近世国家の形成と戦争体制
著者 曽根 勇二
学位授与大学 東洋大学
取得学位 博士
学位の分野 文学
報告番号 乙第171号
学位授与年月日 2005‑06‑27
URL http://id.nii.ac.jp/1060/00003975/
Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by‑nc‑nd/3.0/deed.ja
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学位請求論文:W近世国家の形成と戦争体制.DQ要旨)
曽 根 勇 二
本書の第一部は浅野長吉を中心とした奉行人の動きに焦点をあて、軍事自慢鯨樹主の強い 秀吉政治の実態を追求した。奉行人の動向から小田原合戦以降の国内統一戦争や朝鮮出兵 の検証を行ない、とくに講和・休戦期の秀吉政権が総力戦の体制から東国の地域支配を強 化させたことに注目し、国内問題から朝鮮出兵を理解する立場を明らかにした。
第一章「秀吉政権の東国侵攻Jは、いわゆる小田原合戦を素材にして南関東の主な北 条方支城を攻撃した浅野長吉の動向に着目した。次第に拡大する戦場では現場を取り仕切
る人物が必要となるが、彼ら奉行人の動きを詳細に追求したことで、従来と異なる新たな 東国社会の地域像カ瀧示できた。各地域の戦国大名研究カ源化しつつある現在、各地域の 秀吉や奉行人発給文書の重要性を提唱した。
第二章「豊臣蔵入地支配の形成Jは、代官でもあった政権の奉行人の動向から豊臣蔵 入地の機能や性格を検討した。専制的な秀吉政治において、政権内部に整然とした政治機 構らしきものを必要としなかったが、その反面、現場の「実務jを担当する奉行人の役割 は重要なものになっていた。そこで彼ら奉行人の動きを軸とし、さらに各地に配された代 官の動向までも追求することで政権内部の政治運営のあり方を考察した。代表的な奉行人 であった浅野長吉やその家臣ら、さらに長吉と関係のあった山中長俊の広範囲な足跡をた どりながら、奉行人による豊臣蔵入地刻印実態を明らかにして臨戦均な秀吉政治の一端 を提示した。
第三章「秀吉政権と御鷹場Jは、秀吉朱印状や添状の語句にこだわりながら、鷹献上 を介した秀吉の大名統制や畿内周辺への御鷹場
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秀吉の鷹場)設定の意味を検討した。こ れらの政策は政権の集権性を考察するものになったが、従来のように徳川将軍権力と比較 するだけではなく、むしろ朝鮮出兵の翻日・休戦期に行われたことの意味を重視すべきも のとなった。第一部第四章と同様、とくに御鷹場の設定は、文禄年間における総力戦の問 題として考えるべきものである。第四章「秀吉政権の東国支配」は、文禄二年(一五九三)秋、断行された浅野長吉の 甲斐移封は政権の東国支配を大きく進展させたものであり、その実態を解明することで政 権による東国鉱山支配の実態の一端を明らかにした。近年の対外史研院の充実から東アジ ア世界の中で秀吉の朝鮮出兵カ雫輪できるようになったが、本章で邸主に政権による地域 支配の国内問題として朝鮮出兵を考えた。文様検地や伏見城普請を軍事的に緊迫した社会 問題として考えるための基礎研究でもある。長く続いた圏内紛争を終駕させた秀吉政権の
「惣無事jの論理は、さらに朝鮮出兵という緊迫した対外侵略戦争の中でも醸成され、日 本列島の全階級鰐誇国家を支える重要な理念となった。本章では、とくに暴力的な枠組 みが剥き出しとなった秀吉の軍事国家があらゆる面で国家支配を強化させ、慶長の再出兵 に突入したことを主張した。
第五章「秀吉政権の交通支配Jは、九州の陣から小田原合戦・奥羽仕置までの国内統 一戦争を一連の政治過程として捉え、その延長に朝鮮出兵の戦時体制を想定した。軍需物 資の輸送などを素材とし、それに関わった豊臣奉行人の動向を検討することから政権の交 通苅己を考察した。講和・休戦期の壱岐や対馬の状況を中心に最前線の地での大規模な軍 事体制が創出される過程を見い出し、政権の交通支配の一端を明確にした。
第六章「朝鮮出兵と国内支配体制の実態Jは、紛下派兵の論理を強く打出しながら秀 1
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吉政権の実態を考察した。朝鮮出兵は用意周到な戦時体制の下で行なわれたものではなく、
また長期戦を想定したものでもなかったことを念頭に置いた。すなわち秀吉は中国勢力と の交易を独占することを優先させ、明との貿易再開を大義名分として開戦したのである。
中国勢力との貿易独占は列島の武家政権として「国是」であり、政権の優位性を実質的に 獲得できるものとして必須なものであった。まさに「惣無事jの論理で行なわれた出兵で あったが、朝鮮半島の戦闘持説化した時点で出兵の大義名分が消滅し、その戦時体制も 戦況に応じたものになった。こうして侵略戦争としての本質カ寝雑化し、園内問題として
も総力戦の体制カ可金いられ、国内外で軍事国家として体制が出来上がったのである。
第七章「朝鮮侵略の撤兵指令Jは、第二部で明らかにする家康権力の実態との関連に こだわり、当該期における家康の立場を明らかにした。ます胃出兵に向けて列島全体の戦 時体制の拠長であった筑前の博多・名島を再検討しながら、長期化した朝鮮出兵の実態に も追った。さらに秀吉死後の政治運営伍大老・五奉行の合議体制)について検討したが、
とくに秀吉政治と同様、豊臣奉行人(五奉行)の連署状が機能したことに注目した。秀吉 死後も秀吉政治を継承しなけれはたとえ家康が関ヶ原の戦に勝利しでも安定した政治運 営はできなかったことを明らかにした。
本書の第二部は片桐且元の動向を核とし、関ヶ原の鞘麦の家康権力の実態を検証した。
関ヶ原の戦で勝利した家康であったが、その立場は五大老の延長でしかなく、自己の権力 を確立するためには、秀吉以来の武家主従制を利用しなければならなかったことを命題と した。家康は豊臣方の且元を起用することで全国的な施策を打出すことができ、諸大名と の主従関係の編成にも着手できたのである。こうして秀吉政治の継承者となった家康も、
その一方では、東アジア世界の動向から軍事的な緊張関係に満ちた秀吉外交を否定するこ とを余儀なくされた。第二部に対外史関係の論考を含めたのはこうした理由からである。
第一章「慶長四年の徳川家康と片桐
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元」は、豊臣氏の家老片桐旦元の姿を復元する ため基礎的な文書から読み込んだ。且元の立場をより客観的に考える視点を持つため、徳 川方の象徴である国奉行制論だけに終始しなかった。また旦元との関係だけではなく、豊 臣氏や五奉行との関係も視野に入れ、関ヶ原の戦に至る家康の微妙な立場を明らかにした。第二章「関ヶ原の戦麦の片桐
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元Jは、家康主導で行なわれた諸大名への知行宛行を 検討することから家康権力の脆謝主を指摘した。同時にここから奉行人且元の存在を見い出し、且元の関与した旧豊臣蔵入地の状況から家康権力の実態を明らかにした。
第三章「慶長期の幕領苅r.Jは、関ヶ原の戦後の且元の立場を明らかにするための基 醐切開である。当該期の家康は、自らの権力の正当性を主張するため城郭普請や大河川 工事などの「公共事業Jを行なった。家康は、秀吉恩顧の大名と主従関係を編股するため
「公共事業Jの扶持米供給地として自己の支配領域(幕鋤を確保・拡大し、権力の安定 化を図った。具体的には信濃・三河・近江の各地に大久保長安や長安配下の代官を配置さ れたことの意味を検討したものであるが、第一部第三章と同様、奉行人や各地のイ守宮の動 向を追求することから政権内部の政治運営のあり方を考察した。
第四章
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豊臣体制』の解体Jは家康の政権掌鐙晶程において、第一次史料を用いて 片桐E
元の置かれた立場を検証した。豊臣方の権力と家康権力がほぼ並行して向次元的に 機能したかのような印象になったが、本章では笠谷和比古氏の提唱する「二重弘犠論Jの 立場を否定した。公儀論を理制告に議論するのではなく、第一次史料で且元の立場を明ら2
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かにして極めて専制的な秀吉政治の実態を考える手法をとったこと料轍である。
第五章「京都方広寺鐘鋳の鋳物師動員Jは、京都方広寺大仏殿の鐘鋳をめぐる問題を考 察して且元発給文書の分析を行なった。関ヶ原の鞘麦、家康権力が安定・拡大する中、豊 臣氏の家老且元は、大槻強輔のため各地の鋳物師を召集したり、同時に畿内を中心とし て各地の寺社設営や文化財の修復に関与したように、その職人編成にも画期的なものがあ ったが、本章では豊臣方による職人動員の事実の復元だけにとどめた。
第六章「家康・秀忠井交とパハン禁令」は、秀吉死後の家康が「パハン(=海賊行為)J の禁止指令を五大老連署状の形式で出したことの意味を考えた。朝鮮出兵の敗壁訴麦、家康 は、周辺諸国・諸地域に対して「平和」外交を標梼せざるを得なる一方、その外交単純の ーっとして島津氏に明出兵を行なうよう示唆した。ところが家康外交の真意を見抜いた島 津氏は口実を作って駆求王国を侵攻・併領してしまい、逆に靭求支配を介した中国貿易ま でも容認させた。このような歴史事実はその後も積み重ねられ、その窓口は徳川氏の長崎 口と島津氏の蹄求口に分かれ、寛永「鎖国」体制の隊皆中からこうした列島と中国貿易が 継続したことを指摘した。
第七章「近世国家の形成と対外政策」は、徳川政権がり¥)¥ン禁令」を「キリシタン禁 令Jに切り替えて行なった国蒔貿易独占の意味を検討した。秀吉以来の「パハン禁令」を もって徳川政権も、中国勢力との貿易を独占したが、西洋諸国の進出・脅威が顕在化する と、 i)¥)¥ン禁令Jと「キリシタン禁令Jを使い分けて大名貿易を規制した。徳川倣権は こうして中央権力を確立・維持させるために長崎貿易の集中管理体制を確立したが、その 形成過程で、琉球口以外にも対馬口・松前口も誕生した。これらは単に個々の地域での歴 史的な事情から形成されたものであり、長崎貿易を集中管理するため、徳川敏権はこれら
の多様な形態の貿易を容認しただけである。徳川政権の「鎖国」とは、東アジアの国際関 係に!臨むし、「局外中立Jの原則の下で行なわれた中央政権の貿易統制の体制でしかなく、
同時に秀吉以来の臨鞠古都改治体制の本質も消滅したわけではないことを確認した。
終章は、秀吉権力と家康権力の違いについて述べて本書のまとめとした。秀吉死後、多 様な公議論か噴出して不安定な政治状況になったが、これなど、も関ヶ原の戦で事権を握っ た家康権力の脆弱な面を象徴するものである。秀吉政権から徳川政権への転換期に注目し た本書の真意は、この脆弱な家康政治の実態を
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繍することではなく、軍事的集権の体制 を創出した秀吉政権の歴史的意義を考えることである。秀吉政権凶攻権運営のため多くの 奉行人を登用し、さらには寺社を含めた天皇勢力までも包摂して軍事的期在性の高い国家 権力の特湘みを創出した。このような国家権力の枠組みは「惣無事Jとも称され、未曾有 の海外派兵を行なう原動力になった。しかしこれらカ汚リ島の「平和Jの論理を標梼したこ ともあり、たとえ朝鮮出兵の敗戦や東アジア世界が大きく変動しようとも、家康政治の実 態では若干の是正があったものの、本質の専制的あるいは臨単組合な性格を変更することは なかった。近世国家の将軍権力について、その専制性だけではなく、大名権力や家臣団の 自律性も重視することも必要であるが、秀吉以来の「将軍専制Jの本質があったからこそ、あらゆる列島の階級から支持された「惣無事Jの論理が生き続けた。秀吉権力と家康権力 の実態を検討し、両者をまったく次元の違う異質なものと考えたことが本書の特徴ではあ るが、それは秀吉権力を「惣無事jの論理を達成した極めて将軍専制の高い権力と位置付 け、秀吉政治の継承と是正の視長から家康政治の実態を理解することでもある。
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