 世罪、行施作一繭、受持粛戒、於月八日十四日十五日及神饗月、受戒布薩、至十四日、遺太子、下観察世間、震何 等人、供養父母乃至受戒布薩、至十五日、四大天王、自下世間、観察衆昼、矯何等人、供養父母乃至受戒布薩者、 ⑬ と あ り 、 ﹃別語雑阿含経﹄容三の四天王天下案行の設とともに、古く、中園の道教に説くような、庶民の信仰した、 人の行いの罪悪を査察する消極的な行矯と、その善行を査察する積極的な行矯となって経設にあらわれてくること に注目すべきである。この四天王巡遊査察のことは、劉宋の首都建康根園寺での元嘉四年︵四一三︶、涼州沙門智巌 ・ 賓 居 一 試 共 誇 の ﹃ 四 天 王 経 ﹄ に お い て さ ら に 具 髄 化 す る 。 智巌は涼州の人、若くして粛賓に赴いて数年修撃し、併駄抜陀羅とともに東婦し、長安大寺に止住した。羅什と も法相を論じてよき指導者となった併駄抜陀羅が、長安の奮借から掻斥されて庫山に投ずるにおよんで、智巌もま た別れて山東にいたり、始興王恢が宋の義照十三年︵四一七︶、武帝の長安遠征の途次、師に謁してその高風にうた れて途に智巌を伴なって建康に蹄り松園寺を建て、住まわしめたのである。智巌は出家以前さきに五戒をさずかつ てしかもこれを麓犯して心やすまらず、出家後、具足戒をさやすかったが、最初の五戒をすら守らなかったことを恥 じたという。賓雲合否六|四四九︶も智巌と同郷で、東膏隆安︵三九七|四 O 一︶の初め、遠︽西域に赴いて修皐し、法 頼、智巌らと前後して東錆し、長安の悌駄政陀羅のもとで輯業にはげんでいたのであるが、悌駄政陀羅が長安の奮 借によって掻出されるや、賓雲もまた長安を逃れてともに麗由にいたり慧遠の庇護を受け、のち建康道場寺に依止
⑬ した。こ、で智巌ととに並日曜経六巻、慶博巌淳経四巻のほか、この四天王経一巻を共詳している。 さきにもふれたごとく、古くは竺曇無蘭誇とも、失誇ともいう﹃四天王案行世間経﹄があって、﹃雑阿合経﹄巻 四十の抄出といわれる。それらの影響をもうけ、発展したと解せられる﹃四天王経﹄は、併が祇樹給孤濁園で弟子 たちに説法されたこどどして、悌道を求める者は、六欲を愛することなく、情を激い垢を去り、欲を去って求むる 無きことが先ず必要であり、内は清密閉で、外は孝を蚕すべきであり、併の重戒によって、心の積れ病いを治すので あり、そのためには費粛たる静虞にあって、息をととのへ鵡定に入り、源をきわめて異質を求めよとする。人間の 害命はあたかもいなづまのごとくであって、悦忽の聞に消えさるのであるから、月の六粛日にはとくべつに心を責 め身を慎み、むだ口をせぬようにっとむべきである。このために粛日には、四鎮王である四天神王はとくに人の行 震の善悪を伺い査察するのである。此の日、併に蹄し法に鯖し借に騎するもので、併の教のどおりに揮心もて守粛 し貧乏に布施し、持戒・忍辱・精進・繭定の菩薩の業にはげみ、盲冥のものを導き、雨親に孝順で三舎に奉事し、 ひたすら教を受けて四等心を行じ、衆生を慈育している者を見れば一々これを録して帝懇天に報告する。帝韓天や その度合に底じて増毒盆算し、善紳を遣わして、その身 をまもらせるのである。若し一戒を保っているものには五神をして護らしめ、五戒を完全に守っているものには二 十五善紳をつかわして護らせるのである。そして娯疫衆邪陰謀は消滅し、夜は悪夢を見ることなく、懸官盗賊水火 その輔臣である三十二天はその報告を受けて大いに喜ぴ、 災時便はついにこの人を害することなく、調を醸い怪を滅する、四等心五戒六粛を正しく守り行えば、大水をもって 小火を滅するようなもので、現世には何のわずらいもなく、害終の時にはその人の魂紳を迎えて天上の七賓宮殿に 上生すると説く。悪行の人は善神の護ることはなく、害日も減算される。五戒十善によってこそ梯道の悟りを得る ことができると説く。この五戒を具するものが増害盆算の封象となると説くこの﹃四天王経﹄に、六粛日に遣便案 敦 煙 本 提 謂 経 の 研 究 ︵ 下 ︶ /¥
}\ 行の目別が記されているむこれを侠文ゆ﹃調停氏六帳﹄のそれとを封比してか L げ る 。
四
天
王
経
常以月八日、遺使者下案行天下、伺察帝王臣 民龍鬼踊蜜蚊行嬬道之類心念日言身行善悪、 十四日遺太子下、十五日四天王白下、二十三 日使者自復下、二十九日太子復下、三十日四王 復自下、四王下者、日月五星二十八宿、其中諮 天 余 然 倶 下 、組伴氏六帖所引提謂経
又白併言、何故月六粛宜薦、併日、八日遣使 者下、十四日太子下、十五日四王下、二十三 日使者復下、二十九日太子復下、三十日四王 復下、皆在世間、録其善悪、録籍六巻、五慮 録 籍 、 定 罪 一 脂 、 是 以 立 六 日 須 薦 、 助 善 止 悪 、 六日粛、八戒などのことはすでにはやく支謙譲﹃併設粛経﹄や失課の﹃優阪夷堕合迦経﹄などに見えるものであ るが、増害盆算を説く﹃四天王経﹄の設は、期例謬経典であるとしても、なお中園的議想を増添したものと解すべき 刊。敦煤本提謂経単位下には、見ることはできないが、﹃緯氏六帖﹄所引の提謂経の六粛日遺使査察のことは、この ﹃四天王経﹄の影響を感ぜしめるものである。またこのような提謂経の設と同様に、五戒を保てば二十五善紳が守 護するとか、六粛日八王日にとくに戒行を慎めば増毒盆算のことがあると説く揮度三昧経などとも、併せ考察すべ ⑪ き も の で あ る 。 ピ ) 提謂経が五戒十善を説くことは、従来にないことで、このことは塚本博士論文に詳しい。かっ五行思想にも とやついて、五戒・五常・五方・五行・五臓を排列して、 不 殺 生 l o l − − t仁
|
l 東方 1 l 木 1 1 肝不倫盗
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肺 不妄語1
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心 とする。天台智顎は、﹁仁王護園般若経疏﹄巻二に提謂経を引いて、五は天下の大敷、天に在つては、五星、地に あっては五獄、人にあっては五臓、陰陽にあっては五行、帝王にあっては五帝、法にあっては五戒と、五を以て軟 数一とする中国人の習性を利用して撰述された、南北朝時代の外来悌教の中園伯の一形態のあったことを記している。 このことは、外来悌教の民俗化、中園人の韓臭にまで同化しようと努める俳教者の傾向を示すものであることは言 うまでもない。惰の文帝の頃、長安大興善寺に住んだ闇那堀多等の需に俵托した﹃併設三厨経﹄にも、提謂経に見 ⑬ られるような五行設と悌教の麓織との習合が見られることは注目すべきである。塚本侠文3
・
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にも示すように、天台智頭や﹃癖正論﹄の編者法琳らによって引用された﹃提謂経﹄における五行思想の重要さと をあわせ知るべきできる。 塚本侠文ロにいう唐初の法琳︵五七二l
六 四 O ︶の﹃韓正論﹄単位一に引用する﹃提謂経﹄の本文は、敦煙本提謂 経には見ないものであるが、塚本扶文3
、日本鎌倉時代、讃異の﹃法華玄義私記﹄巻十に引く﹃提謂五戒経﹄に出 伺 づという提謂経の、 ﹁五戒をたもって人と矯し、十善を行じて天に生ず:::十善とはともに天地の敷に出づ、不殺 は仁なり、不盗は智なり:::﹂ど五戒を五行に配蛍する設との類似が知られる。 ﹃提謂五戒経﹄という経名も、智 顎の﹃法華文句﹄巻四之下に﹁五戒経又云﹂として南無悌を稽えることを勤める文を出して、江戸時代の揮土宗の 借義山らの﹃和語燈録日講私記﹄巻四にも﹃提謂波利五戒経﹄を引用しているのとあわせて、 ﹃提謂五戒経﹄も銃 敦 煙 本 提 謂 経 の 研 究 ︵ 下 ︶ 一 八 三一 八 四 述のどおり﹃敦燈劫徐録﹄にいう北京圏書館本﹃併設提謂五戒経﹄とともに、 れる。なお﹃和語燈録日講私記﹄には、この﹃提謂波利五戒経﹄は﹃法宛珠林﹄巻三十一に出やっとするが、これは ﹃法苑珠林﹄巻二十三、漸悌篇のあやまりである。 以上の諮黙から、﹃法宛珠林﹄引用の提謂経は、いずれも敦煙本提謂経とほゾ一致することが認められる。そし て五戒と五行の混融読を説く提謂経侠文は敦短本にほ見られず、現在校している敦煙本提謂経の巻上か、岩下の巻 首散扶部分にあったのであろう。 ﹃提謂経﹄の別稀であることが知ら
四
、
敦
燈
本
提
謂
経
の
概
要
本誌創刊旗掲載の敦煙本併設提謂経巻下に説くところは、中国人の信奉する併教とはいかなるものか、その中園 人をして併教に導入せしめんがためには悌教惇選者はいかなる教設をなしたか、なさねばならなかったかなどにつ いて、われf
\に多くの問題を投げかけている。いまこれらについて、現存敦爆本提謂経の教設を見ょうとするの である。塚本善隆博士は、提謂経の侠文によって、きわめて該博な提謂経の歴史的な議展を述べられた。これに謝 して、敦短本提謂経巻下によって、従来未見の提謂経の経説の概要を記すものである。 正月五月九月の春夏秋年三長粛︵各月一日より十五日まで︶、毎月八日 十四日 十五日 二 十 四 日 二 十 九 日 十日の六自粛がある。三長粛月、六粛日については塚本博士の遁切な論放がある。敦燈本提謂経巻下は、塚本侠文 口に見る﹃法苑珠林﹄容八十八所引の提謂経の中途から、その巻首が始まってる。人の善悪の行儀を査察して、罪 一繭の多少をしらべてその結果、一踊の多い者は天に生れることができるとするのである。 この三長蒲月・六粛日ほか立春・春分・立夏・夏至・立秋・秋ハ刀・立冬・冬至の八王日など、月令的信仰にもとづく高物扇生・高物成長・蔦物畢終の正月・五月・九月ゃ、天地諸紳陰陽交代の季節季節のかわりめなどに托してご﹂ れらの日には四天王などが監司のために天より下ってくる。これを避けるため、これらの日にほとくに戒行をつ L しみ、減害奪算と報告されるような種子をまかぬように努め、禁を犯さねばおのずから善慮に生れることができ るのである。この日には人聞はみな南無併と稽えよ。急ぎ三度南無俳と稿し得ば、安穏を得ることができるとする。 ついでまたおよそ悌経としては以合しからぬことがで L く る 。 もしも後世の富貴を得たいと欲する者はこの経を譲め、後世の長寄を得たいと欲する者はこの経を讃め、天上 界に生れたいと欲する者はこの経を讃め、等貴ならんと欲する者はこの経を譲め。 これに績いて、ようやく、 梯遁を求めんと欲す者はこの経を讃め、羅漢遣を求めんと欲する者はこの経を讃め、 と?っ。この二句を天台智ー顎は、彼経云として、 五戒矯諸併之母、欲求悌道、議是経、欲求阿羅漢、譲是経 とするのである。この提謂経は、﹁後世の富貴を求めんと欲する者は﹂との書出しに始まっていることが特色であり、 これを紋くことはできない。普通に避くべきものと教える後世の富貴、後世の長害をまず説き、これを手引きとして、 最後に泥湿遣を得んと欲す者はこの経を讃めと、しめくくるところに、時代に生きる経典としての特質があるので あ る 。 ついで、敦爆本提謂経は、提謂・波利二商主が悌成遁後に初めて程寧に食物を供養した故事にしたがって、五戒 のさとしを受けたことを歓喜して、七日七夜の施をなさんとして併に申したところ、﹁梯歎然聴許﹂し、よって百 味撲を作り、組梓尊をはじめ、諸天龍鬼神に供養したという。天龍鬼神はこの縁によって身は沙問となり、稗寧に随 敦 煙 本 提 謂 経 の 研 究 ︵ 下 ︶ 一 八 五
一 八 六 侍することとなった。 こ L で 悌 は 説 く 。 戒は苦難の海を渡る船であり、戒師は舶師のごとくである、自ら能く舶をあやつり、水流の動向を知り、風を 望んで帆を翠げ、水路を侯知して迷わない能力のある者こそが舵師となることができるのであって、能力の無い つい民救われることはなく、救ってくれる者もない、 自ら能く悌戒を守持して毛分も犯すことのない者は、迷いから解脱することができるのである。 者が品川師どなればいつかは海水中に溺れて死んでしまい、 授戒の法としては、師はまづ五戒を受けんとする弟子が作ってきた、生れてから今日にいたるまでの罪過を機悔 するために、三口問機悔法を授けることをあかしている。三品協悔法とは、善導集記の﹃往生麓讃﹄にも記すもので あるが、﹃往生麓讃﹄中の文句は、善導集記によっても知られるように、唐初の善導の濁創ではなく、善導以前書 潟の敦燈本の種讃類に同様の文句を見るのであり、三品機悔に関する説明もおそらく善導以前から行なわれていた ものであろう。機悔心の強弱によって三品の階差を生ずるのであって、上品機悔はもっとも強い機悔の仕方で、全 身の毛孔の中から血が流れ、眼の中から血を流して餓悔する、ついで中品機悔は、全身の毛孔から熱汗をふきだし、 眼の中から血を流すもの、下品俄悔は、全身に熱気を出し、眼の中から涙を出して機悔するのである。いかなる重 罪小罪ども、このような異心をもって機悔すれば、無始以来の悪業煩悩も消滅して、 子となるとする。この三品機悔法が、 五戒を受くるにふさわしい俳 故師醤矯弟子除宿命罪、至子今日、生長以来患療所作罪過、先授三品機悔法、然乃授五戒、妙法輿之::・ ピ事至極普通のこどどして記されていることは、授戒作法における三品機悔法が悌教犠麓としてすでに定着してい ⑪ たことを思わせるものである。人に戒を授けるこ−どの重大さをこの提謂経は綾々ど説く。そのためには戒師として
の沙門がその戒行を問われる。 戒をたもをなければ、法も律も問題外である。行が法・律に遣っても他人の師となることはできない。まして 戒をたもたず、戒をあきらかにたもつのでなければ、行なうところを知らず、度世の道を求めることに通ぜず、 ちょうど盲人が道を見ることができないのと同じである、如法に戒をたもち意を護り行を守ることができれば、 十悪の地を脱して天道・人道・阿修羅道の三善慮に生れることができるのであり、五戒ということの重大さを知 るべきである。その一戒を失なっても五戒のすべてを失なったのと同じで、地獄・餓鬼・畜生の三悪道におちて、 また出るときはないのである。 併はまた般泥湿の後、現世に五乱が生ずることを憂慮する。王道の乱・人民の乱・鬼神の凱・九十六種外遣の凱 ・正法の乱の五である。 この時、沙門は戒を行ぜず、遊行入出は心のおもむくま L で規制なく、またたとえ奉戒の沙門があっても、衆 とともにこれを非難し、これは沙門というといえども、その私行は戒を犯しており、外には清白をよそおいなが ら、ごまかしにすぎないなどと誘るのである。これを聞いた在家の人や外道たちは、この根嬢のない誘りを異に うけ、守戒清浮の人をけなし、これによって、 いよいよ皆ともに地獄に堕ち、無限の苦みを受けることとなる。 このような五鼠の世には、正法は致滅し、諸天は悦ば、ず、人民は大一掘を得ることができず、地獄に入って計り知 れない長時長劫の苦みを受けなければならない。 ここにおいて、提謂長者は、五戒をたもって一切衆生を度し、 ために三悪道を閉紹することのはなはだ難いこと 慨歎する。 その十悪道とは、地獄道・畜生道。餓鬼道・鬼一珊道・奴稗道・毒獣道・飛鳥道・蚤蛮蝿蛾虫蟻道・蚤姻道・踏 敦 短 本 提 謂 経 の 研 究 ︵ 下 ︶ 一 八 七
4 1 ・ ・ 、 司 、 、 − , ノ , / 狗遣であり、これに龍中苦・仲安係中苦の二を加えて十二悪道ともいう。生きて五戒をたもたなければ、このよ うな悪遣の中に洗倫してしまい、行ないに臆じた報いを受けるのである。五戒を完全にたもったものは、天上に 生れ、人中に生れ、十方併前に生れるという三善道に生ずることができるのである。 提謂経は戒をたもっとたもたざるとの雨者について、綾々としてその鷹報をあきらかにする。そしてとくに戒を 犯す者の十二邪行について、庶民にわかりやすくするため、さらに具瞳的な例を翠げて説明する。 姪逸を喜び他人の婦女を犯す者はのちに飛鳥となる、親族を姪する者はのちに鶏鴨となる、弓万をおびて騎乗 することを好む者はのちに夷人に生れかわる、叙華をつけて喜ぶ者はのちに載角虫に生れかわる、はでな綜服を 喜ぶような人はのちに斑鳥に生れかわる、赤口を喜ぶような人はのちの世に赤鳴鳥に生れかわる、借金を梯わぬ ような人は牛馬に生れかわる、使いものにもならぬような不湾糟糠のものを人や奴稗に施すような者はのちに便 壷中の虫に生れかわる、負債を償なわず、借貸をはっきりさせぬ者は奴伯仲に生れかわる。 このような具瞳的な個々の例をあげて、 五戒のおしえに背いてふしだらなことをすれば、それ
F
\ − ・ 2 後生において 忌むべきものに生れかわるという、自身に則してのさとしは、従来の漢誇律典、たとえば後漢失語の﹃受十善戒経﹄ ・劉宋北印度三蔵求那政摩誇という﹃悌読菩薩内戒経﹄・北涼曇無識詳の﹃優婆塞戒経﹄などの、いわば悌教の庶 民経典ともいうべきものの中にすでに読きあかされている。 しかし、提謂経のように、 五戒を守らず、このようなことをすれば、後空にこのようなものに生れかわると端的 に一示設することは、庶民経典主しての提謂経、あるいはそれを産んだ時代の中国庶民の理解し得る併数意識をあき らかにするものとして、注目すべきことである。 提謂経がこのように五戒をたもつことをとくに強調するのは、悌教のおしえは卒易な日常行儀の賓践がもっとも卑近なかっもっとも重大なことを示すものであることはいうまでもない。敦煙本提謂経がいうがごとく北貌の曇靖 撰述であるかどうかは、現在の下容のみについていづても寝首を依いているため確認できない。しかし沙門統曇曜 の浮度三昧経などとともに、奮詳の諸経が戦火に焚蕩して、庶民を誘導するにたるものがなかったので、曇靖は提 謂波利経二巻を出し、ともかく諸人に悌教の概念を得させようとしたという﹃続高僧痔﹄春一の記事をうらづける も の で あ る 。 自ら戒を犯し、また守戒清白の人を見ては憎みなどいうことは、罪の中でも最も重い罪であり、悪の中でも最 も悪いものである。我が般泥一但後、弟子たちは外皐を雑え、よく一心に専らにすることができず、正経に著せず、 行は戒を究めることなく、聖典を抄出したりして、ついに悌教を翠ぷ者をして正経の首尾も知らず、句義をも知 らず、経本を見ないで抄本によって戒を授けるというようなこととなり、戒文をもさとらず、このようなことで は併設を知らず、解脱を得ることはない。しかも師も弟子もともに得度したというにいたっては、死後ともに悪 遣に堕ちていつまでも度院を得ることはない。戒師、戒を明らかにせず、弟子は師戒を奉ぜず、ついにともは三 悪遣に入るのは嘗然のことである。 かく、くりかえし持戒の重要さを指摘し、五戒をたもつことの困難さを示しながら、それ以上に、人身を得るこ との難さを除をもって示している。提謂らが悌に人身を得ることの困難さについて述べたさいに、併は、 一人が須禰山上にあって織緩を下にたれ、あい去る三百三十六高里の山下にあって、他の一入が針を一持って織綾 のたれさがってくるのを待って、 それを針鼻に通そうとしている。途中には迅速猛烈な風が吹いているので、ど うしたって績が針の鼻孔中に入るはずはない。それでも十劫百劫千高億劫のうちには針鼻に通ることもあろうが、 ト︿身を求めて得ることは買はこれよりもさらにさらに百千寓億倍も難しい。 敦 埠 本 提 謂 経 の 研 究 ︵ 下 ︶ 一 八 九
一 九 O ど説く。また人死して五道に沈治する藤報は、すべて心より生じたものであると説く。 五道の報は皆心から生ずるのである。心に併を念ずれば併となるし、心に人を念ずれば人に生れる報があるし、 畜獣を想えば畜獣となるし、悪を念えば悪報を、善を想えば善報を、苦を種えれば苦報を、一帽を種えれば一踊報を 得るのである。あたかも人が五穀を種えるのに、委をまけば委を、白川をまけば廊を得るのと同様である。人もし 負債があれば嘗然償わねばならぬし、償わなくてよいはずはないのである。 かく五戒を守らなければ人の心は迷い意は閉じて、三毒おのづから生じ、三悪道から出離することはできない の で あ る 。 敦煙本提謂経は、これに績いて、五戒を守らず、五遁に論沈して大生死厄難の地に堕ちて大逆賊に逢い、その苦 みは牢獄よりも甚しきが故に、衆生は明師・善友を求め、時開法惜の三等に孝事し、善師を信敬し、善師に随喜し、 師は衆生に併教の本意を教え、弟子が罪から遠ざかることをさとらしめ、経典の文句義理を了知せしめ、法や律や 行のかのうな者を十方悌は初めて併弟子とするのであり、持戒の完全でない者、戒威儀を行じないような者は併弟 子とはなり得ず、三苦毒から菟れ得、ず、十二窓道から離れることができず、世間の小善の人であるにすぎないど剣 断するのである。 悌は一つまみの土をすくいとり、提謂長者に関われる。地上の土と私のいまつまんでいる土と、どちらが多い かと。長者はこたえる。それはもちろん地上の土のほうが併様の手中にある一つまみの土より多いのはいうまで もありません。併は、世間の人で私の弟子になりたい人はあの地上の土のように多いが、戒をたもってさとりを 得る人はこの私の手の一つまみの土のようにすくないのだ、未来世にはこのわずかの人だけが忍謙でよく五戒を 守る、じかもよく戒を守り威犠を行ずる者こそ非凡の人であるが、世潤ではかえってこれをけなす人が多いのだ
ど 設 か れ る 。 併は設かれる。よく一戒を完全にたもった人には五揺があり、五戒を完全にまもった人には二十五一臓がある D ま た一戒を失えば五悪あり、五善一珊は去ってしまい、五戒を犯せば二十五悪がおこり、二十五善紳は去ってしまう。 このことわりを知って、戒をまもり、一臓を得て、罪を得ることのないようにつ、しむべきである。 敦煙本提謂経に説く、 一 戒 を た も て ば 五 善 一 脚 が 管 護 し 、 一戒を犯せば五善紳去るという教設は、湾度三昧経に読 くところともすこぶる類似している。上述の劉宋の智巌・賓雲共誇という﹃四天王経﹄には、四天一脚王が月八日使 者を遣して諸人の善悪を伺察せしむることを述べたあとに、﹁稗勅伺命増寄盆算、遣諸善紳管護其身、随戒多少、若 持一戒、令五紳護之、五戒具者令ニ十五紳替衛門戸、換疫衆邪陰謀消滅、夜無悪夢、勝官盗賊水火災幾終市不害:・﹂ ⑬ と設くところに、その先縦を見ることができる。また、形式的にはさらにさかのぼった東音天竺三蔵吊戸梨蜜多羅 ︵ 0 ・|三四二︶諜という﹃濯頂三騎五戒帯側護身院経﹄に、三婦五戒法をよくたもって致犯することなければ、二十 五善紳あって人身を管護し高事吉群ならしむとして、その二十五善紳の名とっかさどるところとを翠げていること ⑮ も、中園の庶民経典に共通する現賓の修行|| l 五戒をたもち如法に賓践するを重視する||傾向を見るべきである o この吊戸梨蜜多羅需と停える﹃濯頂経﹄についてはすでに望月信亨博士も翻誇経典であることを疑っている。﹃出 三蔵記集﹄や﹃梁高僧停﹄などの記載によって、﹃濯頂経﹄を島戸梨蜜多羅誇に鶴した﹃歴代三賓紀﹄巻七や﹃開 元韓教録﹄巻三の記事を誤謬と断定し、 ﹃濯頂経﹄が道教の教設などをとり入れて、嘗時の庶民の受容した梯教信 仰に迎合したものする望月博士の設は、経録というもの L 異債を、上述の安世高誇とする﹃分別善悪所起経﹄と同 様に、改めて問うものである。それとともに、今日の中国俳教研究者が、かつての中園に行なわれ信ぜられていた 敦 埠 本 提 謂 経 の 研 究 ︵ 下 ︶ 九
一 九 悌教について、貫際に嘗時の中園祉曾に宗教として行なわれていた悌教であるか否かの検討を経ず、た刊、教義皐的 に瞳系づけられ整備せられて、かっ、たやすく大競経内に見ることのできる敷多くの併教文献に屋倒股惑されるこ となく、その賓態をまちがいなく正確に把握すべきことが要求されるのである。 五 、 提 謂 経 と 分 別 善 悪 所 起 経 敦燈本提謂経では、 に つ い て 、 一戒を失えば五一踊が去って五悪が来り、五戒を失えば二十五一繭が去って二十五悪が来ること 提謂長者、悌に日して言く、何等をか五一脂五惑となすや、願わくば大恩を加えて解説してこれを奉行することを 得 せ し め た ま へ 、 と 記 し 、 ついで﹁悌言、人於世間慈心不殺生、従不殺生得五謡、何等億五一繭﹂にはじまって、五戒を守ることに よって得る二十五一踊・守らないことによって生ずる二十五悪が設きあかされる。すでに前挽︵一七三頁︶に−記したと おり、﹁梯言、人於世間:::﹂以下は、後漢安息圏三競安世高誇とする﹃悌説分別善悪所起経﹄の最初の第十二行 目ハ一行十七字詰の麗本によれば︶から初まるものである。敦埠本提謂経に見られぬその巻首のみを左に記して、提謂 経・分別善悪所起経を考察するよすがとしたい。 併設分別善悪所起経 後漢安息圏三蔵安世高誇 併在合衛園紙一但阿難邪域阿藍時、悌傷哀諸所有生死之類故、結出識微、分別善悪、都有五道、人作善悪有多少、 旗意有薄厚、天道無親、常輿善人、何謂五遣、一謂天道、二謂人道、三謂餓鬼道、四謂畜生道、五謂泥型太山地
獄道、人不求度世道者、生死憂苦不断紹、往来五道、不得解脱、賢者賠人厭於憂苦、見師則承事∼不見則思師数 誠、師数人、去窓就善、示人度世之道、父母養育、老病死亡一世耳、梯度人高世不極、賢明智者宜熟思惟之、悌 告諸弟子、皆聴我矯汝陳説善悪之繭幅、諸弟子皆長脆叉手、言諾受数、 この中、﹁天道無親、常輿善人﹂は老子七九章に見え、また敦短本提謂経には見ないが、 刀杖をもって人を恐れさせず、芋足をもちいて痛を加えてはならないと説くところに、 ﹃ 分 別 善 悪 所 起 経 ﹄ に 、 ﹁己所不欲、不施於人﹂の 論語の顔淵・衛霊公篇の文を引くところがある。 安世高誇として比較的に確貫観される﹃安般守意経﹄ ﹃八正道経﹄などと誇語を比較しても、﹃分別善悪所起経﹄ が一見して漢時の奮謬でないことは理解される。さきに述べたようにこの経は、惰代になって安世高課とされたも ⑧ のであり、その経設からしてもどうてい安世高誇とは考えられず、飲酒三十六失を記す以降の、敦煙本提謂経にふ くまれていない部分をみても、太山地獄中に入る要因として、武器を持って他人を恐れさせるのを喜ぶ者・撰毒し て調和せず、賢者を見ては患り、愚者を見ても意るような者・父母に孝ならず長老を敬わず、他人がその父母に孝 に長老に敬なるを見ては常に奉る者・麓節無き者・財産を持ちながら樫貧で布施せず貧窮の人を見ても愛視せない 者・沙門道人のような明経の賢者に度世の遣を問うこともせず、かえって高才を嫉妬し賢者を誹誘する者などが翠 げられ、このような者は五悪を得て、みな前世の宿命のいたすところ、かくのごときことはあきらかに知られると ころ、慎んで人を恐れさせたり、意ったり、情慢であったり、樫貧であったりしてはいけないことをくりかえし説 い て い る 。 敦爆本提謂経は分別善悪所起経の悌言人於世間、不持佼恐人以下の四十六行︵大正蔵経本五一七
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︶と五字備の全 段を紋いているが、提謂経が分別善悪所起経の経文を随意に利用したのか、あるいは分別善悪所起経がかえって提 敦 煙 本 提 謂 経 の 研 究 ︵ 干 ︶ 一 九 三一 九 四 謂経にもと*ついたものであるかはなお決定しがたい。 梁の借一蹴︵四四五|五一八︶が﹃出三蔵記集﹄巻五に、遭安以後の疑経偽撰雑録中に、すでに提謂経を、﹁宋孝武時 ︵ 四 五 四
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四六四︶、北園比丘曇靖撰﹂ど撰述者の名まであらわにした疑経として明示することは、一方では﹃出三 蔵記集﹄巻四に、借舶が﹁今並有其本、悉在経戴﹂としている失課雑経録中にか L げている分別善悪所起経が失誇 と は い L ながら疑経に類し、道安の失誇経録には見えていないこととあわせて、この雨経の出現がほ Y 同時代であ ることを推察せしめるものがある。また﹃分別善悪所起経﹄は在家が五戒を守るべきことを強調しているが、比丘 の修道を主とする北貌窪曇般若流支諜の正法念露経七十容の影響をうけているものであろうか。これらについては なお検討のあとでかさねて論及したい。 た y 、現行の﹃併設分別善悪所起経﹄について言えば、併典に論語・老子など中園の古典の語を引用するのはや 、古い形式であり、五道を天道・人道・餓鬼道・畜生道・泥梨太山地獄遁とし、度生の遣を求めない者は生死の憂 苦も断絶できやす、いたずらに五道を往来し解脱するこどができず、た Y 賢者騎人は師教を得て悪を去り善に就くの であり、父母の養育、老病死亡などは一世のことであるが、併が人を度されることは高世にかわりのないことであ るという。しかしそれにつゾく五福五善五悪についての経設はいかにも唐突であり、﹃提謂経﹄巻下の経設の方が 具象的であり、経文としての瞳裁はととのっている。提謂経・分別善悪所起経の関連をふくめて、中園撰述経典、 中園人一世曾に行なわれた悌教とその経典、あるいは中園併教の基盤となる漢誇悌典、それらの線目録|経録そのも のについても、なお多くの従来未検の問題がのこされているのである。 ① 註 牧 田 稿 、 中 園 併 教 に お け る 疑 経 研 究 序 説 ︵ 昭 和 三 十 九 年 三 月 刊 、 東 方 事 報 京 都 第 三 十 五 冊 、 三 六 三 頁 ︶ に も 示 し た と と く 、s
− 一 二 四 O 文書﹁沙州乞求遺失梯経吠