(62)
渡部
津山藩における神伝流
戦火を交えることなく︑翌二年正月に撤兵した︒また慶応二年
(一
ェ六六︶五月から六月にかけて︑第二次長州征伐に出兵し︑
このたびも参戦することなくして七月末には撤兵を完了した︒ ⑪そしてその年=月には︑津山藩に大規模な一揆が起った︒
長州征伐の教訓として︑古典的武術から近代的兵術へ転換す
ることの必要が痛感せられて来た︒これまで槍術に専念してき
た植原生直が︑慶応三年三月一五日に願替えして︑大坂で海軍
修行することになり︑修行科一ケ年金三両を与えられ︑四月五
日に出発したのもその一例である︒なお銃郎は同年一〇月二五
日に修行料を二人扶持に引上げられた︒
しかしながら古典的武術が急に廃れたわけではない︒目録伝
授によって適せられた者が︑ 慶応二年一二月二一日に剣術六
名︑槍術三三あり︑同三年一二月二〇日に剣術内名︑柔術旧名
あった︒それにもかかわらず両年とも︑神伝流についてはそれ
が全くなかった︒
慶応三年五月五日に︑六郎左衛門から﹁合般︑御製造詣仕法
替御用二付︑急に出府被二 仰付一︑去月廿六日︑大坂表致二出
立一瓢旨︒﹂申越したと︑留守引請から藩へ届けた︒当時︑六郎
左衛門が大砲製造に多忙を極め︑神伝流の発展を顧みる余裕の
なかったことは︑その不振の原因には相違ない︒しかしそれが
すべての原因とは考えられない︒激動する時代の波は津山藩の ⑫明石屋渕にも押し寄せていたからであろう︒ ⑤国元日記︑江戸日記︑勤書帳︒西村橘五郎は安政二年に一八才で あり︑逆算すれば天保八年生まれである︒ ︵卜書帳︶⑥後藤家文書⑦津山市史第五巻第二章四⑧津山市小田中︑覧真麓氏蔵︒幸治郎は津山で六郎左衛門に学んだ が︑文久元年に急に出府を命ぜられたので︑江戸で目録伝授の賞を 与えられた︒翌二年︑津山に帰ってから六郎左衛門自筆の免状を与 えられた︒⑨ 後藤の﹁神伝流入門録﹂︵後藤家文書︶によれば︑門弟三二〇人余 のうち︑初段︑中段の免状を与えられた者もあるが︑その免状が見 当らないので︑後藤の肩書に﹁宗師﹂を用いたかどうか不明である︒⑩国元日記︒津山市史第五巻二二九頁﹁五月一四日に京都で﹂は本 文の如く訂正︒⑪ 津山市史第五巻第一章二︑三⑫ 国元日記︒国元ではおおむね一一月に︑学問︑武術に出精した者 やその世話に出精した者に賞詞や賞金が与えられた︒しかしどうい うわけか︑水練関係によって賞せられたことはまれである︒したが って︑慶応二年︑同三年に他の古典的武術は多数賞せられながら︑ 水練については賞せられていないことは︑必ずしも神伝流衰頽のし るしとは言えない︒明治元年︵一八六八︶一二月二五日には︑剣術︑ 槍術は依然として多数回せられ︑柔術︑弓術は僅少になり︑これま でなかった﹁摘下軍法﹂によって二〇数名が賞せられていることは︑ 時代の変化を感じさせる︒この日に植原六郎は﹁講釈引受井御家中 世話﹂によって渡せられたが︑水練の世話については坐せられてい ない︒
一69一
@@@@
江国国国 兀兀兀 記記記記日日日日
江戸日記
回書帳
勤書帳
(61)
津山高専紀要第13号(1975)
水馬之事
川越心得之事
量水軽車
水軍之伝
船上砲術之事
身糠之大事
右者︑今般中段免状相渡候標付︑業前之次第相録︑令二授與一
者也︒伍面罵レ件︒
翼龍豪弼
植原六郎左衛門
文久二年 菅原正方花押諺藩
壬戌八月
箆幸治郎殿
﹁日本水泳史料集成﹂には︑六郎左衛門から美作勝山藩の野
口甲羅に安政六年四月一二日付で皆伝免許を与えた史料が収め
られている︒これにより︑少くとも皆伝免許は野口と後藤の二
人に与えられたことになるが︑彼等は宗師と称することを許さ ⑨れたかどうかについての史料は見当らない︒
六郎左衛門は文久三年︵一八六三︶正月二二日に京都から津
山に帰着したが︑同月二五日には再び上京を命ぜられた︒その
往復中に都合して﹁藝薬用国外海岸地形﹂を見ておくようにと
いう命令が︑京都で老中小笠原図書頭から津山藩の京都留守居
へ出されていたものである︒同月二九日に馬桶辺へ出発した︒
同時に六郎は荏原村へ出発した︒
同年五月五日に老中板倉周防守から大坂の留守居中沢広江を
通して植原六郎左衛門に︑ ﹁大砲製造方御雇被二 仰付一︑御雇 中御扶持方十五人扶持被レ下候閥︑其段可レ三二申付唖候︒勤方委細之儀は︑御勘定奉行︑大坂町奉行可レ被レ談候︒﹂ という沙汰があった︒六郎左衛門はその後︑京都の旅宿に老中板倉を訪 ⑩い︑五月二三日には鋳物師への﹁引合﹂のため津山に帰着した︒荏原村において学問修行中であった六郎も呼び返されて二五日には帰着し︑六月二日には六郎左衛門に同道して大坂へ出発した︒その後の六郎左衛門は大砲鋳造に専念し︑しばしば大坂と津山を往復した︒翌元治元年三月二三日には﹁公辺大砲御製造御用とは乍レ申︑先日無レ三二而致二出坂田候段︑不都合之義有レ之︑畢寛︑上を不レ潭始末︑心得違不束之事二候︒﹂として差控を命ぜられたが︑翌日になって︑ ﹁差控日数可・三二 仰付一之処︑御用多一畳二杜︑被二 御免一候︒﹂ と申渡された︒彼は津山藩士でありながら︑一方幕府御雇として扶持を受けているという微妙な立場にあったのである︒ 彼は元治元年︵一八六四︶三月二八日︑大砲製造場を横山村内の姥ケ谷に設けたいという伺書と︑ ﹁是迄有来之水練小屋︑今般手普請二致度段︒﹂の伺書とを提出して藩庁の許可を得た︒これによっても︑当時の神伝流の責任者が彼であったことは明かである︒ 彼はまた同年八月一二日に︑ ﹁公辺大砲御製造﹂について松平大隅守へ﹁承百弊﹂があるとして出坂の伺書を出したが︑その日︑ ﹁九時御供揃︑ 御乗切固織水練爲二 御覧一 御出被レ遊︑七半時御帰際︒﹂ というように藩主の視察があったから︑彼は師役として藩主を明石屋渕に迎えた︒その後︑八月一九日に彼は大坂へ︑六郎は京都へと出発した︒
津山藩は元治元年一一月に第一次長州征伐の出兵をしたが︑
一70一
(60)
渡部
津山藩における神伝流
神伝流目録伝授よりさらに高度に進んだ者に︑神伝流免許
︵切紙免状︶が与えられた︒この免許によって略せられた者は︑
管見の及ぶところでは
嘉永五年一〇月一三日 金二〇〇疋
植原六郎
嘉永七年七月二五日 賞詞︵於江戸︶
島田兼治郎
同. 年閏七月二一日 賞詞
古谷爲治郎
文久元年七月二八日 金二〇〇疋
西村橘五郎
慶応元年=.一月二四日 銀三〇匁
柴山源六
⑤
にすぎない︒後藤勘九郎は目録伝授と同時に切紙免状を与えら ⑥れたが︑後者について賞せられた記録は見られない︒右のうち嘉永七年には賞詞のみが与えられて賞金がなかった
のは︑その前年の大干魑のために︑極力節約の行われた年であ
⑦
るからで︑特に粗略に扱われたものとは考えられない︒植原六郎左衛門から印可皆伝を後藤勘九郎に与えた後は︑宗
師の地位は彼にゆずり︑したがって免状を出す権限も彼に移る
ものかとも考えられるが︑事実はそうでないことが︑次のよう ⑧な免状が現存することによって立証される︒
三三 中段免状
神伝流水軍兵法︑年来御執心︑依而大暑出来一段慰事候︒尚
此上︑弥御出精可レ有レ之者也︒三三中段免状如レ件︒ 皇朝神事水軍宗師 翼翼豪弼 植原六郎左衝⁝㎜門文久二年 菅原正方
壬戌八月 覧幸治郎殿 附録
轍糊正艦三段九位之游方羽交伸諸手伸拷 伸二段伸三段伸葉 業櫓 業片手抜諸手三三手遅游大小輪束掛游武者游方武者業手足搦游方浮具之伝底鏡虚伝活 法 花押
回正印富
豪翼 弼龍
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津山高専紀要第13号(1975)
樫野壮之助
安政四年七月二三日︑ 金一〇〇疋
太田仙太郎︑山本雄之助︑飯島祐次郎
同日 銀一五匁
後藤勘九郎
安政五年七月二五日 金一〇〇疋
三原右門︑川口益水︑西村七五郎
同日 銀一五匁
柴山源六︑神西幣太
安政六年八月二三日 金一〇〇疋
入江縫殿︑正木章太郎︑川上恵太郎︑村山栄順︑植原槍九
郎︑大石織之進
同月二八日 金一〇〇疋
河内斧造
万延元年七月二八日 金一〇〇疋
渡辺精治郎︑堀江大助
文久元年七月二八日 金一〇〇疋
平野其治郎︑志水大九郎
同日 銀一五匁
晴山与一郎︑菅喜七郎
文久二年八月朔日 金一〇〇疋
竹内松次郎︑中川源之丞
同日 銀一五匁
斎藤辰治郎
元治元年八月一二日 金一〇〇疋
植原三郎︑本郷豊之進︑西村潤四郎︑野条威吉︑青木実之助
同日 銀一五匁
村瀬章造︑田中春也慶応元年一二﹇月二四日 金一〇〇疋 永井孫四郎︑飯塚鋳五郎同日 銀一五匁
鈴木次郎④
江戸において賞せられた藩士は次の如くである︒嘉永五年八月二一日 金一〇〇疋 川路英五郎︑松本常四郎嘉永七年八月朔日 賞詞 石川金治郎︑上田鎌治郎︑平野額之助︑大場幡太郎︑川路 正蔵︑渡辺雅之助︑大沢亀之助︑太田寛治郎︑池田駒蔵安政二年九月九日 金一〇〇疋 池谷遊亀之助︑大沢繁吉安政三年九月八日 金一〇〇疋 池谷廣治郎︑大沢徳次郎︑石川鐙四郎安政四年七月一八日 金一〇〇疋 昌谷麟之介同日 銀一五匁
佐藤富次郎安政六年八月二八日 金一〇〇疋 山田安太郎︑島田芳蔵文久元年八月一一日 金一〇〇疋 覧幸治郎同月一八日 金一〇〇疋山田錬之丞︑吉田善次郎
一72一
(58)
渡部
津山藩における神伝流
少将様︑九時御供揃二皮︑右同所薦
垂帰殿︒とあり︑その後︑同月一七日の条に 御出被レ遊︑暮六時前
村山左仲
其許義︑甲冑用前稽古
御中見被レ遊候机︷︑ 早旦ハ雄山相整︑ 出監心縣日読段︑ 煽御士且蝋色 田畑召
候︒猶此上︑実用専一二相心懸可レ申候︒
とあるような奨励が︑その他多数の者にそれぞれ与えられた︒
対外関係の緊迫に備えて︑甲冑を着ける演習を真剣に行い︑藩
主自らこれを督励したのである︒
砲術修行はもちろん野外で行われたが︑試業として藩主がこ
れに臨むことはなかった︒
砲術については弘化三年︵一八四六︶八月二八日に︑黒田刑
部が自得流砲術皆伝︑天野龍之丞が星山流砲術皆伝によってそ
れぞれ正利鍛刀一腰と銀二枚の賞を与えられた︒
安政二年に天野直入︵もと龍之丞︶は荻野流師役に雑ぜられ︑
ついで同三年には川崎権右衛門も同師役に任ぜられたが︑同六
年には川崎は病のために退いて小須賀兵庫が代った︒特に天野
直人は高島流調練の心得もあった︒
安政五年六月に︑津山藩領のある讃岐の小豆島海上におい
て︑砲術修行︵海上船打︶と船軍調練とが︑天野直人と植原六
郎左衛門の指導のもとに行わたれ︒これに加わるために︑四月
八日以後︑両人の門弟は各自︑ ﹁往来廿五日之逗留﹂で罷り越
したいという願書を提出して許可された︒かくて︑六月一六日
には藩士二九名が小豆島へ出発し︑壮大な海上合同訓練を行
い︑六月﹄一六日に小豆島を発って︑二八日に帰着した︒神伝流 は単なる水練ではなく︑船軍の根幹をなすものであり︑これは砲術と横の連繋を必要とするもので︑⊥ハ郎左衛門もすでに嘉永元年に︑荻野流砲術免許をうけており︑海上訓練に欠くことの ②できない存在であった︒ ﹁国元日記﹂の安政三年七月二三日の条に 神伝流水練︑植原六郎左衛門門人稽古︑爲二 御覧一︑九時御 供揃二而明石屋渕江︑被レ遊二 御出一︑七半時 御帰殿︒とあり︑また同五年七月二〇日の条にも︑右と全く同様の記事がある︒他の武術の奨励に比べて︑特にとりたてて言うほどではないが︑神伝流についてもそれ相当の奨励がなされていたことを知り得る︒ 武術の各流とも︑目録伝授を受けた者に︑藩から﹁御喜色思召候﹂という賞詞があり︑多くの場合はその上に金一〇〇匹または銀一五匁︵徒頭支配と勘定奉行支配の者に︶が与えられたが︑神伝流についても同様である︒ 津山において神伝流目録伝授によって賞せられた者はおおむ
③
ね次の如くである︒ 嘉永二年八月一八日 金一〇〇疋 古市哲之助︑大久保誠蔵︑戸田敬治郎︑植原六郎 同日 銀一五匁 富沢牧太郎 嘉永五年閏二月=二日 金一〇〇疋 飯島晃︑古谷爲治郎︑島田兼治郎 安政二年一〇月七日 金一〇〇疋 入江右膳︑宇多城之助︑宮田耕助同日・ 銀一五匁
一73一
(57)
(1975)
津山高専紀要 第13号
また彼が鳥取藩に召抱えられたのは︑後藤家の系図︵鳥取市の後藤
久子氏所蔵︑菅沼栄氏調査︶によれば︑万延元年七月一一日である︒
⑧左大夫は同右の墓碑に天保八年五月一四日没︑行年四五才とある
から︑寛政五年︵一七九三︶の生まれである︒一方︑秋坪の母の墓
碑は真庭郡勝山町の安養寺の篠崎家の墓地︵治郎丸憲三氏の教示に
よる︶にあり︑基義︵佐野右衛門︶の第三女として享和三年︵一八
〇三︶六月に生まれ︑文政三年に菊池士郎にとついだとある︒三三 の母は左大夫の妹であり︑したがって與四郎の叔母とする方が正し
い用字である︒
伯母︑叔母の用字については︑次のような例もある︒勤書面の後藤
徳太郎︵與四郎︶の項に
天保十二辛丑九月十八日︑叔母義︑祖父佐野右衛門︑御代官下代
相勤罷在候節︑妹尾市内妾二差遣置候処︑其後御徒格被二召出一
候訳を以︑今般妻二相直度申候間︑任意其場一申度段︑御越届︒
とあり︑妹尾市内の項にもこれを裏づける記事がある︒妹尾市内は
寛政二年︵一七九〇︶生まれで︑文政二年九月二八日には﹁妾男子
出生﹂とある︒この点から市内の妻︵当時は妾︶は秋月の母より年
長であることは明かである︒しかしその生年が明かでないから左大
夫の姉であるか妹であるかはわからない︒
なお妹尾市内の弟淳作︵もと尚太郎︶は文政元年に別家として召出
され︑徒として旧作六石三人扶持を与えられ︑同九年に妻︵山本與
八郎二女︶を離縁し︑同一〇年二月一一日に竹中佐野右衛門︵後藤
ど改姓前︶の女と結婚した︒このことは佐野右衛門が召出されたの
ちのことであるから︑彼の﹁勤書帳﹂にも記されているが︑この女 の生年も︑再婚でみったかどうかも不明である︒
⑨ 秋坪が稲垣武十郎︵木公︶に連れられて江戸へ出たとするのは誤
である︒稲垣は天保九年に江戸から津山に帰り︑同=二年六月一日
に町奉行となり︑同一四年一〇月一八日に死去するまで出府してい
ない︒⑩江戸日記嘉永四年六月五日の条に︑﹁箕作院三儀︑兼而願事候通︑伜
秋坪︑昨夜二女と婚姻爲二相整一単玉︑大目付請訓届之一︒﹂とあり︑
すでに養子縁組がきまり︑三三以来︑院甫の家に同居していた秋坪
は︑六月四日に結婚の祝言をあげたのである︒
⑬津山市吏第五巻第三章二 八 武術の奨励と神伝流
江戸時代には︑各藩とも武術の奨励に努めた︒幕末の津山藩
においても︑次のような諸流にそれぞれ師役︑世話または世話
代がおかれて︑文武稽古場で試業を行い︑藩主がこれに臨むご ①ともあった︒
りかた いまえ 今枝流︑新天流
水砲兵槍射馬慧剣 練術学術二三術術
理方一流︑帰真流︑進藤流︑
荒木当流︑起倒流︑発心流
高麗流
雪荷流︑
雲平流︑甲州流︑
荻野流︑神伝流 印西流︑心勝流︑越州流︑自得流︑ 大和流宝蔵院流西洋流高島流︑西洋流
藩主自ら出席した一例を挙げれば︑﹁国元日記﹂安政六年︵一
八五九︶三月二二日の条に次の如く記されている︒
於二文武稽古場一︑今枝流白木八郎左衛門門人弐人︑新天流佐
藤輔二郎門人四人︑進藤流尾上鐘左衛門門人十五人︑帰真弓
石垣清太夫門人十八人︑理方一流井汲唯一門人二十三人︑剣
術試業二付︑九時御供揃二而被レ云々
御出H︑七半時言 御帰殿︒
文武稽古場で行い得ないものには︑藩主が城下町の外まで出
向くこともあった︒
﹁国元日記﹂嘉永七年︵安政元年︶一一.月九日の条には
於二八出河原一︑新古年番之面く︑甲胃着用用前稽古有レ之︑
右二付︑三二御覧H
一74一
(56)
渡部
津山藩における神伝流
れ︑神伝流の印可皆伝の免状は︑万延元年︵一八六〇︶ 一〇月 ⑦エハ日付となっている︒
さて勘九郎が厄介になった篠崎八朔は︑幕末維新の洋学者箕
作秋坪の姉婿にあたり︑勘九郎と秋坪との関係にも言及してお
く必要がある︒
﹁国元日記﹂天保一三年八月二三日の条に︑與四郎から﹁伯
母︑短甲預所︑備中国阿賀郡此ロ部村塾在候︑教諭方菊池士郎北
江差遣置候処︑先達而士郎送致二死去︼︑伜矩次郎と申者︑此度学
問三二修行一︑江戸表江罷越候留守中︑伯母爲レ致三逗留一度段︒﹂
の伺書を出して許され︑同一五年三月二三日の条に︑同じく與
四郎から﹁菊池矩二郎と申者母︑伯母二当処︑矩二郎江戸表勤
学中︑逗留爲レ致罷在候処︑今般同入方江差戻馬段︒﹂を届けた
とある︒ む む ここに伯母と記されているのは︑むしろ叔母とあるのが正し ⑧い︒秋坪の父︑士郎︵文理︶が病没したのは天保八年で︑階前の
兄は早く没し︑姉は篠崎に嫁したので︑天保=二年に秋坪︵当
時は菊池矩次郎︶が学問修行のために江戸へ出るにあたって︑
母をその実家後藤家に托したのである︒秋坪の生年が文政八年 ⑨とすれば︑一八才の時である︒そして彼は天保一五年に二〇才
の時に江戸から帰って母を引取ったのである︒その後のことは
明かでないが︑再び出府するにあたって母を一入で上口部村に残
すことはせず︑前回の出府にあたって後藤与四郎に托したよう
に︑今回は姉の聾である篠崎八朔に托したのではあるまいか︒
秋坪は再び江戸へ出て箕作玩甫の塾に入ったが︑嘉永二年︵一
八四九︶四月︑大坂にある緒方洪庵の適々斎塾に入門し︑同三
年八月八日に玩甫の養子となり︑同四年四月一九日に江戸に帰 り︑同年六月四日に院甫の二女︵つね︶・と正式に婚姻を結んだ
⑩
のである︒秋坪の母が篠崎家に身を寄せていたことは︑嘉永三年以前であることが玩甫から面隠にあてた手紙にも明かである ⑪が︑その時期は秋扇の再出府の時までさかのぼると見るのが自然である︒ 勘九郎が秋坪と特に親しくしたという証はないが︑当国の母︵たみ︶は二年近くも後藤家にあって勘九郎と生活をともにした
のである︒津山に身の置きどころを失った勘九郎が︑篠崎家を
頼って行ったことは自然なことである︒
①勤書帳のうち﹁御役人﹂の部︒
② 奥村寛平は文政一〇年七月に﹁内山豊治向屋敷﹂を与えられ︑そ
の伜牧夫の代に大坂表勤務となって︑安政四年三月に引越し︑同年
六月に村田久五郎がそのあとへ屋敷替えになった︒その西隣屋敷は
津山市北町四〇番地である︒
③勤書帳の抜粋とみられる﹁新参御役︑秋﹂の部︒
④津山市西寺町の光厳寺に墓碑︵菅沼栄氏の教示による︶があり︑
佐野右衛門は天保六年三月二三日没︑行年七一才とある︒
⑤同右の墓碑に︑勘九郎は明治一七年一〇月工ハ日没︑行年五九才
とある︒
⑥﹁新参御役︑秋﹂の部の與四郎の項の欄外に︑﹁弟勘九郎勘当︑
勝山藩篠崎八朔引受﹂とあるのは︑年次の記入はないが︑おそらく
この時のことである︒勘当を免されてから帰宅するまでの日数もこ
れを裏書する︒
⑦津山市史第五巻第三章四︒同巻二二八頁の﹁弘化四年︵︸八四七ど
とあるのは﹁安政五年﹂と訂正︒
なお彼は安政六年五月七日付で︑甲州流兵学師役の川口萄完斎︵安
政三年一〇月二八日から文久元年一〇月三日まで三役︶から﹁甲州 ママ 流兵道中段之位﹂を与えられたが︑これには篠崎勘九郎とある︒︵後
藤家文書i菅沼氏寄托︑石名氏保管︶当時の彼は篠崎の厄介であ
るから︑篠崎姓を称したことが知られる︒
一75一
(55)
津山高:専紀要第13号(1975)
⑬ 国元日記
⑭ 勤書帳
⑮四書帳
⑯ 国元日記
七 後藤勘九郎
植原六郎左衛門が津山藩内の高弟をさしおいて︑神伝流の印
可皆伝を与えた後藤勘九郎について考察したい︒
勘九郎の祖父佐野右衛門は︑文政九年︵一八二六︶七月八日
に津山藩に召抱えられた︒その頃は竹中姓を名乗っていたが︑ ①同=年に後藤姓になった︒ ﹁図書帳﹂の﹁御代官下代竹中佐
野右衛門﹂の項に
文政九丙戌七月目日︑兼く実躰出精相勤候付︑御徒上被二日
出一︑御擬作五石三人扶持被レ下レ之︑御代官所詰被二仰付一︑
勤米三軍被レ下レ之候︒
同日︑御代官下代引買被二 仰付一︑且又暉麗当分是迄之通相
心得可レ申旨︑被二 仰付一候︒同十丁亥十月余三日︑奥村寛 ② 平西隣屋敷被レ下レ之候︒
同十一戊子六月朔日︑本姓後藤二御座国処︑故有レ之︑竹中
と相名乗居申野付︑此度後藤と相改申尊話︑願済︒
③
とあり︑また別の﹁罫書帳﹂の後藤佐野右衛門の項には﹁初姓竹中定治﹂と書添えてある︒
佐野右衛門は文政=二年に作目付普請方となり︑天保六年
(一
ェ三五︶二月に役を辞し︑三月にその子左大夫に番代りし ④た︒左大夫は同じく徒格であったが︑同八年に病死し︑その子
與四郎︵当時は徳太郎︑天保八年に佐野弥︑同一四年に佐野右 衛門︑弘化二年に與四郎と改名︶が跡式をついで次坊主となり︑勘定奉行支配に属した︒ 與四郎の弟勘九郎︵当時勝次郎︶は︑弘化三年︵一八四六︶に帰真流剣術目録により銀一五枚を賜わった︒彼は弘化四年四月二三日に ﹁当未︑廿二歳相成候処︑兼く行状不レ宜候二三︑親類共度く加二異見一候へ共︑相用不レ申︑心底之程難二見届一︒﹂という理由で︑勘当され︑領分から立去ることになった︒これ ⑤によれば︑彼は文政九年生まれである︒この勘当の理由は型通りのもので︑事の真相を知る由もない︒ 彼の勘当は︑嘉永二年︵一八四九︶九月二三日に免され︑同
⑥
月二六日夜に帰宅した︒安政四年七月二三日には︑水練目録伝授によって銀一五枚を賜わった︒その後︑彼の一身上にどのようなことがあったか不明であるが︑ ﹁国元日記﹂安政五年一〇月一四日の条に 後藤与四郎義︑兼而願済之通︑弟勘九郎︑当国勝山三浦志摩 守様御家中︑篠崎八朔と申者方江︑逗留罷越居候処︑其儘差 遣前段︑以二支配頭一相コ届之﹁︒とあり︑同じく同六年二月二五日の条に ママ 後藤与四郎義︑当国勝山三浦志摩守様御家中篠崎八十役回︑ 勘九回目申者︑実弟二弾唄︑今般︑剣術爲二宮行一︑夜前罷越 極付︑暫逗留爲レ致青鷺︑伺書野司出之一御感届︒とあり︑また同年五月=二日の条には︑勘九郎が今朝出立して重立ったと與四郎から属出たことが記されている︒ 以上の点からみると︑勘九郎が二度目に津山を去ったのは︑勘当によるものではなく︑藩の許可を得て篠崎の厄介となっていたことが明かである︒勘九郎はその後︑鳥取藩に召﹂抱えら
一76一
(54)
渡 部
津山藩における神伝流
年に参勤の供をして出府し︑万延二年︵文久元年︶正月に帰国
したが︑その時﹁道中筋不レ軽心得違之所業﹂があったとして ⑩番代りを仰付けられた︒ ⑭ 爲治郎は天保二年生まれで︑嘉永五年閏二月に神伝流水練目
録伝授︑同六年九月に起倒流柔術目録伝授により︑それぞれ金
一〇〇匹を与えられた︒同七年閏七月に神伝流水練免許によっ
て賞詞を与えられた︒当時は六郎左衛門が在府中であったた
め︑同じく在府中の兼治郎の賞詞に比べて一ケ月ほど後れてい
るが︑この相並ぶ高弟は同時に免許を得たものと解せられる︒
その頃は植原六郎も在府中であり︑津山における神伝流は爲治
郎が中心になっていたものと思われる︒
暦治郎は嘉永七年︵安政元年︶に川ロ小弥太の女と結婚した
が︑翌年離縁し︑万延二年︵一八六一︶二月に飯塚一介の妹と
⑫
結婚した︒安政七年︵万延元年︶正刀に︑六郎左衛門二男槍九郎を伊達
家の養子とする手続をしたのは︑爲治郎の父七郎左衛門であっ ⑬
た︒ 爲治郎は万延元年一一月二八日に﹁文武の芸不出精之趣︑尤
病身之趣二は候得共︑兼而心得も可レ有レ之処︑如何之事二候︒
以来︑無二心得違一出席可レ致候段︑三二御察度一︒﹂ということが ⑭あり︑父の七郎左衛門は差控となり︑翌二九日に許された︒
これを単なる怠慢と見るか︑それともその前月に後藤勘九郎に
神伝流の印可皆伝が与えられたことに対する爲治郎の不満の結
果と見るか︑断定を許さない︒一つの問題提起として記してお
くQ 七郎左衛門は文久二年=一月一=日に死去し︑爲治郎は同三 年二月一五日に家督をついで格式大番組となった︒同年三月コ四日に︑前中将︵霊堂︶︑若殿︵康倫︶その他が江戸から津山
へ移るについて︑道中供を命ぜられ︑一五日に江戸表へ出発し ⑮た︒遇然にも質量らは同じ日に江戸を出発していた︒したがっ
て彼は途中から供に加わったことになる︒
植原六郎はさきにも記したように同年八月七日に︑格式小従
人組︑二半四人扶持となったが︑六郎左衛門の留守引受として ⑯右の申渡を受けたのは爲治郎であった︒植原︑古谷両家の間に
は親しい関係が続いていたのである︒
①国元日記︑元治武鑑②江戸日記
③勤書帳︒なお安政四年七月二二日付で︑全国各地二五藩の神伝流
門人総代の連名で︑津山藩の川路英五郎ら五三︵いずれも神伝流の
⊥ハ郎左衛門の門人︶にあてて︑六郎左衛門の出府方を歎願した︒︵日
本水泳史料集成の所収文書︶彼が同年一〇月に出府したことが︑こ
のことと関係があるかどうかは明かでないが︑江戸における彼の声
望が高かったことを物語るものである︒
④江戸日記⑤国元日記
⑥受書帳
⑦勤手帳︑国元日記⑧国元日記
⑨ 弘化四年に番代りした時︑一六才とあることから逆算した︒ ︵勤
書帳︶
⑩勤蝿帳
⑪ 爲治郎は弘化四年に嫡子に定められた時一七才︑嘉永五年に初登
城した時ニニ才であることから逆算した︒古谷源太郎︵天保八年に
七郎左衛門と改名︶の妻が︑天保二年一一月二四日に男子を出産し
たのがこれにあたる︒ ︵国元日記︑勤書帳︶⑫勤書帳 −
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(53)
津山高専紀要 第13号 (1975)
罷早早段︒﹂と届けた︒これで六郎の備中における学問修行には
終止符が打たれ︑八月七日に﹁学問修行多年卑近︑致二習熟一撃
段達二御町一︒﹂召出されて格式小従入組︑御擬作四人扶持とな
り︑その後はしばしば大坂︑京都へ出張して活躍した︒元治元
年︵一八六四︶七月四日に長男が生まれた︒翌元治二年︵慶応
元年︶二月一五日に﹁御内御用目付︑上京被二 仰付一日置早く
可レ致二出立一廓︒﹂という藩命を受けて︑二〇日には京都へ出発
した︒時に第一次長州征伐は終結したとはいえ︑擁夷問題と長
州藩処置をめぐって朝幕間の政局は緊張の度を加えつつあり︑
六郎は藩主の特命を帯びて隠微の間に対処することとなったも
のと思われる︒その仕事の手初めは前藩主確堂の参内奉勅の問
題で︑六郎は三月七日遅早追いで京都を発ち︑播州佐用の旅宿
に立寄って東上中の確堂に京都留守居奥村牧夫よりの御用状を
伝えた︒供の大目付海老原直人︑大村斐夫はこれを受けて津山
へ急報し︑津山からは大目付国保伝八が佐用へ急行した︒一〇
日に津山に着いた六郎は︑翌日再び京都へ向うというあわただ
しさであった︒
六郎左衛門の三男銃郎は同年二月一五日︑槍術修行のため三
ケ年の予定で出府した︒
慶応元年︵一八六五︶七月に六郎左衛門の妻が重い病にかかっ
たので︑六郎左衛門は一二日に︑六郎は一四日に大坂から帰着
して看病にあたった︒六郎左衛門は長らく津山に留ることがで
きず︑二二日に大坂へ出発したが︑六郎は看病を続け︑八月三
日夜︑江戸で修業中の銃郎が帰着したので︑四日から出勤し︑
七旧には京都へ躍った︒六郎は一〇月一〇日朝︑京都から急用
で津山に着いたが︑一二日にはまた京都へ出発した︒慶応二年 になると第二次長州征伐のために︑六郎は大坂表の老中と広島表の征長絡督と律山藩との連絡ならびに接渉のため︑.七ばし憾三宝間を往復七︑ほとんど津山に留ることはで寒ず︑したがって水練の指導に携わる余裕は全くなかった︒その間に六郎左衛門の妻には銃郎がつき添うて︑美作真島郡の真赤温泉へ療養のため九月八日目出発し︑ 一二月二五日に帰った︒帰着の届出にあたり︑銃隊のことが届落ちとなったために六郎は責任上︑差 ⑧控の伺を出したがその義に及ばずということですんだ︒ 六郎左衛門の神伝流の高弟としては︑六郎についで島田兼治郎︵兼次郎とも記す︶と古谷爲治郎︵権次郎とも記す︶とがあ
った︒ ⑨ 兼治郎は天保三年︵一八三二︶生まれで︑嘉永五年閏二月に神
伝流水練目録伝授︑同六年九月に進藤流剣術目録伝授により︑
それぞれ金一〇〇疋を与えられた︒同六年八月に江戸詰めとし
て一〇月中に出府することを命ぜられ︑一一月四日に詰中は川
路庫蔵方に同居の許可を得た︒同七年︵安政元年︶七月二五日
に神伝流水練免許による賞詞を賜わり︑同年一一月一二日に来
春まで詰越しを命ぜられ︑安政二年正月一六コ口は﹁水練格別
致二出精一︑同門之世話行属候趣﹂により賞詞を賜わり︑同年二
月二一日には﹁御国表組可レ被レ成二御返一処︑植原六郎左衛門申
立之趣も有レ之言付︑今節被レ成二御留一候︒トとして江戸に留っ
た︒そして幕府老中らの見分終了を待って︑同年九月二二日に
江戸を発ち︑一〇月七日半帰着した︒彼にはすでに嘉永四年二
月二三日︑三木角之進の妹との婚約の許可があったが︑︑安政三
年三月二二日に﹁昨夜引受婚姻相整候︒﹂と届けた︒その後︑
蔵目付仮役︑家中素読世話方手伝︑小姓組近習を勤めた︒同六
一
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渡部
津山藩における神伝流
その看病のため︑特に五〇日の暇を願って一〇月二〇日に津山
を発ち︑翌五年二月一二日に津山に帰った︒やがて六郎も同五
年一二月に学問修業を終えて帰翻した︒その後︑文久元年︵一
八六一︶には六郎左衛門の二男伊達槍九郎が江戸詰として︑三
月二六日に着辛し︑やはり水練世話にあたった︒彼は同年一一
月一一日に︑来夏藩主帰国の供として道中本陣番を命ぜられた
が︑翌二年三月五日置︑秋まで詰越して水練世話をすることを
命ぜられた︒しかるに彼は﹁疫症﹂にかかり︑六月一九日に死 ③去した︒
文久二年閏八月参勤交代制が緩和され︑同三年三月に前藩主
確堂らが江戸を発ったのをはじめ︑江戸詰藩士も多数が津山に
帰った︒したがってその夏は水練もほとんど行われなくなり︑
同四年︵元治元年︶正月一六日には大沢亀之助が柔術世話によ
って金二〇〇疋を与えられたが︑水練関係によって要せられた
者はいなかった︒翌元治二年目慶応元年︶二月=二日に回せら
れた者も︑学問︑剣術︑柔術による数名にすぎない︒
幕府は元治元年︵一八六四︶九月一日に参勤交代制を再びも
とにもどし︑津山前藩主楽堂にも早々出府することを要請した
ので︑確堂は翌慶応元年︵一八⊥屠獣︶四月七日に出府した︒それ
とともに︑江戸詰藩士の数も増加したが︑同二年正月一六日︑
同三年正月一八旧に醸せられたのは︑学問︑剣術︑槍術による ④者のみで︑水練関係は一名もなかった︒
六郎左衛門は武術ばかりではなく︑学問をも重んじる人であ
った︒ 彼の生家広川家をついでいた満作が︑天保一四年︵一八四三︶
に死去したので︑その末期養子として弘化三年三月三日に︑碩 学の大村斐夫︵桐陽︶の弟千賀蔵を迎えて跡式相続させること ⑤を願出たのも彼であった︒ 彼は義甥にあたる六郎の学問については特に意を用いた︒六郎は嘉永六年二月一三日に大村斐夫宅における助教を藩から命ぜられ︑同年一﹈月二三日にはその出精に対して金一〇〇疋を賜わった︒同七年二月一四日には学問修業のために三年聞の予定で江戸へ出発し︑三月一四日にはその修行料として年に金三両を給せられることが決った︒はじめ昌谷五郎︵出撃︶についたが︑安政三年九月一八日に昌平坂の安積祐助︵艮齋︶方へ寄宿した︒同四年一月一八日にはさらに修行の三年延期の許可を ⑥得たが︑同五年一二月八日に江戸を出発して津山に帰った︒ 六郎は同六年二月に六郎左衛門の嫡女と結婚した︒同年一二月には素読世話につき米四俵半︑その他出精につき金二〇〇疋︑万延元年閏五月にも学問上達により金一〇〇疋を賜わっ えはらた︒同年二月=二日には備中後月郡荏原村昌谷希八郎について学問修行することを願出て︑八月八日に許され︑修行料として年に金三両を与えられることになり︑九月二日に出発した︒また同年=月には素読世話について懸案俵半を賜わった︒文久元年︵一八六一︶八月目さらに一ヶ年の修行の願が許可されて修行料として年に金三両を︑さらに同二年閏八月にも今一年の修行が許されて︑学問に志が厚いとして修行料も金五両を与えられた︒その間︑八月と一二月には津山に帰り︑盆と正月をも
⑦
忘れなかった︒ 六郎左衛門が文久三年五月に幕命をうけて大砲製造にあたることになったが︑六郎は同月二五日に津山に帰り︑ ﹁備中表江学問爲二修行一三越居候処︑無レ拠用事有レ之候付︑少く逗留二而
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(51)
津山高専紀要第13号(1975)
﹁定式四通︑半減忌中十日引算﹂を届けて︑忌に服し︑四月七
日に松山へ出発した︒五月六日には風邪を理由に逗留延期願を
出し︑五月九日夜帰宅した︒
彼の松山行きはこれが最後である︒師弟の間で︑神伝流の秘
事ロ伝も十分納得がゆくまでなされたのであろう︒
備中松山︵高梁市︶の板倉周防守家中雨森雄司その他水練門
人から︑水軍修業をするについて︑船取扱方の指導を依頼して
来た︒ 六郎左衛門は安政四年正月二五日に︑松山へ往来三〇日の暇
を願出て許可された︒彼は門弟の島田兼治郎︑宮田耕助︑飯島
極之進を同伴して︑二月七日に出発した︒門弟三入は三月四日
夜に帰ったが︑彼は風邪を理由に逗留願を出し︑三月一六日に
帰着した︒さらに彼は四月二八日にも備中松山へ往来四〇日の
暇を申請した︒五月一四日に二男槍九郎を同伴して出発し︑閏
五月二三日に延期願をして︑六月九日目帰った︒
六郎左衛門の神伝流の門人は諸国に数多くあり︑彼の家に寄
宿して修行する者︑例えば安政三年七月に美作勝山の三浦志摩
守家中野ロ越州︑伊予今治の松平駿河守家中池内三四郎︑同六
年四月に伊勢亀山の石川主殿頭家中黒田貫一郎の如きがあっ ①
た︒
その頃の水練場はひき続き明石屋渕に設けられていた︒ ﹁国元日記﹂万延元年︵一八六〇︶一一月一二日の条に
安岡町鳶土手水練場小屋之中板之上二︑麦藁を敷︑非人躰之
女之子行倒相果罷在候旨︑届出鎧付︑爲二見分一目付組差出候
処︑無二別条一段目大目付江相判届七一︒
とあり︑当時の水練小屋は夏分だけの仮小屋ではなく︑半永久 的施設になっていたことがわかる︒
ひるがえって︑江戸における水練の状況はどうであった か︒ 植原六郎は嘉永五年︵一八五二︶に水練免許を得ていたが︑同七年︵安政元年︶二月一四日に津山を発ち︑学問修行のために出府した︒その後の数年聞は︑彼が江戸における水練指導の中心であった︒その頃の江戸詰藩士に対しては︑毎年正月︵まれに二月︶に学問及び武術などの世話に出精した者に金銀を与え︑その他出精の度によって賞詞を与えた︒︵﹁御喜色思召﹂とコ段之儀思召﹂との別あり︒︶年次別に水練関係を記せば次の如くで︑それぞれその前年の業績評価を表わすものである︒
安政二年 植原六郎に金一〇〇疋︑賞詞九名︒
同 三年 同人をはじめ賞詞一八名︒
同 四年 同人に金二〇〇疋︑賞詞一八名︒
同五年同人に金二〇〇疋︑賞詞七名︒
同 六年 同人に金二〇〇疋︒
同七年大沢繁吉︑富田耕助︑渡辺雅之助︑池谷遊亀之
助︑大沢亀之助に各金一〇〇疋︑池田駒蔵に銀一
五枚︒
万延二年 大沢繁吉︑渡辺雅之助︑静谷駒蔵︑大沢亀之助に
各金一〇〇疋︒
文久二年 伊達槍九郎︑大沢亀之助に各金一五〇疋︑上田孤
六︑渡辺雅之助︑松本常四郎︑平野額之助に各金
一〇〇疋︑賞詞男名︒ ②
同三年大沢亀之助に金一〇〇疋︑賞詞四名︒
その間︑六郎は安政四年一〇月に大病となり︑六郎左衛門が
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渡部
津山藩における神伝流
の覧旧記と大坂の坂井善左衛門に三日宛︑逗留したいとして定
法の外一二日の日延を九月二一日に申請して許可された︒覧と
坂井は津山藩の留守居役であるが︑瀧⁝田と上田は他藩士で︑彼
の門人の分布の広さを示している︒
一〇月一日︑彼は来る六日に国表へ出発すると届けた︒その
翌二日︑彼はいわゆる安政大地震に遭遇したので︑五日に出発
延期を属けた︒
地震が起ってから藩の御用日は毎日となっていたが︑二一日
からは隔日となった︒出立を見合わせて︑屋敷の片付けや夜中
の火の廻りに当っていた彼は︑二九日に帰国の内意書を差出し
たところ勝手次第ということになった︒かねて木曽路通行を願
っていたが︑地震後は木曽路の様子がくわしくわからないの
で︑東海道を帰り︑京都の算と大坂の坂井方へ立寄り︑三日宛
逗留することとし︑定法の外六日の日延を願出て︑一一月二日 ⑪に許可を得た︒
彼は一一月四日に︑明日出立するについて︑門人大場鶴太郎
が見送るのに早朝で遠方のところ間に合わないから︑自宅に一 ⑫宿させる許可を得た︒
彼はその日に︑学問修行のため出府中の六郎を松本八左衛門
方へ同居させる許可も得た︒
かくて江戸における用務を完全に果した彼は︑ 一τ月五日に
江戸を出発し︑京都と大坂の逗留をそれぞれ二日ですませ︑二 ⑬四日夜︑津山に帰った︒
翌安政三年正月二三日︑彼は地震に骨折った慰労として酒を
⑭
賜わった︒①勤書帳
② 江戸日記︵津山藩の江戸屋敷の日記︑津山郷土館蔵︶③勤書帳
④ 津山市三三五巻第三章四⑤江戸日記⑥国元日記⑦江戸日記⑧拷伸︵たくりのび︶のことか︒これは急流を渡る泳法である︒⑨ 江戸日記︒津山市三三五巻二二六頁の﹁道四郎﹂は﹁常四郎﹂︑ ﹁筏上り﹂は﹁筏廻り﹂と訂正︒⑩六郎の年齢から逆算すれば︑天保元年生まれである︒幼名は保太 郎︒天保一四年三月二九日に六郎左衛門の﹁並役介﹂と認められ た︒弘化二年正月二八日に柔術出精による賞詞を賜わった時には︑ ﹁二六郎﹂と記されている︒ ︵勤書帳︶⑪ 勤蒸返︑江戸日記⑫ 鶴太郎は谷中屋敷預りの大場作左衛門の伜で︑当時は谷中屋敷に いた︒ ︵六郎左衛門は鍛冶橋門内屋敷にいたと推定される︒︶⑬勤書帳︑江戸日記︒津山市史第五巻二二七頁の二〇月六日に云 々﹂は﹁=月五日に江戸を出発して津山に帰った︒﹂と訂正︒⑭ 国元日記︒江戸表では安政二年一二月二四日に慰労があった︒ ︵ 江戸日記︶彼は全く酒を嗜まなかったことは︑阪谷素撰の碑文に記 されている︒ ︵津山温知会誌第二編︶六 植原六郎左衛門の周辺
江戸から帰って安政三年︵一八五六︶を迎えた植原六郎左衛
門は︑松山の伊東登訪問の願書を︑二月一八日に許可された︒
その願書には︑伊東登は﹁水練師家二候処︑久く対面不レ致︑且
は伝書之内相談も致度由二而︑罷越臭度︑毎く申越候処︑当時
難渋馬飼︑其上自力二而は難二行届一身処︑今般弟子共β筆致臭
候二付︑罷回申度︒﹂として三〇日の暇を得た︒
二月一=日に彼の長兄である広川美之助が病死したので︑
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津山高専紀要第13号(1975)
七月二日に行われた老中以下の﹁游術﹂の見分について記
す︒ この日の朝︑江川太郎左衛門の﹁船津大砲﹂の見分がすみ︑
﹁浜野庭﹂の内で﹁テレガラーフ仕掛﹂︵電信機の実演︶を見︑
それから﹁御船手水子共水泳﹂を見分し︑その次に植原六郎左
衛門の游術の見分が行われたのである︒これら一連の見分は︑
時局柄必要な国防関係の行事であったと考えられる︒
出張して見分に当ったのは︑老中の牧野備前守︑久世大和
守︑内藤紀伊守︑若年寄の鳥居丹波守︑本多越中守︑遠藤但馬
守︑本庄安藝守︑御側衆︵呼名︶︑大目付の筒井肥前守︑勘定
奉行の松平河内守︑長崎奉行の川村封馬守︑目付の鵜殿民部少
輔︑一色邦之助︑大久保右近将監︑勘定吟味役の設楽八三郎︑
村垣与三郎で︑幕末の政界に重きをなす顔触が交っていた︒
老中以下は庭内の海岸から見分し︑游方一同は乗船して︑場
所の手前に船を繋いで置いて順々に繰出した︒業割は五月二七
日の見付衆見分の通りで︑士籍って出来ない業は断りに及ぶこ
とにした︒しかし︑ ﹁業割之通相済﹂とあるから大体予定通り せりおよぎ行われたものであろう︒あとで﹁御好﹂として耀游を渡辺雅
之助︑大場蕪太郎︑藤田俊助が行った︒ ﹁但︑六郎左衛門を
除︑一同之御好之処︑右之外者︑及二御壷一︒﹂ と記されている
から︑一同の代表として三一の者が︑アンコールに応えたので
あろう︒ 右のことがすんで︑休息所へ引取・って控えて居たところ︑老
中︑若年寄から︑扇子一〇風入二箱を植原六郎左衛門へ︑桃梨
一籠を一同へ下された︒右の礼のために︑六郎左衛門に留守居
が差添うて︑表役所へ罷出て挨拶をし︑それがすんでから一同 が引取った︒ 七月=二日にも弓術の見分が行われた︒この度は老中阿部伊勢守︑久世大和守の外多数の役人が出張したが︑顔触れには異動があり︑大目付は井戸石見守︑目付は鵜殿民部少輔︑松本十郎兵衛︑一色邦之輔︑岩瀬修理︑大久保右近将監であった︒朝︑江川太郎左衛門の﹁薄打﹂見分の後引続いて︑植原の水泳見分︑それから﹁テレガラーフ﹂の見分が行われた︒また泳者のうち川路英五郎は病気になり︑他に大沢繁吉︑川路政蔵︑太田寛次郎︑池田駒蔵を加えた︒﹁御好﹂には植原の甲冑︑門人の
⑨
逆水︑毒水を行った︒その他は大体前回と同じであった︒ 植原六郎左衛門は八月一八日に︑﹁四拾歳罷成︑男子両人有レ⑩
之候三共︑何れも虚弱畳付︑厄介六郎儀︑当卯二十六歳罷成朝間︑此者養子致し︑追而嫡女と嬰申度段︒﹂の願書を差出し︑二一日に許可された︒ 八月晦日には︑阿部老中から﹁勝手次第︑在所へ差節候様可レ致候︒篤く当地二罷在単二付︑銀十枚被レ下候旨︒﹂ を達せられた︒ 九月一日︑彼と留守居石川左文太は同道で︑藩主の使者として御用番牧野備前守まで拝領の礼に参上した︒また同日︑彼は幕府関係の用向きが完了したので︑他出差留めが免された︒ 彼は幕府の用向きがすんだので︑帰国を命ぜられたが︑よんどころない用事があるとして︑暫時逗留したいという願を九月九日に許可された︒ 彼はいよいよ帰国するにあたって信州諏訪大明神へ参詣のため木曽路を旅行し︑上州高崎にいる瀧田運蔵と信州松本にいる上田繁右衛門という水練の門人に用事があるので三日女︑京都
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(48)
津山藩における神伝流 渡部
事︒﹂ という差図があった︒
同年四月四日に藩から彼に﹁御用島外他出被二差留置一候処︑
融雪鼻水店下稽古清節︑罷越候儀︑被レ成二御免一計︒﹂という沙
汰があった︒
藩から同年四月八日に幕府の御用番阿部伊勢守に対して︑
﹁水軍用前之游術稽古﹂のため﹁築地南飯田町河岸海面﹂を四
月から八月まで四か月間︑拝借したいという願書に絵図面を添 ⑦えて提出したが︑許可は出なかった︒しかしながら︑幕府の係
の役人の裁量によって︑築地で水練稽古を行うことが黙許され
ていたことは︑ ﹁江戸日記﹂安政二年八月六日の条に
御留守居見習栗原玉城︑左之通︑御使者相判勤之一︒
干鯛 一難 御船手頭
御樽代 三百疋 桜井藤四郎
築地海手水練稽古之場所︑御三含之儀︑是迄之爲二御挨拶一
被三 仰判遣取一︒
但︑来夏之処も同様御差含被レ下度︑猶又其節御霊可レ申
旨︑演説︒
御首 城中二戸︑退出之上︑可二申聞︸旨︒
とあることによって知られる︒幕府役人との間に微妙なかけひ
きがあったようである︒
同年五月二三日に幕府目付から︑近く﹁水泳御見分﹂がある
から︑明後日から両三日のうち故障のない日︑両日を申出よ︑
場所は﹁濱御庭後海手﹂という達しがあった︒二四日に留守居
から水泳見分の日限につき︑来る二七日︑二八日は故障がない
と答えた︒これに対し︑目付から︑二七日五時に濱土手に出て わざがきいて差回を受けるよう︑また﹁事書﹂があれば︑二⊥生日朝差出 せと達せられた︒ 五月二五日に幕府目付から﹁植原六郎左衛門︑兼首櫓鍛練致居候趣二二レ致二曲知一︑依レ之︑水泳御見分の節︑船運転等之御見分も被レ成度︑尤婚八挺立船出置旨︒﹂を達せられた︒これに対して︑植原は﹁櫓遣之儀﹂は未熟につき断ると申出た︒留守居国保伝八は翌二六日に幕府に対してこの返事を申述べ︑別に
﹁水泳業書﹂を差出した︒
五月二七日には︑幕府目付の鵜殿民部少輔︑ 一色邦之助︑大
久保右近将監︑岩瀬修理及び徒目付︑小照目付らによる見分が
あった︒ 業割には真游方八入︑水中游方七人のうち︑河瀬英次郎は
﹁煩﹂︑雁行片手抜筏廻りのうち藤田俊助は﹁差懸子所﹂と記
入してあるから︑欠場したもののようである︒
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あとで﹁お好しとしては︑ ﹁逆浪游﹂と﹁拷﹂を植原六郎左衛門︑ ﹁渕渡﹂を大場露太郎︑渡辺雅之助︑大沢亀之助︑島田
兼治郎が行った︒
六月一九日に︑幕府の目付鵜殿民部少輔の達しとして︑老中︑
若年寄が来る二六日目植原六郎左衛門の﹁水泳﹂を見分するか
むつら朝畑藩命とし︑ ﹁御好﹂があるかもしれないから甲胃をも用
意せよと伝えられた︒二一日に︑植原から水練見分に召連れる
門人どもに深川屋敷の泉水で下稽古をさせたいから︑見分がす
むまで︑稽古中は当番を免ずるようにしてもらいたいと申出
た︒それぞれの支配頭から当番の免除を達せられた門人は渡部
雅之助︑大沢亀之助︑大場襯太郎︑松本常四郎︑島田兼治郎︑
藤田俊助であった︒またこの日︑幕府目付から︑見分は七月二
日に延引するとの達しがあった︒
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