伝統中国法上の「殺死姦夫」条に関する考察
著者 江 存孝
著者別表示 Chiang Chun Hsiao
雑誌名 博士論文要旨Abstract
学位授与番号 13301甲第4472号
学位名 博士(法学)
学位授与年月日 2016‑09‑26
URL http://hdl.handle.net/2297/46488
Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by‑nc‑nd/3.0/deed.ja
様式 7(Form 7)
学 位 論 文 要 旨
Dissertation Abstract
学位請求論文題名 Dissertation Title
伝統中国法上の「殺死姦夫」条に関する考察
(和訳または英訳)Japanese or English Translation
A Study of Provisions Concerning the “Killing an Adulterer” in Traditional Chinese Law
人間社会環境学 専
攻(Division)氏 名(Name) 江 存孝 主任指導教員氏名(Primary Supervisor) 中村 正人
(注)学位論文要旨の表紙 Note: This is the cover page of the dissertation abstract.
A Study of Provisions Concerning the “Killing an Adulterer”
in Traditional Chinese Law
This paper attempts to explore provisions concerning “Killing an Adulterer” — when the wife or the concubine committed adultery, and the husband who killed the adulterers on the spot could be considered not guilty or sentenced to a reduced punishment — by traditional Chinese law. In this paper, we try to discuss the origin of these provisions and the evolution of these provisions from imperial China to early Republican China.
After the exploration, we would like to propose three points: (a) the provision concerning “Killing an Adulterer” was established through the development of Ming Code, which can be attributed back to the influence descended from the rules in Yuen Dynasty; (b) it can be related to the bureaucracy for judiciary and legislation in Qing Dynasty, which frequently balanced the crime and the guiltiness of cases about
“adulterer murder”, and continuously managed to adjust the unbalanced situation caused by legislation or judiciary and (c) even though these provisions were deleted in the late Qing Dynasty, the judge of the supreme court in early Republican China resumed the provision concerning legitimate self-defense to save the “adulterer murder” from being punished until 1928. After that, the murder would be indicted and imprisoned for no more than seven years on the basis of a provision concerning
“persons killing others on the spot out of righteous indignation”.
論文要旨
伝統中国法上の「殺死姦夫」条に関する考察
伝統中国法において、「殺死姦夫」とは、妻や妾が他人(姦夫)と姦通して いたときに、夫が「姦所」(姦通の現場)において姦通者(妻または妾、及び 姦夫)を捉え、即座に彼らを殺す、という行為を指す。姦通者を殺すという特 定類型の殺人行為が国家法により宥されるべきという考え方は、伝統中国法だ けではなく、現在台湾に施行されている「中華民国刑法」にも遺されている。
本論文は、「殺死姦夫」条の伝統中国法における由来、明代・清代における変 遷過程や、この規定の裁判上の適用実態、さらに清代末期における法典近代化 以降の変遷といった諸問題を考察の主な対象とする。
本論文において扱われる主なテーマは、次の
3
点である。第1
に、「明律に おける『殺死姦夫』条の形成及びその性格の再検討」である。これについては、明律における「殺死姦夫」条の淵源、成立過程、法的性格といった点について 考察する。第
2
に、「清代における『殺死姦夫』条の内容及びその裁判におけ る実態」である。これについては、清代において明律を踏襲して制定された「殺 死姦夫」条の変遷、この規定の裁判上の適用実態、さらにこうした裁判と「殺 死姦夫」条の改正との間の関連性について考察する。第3
に、「清代末期から 中華民国初期における『殺死姦夫』条の変容」である。これについては、清代 末期から民国初期に行われた法典近代化の過程において生じた「殺死姦夫」条 の変化と、そうした変化が民国初期における「殺死姦夫」事案の裁判実態にい かなる影響を及ぼしたかについて考察する。本論文は
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章より構成される。序論と結論を除いた各章における内容の概要 は以下のとおりである。第
1
章「明代における『殺死姦夫』条の成立に関する考察」においては、主 に明代までの伝統中国法における「殺死姦夫」と関わる規定の成立経緯につい て考察を行う。従来、漢民族法系である唐・宋律においては、単独の「殺死姦夫」条はまだ 存在していなかった。当時、「殺死姦夫」と関わる主な規定は、緊急状況にお いて行われる正当防衛的行為を律する機能を有する「夜無故入人家」条を中心 とした規定であった。そして、姦通者を殺すことは、このような緊急状況にお ける正当防衛的な行為の中の
1
つの態様であったにすぎず、「殺死姦夫」とい う行為を独立の犯罪類型として扱ってはいなかった。明律に定められた「殺死姦夫」条は、元代の「殺死姦夫」に関する規定を踏 襲したものであった。遊牧民族法には、漢民族法系とは異なって、姦通の現場 で姦夫姦婦を殺したときは無罪となる、という復讐の要素を伴った私刑主義の
1
傾向を有する慣習法が存在した。元代では、このような慣習に基づいて「殺死 姦夫」の規定が設けられた。そして、明律における「殺死姦夫」条は、元代の モンゴル民族による中国支配を通じて、漢民族の法が遊牧民族の慣習の影響を 受けたことにより成立したものである可能性がある。
ただ、明の『大明律』では、元の規定を踏襲した上で単独の「殺死姦夫」条 が制定されたものの、明代の「問刑条例」では、夫が拘執に就いた姦通者を殴 って殺した場合には、元代の夫を無罪とする措置とは異なり、杖一百徒三年に 処するものとされた。この点からすれば、明代においては、姦通者を殺した行 為はもはや私人による制裁としては扱われていなかったと言える。
他方、明代中期・後期においては、律に対する解釈の注釈書が律学者により 多数編纂された。こうした注釈書においては、「殺死姦夫」条の性格は実に複 雑な要素を有するものとして描かれている。一方で、唐律の「夜無故入人家」
条が母体として位置付けられており、他方で明代以降には、姦通者を殺すこと が正義の行為であるという道徳的価値観が付加されている。そして、こうした 注釈書はこの両方の考え方を前提とした上で、簡略すぎる明律と「問刑条例」
によっては個別の「殺死姦夫」に関する事案にうまく対応することができない という欠点を補充するために、殺死姦夫を様々な個別的類型に細分化させて、
さらにその論理を新たに発展させていった。
結果として、明代末期には、『臨民寶鏡』という注釈書に見られるように、
姦通者を殺した者が容易に無罪とならないよう、「殺死姦夫」の様々なパター ンを細部まで描写した上でそれぞれのパターンに対応する適当な刑罰を与え るという考え方が生じた。
第
2
章「清代前期における『殺死姦夫』条の規定とその裁判実態」において は、主に清代前期、すなわち雍正期までの時代における「殺死姦夫」条の規定 内容と「殺死姦夫」条の裁判における適用実態が分析される。この時期の「殺死姦夫」条の立法面に関して、明代の崇禎朝に編纂された明 律の注釈書が、順治
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(1646
)年律に直接的な影響を与えた可能性が高い。そ の後、順治3
年律の小註が、雍正3
(1725
)年の改正により単独の条例となっ た。雍正3
年の条例には、殺死姦夫と関わる犯罪類型を細分化し、それぞれの 類型に対応する刑罰を設定するという傾向が見られる。このような注釈書から 条例化への過程において、律本文における「姦通者を殺したときは無罪となる」という中核的な原則は徐々に制限を受けていくこととなる。
姦通者を殺した夫が無罪となるという律本文の原則への制限が拡大してい ったのに対して、夫が姦婦のみを殺した場合については、逆に罪責を軽減する 傾向が現れた。従来、このような場合については、夫が姦通を口実として妻を 殺す虞れがあったため、無罪としたり減刑したりすることはなかったが、雍正
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(1727
)年に「擬抵」の規定が制定されたことにより、殺人の部分的な責任 が実際に殺人を行った夫から姦夫に転嫁・分担されることとなったため、夫を2
杖八十に処するという減刑の結果が生ずることとなった。
裁判面に関して言えば、清代前期の裁判史料に照らすと、清代前期の実際の 裁判においては、裁判官員は必ずしも忠実に「殺死姦夫」条の規定を引用して 裁判をしていたわけではなかった。すなわち、犯罪事実と関連する規定につい て、「殺死姦夫」条の規定を含めて複数の選択技が存するときには、加害者を 減刑することができるように、「殺死姦夫」条ではなく別のより軽い法定刑が ある規定を引用する傾向があった。このような手法が用いられた原因は、清代 前期には「殺死姦夫」に関して規定上の不備があったこと、またこうした規定 の中に罪と刑の不均衡という問題があったことによるものと推測される。
その
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つの顕著な例として、夫が殺した姦通者が尊長であった事案に関し て、清代前期の裁判官員の判断は常に不安定であったことが挙げられる。すな わち、「殺死姦夫」条に関する規定により姦通者を殺す行為は正義の行為とさ れているものと考えて加害者を無罪にしたり減刑したりするのか、それとも尊 卑の身分秩序を優先的に考えて尊長を殺した事案の中に存する重大な悪性を 重視し、加害者により重い刑罰を与えるのか、という内在的な緊張関係の中で 裁判官員の判断は揺れ動いていた。第
3
章「清代後期における『殺死姦夫』条の変化――条例の変遷を中心とし て――」においては、主に清代後期における「殺死姦夫」条例の変遷と裁判実 態との間の関連性を分析するとともに、同条の改正の動因を明らかにする。清代後期においては、清代前期における「殺死姦夫」事案の裁判の中で現れ た法規範の不備の穴を埋めるために、「殺死姦夫」に関する数多くの改正が行 われた。こうした「殺死姦夫」条例の改廃は、主に「姦所」、「登時」、「親族関 係」といった
3
つの要件を中心として展開された。その結果、殺死姦夫に関す る犯罪類型をできる限り細かく提示・分類した上で、整合的な罪刑体系が成立 しただけではなく、犯罪行為と刑罰との均衡も改めて調整された。本章では、主に加害者と被害者との身分関係により生じる諸問題を軸として、
清代後期における「殺死姦夫」条例の改正経緯が検討される。そこには大きく
2
つの傾向が観察される。第1
に、「殺死姦夫」条例が適用される主体と客体 が家族の成員に限定された。特に、姦通を捉えることが認められる者の範囲が 縮減されたことには、部外者が姦通者を殺すことを抑止する機能があった。第2
に、加害者と被害者との間に親族関係が存する場合について、具体的に与え られるべき刑罰ができる限り明文化された。加害者と被害者との間の親族関係 を明文化・細分化することを通じて、尊長たる姦通者を殺した加害者に対して、情状酌量により軽すぎる刑罰が与えられることが避けられるようになった。
このような清代後期の改正により、まず、犯罪行為と刑罰との間の不均衡と いう弊害が是正された。また、「殺死姦夫」に関する条文の適用要件が厳しく なり、特に、律本文における無罪の規定は、適用される範囲が清代前期よりも 大幅に縮減された。さらに、より明確な規定が設けられたために、同様の犯罪
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類型に対する下級審裁判の見解が区々になる可能性は減少し、上級審の刑部な どの官員は、下級審の区々な見解を繰り返し是正する労を免れることができる ようになった。
清代後期の改正過程において、立法者は姦通者を殺した行為が正義であるこ とを強調する色彩は薄く、むしろそれぞれの「殺死姦夫」事案にいかなる対応 をなすべきかを考慮して、「殺死姦夫」条によって無罪となる範囲を制限して いった。すなわち、「殺死姦夫」に関する清代後期の改正のあり方は、前の時 代と異なって、正当防衛的な側面を重視するのでもなければ、姦通者の殺害が 正義の行為であるという点を重視するのでもなかった。それぞれの「殺死姦夫」
条例の改正の起因を遡れば、この時期の立法者は「殺死姦夫」事案の個別的類 型に即して犯罪行為と刑罰との間の均衡点を求めていたことに辿り着くこと ができる。
第
4
章「清代末期・民国初期における『殺死姦夫』に関する変容」において は、主に清代末期から民国初期における法典近代化を中心として、「殺死姦夫」条に関する変化について考察する。
清代末期・中華民国初期における法典近代化の過程において、「殺死姦夫」
に関する規定は近代法典から削除された。それでは、「殺死姦夫」条が削除さ れた後、近代的刑法の規定の下で、「殺死姦夫」に関する事案はどのように裁 かれたのであろうか。大理院は、基本的に「暫行新刑律」における「正当防衛」
の規定によって「殺死姦夫」事案に対処するという手法を選択した。そこには、
姦通者を殺した行為は国家法により宥される行為として無罪になる可能性が なお残されていた。ただし、姦通者を殺した者に正当防衛が適用されるのは、
行為者が夫であり、かつ姦夫を殺害した場合に限定されたため、正当防衛に該 当する「殺死姦夫」の範囲は伝統中国法より狭くなることとなった。
民国
17
(1928
)年に最高法院の時期に入ると、「殺死姦夫」事案の処理方法 に大きな変化があった。同年に施行された「旧刑法」においては、普通殺人罪 の減刑類型として「当場義憤殺人」罪という新たな規定が設けられた。「当場 義憤殺人」とは、他人により行われた不義の行為が客観的に公憤を惹起するに 足るものであり、(加害者がその状況に)突然に遭遇して、憤激に耐えられず にその者を殺すことを指す。そして、夫が姦通者を殺した行為は、「義憤殺人」の一類型と捉えられることとなり、議論の場は「正当防衛」から「当場義憤殺 人」罪に移された。最終的に、司法院の「
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(1947
)年院字3406
号」解釈に よって、「殺死姦夫」は完全に「正当防衛」と切り離された。そのため、「殺死 姦夫」条の基礎にある姦通者を殺した夫は宥されるという伝統中国の考え方は、「当場義憤殺人」罪の下で
1
つの犯罪類型として残されたが、「当場義憤殺人」罪の法定刑は
7
年以下の有期徒刑であるため、姦通の現場で姦通者を殺した夫 を無罪とするという考え方は、遂に国家法から姿を消すこととなった。本論文においては、伝統中国における「殺死姦夫」条を対象として考察した
4
が、この「殺死姦夫」条の変遷過程においては、伝統中国の歴代王朝における それぞれ異なる法的な考え方が多様に作用してきた。その中で生まれた姦通者 を殺した者を宥すべきという考え方は、法典近代化の過程を経てもなお、執拗 に生まれ変わりながら現在の刑法典にも生きている。姦通者を殺した者はもは や完全には無罪とはならないものの、なお「当場義憤殺人」罪の
1
つの類型と して減刑されるという点からすれば、伝統中国の法は、一定程度現在の中華民 国刑法にもなお影響を及ぼし続けている。5
㊞
学位論文審査報告書
平成28年 7月11日
1 論文提出者
金沢大学大学院人間社会環境研究科 専 攻 人間社会環境学 氏 名 江 存孝
2 学位論文題目(外国語の場合は,和訳を付記すること。) 伝統中国法上の「殺死姦夫」条に関する考察
3 審査結果
判 定(いずれかに○印) 合 格 ・ 不合格
授与学位(いずれかに○印) 博士( 社会環境学・文学・法学・経済学・学術 )
4 学位論文審査委員
委員長 中村 正人 委 員 櫻井 利夫 委 員 西本 陽一 委 員 足立 英彦 委 員 丸本 由美子 委 員
(学位論文審査委員全員の審査により判定した。)
5 論文審査の結果の要旨
本論文は、夫が他人と姦通した妻妾(「姦婦」)およびその姦通相手の男性(「姦夫」)を姦通 現場において即座に殺害した場合、罪には問わないことを規定する「殺死姦夫」条と呼ばれる 条文について、その歴史的変遷過程や実際の裁判における運用の実態、および現行の台湾刑法 への影響等について考察したものである。以下に本論文の要旨を紹介した上で、「金沢大学大 学院人間社会環境研究科課程博士学位論文審査要項」に定める博士学位論文審査項目に基づく 評価を述べる。
【論文の要旨】
「序論」において筆者は、本論文において扱われる主なテーマは以下の3点であると述べて いる。すなわち、第1に「明律における『殺死姦夫』上の形成及びその性格の再検討」であり、
これについては、本論文の第1章において、明律における「殺死姦夫」条の淵源・成立過程・
法的性格といった点について考察するとしている。第2の点は「清代における『殺死姦夫』条 の内容及びその裁判における実態」についてであり、これについては第2章および第3章にお いて、清代における「殺死姦夫」条の変遷および同条の裁判上の適用実態、さらには裁判実務 と「殺死姦夫」条の改正との間の関連性について考察するとしている。そして最後の第3点は
「清代末期から中華民国初期における『殺死姦夫』条の変容」についてであり、この点に関し ては第4章において、清末民初時期に行われた法典近代化の過程において生じた「殺死姦夫」
条の変化と、そうした変化が民国初期における「殺死姦夫」事案の法運用にいかなる影響を及 ぼしたかについて考察するとしている。
以上のようなテーマ設定の下、まず第1章「明代における『殺死姦夫』条の成立に関する考 察」において、主に明代までの伝統中国法における「殺死姦夫」と関わる規定の成立経緯が論 じられている。それによると、漢民族の法である唐・宋律においては、未だ「殺死姦夫」条は 存在せず、「夜無故入人家」条において正当防衛的な行為の中の1態様として扱われていたに 過ぎなかった。ところが明律は、姦通の現場で姦夫・姦婦を殺したときは無罪となるという元 代の「殺死姦夫」に関する慣習法を踏襲し、「殺死姦夫」の専条を立てるに至った。ただ、明 代においては、問刑条例や明律の各種注釈書における条文解釈という形で、姦通者を殺した者 が容易に無罪とならないよう、「殺死姦夫」の様々なパターンを細部まで描写した上で、それ ぞれのパターンに対応する適当な刑罰を与えるような考え方が生じたとしている。
次いで第2章「清代前期における『殺死姦夫』条の規定とその裁判実態」においては、主に 清代前期(雍正朝まで)における「殺死姦夫」条の規定内容と裁判における同条の適用実態が 分析されている。すなわち、立法面に関して言えば、明代の崇禎期に編纂された明律の註釈書 が順治3年律の「殺死姦夫」条の規定に直接的な影響を与えた可能性が高く、またその内容は 次の雍正3年律では条例化されるに至った。一方裁判面に関して言えば、清代前期の裁判にお いては、裁判官員は必ずしも忠実に「殺死姦夫」条の規定を引用して裁判をしていたわけでは なく、「殺死姦夫」条を含む複数の選択肢の中から、加害者の刑がより軽くなる条文を選んで 援用する傾向が見られ、このような手法が用いられる原因の一つには、清代前期においては「殺 死姦夫」に関する規定に不備が存在していたこと、具体的には「殺死姦夫」に関する罪と刑と 間の均衡が必ずしも十分に取れていなかったという問題があったことによるのではないかと の推測を示している。
さらに第3章「清代後期における『殺死姦夫』条の変化──条例の変遷を中心として──」
では、主として清代後期(乾隆期以降)における「殺死姦夫」条例の変遷と裁判実態との間の 関連性を分析するとともに、同条の改正の原因について検討している。それによると、清代後 期においては、上述のような規定上の不備の穴を埋めるために、数多くの法改正が行われたが、
こうした「殺死姦夫」条例の改廃は、主に「姦所」「登時」「親族関係」といった3つの論点を 中心として展開され、その結果、殺死姦夫に関する犯罪類型をできる限り細かく提示・分類し た上で、整合的な罪刑体系が成立したのみならず、犯罪行為と刑罰との均衡も改めて調整され たことが明らかにされている。
本章では、特に加害者と被害者との身分関係により生じる諸問題を軸とした「殺死姦夫」条 例の改正経緯が議論の中心におかれているが、そこには大きく2つの傾向が見られると指摘し ている。第1に、姦通者を捕らえる主体が家族の成員に限定されたことにより、部外者による 姦通者の殺害行為が抑制される傾向にあったことである。第2に、加害者(夫等)と被害者(姦 通者)との間に親族関係が存在する場合について、与えられる刑罰をできる限り具体的に明文 化したことにより、尊長たる姦通者を殺した加害者に対して、情状酌量により軽すぎる刑罰が 与えられることを回避するようになった傾向が見られることである。
こうした清代後期の条例改正により、犯罪行為と刑罰との間の不均衡が是正され、律本文に おける無罪の規定は、適用される範囲が清代前期よりも大幅に縮減された。さらに、規定の明 確化が図られたために、同様の犯罪類型に対する下級審判決が区々になる可能性が減少し、上
級審たる刑部等の裁判官員は、それらを是正する労力から解放されるようになった。総じて言 えば、清代後期の法改正のあり方は、「殺死姦夫」条によって無罪となる範囲を制限し、「殺死 姦夫」事案の個々の類型に即して犯罪行為と刑罰との間の均衡点を求めることに意を用いた点 に特徴があると筆者は述べている。
そして本論部分の最後に当たる第4章「清代末期・民国初期における『殺死姦夫』に関する 変容」では、清代末期から民国初期における法典近代化に焦点を当て、「殺死姦夫」条に関す る変化について考察している。清末・民初における法典近代化の過程において、「殺死姦夫」
に関する規定が法典から削除された一方で、当時の終審裁判所たる大理院は、基本的に「暫行 新刑律」の「正当防衛」の規定によって「殺死姦夫」の事案に対処するという手法を選択した。
そこには、姦通者を殺す行為はなお国家法により宥される行為として無罪になる可能性が留保 されていたが、姦通者を殺した者に正当防衛が適用されるのは、行為者が夫であり、かつ姦夫 を殺害した場合に限定されることとなったため、「殺死姦夫」の許容される範囲は伝統中国法 より制限されることになった。
1928年に「旧刑法」が施行されると、「殺死姦夫」の事案は、普通殺人罪の減軽類型である
「当場義憤殺人」罪(法定刑は7年以下の有期徒刑)の1類型として捉えられるようになり、
「殺死姦夫」条の基礎にあった、「姦通者を殺した夫は宥される」という伝統自体は残りつつ も、姦通の現場で姦通者を殺した夫を無罪とするという考え方は、ついには国家法から姿を消 すことになったと指摘している。
以上の点を踏まえた上で、「結論」の章において筆者は、元代に登場し明代になって基本法 典たる律の中に取り入れられた「殺死姦夫」条は、解釈や条例の制定等を通じて無罪となる範 囲が次第に狭められて行き、民国期になってついには法典の中から姿を消すことになるが、現 代においてもなお「当場義憤殺人」罪の1類型として部分的に受け継がれており、このことか らすれば伝統中国の法は、一定程度現在の台湾刑法にもなお影響を及ぼし続けていると述べて 本論文を締めくくっている。
【論文の評価】
本論文は、明律・清律に存在する「殺死姦夫」条について、唐代以降の歴史的経過の検討を 通じて、同条文が設けられた歴史的背景を考察するとともに、明清時代を通じての変遷過程や 民国初期の刑法典への影響等を、各種法典や判例、その他の文献史料等を用いて通時的に考察 するという、法制史の研究として極めて妥当な主題(テーマ)設定を行っている(審査項目1)。
このテーマの下で取り組むべき論点については、「論文の要旨」の項で述べたように、各章に おいて展開されており、それぞれの章では関連する史料を網羅的に用いて論証が行われている
(審査項目2)。先行研究に関しても主要なものはすべて参照されており、それらの研究成果 を十分に咀嚼した上で自身の主張を展開している(審査項目3)。論証の基礎となる史料に関 しても、適切に出典を明示して引用されており、また漢文史料の翻訳についてもおおむね正確 であり、特に問題となる点は見られない。論文全体の構成も学術論文として妥当なものである と評価できる(審査項目4)。結論に至る論証の過程についても、実際の裁判事例を含む豊富 な史料を駆使しており、説得的かつ論証的であると言える(審査項目5)。本論文の学術的価 値に関して言えば、これまで「殺死姦夫」条に関して本論文ほど広範囲かつ詳細に論じた研究 は存在せず、また明律における「殺死姦夫」条とモンゴル慣習法との関連性や明代末期の注釈 書が順治3年律に直接的な影響を与えていたこと等の指摘は、従来の研究では見過ごされてき た点であり、これらの点で本論文は独創性があり、学界に益するところ大である(審査項目6)。
その一方で審査委員からは、他の地域との比較の視点に乏しいことや、本論文の学術的意義 がどこにあるかが必ずしも十分に明示されていない等の難点も指摘されたが、これらは本論文 の質が基本的に高いことから生じる望蜀の批評であり、本論文の価値を損なうものでは必ずし もない。以上のことから、審査委員会は審査員全員一致で、博士(法学)の学位を授与するに 相応しい論文であるとの判断に至った。