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Vol.63 , No.2(2015)169室寺 義仁「「信」(sraddha)と「無明」(avidya) : ヴァスバンドゥの『五蘊論』における定義を巡って」

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(1)

118

) 印度學佛 敏學 研究 第

63

巻 第

2

号  平 成

27

3

信 」

Sraddhd

avidya

ァ ス バ ン

ゥ の

蘊論』

に お

定義

を巡

っ て

 寺  義 

は じめ

に   ヴ ァ ス バ ン ドゥ (ca.

400

)作の 『五蘊 論 』 (Paficaskandhaka, 以 下, PSk と略 記 ) に 対 す る研 究は,

2008

年, サ ン ス ク リ ッ ト原典が

訂出版 さ れ た こ とに よ り新た な研 究段 階に入っ た 1). この 「五蘊

論』

で , ヴ ァス バ ン ドゥは, 心 と相 応 す る (cittena  sarpp ・ayukta

h

,)’

C

に属 する諸 要 素 (eaitasikii  dharmah )と して ,

51

の 心の

き (caitta 「心 所 」) を

挙 げ

る . その 中, 本 論 考 におい て私 が 注 目 したい の は, 「信 」(

Sraddha

) と 「無 明」(avidya ) とつ い て , 次の

なコ イ ン の

裏 表

如 く

の 表現 で定義 さ れ る点で あ る.すな わ ち (下線部 箇所 ),

 

Sraddha

 

katama

− 

1

 

karma

 

halasatyaratne5v

 abhisa ηz ratyq  aS cetasah  

prashaah

 fcC  PSk 

4

11

 

試 訳:と は.業 果

 

〕諦 三〕宝に対 する 強い確 信, 心力の清澄 さで あ る

2)

また 一方,

avidyδ 

katama

 

1

 

karma

乃α’α∫o 厂α’π θ5y 簡π α1η ! sδ 

punah

 sahOja− 

parikaipitd

 ca ! [c£

PSk

4

1

25

] 試 訳: 無 明 . 業果 と 対 す 無知 さ ら に , 生まれ 持っ た無 明と分 別構 想された無明と がある.

 

この よ

に 「

」と

義 する に 当た り,

1

これ らの 心の

akara

, 「行 相」)を惹 き起こ す 認識 の 知 的な拠 り所 (dlambαna ,「所縁 」)を三 つ ,

とその

果 (

karmaphaia

)・

諦 (satya

宝 (ratna )だ け

列挙す

る こ と,

2

我々 の 日常の認 識 活 動に よっ て縁 じ られ た, あるい は,

じ ら れ得 る, これ ら知 的な 三つ の要

に対 する強い 確 信 (abhisatr4pratyaya)を 「信

と して, その一

で, これ らの

所縁

に対 する

知 (aJnana ) を 「無 明」 として

える こ と, こ の ような 「信 」 と 「無 明」の

き を 一対の心の有 り様 と し て

える よ

な 理 解は, 私が知る 限 り, こ の

五蘊 論 』が仏 教の 教 義

釈 史上初めて で ある.

 

ヴ ァ ス バ ン ドゥ の

っ て, なぜ この よ

定義

として ま とめ られる

(2)

「信 」 (Sraddha )と 無 明」 (avidydi ) ( 寺)

119

こ と になるの か, 以 下 に

求してみ たい と思

1

阿毘達磨 倶 舎論』

 

まず, 『阿毘 達

(Abhidharmak ・Sabhasya,以下,『倶 舎論』!AKBh と略 記. AK

は その偈 頌 )第

2

「根 品 」の 「大 善地法 」

10

法の説 明の

1

法」

であ る 「信 」 を説 明する箇 所で は ,次の様に記 さ れ る.

tatra Sraddha cetasah  prasadah / satyaratnakarmaphalabhisairipratya .va ity apare  /[AKBh  

55

6

7

 ad 

AK

 

II

25

] 試訳:の 〔大 善地法の 〕 中, 信 と は, 心 力の清 澄 さで ある. 他の 人 々 は, 「〔四 〕諦 と 〔三〕宝と業果に対する強い 確 信で ある」 と言 う3).

 

こ こ で, 「信 と は , 心

の 清澄 さで あ る

との 説 一右 部 伝 統定 義 て, 他の人た ちの説 と して, 「

諦と

宝 と業 果 とに対 する強い 確 信

との 所 説を挙 げる. こ の 脈 絡に お い て は t ヴ ァ ス バ ン ドゥ は

伝 統

説に対 する他 説の 評 価は

明せ

に, た だ, 他 説を

記 す るのみ で ある .

説 を展 開

る 訳 で もな い . な お , こ の 「信 」に つ い て の 他 説 は , な くと も漢 訳の み で わ る (

3

種, 大 正

N

・s.

1545

1547

の 各)

毘婆沙」

Vibh

に は

わ らない

所 説

で ある .

 

以下に は, こ の

説の典 拠 (となっ て い る と推 察さ れ る 『縁 起経 』の伝承 句 ) を検 討しなが ら, ヴァ ス バ ン ドゥ の思索の跡 を辿る こ とにな る .

 

一方, 「無 明」につ い て は,

倶 舎 論 』 第

3

「世 間 品

十二 因

縁」説

明の 箇 所で は, 説 一 切 有 部に よる十二 支縁起の 起 支第

1

支 分 と しての 「無明」につ い て の定 義が次の 通 り記さ れ る.

 ya− ptirvake 

jonmani

 

kleSavastha

 sehttvidyet γ ucyate  /[

AKBh

 

131

19

 ad 

AK

 

III

21a

 試訳:明 と こ こ 〔の 文脈 〕で は 前 世に お ける煩 悩の位相で ある と言わ れ る.

こ の教 義解 釈に対 し, お お よ そ ヴァ ス バ ン ドゥ は 次の

な自説 を展 開 してい る .

 b∂lo 

hi

 pratityasamutpannaηa samskaramatram  idam 4ρδη α η δ舫 α々 卿 一α5川 伽 跏 励 阮π∫v∫  ∂tmanak  sukhdrtham  adubkhartham  v々

kayadibhis

 trividhaηt 

karm

冴rabhate

yati

∫脈 肋 肋 αη2

punyam

, sukhaduekhdsukhdrtham 跏α磁アα〃2, aihikasukhbrtham  apu4ya ηP, tasya

− vidyapra

yayah

 samskarah ..(後 略) [

AKBh

 

139

23

140

2

 

試訳: およそ 凡夫は , これ 〔目の 前の もの ご と〕は,縁起 した もの で ある, た だサ ン ス  カーラ に過 ぎない こ と だ と知 ら ぬ ま まに,我 見 ・我 慢 に と ら わ れ, 自らの楽のた め, あ

 

るい は 不苦の た めに身体 などに よ る

3

種の カル マ を,〔すな わち,〕 当来世の 楽のた め  に は福 なる カ ルマ を, 楽楽の た め に は 不動な るカ ル マ を, 〔そして,〕現 世で の

 

楽の た め に は非福なる カル マ 発 動 すうい に は, 無 明を条件と して 諸々 の

(3)

120

) 「信 」(Siraddhaと 「無明」(avidya ) (

 

寺)   サン ス カーラ が 〔生 じる〕. (後 略 )

 

こ こで ヴ ァ ス バ ン ドゥ は, お よ そ 一 , 「縁 起 した もの で ある, た だ サ ンス カーラ に 過 ぎ ない こ と だ と知ら ない 」凡

bdla

)が, この 世 (「欲 界 」) で ,

非福

puaydpu4ya )な る カ マ を作 り為 すだ とい

自説 を開 陳 , 「無 明

」「(

行」 「

と連

し て輪 廻

を展 開

る .縁 起 解 釈 を巡っ て ,説一切

部の

伝統

との

を明

してい るの で ある .

 

こ の よ

倶舎論

』の 中で取 り上 げら れ る限

の ,

信」

につ い て は, 四

を知るこ と と並ん で , 三 宝 と業 果を知 り確 信 する とい

観 点か ら 「信

の 本

を 捉 えようとする或 る人たちの所 説や ,「無 明 」につ い て は, 「縁 起 した もの で ある, ただサ ン ス カー ラ に過 ぎない こ とだと知らない とい

意 味で 「無 明 」の 本 義 を 捉え よ うとす るヴ ァ ス バ ン ドゥ の 自説, こ うし た捉 え方は, 実 際の 日常 におい て,仏 教 教 義を学び仏 道を

む者に 固有の理解で ある と言え よ

. そ して, こ れ らの理

前提

となっ てい る と思わ れる

)牟

尼の教 説 (munek  SdSαnam ) と は , 実は, ア ビダル マ 諸 論

にお い て展 開されて来た教

で はな く, 我々 の 知る 限 り, 『瑜 伽 師地 論』 「本 地 分 」の 本 論の 中に取 り込 まれ た 『縁 起 経』の経 説であ る4>. こ の 経 説 を

提 と して初め て, 「無 明

なる心の働 きと して の 「無 知

を 翻 した と きの 「知 」

1

励 α)につ い て , その内 実が, 業 果 ・ ・三対 す

信で あ る との 考え

が 登場 し得 る と 思 わ れ るの で ある . そ して ま た , こ の 「知」 も, 縁 起 した サ ンス カ ー 他 な

 

これ らの を , 次

2

で は, ヴ ァス バ ン ドゥ が

倶 舎 論』 よ りも後に著 し

た,

縁 起 経

に対 する注 釈 書,

縁 起 経 釈

(Pratityasαmutpfidavyakhya ,以下 , PSVy

と略記 〉 に おける伝 承 句 と注 釈の で確 認 したい と思

 

た だ し, こ こ で , 「無 知 」を翻し た 「知 」

瀕 砌 )とい う表 現で 「知る」 (・

翩 なる語 を用い て はい るが, 一 方で, 凡 夫が智 慧 (

P

「aJna )を もっ て知る (p厂α

Vり

行 為

  

の ‘ 勧 αズ なる

, ρ厂σ

叛 なる動 詞の現

分 詞の 否

形が 出 る文面 を参照

  

と, 他方で, ブ ッ ダ が

智 (〔

buddha

−〕ノ禰η α) をもっ て, 無 明 とい

闇 ・目

が りを なす もの (avidyandhakara ) を打ち破 る とい う意 味で の 知る (

叛 )

行為

とは, 異 なっ て い る.少 な くと も, ヴァ スバ ン ドゥ は,

冒 頭で, ブ ッ ダ その人 を説 明 し, あら ゆる有

り様

で の あら ゆる

っ た人

hatdUdhakdra

)である との理解 を第一義として 提 示 してい るか らで ある 5). と りわ け, この ‘ avidydndhakitra ’ との 用 語に注 目す る と, 「無明」の ほ ぼ 同

の 異 語 (parydya )の 一つ と して, ‘

Ojndna

’, ‘ adarSana ’, ‘ anabhisamaya ’, ‘ tamas ’ , ‘ santmoha ’

(4)

「信」 (Siraddha無 明」 (avidya ) (

 

寺)

121

と並 ん で 第

6

目の最 後の異 語 として, こ の語 を挙 げる の は, 私の知る 限 り 室

2008

)を

   

, や は り

経 』が 初 出で ある こ と に留 意 したい . ヴ ァ ス バ ン ドゥが, 少な くとも

論 』 著 述以 前か ら, 当 該

縁 起 経

の伝 承 を聞 き

っ てい た こ との 証左 と なる一一事 例である と思われ る か らである.

2

縁起 経釈』

お け

」解釈

  すで に発 表 し た拙 論の 一で はある が ,少な く とも次の 二 を明確にす る た め に改めて取 り上 げた い と思 う. ヴァス バ ン ドゥは, (

i

) 一 , 「無 明 」 に相 対 する 「明 」 (vidya つ い て,『瑜 伽 師地論 』 「本地分 」の論 説 と同じく, 「知 」

δη α) の語に置き替え る こ と, し た がっ て, 「知 」 の 「所 縁 」(diambana ) となる/ な り

知」

集 合 体 と して 「無 明」を捉 えて い るこ と,

ii)

二 つ に,

瑜 伽 師 地 論

』 「

本 地 分 」に

わ る 「

起 経』 の の 「諸 々 の サ ン ス カ ー ラ につ い て の

知 」

との

が, ヴァ スバ ン ドゥの許に伝わる 「縁 起 経』の 中で は 「諸々 の ダル マ につ い て の

との 表 現 となっ て, サン ス カ ー ラの 語 が ダル マ の 語に 置 き換わ る こと, し た が っ て, 『縁 起

経』

〕根本

的 な 目的 (

prayOjanasya

prayOjanam ) と は, 「我 見 」 伽用 α伽 の の否 定 に ある と捉 え  所 謂, 「諸 法 無 我 」 の

観 点

に 立 っ て

   解 釈

行 う

こ と, 以 上 の 二

である . た だ し,

第 (

ii

)点

に つ い て は, 上記

1

の 中で指 摘 し た よ

に, 「無 明 」 と は 「諸々 の サ ン ス カ ー ラにつ い て の

無知 」

で ある との

経 』 (少なくとも, 『瑜伽 師 地論』 「本地 分 」の 本論の 中に取 り込 まれた 『縁 起経』)に伝わ る 「無 明」の 捉 え方に も, ヴァ スバ ン ドゥ は

通 して い たであろ

こ と を

意して置 き たい .

 

まず,

i)

につ い て は,

PSVy

に おい て 『縁起経 』 の経 句 解 釈に 入 る冒頭 箇所 で

簡潔

に説 明さ れ る通

で ある 6).

 sカon  gyi mtha ’mi  

Ses

 pa 

te

 

bya

 

ba

 

la

 sogs  

la

 ni !ma  rigpa  ’

i

 rnam  par 

dbye

 

ba

 

dag

 

dmigs

 pa dafi!

 rnam  grafis gyis stonpar  

byed

 

do

”shon  gyi〃mtha ’la sogs  pa ni dmigs pa ’o ”

t

LSS

2e

 la sogs  pa

 ni rnam  

grahs

 so 〃 [Psvy  P .chi 

9bl

2

, D 。chi 

8b6

7

 試 訳:〔『縁 起経 』につ い て の無知 」な ど と説か れ る 中 で は, 無明の 諸解説

 

(vibhanga )所縁 (alambana )異 門

parydyaと に よっ て説示 さ れ る. 「前 際」な

  ど が所 縁であ り, 「無 知 」な どが異 門である.

 

次 に,

ii)

につ い て は,

瑜伽 師地論』

第 (

1

2

)項

, 並び に,

第 (

18

)項

の 文 面では, ‘ sarpskdra ’

数 形対 格/

於格 〕

, 「諸 行 」, ‘’

du

 

byed

 rnams ’ との 用 語で伝わっ て い る の に対 して,

縁 起 経

』(

PSVy

)の 第

18

項の 文 面に は, ‘ chos ’, す なわち, ‘

dharma

’ の

わ る .

(5)

122

) 「信」 (Sraddha )と 「無 明」 (avidya ) (

 

 

と もこの よ

な類 似 点や相 違 点が ある に して も,

縁 起 経

に 説 か れる

無 明」

19

種 類

無知」

と して

える の は, 『瑜 伽 師地 論

「本地分 」 と ヴ ァ スバ ン ドゥ と に共 通 し た理

で ある . そ して , この

経』

経説

を前 提 と し て初め て , 「無 明」 に相 対 す る 「明 」につ い て, 「明

を 「知

の 語に置 き

え, その 上で , 「無 知

を翻 し た 「知

, あるい は ,

知」

敵対す

「無知」

との

置 付 け を知 っ た 上 で の 「知 」の拠 り所 と して, 「業 ・異 熟業 異 熟 」 , 「仏 ・法 ・ 僧 」, そ して, 「苦 ・集 ・滅 ・道 」を 「所 縁

  α励 αηの と して

知」

行為

潔 に言 えば, 「業 果 ・三宝 ・四諦 」 を 「所 縁

と し て

信 」

あ り , 逆 に, 知 ら ない こ とが 「無 明 」に他な ら ない との 考え が 登場 する .

 

また, 「瑜 伽 師地 論

に伝わる 『縁 起 経 』の経 句で は, 「無 明 と は, 諸々 の サン ス カー ラにつ い て の 無 知」と伝わっ て い た . こ の 点 と関 連 して興 味深い の は, 「無 明」の 「無 」( ‘avidyd ’の ‘a’ 否 定接 頭 辞 nafi)につ い て の ヴ ァス バ ン ドゥ の

説が, 『倶 舎 論 』か ら 『縁 起 経 釈 』 に至っ て変 化 す る こ とで ある.す な わ ち, ‘ avidyd の ‘a’ と同

の用例 と して,

舎論

』で は, ‘

a−mitra ’ (a n・n−

friend

Y

・gastitrabhdSya

ad  

ll

5

も同 じ例示 が認 め られ) , ‘ an 一πα 「 (untruth ) な ど用 語 を例 示 る (cf.・

AK

M

, 

28cd

:vidyavipakso  

dharm

・尠・ 玩融 一amitranrtadivat ). しか し な が ら , その 後の 著 作

縁起経釈』

で は, ‘ vidya ’ の

α’細盈α ’

(contrary  to!opposite  of

要素

dha

アma )

と して の ‘aVidyti の ‘a’ の否 定の意 味を解 説 して,

aρurpya ’ (unmerit ・ri・us ,「非

福 」)・’a−

prasiddhd

 

unknown ), あ るい は ‘a−

IOhha

nOn−Craving)・‘a−

dVeSa

nOn −

hatred

と用 語 を列 挙 する 7). この よ

に例 示 要

を サ ン ス カー ラの

・(広 義 の)動

に限

するの は,

無明

を 一 現 実の サ ン ス カー ラ要

と して ,

縁 起 経 』の経 説を踏ま え, よ り明 確 に捉え よ

と し た ヴァ ス バ ン ドゥの思索の 深 ま りの

果 を示

文献

上 に

さ れ た 一

左の よ

には思わ れ る .

 

し た一 連の

著作活 動

を 通 じて, あ るい は, 思

の 深ま りの過

で ,

倶舎

論 』 作 者の ヴ ァス バ ン ドゥは, その 最 後期の 著作と なる

五蘊 論』 におい て 初め て

信」

無明」

とを

定義

して,

「業果

とい

う知的

対す

る,

確 信

か, あ るい は, 無 知か, との

た な教

を 立て る .

結 び

 

以上 の よ うな吟 味が妥 当である とすれ ば, 我 々 が 日常に お い て 思考し識 別する 認 識

行為

対象

とし ての

所縁 」

(alambana )とは ,

本来

的に

る要

で ある か ら, ブ ッ ダ の 言 葉の

伝 承

で ある教

(播 σ砌 を

知 り

, そ して, そ の

(6)

「信 」(s:raddhd )と 「無明」(傭 切 (室

 

寺 ) (

123

) ば

知 〔

〕素 」

そ れ ぞ れ を,

分に分か る よ

になる まで思 索 を繰 り返 し深め て行 き, 結果, あ りあ り と 明 瞭 に 分 か る よ

に なっ た と きの 「知 」, そ の 「知」 の

aki

・a) が ,他 な らぬ 「信 」 とい うこ とに なろ う.

 

した が っ て, こ の よ

縁 起 経 』 を代 表 とする仏 教 思 潮に拠っ て 言え ば, 明 (vidya ) に対 立 /

対 して

明 (avidyd ) と総 称 さ れ る, 個々 の無 知

瀚 ηの, そ の そ れ ぞ れ に とっ て の 「所 縁 」 (alambana )を知 る (

物 行 為 特に 「業 果 ・ 四諦 ・三宝」の 知 的に知 ら れ る/ 知 り得 る要 素た る 「所縁 」 を知 り確信 する行 為, 並 びに, その行 為 結 果 と して, 心 力 (cetas )が清 く澄み渡っ てい る こ と

ρ厂α翩 α), こ れ らが 「信 」 (Sraddha )の 内実である と言え よう.

1

Li

 

Xuezhu

 and 

Emst

 

Steinkellner

(eds. 

Vasubandhu

 

3

Paficaskandhaka

Beijing

China

 Tibetology Publishjng 

House

Vienna

Austrian

 

Academy

 of 

Sciences

 

Press

2008

).なお,こ

  の 出版 本に対 する私の

Review

につ い て は, 名 古屋 大学 大 学 院文 学研 究科イ ン ド文 化  学研 究 室が 編集 出版する

SarpbhdSa

 

29

2011

) ,pp .

90

94

を参頂 き , その 巾, ヴァ  スバ ン ドゥ が 「五蘊 」(paficaskandha)の 中の 「識蘊」 (vi’nanaskandha解 説する脈  絡におい て, 「唯識 性 」 (吻 吻ρ伽 励 θ励 の 観 点に立 っ た ヒで 「識」の 働 きにつ い て

 の解 説 用 語と して用い る こ とに なる ‘alambana (prati? vi ’hapti’なる語の 使 用 法に つ い

 て は,その詳細な分析 結 果を,シュ ミ ッ トハ ゼ ン 教授の 近著 ,Lambert Schmithausen ,

 

The 

Genesis

 of }Yog巨cdra −vζ痂面πoy〜諺

4

α 1 Responses and  Relt7eetions(Tokyo :The International

 Institute 

for

 Buddhist 

Studies

2014

 pp .

504

505

, 

fu1794

を参照 して頂 き たい と思 う.ア  ビ ダル マ の教 義解 釈の流 れの 中で の用 語 と して は ‘砒 〃めαηo吻 旗μガ で良い .   さ ら に,

2014

年に は, 『五 蘊論』に対するス テ ィ ラマ テ ィに よ る注 解 書 (vibhlisa )の  サン ス ク リッ ト原 典が ク ラマ ー博士 (DL Jowita Kramer)に よっ て校 訂 され公 刊 さ  れ る こ とと な り, 今や, 研究の 一 層の進展 が期 待さ れ る.ま た, 本 邦での 最近の研究  と して, 松 田 和 信 教 授 の論 文, 「五 蘊論ス テ ィ ラマ テ ィ疏 に 見 ら れ るア ーヤ 識  在 論 証」(『イン ド論理学 研 究』創 刊 号,

2010

年),

195

211

頁 を照 し て 頂 き た

2

た だ し, チベ ッ ト訳で は, abhisampratyaya ;祕 oηρα 厂ア∫

4

惚 ∫ρo とeetasah  prαsa ’

dak

:  sems  

dah

 

ba

つ の語句の 問に,’

d

dpa

:abhiidSa の語が挿 入さ れてい る. 

Cf

. 

PSk

,  p.

70

L3

.この ‘ abhitasa ’の語につ い て は 『バ ウ ッ ダ コ ーシ ャ

ll

56

58

に挙 げ ら  れ る定 義 的用 例 を参 照 . なお,ス ティ ラマ ティ の

Paficashandhavibha

saの 中で本 文 引

 

用 される文面に も, チベ ッ ト訳に従っ て校訂 され た限 りで はあるが (つ ま り, 写本に

 は ない が ),こ の ’abhildsa ’の語はある. 

Cf

. Jowita Kramer , Sthiramati ll Paficaskandhavi−

 

bhdSa

, 

Part

 

1

Criticai

 

Edition

Beijing

China

 

TibetOlogy

 

Publishilg

 House ;Vienna:Austrian

 Academy  of 

Sciences

 

Press

2013

p.

40

 

L

 

1

3

)こ の用 例 につ い て は, 『バ ウッ ダコ ーシ ャ

1

71

72

照.な お , YaSomitra は,

 

こ の 注 釈箇 所で, ‘ apare ’なる人々 を特 定する こ と は な く,こ の所説は 「信」の有 り  様と して の 「信 」の詳 説で ある こと (

akdrepa

 

Sraddha

−nirdeSak ま た ‘abhisampratyaya ’

(7)

124

) 「信」 (Sraddha )と 「無 明」(avidyd ) (

 

寺)  の語 は ‘abhisampratipatti ’ と 同義で ある こ と,こ れ らの を 注するの みで ある.

4

)詳し くは, 拙 論 「輪 廻の原 因と して の無 明 一 々 の ン ス ラ につ い て の無 知

 

一 」(『高野 山大学 論 叢 』

43

号,

2008

年 ),

47

60

き た 以 下, 室

 

寺 (

2008

)と略記し, 注

6

の 中, その 一参考 資料 と しげ た と 思

  

な お, 『縁 起経』, サ ンス ク リッ トで Pratdyasamutpadastitraとの 経題 に つ い て で ある

 

が,こ こ では玄奘の翻訳 経題 を用い る.大 正No .

124

を参照.サン ス ク リッ トの原題は,  ヴァ スバ ン ドゥ が用い ト大蔵経に もわ る PityasamutpZidadivibhahganirdeSaで

 

ある.パ ー リ対 応 経の

Sarkyuttanihaya

 Niddna ・vagga , Nos .

1

2

:Desan5 ’Vibhahga とも

,   漢訳 雑 阿含

No

298

「法 説義 説経 」とも,文 面が完全 に一致 する わけで は ない .サ ン ス  ク リッ で今に伝わる   ナーラ ン ダー 出土のレ ン ガに刻 まれた    『縁 起 経』と  最も 近い 文面つ の が,唐代の玄 奘訳 『縁起 経』一巻である. 恐らく, ヴァ ス バ ン   ドゥが 生きたグプ タ朝期の イン ド古 典の仏 教 圏で は,その当時か らすで に, 各仏教 集  団が伝える 『縁起経 』 と 通称 さ れる ような伝 承 経が あ っ たの であ ろう. 実 際, 『法 蘊  足論 』 (玄奘 訳)で も, 経 蔵 中の 経文の 一つ と して 『縁 起 経』における 「無 明」解 釈  が取 り 込 ま れて い し か し な が ら『縁 起 経』・『瑜伽 師 地論』の 「

19

無知 」よ りも「無  知 」 の ダル マ 数 が多 く, また, 「無明」の 「異門」 (parydya )の列 挙数 も多 くなっ てい  る. この用例につ い て は, 『バ ウ ッ ダ コ ー

1

97

98

参 照 .

5

Cf

. 

AKBh

 

I

10

12

 ad 

AK

 I,

1

:φ瓶ηα 解 hi 

bhtit

δrthad αrSiana ρratibandhlid  andhak ∂ram ...

 ato 

Sau

 sarvathdSarvahatandhakdrah .桜 部訳 「闇 と は, 無 知の こ とで あ る.真 実 を 見 る

 こ とを碍 げる もの か らで ある. …こ の ゆ えに,か 〔の世 尊 〕はあら ゆ る仕 方ですべ  ての 〔心の 〕 闇 を打 ち破っ て お ら れ る.」桜 部建 『倶 舎 論の研 究 界 ・根 品』 (法 蔵館,  

1969

年),

134

頁参 照 .

6

)『喩 伽 師 地 論』「本 地 分 」にお ける

19

種 類の無 知につ い て の説 明 冒頭 箇 所 ・第

1

項  と第

18

項 「原 因か ら 生 じ た諸々 の サン ス カーラ につ いて の無知」,そ し て,その そ れ  ぞ れに対応する 『縁起 経 釈』(psvy で の解 釈箇所 を 挙 げ る.詳 し く は,室 寺 (

2008

),  

54

56

頁 を参照.な お, 下 記 対 照表の 中, [ ] 内は削除 すべ き 語,波 線の 語が伝 承句

 

中の 異 語 そ して 右欄PSVy の 下線 部は経句の 引用箇所で ある.    こ こ で

19

種 類 の無 知 と は, 簡 潔に言 え ば, 第

1

3

項 「前 際 ・後 際 ・前 後 際」, 第  

4

6

項 「内 〔処〕・外 〔処 〕・内外 〔処〕」, 第

7

9

項 「業 ・異熟 ・業異熟 」 , 第

10

12

項 「仏 ・  法 ・僧」, 第

1346

項 「苦 ・集 ・滅 ・道」, 第

17

18

項 「原 因 hetu)・原 因か ら じ た

 

hetusamutpanna

)諸々 の サ ン ス カーラ」, 第

19

項 「六触処にあるがま まに通 達する こ  と」, これ ら につ い て の無 知で ある. また,

19

種 類の無知との 表 現 をこ こ で用い てい  る が,サ ン ス ク リッ トの表 現で は,*ε航朋 α レ’の 倣 凍rα 朋 禰 η砌 軍で ある.この 機 会に,

 Bodhisattvabhtimi, ed. 

N

. Dutt (Patna,

1978

),

168

12

に (

だ け) 出

θ傾朋 αv’艇 αゴ

(8)

「信 」(Sraddha)と 無 明」 (avidya ) (

 

寺)

125

7

) 詳しくは,Marek Mejor ,

On

 the 

Sevenfeld

 

Classification

 of the Negative Particle(nafi )

 『櫻 部 建 博 士喜 寿記 念 論 集 初 期 仏 教 か らア ビダル マ へ 』 (平 楽 寺 書店 ,

2002

) ,

93

−  

100

頁 を参照 して頂 き たい .   な お, 袴谷 憲 昭 教 授 は, その著 『仏 教 入 門』 (大 蔵 出 版,

2004

年),

129

130

頁の 中 で,  『倶舎論』で の 仰 (Sraddha定義を巡っ て , 「こ こ に は二説挙げられ て い る わ  けで あるが, 『信 仰』 本来の 機 能か ら 言っ て も仏教の 教義か ら 言っ て も」, 「信 仰 (信)  とは」 「〔四 聖〕諦 と 宝 と業と果 と に対 する確 信 (abhisarppratyaya )で ある」 との  説が, 「正 しい 定義で あ る と 私 に は 思 わ れ る」と指 摘さ れて い る. <略号 ・参 考文 献 >

AKBh   AbhidhannakoSabhdsya . Ed . Prahlad Pradhan . Patna:K . P . Jayaswal Research lnstitUte,      

1967

PSk

YBh

『バ ウ ツ ダコ ーシ ヤ

1

『バ ッ ダコ ーシ ャ

1

Paficaskandhaka . Ed . Li Xuezhu  and  Emst Steinkellner, with  a contribution  by Toru

Tomabechi . Vienna:Austrian Academy  of  Science;Beijing:

China

 Tibetology 

Research

Center

2008

Yog

々cirabhtimi  ef  

Ac

rya 

Asahga

. 

Ed

. 

Vidhushekhara

 

Bhattachary

. 

Calcutta

University

ofCalcutta ,

1957

.       『『倶 舎論 』を中 心と し た五七十五 定義的用 例集』 代表 編者:斎 藤 明喜 房佛 書 林

2011

年.           「瑜伽 行 派の五 位 百法    バ ウ ッ ダ コ ーシ ャ

H

』,代 表 編 者: 藤明, 山喜 房佛 書林,

2014

年 . (本研 究は,

JSPS

科研 費 〔基 盤研 究 (

S

), 課題 番 号:

23222001

,「仏教 用 語の現 代 基準 訳 語 集お よ び定 義 的用 例集 (バ ウ ッ ダコ ーシ ャ)の 構 築 」, 研 究 代 表 者:斎 藤 明〕の助 成 を受 けた研 究 成果の一部で ある)

〈キーワー ド〉 Paficaskandhaka, ≦raddh 互, avidy 互, 

Vasubandhu

参照

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