南アジア研究 第28号 024学会近況・押川 文子「日本語テーマ別セッションI シャーダラ」
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(2) 学会近況 日本語テーマ別セッション I シャーダラ―拡大する都市周縁庶民の「機会」と「市民性」―. が進むなかで学歴にもかなりの差がある。若い世代では、後期中等教育 から高等教育や資格取得コースに進んでいるケースも多い。大都市の低 所得層は、 「中間層」的生活を保証するような雇用や経済機会はきわめ て限定的という現実があるなかでも、より広い情報に接し、将来に向け た様々な方策も考えうる環境にある。セッションでは、 「都市低所得層」 と一括されやすいこれらの人々について、具体像を描こうとした。 第二点は、大都市低所得層が地域住民としてどのような関係を築こう としているのかという点である。近年の都市研究や中間層研究の多く は、ゲート付住宅地やショッピング・モールに象徴されるような新たな 棲み分けと差異化に注目し、インド中間層が他者、とくに下層を他者化 することによってアイデンティティを獲得していると論じている。また 下層民の政治を「市民」の運動と切り離して考察する立場もある。こう した論では、都市低所得層はいわば「差異化される側」にあり、その政 治は「市民」運動として位置づけられない。はたしてそうなのだろうか。 シャーダラに定着した人々は、何を「改善すべき課題」と捉え、そのた めに自分たちのもつ資源をどのように使い、関係を構築しようとしてい るのだろうか。シャーダラのなかで展開される住民の「運動」や、社会 における位置づけの認識を手がかりに、中間層を中心とした視点とは異 なる都市住民の政治性や市民性についても考察した。 第一報告である村山真弓「若者の教育と雇用―デリー低所得地域の 調査から―」は、教育普及が進む貧困層~中所得層の若者たちにとって の、学歴と就職のリンクにかかわる問題を、スラム再定住地区の15 歳か ら29 歳までの315 名を対象に行った調査を中心に論じた。教育と雇用の リンクは、社会的経済的なモビリティにとっての鍵である。調査世帯の 経済状況は、貧困線水準以下が約 4 分の1、月額平均所得は1 万ルピー 強程度で全体として低所得だが、一部には公務員や高学歴のホワイトカ ラー職世帯を含んでいる。その一方で、若年世代の教育水準は、親世代 に比べて顕著に上昇している。調査対象となった若者では、非識字者は 5%弱まで低下し、高等教育(カレッジや職業教育、各種の資格取得コ ース等)に進学している若者は16%に達していた。しかしその学歴を検 討すると、およそ 9 割の若者が公立学校(ヒンディー語ミディアム)で 学び、高等教育進学者の9 割近くは通信教育課程で学ぶなど、安定した 就職と結びつくエリート教育機関へのアクセスはまだ難しい状況であ. 217.
(3) 南アジア研究第28号( 2016年). る。就職状況を見ると、安定的な常用雇用を得ている事例は少なく(5 %程度) 、多くは歩合給や日雇など不安定な雇用についている。村山報 告は、常用雇用や固定給雇用を得ているのは高等教育を受けた若者に限 定され、中等程度の学歴の安定的雇用確保への効果は小さいことを確認 するものだった。そのうえで、多くの若者が学位や英語能力を高める必. 要性を強く認識し、家庭教師・私塾や地元 NGO でのフィールド調査員. など短期的仕事に就きながら通信教育などを利用して少しでも学歴を 得ようとしていること、就労経験のない若者ほどIT関連など人気の職 種を希望し学歴の効用に期待する傾向があること、就職の具体的情報に ついてはいまだに親族・家族や知人など人的なネットワークが中心であ り、そのことが教育と就職のリンクの不全の要因にもなっていること、を 指摘している。 第二報告である小原優貴「インドの初等教育における有償の『影の教 育』の拡大―シャーダラの低額私立学校と放課後の補習指導―」は、 村 山報告でも明らかにされた教育への期待の現実を、低所得層の間に拡大 する有償の教育システム、すなわち無認可校を多く含む低額私立学校や 様々な有償補習塾に焦点を当てて論じた。小原はまず国立教育研究訓練 カウンシルの全インド学校教育調査および全国標本調査機構の報告書、 全国標本調査の第 52 次と第 64 次などを資料として、無補助・被補助双 方の私立学校が増加していること、通学する学校の種別(政府立・私 立)にかかわらず有償の補習費用が顕著に増加傾向にあることを確認 し、そのうえでシャーダラ地区の低額私立学校3校において実施した調 査をもとに、低所得層にとっての有償教育拡大の現状を報告した。 小原が調査した3校は、月額授業料が 300 ~ 800ルピー程度で、いず れも「イングリッシュ・ミディアム」を謳ってはいるものの教員の多く は政府系学校正規教員の10 分の1程度の給与で雇用された無資格教員 であり、英語教育も十分とは言えない水準の学校である。では、無償の 政府系学校が存在するなかで、 なぜこうした低額私立学校が選択される のか。父母の回答をみると、私立学校教師は児童一人ひとりに注意を払 う、など、政府系学校のありようをうかがわせる理由が挙げられている。 またある程度の収入のある世帯では様々な有償補習の場に子どもたち を通わせており、その場が低賃金の低額私立学校教師の副収入源にもな っていることが明らかにされた。小原は、都市周縁部に急増する低額私. 218.
(4) 学会近況 日本語テーマ別セッション I シャーダラ―拡大する都市周縁庶民の「機会」と「市民性」―. 立学校や有償の補習塾が、政府系学校が十分な機能を果たしていない 状況のなかで、丁寧な教育や英語教育といった保護者の期待に応えると ともに、パートタイム就労を望む主婦層には低賃金ではあれ一定の雇用 を生み出していることと評価したうえで、低~中所得層の間でも所得格 差を反映した教育格差を拡大させて、 「最低限の教育を受ける機会です ら、経済力のある者にのみ開かれた特権となってしまう」可能性を指摘 している。インド政府は 2009 年に 「無償義務教育に関する子どもの権利 法」を成立させ、無償の政府系学校の充実を図ろうとしているが、その 成果はいまだに明らかにはなっていない。村山報告が示したように、政 府系学校の卒業生たちが一定の教育をうけても安定的な就職は難しい 状況があるなかで、今後も低額私立学校や有償補習塾が速やかに縮小 していくとは考えられず、かなり所得の低い階層に至るまで教育費支出 が家計を圧迫しながら拡大することが予想される。小原報告が示したよ うに、これらの私立学校の教育水準は必ずしも政府系学校のそれを上回 るものではないことを考えると、私立学校を経ても学歴と雇用のリンク が大幅に改善されるとは考えられない。 村山、小原両報告は、都市周辺庶民にとって学歴を形成し雇用に結び つける難しさを示す一方で、子育てや教育が人々の熱い関心を集めてい ることも示している。それは、 子どもという存在が単に「大きくなる」だ けでは不十分で、よりよい環境のもとでよりよく育つことが求められる ようになったことを示しているともいえよう。第三報告である渡部智之 「集合的実践知としての地域力―シャーダラ・スラム地域における生活 環境向上の試み―」は、地域の住環境や子育て環境の改善を図ろうとす る地域住民の実践をとりあげ、参与観察による詳細な記録に基づいて論. じた。シャーダラには、デリー州や地方自治体(MCD)などの行政機構、 警察、この地域を選挙区とする地方議員などに加えて、官民連携のなか. で行政との連携を強めている複数の NGO など、予算や資源配分におい. て何らかの権力や働きかけの手段をもつ複数のアクターが存在する。渡. 部報告では、 公園の壊れた水道蛇口の修理といった身近な環境改善に際 して、地域住民が仲間を作り、それぞれがもつ多様な「関係」 (例えば. 知り合いの政治家や NGO ワーカーなどへの働きかけ)を、目的に応じて 効果的に束にしつつ改善を実現するプロセスが明らかにされた。それは. 行政や政治が供与する便宜やプログラムを受動的に待つ住民でも、強力. 219.
(5) 南アジア研究第28号( 2016年). なコネや指導力をもつリーダーに頼る住民でも、政治的扇動に動員され る住民でもなく、それぞれの資源は乏しくとも、 「水道蛇口修理」といっ た具体的な課題を取り上げ、必要なプロセスを試行錯誤で見出しなが ら、段階に応じて適切な関係を発動させていく住民の姿である。渡部は 「地域が築いてきた諸関係性のたばとそこに内在する集合的実践知こそ が、特定の個人や組織に属さない地域力の内実」ととらえ、都市周縁部 のスラムに形成されつつある住民にとっての(都市的)地域の性格を論 じている。 以上の3 報告を通じて、若者世代の学歴形成意欲や低額私立学校・有 償補習塾の拡大などにみられるように、都市周縁住民が世代をかけた社 会経済的モビリティの獲得に強い意欲を持ちながらも、その「効果」に は様々な構造的制約があることが明らかにされた。結果として若者世代 の多くは不安定な就業状況にあり、また有償教育の拡大は低~中所得層 の間のさらなる教育格差の拡大や効果が約束されない教育費負担増が もたらされている。その一方で、渡部報告は、こうした構造的な制約の もとでも住民の間に地域の問題を自ら解決しようとする新しい動きが形 成されていることを明らかにしている。その際の「資源」は、行政や政. 治家・政党だけでなく NGO など複数のアクターが関与する地方自治を背. 景にした「複数の関係性を束にする力」 、言い換えれば一定の民主的・ 分権的な政治システムのなかでの知り合い関係や経験の蓄積という社 会資本や情報の力だった。こうした社会資本や情報は、一つ一つの実践. を通じてさらに蓄積・拡大しうるものであるとともに、定式化や制度化 は難しいという脆弱性ももっている。シャーダラを典型とするような都 市周縁部に居住する膨大な人口が都市住民として安定的に権利を行使 し上昇を図るためには、雇用市場や教育など大きな構造的課題ととも に、 「関係性の束」の強化が必要だろう。個々の住民の情報力や発言力 の強化と、多様なアクターが交渉しうるような地域社会の安定的発展は その前提である。 おしかわ ふみこ ●京都大学. 220.
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