インドでは時間なんて何の価値もない。みてみろよ、僕たちが何を しているか。単なるタイムパスだ。屋根の上でしゃべって、寮の 部屋に座っているだけ。うろつき回って、友人としゃべって、チャ イ屋に行って。それだけだよ。(132 頁) 本書は、このとある若者(ジャート・カーストの学生)の語りに登 場する言葉である「タイムパス」という多様な含意を持つ概念を鍵と して、議論が展開されていく。原著者は、イギリスの気鋭の文化人類 学者であるクレイグ・ジェフリー氏であり、原著タイトルは、この鍵 概念そのもののTimepass: Youth, Class, and the Politics of Waiting in India(2010, Stanford, California: Stanford University Press)である。本書は、1990年代後
半から2000年代前半のインドのウッタル・プラデーシュ州(以下
UP
州)北西部を主要な舞台として、特にジャートの人びと、とりわけ若 者たち(その多くが高学歴で無職の学生である)に焦点を当てつつ、彼 らの階級とポリティクス、そして「待つこと」をめぐるさまざまな実 践について、考察を行っている。1991年の経済自由化以降の、社会政 治経済的に大きな変容をみせるインド社会において、ミドルクラスと 認識されるジャートの人びとは、どういった戦略をとって対応を試みて おり、またそれがいかなる状況を生み出しているのか、多くの若者た ちとフランクな関係を築きながら行われた精力的なフィールドワーク を基に分析がなされている。 インドへの注目の高まりとともに、日本語で読むことができるインド 関連書は確かに増加しているが、なかにはきわめて一面的な様相のみ が(偏った観点から)描かれている書籍も少なくない。そうした現況 において、変容をみせる現代インドの姿に関して、ますますその存在クレイグ・ジェフリー(著)、佐々木宏、押川文子、
南出和余、小原優貴、針塚瑞樹(共訳)『イ
ンド地方都市における教育と階級の再生産─
高学歴失業青年のエスノグラフィー─』
東京:明石書店、2014年、2500円+税、ISBN978-4-7503-4076-0舟橋健太
書 評が重要視されるミドルクラスの人びとを対象とし、なかでも、インドの 行く末を担う若者に着目した研究であり、かつその手法として、マク ロな政治経済分析ではなく、ミクロな人びとの生活の実相からの解明 を試みた文化人類学的な研究の成果である良書が、日本語の訳書とし て出版されたことに関して、まずはおおいに歓迎の意を表したい。 訳者もあとがきで高く評しているように(327頁)、本書には、現代 インドに生きる等身大の若者たちの、悩み、怒り、ふざけ合う姿が、実 に生き生きと描かれている。行間からは、インド地方都市の埃っぽい 町並みや人びとの喧噪、過剰にクラクションを鳴らしながら行き交う車 列、道路脇で煮立つチャイとそれをすすりながらたむろする人びとの様 子が浮かび上がってくる。本書の調査地とほぼ重なる地域において調 査研究に努めており、主要な舞台である
C
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・シン大学にも幾度か訪 れた経験を有する書評者にとって、本書から感じ取られる活況は、当 地の匂いや音とともに、懐かしい人びとの面々も思い起こさせられた。 以下、本書の流れに従いながら概要を紹介していきたい。第1章「イ ンドは待っている」では、本書の理論的布置と、基となった調査の時 期・方法について記されている。ポストコロニアル状況におけるイン ド社会(より広くは新興国家)において遍く登場をみている「ミドル クラス」と任じられる人びとについて、特にピエール・ブルデューな らびにパルタ・チャタジーの理論を批判的に援用・継承するかたちで、 本書の議論が展開していくことが示されている。本書の狙いは、そう したミドルクラス論への寄与と、UP
州における階級とカーストのミク ロ・ポリティクスの検討、そして、若者たち(高学歴失業男子学生た ち)による「待つという行為」の諸相と社会変容のプロセスについて の検討という三つにある。 第2章「『フィールド』を耕す―農村中間層の台頭と適応―」では、UP
州北西部の富農層であるジャートたちが、1990年代以降の新しい社 会的経済的状況のなかで、いかに自らの特権的位置を維持し得たのか、 考察が行われている。経済改革と、下位カーストの特に政治的領域に おける台頭という二つの脅威に面した富農層は、二つの戦略でもって 対応を試みた。ひとつは、ローカル・ポリティクスへの投資、影響力 の一層の強化であり、もうひとつは、息子たちに農業外の安定雇用を 得させようとする教育投資の急激な深化拡大である。ジャート富農層によるこれら投資戦略の予期せぬ帰結のひとつが、2000年代のメーラ ト市の高等教育機関において、時間的空間的喪失感を抱いた多くの ジャートの若者集団を現出させたこととされる。第3章「タイムパス― 人生の交差点―」の主人公は、まさにそうした喪失感を強くその身に まとい、日々「タイムパス」を行うジャートの男子学生たちである。彼 らの多くは農村に出自をもち、高等教育を受けて良い雇用先を求める もうまく就職することができず、ただ待つしかない社会から排除された 感覚を持つ。またこうした感覚を有する者同士の付き合いは、町のチャ イ屋などのたまり場を中心に深められ、自身の中途半端な状況をむし ろ肯定的に捉えようとする観念が生じ、「男らしさの文化」というジェ ンダーに基づく差異と不平等が強化・再生産されることになる。 続く第4章「学生の集合的異議申し立て」では、そうした「宙ぶら りん(リンボ)」の状況にある学生たちによる、集合的な政治動員の諸 形態がとりあげられる。ここでは、男性政治活動家の類型を分析的に 四つのグループに分けて考察が行われている。すなわち、中間カースト (主にジャート)の「社会改革者」たちと「ネーター(リーダー)」た ち、政治志向のダリトとムスリムの若者たち、都市の上層ミドルクラ ス出身の学生たちの四グループである。これら政治活動家たちは、学 生たちの間で共有された教育の劣化と失業という経験から、皆の関心 を惹きつけ、多様な出自の学生たちを動員し得る四つの論点(学費の 高騰、コラプション、進級・卒業の妨害、ハラスメント)を導き出し ていた。彼らは、時に抗議活動の争点に対する見解の不一致をみせな がらも、カーストや階級、宗教、そしてまれにジェンダーの境界を越 えて、異議申し立てを行っていた。しかしまた、他の学生たちを支援 するように振る舞う者たちの多くが、すぐに利己的な政治的起業家へ と変節していったことも指摘される。第5章「将来をジュガールする― 即興のポリティクス―」で扱うのは、そうしたいわば二枚舌の学生たち である。彼ら「フィクサー」たちは、コラプションに対する異議申し 立てと、政府や大学の役人たちとの共謀という二つの行為を組み合わ せていた。彼らは、学生組合の役職を求め、そこから抜群の収入、名 声、政治的影響力を得て、さまざまな不正行為に関わりながらも、同 時に、集合的な異議申し立て行動を率いていた。こうした二重取引と そうした行為の正当化を、彼ら自身は、「想像的な即興=ジュガール」
として肯定的に重要視していた。彼らの不正・権力に挑戦を試みたの は、唯一、ダリトの学生たちだけであったとされる。洗練されたやり 方・言い方で、自身のコラプションの実践を正当化するジャートのフィ クサーたちは、ジュガールの言説を展開させながら、文化的差異化に よる階級やジェンダーの再生産を行っているのである。 第6章「結論」では、以上の叙述分析を踏まえ、第1章の理論的視座 を再確認するかたちで、本書の意義と寄与が記される。すなわち、ミ ドルクラス論、ミクロ・ポリティクス、「待つこと」の再考である。ま た本書から導き出された、さらに検討を要する政策議論に関する知見 として、次の三つの観点が挙げられる。ひとつに、本書の主役であっ た高学歴失業青年に代表されるように、従来の開発論にある教育に対 する楽観主義の再考であり、もうひとつに、「フィクサー」として暗躍 する若者に代表される、ローカルな次元の「コラプション」の持続に おける、普通の人びとの存在の重要性である。そして最後に強調され るのが、高学歴失業青年たちのなかにいた、エネルギッシュな社会改 革者の存在とその重要性である。若者たちのなかには、社会発展のた めの努力に参与しているものが少なからず存在しており、彼らは、政 治的な鋭さを身につけ、また貧しく抑圧された状況にある仲間の生活 を改善するための組織的取り組みに熱心に参加していたのである。こ れらの三点は、著者の指摘通り、今後さらなる注目と研究の深化展開 が期待される課題であるといえよう。 以上、本書は、明確な理論的視角から、丹念なインタビューを軸と したフィールドワークから得たデータに基づき、分析・考察が行われて いる。その意義は、上で触れてきたように、そして、訳者もあとがき で述べているように、さまざまな側面において高く評価されるものであ るといえよう。ゆえにここでは、本書の利点を繰り返し記すことは避 けて、書評者が抱いた問題点を挙げることにしたい。 まず、本書の調査ならびに分析の対象の中心が「ジャートの男子学 生」に据えられていることからくる問題を、大きく二つ挙げることが できる。ひとつが、「上層ミドルカースト」や上位カースト、下位カー スト(ダリト)、ムスリムといった人たちの、一枚岩的な捉え方および 表象のあり方である。これはまさに著者自身が本書内で強調している、 チャタジーをはじめとするポストコロニアル研究者に対する批判、つま
り、エリートと対極的に描くため、サバルタンたちの文化を時に過度 に一般化して表象・称揚しているとの批判と同じ轍を踏んでしまって いる。書評者の調査経験からも、ジャートの学生と同様に、望ましい 就職を得ることができずに悩み苦しむいわゆる上層の若者たちが少な からず存在していることは疑い得ない。また、ダリトをはじめとする下 位カースト、ムスリムたちの多様性は、本書のテーマである階級やロー カル・ポリティクスの観点からだけでも、おおいに論じられるべき豊か さを持ったものであろう1。 「ジャートの男子学生」に調査対象が偏向したことからくるもうひと つの難点が、「女子学生たち」への/からの視角の欠如であろう。著者 の性別(男性)と年齢(学生に近しい)を考えれば、女子学生に関す る調査の困難さは自明であるが、それでも若者・学生たちの生活の様 相を描くにあたって、女性の姿の少なさはやはり不満を禁じ得ない。本 書で女子学生が登場するのはかなり限定的な数であり、またその叙述 も僅かである。たとえば著者自身「若い女性がジェンダー化された実 践についてどのように対抗し、また従い、そしてそれを形作っている のか(中略)を議論することは今後の研究にとって喫緊の課題である」 (290 頁)と認識しているように、やはり女性からの観点は必須である といえよう。しかしこの文章の中略箇所「このような姿について私は 本書でいくらか描写した」とあることに反して、そうした観点からの 本書での検討は、相当程度不十分なままに終わっていると考える。 以上の、対象の限定化からくる限界に加えて、もう一点、対象の位 置づけにも問題を覚える。すなわち、ジャートの人びとの社会的位置 に関する表象のあり方である。本書では、その多くの箇所において、 ジャートの人びとは「下層ミドルクラス(
lower middle-class
)」と表 されている。しかし、著者自身も「富農層」と認識していることや、UP
州北西部において、支配カーストとなり得るほどの政治経済的地位を 有する人びとであることを考えた場合(そして書評者の調査経験から しても)、この表現が果たして適当なのかどうか、疑問符を付けざるを 得ない。特に著者は、「地域性」というものへの意識が高く、安易な一 般化を避けて、ローカルな場での政治や経済のあり方を精緻に考察す る必要性を論じている。であればなおのこと、UP
州北西部(メーラト 地域)という地域性・地方性を考えた場合、当のジャート自身が「メーラトでジャートであるということは、目にみえないライセンスを持って いるようなものだ」(251頁)と明言するところからも、「下層ミドルク ラス」との表現が、彼らの(特に当地での)社会的位置を表すのに適 しているとは考えられない。本書の趣旨のひとつであるミドルクラス論 への反駁・寄与のための「下層ミドルクラス」の強調であろうことを 考慮しても、やはりその妥当性には異議がある。 これら内容に関する問題点に、一点、形式的な短所にも触れておき たい。本書評の冒頭に挙げた語りも例外ではないが、本書に多く登場 し、議論を展開するにあたって重要な役割を担っている人びとの語り の扱いであるが、厳密さに欠けていることが指摘される。つまり、記 載されている数多くの語りのほとんどが、発話者やその人物がどう いった社会的背景を持つ者であるか、いつ、どういう状況の下に発せ られたものなのか、ほぼ一切の情報が与えられていないのである。これ は、注釈が一つしかないということと合わせて、原著書の「不親切さ」 と捉えられなくもないが、しかし、それに留まらないエスノグラフィー としての問題を深くはらんでいるといえよう。 以上が、本書、すなわち原著の問題点となるが、最後に、訳書とし ての評価についても記しておきたい。まずは既述のように、本書を日 本語での出版へと導いた先見性と努力を、高く評価したい。また、本 体の後に「訳者による解説コラム―本書を読むてがかりとして―」が 付けられており、さらに、専門外の人には馴染みにくい固有名詞や用 語が多数登場する本書に、充実した訳注(脇注)が適宜付されている ことなど、「日本の読者に向けた刊行」という配慮が随所にみられるこ とも、訳書の利点として特記しておくべきであろう。 一方、訳書としての問題点もないわけではないと考える。そのひと つが、共訳というかたちをとっているがゆえの、訳文の相違である。基 本的に、章ごとに担当訳者を配するかたちを取っているが、訳者の日 本語の文体もあり、章によって、訳文の読みやすさに差異があること は否めない。また多少ではあるが、すぐには意味が読み取りにくい訳 文も散見された。もう一点、文体の他に気になったのが、これも共訳 ゆえの全体としての統一性の問題といえようが、章によって何度も登 場する用語の説明である。代表的には、「ウッタル・プラデーシュ〔
Uttar
Pradesh
:UP
〕州」という表記であるが、章が替わるごとに繰り返し登場することなど、避けるべきだったのではないだろうか。 最後に、これは出版社との交渉(からの制約)の結果でもあるかと 拝察するが、二点、訳書へのリクエストを述べたい。まずは、索引で ある。「不親切な」原著にも索引はみられたように、やはり付けられて いたほうが、研究書としての利便性はなお高まったのではないだろう か。もう一点は、タイトルに関してである。本書が、現代インドの一 地方都市に生きる若者たちの活況の描写に秀でた、読み物としても非 凡なエスノグラフィーであることを考えた場合、日本語のタイトルは、 副題も含めて、やや堅すぎる(説明的に過ぎる)印象が否めない。多 義的であるからこそ使用を見送られたのであろうが、やはり、原著タ イトルであり、内容においても中心的な概念・用語である「タイムパ ス」は、せめて副題にでも入れてもらいたかったとするのは、やや過 分なリクエストであろうか。 以上、思うに任せて好き勝手なことを書かせていただいたが、本書 が(原著としても、訳書としても)、時宜を得たきわめて重要な価値を 有するものであり、一読に値することは改めて言うまでもない。本書 で取り扱われたミドルクラスの若者に留まらず、学歴修得層の拡大と 失業問題の深刻化は、社会のいわゆる上層から下層に至るまで広く遍 在する問題となり、今後ますます重要な検討課題となっていくだろう。 インド社会の未来を担う若者に関する、多様な側面に光を当てる厚い 研究が待たれているのである。南アジア地域社会において、教育や子 ども、若者を対象に調査研究を展開している訳者たちには、おおいに 期待を抱くところであり、僭越ながら書評者も含めて、本書のテーマ と何かしらの接点を有する研究課題を追究する研究者たちとの、さら なる対話・議論の展開を切望するものである。 註
1 なお、ダリトとムスリムについては、同じ著者の共著書であるDegrees without Freedom?:
Education, Masculinities, and Unemployment in North India (Craig Jeffrey, Patricia Jeffery and
Roger Jeffery, 2008, Stanford, California: Stanford University Press)に詳細な記載がある
(特に第5章と第6章)。