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論文題目:堀田善衞における越境の軌跡――上海へ/上海から

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Academic year: 2021

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論文の要約

氏名:DING SHILI(丁世理)

博士の専攻分野の名称:博士(文学)

論文題目:堀田善衞における越境の軌跡――上海へ/上海から

戦後派作家として知られる堀田善衞は、アジア・アフリカ(AA)作家会議という第三世 界の作家たちの国際連携組織において活躍していたため、戦後の日本文学者の中で、かな り異色な存在と思える。堀田のこういう「国際派」としての側面は、彼の上海体験に負う ところが大きいとよく言われている。しかし、彼の上海体験の詳細は、今日に至るまで謎 に包まれる部分が多い。そして、そもそも彼は海外渡航がいよいよ危険になった一九四五 年三月末の時点でわざわざ上海に行ったのかも納得できない。

彼の上海渡航からさかのぼってみれば、慶応大学仏蘭西文学科を卒業後、国際文化振興 会に就職、そこで上司の伊集院清三に紹介され、吉田健一などを中心とする同人雑誌『批 評』に参加、同人の河上徹太郎や中国からの留学生呉玥

ご げ つ

と知り合った。戦時中の日中文化 交流の第一線における河上の活動、及び「近代の超克」という戦時中における日本文化の 時事問題とのからみで、京都学派の哲学者と論争を起こした呉の活動は、当時日本浪曼派 の影響下に入った堀田に、中国への関心を喚起したものと考えられる。そして、スパイの 側面を持つ呉がかかわった戦争末期の日中和平工作に一役買っていた朝日新聞社と昭和研 究会などに属する人々との関連で、堀田の上海渡航をとらえることもできる。戦時中にお ける堀田の複雑な交友関係の中に、それらの人々が含まれているからである。ほかに不思 議なことに、左翼運動に関係していなかったと言われる堀田が、実は慶応大学仏蘭西文学 科に転入する以前、早稲田大学の左翼学生の設立した「青年劇場」に関わっていたのは、

関連資料によって明らかである。つまり、左翼関係者にも、堀田は知られざる関係を持っ ていたのである。

一方、一律に上海体験と言っても、実は敗戦を境目に、関連しながらも、中味の異なる 二つの体験に分かれていることも見落としてはならない。戦時上海は日本軍の実行支配下 にあったのに対して、戦後上海は再び国民党政府の施政下にもどったからである。一九四 三年七月末にフランス租界が日本軍の傀儡政権である汪兆銘政権に返還されたため、以後 戦時上海の全域に日本軍が直接コントロールできない場所が存在しなくなった。だから、

多国籍の人々に触れ合ったと言われている戦時上海の堀田は、決して日本国内の戦時体制

から解放され、自由自在に振舞えたわけでなく、彼の交友関係からすれば、むしろ現地軍

の宣伝工作に関与していたと疑わざるを得ない。そして、国民党の役人が指導者の立場に

返り咲いた戦後上海では、堀田は徴用されて、今度は国民党の対日宣伝工作に協力させら

れることになった。これについては、復刻された彼の「上海日記」を通して一部うかがえ

る。一方、戦時中から国民党の対日宣伝に動員された元日本軍捕虜の存在や、上海におけ

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る国民党の対日宣伝を取り仕切る役人が、戦時中から戦後にかけて、日本軍の将校や日本 側の特務機関員に通じていたことは、彼の「上海日記」だけではよく見えない。

戦時中から戦後にかけてのこうした流れのなかで、堀田は「虚無」や「憂鬱」にとらわ れ続けていたことは、上海渡航以前、『批評』に連載していた評論「西行」、戦時上海の雑 誌『新大陸』に発表した「上海・南京」、戦後になってから、『改造日報』に投稿した「希 望について」、 『改造評論』に載せた「反省と希望」といった数々の評論において一貫して 見られる。さらに、これは伏流として、四〇年代後半から五〇年代にかけて、文学者とし てデビューしていく堀田が自身の上海体験と戦後日本に取材して執筆した一連の「上海も の」に流れている。

本論では、かくして、堀田の上海体験を中心に据えて、上海体験の中味を探りながら、

それ以前の戦中体験はどのようにして上海渡航につながったのか、そしてそれ以後の「上 海もの」は戦中体験と上海体験と如何なる関連性にあるのかをできるだけ明らかにしよう と試みる。具体的に以下のような構成である

第一章「堀田善衞の戦時体験――政治への漸近、運動の痕跡」では、『若き日の詩人た ちの肖像』の手がかりをもとに、戦時中堀田の学生運動とのかかわりを探る。主として三 つの面がある。一つは早稲田大学の左翼学生が組織した「青年劇場」での活動である。そ こで知り合った片谷大陸という人物との関係が重要なポイントになる。二つ目は左翼だっ た従兄の野口務である。彼の生き方は堀田にとって一つの参照枠になっていると考えられ る。三つ目は慶応義塾大学の左翼学生と交流を持つ人形劇団「プーク」との交わりである。

この三つの面をつなぐものとして、謎に満ちた堀田の拘留体験がある。学生運動に関連し ていたこの戦時中の体験は、評論「西行」に見られる日本浪曼派へと傾斜する以前のこと である。

第二章「上海以前の堀田善衞――国際文化振興会とその周辺」では、唐突に見える戦争 末期における堀田の上海渡航に焦点を当てて、自他の両方からその理由を探る。召集をは さんだ前後の時期に、彼は評論「西行」とその未発表の続篇を書いた。正篇と続篇のあい だに、天皇制イデオロギーについて異なる見方を示している。ちょうど堀田の「変化」が 推定される時期に、河上は雑誌『批評』に二編の評論を書いた。そのなかで、天皇制イデ オロギーよりも、芸術主義の下で日中の結束を主張している。一方、国際文化振興会の嘱 託で、 『批評』に客員として参加した呉玥は、京都学派の哲学者高山岩男との間で、いわゆ る「道義的生命力」をめぐって、論争を展開したというだけでなく、戦争末期の日中和平 工作にも積極的に関与していたと言われている。堀田自身にしても、近衛文麿のブレーン 組織である昭和研究会・昭和塾の関係者とかかわる一方、同じく日中間の和平を模索して いた朝日新聞社のグループとも関係していたようである。これらのことを踏まえてみれば、

堀田を文学者としてだけでなく、東アジアの国際政治の渦中に身を投じた人間としてとら

え返す必要もある。

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第三章「『祖国喪失』・『歴史』から戦時上海の堀田善衞へ」では、東アジアの国際政治 に、堀田は身を投じていたという立場から、 『祖国喪失』と『歴史』の両小説のなかに表象 された和平工作者、特務工作者と戦時上海の堀田との架橋を試みる。敗戦直前の一九四五 年八月一三日に、堀田は武田泰淳など多くの知人に、 「中国文化人ニ告グルノ書」の作成を 依頼した。この論集が残っていないため、どのような内容構成だったかは判然としない。

しかし、興味深いのは、執筆予定のメンバーが文化人という肩書だけではくくれない人々 である。これらの人々との関係および堀田自身が証言している水谷川機関や水谷機関とい った特務機関との関係、さらには軍報道部の文化担当官岡田隆平とのかかわり、軍報道部 と緊密な連携をとっていた名取洋之助や汪政権の中央宣伝部顧問をしていた草野心平など の存在は、堀田が戦時上海における和平工作や特務工作に近い人間だと思わせる。現に『祖 国喪失』の左翼転向者は和平工作に暗躍した吉田東祐をモデルにしていると考えられ、 『歴 史』の特務機関のボスは、テロ工作や不正蓄財などのため戦後中国当局によって戦犯とし て訴追された門屋博をモデルにしていると見ることができる。戦時上海において、軍のも とに活動していたこれらの人々と関係していた堀田も、上海の戦時体制の中に動員されて いたものと見るべきではないか。

第四章「堀田善衞の被徴用体験――「対日文化工作委員会」と徴用された日本人」では、

中国側の資料と堀田の「上海日記」 ・ 『上海にて』を併用して、以下の課題を明らかにする。

第一、雑誌『新生』第二号(一九四六年三月一一日)にある「対日文化工作委員会」の近 況報告をもとに、 「対日文化工作委員会」における堀田の仕事を整理する。第二、戦後重慶 から「対日文化工作委員会」に合流してきた「日本民主革命同志会」に所属する元日本軍 捕虜の移動および戦時中国の対日諜報機関についての記録を合わせて、 「対日文化工作委員 会」の由来・変遷をたどる。第三、戦時中から上海にいて、戦後「対日文化工作委員会」

に徴用された上海の日本人居留民と、先の元日本人捕虜のそれぞれの言論活動を検証する。

最後に、新しく発見した堀田の評論「中国のポスター」と戦時上海に発表された他の二篇 の評論を考察し、徴用時代における堀田の対中認識を明らかにする。

第五章「戦時中から戦後への連続――『記念碑』と『奇妙な青春』から見る」では、戦 争末期から戦後にかけての日本社会の世相を反映する両小説に登場する謎の中心人物から 出発して、戦時中同盟通信社の海外局次長加藤万寿男および戦後ゾルゲ諜報団事件での裏 切り者と言われていた「伊藤律」とのかかわりを検証したうえで、堀田の初期作品に絶え ず姿をあらわす「虚無」という考え方の系譜を戦時中の評論「西行」にまでさかのぼって まとめる。

まとめ「上海体験の「過去」・「現在」・「行方」」では、「上海体験の「過去」:戦時中の

「転向」 」、 「上海体験の「現在」 :戦時上海と戦後の徴用」、 「上海体験の「行方」 :虚無の系

譜」に分けて、以上五章の考察を時間順にまとめて、今後の展望として本論の問題点を提

示していく。

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なお、堀田の就職した国際文化振興会の「決議録」や、堀田全集未収録の評論「中国の

ポスター」 、堀田家の家系図といった資料を本稿第二部の「資料篇」とする。

参照

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