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「適応」する祭り
三池本町大蛇山の事例を中心に
キーワード:都市祭礼、大蛇山、適応、コンテンツ化、再帰、行政管理型祝祭 人間共生システム専攻 室越 龍之介 はじめに 本研究は都市祭礼についての研究である。都市祭礼 については柳田が見物人の発生や都市農村連続体の観 点からすでにその特徴が指摘されていた[柳田 1962]。 しかし、民俗学においては主に農山村の研究が蓄積さ れ、都市研究は行われていなかった。1960 年代に文化 人類学的見地から行われた柳川、米山の研究が都市祭 礼研究の先駆けと言える。[柳川 1971 米山 1974]米山 は特に京都の祇園祭、大阪の天神祭について大都市に おいて、調査を行っている。九州においては竹沢、福 間の博多の祇園山笠についての報告、研究がある[福間 1994 竹沢 1997]。竹沢は博多祇園山笠、歴史的、構 造的、社会学的に調査、分析し、報告しており、従来 の都市祭礼研究に乗っ取った網羅的な研究を行った。 また、福間は北部九州に分布する祇園山笠の伝播関係 を指摘し、都鄙連続体としてそれを分析した。 本研究は大牟田市三池所在の祇園祭礼行事と大牟田 市における大蛇山祭りについて研究した。 これまでの研究では、京都、大阪、博多あるいは金 沢、東京などいずれも歴史的にみて、古くまた大規模 な都市での祭礼について取り上げている。しかし、大 牟田市、あるいは三池は歴史的に見てそれほど大規模 都市とは言えない。三池は中世に豪族の三池氏の拠点 また、肥後‐筑後の流通拠点として町を形成し、現在 でも初市が立っている。その後、三池藩の城下町とな り、また宿場町として発展する。しかし、本格的な発 展は幕末に発見された炭鉱が明治期に開発されて以後 である。つまり、大牟田、三池は都市的要素を持って はいても、比較的小規模かつ新しい都市である。その ような地方の小規模都市を都市祭礼研究として取り上 げた。 都市祭礼研究は竹沢が指摘するように、規模が大き く歴史資料が多いため一人の研究者が調査、研究を行 うことに限界がある。先行研究のいつかは学生を動員 した集団調査を行っている。あるいは、数年に及ぶ長 期的な調査が行われている。筆者は 2008 年から大蛇 山についての調査を断続的に行った。また、他の調査 者と連携をとりながら、不足を補った。 調査方法は大きく三つに分けられる。一つ目は地域 の古老への聞き取りである。これにより、1949 年代ご ろ以降の歴史的経緯や非文字史料を集めた。二つ目に 歴史資料を収集した。主に、柳川藩、三池藩の文書と 地元史家の報告・研究、また各町史、市史を検証した。 三つ目に参与観察を行った。祭りの主な担い手である 氏子集団の年中行事や祭礼行事に同行、参加し調査を 行った。 1.大蛇山祭りの歴史について 大蛇山祭りは柳川市、みやま市、大牟田市、南関町 と主に旧柳河藩、三池藩地域に分布している。柳河藩 の藩祖である立花宗茂は夢に蘇民将来のお告げを得て 以来、祇園信仰が厚く、宗茂から知行を受けて独立し た三池藩でも祇園信仰が受け継がれた。立花氏は領内 の祇園社を再建、あるいは創建した。 祇園祭は主に牛頭天王を祭る祇園社の祭礼である。 もともと 863 年に平安京で行われて御霊会に起源があ るとされている。祇園祭は一般的に夏の祭礼行事であ る。春や秋に行われる農耕に関係した儀礼と異なり、 祇園祭は疫病除けの祭りである。都市においては疫病 の流行が大きな災厄となる。この点で祇園祭をはじめ とした夏の祭礼は都市祭礼の様相がみられる。 大蛇山祭りと同じ祇園祭には博多祇園山笠が見られ る。博多祇園山笠は北部九州一帯に伝播しており、似 た形式を持った山笠が多く存在する。大蛇山は山笠と 同じく装飾した山車を曳くが山を担ぐ山笠と異なり、 車輪のついた山車を曳く。この形態の違いは博多祇園 山笠と大蛇山祭りは同じ祇園祭の流れを汲むものの、 異なった系統の祭であると言える。 大蛇山祭りは三池の発祥であると言われている。三 池地方では立花氏の入部に伴って祇園信仰が広まった2 と考えられる。三池町は中世から交通の要衝であった が、立花種次が三池地方に一万石の知行を受け、三池 町に陣屋を置き、城下町となった。1640 年には島原の 乱の戦功を祈願するため、三池に祇園社を勧進した。 島原の乱後、無事戦功を挙げたため、祇園社に山車を 寄進したと言われている。この山車にいつのころから 大蛇の飾りを付け、大蛇山祭りが成立したと考えられ る。尐なくとも明治に入ることには大蛇山祭りは行わ れていたようであるが、それ以前いつの時代に成立し たかは不明である。 2.三池本町祇園宮 筆者は主に三池本町祇園宮でフィールドワークを行 った。三池藩の成立までは三池町は一つの町であった が、三池藩成立以後には三池町は藩境で分断された。 三池地区には旧柳河藩領である大字三池と旧三池藩領 である大字新町があり、大字三池を慣習的に三池本町 と呼ぶ。 三池本町は三池第一、材木町、神田脇の三つの小字 を持ち、三池第一はさらに上町、寺町、蛭子町、中町、 大間小路といったさらに小さな単位を持つ。 三池本町祇園宮は上町にある在住神主を持たない神 社であるが、神社に祀られている御神体の納められた 小祀には真如院宗音という人物の名が書かれており、 共に書かれている年代をみると 1873 年には神主ある いは社僧がいたことが伺える。また、『柳河年表』によ ると 1660 年に三池町に真如院という施設が建てられ たと書かれているので、おそらくこれが始まりではな いかと推測される。しかし、いつごろ祇園社を勧進し たかは不明であるが、いくつかの文書から、1681 年以 降 1786 年以前に勧進されていることが分かっている。 また、祇園社は鎮火の意味合いがあるため、大火の年 に勧進した可能性があり、この期間に記録されている 三池の大火は 1699 年である。 三池本町祇園宮は三池本町全体を氏子として持つが、 同じ氏子組織は材木町にある熊野天満宮の氏子でもあ る。『三池郡誌』では三池町の住民は熊野天満宮の氏子 であるとされている。氏子が秋の例大祭、正月の参詣 を熊野天満宮で行うのはそのためと思われる。 3.大蛇山祭りの概要 大蛇山祭りとは、大蛇の形をした飾りを曳き山に付 け域内を運行する祭である。大蛇山は蛇の飾り、幕、 旗、竹などで装飾され、楽と共に運行する。 三池本町祇園宮の 1950 年代ごろの事例では、祭は朔 日祇園の晦日の夜に手鎌あるいは黒崎までお汐井取り に行くところから始まる。その後、七日祇園を経て、 十三日に神輿と大蛇が運行する。 まず、神事が行われ、露払い、神輿、曳き手、大蛇 が並んで運行する。神輿と大蛇は祇園宮から柳河、三 池藩の藩境まで運行し、藩境にあった御旅所に移動す る。御旅所で神輿と大蛇は一晩を明かす。大蛇の飾り は縁起物なので、壊されたり、奪われたりする恐れが あるため、祇園宮の氏子が夜を徹して見張りを行う。 夜明けごろに大蛇山は神社へ向けて帰り始める。こ の道中、大蛇山が道につっかえ、動かなくなると氏子 や三池外からの見物人が大蛇の目玉を争う。大蛇の部 位のうち、目玉に最も価値がある。また、祇園社の祭 神である牛頭天王がキュウリで目を突いて右目を失っ たため、左目が特に価値があるとされている。 大蛇の目を奪うとどの家のものでも良いので、神棚 に目玉を供える。目玉を備えてしまうと、目玉の所有 権が確定する。目玉が氏子外の者に奪われないように、 氏子同士で連携して、協力などが行われていた。また、 戦中には出征する若者に優先して目玉を渡すために団 結したという。目玉以外の部位もやはり奪い去られ、 目玉の争奪戦が終わると殆ど何も残らなかったという。 「三池の大蛇を見ると三年眠い」と言われ、争奪戦 と共に祭りは終わる。 現在では、氏子の数が減っているため、神輿と大蛇 山が同時に運行することは出来ない。そのため、神輿 祭と大蛇山祭りが別々に行われている。 大牟田市の大蛇山は多数あるが、その中でも宗教施 設を拠点に持ち、比較的歴史の古い、三池本町、三池 新町、大牟田本町、第二区、第三区、諏訪という六山 はその他の山と区別して、別格とされている。 神輿祭りは大蛇山祭りの一週間前、主に 7 月の第三 日曜日に行われる。神職を招いて、神社で氏子地区を 神輿と楽方が巡行する。三池の神輿は暴れ神輿であっ て、蛇行したり、全速で行ったり来たりしながら運行 する。 町内巡行の合間に、三池に六山の神輿が集まり、セ レモニーが行われる。セレモニー後は町内巡行が再開 される。氏子地域内を隈なく歩いた後、神社に帰り、 直会を行う。 町内巡行の一週間後、主に 7 月の最終週に行われる。 1960 年代から三池だけでなく、大牟田市街地である大 正町でのセレモニーに参加するようになった。そこで、
3 近年では土曜日に大正町で巡行を行い、日曜日に三池 で巡行を行う現在の形になった。 大正町では六山が同時に巡行する。この時は観光客 も大変多い。大蛇に子どもを咬ませ、無病息災を祈願 する「かませ」などを行う。六山でパレードを行った 後、大蛇と山車を解体し、三池に帰る。 翌日、神職を招いて、大蛇に魂入れを行う。その後、 夕方から神社を出て、巡行を行う。大蛇山は神輿と異 なりかなり大きいので、氏子地域全てを回ることが出 来ない。旧三池街道の街道筋を、移動するだけである。 神社を出て南下し、藩境を越える。藩境を越えるとき、 山車に乗っている楽方を全ておろし、奏楽をやめる。 再び旧柳河藩側に帰って来た時に楽方を乗せ、奏楽を 再開する。 県道五号線で、三池新町の大蛇と共演を行う。 三池本町の大蛇は雄大蛇、三池新町の大蛇は雌大蛇 と言われていて、共演時に尻尾を打ち合うのを通例と している。共演を終えた後、再び旧三池街道に戻り、 神社に帰る。 目玉の争奪戦はその危険性から現在は行われおらず、 神社に帰ってから、子どもだけで大蛇の争奪戦を行う。 目玉や牙、耳などの部位は事前に申し出があれば、取 り外しておき、申し出をした人物に渡す。これらの部 位は縁起が良いとされており、相応の奉納を行う。 大蛇がバラバラにされると、氏子は直会を行い、祭 りは終了する。 4.大蛇山の伝播 大蛇山祭りは大牟田市、柳川市、みやま市、南関町 に渡って分布している。旧肥後藩の南関市以外は立花 氏の支配領域であった。具体的には、渡瀬、中島、江 浦、三池、大牟田、南関で行われている。この分布は 旧三池街道を軸とする南北の線と県道五号線を軸とす る東西の二つの軸を持っていることが分かる。 三池、渡瀬、中島、江浦の大蛇山祭りはその相互関 係はよくわかっていない。しかし、大蛇の運行、目玉 の争奪戦など似たような特徴を持っている。また、そ のすべてが明治以前には成立したと考えられているこ とから、この南北の分布は三池街道に沿って伝播した と言える。 次に県道五号に沿った東西の分布である。このうち 南関町の大蛇山は由来がはっきりしている。南関町坊 田地区にもともと祇園系の神社があったが、大正十二 年に伝染病が流行した折、この坊田地区だけが被害を 免れたという。これを祇園の御利益として祇園祭を創 始したという。それが、昭和10 年(1935 年ごろに) 能田太郎という民俗学者が三池の大蛇に倣って、大蛇 の運行を始めたという。つまり、南関の大蛇は比較的 新しいものであると言える。 前章で説明したように三池地区は近世まで筑後-肥 後の国境地帯においてもっとも発展した地域であった が、明治時代に入ると三池より西に下った大牟田村に 鉄道の駅ができ地域の中心地が移動した。現在大牟田 には四つの大蛇山があり、四つの祇園社がある。もと もと、大牟田村には寛永年間に勧進されたといわれる 祇園社があった。その後、明治維新を迎えるが、大牟 田村は幕領であったため、廃藩置県当初長崎県であっ た。1872 年(明治 4 年)に長崎県出張書記官金井俊行 が神仏分離令を断行し、域内の御神体を役所に集めた。 この時に、御神体の再配分が行われ、三つの祇園社に わかれたとみられる。これが本宮弥剣神社、諏訪に所 在する八剱社(諏訪神社境内に所在)、祇園社(大牟田 神社境内に所在)の三山である。この内、祇園社がも ともとあったのは本宮弥剣神社あるとされる。 本宮弥剣神社は1893,4 年ごろに氏子が三池祇園の 大蛇山を見物し、本宮弥剣神社の祭礼にしたと言われ る。この時期では大蛇山は大牟田本町全体の祭りであ り、もともと一台の山車で巡行していた。それが、昭 和の初めごろにそれぞれ域内の宗教施設を拠点とした 四つのグループに分裂した。一区:中島町一帯(住吉 神社)、二区:本町一・二丁目一帯(毘沙門さん、大牟 田神社)、三区:本町三丁目一帯、お観音さん、四区: 本町四~六丁目一帯の四つである。この内、一区は現 在では大蛇山を運行していない。二区は大牟田神社中 心に独立し、三区はお観音さんの境内に京都八坂神社 から祇園を勧進して中心としてやはり独立した。また、 かつては例祭前の時期に、必ず一~三区の代表が四区 の本宮に「御霊分け」に参考するのが慣例であった。 諏訪神社には 1872 年に八剱社が勧進された。1893 年に本宮弥剣神社の大蛇山から目玉を奪ってきてから、 大蛇山祭りが始まったという。 5.大蛇製作技術の相互関係 大蛇の製作技術は六山において互いに影響関係が存 在する。祇園六山における大蛇製作の相互関係はこの ようになっている。三池本町、諏訪、三池新町のよう な歴史的な情報の発信手が一応は存在するが、主に影 響が見られるのは大蛇の形象であって、中身の製作技
4 術ではない。さらにそれぞれの山には山車につけるア テもなく大蛇を製作し、模型の様なミニ大蛇を製作す る人びとが存在している。また、製作者が小学校に出 向き、子どもに製作指導したりしていることは確認で きた。 大蛇の製作というのは、それ自体は対して困難では ない。大蛇を大蛇足らしめるための秘儀などは特にな い。大蛇に取って重要なパーツである目玉の製作法や 大蛇に貼るお札の選定に関してはいくつかの取り決め を持っていることもあるが、それもどちらかというと 製作者個人の拘りに過ぎない。 大蛇はどのように作るか、という問題よりも、誰が どういった文脈で作るか、そして、どのような形をし ているのかが重要である。つまり、各山で承認された 作り手が各山の伝統的な形象に乗っ取った大蛇を作る ことが重要なのである。 6.まとめ 大蛇山のこのような歴史的変容は主に近代化、そし て脱工業化によってもたらされた。大牟田市を長年経 済的に支えた炭鉱産業の衰退と共に町全体に急速に衰 えている。その中で、大蛇山祭りは大牟田市の無形民 俗文化財に指定され、観光客を大量に集められるイベ ントとなっている。都市祭礼とは行っても地方の小さ な交易拠点で発生した祭が都市の巨大化と共に、行政 や商工会議所の様な近代的制度の介入し、管理する都 市祝祭に回収されたと言える。 しかし、一方で文化財化に至る流れは大蛇山の祭り のかつての在り方を掘り起こした。そして、それを再 構成しようという試みも見られる。 つまり、ある宗教的文脈に乗った儀礼的側面と現代 における資本主義的な文脈に乗った行政管理型祝祭の 量側面が大蛇山には見られる。 大蛇山祭りは立花氏による祇園信仰の流入によって 行われた祇園祭がおそらく明治期までに山車に蛇形の 飾りをつける形態に定着し、今日に至るという歴史的 経緯を持つ。 そして、神事山の六山では大蛇山を神社の年中行事 の一つと位置付け氏子集団による祭礼が行われている。 特に筆者が調査した三池本町では、祭礼の核は魂入れ された大蛇が町内を巡行し、破壊されるという儀礼で ある。 しかし、一方で近代化は祭りを文化的リソースと位 置付け特に行政や商工会議所といった近代システムは 祭りをメガ・イベントに回収した。従来行っていた行 政手動のイベントに大蛇山祭りを回収し、一つの見世 物としている。見世物としての成立は祭りのイメージ を寄り伝えられるように蛇形の表象を中心にコンテン ツ化され、観光化、祭りの国内、海外への輸出に繋げ ている。 都市の発展と共に大蛇山祭りの形態は近隣に伝播し ていき、近代化とともに人口が増加して多数の組織を 維持できるようになって、大蛇山祭りは広がりをみせ た。しかし、炭鉱に依っていた経済が打撃を受け、過 疎に定義される人口流出が起きた。このことから、六 山に見られるような大蛇山祭りの広域的な再編成が行 われた。これは氏子集団が人的経済的に祭りを維持す るのが困難なことに理由があるからである。 また、1990 年代からは大牟田市に「大蛇山祭り」の 文化財指定の運動が祭の担い手である氏子組織の中で 活発化し、2010 年には大牟田市の無形民俗文化財に指 定された。それと同じくして氏子組織は旧来の祭の様 式を再構成しようという動きもある。 つまり、一方で社会構造の変化に対応して組織や様 式を変容させなければならないが、もう一方では祭を 維持するためのリソースを収集するための権威が必要 であり、そのために現状の事態が起こっていると言え る。 松平は、都市祭礼は不断に変化することを指摘して いる[松平 1990]が、その変化は祭事態の生き残り戦 略である。再帰的な儀礼化と祭のコンテンツ化は相反 する方向性ではあるが両者ともに祭を存続させるため の変化、「適応」であるといえる。 松平誠 1990『都市祝祭の社会学』 有斐閣 竹沢尚一郎編 1998『九州の祭り 第一巻 博多の祭り」九州大学文 学部人間科学科比較宗教学研究室 福間裕爾 1994「山笠の分布とハカタ文化圏」『FUKUOKA STAYLE』 9 米山俊直 1976『祇園祭 都市人類学ことはじめ』中公新書 柳川恵一 1971「祭の神学と祭の科学」『思想』582