(
118
) 印度學佛 敏學 研究 第63
巻 第2
号 平 成27
年3
月「
信 」
(
Sraddhd
)
と
「
無
明
」
(
avidya
)
ヴ
ァ ス バ ンド
ゥ の『
五蘊論』
に お
け
る
定義
を巡
っ て室
寺 義
仁
は じめ
に ヴ ァ ス バ ン ドゥ (ca.400
)作の 『五蘊 論 』 (Paficaskandhaka, 以 下, PSk と略 記 ) に 対 す る研 究は,2008
年, サ ン ス ク リ ッ ト原典が校
訂出版 さ れ た こ とに よ り新た な研 究段 階に入っ た 1). この 「五蘊論』
の中
で , ヴ ァス バ ン ドゥは, 心 と相 応 す る (cittena sarpp ・ayukta−
h
,)’C
・力
に属 する諸 要 素 (eaitasikii dharmah )と して ,51
の 心の働
き (caitta , 「心 所 」) を挙 げ
る . その 中, 本 論 考 におい て私 が 注 目 したい の は, 「信 」(Sraddha
) と 「無 明」(avidya ) とにつ い て , 次の様
なコ イ ン の裏 表
の如 く
の 表現 で定義 さ れ る点で あ る.すな わ ち (下線部 箇所 ),
Sraddha
katama
−1
karma
halasatyaratne5v
abhisa ηz ratyq aS cetasahprashaah
f![cC PSk4
ユ.11
]試 訳:信と は何か.業 果 と
〔四〕諦と 〔三〕宝に対 する 強い確 信, 心力の清澄 さで あ る
2).
また 一方,
avidyδ
katama
1
karma
乃α’α∫o卿 厂α’π θ5y の簡π α1η ! sδpunah
sahOja−parikaipitd
ca ! [c£PSk
4
.1
.25
] 試 訳: 無 明とは何か . 業果 と 〔四〕諦 と 〔三 〕宝 に対 する 無知で ある.さ ら に , 生まれ 持っ た無 明と分 別構 想された無明と がある.この よ
う
に 「信
」と「
無
明」
を定
義 する に 当た り,(
1
)
これ らの 心の有
り様
(akara
, 「行 相」)を惹 き起こ す 認識 の 知 的な拠 り所 (dlambαna ,「所縁 」)を三 つ ,業
〔
とその〕
果 (karmaphaia
)・〔
四〕
諦 (satya >・〔
三〕
宝 (ratna )だ けに限定
して列挙す
る こ と,
(
2
)
我々 の 日常の認 識 活 動に よっ て縁 じ られ た, あるい は,縁
じ ら れ得 る, これ ら知 的な 三つ の要素
に対 する強い 確 信 (abhisatr4pratyaya)を 「信」
と して, その一方
で, これ らの所縁
に対 する無
知 (aJnana ) を 「無 明」 として捉
える こ と, こ の ような 「信 」 と 「無 明」の 心の働
き を 一対の心の有 り様 と し て考
える よう
な 理 解は, 私が知る 限 り, こ の『
五蘊 論 』が仏 教の 教 義解
釈 史上初めて で ある.ヴ ァ ス バ ン ドゥ の 著
作
順序
に従
っ て, なぜ この よう
な定義
として ま とめ られる「信 」 (Sraddha )と 「無 明」 (avidydi ) (室 寺) (
119
)こ と になるの か, 以 下 に
探
求してみ たい と思う
.1
.『
阿毘達磨 倶 舎論』
まず, 『阿毘 達
磨
倶舎
論』
(Abhidharmak ・Sabhasya,以下,『倶 舎論』!AKBh と略 記. AKは その偈 頌 )第
2
章
「根 品 」の 「大 善地法 」10
法の説 明の内
,
第
1
の「
法」
であ る 「信 」 を説 明する箇 所で は ,次の様に記 さ れ る.tatra Sraddha cetasah prasadah / satyaratnakarmaphalabhisairipratya .va ity apare /[AKBh
55
,6
−7
adAK
II
,25
] 試訳:その 〔大 善地法の 〕 中, 信 と は, 心 力の清 澄 さで ある. 他の 人 々 は, 「〔四 〕諦 と 〔三〕宝と業果に対する強い 確 信で ある」 と言 う3).こ こ で, 「信 と は , 心
力
の 清澄 さで あ る」
との 説 一切右 部の 伝 統的定 義に対 し て, 他の人た ちの説 と して, 「〔
四〕
諦と〔
三〕
宝 と業 果 とに対 する強い 確 信」
との 所 説を挙 げる. こ の 脈 絡に お い て は t ヴ ァ ス バ ン ドゥ は伝 統
説に対 する他 説の 評 価は表
明せず
に, た だ, 他 説を併
記 す るのみ で ある .自
説 を展 開す
る 訳 で もな い . な お , こ の 「信 」に つ い て の 他 説 は ,少 な くと も漢 訳の み で 伝わ る (3
種, 大 正N
・s.1545
−1547
の 各)「
毘婆沙」
(Vibh
巨面
に は伝
わ らない所 説
で ある .以下に は, こ の
他
説の典 拠 (となっ て い る と推 察さ れ る 『縁 起経 』の伝承 句 ) を検 討しなが ら, ヴァ ス バ ン ドゥ の思索の跡 を辿る こ とにな る .一方, 「無 明」につ い て は,
『
倶 舎 論 』 第3
章
「世 間 品」
の「
十二 因縁」説
明の 箇 所で は, 説 一 切 有 部に よる十二 支縁起の 縁起 支第1
支 分 と しての 「無明」につ い て の定 義が次の 通 り記さ れ る.ya− ptirvake
jonmani
kleSavastha
sehttvidyet γ ucyate /[AKBh
131
,19
adAK
III
,21a
]試訳:無明 とは, こ こ 〔の 文脈 〕で は, 前 世に お ける煩 悩の位相で ある と言わ れ る.
こ の教 義解 釈に対 し, お お よ そ ヴァ ス バ ン ドゥ は 次の
様
な自説 を展 開 してい る .b∂lo
hi
pratityasamutpannaηa samskaramatram idam 砂 4ρア砂δη α η δ舫 α々 卿 一α5川 伽 跏 励 阮π∫v∫鋼 ∂tmanak sukhdrtham adubkhartham v々kayadibhis
trividhaηtkarm
冴rabhate ,めyati
∫脈 肋 肋 αη2punyam
, sukhaduekhdsukhdrtham 跏α磁アα〃2, aihikasukhbrtham apu4ya ηP, tasya− vidyapra り
yayah
samskarah ...(後 略) [AKBh
139
,23
−140
,2
]試訳: およそ 凡夫は , これ 〔目の 前の もの ご と〕は,縁起 した もの で ある, た だサ ン ス カーラ に過 ぎない こ と だ と知 ら ぬ ま まに,我 見 ・我 慢 に と ら わ れ, 自らの楽のた め, あ
るい は, 不苦の た めに身体 などに よ る
3
種の カル マ を,〔すな わち,〕 当来世の 楽のた め に は福 なる カ ルマ を, 楽と不苦不楽の た め に は 不動な るカ ル マ を, 〔そして,〕現 世で の楽の た め に は非福なる カル マ を発 動 する.そうい う凡夫に は, 無 明を条件と して 諸々 の
(
120
) 「信 」(Siraddha)と 「無明」(avidya ) (室寺) サン ス カーラ が 〔生 じる〕. (後 略 )
こ こで ヴ ァ ス バ ン ドゥ は, お よ そ 一切の もの ごとが , 「縁 起 した もの で ある, た だ サ ンス カーラ に 過 ぎ ない こ と だ と知ら ない 」凡
夫
(bdla
)が, この 世 (「欲 界 」) で ,福
・非福
(puaydpu4ya )な る カル マ を作 り為 すのだ という
自説 を開 陳 して , 「無 明」「(
諸)
行」 「
識」
と連鎖
し て輪 廻転
生す
る縁
起説
を展 開す
る .縁 起 解 釈 を巡っ て ,説一切有
部の伝統
説 との決
別を明記
してい るの で ある .こ の よ
う
に「
倶舎論
』の 中で取 り上 げら れ る限り
の ,「
信」
につ い て は, 四諦
を知るこ と と並ん で , 三 宝 と業 果を知 り確 信 する という
観 点か ら 「信」
の 本義
を 捉 えようとする或 る人たちの所 説や ,「無 明 」につ い て は, 「縁 起 した もの で ある, ただサ ン ス カー ラ に過 ぎない こ とだと知らない 」という
意 味で 「無 明 」の 本 義 を 捉え よ うとす るヴ ァ ス バ ン ドゥ の 自説, こ うし た捉 え方は, 実 際の 日常 におい て,仏 教 教 義を学び仏 道を歩
む者に 固有の理解で ある と言え よう
. そ して, こ れ らの理解
の前提
となっ てい る と思わ れる(
釈
迦)牟
尼の教 説 (munek SdSαnam ) と は , 実は, ア ビダル マ 諸 論書
にお い て展 開されて来た教義
解釈
で はな く, 我々 の 知る 限 り, 『瑜 伽 師地 論』 「本 地 分 」の 本 論の 中に取 り込 まれ た 『縁 起 経』の経 説であ る4>. こ の 経 説 を前
提 と して初め て, 「無 明」
なる心の働 きと して の 「無 知」
を 翻 した と きの 「知 」(
1
励 α)につ い て , その内 実が, 業 果 ・四諦 ・三宝に対 す る確
信で あ る との 考え方
が 登場 し得 る と 思 わ れ るの で ある . そ して ま た , こ の 「知」 も, 縁 起 した サ ンス カ ー ラに他 ならない .これ らの 点を , 次の 第
2
節で は, ヴ ァス バ ン ドゥ が「
倶 舎 論』 よ りも後に著 した,
『
縁 起 経』
に対 する注 釈 書,『
縁 起 経 釈』
(Pratityasαmutpfidavyakhya ,以下 , PSVyと略記 〉 に おける伝 承 句 と注 釈の 中で確 認 したい と思 う.
た だ し, こ こ で , 「無 知 」を翻し た 「知 」
(
瀕 砌 )とい う表 現で 「知る」 (・乃
翩 なる語 を用い て はい るが, 一 方で, 凡 夫が智 慧 (P
「aJna )を もっ て知る (p厂αVり
劒行 為
上
掲
の ‘卿 吻 勧 αズ なる語
, ρ厂σの
叛 なる動 詞の現在
分 詞の 否定
形が 出 る文面 を参照と, 他方で, ブ ッ ダ が
〔
仏〕
智 (〔buddha
−〕ノ禰η α) をもっ て, 無 明 という
闇 ・目暗
が りを なす もの (avidyandhakara ) を打ち破 る とい う意 味で の 知る (の
叛 )行為
とは, 異 なっ て い る.少 な くと も, ヴァ スバ ン ドゥ は,『
倶舎
論』
冒 頭で, ブ ッ ダ その人 を説 明 し, あら ゆる有り様
で の あら ゆる「
闇
を打
ち破
っ た人」
(hatdUdhakdra
)である との理解 を第一義として 提 示 してい るか らで ある 5). と りわ け, この ‘ avidydndhakitra ’ との 用 語に注 目す る と, 「無明」の ほ ぼ 同義
の 異 語 (parydya )の 一つ と して, ‘Ojndna
’, ‘ adarSana ’, ‘ anabhisamaya ’, ‘ tamas ’ , ‘ santmoha ’「信」 (Siraddha)と 「無 明」 (avidya ) (室
寺) (
121
) と並 ん で 第6
番
目の最 後の異 語 として, こ の語 を挙 げる の は, 私の知る 限 り 室寺
(2008
)を参
照, や は り
『
縁起
経 』が 初 出で ある こ と に留 意 したい . ヴ ァ ス バ ン ドゥが, 少な くとも『
倶舎
論 』 著 述以 前か ら, 当 該『
縁 起 経』
の伝 承 を聞 き知
っ てい た こ との 証左 と なる一一事 例である と思われ る か らである.2
.『
縁起 経釈』
にお け
る「
無
明
」解釈
すで に発 表 し た拙 論の 一部で はある が ,少な く とも次の 二 点を明確にす る た め に改めて取 り上 げた い と思 う. ヴァス バ ン ドゥは, (i
) 一 つ に , 「無 明 」 に相 対 する 「明 」 (vidya )つ い て,『瑜 伽 師地論 』 「本地分 」の論 説 と同じく, 「知 」碗
δη α) の語に置き替え る こ と, し た がっ て, 「知 」 の 「所 縁 」(diambana ) となる/ な り得
る「
無知」
の 要素
の 集 合 体 と して 「無 明」を捉 えて い るこ と,(
ii)
二 つ に,「
瑜 伽 師 地 論』 「
本 地 分 」に伝
わ る 「縁
起 経』 の 中の 「諸 々 の サ ン ス カ ー ラ につ い て の 無知 」
との伝
承句
が, ヴァ スバ ン ドゥの許に伝わる 「縁 起 経』の 中で は 「諸々 の ダル マ につ い て の無
知」
との 表 現 となっ て, サン ス カ ー ラの 語 が ダル マ の 語に 置 き換わ る こと, し た が っ て, 『縁 起経』
の〔
造経
の〕根本
的 な 目的 (prayOjanasya
prayOjanam ) と は, 「我 見 」 伽用 α伽 の の否 定 に ある と捉 え 所 謂, 「諸 法 無 我 」 の観 点
に 立 っ て解 釈
を行 う
こ と, 以 上 の 二点
である . た だ し,第 (
ii
)点
に つ い て は, 上記第
1
節
の 中で指 摘 し た よう
に, 「無 明 」 と は 「諸々 の サ ン ス カ ー ラにつ い て の無知 」
で ある との『
縁起
経 』 (少なくとも, 『瑜伽 師 地論』 「本地 分 」の 本論の 中に取 り込 まれた 『縁 起経』)に伝わ る 「無 明」の 捉 え方に も, ヴァ スバ ン ドゥ は精
通 して い たであろう
こ と を留
意して置 き たい .まず,
(
i)
につ い て は,PSVy
に おい て 『縁起経 』 の経 句 解 釈に 入 る冒頭 箇所 で簡潔
に説 明さ れ る通り
で ある 6).sカon gyi mtha ’mi
Ses
pate
bya
ba
la
sogsla
ni !ma rigpa ’i
rnam pardbye
ba
dag
dmigs
pa dafi!rnam grafis gyis stonpar
byed
do
”shon gyi〃mtha ’la sogs pa ni dmigs pa ’o ”t
!!LSS
!.2e
la sogs pani rnam
grahs
so 〃 [Psvy P .chi9bl
−2
, D 。chi8b6
−7
]試 訳:〔『縁 起経 』の中で〕「前際につ い て の無知 」な ど と説か れ る 中 で は, 無明の 諸解説
(vibhanga )が,所縁 (alambana )と異 門
(
parydya)と に よっ て説示 さ れ る. 「前 際」など が所 縁であ り, 「無 知 」な どが異 門である.
次 に,
(
ii)
につ い て は,『
瑜伽 師地論』
の第 (
1
)
一(
2
)項
, 並び に,第 (
18
)項
の 文 面では, ‘ sarpskdra ’〔
の 複数 形対 格/於格 〕
, 「諸 行 」, ‘’du
byed
rnams ’ との 用 語で伝わっ て い る の に対 して,『
縁 起 経釈
』(PSVy
)の 第(
18
)
項の 文 面に は, ‘ chos ’, す なわち, ‘dharma
’ の 語で伝
わ る .(
122
) 「信」 (Sraddha )と 「無 明」 (avidya ) (室寺)
少
なく
と もこの よう
な類 似 点や相 違 点が ある に して も,『
縁 起 経』
に 説 か れる「
無 明」
を「
19
種 類
の無知」
と して捉
える の は, 『瑜 伽 師地 論』
「本地分 」 と ヴ ァ スバ ン ドゥ と に共 通 し た理解
で ある . そ して , この「
縁
起経』
の経説
を前 提 と し て初め て , 「無 明」 に相 対 す る 「明 」につ い て, 「明」
を 「知」
の 語に置 き換
え, その 上で , 「無 知」
を翻 し た 「知」
, あるい は ,「
知」
に敵対す
る「無知」
との位
置 付 け を知 っ た 上 で の 「知 」の拠 り所 と して, 「業 ・異 熟 ・業 異 熟 」 , 「仏 ・法 ・ 僧 」, そ して, 「苦 ・集 ・滅 ・道 」を 「所 縁」
α励 αηの と して「
知」
る行為
,簡
潔 に言 えば, 「業 果 ・三宝 ・四諦 」 を 「所 縁」
と し て 「知」
る行
為が「
信 」
であ り , 逆 に, 知 ら ない こ とが 「無 明 」に他な ら ない との 考え が 登場 する .また, 「瑜 伽 師地 論
』
に伝わる 『縁 起 経 』の経 句で は, 「無 明 と は, 諸々 の サン ス カー ラにつ い て の 無 知」と伝わっ て い た . こ の 点 と関 連 して興 味深い の は, 「無 明」の 「無 」( ‘avidyd ’の ‘a’, 否 定接 頭 辞 nafi)につ い て の ヴ ァス バ ン ドゥ の解
説が, 『倶 舎 論 』か ら 『縁 起 経 釈 』 に至っ て変 化 す る こ とで ある.す な わ ち, ‘ avidyd の ‘a’ と同義
の用例 と して,『
倶舎論
』で は, ‘a−mitra ’ (a n・n−
friend
:Y
・gastitrabhdSyaad
ll
,5
にも同 じ例示 が認 め られる) , ‘ an 一πα 「 (untruth ) な どの用 語 を例 示 する (cf.・AK
M
,28cd
:vidyavipaksodharm
・尠・ 玩融 一amitra’nrtadivat .). しか し な が ら , その 後の 著 作『
縁起経釈』
で は, ‘ vidya ’ のか
α’細盈α ’(contrary to!opposite of)なる
要素
(dha
アma )と して の ‘aVidyti の ‘a’ の否 定の意 味を解 説 して,
‘
a:ρurpya ’ (unmerit ・ri・us ,「非
福 」)・’a−
prasiddhd
(unknown ), あ るい は ‘a−
IOhha
’ (nOn−Craving)・‘a−dVeSa
’ (nOn −hatred
)と用 語 を列 挙 する 7). この よう
に例 示 要素
を サ ン ス カー ラの 要素
・(広 義 の)動作
要素
に限定
するの は,「
無明」
を 一つ の 現 実の サ ン ス カー ラ要素
と して ,『
縁 起 経 』の経 説を踏ま え, よ り明 確 に捉え よう
と し た ヴァ ス バ ン ドゥの思索の 深 ま りの結
果 を示す
,文献
上 に残
さ れ た 一つ の証
左の よう
に私
には思わ れ る .こ
う
し た一 連の著作活 動
を 通 じて, あ るい は, 思索
の 深ま りの過程
で ,『
倶舎
論 』 作 者の ヴ ァス バ ン ドゥは, その 最 後期の 著作と なる『
五蘊 論』 におい て 初め て ,「
信」
と「
無明」
とを定義
して,「業果
と〔
四〕
諦
と〔
三〕
宝」
という知的
な拠
り所
に対す
る,確 信
か, あ るい は, 無 知か, との新
た な教義
を 立て る .結 び
以上 の よ うな吟 味が妥 当である とすれ ば, 我 々 が 日常に お い て 思考し識 別する 認 識
行為
の対象
とし ての「
所縁 」
(alambana )とは ,本来
的に知
り得
る要素
で ある か ら, ブ ッ ダ の 言 葉の伝 承
で ある教説
(播 σ砌 を聞
き知 り
, そ して, そ の言
わ「信 」(s:raddhd )と 「無明」(傭 め切 (室
寺 ) (
123
) ば「
知 〔
の〕素 」
そ れ ぞ れ を,自
分に分か る よう
になる まで思 索 を繰 り返 し深め て行 き, 結果, あ りあ り と 明 瞭 に 分 か る よう
に なっ た と きの 「知 」, そ の 「知」 の有
り様
(aki
・a) が ,他 な らぬ 「信 」 とい うこ とに なろ う.した が っ て, こ の よ
う
な『
縁 起 経 』 を代 表 とする仏 教 思 潮に拠っ て 言え ば, 明 (vidya ) に対 立 /敵
対 して無
明 (avidyd ) と総 称 さ れ る, 個々 の無 知吻
瀚 ηの, そ の そ れ ぞ れ に とっ て の 「所 縁 」 (alambana )を知 る (乃
物 行 為, 特に, 「業 果 ・ 四諦 ・三宝」の 知 的に知 ら れ る/ 知 り得 る要 素た る 「所縁 」 を知 り確信 する行 為, 並 びに, その行 為 結 果 と して, 心 力 (cetas )が清 く澄み渡っ てい る こ と(
ρ厂α翩 α), こ れ らが 「信 」 (Sraddha )の 内実である と言え よう.1
)Li
Xuezhu
andEmst
Steinkellner
(eds.),Vasubandhu
3
’Paficaskandhaka
(Beijing
:China
Tibetology Publishjng
House
:Vienna
:Austrian
Academy
ofSciences
Press
,2008
).なお,この 出版 本に対 する私の
Review
につ い て は, 名 古屋 大学 大 学 院文 学研 究科イ ン ド文 化 学研 究 室が 編集 出版するSarpbhdSa
29
(2011
) ,pp .90
−94
を参照頂 きたい が , その 巾, ヴァ スバ ン ドゥ が, 「五蘊 」(paficaskandha)の 中の 「識蘊」 (vi’nanaskandha)を解 説する脈 絡におい て, 「唯識 性 」 (吻 吻ρ伽 励 θ励 の 観 点に立 っ た ヒで, 「識」の 働 きにつ い ての解 説 用 語と して用い る こ とに なる ‘alambana (prati? vi ’hapti’なる語の 使 用 法に つ い
て は,その詳細な分析 結 果を,シュ ミ ッ トハ ウゼ ン 教授の 近著 ,Lambert Schmithausen ,
The
Genesis
of }Yog巨cdra −vζ痂面πoy〜諺4
α 1 Responses and Relt7eetions(Tokyo :The InternationalInstitute
for
BuddhistStudies
,2014
),pp .
504
−505
,fu1794
を参照 して頂 き たい と思 う.ア ビ ダル マ の教 義解 釈の流 れの 中で の用 語 と して は, ‘砒 〃めαηo吻 旗μガ で良い . さ ら に,2014
年に は, 『五 蘊論』に対するス テ ィ ラマ テ ィに よ る注 解 書 (vibhlisa )の サン ス ク リッ ト原 典が, ク ラマ ー博士 (DL Jowita Kramer)に よっ て校 訂 され公 刊 さ れ る こ とと な り, 今や, 研究の 一 層の進展 が期 待さ れ る.ま た, 本 邦での 最近の研究 と して, 松 田 和 信 教 授 の論 文, 「五 蘊論ス テ ィ ラマ テ ィ疏 に 見 ら れ るア ーラヤ 識の 存 在 論 証」(『イン ド論理学 研 究』創 刊 号,2010
年),195
−211
頁 を参照 し て 頂 き たい.2
)た だ し, チベ ッ ト訳で は, abhisampratyaya ;祕 oηρα 厂ア∫4
惚 ∫ρo とeetasah prαsa ’dak
: semsdah
ba
との 二つ の語句の 問に,’d
・dpa
:abhiidSa の語が挿 入さ れてい る.Cf
.PSk
, p.70
,L3
.この ‘ abhitasa ’の語につ い て は, 『バ ウ ッ ダ コ ーシ ャll
』56
−58
頁に挙 げ ら れ る定 義 的用 例 を参 照 . なお,ス ティ ラマ ティ のPaficashandhavibha
:saの 中で本 文 引用 される文面に も, チベ ッ ト訳に従っ て校訂 され た限 りで はあるが (つ ま り, 写本に
は ない が ),こ の ’abhildsa ’の語はある.
Cf
. Jowita Kramer , Sthiramati ll Paficaskandhavi−
bhdSa
,Part
1
’Criticai
Edition
(Beijing
:China
TibetOlogy
Publishilg
House ;Vienna:AustrianAcademy of
Sciences
Press
,2013
),p.40
,L
1
.3
)こ の用 例 につ い て は, 『バ ウッ ダコ ーシ ャ1
』71
−72
頁を参照.な お , YaSomitra は,こ の 注 釈箇 所で, ‘ apare ’なる人々 を特 定する こ と は な く,こ の所説は, 「信」の有 り 様と して の 「信 」の詳 説で ある こと (
akdrepa
Sraddha
−nirdeSak ), ま た, ‘abhisampratyaya ’(
124
) 「信」 (Sraddha )と 「無 明」(avidyd ) (室寺) の語 は ‘abhisampratipatti ’ と 同義で ある こ と,こ れ らの 点を 注するの みで ある.
4
)詳し くは, 拙 論 「輪 廻の原 因と して の無 明 一 諸々 の サ ン ス カーラ につ い て の無 知一 」(『高野 山大学 論 叢 』
43
号,2008
年 ),47
−60
頁を参照 して頂 き たい .以 下, 室寺 (
2008
)と略記し, 注6
の 中, その 一部を参考 資料 と して挙げ たい と 思 う.な お, 『縁 起経』, サ ンス ク リッ トで Pratdyasamutpadastitraとの 経題 に つ い て で ある
が,こ こ では玄奘の翻訳 経題 を用い る.大 正No .
124
を参照.サン ス ク リッ トの原題は, ヴァ スバ ン ドゥ が用い ,チベ ッ ト大蔵経に も伝わ る PityasamutpZidadivibhahganirdeSaである.パ ー リ対 応 経の
Sarkyuttanihaya
Niddna ・vagga , Nos .1
−2
:Desan5 ’Vibhahga とも, 漢訳 雑 阿含
No
.298
「法 説義 説経 」とも,文 面が完全 に一致 する わけで は ない .サ ン ス ク リッ トで今に伝わる ナーラ ン ダー 出土の焼レ ン ガに刻 まれた 『縁 起 経』と 最も 近い 文面を持つ の が,唐代の玄 奘訳 『縁起 経』一巻である. 恐らく, ヴァ ス バ ン ドゥが 生きたグプ タ朝期の イン ド古 典の仏 教 圏で は,その当時か らすで に, 各仏教 集 団が伝える 『縁起経 』 と 通称 さ れる ような伝 承 経が あ っ たの であ ろう. 実 際, 『法 蘊 足論 』 (玄奘 訳)で も, 経 蔵 中の 経文の 一つ と して, 『縁 起 経』における 「無 明」解 釈 が取 り 込 ま れて い る. し か し な が ら,『縁 起 経』・『瑜伽 師 地論』の 「19
無知 」よ りも「無 知 」 の ダル マ 数 が多 く, また, 「無明」の 「異門」 (parydya )の列 挙数 も多 くなっ てい る. この用例につ い て は, 『バ ウ ッ ダ コ ーシ ャ1
』97
−98
頁を参 照 .5
)Cf
.AKBh
I
,
10
,12
adAK
I,1
:φ瓶ηα 解 hibhtit
δrthad αrSiana ρratibandhlid andhak ∂ram ...ato
Sau
sarvathdSarvahatandhakdrah .桜 部訳 「闇 と は, 無 知の こ とで あ る.真 実 を 見 るこ とを碍 げる もの だか らで ある. …こ の ゆ えに,か 〔の世 尊 〕はあら ゆ る仕 方ですべ ての 〔心の 〕 闇 を打 ち破っ て お ら れ る.」桜 部建 『倶 舎 論の研 究 界 ・根 品』 (法 蔵館,
1969
年),134
頁参 照 .6
)『喩 伽 師 地 論』「本 地 分 」にお ける19
種 類の無 知につ い て の説 明 冒頭 箇 所 ・第1
項 と第18
項 「原 因か ら 生 じ た諸々 の サン ス カーラ につ いて の無知」,そ し て,その そ れ ぞ れに対応する 『縁起 経 釈』(psvy )で の解 釈箇所 を 挙 げ る.詳 し く は,室 寺 (2008
),54
−56
頁 を参照.な お, 下 記 対 照表の 中, [ ] 内は削除 すべ き 語,波 線の 語が伝 承句中の 異 語, そ して , 右欄PSVy の 下線 部は経句の 引用箇所で ある. こ こ で
19
種 類 の無 知 と は, 簡 潔に言 え ば, 第1
−3
項 「前 際 ・後 際 ・前 後 際」, 第4
−6
項 「内 〔処〕・外 〔処 〕・内外 〔処〕」, 第7
−9
項 「業 ・異熟 ・業異熟 」 , 第10
−12
項 「仏 ・ 法 ・僧」, 第1346
項 「苦 ・集 ・滅 ・道」, 第17
−18
項 「原 因 (hetu)・原 因か ら生 じ た(
hetusamutpanna
)諸々 の サ ン ス カーラ」, 第19
項 「六触処にあるがま まに通 達する こ と」, これ ら につ い て の無 知で ある. また,19
種 類の無知との 表 現 をこ こ で用い てい る が,サ ン ス ク リッ トの表 現で は,*ε航朋 α レ’廊の 倣 凍rα 朋 の禰 η砌 軍で ある.この 機 会に,Bodhisattvabhtimi, ed.
N
. Dutt (Patna,1978
),168
,12
に (一度だ け) 出る ‘
θ傾朋 αv’艇 αゴ
「信 」(Sraddha)と 「無 明」 (avidya ) (室
寺) (
125
)7
) 詳しくは,Marek Mejor ,“
On
theSevenfeld
Classification
of the Negative Particle(nafi ),”『櫻 部 建 博 士喜 寿記 念 論 集 初 期 仏 教 か らア ビダル マ へ 』 (平 楽 寺 書店 ,
2002
年) ,93
−100
頁 を参照 して頂 き たい . な お, 袴谷 憲 昭 教 授 は, その著 『仏 教 入 門』 (大 蔵 出 版,2004
年),129
−130
頁の 中 で, 『倶舎論』で の 「信仰 (Sraddha)」の 定義を巡っ て , 「こ こ に は二説挙げられ て い る わ けで あるが, 『信 仰』 本来の 機 能か ら 言っ て も仏教の 教義か ら 言っ て も」, 「信 仰 (信) とは」 「〔四 聖〕諦 と 〔三〕宝 と業と果 と に対 する確 信 (abhisarppratyaya )で ある」 との 説が, 「正 しい 定義で あ る と 私 に は 思 わ れ る」と指 摘さ れて い る. <略号 ・参 考文 献 >AKBh AbhidhannakoSabhdsya . Ed . Prahlad Pradhan . Patna:K . P . Jayaswal Research lnstitUte,
1967
.PSk
YBh
『バ ウ ツ ダコ ーシ ヤ
1
』『バ ウ ッ ダコ ーシ ャ
1
』Paficaskandhaka . Ed . Li Xuezhu and Emst Steinkellner, with a contribution by Toru
Tomabechi . Vienna:Austrian Academy of Science;Beijing:
China
TibetologyResearch
Center
,2008
.Yog
々cirabhtimi efAc
巨ryaAsahga
.Ed
.Vidhushekhara
Bhattachary
.Calcutta
;University
ofCalcutta ,
1957
. 『『倶 舎論 』を中 心と し た五位七十五 法の 定義的用 例集』, 代表 編者:斎 藤 明,山喜 房佛 書 林,2011
年. 「瑜伽 行 派の五 位 百法 バ ウ ッ ダ コ ーシ ャH
』,代 表 編 者:斎 藤明, 山喜 房佛 書林,2014
年 . (本研 究は,JSPS
科研 費 〔基 盤研 究 (S
), 課題 番 号:23222001
,「仏教 用 語の現 代 基準 訳 語 集お よ び定 義 的用 例集 (バ ウ ッ ダコ ーシ ャ)の 構 築 」, 研 究 代 表 者:斎 藤 明〕の助 成 を受 けた研 究 成果の一部で ある)〈キーワー ド〉 Paficaskandhaka, ≦raddh 互, avidy 互,