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北海道の竪穴群の概要 ( 暫定版 ) 北海道教育委員会

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北海道の竪穴群の概要(暫定版)

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目次

1 竪穴群の調査に至る経緯 ...1 2 竪穴群の調査(戦前の調査史) ...3 3 竪穴群の調査(戦後の調査史) ...5 4 竪穴群の分布と年代 ... 10 5 竪穴群の内容 ... 12 6 竪穴群の保護 ... 17 7 おわりに ... 23 引用・参考文献 ... 27 例 言 1 本資料は、北海道教育委員会が平成27 年度から平成 29 年度まで実施する「北海道 東部の竪穴住居跡群調査 第1次調査」の一環として、調査の対象となる竪穴住居跡群 (以下、竪穴群と略称する)の概要を説明とする目的で作成した。 2 本資料は調査の初年度に課題の整理を行うことを主眼に作成した暫定版であり、平 成29 年度までの調査結果に基づき改定のうえ、再度発行することを予定している。 3 本資料の執筆・編集は、北海道教育庁生涯学習推進局文化財・博物館課に所属する以 下の文化財保護主事が分担して行った。 赤井文人 内田和典 工藤研治 中田裕香 西脇対名夫 藤原秀樹 宗像公司 村本周三 4 本資料の作成にあたっては、公益財団法人北海道埋蔵文化財センターの協力をいた だいた。

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1 竪穴群の調査に至る経緯

(1)世界文化遺産暫定一覧表への提案 文化庁は、平成18・19 年度の2回にわたり、地方自治体に対し、日本の世界遺産暫定一 覧表に記載するにふさわしい文化遺産の提案を募集した。全国から32 件の提案があり、北 海道が関わる提案は2件で、北海道・青森県・岩手県・秋田県及び関係市町村が共同で提出 した「北海道・北東北を中心とした縄文遺跡群」、さらに北海道・北見市・標津町が共同で 提出した、「北海道東部の窪みで残る大規模竪穴住居跡群」である。 (竪穴群の提案書詳細: http://www.dokyoi.pref.hokkaido.lg.jp/hk/bnh/19world-heritage-tateana.htm)。 竪穴群の提案は、北見市の常呂遺跡及び標津町の標津遺跡群の2件で構成された。それぞ れの遺跡は、国内で最大規模の竪穴群で、国の史跡として保存が担保され、調査研究や公開 活用が進んでいることから、記載の可能性が十分に考えられていた。 しかし、この提案は、暫定一覧表記載には至らず、記載の候補として評価されるに止まっ た。調査・審議結果によると、「北海道の寒冷気候のために独特の可視的な遺存状況を示す 考古学的遺跡であり、7,000 年にわたる人類と自然との調和の過程を示す考古学的遺跡とし て、価値は高い」との評価を得たが、提案の主題・構成資産の再検討、北海道オホーツク海 沿岸に広く展開する同種の考古学的遺跡との更なる比較研究等が必要で、世界遺産登録の 条件となる「顕著な普遍的価値」の証明が課題とされた。 (調査・審議結果の詳細: http://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkashingikai/bunkazai/sekaitokubetsu/shingi_kek ka/besshi_8.html) 北見市、標津町では、提案以降も発掘調査や史跡整備を継続して実施し、各遺跡の内容の 理解を着実に進めている。北見市と東京大学は、平成 19(2007)年「世界遺産と常呂遺跡」 をテーマとした講演会・展示会を実施し、標津町は、平成21・24(2009・2012)年に世界遺 産関係の講演会・展示会を開催するなど、それぞれ調査研究や普及活用事業を実施している。 (標津町の平成21 年講演会資料 http://www.shibetsutown.jp/pogawa/sekaiisan/sekaiisankouen.pdf 北見市の「ところ遺跡の森 たより」 http://www.city.kitami.lg.jp/docs/7207/) 両市町による取り組みが継続されている一方で、暫定記載に至らなかった事実は、従来の竪 穴群保護の取り組みになお推進の余地があり、その価値の普及啓発を進めることが必要で あることを示している。

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2 図1 国指定史跡 標津町標津遺跡群(残雪部分が窪みで残る竪穴住居跡群) (2)北海道東部の竪穴住居跡群調査 世界遺産暫定一覧表への提案を通じて明らかとなったのは、竪穴群の文化遺産価値を示 すためには、その全体像を把握することが不可欠であるということである。 北海道内の竪穴群に関する基礎的な情報を整備することは、地域の文化財保護に責任を 有する地方公共団体が主体的に取り組んでいくべき課題であり、一部の市町村では積極的 な取り組みが認められるが、文化財保護の体制が整っていない市町村も多いのが現状であ る。北海道内各地の竪穴群を網羅し、一定水準の基礎資料を整備し、世界遺産登録を視野に いれた保存活用の基礎とすることは、北海道教育委員会の取り組むべき課題であると考え られる。 そこで、北海道教育委員会は、竪穴群の調査研究をさらに推進し、その保存活用のための 基礎的な資料を整備するため、「北海道東部の竪穴住居跡群調査 第1次調査実施計画」(平 成 27(2015)年 9 月)を策定した。第1次調査(平成27~29 年度)は、北海道東部を中心と した竪穴群に関する基本的な情報を整備し、現状の客観的な把握を踏まえて、将来の世界文 化遺産登録をも視野に入れた積極的なその保護を推進するため、計画的な調査を行おうと するものである。 (北海道東部の竪穴住居跡群調査 第 1 次調査実施計画 http://www.dokyoi.pref.hokkaido.lg.jp/hk/bnh/tateanagun-1ji-jisshikeikaku-2.pdf 平成29 年度の目標の一つとなっている「北海道東部の竪穴群の概要」は、従来の知見と 今回の調査成果を簡潔に要約し、竪穴群の全体像を把握することの出来る資料として作成 しようとするものである。その準備のため、従来の調査や保護の到達点を整理し、今後の調 査の出発点を明確にする目的で作成したのがこの「概要(暫定版)」である。

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2 竪穴群の調査(戦前の調査史)

(1)先住民族への関心 地表から窪んで見える竪穴については、すでに江戸時代から北海道を踏査した人びとに よって注意されてきたが、ここでは、明治年間以降に近代の人類学・考古学の視点から竪穴 群がどのように理解されてきたかを紹介していくこととする。 工学寮(後の東京大学)の教師として日本政府から招聘された英国人ジョン・ミルンは、 明治11(1878)年の夏に北海道・千島を訪れ、根室の弁天島で竪穴群を確認、択捉島でも夥し い数の竪穴を確認した。さらに千島列島最北の占守(しゅむしゅ)島に至り、クリルスキー アイノ(Kurilsky Aino)と自称する住民がいて、半地下式の住居(竪穴)に住んでいるこ とを報告している(ミルン1882)。北千島は明治8(1875)年に樺太千島換条約によって日本 領に編入されたばかりで、その住民の一部は明治 17(1884)年、日本政府によって南千島の 色丹島に移住させられ、「北千島アイヌ」もしくは「千島アイヌ」と呼ばれた。 ミルンは彼らの竪穴住居に注目し、占守島の放棄された住居が根室の竪穴の窪んだ状態 と類似することを指摘した。そして、北海道や千島に残されている竪穴の住人をアイヌの伝 説に登場するコロポクグル(Koro-poku-guru)とみなし、日本の古文献の記述も勘案して、 かつてアイヌが日本の広い範囲に住んでいたが、南から進出してきた日本人により次第に 北へ追いやられて竪穴住民(コロポクグル)の領土に侵入し、アイヌに追われた竪穴住民は カムチャッカの方へ消えたのであろうと推測した(ミルン1882)。 明治 19(1886)年、札幌付近の竪穴について紹介した渡瀬荘三郎も、竪穴の住人はアイヌ の前の土人、コロボックルであるとした。アイヌは土器を作らないので、土器は昔竪穴に住 んだ者が使ったものである。我が国の歴史上、蝦夷(えみし)が穴に住んだというが、これ は今のアイヌではなくコロボックルである。内地に竪穴がないのは耕作によって平らにさ れたことや埋まりやすいことによるものであり、内地に竪穴を作って住んでいたコロボッ クルがアイヌに追われ、アイヌが日本人に追われたのだろうと考えた(渡瀬1886)。 ミルンや渡瀬の主張を踏まえて、東京大学で人類学教室主任の地位にあった坪井正五郎 が北海道や千島に竪穴を残した民族こそ日本の石器時代住民であるとする、いわゆる「コロ ボックル説」(坪井1887a・b)を展開したことから、北海道以北の竪穴群は日本の先史時代 の理解に大きな影響を与えることとなった。 その後、道内では明治 26(1893)年に高畑宜一が新十津川村で竪穴を発掘し、土器、土製 紡錘車、鉄屑の付着した土製の鞴(ふいご)の口等を発見した(高畑 1894)。彼は「北海道 ノ竪穴遺跡ハ草昧野蠻ノ石器時代ヲ脱シテ鐵器時代ニ進歩発達セシ人種ノ手ニナリシト信 ス」と結論し、竪穴が極端に古いものではないことを指摘した。また高畑は札幌の竪穴群に ついて「最も穴居跡多き所を、琴似川沿岸とす其總數八百六十個、一家族平均三人住居せん と假定せば二千五百八十人居住せし割合なり」と具体的な数をあげ、詳細に記述している (高畑 1897)。この頃作成されたと推定される高畑家所蔵の札幌市内の竪穴分布図が昭和 50(1975)年に紹介され、現在、札幌市の指定文化財となっている(羽賀 1975)。

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4 (2)先住民族説から石器時代説へ 明治20 年代から 30 年代(1887~1906)にかけて広く普及した「コロボックル説」は、ア イヌが竪穴住居や土器を用いないという民族誌の知識を前提としたものだったが、鳥居龍 蔵は明治 32(1899)年に千島アイヌについて詳しい調査を行い、彼らが竪穴や石器は自分た ちの祖先が残したと伝えていること、土器については製法までも詳しく記憶されているこ とを報告した。こうして鳥居はアイヌの伝えるコロボックルの生活はまさにかつての千島 アイヌの生活そのものであることを示し、さらに千島アイヌにはコロボックルに関する伝 承がないことを挙げて、コロボックルがアイヌとは異なる民族であったという理解がかな り疑わしいことを示した(鳥居 1903)。 その頃、北海道においてアイヌ研究を進めていた河野常吉も、明治 33(1900)年に北海道 庁が行った北千島や色丹島の調査に参加して鳥居と同様の知見を得ており(北海道庁1901)、 アイヌが残したものと伝承されるチャシ(一種の砦)跡に竪穴が見られることなどから、竪 穴の少なくとも一部はアイヌの遺跡であろうと考えた(河野 1905)。河野は明治 41(1908) 年「非コロポックル論」を発表し、北見国常呂郡常呂村の竪穴から出土した「石烟管」に注 目し、竪穴の住人がアイヌであるとした上で、慶長 10(1605)年にはタバコが奥州地方まで 流布したということから、その蝦夷地への流布は古くとも今から 300 年前の前後であり、 また『塩尻』という書に享保6(1716)年、蝦夷地に漂流した舟子がトカチで穴居人に救助さ れたという漂流船書上の写しが載せられていることから、奥地においては200~300 年前ま で竪穴が使用されたと考えた。そして、あらためて、本島(北海道、国後、択捉)アイヌが 全く竪穴を廃したのは今から200 年前としたのである(河野 1908)。 このように、20 世紀のはじめになると、北海道において竪穴は先住民族の痕跡というよ り文献に記録のない時代のアイヌの住居跡であるとの理解が一般化し、竪穴群を正当に古 代の遺跡としてとらえることが可能になった。しかし残念ながらこの理解は、歴史時代のア イヌ(17~18 世紀以降)の直前まで道内で竪穴住居や土器・石器を使用した生活が行われて いたという誤解と抱き合わせになっており、高畑が報告した「鉄器時代の竪穴」の存在が広 く認知されるのはなお後のことである。北海道の歴史時代の直前はいきなり先史時代に続 いており、その先史時代は年代の新旧や文化の多様性を抜きにした古代アイヌの世界であ ったと考えられていたと言える。 (3)先史時代の編年と文化の区分 大正2(1913)年、網走に移住して理容業の傍ら考古学研究を始めた米村喜男衛は、昭和7 (1932)年に網走出土の土器を5種に分けるとともに、網走川の河口にある最寄貝塚について 初めて報告した。そしてこの貝塚や他の遺跡での発掘の知見により、厚手縄紋土器の時代→ 薄手縄紋土器の時代→刻紋土器の時代と変遷することを述べている(米村 1932)。これは道 内で先史時代の土器を区分し年代順に配列した仕事のうちの初期のものであり、すでに今 日知られる縄文土器→続縄文土器→擦文土器の推移にあたるものを正しく把握していた。 なおこれより先、新岡武彦は米村の言う「刻紋土器」にあたるものを「擦紋式土器」と名付

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5 けている(新岡1930)。これが今日まで用いられる「擦文」という用語の初出である。 昭和6(1931)年、河野廣道は千歳神社裏にある竪穴を発掘調査し、竪穴が寛文7(1667)年 または元文4(1739)年に降下した樽前山の火山灰に覆われており、そこから「深鉢型擦紋土 器」が出土したことを報告した(河野 1932)。その後河野は「擦紋土器群」について概説し て「北海道に於ける金石併用時代から、金属期時代に亘る文化相を代表する土器群であって、 北海道全道、樺太南部、千島南部等に分布している。本州の祝部陶器土師器期時代に相当す るもので、普通蕨手刀その他鉄器と共に発見され、祝部陶器を併出することも稀でない。北 海道の表面の凹んだ竪穴から発見される土器は大部分この形式に属する。」と述べ、竪穴群 の年代と、その本州の歴史との対比についてかなり明確な見通しを示した(河野 1933)。ま たこのころ「擦紋土器群」とは別に「オホーツク海沿岸文化の石器時代後期から金属期時代 に亘る文化を代表する」「オホーツク式土器群」や、「最も新しい土器で(中略)内耳鉄鍋が 移入されてから、これを模造したものと思われ」る「内耳土器群」が認識されたことも重要 である(河野 1932)。ほぼ同じころ発表された後藤寿一の北海道の先史時代についての研究 結果も河野の理解とほぼ一致しており(後藤 1934)、また竪穴は約 200 年前、土器も石器も 使用しなくなった時代までも存在したと述べている(後藤 1935)。 こうして昭和の初年までに、道内の研究者たちは竪穴群の多くが石器とはほぼ縁のない 擦文土器の時代のものであることを示したが、竪穴住居が相当新しい年代まで用いられた という河野常吉以来の理解には訂正を加えなかった。これは当時、邦領内にあった樺太や千 島における竪穴群の調査が進み、それらが19 世紀まで用いられていたことが確かめられた ことも影響しているであろう。馬場脩は昭和8(1933)年から昭和 14(1939)年の間、5回に わたって北千島の竪穴群を調査し、第1期:オホーツク式土器時代、第2期:内耳土器時代、 第3期:末期(最近の遺跡)の3期に分けて紹介している(馬場 1939a・b)。 これより少し前、大正年間には、本州以南で弥生土器の時代が縄文土器の時代に後続する ことが確認され、昭和のはじめにかけて縄文土器の詳しい年代の区別が精力的に研究され た。こうした編年研究の代表的な推進者であった山内清男は、縄文土器の文化は亀ヶ岡式土 器をもって終わるが、「北海道では縄紋式以後にも縄紋の多い型式が続いている。この式を 私は近年続縄紋式と云って居り、若干の型式に細分し得るようである。」(山内 1939)と述べ、 本州以南と北海道以北の歴史の歩みに大きな違いがあることに注目した。その後、戦中の研 究の中断期を過ぎると、山内が用いた「続縄文」という言葉が縄文土器の時代と擦文土器の 時代の間に位置する文化の名称として次第に道内でも普及し、「オホーツク式土器」の文化 についての研究の進展とあわせて、北海道とその隣接地域の先史文化を比較しながら正当 に理解しようとする視点が発展していくのである。

3 竪穴群の調査(戦後の調査史)

(1)学術調査の展開 窪みで残る竪穴群の学術調査は敗戦後、間もない頃から実施されている。網走市モヨロ貝

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6 塚では東京大学や北海道大学の研究者、網走郷土館の米村喜男衛館長を中心に編成された 調査団により、昭和22・23・26(1947・1948・1951)年にオホーツク式土器を伴う貝塚・墳 墓・竪穴住居跡2軒、続縄文土器を伴う竪穴住居跡4軒等が発掘された。オホーツク式土器 を出土する竪穴住居跡は平面が五角形ないし六角形をした大型のもので、内部には貼り床、 石囲炉、陸獣や海獣の頭骨等の積まれた骨塚がある。住居跡からは石器や鉄製刀子(とうす) 等も出土し、これらの住居に暮らした人々は海洋に適応し、大陸と交流のあったことが明ら かになった(駒井編1964)。 昭和 27(1952)年には児玉作左衛門や大場利夫らによる北海道大学調査団が同大学構内の 北部に所在する83 軒の竪穴住居跡の分布図作成や一部の発掘調査を行い、遺物は出土しな かったが、堆積している火山灰や北海道・千島・樺太の竪穴群との比較等から、サケ類を捕 獲するために建てられた、四、五百年ほど前の仮小屋と考えた(北大調査団1955)。 児玉や大場らは道内の市町村教育委員 会から市町村史編さんの資料を収集する ための学術調査や開発予定地に所在する 遺 跡 の 記 録 保 存 等 を 依 頼 さ れ 、 昭 和 24(1949)年から 40 年代の中頃(1965 年頃) まで、各地で調査を行った。北海道東部で は、根室市・豊富町・女満別町(現在の大 空町内)・浜頓別町・大樹町・厚岸町・湧別 町・稚内市等で竪穴群の測量や発掘を実施 し、それらの中には、第6章で述べるよう に、昭和 41(1966)年以降に北海道史跡に 指定されたものもある(中田2016)。 大場は昭和 34(1959)年に北海道の先史文化を、無土器時代・縄文文化時代・続縄文文化 期・擦文文化期・オホーツク文化期・アイヌ文化期に区分した。擦文文化は縄文文化の伝統 をひく続縄文文化が本州の土師器や須恵器を伴う文化から影響を受けて成立したもので、 矩形をなし、煙道のあるかまどのつくりつけられた擦文文化の竪穴住居跡は海岸、湖沼、河 川の沿岸の丘陵上に数百の群落をなして現在も残っていると述べている。出土遺物から判 断すれば、大陸から伝来し、生活の根拠を海岸においたオホーツク文化は、河川と山を生産 の場とする擦文文化と併行して平安時代頃に存在し、また、アイヌ文化は擦文文化の伝統を 中核として、近世までに形成されたと大場は考えた(大場 1959)。 常呂町(現在の北見市常呂町)在住の大西信武は、同町の砂丘上等に所在する大規模な竪 穴群の保護を昭和25(1950)年頃から関係機関に求めていた。大西の案内で昭和 31(1956)年 に現地を訪れた東京大学の駒井和愛は竪穴群の重要性を認識し、翌年から栄浦1遺跡で発 掘調査を開始した(大西1972、駒井 1963)。擦文土器を出土する竪穴住居跡につくりつけ られたカマドが古墳時代の竪穴住居跡のカマドに類似するのは、古代のアイヌが穀類の煮 写真1 湧別町所在 道指定史跡 シブノツナイ竪 穴住居跡(撮影:(公財)北海道埋蔵文化財センター)

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7 炊きや農耕等の日本文化を取り入れていたことを示すと考えられた(駒井 1959)。東京大学 による竪穴群の発掘・測量調査等は、この後、現在に至るまで、60 年にわたって実施され ている。 昭和30 年代以降(1965 年以降)には常呂町でも道路工事・植林・開墾・砂採取等による遺 跡の破壊が目立つようになった。その中で、東京大学の藤本 強らは昭和 42(1967)年から 45(1970)年にかけて常呂川下流域に所在する竪穴群の測量を行い、遺跡周辺の航空測量図 と合成した竪穴群の分布図を公表することにより、現況の記録と竪穴群の保護を図った。ま た、竪穴群の発掘調査で出土した擦文土器等の編年作業を行い、地表面から観察できる竪穴 の窪みの形状とそれらの構築された時期との間に対応関係のあることを把握していった (東京大学文学部考古学教室1972)。 根室市内に所在する大規模な竪穴群の調査は、東京教育大学の八幡一郎らによって昭和 37(1962)年から 39(1964)年にかけて実施され、分布図の作成や発掘が行われた(八幡ほか 編1966)。同大学及び筑波大学では昭和 43(1968)年から 50(1975)年にかけても根室市及び 標津町に所在する竪穴群の分布調査や発掘調査を実施している(岩崎・前田編1980)。 昭和41(1966)年から 49(1974)年にかけては、北海道大学の大場や大井晴男らがオホーツ ク文化の集落の様相を解明するために、宗谷管内の礼文町や枝幸町等で竪穴住居跡の発掘 調査を行った。 釧路市教育委員会が昭和 45(1970)年・46(1971)年に土地造成に伴って実施した緑ヶ岡6 遺跡で、宇田川 洋は竪穴住居の掘り上げ土の堆積状況を手がかりにして、同遺跡内の竪穴 の新旧関係や2軒を単位とした集落の変遷を示している(宇田川 1972)。釧路市立郷土博物 館は昭和46(1971)年から 49(1974)年に釧路湿原総合調査を行い、湿原周辺に所在する竪穴 群等の遺跡について時期ごとの概要や分布図を作成した(澤・西1975)。同博物館では昭和 51(1976)年から7年間にわたって襟裳岬から納沙布岬にかけての海岸線に所在する遺跡の 分布調査を行い、各地の竪穴群についても概要を記述した(澤ほか 1984)。 昭和 50(1975)年には北海道教育委員会が浜頓別町内の竪穴群3か所、浦幌町教育委員会 が十勝川最下流部の竪穴群の測量調査を実施した。 千歳市教育委員会では苗別川流域にゴルフ場建設が計画されたのをきっかけとして、昭 和~53(1975~1977)年に同地域の分布調査、また、昭和 51(1976)年には同地域の南側に所 在するウサクマイC遺跡の地形測量を行った。この地域では樽前山の火山灰によって厚く 覆われて竪穴の窪みが地表面から明瞭ではないため、分布調査では試掘坑を掘開すること によって、縄文中期・続縄文文化期・擦文文化期の竪穴住居跡を確認した。ウサクマイC遺 跡では擦文文化期を主とし、続縄文文化期等のものもある、竪穴住居跡と考えられる窪みが 75 箇所確認されており、現在のところ、北海道内に所在する大規模な竪穴群の中では最も 南に位置するものと考えられている(西蓮寺ほか1976)。これらの調査によって発見された 24 箇所の遺跡の総体をウサクマイ遺跡群として捉えようとする機運は遺跡群の広域保存計 画へと発展し、史跡の指定につながっていった。

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8 昭和52(1977)年から 56(1981)年には北海道大学の大井晴男らが斜里町内に所在するオホ ーツク文化期や続縄文文化期の竪穴群の測量調査を行った(大井1984b)。昭和 54(1979)年 から 56(1981)年には筑波大学の前田 潮らが擦文文化期の竪穴を中心とした天塩町天塩川 口遺跡の測量調査を実施している(天塩町教育委員会編 1982 ほか)。 昭和 45(1970)年前後には、常呂町内等、各地の竪穴住居跡等から出土した擦文土器やオ ホーツク式土器の編年が東京大学の研究者等によって相次いで発表され、トビニタイ土器 等、両者の接触・融合を示す土器の分類も行われた。これらの土器の形態等が変化する方向 についてはほぼ共通の理解が得られたが、各文化期の中での時期区分やオホーツク文化と 擦文文化の時間的な関係に関する考え方は研究者により様々だった(東京大学文学部考古 学教室1972 ほか)。 昭和 50 年代前半(1975~1979 年)には北海道開拓記念館が網走市二ツ岩遺跡で行った竪 穴群の学術発掘調査により、貼付浮文系のオホーツク式土器が前期の擦文土器と共伴する ことが明らかになった(平川・野村編1982)。竪穴住居跡の骨塚からはオオムギ等、栽培植 物の種子も検出されている。 昭和53~55(1978~1980)年に斜里町教育委員会が畑地造成に伴って実施した須藤遺跡の 発掘調査(金盛ほか 1981)や昭和 56(1981)年に標津町教育委員会によって行われた伊茶仁カ リカリウス遺跡(史跡標津遺跡群の一部)の整備に係る発掘調査(椙田・椙田 1982)等では、 トビニタイ土器と擦文土器が長期にわたって併行関係にあったことや、道東地域における 竪穴群の立地や竪穴住居の形態の変化等に関する見通しが得られた。 道東地域における、擦文文化期の約50 軒以下の竪穴住居跡からなる中小規模の集落では、 同時に併存した住居は1~3軒で、占地に関していくつかの規制のあったことが昭和50 年 代の中頃(1979~1982 年)に東京大学の藤本によって示された(藤本 1979b・1982 ほか)。そ れらのうちで最もきびしい規制は、明らかに前代に竪穴住居があったと考えられる窪みを 避けて竪穴住居を構築することであり、集落の予定地に対する先住権ともいうべき一種の 所有権も生じていたため、多数の竪穴住居跡の窪みが今日まで残されることになったと考 えられている(藤本 1979b)。 藤本はさらに擦文文化期の竪穴群を河川の流域ごとに集落遺跡という視点からとらえ、 100 軒を超える竪穴住居跡からなる大規模な集落の立地や分布、生業等にみられる地域差の 存在等を示した。また、大規模な集落と中小規模の集落との性格の違い等についても論じた。 大規模な集落は秋から冬にかけてのサケ・マスの捕獲を主な目的とするものであるのに対 して、中小規模の集落はそれ以外の時期に様々な活動の場として利用され、道南地域では農 耕の比重が高かったという。河川流域ごとに地域社会が成立していく状況は、アイヌ社会に おける社会構造の萌芽であるとも述べている(藤本 1982)。 昭和 50 年代末(1984 年)には大井が擦文文化期の竪穴群をやはり集落遺跡という視点で 河川の流域ごとに集成し、地域による分布の違いやそれらを残した集団の多様なあり方に ついて論じている。また、これまでに発掘された集落の時期が地域によって偏りがあること

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9 から、道央地域の集落に居住した人々のかなりの部分は道北日本海沿岸、さらにオホーツク 海沿岸に移動したと考えた(大井 1984a)。 (2)増大する緊急調査 竪穴の窪みは開墾や市街地化等によって埋められたり、上部が削平されたりすることが ある。昭和50 年代中頃(1980 年前後)には区画整理や河川改修等に係る試掘調査の結果、竪 穴の下部が残存していることが判明し、発掘調査の行われる事例が相次いだ。千歳市末広遺 跡では106 軒、小平町高砂遺跡では 208 軒の擦文文化期の竪穴住居跡が検出されており、 大規模な集落の居住域のほぼ全域が調査されたと考えられる(大谷・田村1982 ほか、峰山・ 宮塚編1983、宮塚編 1983)。両遺跡の報告にあたっては竪穴住居跡から出土した多数の土 器の編年が行われ、それに基づいて、住居群の変遷や継続期間、同時に存在した住居の軒数 等が検討された(宮塚1983)。 図1 竪穴住居跡の分布(小平町高砂遺跡)(宮塚編 1983 所収の図版を改変) 昭和 59(1984)年に国道の改良工事に伴って、松前町教育委員会が行った札前第1地点遺 跡の発掘調査では、検出された住居跡の形態を比較することにより、竪穴住居から平地住居 への変遷が想定された(久保ほか 1985)。 昭和 60(1985)年頃からは道路改良や河川改修等に伴って竪穴群の一部が発掘される事例

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10 が多くなり、北海道東部では釧路市・枝幸町・網走市・北見市・根室市等で調査が実施され ている。竪穴群の資料は増大しているが、それらに基づく立地や分布、変遷等の分析は、必 ずしも十分に行われているとはいえない状況である。 北海道教育委員会の大沼忠春は、カマドの付設された方形の竪穴住居は、土器に縄文が施 されなくなるのに遅れて7世紀後半に出現したと考えた(畑・大沼 1988)。土器から縄文が失 われ、ハケ目調整や沈線文の施された擦文土器の成立した年代が擦文文化の成立した年代 でもあるとして、6世紀後半を想定している(大沼編 2004)。 平成8~11(1996~1999)年には都市計画道路の改良工事に伴い、札幌市埋蔵文化財セン ターによってK39 遺跡の発掘調査が行われた。旧河川沿いの調査区では5~6枚からなる 擦文文化期の文化層ごとに竪穴群が検出され、河川の利用を含む生活や生業の一端が明ら かになった(藤井編2001)。 平成 13(2001)年に国道建設工事に伴って(財)北海道埋蔵文化財センターが発掘調査を行 った根室市穂香竪穴群では、擦文文化期や縄文後期の竪穴住居跡が検出された。前者には方 形でカマドと炉のある竪穴住居、方形で炉のみをもつもの、長方形で炉のみのものという3 種類が認められ、擦文文化期の末期に住居の形態が変化していく様相を示すと考えられる ((財)北海道埋蔵文化財センター編 2003)。 平成 17(2005)年以降には、竪穴群の形成や変遷を道内各地域の豊富で様々な産物や広域 的な分業、交易品の流通との関わりからとらえる考え方が旭川市博物館の瀬川拓郎や北海 学園大学の澤井玄等によって提示されている(瀬川 2005・2007、澤井 2008 ほか)。ただし、 本州等に運ばれたという各種の産物が遺物として遺存することは稀であり、それらを考古 学的に立証するには資料がまだ不足しているともいえよう。両氏は12 世紀の土器や竪穴住 居は日本海北部等では確認されていないと述べ、擦文文化が終末を迎える時期には地域差 があったとしている。 千歳市丸子山遺跡(田村編 1994)等でカマドをもつ竪穴住居が出現した契機として、東北 地方からの移住を考える研究者は北海道内では少なくない(大沼 1996 ほか)。このような考 え方に対して盛岡市教育委員会の八木光則は、東北地方の竪穴住居との比較や土器の製作 技法に現われる前代との継続性等からみて、少数の人々の移住を否定するものではないが、 在地の住民が律令国家の北進政策を背景とする文化的な衝撃を受けて生活様式を変化させ たと述べている(八木 2011)。 最近、瀬川は擦文文化期に大規模な竪穴群が形成されたのは、当時の人々が遺体を住居に 安置し、そのまま放置したことの累積によるとの考え方を示した(瀬川 2016)。今後は、竪穴 住居以外の集落を構成する施設等との関係も考慮に入れながら、竪穴群の研究を進めるこ とが必要だろう。

4 竪穴群の分布と年代

(1)竪穴群の分布

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11 北海道教育委員会が整備している埋蔵文化財包蔵地調査カードに、「竪穴」が所在する旨の 内容が記載されている遺跡は、1282 箇所を数える。このうち、調査担当者が「竪穴」の窪み を確認した遺跡が 1071 箇所、文献や聞き取り等の記載があるものが 211 箇所である。なお、 発掘調査が実施されていない場合は、「竪穴」とされる窪みが「竪穴住居跡」ではないこと もあり得る。 分布は、図に示すとおり北海道東部に多く分布している。特に釧路、根室(総合)振興局 管内が多く、この地域だけで全体の約6割に達する。 各地域とも、海岸線に多く分布しているが、石狩川、天塩川水系には内陸部にまとまる地 域がある。十勝、釧路、根室管内では釧路川水系や、根室(総合)振興局管内では海岸線か ら河川の上流域まで連続して分布する所も見られる。 図1 「竪穴」が確認された遺跡の分布と地域別の数 (北方領土地域は埋蔵文化財包蔵地周知資料未整備) 空知 11 上川 16 石狩 99 留萌 26 後志 5 宗谷 122 胆振 3 オホーツク 177 日高 7 十勝 39 渡島 2 釧路 302 檜山 3 根室 470

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12 (2)竪穴群の年代 「竪穴」が所在する遺跡は、縄文時代から擦文文化期までのものがある。しかし、発掘調 査等が実施された遺跡は、記録があるものだけで約 290 箇所で、割合としては少ない。ま た、時代・時期が不明とされている遺跡は、約 460 箇所であり、これらの遺跡の「竪穴」の 年代について、検討と修正を続ける必要がある。 「竪穴」の年代で、最も古い例は、縄文時代早期(沼尻式)の住居跡の窪みが残存してい た、羅臼町トビニウス右岸遺跡である (羅臼町教育委員会 1978)。また、縄文時 代の住居跡の窪みは、道南地域の木古内 町幸連4遺跡(前期後半)や北斗市矢不 来7遺跡(後期後葉)などでも残存して いた。 年代別で最も件数が多いのは、擦文文 化期として登載されている遺跡で、その 数は約 590 箇所である。これは、「竪穴」 が所在する遺跡の約半数で、また、約 1500 箇所ある擦文文化期の遺跡の約4 割に当たる。しかし、発掘調査が実施さ れた遺跡は約 160 箇所で、出土品ではな く、「竪穴」の平面が隅丸方形であること から推定されている例が多い。今後の調 査結果によっては、時代・時期の修正や 追加が生じる遺跡もあると思われる。な お、北海道内で「竪穴」の窪みが所在す るとされた遺跡の内、続縄文文化期とし て登載されている遺跡は約 180 箇所、オ ホーツク文化期として登載されている 遺跡は約 90 箇所である。これらの時期 の遺跡は、擦文文化期の遺跡と複合して いるものも多いため、正確な数は不明で ある。

5 竪穴群の内容

(1)竪穴住居の構造 竪穴住居は、地面を掘って床を作った建物と定義され、長さが数m~10m 程度、地表か らの深さが数十cm~1m 程度の掘り込み(竪穴)に、柱の穴や炉やカマドなどが作られる。

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13 北海道では帯広市八千代A遺跡(帯広市教育委員会編 1990)や釧路町東陽1遺跡((財)北海 道埋蔵文化財センター編2006)で調査された縄文時代早期(9,000 年前頃)が最も古く、擦 文文化期の終わり頃(800 年前頃)まで、約1万年の間、一般的な家屋の形態のひとつであ ったと考えられている。 北海道内では、約 10 年前の集計で約 6,000 軒の竪穴住居跡が発掘調査されており(村本 2007)、調査漏れやその後の調査例の増加を加味すると、現時点で 7,000 軒弱が発掘調査さ れたと推測される。時代毎の内訳は、縄文時代は約4,500 軒(75%)、続縄文文化期は約 200 軒(3%)、オホーツク文化期及び擦文文化期は約 1,300 軒(20%)である。時代の長さに比 べて、オホーツク文化期及び擦文文化期は多く、続縄文期は少ない。時期毎の増減は、時期 を細分するほど顕著になり、道東・道北地域では縄文時代前期前半、中期前半、後期中葉、 晩期、続縄文文化期後半などでは、土器や石器などの遺物は見つかるものの、竪穴住居跡は 見つかっていない。 竪穴住居と一括りにしているものの、これらの掘り込み(竪穴)の形や柱の配置、炉やカ マドなどの有無や形・設置場所などがは地域や時期によって異なる(図1)。ほとんどの時 期で、道南地域と道東地域では大きく異なっており、道南地域は東北地方北部と極めて似た 変化をする。道央地域は道南地域と道東地域の中間的ではあるが、どちらかといえば道南地 域に似た変化をする。また、サハリン方面からの移住があったと考えられているオホーツク 文化期と、東北地方と似た竪穴住居が道内を席巻する擦文文化期の住居の形式は、それ以前 のものと大きく異なる。 竪穴の平面形は円形や楕円形、正方形や長方形などがあるが、道東地域では不整円形ない しは不整多角形の竪穴を掘る時期が長い。柱は壁よりおおよそ1~2m 内側を巡る。道東 地域ではオホーツク文化期を除くと、竪穴の床面積に比べて柱が細い傾向にある。火処は地 面を掘り窪めたり、その周りに石を並べるなどして炉の作られる時期が多い。擦文文化期の 住居は煮炊き用の施設としてカマドを作るという特徴がある。 窪みで残る竪穴群の多くを占めると思われる擦文文化期の竪穴住居跡は発掘されたもの のうち 20%程度が火事に遭って建物が倒壊しており、炭となった建築部材の見つかること が多いことから、建物として復元するのに必要な情報を多く得ることができる。写真1は小 平町高砂遺跡で見つかった火事に遭った竪穴住居跡で、図2は釧路市北斗遺跡における擦 文文化期の竪穴住居(第20 号住居:釧路市教育委員会編 1998))の復元案である。四角い穴 の中に、①穴の壁と平行に巡る立った状態の木炭と、②穴の壁から穴の中央方向へと伸びる 木炭、そして③写真奥側に壁と地面に穴の開いているのが写っている。 ①は竪穴住居の壁である。床を作るために穴を掘った後に、やや内側に丸太を割ったもの や板を立てて並べて、壁にしている。土から冷気が侵入してくるのを防ぐとともに、穴が崩 れるのを防ぐ機能があると考えられる。 ②は屋根の骨組みとなる垂木である。図1のように、屋根は床面に穴を掘って据えられた 概ね4本の柱と、柱の上にそれぞれの柱を連結するように四角に組んだ梁・桁によって支え

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15 られる。垂木はその梁・桁の上にのせられる。垂木の上にはより細い材を格子状に組んだり、 樹皮をのせたりするなどして下地が作られ、更にその上に小枝又はヨシやススキ、ササとい ったイネ科植物がのせられる。更にその上には穴を掘った際に出た土がのせられていたと 考えられる。土は壁に近いほど厚く、屋根のてっぺん付近ほど薄くなる。地上に壁が突き出 していた痕跡は全くみられないことから、外観はテントに土をかぶせたようなものであっ たと考えられる。 ③の穴はカマドの煙出し部分である。出入口は、北海道ではカマドの脇にあったと考える のが主流であるが、根拠となる梯子跡等が見つかっていないことから、議論が進んでいない。 (2)竪穴住居から竪穴住居跡、窪みへ 竪穴住居が地面を掘り込んで床を作る以上、一定量の排土が生じる(a)。その一部は先 に述べたように屋根に乗せられたと考えられる(b)。竪穴住居はいずれ役目を終え、解体 されたり、放置されて朽ちたり、小平町高砂遺跡の例のように火災に遭うなどして、屋根が 崩れ落ちる(c)。放置された竪穴住居跡では、周りに盛り上げられた土が竪穴の中や、逆 にその外側に流れる(d)。時間が経つほど周囲に盛り上げられた土が竪穴内に流れ込み、 窪みとして認識し難くなる。また、洪水や火山灰の降下でも埋められていくし、後世にゴミ 捨て場として利用されたり、開墾されれば地面の凹凸はならされる方向に変化する。 根室市穂香竪穴群では縄文時代後期と擦文文化期の竪穴住居跡が調査されており、縄文 時代後期では60~70cm、擦文文化期では 10cm 程度、竪穴が埋まっていた((財)北海道埋蔵 文化財センター編2001)。弟子屈町矢沢遺跡では縄文時代中期の竪穴住居跡で 80~100cm、 擦文文化期の竪穴住居跡で20cm 程度、埋まっていた(弟子屈町教育委員会編 1977)。 同じ遺跡内でもばらつきはあるものの、洪水や火山灰の降下、開墾等の影響が小さければ おおよその時間差を反映して徐々に埋まっていく。そのため、新しいものほど窪みは深く、 本来の竪穴の形をしており、古いものほど浅く、円形や不整形になっていると考えられる。 (3)竪穴群の構成 4章で竪穴群として取り上げた埋蔵文化財包蔵地(以下、包蔵地)1,281 箇所のうち、 写真 1 火事にあった竪穴住居跡(小平町高砂遺跡) 図2 擦文文化期の竪穴住居の復元案 ① ② ③

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16 窪みの個数は 988 箇所の包蔵地で記録が あり、窪みの総数は 23,137 個である。そ のうち1箇所の包蔵地で最も窪みが多く 記録されているのは北見市常呂町栄浦2 遺跡の2,030 個で、100 個を越えるものは 29 箇所(2%)である。また、9 割の包蔵 地が30 個以下で、1個のみと5個以下が それぞれ約3割を占める。大半が踏査の際 に記録されたものである。測量調査が実施 された包蔵地で窪みの個数が多い傾向が あるが、窪みの多さから注目され、測量調 査の対象になったことに加えて、精査する とさらに多くの窪みが見つかるという事 情があったと考えられる。また、個数の記 載がない包蔵地でも「無数の」や「かなり の数みられる」といった記載があることか ら、調査の進展に従って増加する可能性が ある。ただし、昭和40 年度に調査した際 には確認できた窪みが昭和50 年代には確 認できなかった事例などが多数あること から、現地での確認が急速に困難になっていることも事実である。 竪穴群が集落であるとすれば、そこには家となる建物だけでなく、その周辺には食糧など を貯蔵するための施設、日常の作業の場、儀式の場、墓やゴミ捨て場、他の場所へと繋がる 道といった、様々なものが同時に存在していたと考えるのが普通である。 (a) (b) (c) (d) 図3 竪穴住居から窪みへ 図4 埋蔵文化財包蔵地1箇所あたりの窪みの数

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17 しかし、そうした住居以外の施設が発掘調査で確認された例は少ない。旭川市錦町5遺跡 (旭川市教育委員会編 1984)では魚を捕獲した施設として梁(やな)が見つかっている。擦文 文化期の遺跡が海岸沿いのほか、川沿いにも集中することから、同種の施設の調査事例は今 後増える可能性があるが、現時点では希有な事例である。 そのようななかで、近年注目されるのが、厚真町オニキシベ4 遺跡(厚真町教育委員会編 2014)である(図 5)。ここでは竪穴を掘らない 5 軒の建物跡(うち 2 つは住居と考えられて いる)や、廃棄場ないし送り場とされる遺物の集中が報告されている。アイヌ文化期へと近 づくなかでの竪穴住居から平地住居への転換を示しているのか、厚真川上流という地域の 特徴であるのか、夏・冬の季節による場所の住み替えがあるのか、今後の議論の対象となる 重要な成果と言える。なお、竪穴住居と平地住居が同時に存在する可能性がある調査事例と しては札幌市K528 遺跡(札幌市教育委員会編 2008)があげられるが、類例はほとんどない。

6 竪穴群の保護

(1)指定制度による保護 「保存法」の施行 現在、道内最大の市街地となっている札幌市中心部にも、かつては大規模な竪穴住居跡群 図5 厚真町オニキシベ4遺跡の擦文文化期の遺構

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18 が存在した。高畑利一は明治 27(1994)年頃にその分布図を作成し、720 箇所にのぼる竪穴の 位置を記録しているが(羽賀 1975)、現在その大半が所在不明となっている。北海道開拓が軌 道に乗るにつれ道内遺跡の破壊も激しさを増していたが、開拓使の設置以後ほぼ半世紀の 間、その体系的な保護は試みられなかった。 しかし 20 世紀を迎える頃には国内の工業化・都市化が急となり、歴史ある城跡や庭園な どが開発により失われる事例が増加した。こうした土地に結びついた文化財(現在では「記 念物」と総称されている。)保存のための制度を求める運動が起こり、大正 8(1919)年には「史 蹟名勝天然紀念物保存法」が制定・施行され、内務大臣(のち文部大臣)が重要な記念物を 指定して現状変更を制限する制度が発足した。重要なのはこのとき地方長官に仮指定の権 限が与えられたことで、大正 10(1921)年に道庁は河野常吉らを委員とする「北海道史蹟名勝 天然紀念物調査会」を設置し、北海道固有の歴史を物語る仮指定候補物件の調査に着手した。 こうして大正 10(1921)年 6 月、北海道庁は史跡「神居古潭原住人遺跡」(現旭川市)の仮 指定を行い、遅れて昭和 10(1935)年、「春採台地竪穴群」(釧路市)が文部大臣指定、「クサ ンルの竪穴群」(現稚内市)が道庁仮指定を受けた。昭和 11 年には「最寄貝塚」(網走市) が、そこに竪穴群があるとの認識は不十分であったものの大臣指定を受けている。このよう に道内竪穴住居跡群の史跡指定を通じた保護行政はほぼ 100 年にわたる歴史がある。しか し当初は「神居古潭原住人遺跡」の仮指定解説に「この人種は体の小さな人種」云々とあっ たように、なお遺跡の内容・価値の理解は十分と言えないものがあった。 文化財保護法と保護条例 日本の敗戦は、歴史の理解と文化財の保護にも大きな影響を与えた。昭和 25(1950)年に は旧保存法に代わって文化財全体の総合的な保護のための法制として文化財保護法が制定 施行されたが、旧道庁の仮指定史跡は保護法による史跡にそのまま移行しなかった。ようや く昭和32(1957)年に「神居古潭竪穴住居遺跡」が北海道文化財保護条例(昭和 28(1953)年 制定)による史跡に指定されたが、もう一つの旧仮指定竪穴群である「クサンルの竪穴群」 はその後指定による保護を受けることなく、現在もただ埋蔵文化財の包蔵地として周知さ れるにとどまっている。 この埋蔵文化財という概念は、保護法の制定によってはじめて制度化された。これは文化 財自体の種別ではなく、有形文化財や記念物など各種の文化財を土地に埋蔵されていると いう特性により一括した概念である。法制定当初の趣旨はそうした埋蔵文化財の発掘調査 を国の管理下に置くことであったものの、戦後再び急激に進展しはじめた産業と都市の発 展は興味本位の発掘調査よりもはるかに深刻な形で埋蔵文化財を脅かすこととなり、昭和 29 年の法改正に際して、「埋蔵文化財のあることが周知されている土地」で土木工事等を行 う場合に事前の届出を行う規定が追加された。これにより明確に範囲・内容を指定して保護 されていない先史遺跡の破壊に対しても初めて規制が及ぶことになった。 しかし実際に工事の届出があり、遺跡の保存のためそれを中止させる必要が認められた として、保護法に明文の規定のある緊急措置としてはその土地を記念物として仮指定する

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19 以外の選択肢がないが、この仮指定は都道府県教育委員会のみが持つ権限である。つまり、 発掘調査の管理が国の事務であったのに対して、埋蔵文化財を開発から保護することは地 方自治体の事務として出発したのであり、産業振興と都市化の進展を切実に希望する地方 自治体にこれを負わせたことには無理が伴った。 こうした状況のもとで当面、地方自治体の立場で現実的な先史遺跡の保護とは、条例によ る史跡指定であった。昭和30 年代末から 40 年代前半にかけ北海道文化財保護条例に基づ く竪穴住居跡群の史跡指定が相次いだ(表2)。これに与って力があったのは昭和 36(1961) 年に考古学の専門家として北海道文化財専門委員に就任した大場利夫博士であり、博士は 昭和30 年代(1955 年~1964 年)に道内の市町村教育委員会が郷土史解明のため盛んに実施 した発掘調査を積極的に担当することを通じて、各地の竪穴群の実情を把握していた(中田 2016)。その意味では、保護法に基づく発掘の管理が、条例による史跡指定という形である 程度円滑に遺跡の保存に帰結したのである。 しかし昭和 41(1966)年以降、大場博士が新設の北大文学部附属北方文化研究施設の教授 として施設固有の研究に傾注するようになると、道内竪穴群の実情把握と指定も一定の限 界を迎える。また、指定によって現状の変更は制限されても、さらに調査を進めて史跡の内 容を正確に理解し、それを教育や研究に役立てるといった形で文化財としての価値を発揮 させる作業は容易に進展しなかった。 (2)記録保存から開発調整 大規模開発と緊急発掘 いわゆる高度経済成長の結果として、高速鉄道・道路をはじめとした社会・産業基盤の整 備が全国で推し進められる昭和40 年代(1965 年~1974 年)に入ると、埋蔵文化財の保護に 大きな変化が現れた。こうした大規模な公共事業が埋蔵文化財包蔵地に及んだ場合に、事業 の公共性に照らして包蔵地を現状保存することはできないとしても、その代償として徹底 した発掘調査を行って文化財の記録を残すべきであるとの理解が一般化した。 建設省(当時)をはじめとする事業主体と文化財保護委員会の間で、こうした発掘調査を 都道府県教育委員会が実施することを原則とする旨の覚書が交わされた結果、都道府県は 調査実施のための体制整備を進めざるを得なくなった。道教育委員会にも昭和 46(1971)年 に初めて文化財保護主事が配置され、昭和 50(1975)年からは大規模公共事業に伴う記録保 存のための発掘調査を開始した。いわゆる緊急発掘の規模は年を追って拡大し、昭和 54(1979)年には道内の国・道営事業に伴う緊急発掘を専門に実施する財団法人北海道埋蔵 文化財センターが設置されるに至った。 昭和 50(1975)年の文化財保護法改正で上記のような公共事業に伴う発掘調査を地方公共 団体が円滑に実施するための条項整備が行われた結果、竪穴住居跡群の大規模な記録保存 が行われた千歳市末広遺跡(昭和54~56(1979~81)年調査)、小平町高砂遺跡(昭和 55~ 57(1980~1982)年調査)、苫前町香川三線・同香川 6 遺跡(昭和 61・62(1986・87)年調査)や 旧常呂町常呂川河口遺跡(平成63~平成 14(1988~2002)年調査)などではいずれも地元市

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20 町村の教育委員会が調査主体となった。しかし地域によってはそれまでに知られた竪穴群 の大半がこの時期の緊急発掘を最後に消滅しており、保護の観点からは辛うじて一部の記 録保存が間に合ったという表現が実際に近いかも知れない。 周知資料整備とその限界 開発事業と文化財保護の調整のためには、埋蔵文化財包蔵地の位置・範囲が明確でなけれ ばならない。昭和50 年の法改正では埋蔵文化財包蔵地の周知の徹底、、に努めることが国と地 方自治体の責務として明示され、各自治体は従来厳密な規定のなかった「周知の埋蔵文化財 包蔵地」の位置・範囲を、新たに公的資料に明示する必要に迫られた。北海道内でも昭和 47(1972)年から道教委が市町村と協力しながら分布調査を実施し、それまでに知られてい た包蔵地を現地で確認するとともに新たな包蔵地の発見に努めた。 これにより昭和60(1985)年までに、一様な精度で全道を網羅する約 8,400 箇所の埋蔵文 化財の包蔵地の周知資料が整備された。この資料には包蔵地の位置・範囲のほかにも集落 跡・貝塚・墳墓といった遺跡の種別や時代などの情報が記載され、従って地表から確認でき る竪穴住居跡群が全道に、また特定の地域に何箇所存在するか、それらはいつ頃のものかと いった問題に答えることがある程度可能になった。その後の調査の進展で周知資料の整備 された道内の包蔵地は約1 万 2 千箇所(平成 28 年 3 月末現在で 12,163 箇所)まで増加し ておりこの冊子の4 章の記述もこの情報に基づいてなされている。 とは言え周知資料整備の本質は、周知の包蔵地における土木工事等の届出という保護法 上の責務が円滑に果たされるよう措置することにあり、周知資料には届出書類の記載事項 として要求される遺跡の種別・時代などは必ず記載されるものの、地表から確認できる竪穴 がいつの時点で何基あったか、そのうち何基が発掘されたか、竪穴の規模・形態や配置はど のようになっているか、といった遺跡の内容や価値の判断に必要な情報は必ずしも記載さ れていない。そうした意味で我々の進める竪穴住居跡群調査では、周知資料からは読み取れ ない情報を利用できる新たなデータベースの整備が重要な目標となる。 届出の目的を超えて、しかも公共事業に伴う文化財保護の目的で竪穴群の詳しい現状が 調査された稀な例として、昭和 49(1974)年に行われた浜頓別町永和の竪穴群の測量調査が ある(新岡・佐藤 1975)。これは国営草地改良事業と文化財保護の調整をはかるため、稚内 開発建設部が竪穴群の正確な位置と範囲を示す資料を作成したものである。しかし 3 章で も紹介したように竪穴群の詳しい記録作成は当初各大学が考古学研究の一部として推進し たものであった。やはり昭和49 年に「常呂遺跡」(旧常呂町)が竪穴群としては「春採台地 竪穴群」以来ほぼ40 年ぶりに新たな国指定史跡となった際、その価値を証明したのは東京 大学文学部常呂実習施設による正確な平面図や発掘の成果であり、昭和 51(1976)年には東 京教育大学の調査成果を踏まえた根室市「西月ヶ岡遺跡」の国指定がこれに続いた。 (3)計画的な保護の推進 史跡整備と広域保存 約1,043ha(当初、現在は約 1,281ha)という広大な常呂遺跡の指定を皮切りに、国内の

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21 他地域に類例のない道内竪穴群の特殊性と価値が再認識され、昭和50 年代にはその国史跡 指定が相次いだ(表1)。中でも釧路市「北斗遺跡」(昭和52(1977)年指定)は、市教育委員 会が自ら測量・発掘調査を行って遺跡の価値を示す資料を整え、指定後には土地を購入して 管理の責任を負ったうえ、ガイダンス施設や復元住居など公開のための整備までを行った 事例で、昭和48 年度から平成 8 年度までの長期にわたる独自の取組は自治体による先史遺 跡の保存活用に一つのモデルケースを提供した。 一方、国土開発事業のさらなる大規模化を背景に、文化庁は昭和 52(1977)年から「広域 遺跡保存対策」に関する調査研究事業を行い、特定の範囲に多数の遺跡が存在する場合や遺 跡の面積が広大である場合の保存方法を検討した。この調査研究の初の対象に選ばれたの が標津町の遺跡群で、その成果を受けて昭和 54(1979)年に伊茶仁カリカリウス遺跡がすで に指定されていた古道遺跡と統合され国史跡「標津遺跡群」が誕生、また同年これに接する 「標津湿原」も天然記念物として国指定を受け、遺跡とその立地する環境が一体となって保 護を受ける稀有の事例となった。その後も「標津遺跡群」と「標津湿原」の追加指定は続き、 現在史跡は約4,149ha、天然記念物は約 2,212ha に達している。史跡としては国内で最も 広大なものであるが、しかしなお「広域遺跡保存対策」調査研究事業で早急な保護が必要と された区域の相当部分が未指定のまま残されている。 標津遺跡群では昭和 55(1980)年にポー川史跡自然公園、常呂遺跡でも平成 6(1994)年に 「ところ遺跡の森」が開設され、また近年では平成25 年度に網走市最寄貝塚の整備事業が 完了した。これらの遺跡では国指定記念物の整備に対する国庫補助制度を活用し、来訪者が 遺跡の内容・価値を具体的に理解できるよう配慮されている。これに対して指定・現状保存 の先行した道指定の竪穴群の整備・活用は概して進展しておらず、紋別市教育委員会が独自 に実施した発掘調査の成果をもとに平成 4(1992)年までに市民ボランティアによる復元建 物の整備などが行われた紋別市オムサロ台地竪穴群は稀な例である。 重要遺跡確認調査 平成 11(1999)年、道立埋蔵文化財センターが設置され、道教委の埋蔵文化財保護業務の うち調査研究・収蔵保管・普及啓発を実施することになった。その調査研究事業の一部とし てこの年開始され、現在まで継続している「重要遺跡確認調査」の目的は、北海道の歴史理 解にとって重要でありながら未指定、あるいは保護が不十分とみられる遺跡を調査し、その 内容・価値をより具体的に明らかにし、史跡指定の根拠ともなりうるような資料を整備する ことにある。道立センターの運営を委託された財団法人北海道埋蔵文化財センターは、これ によりはじめて緊急発掘以外の野外調査を行うようになった。 平成13・14(2001・2002)年に奥尻町青苗砂丘遺跡でオホーツク文化期の集落跡を調査し たのち、平成17(2005)年から 5 年間にわたり主な調査対象としたのは幌延町と豊富町にま たがる音類(おとんるい)竪穴群である。日本海とサロベツ湿原に挟まれた砂丘に位置する この遺跡は、日本海側に現存する竪穴住居跡群としては最も規模の大きいものとみなされ ながら、従来、詳しい調査が行われていなかった。調査の結果、796 箇所の住居跡と思われ

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22 る竪穴を確認し、主要な区域の詳 細な平面図を作成する成果を挙げ た((財)北海道埋蔵文化財センター 編2010、図1)が、遺跡が利尻礼 文サロベツ国立公園の特別保護地 区にあって現状の変更が厳しく制 限されており、発掘による内容確 認は実現していない。そのせいも あってまだ史跡指定には至ってい ないが、同じ水系にある天塩川河 口部の竪穴住居跡群(天塩町教育委 員会編 1982)とともに今後文化財 としての保護が望まれる遺跡であ ることは間違いない。 天塩川河口部の竪穴群は市街地 に接する場所にありながら、かな りの部分が国有保安林に位置する ためこれまで開発を免れてきた。 同様に常呂遺跡の竪穴群や、道指 定竪穴群のいくつかも森林法の保 護を受けて開拓以前からの景観を保ってきた。冷静に考えれば遺跡を保護しているのは文 化財保護のための制度だけではないのであり、竪穴群を取り巻く環境・景観まで考慮に入れ たうえで望ましい保護のあり方を考えていかなければならない。 表1 国指定史跡の竪穴群 指定年月日 所在地 指定名称 備考 大正10(1921) 6・12 神居村 神居古潭原住人遺跡 道庁仮指定、1957 年道指定 昭和10(1935)11・27 稚内町 クサンルの竪穴群 道庁仮指定、戦後未指定 昭和10(1935)12・24 釧路市 春採台地竪穴群 昭和11(1936)12・16 網走市 最寄貝塚 昭和49(1974) 3・12 常呂町 常呂遺跡 昭和51(1976) 6・21 標津町 古道遺跡 1979 年、標津遺跡群に統合 昭和51(1976) 8・28 根室市 西月ヶ岡遺跡 昭和52(1977) 7・14 釧路市 北斗遺跡 昭和54(1979) 5・22 標津町 標津遺跡群 昭和54(1979) 5・23 千歳市 ウサクマイ遺跡群 図1 音類竪穴群平面図(部分、1:2,500) 平成 19 年度 北海道埋蔵文化財センター作成

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23 表2 道指定史跡の竪穴群 指定年月日 所在地 指定名称 備考 昭和32(1957)12・20 旭川市 神居古潭竪穴住居遺跡 1921 年道庁仮指定 昭和39(1964)10・3 紋別市 オムサロ台地竪穴群 昭和41(1966) 7・7 浜頓別町 浜頓別クッチャロ湖畔竪穴群 昭和41(1966) 7・7 大樹町 十勝ホロカヤントー竪穴群 昭和42(1967) 6・22 湧別町 シブノツナイ竪穴住居跡 昭和42(1967) 6・22 斜里町 朱円竪穴住居跡群 昭和43(1968)12・18 興部町 興部豊野竪穴住居跡 昭和51(1976) 5・21 浦幌町 十勝オコッペ遺跡 昭和51(1976) 5・21 浦幌町 十勝太遺跡群

7 おわりに

「北海道南千島の遺跡を見るに、其最も注目すべきものは竪穴である。」(鳥居1903:213) (1)北海道の歴史・環境の理解と竪穴群 主要遺跡としての竪穴群 北海道の遺跡の種類は、見たところ国内の他地域に比べて少ない。宮殿の跡はなく、官衙 や寺、城の跡も少ない。いわゆる古墳もないに等しい。ただこれは本質的に遺跡の多様性が 乏しいというよりも、文献によって性格内容の説明できる遺跡が少ない、と考えたほうがよ い。南西部の一部地域を除けば、文献にほとんど記録のない時代、つまり先史時代がわずか 300 年ほど前まで続いていたことが北海道の特徴である。どこにどのような人間の営みの跡 があるか、ということは本を読んでもわからず、野外を歩いて遺跡をみつけ、その内容を調 べることが北海道の歴史を理解するために重要な作業となる。 いわゆる竪穴群は、その意味で北海道の最も主要な遺跡であるといってよい。何しろすで に開発され遺跡がかき乱された土地を別にすれば、歩くだけで、地面の上からそこに遺跡が あるとわかるのは、竪穴群のほかにはチャシ跡ぐらいしかないが、チャシ跡の多くはさほど 古いものではなく、その性格内容もある程度は文献から説明できる。竪穴群にはそういう都 合のいい文献がないのであり、その意味では、前節までに述べた分布の広さや数の多さ、年 代の幅から言っても、竪穴群こそは北海道らしい、北海道の古代を代表する遺跡だと言える であろう。 この40 年ほど、道内でも毎年のように広大な面積でいわゆる緊急発掘が行われ、北海道 の古代史もその成果を大いに利用して説明されるようになっている。しかし、緊急発掘には 時間と経費の制限が伴うのであり、その制限の範囲で遺跡から引き出せる内容には限界が ある。また何より、発掘のあとで遺跡は失われてしまう。緊急発掘によって、地表から眺め

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24 ていてもわからなかったどんな素晴らしい遺跡が明るみに出るにせよ、それはほとんどの 場合見つかる端から消えていくのであり、将来の世代のために残すことはできない。 緊急発掘の成果をできるだけ活用しながらも、今一度、第2・3 章で述べたような遺跡発 見・記載の時代にまで立ち戻って、どのように先史時代の遺跡を把握し、どのように将来に 向けて保存していくべきかを考えることが、北海道の埋蔵文化財の保護のうえで本来重要 な仕事であると私たちは考えているのであって、そのためにまず道内、特に北海道東部に残 されている竪穴群の現状の調査にようやく着手したところである。 北海道の環境と竪穴群 地表から確認できる状態で竪穴住居跡が残っている理由について、北海道の季候が寒冷 であるために土壌が発達しないからだ、と説明される場合がある。それでは温暖な地域の地 表は土壌の形成によって急速に盛り上がっていくのか。その土壌を形成する物質はどこか ら来るのか。植物が空中から固定する炭素や窒素が土壌を形成するのだとすれば、有機物の 分解が遅い寒冷地で土壌が発達する理屈にならないか。そうでないなら植物が地中から吸 収した珪素やカルシウムが地表に溜まり、その分地表の竪穴が沈降するのか。そういう過程 の中で、竪穴がその形状や構造を保ったまま埋没していくことが可能か、考古学者は心配し なくてよいのだろうか。 竪穴が埋まるのは掘り出した土が侵蝕されて再び流れ込むから、あるいは新たな物質が 堆積するからであり、埋まらないのは侵蝕や堆積が進行しないからだと我々は考えている。 他の地域より北海道に竪穴群がよく残っているのであるとすれば、それは大きな侵蝕や堆 積の起こらない、安定した環境が他の地域よりも維持されてきたことを意味する。雨量の少 ない北海道は雨水による侵蝕・堆積が比較的少なく、また根雪の期間には地表が固定され凍 上からも保護される。いわゆる「寒冷な気候」の影響は大筋でこのように理解するべきだろ う。もちろん地表の侵蝕・堆積の環境は植生とも関係する。深い森林が形成されることは地 表が安定していることと同義であり、森林の中にある古代の竪穴群は、大筋でその土地の地 表環境がいかに安定しており、またいかに長く安定したままであったかを示すものと考え てよいだろう。 近年、地球温暖化に伴う気象の変化が論じられており、北海道の降雨量は増加、積雪期間 は短縮し、森林を破壊する暴風も増加する傾向が見られる。将来はこの地域の環境そのもの に遺跡の保全を委ねること自体が難しくなってくるかも知れない。しかし少なくとも20 世 紀までの相当長い間、北海道の遺跡が火山の噴火などを別にして非常に安定した環境の下 にあったことを竪穴群から読み取ってよく、そうした意味で竪穴群には天然記念物として の性格が含まれる可能性もあると思われる。 (2)今後の保護の課題 現代の人為の影響 科学者の多くは上記のような近年の気候変動自体を人為の所産であると考えている。仮 にそうでなくとも、人間の活動がこれまでいかなる自然の豪雨や暴風よりも森林環境の保

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