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高嶺太神宮にみる戦国期伊勢神宮勧請の考察ー高嶺太神宮の神殿形式と造営過程ー [ PDF

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高嶺太神宮にみる戦国期伊勢神宮勧請の考察

高嶺太神宮御鎮座伝記による高嶺太神宮の神殿形式と造営過程

山室 裕 1. 研究背景・目的 伊勢神宮は寛正年間(1461 年~1466 年)以降、100 年以上式年遷宮が中絶されていた時期が存在する。こ の中絶期間、伊勢の内宮・外宮は共に一時的な仮遷宮 で急場を凌いでいたが注 1)、その正殿の神殿形式に関す る研究は周知の通りほとんどない。その後、天正 13 年(1585 年)豊臣政権下で正遷宮が復興するものの、 史料として具体的な神殿形式が特定できるのは寛文年 間(1661 年~1672 年)以降である注 2)。よってそこに は寛正年間から数えて 200 年間の神殿形式が不明な期 間があり、その中でも特に復興以前の神殿形式に関す る議論は、有効な史料が発見されず停滞を余儀なくさ れている。 この復興以前の伊勢神宮を考える上で重要な史料 がある。永正 17 年(1520 年)、当時 6 ヶ国の守護であ った大内義興(以下義興)により創建された高嶺太神 宮、その創建当初の様子を記した「高嶺太神宮御鎮座 伝記」注 3)である。本史料は山口市指定文化財に登録さ れ、文献史学の間では既に認知されていたが、建築史 的な視点から活用されたことは現在まで無かった。 これによると創建当初の高嶺太神宮は屋根葺き、造 営の儀式に関して本社(伊勢神宮)の先例に倣って行 ったと明記しながら、その社殿に柱に丹塗り、壁に白 塗りの彩色が施されている点、置千木が用いられる点、 堅魚木の数量等、神明造りと相違する内容が記されて いた。 この高嶺太神宮と伊勢神宮を関連して考える理由 は、高嶺太神宮が全国に流行した飛び伊勢と違い、実 質的な天下人と称してもよいだろう義興が後柏原天皇 の勅許(防長風土注進案には御柏原院の宸筆「高嶺太 神宮」のスケッチがあり、山口大神宮にはその勅額が 現存している。)注 4)を受け、さらに吉田社の仲介を経 て注 5)、正式に伊勢より祭神を勧請した神社だという点 である。その社殿が神明造りと相違した形式をとって いたことは、逆に高嶺太神宮の例をもって当時伊勢神 宮の神殿形式が彩色、細部意匠の面で中世以前の神明 造りを継承していなかった可能性を考える必要が生じ るのである。また、伊勢神宮が神明造りを継承してい た場合でも高嶺太神宮を基点にすると、当時の上流階 級の意識下で祭神と神明造りの乖離が起きていた事に は変わらない。 いずれにせよ「高嶺太神宮御鎮座伝記」(以下「伝記」) の内容が、遷宮中絶期間における伊勢神宮神殿形式に 対し、新しい議論を喚起する材料になると考える。 以下行論を述べる。第一に、伊勢神宮神殿建築に関 する先行研究を整理し、時代毎の史料・研究者の認識 を明らかにする。第二に、「伝記」の由緒・花押等を精 査して基本史料としての信頼性を検証する。第三に、 「伝記」から高嶺太神宮の神殿形式に関する記述を抜 粋し、神殿の具体的な形式・儀式を確認する。第四に、 創建当初の高嶺太神宮から生じる仮説を挙げ、考察す る。その際、義興の上洛から伊勢勧請までの経緯、高 嶺太神宮の造営と同時期に起きた細川高国による伊勢 の仮遷宮、尼子経久による出雲大社造営といった歴史 背景に触れながら高嶺太神宮の造営を多面的に検証す る。 2. 伊勢神宮神殿建築に関する先行研究 まず、現在の伊勢神宮神殿建築に対する理解を整理 しておく。本稿が対象とする近世復興以前の研究をま とめると、福山敏男が天平宝字 6 年(766 年)正倉院 文書の紙裏に記載された「正殿等飾金物注文」及び延 暦 23 年(804 年)の「皇太神宮儀式帳」から切妻、破 風の先端が屋上に出し千木となる、棟持柱、10 本の堅 魚木といった神明造りの内宮正殿を復元している注 6) その後、延長 5 年(927 年)の「延喜太神宮式」や、 長暦元年(1037 年)の「内宮長暦送官符」から内宮の 推定図が作成され、それらは概ね上記の復元と一致し ている注 7)。また、弘安 9 年(1286 年)の「太神宮参 詣記」から伊勢神宮神殿の特徴として部材に丹が塗ら れておらず、壁が白土で仕上げられていない、千木・ 高欄に反りがないこと注 8)を挙げ、当時の正殿が素木造 りで破風ひいては垂木が直線をなしていたことを指摘 している。外宮に関しては平安時代の記録から内宮正 殿に準じた神明造りの神殿であったとし、「永禄遷宮飾

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30-2 金物図」や「正中御餝記」から鎌倉時代の外宮を推定 している注 9)。また別宮正殿に関しては、荒祭宮、風日 祈宮の各推定図を作成し、これらの正殿が応永、文明 年間において校倉形式であった可能性を指摘している 注 10) こうした史料から正遷宮が中絶する寛正年間まで の間、両宮は素材や工作の粗悪さは別として、旧規は 概ね保ったとみられている注 11)。その後、内宮は寛正 3 年(1462 年)、外宮は永享 6 年(1434 年)を最後に正 遷宮は途絶える。100 年以上の期間を置き、天正 13 年 (1585 年)に遷宮が再開する。この際作所が保管して いた古記、古図の寸法を参照したようだが、どの程度 古記録を参照していたかは不明であり、中世の神殿に 比べて桁、梁の上下逆転や、部材の太さ等、改変が加 えられたことが指摘されている注 12) 福山敏男は伊勢神宮神殿建築が近世復興以降、中世 に比べ様々な改変はあったものの、全体として大観す ると内・外宮共に一定の形式に保たれていた注 13)とい う見解を示している。 3. 高嶺太神宮御鎮座伝記 前節の研究史から伊勢神宮の神明造りは、奈良時代 から遷宮中絶までおおよそ現在のものと大差ない神殿 形式に保たれていたようである。しかしその後の遷宮 中絶期間は、福山敏男も一時的な仮遷宮が両宮で行わ れたことは指摘しているが注 14)、その形式や意匠につ いては史料不足のため言及していない。 以下に扱う「伝記」は、高嶺太神宮(現山口大神宮) が所蔵する巻子本で、作者不詳、奥書(紙継目裏)に 弘中越中守武長の花押が手書きで全 22 ヶ所(内1つは 確認できず)ある。この花押は益田家文書に残る武長 の花押とも矛盾しない。 「伝記」の内容は大日本史料注 15)に掲載され、萩藩 閥閲録注 16)、防長風土注進案等注 17)と内容は一系統であ り、異本は見つからない。義興の周防山口帰国の日付、 伊勢勧請の件は陶氏奉行人連署奉書注 18)と一致、「伝 記」に記載された地名、場所は江戸大内氏時代山口古 図等にも見ることができる注 19)。よって、本論では一 次史料としてこれを採用する。 概要は義興の山口帰国に始まり、宮地選定、祇園社 の引移し、造営監督(十穀聖祐覚房)の選定、外宮作 事、内宮作事、材料・経費、御師(高向二頭大夫)、勧 請儀式、献上物といった内容が箇条書きされている。 4. 伝記にみる高嶺太神宮の建築形式・造営過程 義興帰国後の高嶺太神宮造営について「伝記」内(第 1 条)に「於当国周防山口県御勧請事、御在京折節内々 有御宿願欤、永正十五年(戌寅)従京都御下向之、」と 記され、義興が在京時から伊勢神宮勧請の準備をして いたことがわかる。永正 15 年(1518 年)10 月 5 日山 口到着後に義興自ら敷地を選定し、宮山を定める注 21) 同年 11 月 3 日に注連縄をはり注 22)、同月 13 日に釿始 の式を催す注 23)。その後十穀祐覚房という人物注 24)が基 金を集め、その指導のもと外宮、内宮の順に造営を進 める。造営後の神明勧請の儀式は御師高向二頭大夫注 25)によって行われた。 造営された社殿の材料、施工についての主な記載か ら神殿形式が神明造りかどうかは不明であるが、屋根 は伊勢神宮の先例に倣い、下地は曾木葺き、その上は 萱葺きとしている。しかし、外観は柱・階段・高欄が 丹塗り、壁板・裏板・縁下廻りは白塗り、棟木・千木・ 鰹木は黒膠塗りと素木造りではなく彩色がされている。 細部意匠に関しては「千木上下の木口」「千木のあハせ 目の金物」とあり、置千木と考えられる点、「かつほ木 両方木口(巴紋以上 22 ヶ所)」という記述から両宮合 わせて 11 本の堅魚木が設置されている点等、明らかに 神明造りとは異なる部分が見られる。 また勧請儀式に関する記述の中には「白石の儀式 表 1 高嶺太神宮の敷地・神殿形式に関する記述 関連 条番号注 20) 該当する記述 神殿形式 第 23 条 一 右両 社事、以本社萱葺例、下地 ハ曾木葺、其上ハかや葺也、 第 24 条 一 両宮丹土塗事、壁塗幷社家方若 衆に申付被調之、丹土ハ見嶋に在之、 対町野掃部助弘風代(弘風者於石州在 陣也)、被遣奉書、被召渡也、白土ハ 仁保山に在之、黄土ハ国清寺門前正因 庵のまへ溝河岸に在之、たる木・柱・ 板敷・らんかん・きさ橋等ハ丹土塗也、 かへ板・裏板・縁下まハりハ白土塗り 也、千木・かつほ木 棟木等ハ墨にかハにて塗之、 第 25 条 一 両社金物時事、銅細工に申付之、 金物悉ハ連々可被相調之由也、先千木 上下の木口(ひしから草已上一六ヶ 所)、かつほ木両方木口(ともゑ已上、 廿二ヶ所)、釘かくし已上七十六、戸 ひら金物、同鏁鎰二社分、きさはしの きほうし、千木のあハせ目の金物等、 いつれも黄さしなり、両社分金物代已 上四十四貫五百八十文にて相調也、 儀式 第 35 条 一 末社鏡石等まで(外宮右ノ脇大石 也)祝申され、次白石の事も、本社の ことく諸人進宮あるへきの由、制札在 之、出家社参の事、辰石まて(神前坂 中の大石也)参詣あるへし、本社にハ 御祓を被出之、爰許におゐてハ、榊枝 をもて可遂其節由、被相定了、但時に よて祓をも可被出事、

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30-3 (御白石持行事)も本殿のように諸人が奉献されるよ う制札を立てる」と現在伊勢神宮の式年遷宮でも行わ れている儀式を、伊勢神宮に倣って実行されたことが 記されている 5. 大内義興の伊勢勧請と永正年間の伊勢神宮 前章から「伝記」によると創建当初の高嶺太神宮は、 彩色化され細部意匠も神明造りと異なっていた。これ には二通りの解釈ができる。一つは勧請元である伊勢 神宮自体で神明造りが変化していた可能性、もう一つ は神明造りという神殿形式と祭神が相関した関係では なく、むしろ両者は乖離していた可能性である。 ここからさらに考察を深めるため、義興の来歴と伊 勢勧請について以下簡潔に触れておきたい。 義興は大内氏の第 30 代当主、周防・長門・豊前・ 筑前の守護(後に石見・安藝の守護も加え、6 カ国の 太守となる)である。明応 8 年(1500 年)に明応の政 変で京都を追われた足利義稙(以下義植)を山口に保 護したことをきっかけに、永正 5 年(1508 年)に上洛 を果たす注 26)。義稙を将軍職に復帰させ、それ以後 11 年もの間、細川高国(以下高国)と共に室町幕府を維 持する。永正 15 年(1518 年)10 月 5 日、尼子経久の 石見侵攻注 27)を期に山口へ帰国注 28)。その後、高嶺太神 宮造営を進める。 一方で当時の伊勢神宮正殿の状況を述べると、内宮 に関しては、寛正の遷宮によって造営された正殿が十 数年を経るころから破損する。その後東宝殿の跡地に 神宮側で建てた儲殿に明応 6 年(1497 年)に仮遷宮し、 旧正殿は 3 年後に台風で倒壊する注 29) 外宮に関しては、正長 2 年(1429 年)に殿舎を破損、 同年に仮遷宮を行う。東宮地へは永享 5 年(1433 年) に正遷宮する。その後享徳元年(1452 年)に再び仮遷 宮を行うが、西宮地では正殿が未完成のまま放置され る。仮殿は文明 18 年(1486 年)から数度の火災が起 こり、延徳 2 年(1490 年)に 30 年前に造営した新殿 の板敷を取り換え、仮遷宮を行う。その仮殿も明応 7 年(1498 年)の地震でいたみ、文亀元年(1501 年)に 儲殿へ仮遷宮している注 30) 永正年間(1504 年~1520 年)になると両儲殿は朽 損が激しくなる。そのため高国から 500 貫文の造営寄 進がされ両宮の仮遷宮が決まり、永正 18 年(1521 年) 仮遷宮が完了する注 31)。要するに義興が伊勢神宮勧請 をした時期は、伊勢神宮の両神殿が朽損し、仮遷宮を 控えていた時期であった。 「伝記」にある「本社のごとく」という記述は屋根 葺きと白石の儀式 2 か所に確認できるだけであり、高 嶺太神宮に採用された形式のどの程度が、当時の伊勢 神宮を反映する情報なのかは不明である。しかし義興 は永正 13 年(1516 年)に伊勢へ参詣する際、事前に 伊勢貞陸に参宮従者行列の例規を尋ねている注 32)。こ の記録から義興が伊勢神宮と関わりを持ちながら高嶺 太神宮を造営したことは違いない。 つまり、永正年間における伊勢神宮を、「伝記」に ある高嶺太神宮を基点に考えるならば、同じように彩 色化注 33)あるいは細部意匠に変化が生じていたことに なり、また同時に永正 18 年(1521 年)義興と両輪で 室町幕府を支えていた高国による伊勢神宮の仮遷宮の 際も高嶺太神宮と近いかたちで行われた可能性が生じ るのである。 6. 今後の展開 伊勢神宮が遷宮中絶以前の神明造りを継承してい た場合、義興は高嶺太神宮において祭神と神明造りを 意図的に分離して伊勢神宮勧請を行ったということに なる。 本稿ではその可能性に対して、尼子経久(以下経久) による出雲大社遷宮を大きな要因と考える。なぜなら、 この造営によって出雲大社は、寛文 7 年(1667 年)に 復古事業をするまでの間、極めて強い仏教色を呈すよ うになるからである注 34)。在京中も経久の石見侵攻を 警戒していた義興は、この出雲大社遷宮に対抗する形 で伊勢神宮の祭神を利用したのではないか。 義興は在京中幾度か帰国を示唆するが朝廷から引 き留められ、永正 5 年(1508 年)従四位下注 35)、同年 従四位上注 36)、永正 9 年(1512 年)に従三位注 37)と管領 である高国を超える官位を与えられた記録がある。そ れ程に朝廷から重用された義興は高嶺太神宮造営の際 も、朝廷との仲介役である吉田社に勧請趣旨を国家(= 大内領内)の安全と武運長久として利用することを承 諾させた注 38)。このことは義興の朝廷、吉田社に対す る発言力がいかに大きいか窺えるものである。 また、「防長両国万民信心の志の為に、紙袋を郡々 に被支配了、次豊筑両国へも同可被配当之由、被相催 (云々)」と「伝記」にあるように注 39)、義興が自国領 である豊前、筑前まで伊勢神宮勧請を知らしめている 点は、経久の石見侵攻に対抗したものと考えられる。 そして永正 17 年(1520 年)高嶺太神宮造営の時期 は、近年の発掘調査の結果、周防山口の居館の建物な どが一定の構造をもち本格的な御殿建築が建つのは 15 世紀半ば~16 世紀初めである注 40)という説とも時期

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30-4 が一致しており、永正 18 年(1521 年)伊勢の仮遷宮、 在位から 20 年以上遅滞していた後柏原天皇の大永元 年(1521 年)即位式が行われている注 41) 時期とも連続 している。 この勧請趣旨の変更、勧請の豊前・筑前への布告、 山口都市整備の時期は経久の石見侵攻に対する義興の 自国の守りを磐石にする意図が窺える。また伊勢神宮 の仮遷宮、後柏原天皇の即位式といった事柄は、その 背景で義興が関与した可能性が考えられる。 つまり祭神と神明造りの意図的な分離を前提とす ると、義興は伊勢神宮の祭神を自国に祭祀することに は重点を置いていたようであるが、神殿形式に関して は伊勢神宮の神明造りを踏襲せず、経久のように恣意 的な判断を優先した可能性が指摘できる。 7. 総括 本稿では「伝記」を通して高嶺太神宮造営当初の神 殿形式・造営過程を明らかにすると共に、現在の伊勢 神宮研究を踏まえたうえで同時期に計画された高嶺太 神宮と伊勢神宮の仮遷宮との関連性に着目し、義興と 高国および朝廷との関係性、あるいは歴史背景からみ た伊勢神宮勧請を検証することで、高嶺太神宮におけ る神明造りの在り方を考察した。「伝記」の内容も神殿 形式・造営過程に限定して抜粋したが、「伝記」には未 だに課題とすべき多くの情報が残っており、近年の発 掘調査やその他の文献と比較することで今後とも研究 を深めていく所存である。 注 注1) 参考文献 1)pp.91~99, pp.129~131 注2) 内宮に限っては諸社殿の仕様を記録した「寛文御正殿并別宮寸尺」(神宮文庫 第 1 門九九五八号)とその内容を図解した「内宮正殿御門并別宮図形寸尺之覚」 (神宮文庫 第 1 門九九六八号)から近世の神宮建築の姿は確定したと山野善郎 が述べている。参考文献 2)p.84 注3) 本稿では、参考文献 3)pp.907~913 の原文を引用する。 注4) 参考文献 4)p.40。なお、高嶺太神宮は創建当初は「高峯神明」と称し、その後 柏原天皇の時「高嶺太神宮」という勅額を賜い、後陽成天皇の時「伊勢」という 勅額を賜った。参考文献 5)pp.2~3 注5) 参考文献 3)【第 28 条】「一 神明御勧請事、去年(永正一六)本社御師高向二 頭大夫名代河村次郎左衛門尉罷下之時、被仰付之処、申分聊有相違之儀欤、去春 対吉田神主、以飛脚永興寺々僧被仰上之処、御勧請之趣、国家御安全、御武運御 長久祖御為旁被成其心得之由被申下畢、」(神明御勧請について、去年(永正 16 年)本社御師高向二頭大夫の名代河村次郎左衛門尉が出向した時、(義興が)これ を仰せつけたところ、申し分にいささか相違があったのか、去春吉田神主に対し、 飛脚をもって永興寺の僧が仰せられたところ、御勧請の主旨は国家安全、武運長 久であると関係者が心得るようにと申しだされた)とあり、伊勢勧請の趣旨に関 して義興と吉田社の間で書簡が交わされている記述がある。なお大内氏と吉田氏 の関わりは、大内氏は第 10 代当主義弘の時に吉田兼熈と親交があり、義興の子義 隆も吉田兼倶の系である卜部兼永に神道伝授を乞うている。 参考文献 5)pp.6~8 注6) 参考文献 1)p.159 注7) 参考文献 1)p.165,p.169 注8) 参考文献 1)p.167。さらに参考文献 6)pp.151~156 の記述・解釈を参考にする。 太神宮参詣記 下・一僧云の記述内容「「就中神官ノ御時ハ殿ニ赤キ事ヲ加ヘスシ テ、殿舎ニモ丹ヲヌル事ナシ。壁ニ白キ事ヲ交スシテ、土上ニ石灰ヌル事ナシ。 是併無表裏御誓ト承ル。若シ内ニハ祟メ、外ニハ忌セ給ハハ有表裏御神ニコソ。 千木ノ片ソキモソラス。高欄ノホコ木モスクナリ。是正直ヲ表シテ余社ニ異ナリ。」 から、参考文献 7) 注9) 参考文献 1)p.174 注10) 参考文献 1)p.143,p.151 注11) 参考文献 8)p.16 注12) 参考文献 2)p.84 注13) 参考文献 1)p.185。福山敏男は「整った構造を示すもの」と表現している。 注14) 参考文献 1)pp.91~99,pp.129~131 注15) 参考文献 9)pp.105~114 注16) 参考文献 10)pp.273~279 注17) 参考文献 4)pp.18~23 注18) 参考文献 3)pp.916~917 注19) 「伝記」内にある宮地選定、材料の産地等は現在の地名、大内氏時代山口古図 (参考文献 12)で確認できる。参考文献 13)p.249 の山口景観復原図ともほぼ一致し ている 注20) 番号は「伝記」内で箇条書きとなっている全 43 の条文を本論の筆者が冒頭か ら仮番号をつけたもの 注21) 参考文献 3)【第 1 条】「一 於当国周防山口県御勧請事、御在京折節内々有御宿 願欤、永正十五年(戌刁)従京都御下向之、十月五日山口御着、仌御社檀有御建立 宮地事被仰付之、被令見之処、高嶺麓正法院敷地可然在所云々、正方東向也、南ハ 有小山明也(今観音堂再興之)、西者高嶺峨々として、元観音堂旧跡巌崛在之、北 ハ深山遠くめくりて法泉寺・香積寺山所々につづく、しかるに同十月廿六日、御出 有て御歴覧之処、古寺之砌曠々たり、石清水湛々として無増減、岩ほならひていさ きよし、殊にハ、本社祭礼等に用らるる草木まて天然有と云々、早々地形を引とと のへ、御社檀御建立の事可相催之由、被仰出畢、」 注22) 参考文献 3)【第 2 条】「一 同十一月三日 御宮地尺杖を打、榊を立、四方に注 連を曳之、今八幡神子左馬大夫貞重(祇園大宮司)調之、」 注23) 参考文献 3)【第 3 条】「一 同十三日御釿初在之、為御名代、右田左馬助興安并 武長参候之、御大工新兵衛尉兼用(深左衛門尉恒兼子)出仕之、」 注24) 高嶺太神宮造営で現場監督的な役割にあったのが十穀聖祐覚房という人物であ る。「伝記」によれば、祐覚房は長らく山口に滞在し、神仏仏閣等所々の再興、修 造、屋根の葺替え等を、諸人からの勧進物によって手掛けており、近年は今八幡宮 舞殿再興している。義興はこの仔細を在京中耳にし、祐覚房に奉書をもって伊勢勧 請の監督に任命、資金集めを指示した。この人物につての詳しい資料は不明である が、義興によって文亀 3 年(1503 年)に造建された今八幡宮の再興を任せられてい る点、義興が在京の時点で起用を決定している点からも、当時山口の神社仏閣の建 造に関して実績ある人物であったと思われる。 注25) 神明勧請の際義興と朝廷の仲介役を担ったのが、外宮御師高向二頭大夫光定と 吉田社である。二頭大夫が外宮御師である根拠は、可睡斎文書にて天正 2 年(1575 年)信長による上部大夫から高向源二郎二頭大夫への任命書がある点と造営完了後 の勧請儀式にて宝物を献上する際、「伝記」に参考文献 3)【第 29 条】「一 御神躰 に被奉副御宝物事、外宮 御鏡一面 御文寿福山海 御屋形様ヨリ御進宮 内宮 御鏡一面 御文松竹鶴亀 介殿様ヨリ御進宮 御鏡一面 御文菱竹鶴亀 御料人 様ヨリ御進宮 已上三面」(御鏡を外宮に御屋形様(義興)内宮に介殿様(義隆) が献上する)といった序列の逆転が表面化している点である。よって義興の伊勢勧 請は吉田社・伊勢外宮御師にとって伊勢神道布教の一環という形式をとっていたと 考えられる。 注26) 参考文献 14)p.1 注27) 参考文献 15)p.43 注28) 参考文献 16)p.156 注29) 参考文献 1)p.91 注30) 参考文献 1)pp.129~131 注31) 参考文献 1)p.92 注32) 参考文献 17)p.413 注33) 洛中洛外図歴博甲本をみると大永 5 年(1525 年)頃の都の様子の一端を(写実 的ではなく絵師による誇張を含んだものであるが)知ることができる。高国が政権 を支配した時期の都は寺院以外も、神明造りの神社は描かれていないが、上賀茂神 社、今宮、吉田社等多くの神社建築が彩色されて描かれている。こういった光景が 11 年間の在京で義興の中で一般化していたとすれば、高嶺太神宮において彩色化を 都文化の一種として採用した可能性がある。 注34) 参考文献 18)p.368 注35) 参考文献 19)p.170 注36) 参考文献 19)p.204 注37) 参考文献 20)p.958 注38) 注 5 と同じ 注39) 参考文献 3)【第 41 条】「一 防長両国万民信心の志の為に、紙袋を郡々に被支 配了、次豊筑両国へも同可被配当之由、被相催(云々)、」 注40) 参考文献 21)pp.64~65、参考文献 22)pp.371~386、参考文献 23)p.4 注41) 参考文献 24)p.285 参考文献 1) 福山敏男:神社建築の研究 福山敏男著作集四、中央公論美術出版、1984 2) 山野善郎:伊勢神宮 三重県史別編建築、三重県、2003 3) 山口県史 資料編 中世 2、山口県、2001 4) 防長風土注進案第 13 巻 山口宰判下、山口県立山口図書館、1961 5) 山口大神宮史、山口大神宮式年遷宮奉賛会、1960 6) 東久仁政:伊勢神宮社殿の形態に関連する中世・近世の記述、日本建築学会計 画系論文集 第583 号 2004 7) 神宮司庁編:神宮参拝記大成、西濃印刷、1937 8) 山野善郎:伊勢神宮外宮(豊受大神宮)正殿・瑞垣南御門・瑞垣・御饌殿 日 本建築史基礎資料集成一、中央公論美術出版、1998 9) 東京大学史料編纂所:大日本史料第九編之十一、東京大学出版会、1971 10) 萩藩閥閲録第 4 巻、山口県文書館、1987 11) 陶氏奉行人連署奉書 山口県史 資料編 中世 2、山口県、2001 12) 大内氏時代山口古図 山口県文書館所蔵 軸物資料 218 13) 山村亜希:中世都市の空間構造、吉川弘文館、2009 14) 東京大学史料編纂所:大日本史料第九編之一、東京大学出版会、1968 15) 東京大学史料編纂所:大日本史料第九編之七、東京大学出版会、1970 16) 東京大学史料編纂所:大日本史料第九編之八、東京大学出版会、1970 17) 東京大学史料編纂所:大日本史料第九編之六、東京大学出版会、1970 18) 稲垣栄三:神社建築史研究Ⅰ、中央公論美術出版、2006 19) 東京大学史料編纂所:大日本史料第九編之一、東京大学出版会、1968 20) 東京大学史料編纂所:大日本史料第九編之三、東京大学出版会、1969 21) 山上雅弘:室町・戦国時代の守護所 戦国時代の守護 山名氏の城と戦い、兵 庫県立考古博物館、2010 22) 古賀信幸:周防国・山口の戦国期守護所 守護所と戦国城下町、高志書院、2006 23) 乾貴子:戦国期山口城下における城館と屋敷神 山口県地方史研究 73 号、山口 県地方史学会、1995 24) 東京大学史料編纂所:大日本史料第九編之十二、東京大学出版会、1972

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