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佛教大学総合研究所紀要 2004(別冊 2)号(20041225) 001宮﨑健司「奈良時代の一切経について : 勘経の意義をめぐって (一切経の歴史的研究)」

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(1)

奈良時代の

切経について

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勘経の意義をめぐって

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日本への仏典の将来は、欽明朝の仏教公伝に際し仏像ととも ︵ l ︶ に結論若干が伝来したとする記事がはじめで、仏教の伝来に際 を集成した一大叢書の一切経︵大蔵経︶ して仏政︵の将来が不可欠であったことを示している。また仏胤︵ についても、仏教公伝 一 切 経 の 読 よ 諭 り さ 百 れ 年 た ほ こ ど と の が ち 知 の ら 白 れ(主主 る

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写経という行為は、仏典を書写する行為あるいは書写した仏 典そのものを意味するが、 その内容は仏教教義やその信仰の間 題と密接に関連していると忠われる。 したがって、写経の分析 は、日本仏教の特質の一端を明らかにする重要な問題と考える ﹂ と が で き る c 写経の具体相は の内容・主体・民的によって分類する こ と が で き よ う 。 まず内容としての﹁一切経 L と﹁個別写経 L に分類でき、前者は当該期における仏教理解の状況を、後者は 具体的信仰の動向をうかがう材料といえる。次 の 主 体 と しては﹁国家的写経 L と﹁民間写経﹂に分類でき、前者は民家 仏教の展開状況つまり政治史的・思想史的意義を、後者は仏教 思想の受容実態つまり思想史的意義の材料となるであろう。さ ら に 耳 的 と し て は 、 テキストの弘通を目的とした ﹁ 士 谷 市 圭 一 、 ニ コ ロ 当 日 ” の 崎 M q L

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係数火 υ 守山泌合研究所紀姿別清﹁一切経の医史的研究︸ 寺社などへの奉納を目的とした﹁洪養経︵奉納経︶ L 、書写行為 の功徳を期持する 一 功 語 経 ︵ 願 経 ︶ ﹂ に分かれる。書写行為に 功徳があることは、吋大方等如来蔵経﹄吋法華経﹄など多く仏典 ︵ 6 ︶ に説かれるところである。 本稿では 日 本 古 代 、 と く に 奈 良 時 代 に お け る 一 切 経 常 一 回 写 の 様相を概観し、その特質と意義について、勘経という問題に注 冒して考えてみることにしたい。

一切経とその特質

ー、奈良時代の一切経

菌悶香融氏によって、平く一切経については、 その内容をシ ステムとコレクションに分けて考えるべきことが示されたが、 そこでは七陛紀半ばの日本ではシステムとしての一切経は知ら れていたが、現実にはコレクションとしては兵俄していなかっ ︵ 7 ︶ たことが指擁されている。また、同氏は、奈良時代、ことに正 倉院文書を中心として、 一切経だけではなく、時々の要請で個 加に書写された間写経の分析も重要であり それによって当時 の仏教界をリードした皇室仏教

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内裏の仏堂を中心とした仏教

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の 、 その時々の傾向をうかがい知ることができるともいわれ [JI:j て い る 。 ︵ 8 ︶ 奈良時代の一切経のついては、近年の正倉院文書研究の進展 によってさまざまに議論されるようになり、栄原永遠男氏や山 ︵ 2 ︶ 下有美氏の研究がそれらを総括するものとしてあげられる。さ 切経を基軸に仏教史を畏望された らに古代から中佐にかけて ︵

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︶ 上川通夫氏の研究も重要な指摘を多く含んでいる。以下、先行 研究の成果を参考にして、奈良時代の一切経を概観していくこ と に す る 。 切経の缶来は先に指摘したように、自殺二年の読諦を初見 としては天武二年の川原寺でのものをはじめとする ︵ 日 ︶ が、六六

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年頃には入居僧道昭が多くの詩論を将来し、養老一 と し 、 八︶の入唐僧道慈の帰朝に諒しても仏政︵の将来が推定 さ 年 れ(( る店七 さ ら 天 平 七 年 r七 には入唐僧玄肪が最新の経 録である τ開一冗釈教録﹄とそれに恭づくっ経論五千余巻 L を将 ︵ 刊 日 ︶ 来し、天平勝宝六年︵七五由︶唐僧鑑真の来朝や披を伴った遣 唐使によっても仏典がもたらされている。 このような絶え簡ない仏典の将来や最新の中国の仏教事情が 輸入されるなか、奈良時代、 とくに天平期には律令田家によっ て数多くの一切経が書写されていくことになり、表ーに示すご とく、当該拐には二十蔵をはるかに越える一切経書写の盛況ぶ りをみることができる。

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律令国家による一切経の は、主に国家的写経接構によっ て担われていくことになるが、 その楼績は、皇后宮職系写経機 捕と内裏系写経機構に大別することができる。 皇后宮職系写経機構は、天平八年︵七一一一六︶以前に光明子の 皇尼宮職管下の写経機構において写経が行われたのが、変還を 遂げながら罰家的写経機構として整俄され、天平二十年頃には、 東大寺の造営官司である造東大寺司管下の写経一所として重要な 役割を果たすことになった。奈良時代の古文書として著名な正 倉院文書は、主にこの造東大寺可写経所に伝来した帳簿群であ る 。 一方、奈良時代の写経では皇后宮職系写経機構のみが注目 されるきらいがあるが、もう一つの重要な写経機構に内裏系写 経機構がある。内裳系写経機構の存在は、上述した一切経の現 存最古の書写例である聖武天皇発願一切経の天平六年︵七三 四︶の願文にみえる﹁写経司﹂によって指摘され、 そののち皇 后宮職系写経機構の写経事業と関連しながら、奈良時代後半の で需品きをなしていった。また、現存古写経や史料によ ってこれら毘家的写経機構とは別にもさまざまな写経機構が存 在 し 、 や俗人また地方での書写もみいだせる。 切綬の さ て 、 は 、 皇 百 官 職 系 写 経 機 構 で は 、 光 明 子 発 ︵ 日 ︶ ︵ 山 山 ︶ 願一切経︵五月一日経︶・大官一切経︵先写一切経︶・後写一切 ︵ げ ︶ ︵ 刊 日 ︶ 経・周忌斎一切経などがあげられ、内裏系写経機構では、現存 奈良時代の 閉 山 総 に つ い て ︵ m 印 ︶ 最古の聖武天皇発願一切経・孝謙天皇発願一切経︵景登山一切 経︶などがあげられる。また商機構にまたがるものもあり、甲 ︵ 初 ︶ 部一切経・五部一切経があげられる c その他の写経所でも藤原 ︵ 円 一 ︶ 農成家での藤原義成一切経︵のち閣来日寮一切経︶や藤原北家で ︵ 幻 ︶ ︵ お ︶ の元興寺北宅一切経︵藤原夫人願経︶、善光朱郎経・吉備由利 ︵ お ︶ 切経などがあげられる。 発 願 以下、当該期の 切経の特質をみるため、代表的な国家的 切経の来日写例として、光明子発願一切経と孝謙天皇発願 切 経 にしぼって、内容とその特質をみていこう。

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、光明子発願一切経と孝謙天皇発願一切経

奈良時代の一切経の書写として、もっとも代表的なものは、 光明子発願一切経のうちのひとつで、天平十二年︵間二

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︶五 月一日付けの願文をもつことから﹁五月一日経﹂と称されるも ︵ お ︶ のである。以下、﹁五月一日経﹂と略称する。 五 月 一 日 経 は 、 の総数が約七

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巻にも及んだと考え られ、聖護蔵に現存する約七五

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巻に巷陪にあるものをあわせ て 一

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巻ほどが伝存している。その書写の経緯は、正念龍 文書によって詳細に追うことができるが、 おおむね以下のよう で あ っ た 。 皇后官職管下の写経所で天平五年頃にはすでに器始されてお 五

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係数大学総合研究所紀研究別府 切 山 花 の 際 史 的 研 究 り、ある 切結を書写する方針であったが、天平七年 へ印悶 学していた玄防が帰郭し 間 一 冗 十 八 年 ︵ 七 一 二 ︵ ︶ ︶ に成立し たばかりの最新の経鉱である吋開元釈教録﹄とそれに基づく仏 政︵が将来されたことにより、大きく書写の方針を変更すること になる。天平八年九月からは

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向元釈教録﹄入議録︵五

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四 八 巻︶に基づく一切経の に変更され、玄妨将来の仏典が借用 され、底本とされていった。しかし、実際には玄防はすべての 入蔵録の仏典を将来したわけではなかったようで、底本がすべ て揃わず卒業が停滞する。天平十五年五月からは吋鍔元釈教 録﹄の入蔵録以外の別生経・疑偽経、 さらには日録自身にも掲 載されていない目録外経や中語や朝鮮半 γ 烏で作成された章疏類 をも含めて書写することになったようで、 おそらく当時 E :l

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三 に所在するあらゆる仏典を書写するよう、第二の変更がなされ た 。 そ の 後 、 は 天 一 千 勝 支 八 歳 ︵ 七 五 五月に聖武天 息没したことによって終了したと考えられる。この問、天平勝 宝四年︵七五二︶臨月の東大寺底会那大仏間限会で講説、転読 に使用され東大寺に施入されたほか、後述するように天平勝宝 五年

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七歳にかけて他本との対校である勘経が行われている。 五月一日経は、こののちの一切経のモデルとされ さ ら の底本としても重要損されていくとことになった。 五 月 日経とならんで、奈良時代の 切 経 常 一 日 写 の 事 例 と し て

代表的なものが、孝謙天皇発願 二︵七六 切経で 八︶年五月十三日付けの願丈をもつことから、 ︵ お ︶ と称されているものである。以下、 一 切 経 ﹂ 切経﹂と略称するコ 一切経も、書写総数六 にのぼるものと考え られ、聖護蔵の約七 と巷間にあるものとあわせて八

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巻弱が伝存している。その の経緯も五月一日経と同じく 正倉院文書によって追えるが、以下のようであった。 内実系写経機構である写御者所で書写がおこわれたが、天平 宝字二年︵七五八︶ には書写事業が始まっていたと忠われる。 天平支字六年六月ごろには孝謙天皇の側近を中心として助経が 行われ、天平祢護元年︵七六五︶一一一月から五月ごろにかけてそ の卒業は御執経所に引き継がれていった。そののち御執経所は 一切経可に発展したが、勘経が神護景雲三年七月ごろには 終 了 し 、 一切経の卒業がすべて終了している c その内容は 一日経と関様で、吋問問一冗釈教録﹄入蔵録を基準としながら 別生経・疑偽経や自録外経、 また琉などを含むものであった。 助綬に際しては、 五月⋮日経をはじめ、水主内親王経・ z 務祥師 ・内堂経・盟主悶議経などのテキストが対校本とされたが、こ とに五月⋮日経が重要視されていたと考えられる。 山下有晴夫氏は、これら光明子発販の五月一日経と孝謙天皇発 車立 切経は奈良時代を代表する国家的写経であり、律令

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詞家によって認定された一切経としてつ勅定一切経﹂と称され ︵ 幻 ︶ て い る 。 ﹂の二つの勅定一切経で共通するのは以下の で あ る 。 告閉山家的写経機講︵皇后営戦系写経機構と内裏系写経機 構 ︶ で の 求 一 写 争勅定 切 経 の 恭 治 十 u 萩テキストとし 切 経 と し て 、 の ち の て重要撹 @その構成の特殊性︵﹃隠元釈教録﹄入蔵録を基本としな がら、間生経・疑偽経、日銭外絞、京疏も含む︶ ﹂ の う めて重要であると思われるのは一切経の構成の特 殊性である。それは 切経の受容、仏教理解に関わる問題とい え る か ら で あ る 。 まず﹃問問元釈教録﹄入蔵録を基準とすることの意味について で あ る 。 ﹃ 開 元 釈 教 録 ﹄ は 間 山 中 市 福 寺 の 経 議 整 備 を 自 指 し て 底 開 一 冗 十 八 年 ︵ 七 一 一 一

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︶ に智昇によって撰述されたもので、私撰 ながら成立後に流布・普及して事実上勅撰に準ずる存在として 大きな影響を与えた。その吋開一冗釈教録﹄成立の五年授の天平 七年に玄坊によって伝来されたのであり、中間における最新経 録として重視されたと考えられる。これはや到の最新の仏教事 靖が日本へも大きな影響を与えているといえよう。 次いで、入蔵録以外の民生経・疑持経、 また目録に掲載され 奈良時代の 州 出 1 札について ない目録外経や章疏を含むことについてである。開生経・偽疑 経や目録外経が含まれていったことには、当時の日本の仏政︵理 解の実状との関わりが考えられる。 山山下有美氏は﹁一切経自録巻下 L ︵ 続 々 修

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︶ に 注 目 さ れ て い る 。 氏 に よ れ ば 、 ﹃ 開 一 冗 釈 教 録 ﹄ 巻 二

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末尾の不入蔵日誌と称すべき部分に該当する仏典につい て 吋 問 問 元 釈 教 録 ﹄ ではさまざまな理由によって入蔵しなかっ たが、当時の日本では、真偽判定が不可能で、遺漏した場合を 危倶して取りあえず入蔵しておくという状況であったとし、偽 疑経に対する嫌悪感が薄く、受容側の限界によるとされている。 今 C 戸 り をふくむ点についてである。日本では 切経を ﹁経律論疏築伝﹂と呼称するように章疏類も一括として考えら れている節がある。仏政︵研究の未熟な当時の日本においては、 経律論の議説に章疏が必要、不可欠であり、論と章疏の差異の 認識が少なかったのではないだろうか。東大寺ト八仏造立の思想 的基盤となったと考えられる天平十 ︵ 七 郎

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︶ からのコ来 厳経﹄講説についてみると、 その経疏である法寂述コ紫厳経探 玄 記 ﹄ ︵ 六 十 華 厳 ︶ や 恵 苑 述 ﹁ 山 県 常 絞 略 疏 刊 定 一 記 ﹄ ︵ 八 十 華 厳 の \ョノ へ の 依 存 が 顕 著 で あ り 、 仏 政 パ で さ え 、 の成立にかかわる関連 ︵ お ︶ かなり遅れて注話されていることがわかる。 ま た 仏 政 ︵ の 注 記 に 際 し て 吋 回 目 u 一 じ ョ 、 、 ん 人 王 ι 1 1 a γ ノ 市 別 v v h U 3 ヲ A r 斗 必 n b の み で は な く 、 以

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係数大学総合研究所川必要別附﹁ 切絞の校史的研究 の経録にも依拠していた。制えば、﹁可詰本経目録﹂︵続々修 は ノ 4 一 ︹ ︸ ︶

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︶ によれば、旧録への関心もうかがわ 十 ノ れる。これらは既に受容された仏典とそれに基づく数学が厳然 と存在している以上、 その扱いをどうするのかという向題があ ったのではないかと思われる。日本への仏教公伝は百済からで あり、当初、部鮮半島からの影響は多大なものがあったと推定 されるが、仏政ハに認しても、唐からの将来仏政ハ以外に、多くの ︵ 幻 ︶ 朝鮮半島からの将来仏典が存在していたと推定される c 釈 丈 ﹂ ︵ 続 出 品 ︶ ハ J

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土 、 R 1 1 ヅ t g v 草書された舶載 朝鮮半島からの、 ︵ 日 記 ︶ 経が多く存夜していたことを想像させる。このような状況下で は﹃開元釈教録﹄のみでの仏政︵集成は、当時の日本仏教の教学 を包括することが不可能ではなかったのではないだろうか。宙開 僧鑑真の来尽による受戒制度の刷新に際し、既存の受戒による ︵ お ︶ 僧侶たちの抵抗が存在したことにも象損されるように、すでに それまでの仏典受容を背景として数学が形成されていたことを 想像させるのである。 これらの一切経の構成の特殊性、多犠性の背景には、上述の さまぎま状況があり、 それらを包括する一切経を策定する必要 があったと考えられる。 し た が っ て 、 い わ ば 当 時 の 現 存 仏 政 ︵ の 全集成を意図するものになったといえるが、これは n u 本独自の スタイルではないかと思われる。それが﹁勅定一切経﹂として /\ 出家によって保証されることになった。 勅定一切経が臼本独自のあり方を示していることを篠認した が、これが日本独自ゆえにその内容が対外的にも意味あるもで あるための証左が必要となったであろう。その点で注意される のが将来仏政︵への依存の問題である。五月一日経が﹃隠元釈教 による一切経と方針変更した当初、玄時将来経を一括して 世用していたが、道昭の将来した禅設所蔵経も平く惜用されて ︵ 引 制 ︶ いる。このことは別生経・疑偽経および目録外経を含みながら も、その将来続ゆえの尊重があると忠われ、これも受容側の限 界を一不すものであろう。これら将来経の信頼性は設世まで尊重 されている。さらに勅定一切経を権威あるものにする方途が、 将来経・渡来僧による勘経という問題であっただろう c 次いで 奈良時代の勘経についてみていくことにする。

仏典の勘経とその意義

五月一日経の勘経

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は管見によって勘経追抜の確認できる五月一日経を一覧 ︵ お ︶ にしたものである。追販の書式は大きく⋮一 に 分 け ら れ る が 、 その代表的なものは次のようなものである。

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吋過去荘厳劫千仏名経﹄巻上︵聖諾蔵︶ 天平務支七歳正月十日従八位上丹波員外呂日誼造蓑麻呂正 正八位上行大学少罵内蔵伊美吉全成疋 b 「 大 大徳、 #三興 記 王 子高 月 寺 蔵

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7 月 心 ノ 司 J T 成 問 。 在 、 V 1 下 r t ノ イ t r q l一 一 一 一 日 沙問涼忍

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体 ︵ 鈴 解 脱 経 ﹄ 一 ︵ 聖 語 蔵 ︶ 天平勝宝七歳九月三日詫七位上守大学直講上毛野君立麻呂 正 大 徳 一 冗 興 本 寸 沙 門 勝 叡 大徳沙門了行 ﹂ 、 高 山 ド グ H a a a d 事 芯 ﹂ ノ イ 1Yp − − 3 比 業了沙門法隆 これらの追践は本文や額文と筆跡が異なるのは勿論であるが、 追践にみえる官人と沙門の筆跡もそれぞれ異なり、 それぞれの 自著であったと思われる。 この勘経追践で勘経の作業を推定させる記載として﹁正﹂ の三種があげられる。﹁正﹂は一見﹁校正 L の 時 記 かと考えられるが、五月一日経は校生によってすでに一 屈の校 奈良時代の一切経について 正がすまされており、 ﹁ 一 校 了 ﹂ ﹁ 二 校 了 ﹂ その場合は な ど と 記されているのでこの記載は校正とは考えられず、勘経に関す る記載であったと思われる。次の ﹁ 社 祝 ﹂ であるが、﹁校訂作業 一方︵俗人と僧椙の組合せの相場合は僧侶︶が読 ︵ 幻 ︶ み、他方が聞きながらチェックしていく﹂と推定される例があ は 二 人 一 組 で 、 ることから、勘経のために仏典を音読したことを示すと思われ る。そして最後のつ証﹂はそれぞれの勘経作業の確実に済まさ れたことを証明するという意味といえよう G 但 し 、

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には僧名 の後には﹁証﹂の字がみえないが、勘経を示す記載の﹁証﹂が 略されているものと思われる。 僧侶の場合は所属寺院を明記するものとそうでないものとが b の 相 場 合 、 琳 一 燃 は − 大 安 寺 沙 門 ﹂ と 記 さ れ 、 他 の 行 総 州 ︵ お ︶ ・敬明・玄蔵・環忍についてもいいつれも大安寺の僧侶であり、 あ が 、 C の 場 合 も 勝 叡 は ﹁ 大 徳 一 冗 殴 ハ 寺 沙 門 L 記され、他の了行・法隆 ︵ 却 ︶ がいずれも元興寺の僧侶であったことがわかるので、おそらく 一番はじめの僧侶のところでみえる寺指名がすべての僧恨の所 縞寺院であったと考えられる。 したがって、仏典は寺院ごとに 分担し勘経がなされていたともいえる。 限られた史料ではあるが追践の中で俗人である官人は特定の 寺院の僧信との組み合わせがみうけられ、各寺院ごとに特定の 官人が担当していたといえよう。 つまり、林連広野は大安寺で、 )L

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(11)

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の史料の場合、上述の関係からすると 造蓑麻呂と内蔵伊美士口全成は興福寺ということになるが、慈訓 は飢ハ揺寺僧ではあるものの、天平移宝⋮一 字五年︵七六一︶ l主 法 華 寺 の 外 Ui!~ | 淀 居 住

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ことや日置造蓑麻呂と内蔵伊美方全成のいづれもが外鴎院関係 の文書に署名してしることから、慈訓らの関与したこの勘経は 外崎院におけるものと忠われる。 さ て 、 五月一日経の書写事業が天平勝宝末年まで続いていた ことは先に述べたが、 b の刀人集経月成分﹄巻一は た と え ば 、 調男尿によって天平十三年出月に、 C の﹃深密解説経﹄巻二は 出部花万呂によって天平十三年十一月にそれぞれ書写されたこ ︵ 臼 ︶ とが知られるので、勘続は時間をかなりおいて行われている。 そこで、正倉院文書によってその勘経の様子をみてみたい。 大安本寸に宛てた天平勝宝七年五月一 十七日付﹁造東大寺司 牒﹂︵続設崎 四 ノ 六 一

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︶ によれば、造東大寺市が大安寺か 奈良時代の一切経について らやってきたっ廻使﹂によ口一切経﹂と﹁図書寮経一を討して たことがわかるが、大安寺が造東大寺司に遣わした﹁廻 世 ﹂ の 持 参 し た 仏 典 請 求 の 大 安 寺 の 牒 と 思 わ れ る 断 能 文 書 ︵ 続 々 修 部 ノ 6 裳 十三ノ一凶四

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、以下﹁大安寺繰﹂と仮称︶ が あ り 、 そ れ に は 、 一 切 経 内 者 ﹂ し か し 、 の み が み え る 。 それらの仏典を先の﹁造東大寺可牒﹂によ口一切経内者﹂とみ える項の仏典と比較するとほぼ一致している。次に﹁造東大寺 可牒 L にみえる台一切経と詞書寮経の の具合を表にしたも のが表

3

である。これによれば完全な 致をみぜないもののか なりの仏政︵が重複をしている。しかも﹁大安寺牒﹂には﹁於大 安寺為勘正﹂とあって大安寺において勘経をするための仏政︵の 請求であったことが知られる。 しかし、これだけでは台一切結 を勘経したのか、合一切経を一一社本として臨書寮経を勘経したの かは即座に決めがたい c そこで注目されるのが図書寮経が﹁経 井 軌 大 庶 ﹂ からの舶載経であったことである。 おそらく拍 : ョ j J 設経である図書寮経によってム口一切経を勘経したと理解するの

(12)

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と 工 つ ニ チ J J j J J L 一切経﹂の呼称は﹁皇后官職﹂に 由来するものと考えられることか ら、天平勝宝元年に皇后宮職が紫 機中台にとなることで Ja 一 切 経 L は ﹁ 紫 州 問 中 ム ロ − 切 経 ﹂ の 略 称 であるよ口一切経﹂と称されるに いたったと考えられ、両史料がま

(13)

さに五月二位経の勘経に関するものであったと考えられる。さ らに﹁造東大寺司牒 L に﹁廻使﹂とみえた林連広野は﹁大安寺 牒 L には﹁専受勘経使﹂とみえ、彼が大安寺における勘経の担 当であったと考えられ、これは上述の表ーから想定した五月一 日経の助経における林広野と大安寺との関係を証明するもので あ る 。 先の﹁造東大寺司牒﹂では﹁今月廿六日牒 L によって仏典を 奉請したとみえているが、この﹁牒 L が﹁大安寺牒﹂ではない ﹂とは日付の棺違から知られるところである。 つまりこの勘経 は大安寺でも造東大寺可でもない第三者の﹁牒 L によって命じ られたと推測できる。ところが﹁大安寺牒﹂では﹁内宮どによ ︵ お ︶ るとみえているので、この勘経が﹁内宣 L つまり内裏宣によっ て命じられたものであったと考えられる。ただし内裏宣を直接 大安寺が受けて行動したというよりも、内裏宜を受けた﹁牒﹂ に よ っ て ム 叩 令 さ れ た と 思 わ れ 、 おそらくは﹁造東大寺司牒 L に みえる﹁牒﹂もこの内裏宣止を受けて出されたのであり、 そ の ﹁諜﹂によって造東大寺司が行動したものと考えられる。 し た が っ て 、 ﹁ 造 東 大 寺 司 牒 ﹂ と ﹁ 大 安 寺 牒 L から知られる ﹂とは、大安寺での五月一日経の勘経は林広野を専当として大 安寺で実施されたといえ、 しかもその命令は内裏宣によるもの で あ り 、 そ の 内 裏 白 日 一 を 受 け た ﹁ 牒 ﹂ に よ っ て 缶 達 さ れ た こ と が 奈良時代の一切経について わ か る 。 大安寺における勘経と向様な例が興福寺にもみられる。天平 勝宝七歳四月二十一日付の興福寺宛てつ造東大寺可牒﹂︵臨民 17 二十五ノ一八五

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︶ が そ れ で 、 その冒頭には異筆ながら ﹁詰山寺階牒﹂とみえ、大安寺の場合と時様な記載様式となっ ている。この史料にみえる台一切経と鴎書寮経との重複を示し た 表 4 に よ る と 、 やはり多く向一仏典が奉請されていたことが 知 ら れ る が 、 それらのことより大安寺と同じく五月一日経の勘 経史料と推定される。興福寺宛ての﹁造東大寺可牒﹂の末尾に は﹁蕗大岡僧妙仙正満僧﹂とみえている。謡大関︵大正︶は天 ︵円引︶ 平勝宝罰年頃に入麿学生の経験を持つ人物で、﹃金制菩薩註金 ︵拍叫︶ 側紋若経﹄を招来したと伝え、仏典にも造詣が深かったと思わ れるので興福寺における勘絞の使者となったと考えられ、膳大 同らは大安寺における林広野・倦等鏡と伺様な存在であったと 思われる。輿福寺宛ての﹁造東大寺南諜﹂には大安寺の例にお ける﹁内宣﹂やそれを受けたと思われる﹁牒﹂の記載はみられ ないが、勘経が実施されるにあたっては同様な事活であったと 考 え ら れ よ う 。 ところで先の﹃過去荘厳劫千仏名経﹄巻上︵聖語蔵︶は﹁大 認輿福寺沙門慈訓証﹂とみえることから輿福寺での勘経を想像 させるものであったが、阪ハ福寺における勘経の専当の宮人は膳

(14)

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大同と考えられるので、 やはり上述のごとく慈訓と日置蓑麻呂 内蔵会成の勤経は法華寺外嶋読におけるものと思われる。 以 ー と 五 月 一 日 経 の 勘 経 が 大 安 寺 ・ 間 出 ハ 福 寺 で な さ れ た こ と 、 そしてそれは天平勝宝七歳四月および五月頃に内裏宜を受けた 何者かの﹁牒﹂︵以下の考察からおそらく僧締牒であろう︶ よって勘経が命じられたこと、大安寺では林広野が、飽ハ詔寺で は膳大岡が勘経の専当官人となったことなどが明らかになった。 また大安寺・興福寺宛てのこ通の造東大寺弓牒においてよ口一 切経﹂のみならず図書寮経の山山総が指示されていたことは五月 一日経および図書寮経が当時造東大寺可で管理されていたこと が推定され興味深いが、特に図書寮経が造東大寺可の管理を受 けていたことは﹁図書寮経呂録 L ︵ 続 々 修 臼 ノ

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十三ノ一七 )¥. \ーノ や﹁毘書寮経散帳﹂︵続々修ロノ 6 十三ノ一七二 j ︶ が造東大寺可に残されたことからも想定される。図書寮経が鴎 4 品目寮より造東大寺司に移されるには、五月 百経の対校テキス トとして唐からの舶載経であった図書寮経が注目され借用され 表 5 ノどλ ll[J 令 ︵ 米 間 同 ︶ tjj ミ メ サ 品 主 Q I 総 所 今 同 月 十 五 日 牒 ︵ 内 室 ︶ 今 日 信 網 燃 約 旧 ’ 綱 今 日 間 服 今 月 十 五 日 牒 ・ 8 ・ M m ・ 8 ・ M m

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奈良時代の一切経について ! 切 切 切 切 i絞 絞 絞 経 たためではないだろうか。 さらに薬師寺・大安寺・元興寺 における五月一日経の 融経を匂わす史料があり、 いづれも天平勝宝七歳八月十六日付 の も の で 、 ﹁ 元 興 会 主 一 綱 牒 ﹂ ︵ 続 別 9 関ノ七二、﹁某勘経所 牒 L ︵ 塵 芥 幻 哀 j ︶ 、 ﹁ 薬 師 寺 三 綱 井 勘 経 所 牒 ﹂ ︵ 続 開 四 ノ 七 9 四ノ七

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︶ 、 ﹁ 大 安 寺 三 綱 牒 ﹂ ︵ 続 別 9 の 由 部 ノ 七 一

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︶ 通がある。これらの史料の内容を比較した表

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によれば盟通の 丈舎はほぼ同一内容に関する一連のものと思われるが、 い ず れ も八月十五日ないし十六日付の﹁僧稿牒 L の命によって﹁一切 経 L を泰請することに関する文書といえる。四か寺の文書のう ち で そ の 内 容 を 一 番 詳 締 に 知 り う る ﹁ 一 冗 興 寺 一 一 一 網 牒 ﹂ に よ れ ば 、 元慰ハ寺は八月十五日に﹁鵠網牒﹂︵他の三か寺のうちこか寺は 十 六 日 付 ︶ を 受 け た が 、 それは﹁一切経 L を泰請せよという っ 内 安 一 L によってそれを寸法花寺中嶋院﹂に奉読するように牒 し た も の で あ り 、 それによって元興寺は﹁一切経 L を奉請した というのである。この﹁一切経﹂という記載によると各寺院に 保有する一切経を奉読することが述べられているよ 勘奉八十九巻 三位 3 2 並 存 立 一 同 パ 苅 うだが、元興寺の関連文書として、 法 花 寺 中 川 町 院 元 輿 点 一 リ 勘 経 所 解 中勘泰経井未勘事 ム 悶 玖 拾 五 巻 五

(16)

紳 削 教 大 学 総 合 研 究 所 内 総 姿 別 冊 ﹁ 一 切 経 の 授 史 的 研 究 ﹂ 未 勘 六 巻 四 ⋮ 脇 信 一 巻 右、今勤奉経弁未勘如件、 の 銀 事 状 申 送 、 以 解 、 天平勝宝七歳八月十七日散位従七位上上毛野君 立万呂 二 冗 ケ 参

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鴎 ノ 七 一 一 一 ︶ とみえ、先の﹁元興寺コ一綿牒﹂にいう九十五巻の﹁一切経﹂の うち、八十九巻が既勘、ムハ巻が未勘であることを報告している ので、ここでいう﹁一切経﹂とは各寺院の保有したものではな ぃ。したがって、ここにみえる﹁一切経 L とは街を指すかが向 題となるであろうが、この文書に署名している上毛野立万呂は 表ーによって、元興寺における五月一日経の勘経を専当した官 人であった考えられるので、この﹁一切経﹂とは大安寺・輿福 寺と悶じく台一切経つまり五月一日経を指し、これらも五月一 日経の勘経に関するものであると考えられる。 つまり上述の如く大安寺や興福寺では天平勝宝七歳四月・五 月頃に勘経がなされていたが、一克服ハ寺や薬師寺においても同様 に五月一日経の勘経が実施されていたといえる。また﹁内裏 の命に基づき八月十五・六日の﹁僧縞牒 L によって五月 日経がいったん法華寺中嶋院に阻収されたことがわかるが、一冗 間出ハ寺で器管されていた九十五巻のうち六巻は未勘のままであっ たことによりこの時期至急回収しなければならない潔白があっ J司 ノ\ たものと思われる。なお

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の﹁某勘経所牒 L には輿福寺におけ る五月一日経の勘経を専当したと目される膳大詞︵大正︶が箸 名しているので興福寺に関するものであったかも知れないが、 特定の官人が複数の寺院における勘経を担当した可能性も否定 ︵ ぬ ︶ しきれないだろう。 さて五月一日経の勘経について今まで大安当了興福寺・薬師 キ 一 了 一 冗 興 寺 ・ 外 鴎 誌 等 で 実 施 さ れ 、 そ の 命 令 は ﹁ 内 裏 官 一 L を受 けた﹁僧網牒﹂によって命じられ、 その仏典の管理については 造東大寺可が関与していたわけだが、勘経を主体的に進めた機 関は果たして出納をしていた造東大寺可であったのであろうか。 この間題を検討するため再度勘経に関すると推定される天平勝 宝七歳二月九日付﹁外鴎龍一切経散帳 L ︵ 続 々 修

2

ノ 叩 ー ト ノ をみていくことにする。 本史料は追筆の表題に﹁外鵠院一切経故報﹂とみえて外鵡院 の関係文書に署名している上毛野君粟守・日置造・大鰐君足 田口兄人らが署しているので外嶋院で作成された文書といえる が 、 ﹁ 為 正 、 奉 請 寺 々 、 リ 丹 市 港 請 内 裏 L とみえ、仏典を正すため に内裏と寺々に奉読した記録である。寺々としては、﹁薬師寺﹂ ﹁ 大 安 寺 L ﹁ 飛 鳥 寺 L ﹁山科寺﹂という記載がみえるものの、 ﹁ 内 裏 ﹂ と い う 記 載 は な い 。 しかし仏典名の右肩あるいは右下 に﹁内﹂とみえるものがいくつかあり、これが内裏へ奉請した

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仏 政 ︵ で あ っ た と 考 え ら れ る 。 ﹁ 如 員 請 また追祭もままみられ、 了 ﹂ ﹁ 詰 支 積 経 正 一 昨 ﹂ ﹁ 詰 留 花 厳 講 師 所 し な ど の 追 筆 が あ る 。 さて追筆の表題に﹁外鴎続一切経散帳﹂とみえることから外 切経を外鴎践に貸し出した記録のよう ︵ 一 計 ︶ に感じられるがはたしてそうであろうか。これに関して﹁外鴎 鴎 院 に 一 昨 載 さ れ て い た 院 制 御 殿 経 奉 出 丈 L ︵ 続 々 修 2 ノ 凶 十 一 一 一 ノ 一 五 二

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一 二 ︶ との関 係が興味深く、ここには﹁東大寺所蔵紫微中台御願一切経中之 経、今奉出内裏壮一誠一切経所如件﹂とみえ、これは外嶋院が造東 大寺司から奉読した﹁東大寺所蔵紫微中ムロ御願一切経﹂を内裏 に奉請した報告書であるといえる。 表 6 は﹁外鴎設一切経散帳﹂と﹁外嶋院御願経泰山山丈 L お よ び上述の関連文書を対比した 覧である。これによると﹁外鴎 院 切経散帳﹂の内裏への奉請を意味すると考えられる﹁内﹂ : ﹂ ゴ 岩 山 工 、 カ 伝 卜 d c v x ふ つ ﹁ 奈 川 欣 草 市 庁 カ イ ヨ 1 −

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f L へ の 奉 請 が 追 筆 さ れ た 仏 政 ︵ と 、 ﹁外嶋院御願経泰出文﹂にみえる仏政︵とで多く一致することに 気付く。需文書の日付が接近していることからが河一の仏政︵群 について語られたものと推定され、 ﹁外嶋混一切経散帳 L こ い う﹁一切経﹂とは﹁東大寺一所蔵紫微中台御殿一切綬 L に関する コ 全 県 民 拡 丹 市 巾 向 ヨ

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紙 切 さ n H 6 h ” し ︵ 幻 ︶ とは外向島院に所在していたので、内裏から外島院へ泰請先が変 も の と い え る 。 ﹁ い を JL 丈 控 ヰ 市 中 将 叶 1 1 寸 品 川 明 ニ ザ 向 。 h H r f ﹂ とは慈訓のことで 更され、これらの仏政ハは天平勝宏七歳八月十じ日に﹁内裏読一 奈良時代の一切経について 切 経 所 ﹂ へ奉読される際、外島続から送られることになったと 思われる。さらに﹁外島設一切経散絞﹂のなかで

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口 察 善 悪 業 点 事 況 t E d J イ F h 耳 R b の割註に﹁丹波員外目白蜜造正、又証本可見花厳講 師大徳証 L とあることが注意される。これらは現存五月一日経 の吋過去荘厳劫千仏名経﹄巻上の勘経が日量蓑麻呂と内蔵全成 および慈訓によって外島院で行なわれたとする推測を鋳証しう る も の で あ ろ う 。 ただこの割註は難解であるが、 日 同 夜 明 日 品 ﹂ 淋 呂 が 校訂に当たるに際して、証本には先にみた舶載経の盟書寮所蔵 経によるのではなく、特に慈訓の所持していた本を用いるべき ﹂とを指示したものと理解しておきたい。ところで五月一日経 は 天 平 勝 宝 元 年 以 降 ﹁ ム 口 一 切 経 ﹂ と 称 さ れ 、 それは﹁紫微中台 一 切 経 L の略記であろうと指摘したように、ここにみえる紫微 中台一切経とはまさに五月一日経をさすものと考えられる。表 6 には表 2 にみえる五月一日経の現存仏典名も註記した︵※を 付 す ︶ 。 また、表

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・ 4 の大安寺・興福寺に宛てられた ﹁ 造 東 大寺河牒 L の仏政ハのうち図書寮経のみで台一切経にはみえない 仏 政 ハ が 本 史 料 の 該 当 寺 院 の 項 目 の 仏 政 ︵ と ほ ぼ 致していること がわかる。本史料の年紀が天平勝宝七年二月九日と早いことか ら こ の 時 点 で 関 金 一 回 寮 経 に し か み え な い 仏 典 名 の ﹁ ム 口 一 切 経 ﹂ ︵五月一日経︶がすでに大安寺・輿箔寺に奉請されていたもの と思われる。現存する勘経追裁を持つ五月一日経と﹁外島院

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表6外線|徒一切経

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内 三i 造寺河? ぐ 〉 切経散帳﹂の関係で大平 聡氏も指摘されている如 ︵ 犯 ︶ く、勘経追践をもっ五月 一日経の現存状況は﹁外 島院一切経散続 L に み え るそれぞれ勘経された寺 院の項と一致し、勘経追 抜の日付からも矛盾する ものではないのである。 以上のように﹁外鵠院 一 切 経 散 帳 L が五月一日 経の勘経に関する史料で あるとなると、ここにみ え る 仏 政 ︵ の 大 部 さ か ら こ の勤経における外嶋院の 占 め る 位 置 が 門 店 呂 さ れ て くる。また一時外鵠院と 同じ法華寺内の中嶋院に 勘経中の五月⋮日経が間 収されていたことも出意 される。それとともに造

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東大寺司との関係も問題となるであろう。五月一日経とそれを 対校するための図書寮経が造東大寺司にあったのであるから、 やはりそれは造東大寺可にあてたものであったと考えるのであ る さて五月一日経と臨書寮経をめぐっての外鵠院と造東大寺可 の関係で注意されるのは仏政︵を管理するシステムであろう。そ の点で興味深い史料は造東大寺司の﹁経疏出納帳﹂︵藤芥却哀 一 一 ⋮ ノ 六 朗 二

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︶ の次の史料である。このうちに吋遺教経論﹄ 巻が天平勝宝六年四月五日に造東大寺司次官牲恰街祢の宣によ っ て 唐 和 上 れ れ の所へ送られたことが記されるが、﹁写経雑 物出融緩 L ︵ 塵 芥 お 裏 か ら 実 際 に は 仏 品 川 ハ は 外 崎 涜 四 ノ 一 一 一 一 一 一 ︶ から送られたことがわかる。 したがって仏典は外鵠院にあった のでありそこから転送されたわけである。この史料は造東大寺 司に宛てられた文書をつないだ帳簿にあるものである。これは 恐らく前者の史料が仏政︵管理の正式な出総帳簿として帳簿上は 造東大寺一時を管理主体として、公式には造東大寺可と貸出し先 の関係を記載するものであり、現実の仏典の移動はこのケ

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ス のように転送されるような場合もあったであろう c つ ま り 、 五 月一日経と図書寮経をめぐっても造東大寺司は単なる管理機関 であり、勤経はむしろ外鵡院主導の下で進められたと考えられ る。したがって、外鴎設から出された五月一日経の泰詰先の報 奈良時代の一切経について 告文書を受けた造東大寺司は、 その文書に﹁外嶋院一切経散 帳 それは外鵠院に貸出した ﹁ 一 切 経 L と追祭したのであり ︵ H 五 月 一 日 経 ︶ の﹁散帳 L を意味したものと患われる。 一方﹁外鴎詫御願経奉出文﹂の日付は天平勝宝七歳八月十七 日になっており、この日以前に﹁内裏読一切経所﹂に仏典が奉 請されたことがわかるが、上述の出か寺の牒に天平勝宝七歳入 月十五日ないし十六日の﹁僧網牒﹂によって勘経途中の五月 日経がにわかに法華寺中鴎院に図説されたことと関連するもの と 思 わ れ る 。 つまりこれら勘経途中の五月一日経も﹁内裏読 切経所﹂に奉読されなければならなかったが、 それは五月一日 経の勘経事業の主体の一部であった中嶋院にいったん囲収され てのち内裳へ泰請されたことを意味し、勘経事業の主体がやは り法華寺であったことをうかがわせる。 ところで上述の五月一日経の勘経史料で仏典名の制作開閉するも のはすべて大乗仏典であったが、この﹁外鵠院一切経散帳﹂で は 吋 施 陀 越 国 王 経 ﹄ ﹃ 五 分 律 ﹄ ﹃ 枇 閉 山 母 論 ﹄ の 一 一 一 部 は 小 乗 経 律 に 属するものである。これによって主に大乗仏典類がまず最初に 勘 経 さ れ 、 ついで小乗仏政︵類に進んでいったのではないかと推 制 さ れ る 。 五月一日経の勘経が実際の よりかなり時間を経てなされ たことは先に述べたが、 その目的は何であったのだろうか。五

表 6 外線|徒一切経 i 孜事長と関連文;没との対よと ! 1 1 I  外1q (}続一切* £ l l i i l l 長 j 天 平 議 室1 . s . 1 1 1 x i '’ 誇 : i '
表 9 l&#34;大~Ui'i経」(49会 120巻)Klzyぇ子、コ4J一二仁よ作ルト1∼F 絵、巻数 会数 日〉ぷ二、 名 ミ 官 / 与 Z え タ と ノ ん 丸 新l 臼 l i i

参照

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