︾つ つつの世界(続)
長 船
省
吾
(四)
a,心肌身持説
道元は,先尼外道の心常身滅説を仏法の正理に背く邪見だとして否定する(「弁道話」,「即心是仏」)。これ は霊の存在を否定することである。
先尼外道の心三身滅説は人間の根本的な欲求から起る。人間は永遠に生きることを渇望する。しかるに,
人間の心身のなりゆきをみると,絶えず変化してやまない,その変化の大きなものは生死である(諸行無 常)。人間は永遠に生きたいという渇望をもって,諸行無常生死迅速のうちに住んでいる。この渇望の満足せ
られることは決してない(一切皆苦)。人間は生死をなげく。先尼外道の明解身学説はまさにこの入問の渇望 をみたすものである。
「生死をなげくことなかれ,生死を出離するにいとすみやかなるみちあり。いはゆる心性の常住なること わりをしるなり。そのむねたらく,この身体は,すでに生あればかならず滅にうつされゆくことのありと
も,この心性はあえて滅することなし。よく生滅にうつされぬ心性わが身にあることをしりぬれば,これを 本来の性とするがゆゑに,身はこれかりのすがたなり,死若生彼さだまりなし。心はこれ常住なり,去来現 在かはるべからず。かくのごとくしるを,生死をはなれたりとはいふなり。」(弁道話)
われわれの身体に心性が宿っていて,外界の触発により冷暖を自知し,痛痒を知る。このような霊妙な働 きをする点から,これを霊知という,また真野といい本性ともいう。人間が死する時,「たとひ身相はやぶ れぬれども霊知はやぶれずしていつるなり。たとへば人身の先考にやくるに,舎暗いでさるがごとし。」(即 心即仏)
ここに,心性,霊知,怪我といっているものは,現代の言葉では霊魂といってもよい。われわれの身体は 絶えず変化し,それと同じく心の作用もまた時間のうちに生起し消滅するけれども,その根本に霊魂があっ て,永遠に同一性を保っている。このことをはっきり知ることによって生死の苦を免かれることができる。
一これが先尼外道の心転身滅説である○
しかるに,根本仏教では,心といえぼ,時間的に生滅変化する心的作用のみであって,永遠:に同一性を保 つ霊魂一実体としての我一は存在しないという無我主義をとる。唯単に実体我としての霊魂を認めない ばかりではなく,他のいかなるものにも実体を認めない。これが諸法無我である。諸法無我は,諸行無常,
一切皆苦,浬繋寂静とともに四法印をなし,その第三句にあたる(li]lD。四法印は仏教の標準であり,少くと もこれと矛盾するものは仏教の正統説ではない。従って,諸法無我を否定する先尼外道の心常身滅説は,
「またく仏法にあらず。」ということになる。故に,道元は,「この見をならふて仏法とせむ,瓦礫をにぎ
(っ)て金宝とおもはんよりもなほおろかなり。痴迷のはつべき,たとふるにものなし。・・…・たS これ外道 の邪見な:りとしれ,み城こふるべからず。」(弁道話)という。
津山高専紀要(第2巻第1号)
しかし,衛藤即応氏によれば,鎌倉時代の臨済系の禅僧大覚禅師や聖一国師の説示は先尼外道の説といち じるしく類似しているそうである(註2)。
戦国時代,鹿児島の福昌寺の禅僧絶壁は,人が死すると身体とともに心も滅ぶという禅家の・教えに満足し ないで,ザビエルの霊魂不滅説に心をひかれ,弟子の僧とともにひそかに受洗することを希望したそうであ
る(註3)。
管見によれば,江戸時代の二階禅師の不生禅もまた先尼外道の説に近い。「身どもがわかきじぶん,はじ めて,此不生の正法をとき出したころは,みな人が得しらいで,身どもを外道か,切支たんのやうに思ひま
して,人がおそろしがって,一人もより付きませなんだ。」と盤珪はいう(註4)。
盤珪の不生の説法を聴聞した江戸のある儒者は次のように反問する。
「不生不滅の理,成程うけ玉はり得,御尤に存じます。然ども,此身堅固なる内には,自分より思ひもう けざる事を,耳には聞,目には物を見わけ,鼻には匂ひをかぎ,口には五味の味ひを覚へ,或は物をいひま するが,此体去て終りましては,後はいか程ものをいひかけても答ず,目には赤白の色を見わけず,もっと
も物の音をかぎしると申事もござらぬ。然るときは不生とも不滅とも申されまい。⊥註5)
「自分より思ひもうけざる事を,耳には聞,目には物を見わけ,鼻には匂ひをかぎ,口には五味の味ひを 覚へ,或は物をいふ」ということは,盤珪がいつも示す,不生の仏心の存在する証拠である。しかるに死ぬ ど このような働きは無くなるから,不生不滅の仏心が存在するとはいえまいといって儒者は反駁している のである。
答えて盤珪はいう。
「是は一段問の心が尤のやうに聞えますれども左様ではござらぬ。是に附て,いよいよ不生不滅の理が能 通じまする。其ゆへは,此体と凹まする物は,一たび地水火風を借りあつめて生じたる身でござるによって 生じたる物は,又滅しいでは叶はぬ道理でござるによって,終には此体は滅しまする。然れば心は不生なる ものでござるによって,体は土とも灰とも成ますれども,心は焼てもやけず,尤うつみてもくちる物でもご ざらぬ。只生じたる体を一心が家といたして住まするによって,其内は,ものを聞,香をかぎ知り,物いふ 事の自由なれども,かりあつめ生じたる此体が滅しますれば,一心の住家がなく成ますゆへに,見聞物いふ 事ならぬまでの事でござる。右下ごとくに,体を一度こしらへたる故に生滅がござる。一心は元よりの一心 でござるによって,不生不滅と説ききかせましたが,此理はよく立てござらぬか。
……釈迦の浬盤と申も,根(浬)は不生と存じまする。磐は不滅の心でござる。某何れもへなにを申ぞと なれば,我一心の不生成事を申て聞まする計でござる。」(註G)
体は地水火風の四大を借り集めてこしらえたものであって生滅するが,…心は不生不滅である。肝胆は,
四大を借り集めて体を作るのは何者であるかを明言していないけれども,それは一心であろう。一心は四大 一物質的存在の究極の要素一を集めて体を作り,その中に住む。体のうちにある問は,一心は知覚し物 をいうことができるが,身体が滅すればそうすることができなくなる。一心の知覚等の働きは身体なくして はできないが,しかし一心そのものは身体の生滅を超越して不生不滅である。
盤珪のいうところもまた,道元の極力排斥する心常身滅説である。
b.
道元が心常身滅説を否定する論拠は何か。
一2 一
長船省吾 うつつの世界
「佛言、但馬二衆法_合二成此身_。六時通法起。此法起時、不レ三二即興一一。此興野時、不レ言二我滅一。」
(海印三昧)
一人の人問としての身心は衆法の合成に過ぎない。衆法即ち四大五纏(地水火風と色呼野行識)がたまた ま合成されたものが一人の人間である,それ以外に「我」「霊魂」というような実体が人間に内在するのでは ない。「大」は物質的存在の究極的要素であり,その本質は「自体寛弘」,即ち「ひろがり」である。それに 対して「興野」は時間的に生起消滅する心の働きであり,道元のことばでいえば「念慮知覚」である(註7)。
衆法の合成によって生起した一人の人間が生きている問は,このひろがりを有するもの(身体)と「念慮 知覚」(心の働き)とは別々に存在するのではなく,身心は一体になって働き変化しつづ存在する。身体は変 化の「相」,心は常住の「性」として区別されるのではない。即ち「身心一如,性相不二」である(弁道話)。
この衆法の解体する時は,一人の人間全体の死滅である。衆法の解体する時,霊魂という実体が身体を抜け 出して永遠の存在を維持するのではない。
このような,身心関係に関する道元の説明は,デカルトに発する近世の哲学・心理学の所説に類似しでv・
る。
デカルトは,人間は,ひろがりを有するものとしての身体と,考えるものとしての精神とからなるとする。
ところで,デカルトが,「考えるもの」を考察して,「私は私が思惟するものであることを知ってみる」「・;2 S)
という場合に,私は「知るもの」res cogitansであると同時に「知られるもの」res cogitataである。精 神としての私は,思惟するものなのか,それとも思惟の志向する対象なのか。デカルトの用いる精神という 語は二重の概念的内容をもっている。ロックは上述のデカルトのいう精神の二義性を心理学の領域に持ち込 む。ロヅクによれば,我々の知識はすべて経験に基ずく。外的経験の対象である感覚的性質は,感官や神経 の媒介によって悟性の面前に現われ,悟性によって知覚される。内的経験の対象である心の作用は,反省IC よって悟性の面前に現われ知覚される。この二種の経験によって,我々の知識内容である観念が成立する。
結局,我々の知識は,感覚的性質と心の作用とが悟性の面前に現われ,悟性によって知覚されることによっ て成立する。
ところで,心の作用を悟性の面前に客体として現われさせる反省とは,心がそれ自身の作用とその作用の 仕方とに注意することである。デカルトが「私ぱ私が思惟するものであることを知ってみるJという場合 に,私の思惟すること,即ち私の心の作用を,いかなる仕方で私は知るのかが未だ明らかに示されていなか ったが,ロックに至って,それは「反省」によってであることが明らかになった。反省によって、心の作用 はわ2hれの心の目の前に客体として与えられて,われわれの考察の対象となる。
ところで,反省によって客体化される心の作用が,それ自身で独立して存在するとは考えられず,また心 の作用が物体に属するということも,あるいはそれが物体によっていかにして生起せしめられるかというこ とも理解することができないので,我々は心の作用を,精神と呼ぶ昂る他の実体の働きであると考える。し かし,この実体としての精神を反省によって握把することはできない。何故ならば,反省作用もまた精神か ら発するのであるから,精神自体を反省によって握回しようとしても,そのことは既に客体化せられた精神 を志向する反省作用の発出する源泉であるところの,主体としての精神を前提しているからである。内的経 験としての反省作用がそこから発出する源泉である精神それ自身は,内的経験の領域に属する心の作用とは 別の次元において存在する,即ち先験的なものである。
津山高専紀要(第2巻 第1号)
かようにして,ロックにおいては,入間の心は,経験の対象である心の作用と,先験的な実体である精神 とに二分せられたのである。
ロックに続くヒュームは,ロヅクのいう実体としての精神,即ち自我を否定する。「若し自我観念を起す 何らかの印象があるとすれぽ,この印象は,人間の全生涯を通じて変動なく,同じであり続けなければなら ない。何故ならば,自我はそのように存在すると仮定されるからである。」C「t 9)即ち,自我(自己自身)は,
単純で連続的な覚るものであると仮定せられる。しかるに「私は自己自身と呼ぶものに最も親しく入りこむ とき,常に何らかの特殊な知覚(註,意識内容)より以外のいかなる物をもみることはできない。知覚は次々 に継起し,久遠の流動と動ぎとのうちにある。心を組成するものは,継起する知覚だけであって,単純で常 に同一性を保つ「自我」というものはどこにも見出されない。」(註1。)
ヒュームは,心を組成するものは,継起して流動する意識内容だけであり,常に同一性を保つ「自我」,
即ち実体としての精神,霊魂は存在しないという。この点では道元と見解を同じくする。「いはむや,心は 身をはなれて常住なりと領解するをもて,生死をはなれたる仏智に回避すといふとも,この領解知覚の心 は,すなはちなお生滅して,またく常住ならず。これ,はかなきにあらずや。」(弁道話)
心が心自身を身体を離れて常住なものであると理解しても,その理解する心そのものが,絶えず変化生滅 して常住ではない。即ち,絶えず変化し流動する心以外に,常に同一性を保つ実体としての精神などという ものは存在しないと道元もいうのである。
デカルトのいう「ひろがりを有するもの」(四大)と,ヒュームのいう「心」(五悪)とが合成せられて一 体になり,絶えず変化し,やがて消滅するのが,道元のいう,一人の人間としての心身である。人間を組成
している諸法,即ちものと心とが解体すれば,人間も全体として消滅する。このような心身以外に,同一性 を保つ霊魂などというものは存在しない。故に,心常身滅説,霊魂不滅説は誤まりである。これが道元の断
案である。(註11)
c.
道元のいう「念慮知覚」,即ち,絶えず変化し流動する心の作用を,盤珪は「念」という語で表わす。
「不生なが仏心,仏心は不生にして霊明なものでござって,不生で一切がととのひまするわひの。其不生 でととのひまする不生の証拠は,皆の衆がこちらむひて,身どもがかふ云事を聞てござるうちに,うしろに て烏の声,雀のこゑ,それぞれの声をきかふと思ふ念を生ぜずに屠るに,烏のこゑ雀の声が通じわかれて間 違はずにきこゆるは,不生で聞くといふものでござるわひの。其如くにみな一切事が不生でととのひます
る。是が不生の証拠でござるわひの。」(註12)
「烏の声,雀のこゑ,それぞれの声をきかふと思ふ念」は,われわれが目覚めている時に現れる一・つの心 の作用である。ところで,わたしは自分の心の作用に反省の目を向け,その心の作用を心の目の前に据えて ながめることができる。即ち,わたしは自分の心の作用を客体化することができる。さて,ある心の作用へ 反省作用の視線が向かって行くためには,反省作用の目標となる心の作用が,何らかの意味で予め知られて いなければならない。知らないものに向かって行くことはできないから。心の作用が反省作用の対象として 客体化せられるに先立って,既に心の作用を知るという,この根原的な「知ること」は,心の作用から分離 し,心の作用を対象として志向する,独立した作用ではない。反省作用が心の作用に意志的に自由に向けれ るのとば違って,この根原的な「知ること」は,心の作用が働き始めると同時に,その心の作用を共に構成 一4一
長船 省吾 うつつの世界
する一一要素として心の作用に必然的に伴う。心の作用と根原的な「知ること」とは同じ一つの作用の二つの 相であるということができる。
かようにして,烏の声,雀の声を聞こうと思う念(心の作用)が現れていると,それは必ず根原的な「知 ること」によって知られる。ところが,今,雀の声,鳥の声が聞えるに先立って,それを聞こうと思う念が 現れていると知られていない。しかるに,雀の声,烏の声が現われると同時におのずから聞く作用が発出す る。どこから?聞く作用に先立って予め存在していた,聞こうと思う念が,今聞いている作用に変ったので はない。聞く作用が,雀の声の呼びかけに応じてそれに向かって発出すると,その聞く作用に必然的に伴
う,根原的な:「知ること」は,聞く作用が雀の声に向かって行くのと反対の方向に,この作用の発出する源 泉のあることをも知る。聞く作用の発出に先立っては,源泉の存在は知られない。心の作用(念)の発出に 即して源泉の存在が知られる。しかし,源泉は,心の作用を発出させるものとして,作用に先立って存在す る。われわれが源泉の存在を知る順序においては心の作用が,「より先なるもの」であるが,存在の順序に おいては,源泉が「より先なるもの」である。
心の作用とそれに伴う,根原的な「知ること」とは同じ一つの作用の二つの相であって,その間には知ら れる対象と知る主体との距離がない。これは知る主体が,知られる客体から自己を分離してそれに対して一 定の距離を取るという対象的認識に先立つ「知」である。この根原的な知に続いて,もし我々がそうしよう と患えば,今働きつつある心の作用に反省の視線を向け,それを客体化して心の目の前に据えてながめ,そ の特性を把握することができる。われわれは自分の意志により,自分の心の作用を客体化することができ る。これによってはじめて心の作用を対象として認識することがはじまる。
しかるに,源泉は,それに反省の視線を向け,それを客体化して知ることはできない。何故ならば,反省 作用の向かって行く客体の側に源泉は存在せず,反省作用を自己から発出させる主体が源泉であるから。し かし,前述の根原的な「知ること」が,心の作用の発出に伴って必然的に源泉から発出し、心の作用の発出 に即してその源泉を知る。このような源泉を盤珪は不生の仏心あるいは本心と呼ぶ。
「ただ本心ははじめよりねんをはなれたる物といふ事をよく御あきらめ候てぜんにつけてもあくにつけて もぶつほうにつけてもせけんにつけてもわが事につけても人のことにつけても万事につけておこるねんに少 もとんじゃくせずしておこりままやみままに被成候へばじねんに本心にかない申候ねんは見たりききたるゑ んにてかりにおこり候ゆへねんにじつは御ざなく候本心をしる物と嚇しられる本心と二つなき事をしんこう
頬被成候」(註13)
外物の触発によって心の作用(念)が霊(本心)から発出する場合に,心の作用にその一つの相として必 然的に伴う,根原的な「知ること」によって,心の作用およびその源泉である霊が知られる。しかし,この 場合に,「知るもの」と「知られるもの」との間には,対象的認識の場合のような主体一客体一距離は存在 せず,その意味で主客未分である。
道元は,前述の,対象的認識に先立つ根原的な状況のうちで,心の作用の存在だけを認めて,心の作用の 出発する源泉としての霊の存在を見落している。盤珪は,心の作用が現実に現われる場合に,心の作用と源 泉とは主客未分でありながらも,両者は発出させられるものと発出させるもの,根拠づけられるものと根拠 との関係にあり,従って源泉としての霊は,心の作用とは別の次元に存在すること(「ただ本心は初めより念を はなれたる物といふ事」),従って,源泉としての霊は,そうしょうと思えば自由に,心の作用を自己から突 一5一
津山高専紀要(第2巻 第1号)
き離して,それが変化し消滅するままに任せて,それを努観することのできごと,即ち,「おこる念に少し も貧者せずして起るまま止むままに」なし得ることを認める。
道元が心上身滅説の「心」を,ある瞬間に生起し持続し消滅する心(念慮知覚)であると解して,このよ うな心が,』心自身を常住であると考えても,そう考える心自身が変化消滅して常住ではないというならば,
盤珪ぱ,勿論それに同意するであろう。盤珪は「念は見たり聞きたる縁にてかりにおこり候故念にじつぱ 無御座候」というのだから。
盤珪が不生である,常住であるというのは,この念ではなくして,本心についてである。本心を知るもの は,外物の触発によって発出する心の作用に必然的に伴う,根原的な「知ること」である。ところで,われ われが,例えば熟睡している場合には,このような心の作用は存在せず,従って心の作用の発出に即して本 心の存在を知ることはできないが,しかし,先に考察したように,睡眠中も,本心は自育作用の源泉として 存在する。従って,本心は,客体化され得る心の作用(擬客体としての心の作用)の領域を越えて,その根 拠,源泉として存在するのである。それ故,盤珪は,道元の見解一根本仏教以来の伝統的な見方一を自 分の見解の一要素として包含しつつ,それを越えているのである。盤珪はいう,「身どもが二六年の時,は
じめて一切事は,不生でととのふといふ事をわきまへましたより此かた四十年来,仏心は不生にして霊明な ものが仏心に極ったといふ事の不生の証拠をもって,人に示して説事は,身どもが説出しました。」と(註1%
盤珪は自己の直接経験に基ずいて伝統の見解を越えたのである。
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註些些註註註外註旧註註古註註 宇井伯寿「仏教思想の基礎」80頁以下。衛藤即応「正法眼蔵序説」245頁
幸田成友「聖フランシスコ・ザビエー小伝1ユ77頁以下。
盤珪禅師語録55頁 同 書 60頁 同 書 61頁
増谷文雄「仏祖正伝の道」215頁 拙稿「言語主宰」(一)8頁
ヒューム「人生論」/02頁 同書103頁以下
秋山範二「道元の研究」80頁 盤珪禅師語録33頁
下話禅師自筆書簡 盤珪禅師語録35頁
(五)
a.
道元によれば,一・人の人聞は四大五羅一物質的存在の究極的要素と心の作用一から合成せられてい る。身体(四大)と心の作用は一体となって絶えず変化する(身心一如)。しかし,一如であるのは一人の 人問を合成している四大と三崎だけではない。われわれが,常識の立場においては,われわれの心を外に超 越して存在していると思っている世界もまた心と一体をなしている一こう道元は考える。
先ず,道元入宋の当時臨済宗の巨匠として,説妄説性を否定していた宋呆に関する道元の批判からはじめ
よう。
6一
長船 省吾 うつつの世界
「世心手性」の巻によれば,説心学性一一心性を明らかにすること一一は仏道の重要事項である(「回心説 性は仏道の大本なり,これより仏仏祖祖を現成せしむるなり」(彫心説性」)にもかかわらず,宋呆は「いま のともがら下心説性をこのみ,談玄談妙をこのむによりて得道おそし。ただまさに心性ふたつながらなげす てきたり,玄妙ともに忘じきたりて,二相不生のとき証契するなり。」という。宗呆のいうところは,いた ずらに削字言語によって心を説き性を説くことをやめて,即ち,心を客体化し概念によって把握しようとす るのをやめて,直接に心性そのものをみよ。その場合には,概念的把握においては二つの異なるもの(二 相)として区別せられるところの心の作用と心の本体とは,一・体のものとして自己を現わす。心の作用を離 れて心の本体は把握せられないという意昧であろう。
しかし,道元は,国書の説を,心の作用(相)と心の本体(性)とを区別し,両老に対して別個の存在を 認めるものと解して,これを否定する。道元は葺替の説を述べた一ヒの引用文に続げて「これによりて心はひ
とへに慮知念覚なりとしりて,慮知念覚も心なることを学せざるによりて,かくのごとくいふ。性は澄湛寂 静なるとのみ妄計して,仏性法性の有無をしらず,如是性をゆめにもいまだみざるによりて,しがのごとく 仏法を僻見せるな:り詔という。心は念!芭知覚,即ち感覚表象感情意志思1惟一の一員刀の心の作用である。こ のような心の作用(相)は時閥のうちで生起し持続し消滅する,、時問のうちに現象する//tこれに対して,木 体としての心(性)は,心の作用を超越して,それ臼体では時間のうちで変化することなく常注である。心 の作用が環境世界の対象の触発によって生起し,妄想煩悩の所縁となるのを嫌い,これを否定することによ り,澄湛寂静なる心性に到達しようというのが宋果の態度である一こう道元は解し,これは性相不二を根 本義とする仏教の正理に反する外道の見解だと亡、て否定するのである。 「心は疎賢し,性は活静なりと道取 するは,外道の見なり,性は澄湛にして,相は遷移すると道取するは,外道の見なり。.」(説珊珊性)
時明のうちに「遷移する」,即ち,生起し持続し消滅する心の作用を否定しようとする平岸に対して,道 元は,このような心の作用は心の正常な働きrであって,決して否定し得るものではないことを主張する。こ のことを明らかにするために,道元は達摩と慧可との問答を引く(iiE 1)。
「爾時、初岨謂二二祠.・臼,汝但外息二諸縁一、内心無喘、心如釧麟壁.、可二コ入v道。二身種種論心労 性、倶不二諮契一・。・一EI忽然替得。早世二初歩_日/ 弟子此回始期二諸縁_也。初午知二其巳悟.一t、更不二窮 詰…、只日、莫レ成二噺滅一否。二租日、無。初租日、子作磐生、二翌日、三野国里予言レ之不可及。初覗日 華乃從上層佛諸岨、所傳心艘、吟歩既得、善自護持。」(筆端悟性)
初祖が二黒に学道の方法として,「外諸縁をやめ,内心喘ぐことなく,心を絡壁の如くする」ことを教え たのに対して,二祖は種々に説心説寓した一心を明らかにつかもうと工夫した が,得るところがなか った。ある日不意に省得し,諸縁をやめることができたというのである。外諸縁をやめ,内心喘ぐことな:し といえば,外物の触発によって生起する種々の煩悩を否定.し切って,それらのものに悩まされることのない こと,即ち,一切の心の作用が断滅した状態に入ることを意味するようであるが,そうでないことは,達摩 が「断滅を成すことな:きや否や」とたずねていることで明らかである。これに答えて里居もまた「了了とし て常に知る」と,右の事を裏書きしているのである。外物の触発によって生起する心の作用を強いて否定し ようとしてもできるものではない。否定しようとする働き自身が心の作用であるから。唯,外物の触発によ って生起する煩悩にとらわれることなく,それが生起し消滅するままに任せておけばよいのである。例え ば、他人のことばを聞いて,自分の心に怒りが生起するのに気づき,心身をとらえようとする怒りから自分 一7一
沖t[li高専系己要 (第2巻 第1号)
を引き離して,怒りが自然に衰え消滅するのを心の目で静かに眺めていることができる。しかし,生起して いる怒りを強いて無くしてしまうことはできない。
われわれが目覚めてうつつの状態にある場合には,心の作用を断滅することは不可能であると主張する道 元の見解は正しいといわなければならない。
b. 一
しかしながら,前述のような心の作用は,心の全体ではなくしてその一部に過ぎないと道元はいう。「心 はひとへに慮知念覚なりとしりて,慮知念覚も心なることを回せざるによりて云々」 (説心説性)という丈 はこれを証するものである。それでは,道元はどんな意味において心は心の作用に限らないとするのか。
一人の人問においては,心の作用は身体と一・体になって働いている。例えば,知覚的空間に現れ滞留して いるものをわれわれが知るのは感官を用いる知覚によってである。目を開けばものは見えるが,閉じれば見 えない。音声をはつぎり聞くために,わたしはその方へ耳を傾ける。われわれがものを知覚する場合には,
感覚器官としての身体は知覚する主体と一体になって働き,知覚する心の作用の終点にあるように思われ る。他方において,われわれは自分の感覚器官により自分の身体を知覚することができる。身体は知覚され るものでもある。そうして知覚されるものぱ,この身体を原点として広がる空間のうちに現れ滞留する。身 体は知覚されるものの存在領域の起点であるように思われる。身体は心の作用の終点であると同時に,心の 作用の志向する対象の存在する外部世界の起点でもある。かようにして,心の作用と外部世界とは,身体を 境界としてはっきり二分されているように思われる。これが常識的な見方である。はたしてそうであろう
か。
ドリヴァルは,ルオーの作品「深き淵より」について次のように説明する(註2)。
「この作品においては,すべてが平和である。第一一に,青を基調とする色彩の調和が,その情景を超自然 的な雰囲気の中に設定する。さらに,とくに直角に交わる垂直線と水平線との作り出す壮大で静詮なリズム が,その平和をいっそう強調する。死の床に横たわる身体の,長い水平なアクセントとそれと平行でそれを 繰り返し,強調する窓枠の水平な桟とは,十字架の心棒とそれにつづく旧く子供の体によって形成される垂 直線と直角に交わって相応じ,窓の縦の桟と花瓶とが,この中心の大きな垂直線と韻をあわせている。そし てその中央の垂線が,前に述べた水平線とあまり激しくぶつかりすぎないよう,ルオーはその垂線を途中で 二分している。それによって荘厳さはひからびた硬さを伴うことはない。しかもその全体のいわば中三役と
して,巨匠は一・つの円周線を画面に導入する。だが,それが全体の構図を乱す力動感の要素とならぬよう,
ルオーはその曲線をやはりいくつかに分割する。すなわち,礼禧中の女性のヴェールと背中,十字架の影,
死者の頭等が,直角交叉の組みあわせを柔らげ,その厳しさを柔軟な優しさで補正するための断片的な弧線 を形成しているのである。このようにして,この作品全体より二三さの感情がわきあがる。」
一一枚の画はわれわれの身体から離れて空間のうちにある。しかし,この画を構成している弧線や直角に交 わる線を,それらの線の方向に従ってなぞるわれわれの心の働きは,われわれの身体の外にあるところの,
知覚されるものに達しており,この知覚される線をなぞって行く心の働きと目の動きも一体になっている。
さらにこの心身の働きと静譲さの感情とは一一iつになっている。画の色や線と心身の作用とは分ち難く一一 一i体に なり,この一・全体が静謙である。かようにして心は身体を越えていわゆる外界の対象とも一体になってい る。従って,身体を境界として心と外界とがはっきり二分されるという常識の考え方は誤まりであるといわ 一8一
長船省吾 うつつの世堺.
なけれぽならない。
「即心即仏」において道元は,「古徳云,作籔生計今回明心,山河大地,日月星辰,あきらかにしりぬ,
心とは山河大地なり,日月星辰なり。」という。 「身心学道」においても同じく「山河大地,日月星辰これ 心なり」といい,あるいは「隔壁瓦礫」を心とする。おれわれがものを認識する場合には,われわれはいわ ゆる外界のものを,それらを志向する心の作用から独立して存在するものとして,心に対立させるが,それ に先立つ原初的な状況においては,ものと心とは一全体になっていて切り離すことができない。この一全体 を道元は「一心」という語で表わす。故に,「いはゆる正伝しきたれる心といふは,一心一切法,一切法一 心なり。」(即心墨仏)という。
さて,すべてのものは心であるというと,すべてのものは心によって作り出され,心によって存在を与え られるという観念論あるいは唯心論だと誤解されるおそれがある。
しかし,道元はこのような見解をきっぱりと否定する。
「態蜜」中に僧伽難提と弟子伽耶舎多との問答がある。その要旨は,ある時鈴鐸が風に吹かれて鳴るのを 聞いて,師が弟子に向かい,風が鳴るのか,鈴が鳴るのかと問うと,弟子が,風が鳴るのでもなく,鈴が鳴
るのでもない,わが心が鳴るのだ。」と答えたというのである。
この問答について道元は次のようにいう。「この因縁を学道の標準とせるに,あやまるたぐひおほし。伽 耶舎多の道興する,風のなるにあらず鈴のなるにあらず心のなるなりといふは,能聞の任籔時の正当に念起 あ() ,この念起を心といふ,この心念もしなくば,いかでか鳴響を縁ぜん,この念によりて聞を成ずるによ
りて,聞の根本といひぬべきによりて,心のなるといふなり。これは邪解なり。」
「心が鳴る」という場合の「心」を,ある音が他の音から自己を区別して浮き出して来て,われわれに迫 って来る瞬間に,この音の呼びかけに応じて生起し,それに向かって行く知覚作用,即ち,時閥のうちで生 起し持続し消滅する心の作用,ここにいう「上歯の心」であるとし,このような甲声の心が無ければ音が鳴 るということは成立しない。この引起の心が音を生起させる根本原因であるという見解は邪解であると道元 はいうのである。
われわれが耳をふさげば音は聞えないが,耳の蔽いを取れば聞える。その音をその聞える通りにわれわれ は受け取る外はない。思う通りに音を小さくすることがでぎないばかりでなく,あまりに大きすぎる音はわ れわれの耳を聾する。知覚され得るものは,目覚めているわれわれの心のうちに現れ滞留するけれども,わ れわれの心によってその存在を与えられるのではない。逆に,知覚され得るものがわれわれの心の作用に存 在を与えるのでもない。知覚され得るものが,先ずわれわれに迫りわれわれを自己の跨に引き寄せようとす る。この対象の呼びかけに応じて,心の作用が対象に向かって行き,その傍にあって対象の与える通りにそ の諸相を受け取ることによって,心の作用は現実に働く作用になる。われわれが目覚めているのは,知覚し 得る状態にあることであり,その知覚し得る能力は,対象の呼びかけに応じることによって,現実に働く知 覚作用となるのである。対象は,既に可能態においてある心の作用を現実態においてある作用たらしめる条 件であるが,しかし心の作用そのものを作り出し,それに存在を与えるものではない。現実に音が聞えてい る場合には,音とそれを聞く作用とは一体になっていて切り離すことはできない。現実の音無くしては現実 に聞くことは無く,現実に聞くことなくしては現実の音はない。この場合には,心の作用とその関係する対 象の世界とは一一全体になっている。既に述べたように,このような一全体を道元は「一心」という語で表わ 一9一
津山高専紀要(第2巻 第1号)
す。これは私のいう「うつつの世界」に相当する。
c.
しかし,存在するものは,この「一心」即ち「うつつの世界」に尽きるであろうか。アリストテレスは,
現実的な知覚と現実的な知覚されるものとが一つの全体をなすというのは正しいが,可能的な知覚と可能的 な知覚されるものとの場合にはそうはいえないという。しばらくアリストテレスのいう所を聴いてみよう。
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「ところで知覚されるものの現に活動していることと知覚の現に活動していることとは同一のものである が,しかし,その両者の本来何であるかということは同じではない。その意味は,例えば現実の音とそれを 現実に聞くこととば同一であるというのである。何故ならば,聴覚を有するものが聞いていないことがある し,音を発し得るものが必ずしも常に音を発していないからである。しかし,聞き得るものが現実に聞いて おり,音を発し得るものが現実に音をたてている場合には,現実に聞くことと現実の音とは同時に生じるの である。だから,その一方を聞いていること,他方を音のしていることといってよいだろう。」(諮)
目覚めている場合には,われわれは音を聞き得る状態にある。われわれは聴覚を有っていても聞いていな い状態にある。しかし,この聞き得るものはそれ自身の力で,現実に聞いているものになることはできな い。音を発し得るもの,即ち聞かれ得るものが現実に音を立てて聴覚を触発することによって初めて,聞き 得るものは現実に聞くものになるのである。この場合に,現実に働いている聴覚と現実に活.動している音と は,同時に生じ一つの全体をなす。しかし,この・一一A全体は,一方からいえば聞き得るものの実現一現実に 聞いていること一であり,他方では音を発し得るものの実現一音のしていること一であるので,その
「本来何であるかということは同じでない」のである。
さて,現実に音が聞える場合には,聞き得るものも音を発し得るものもともに,可能態から現実態に推移 したのである。その場合に,前述したように,聞き得るもの,即ち,可能態においてある聴覚は,現実に活 動する「聞かれるもの」,即ち他者の働きかけによって,現実に聞くものになるのである。このような,聞く
ものの側:こおける,他者の働きかけによる,可能態から現実態への推移を,聞かれ得るもの(音を発し得る もの)の側にも適用して次のように考えるとする。一音を発し得るものが,音を発し得る状態(可能態)
にある場合に,そのものを現実に音を立てるものたらしめるためには,何ものかが先ず,「音を発し得るも の」に働きかけて,それを現実に音を発する状態にしなければならない。音を発し得るものは,現実に音を たてる以前には可能態において存在し,それが可能態から現実態に推移するためには,他者の働きかけを要 する一かく前述のスリストテレスの本文を解するとすれば,それは正しい解釈であろうか。
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一10一
長船省.吾 うつつの世界
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σvμβαiyεi・萎λλ 乙κεZレ。 とπλあCをλεγoレπερ〜τEbyλεγoμξシωレdvX hrrλEbg. (Deαni・mα,426a 15)
「知覚される物と知覚し得る力の実現(δ1 吻εごα)は,その本来何であるかということは相違してはいるが,
,ひとつの現.実態であるが故に,必然にこのような現実的な意味で言われるところの「聴くこと」と「音」
とが持.早したり消失したりするのは同時でなけれぼならない。してそれはまったく現実の味と現に味わうこ と,その他の知.覚と知覚される物についても等しくそうである。ところが可能的な意味で言われるものは必 ずしもそうではない〔一・方が無くても他方だけで在りうる〕。初期の自然学者たちはこの点を問違って主張
した。すなわち,その人.人は.見ることなしには白も黒も全く無いし,味うことなしには味は無いと思ったの である。蓋し,かかる主張はある意味では正しかったが,ある意味では.誤っていたのである。というのは
「知覚」と「知覚されるもの」という言葉に二通りの意味があって,それが可能態という意味と現実態とい う意味のどちらをも表わしているので,その人入が⊥述のことを一方の現実的な知.覚と現実的な知覚される 物との.場合で主張したのならそういうことになるが,他方の可能的な知覚と可能的な知覚される物との場合 で主張したのならそういうことにはならな:いからである。その人人はかかる意味の一・通りではない言葉につ いて単に一通りの意味で主張したのである。」轍4)
現実に知.覚されるものは現実の知覚作用に依存している。例えば現実の色は,それを現実に見るものなく しては存在しない。現実に働く知覚作用を離れては,知覚されるものは単に可能的に知覚されるものとして
(可能態において)存在するというように,この交は解釈されそうである。もしそうであるならば,知覚さ れるものと知覚するものとは,現実に一・全体をなし,この一一全体の相依相関的な二つの相としてのみ現実に 存在する。従って,知覚されるものは,知覚するものによって知覚せられていない場合には,単なる可能態
としての存在しか有しない,知覚せられるものも,知覚作用と同じく,独立的な,それ自身の存在を本質的 に有しない こうアリストテレスは言うのだろうか。もしそうであるならば,アリストテレスと道元とは
.見解を同じくするといわなければならない。
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〔また一般に,もし感覚されるもののみが存在するのだとすれば,生物〔霊魂を有する者〕が存在しない 場合には,感覚する能力が存在しないわけだから,なにも存在しないということになろう。ところで,この
涯封Ll高専糸己要 (写亨2巻 第1.号)
場合,感覚内容も感覚表象も存在しないという意見は,おそらく真であろう〔というのは,これらは感覚す る者の受動態だから〕,しかし,感覚をおこすところの基体が存在しないということは, 〔現に〕感覚はなく ても,不可能である。なぜなら,感覚は感覚それ自らについての感覚ではなく,感覚さるべき他のなにもの か〔感覚対象〕が感覚とは別に存在し,このものが必然的に感覚より先に存在しているからである。という のは,動かするものは動かされるものよりも自然において.はより先にあるからである。一たとえこの両者 が相互関係的に言われるにしても,事態には変りはない。」(言t5)
知覚作用は常に自己自身の知覚ではなくして,他者の知覚であり,他者を前提しているから,全知覚過程 を初めて活動させるところの始動者は,知覚するものと知覚されるものとのどちらであるかが問われなけれ ばならない。かく問う場合には,他者が「より先なるもの」でなければならないことが明らかになる。何故 ならば,より先なるものである「動かすもの」なくしては,いかなる運動も存在することができないのと同 じように,動かす他者が先立って存在することなくしては知覚は存在しないことが明らかになる。というの は,知覚は物の触発によって現実に知覚することを開始する,換言すれば,動かすものによって動かされる ことにより知覚は現実に活動するものになる。このことは,この最初に動かすもの〔始動者〕は,それが知 覚せられないうちは,確かに,知覚せられるものではないが,しかしそれにも拘らず,より先なるものとし て,活動させるものとして,換言すれば,知覚一般を初めて可能ならしめるものとして,それ自体で現実に 存在していることを意味する。対象が存在する,しかも知覚の対象となるより以前に存在するということ は,アリストテレスにとっては疑問の余地はない。従って可能的に知覚され得るものについて語る場合に は,感覚をおこすところの基体としての物自体が先ず可能態において存在し,他者の働きかけによって初め て現実に存在するものになるという意味に解すべきではなくして,物自体は,それが現実に知覚されない限
りは,知覚されるものとしては単なる可能態の状態にあるという意味に理解すべきである(註の。
前述のことを道元の引用した鈴鐸の例によって考えてみよう。
鈴の音は,現実に知覚されることによって現実の音として存在し,鈴は現に音を立てているものとして存 在する。それに先立って,まだ鈴が振動を始めない場合には,鈴は音を発し得るもの聞かれ得るものとして 存在する。即ち鈴は知覚の対象としては可能態において存在する。この場合に現実に存在するものは,音を 発し得ること(聞かれ得ること)がその属性として所属する鈴と,聞き得ることがその属性として所属する 霊とである。それぞれの属性は可能態として存在する。さて,現実に存在する鈴が振動し始めて聴覚を触発 すると,現実に存在する霊から,その属性として可能態において存在していた知覚作用が発出して現実に働 き始め,鈴の振動と一・体になることによって,現実に音が存在するようになる。かくして現実に聞くことと 現実の音とが,分離しがたき一体をなすところの,「うつつの世界」即ち「一・心」が成立する。
道元は,この「うつつの進界」の成立に先立って,音を発し得る基体としての「もの」と,聞く働きの源 泉としての霊とが現実に存在することを否定する。なるほど,知覚をおこす基体としての鈴と,知覚作用の 源泉としての霊とが存在することを知るのは,知覚される音とそれを聞く心の作用が一一s体をなしている「う つつの世界1に即してである。即ち,われわれが「知る」ことの順序においては,「うつつの世界」が,よ
り先なるものである。しかし,存在の順序においては,知覚をおこす基体としての「もの」と知覚作用の源 泉としての霊とが,より先なるものであり,この二つのものがうつつの世界の根拠として,それに先立って 既に存在しているのである○
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長船 省吾 うつつの世界
ただし,霊が「うつつの世界」に先立って存在するというと,誤解を招くおそれがある。霊と身体とが一 体をな:す存在,即ち人間が「うつつの世界」に先立って存在するという方がよい。
人間の霊は,自足的に存在するものではなく,外の世界に存在する物を取り入れて自己の生きることに参 与させることにより,完全な存在の状態に到達し得るものである。人間の生きることに参与せしめられた物 が身体である。人間は根原的には霊として存在し,また身体においても存在する。人間は霊であると同時 に,霊から発する自育作用によって,人間の生きることに参与させられた物(身体)でもある。人間は二つ であると同時に肉化せられた霊として単一のものである。
知覚作用は身体の知覚器官なくしては行われない。知覚においては心の作用と身体の機能とが一体になっ ている。ところで知覚作用は常に必ずしも現実に働いていない。例えば,睡眠中はすべての知覚作用が働く ことのできるものとして,即ち,可能態において存在する。目覚めている場合でも,それぞれの知覚に特有 の,知覚されるものが現に活動していない場合には,当の知覚作用もまた可能態において存在する。可能態 としての知覚作用は,霊と身体とが一一体をなす人間の現実的存在に所属する。
それ故,現実の知覚と現に知覚されるものとが一体をなす「うつつの世界」に先立って既に,人間が世界 のうちに現実に存在するといわなければならない。
註1 註2 註3
註5 註6
秋山範二「道元の研究」87頁以下 ベルナール・ドリヴァル「ルオー」128頁 アリストテレス「精神論」(高橋長太郎訳)150頁 同書152頁
アリストテレス「形而一k学」(出口訳)122頁
Heinrieh Cassirer, :Xristoteles Schrift ,, Von der Seele S. 81.
123456789101112131415
参考文献本山版正法軍営衛藤即応「正法眼1歳序説」
秋山範二「道元の研究」
増谷文雄「仏祖正伝の道」
唐木順三「無常」
鈴木大拙編校「盤珪禅師語録」
宇井伯寿「仏教思想の基礎」
.4Xristote]es. De .4Xnima (Oxfond Classical rl exts)
Aristoteles, Metaphysica (Oxfond Classical Texts)
Heinrich Cassirer, Aristotles, Schrilt Von der Seele 高橋長太郎訳「アリストテレス精神論」
出 隆訳「アリストテレス形而上学.」
三木 清訳「デカルト省察」
加藤卯一郎訳「ジョン・ロック人間悟性論」
大槻春彦訳「ディヴィド・ヒューム人性論」
津山高専紀要(第2巻第1号)
16 S. Strasser Seele und Beseeltes
17高階秀爾訳「ベルナール・ドリヴァル,ルオー」
(昭和43年9月10H受理)
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