特集◎中国演劇におけるジェンダー
楊 小 青 と 越 劇 の 六 十 年
改革開放の中国で︑小百花演出団を率いて越劇ブームを巻き起こした楊小青︒長い下積みを余儀なくされ︑文革の渦中にも続けた努力でつかんだ演出家への道︒越劇︑昆劇︑宝塚︑歌舞伎︒中国を代表する演出家が伝統劇の未来に向けて語る︒
楊小青︿元漸江省越劇小百花演出団演出家﹀インタビュアー中山文︿神戸学院大学人文学部教授﹀
中山本日は中国の伝統劇演出家の第一
人者楊小青さんをお招きしました︒
楊先生はとにかく猛烈にお忙しいんで
すよ︒杭州にお住まいなのですが二か月
に一度しか帰宅できない︒国内を駆け
巡ってお芝居の演出をしておられます︒
海外へも︑日本は初めてですが︑フラン
スや台湾には行っておられます︒でも︑
いつもお付きの方が一緒で︑ことばので
きない日本がはじめての一人旅です︒杭
州から上海経由でおいでになったのです が︑上海では出発前夜も当日の午前まで
会議だったそうです︒
彼女の歩くあとを仕事が追いかけてく
る︒来日されたのは一昨日ですが︑その
日に温州越劇団から私の自宅にメールが
入りました︒﹁台本を添付するので︑至急
楊先生に目を通していただきたい﹂と︒
昨日朝にお渡しすると夜二時半にホテ
ルの楊先生から電話がかかってきまし
た︒﹁こことあそこがこんなふうにまず
い﹂と細かな指示︒あまり細かすぎて私 が聞き取れず︑とりあえず楊先生が気に
入らないらしいことだけを先方に伝言し
ました︒それを今夜詳しく書いていただ
いて私がメールで打つことになっていま
す︒彼女の行くところ︑どこでも仕事が
追いかけてくる︒温州の団長が言うには
﹁いいご旅行になるように﹂と︒その彼が
仕事を作っているんですけど︒無事に来
ていただけて︑本当によかった︒ありが
とうございます︒
これほど演劇界で必要とされている楊
楊小青 と越劇 の六十年
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小青さんの半生について︑さっそくおう
かがいしたいと思います︒まず︑お生ま
れのことからお聞かせください︒
越劇団入団まで
中山どこでお生まれになりましたか︒
楊漸江省諸盟県で生まれました︒
中山どんなところですか︒
楊春秋時代︑歴史上の美女西施の故郷
です︒
中山小さいころのことを聞かせて下さ
い︒
楊私の家庭は読書人の家でした︒父親
はマスコミを学び新聞関係の仕事をして
いました︒記者をしたあと︑諸蟹日報と
いう新聞社を作りました︒当時︑諸蟹日
報は︑小さな新聞社でした︒母は教師で
した︒母方の親戚はみな教師です︒おじ︑
祖父母︑みな大学か高校か中学の教師で
す︒そういう家庭に育ったので︑芝居と
はまったく関係ありませんでした︒母親
には今でも︑﹁おかしいわよ︑あなたのそ
の趣味は﹂と言われます︒わたしもどう
してこの道を来たのか︑自分でもわかり
楊 小 青[YangXiaoqing]
ません︒小さいころ︑先生に聞かれた時
も作文にも︑大きくなったら先生になる︑
と書いていました︒
ただ︑小さいころから︑課外活動で演
劇に参加するのは好きでした︒最初に演
じたのは﹃狼が来た﹄でした︒狼が来た
と嘘をついていたら︑最後に本当に狼が
来て︑食べられてしまう少年の話です︒
ほんの五︑六歳だったんですけどね︑そ
れを演じてから私はお芝居をするのが好
きになったんだと思います︒小さかった
けれど︑あれをきっかけに表現欲が湧き︑
人に見て欲しいと思うようになりまし
た︒
中学のとき同級生の紹介で︑越劇団の
俳優と知り合いました︒それから越劇を
見始めて夢中になり︑越劇団員募集の試
験を受けました︒もちろん両親には内緒
です︒伝統的な観念では︑俳優は社会的
地位が低く︑母は私が芝居をすることを
望みませんでしたから︒母はいつも﹁う
ちからはまだ大学生が出ていないから︑
あなたは大学へ行ってちょうだい﹂と言
いました︒でもね︑芸術というものは︑
はまってしまうんですよ︒芝居ぐるいと
いう言葉がありますが︑当時の私は芝居
に夢中になっていて母の話など少しも耳
に入りませんでした︒
私が学んだのは杭州市第一女子中学校
ですが︑この中学から高校へ毎年一人だ
け試験免除で進学できることになってい
ました︒その枠が私に与えられました︒
母は高校・大学へと進学することを望ん
でいたので︑私を家に閉じ込めました︒
劇団の申し込みに行かせまいとしたので
す︒ところが買い物に行くときに︑窓を
閉めるのを忘れた︒私は窓から飛び出し
ました︒幸い我が家は平屋で︑二階建て
ではありませんでしたから︒
劇団に入ってからは︑母がいくら呼ん
でも家には帰りませんでした︒おかげで
母は一切の生活用品を送ってくれません
でした︒しかたないので私は他の劇団員
のベッドで一緒に寝かせてもらいまし
た︒こんな笑い話があるんです︒あのと
き私はまだ一二歳で︑昼間稽古でくたく
たになり︑ある晩おねしょをしてしまい
ました︒夜一緒に寝ていた相手が飛び起 きて︑私を見つめました︒私も彼女を見
つめました︒お互いに﹁あなたでしょ﹂
という意味です︒私がそのことを話すと︑
母はみっともないと思ったらしくようや
く荷物を送ってくれました︒
劇団の試用期間は三か月でした︒この
三か月の間︑高校の校長は私の籍を残し
てくれていました︒でもその期間も過ぎ
てしまい︑もう引き返せない︒劇団をク
ビになって家にもどるようなことになれ
ば面子がたたないと思い︑なんとか追い
出されることのないようにとがんばりま
した︒それが神様の心を打ったのでしょ
うか︑母が劇団に残ることを許してくれ︑
私は晴れて越劇団員になりました︒
女優時代試練の時
楊ところがその後︑予想もしないこと
がおこりました︒テストをうけた一二歳
のときにはスタイルがよかったのです
が︑それから背がのびなくなってしまい︑
しかも私は声が悪くて︑羊年生まれのせ
いか羊みたいな声しか出なくなってし
まったのです︒必死でがんばりましたが︑ 背は低い︑おまけに声は羊声︒劇団から
クビにされそうになりました︒発育の段
階で生じた問題で︑子供の声の時にはわ
からなかったことです︒
私にはもう退路はないのだと覚悟しま
した︒あれほど劇団に入りたいと大騒ぎ
したのに︑いまさらクビになるわけには
いかないと必死でした︒劇団に残りたい
一心で︑毎朝みんながまだ寝ている四時
半に起きて劇団の建物を上から下までき
れいに掃除をしました︒それから稽古に
行きました︒朝起きられそうにないとき
は︑私の腕に結んだ縄を戸に垂らしてお
いて︑朝ごはんの買い物に行くコックさ
んにそれを引張って起こしてくれるよう
頼みました︒
その当時の私の立場はとても弱くて︑
助けてくれる人もいないつらい時期でし
た︒背は低く︑社会的条件はなく︑後ろ
盾も頼れる人もいない︒両親は私の生き
方に反対でしたし︑劇団の先生たちに
とってはスタイルも悪く︑声も悪い︑全
くクビにしてもおかしくない魅力のない
俳優だったわけです︒そんなときに支え
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になってくれたのは友人たちでした︒た
とえばコックさんや裏方さんなど劇団内
ではなんの権力も持たない人たちです︒
劇団の指導者や先生たちは私の味方に
なってはくれませんでした︒
当時の願いはただ一つ︑劇団を追い出
さないでほしいということだけでした︒
そのためには何でもしようと思い︑劇団
で一番下っ端の仕事とされていたメーク
を手伝うことにしました︒今でいう美容
メークではありません︒俳優のメークに
必要なお湯をくんだり︑使い終わった用
具を洗ったり︒まるで童養嬉みたいです︒
それを九年間続けました︒この九年の間
に私の仕事ぶりを心に止めてくれるリー
ダーが現れました︒彼のおかげで私はそ
の他大勢の通行人︑エキストラ俳優とし
て残してもらえることになりました︒
それでも通行人の役すらもらえないこ
ともありました︒背が低すぎて周囲と高
さが揃わないからです︒こんな私に何が
できるだろう︒私は自分で仕事を探しだ
しました︒一つは︑カツラとヒゲ作りで
す︒当時カツラはとても高価だったので︑ 劇団の費用節約のために自分で作ること
にしたのです︒昼は通行人︑夜はカツラ
作り︒舞台に出たあとの夜なべ仕事なの
で︑居眠りをして指に針を刺すことも
しょっちゅうでした︒でもこの仕事のお
かげでなんとか劇団に残してもらえまし
た︒
もう一つ︑別の仕事を見つけました︒
私は稽古が大好きでしたから︑あちこち
へ教えを請いに行くことが少しも苦にな
りません︒越劇以外の地方劇︑川劇や秦
腔︑昆劇や京劇など様々な劇種の勉強を
しました︒それらを学んだところで私自
身に役はつかず生かせないので︑役のつ
いたほかの人たちに教えてあげたので
す︒彼女たちには勉強する時間がなかっ
たので︑私が学んだことを伝える形で役
作りを手伝いました︒こうしてだんだん
と演出家の助手をやるようになりまし
た︒実際この仕事に関しては︑私は誰に
習ったわけでもありません︒自分でこっ
そり︑こつこつやっているうちに︑みん
なが認めてくれるようになったのです︒
もう一つ︑私は芝居を演じるのが非常 に好きなのにチャンスに恵まれませんで
した︒それで毎日︑劇場の小さな椅子に
腰掛けて稽古を見ていました︒いつも稽
古場には演出家よりも先に入りました︒
私の姿が見えないと︑俳優たちに﹁今日
は総監督はどこに行ったの?﹂と言われ
るほどでした︒これもその後の演出家と
しての仕事に非常に役立ちました︒
そうしているうちに文化大革命が始ま
りました︒劇団はめちゃくちゃ︑壊滅状
態です︒なじみの指導者たちは監禁され
ました︒そんな中で私の将来を気にかけ
てくれる人など︑一人もいなくなりまし
た︒ですが︑それはチャンスでもあった
のです︒当時図書館の資料は﹁殴打・破
壊・略奪﹂され︑ばらばらに散乱してい
ました︒私はその中からソ連のスタニフ
ラフスキーや梅蘭芳の書いた演技術の本
を拾って来ました︒世の中は造反に熱心
でしたが出身階級の悪い私にはそれも許
されず︑一日の大半を読書をして過ごし
ました︒
それまで稽古はたくさん見ていました
が︑専門書や理論的なものに触れたこと