製糸女工の リテ ラシー と人間的発達
――『製糸女工の教育史』補遺―
Development of the Silk‑lnanufactory Girls by the Literacy
花
井
信 1/1akoto HANAI
(平
成16年9月29日受理)序
1970年 代までの近代 日本教育史研究は、アジア太平洋戦争終結までの教育が天皇制・軍国主義的性 格 を強 く持 つていたために、それを批判するとい う特徴を色濃 く帯びていた。あるいはまた、戦前教 育の半封建的性格 を強調する姿勢が前面 に出ていた。 しかも、政策史研究が主流を占め、そのイデオ ロギー批判に過半を費や した。民主主義的な傾向を戦前教育に求めようとする研究者は、政策にあら が う抵抗の教育運動、代表的 には 1930年 代の生活綴方教育 に活路を見出 した。
変化のきざしは、60年代末期の自由民権教育史研究に見 られたのであ り、教育政策 に抵抗する運動 とい うことに注 目するのではな く、民権派の教育要求 と教育論 に現代的価値があるとい う指摘が近代 日本教育史研究の除路を開いた。
わた しが『近代 日本地域教育の展開』を出版 したのは 1986年 であつたが、.そのなかで、「学制」期 に小学校 を設立す るにあたって、政府が資金をいっさい出さず、地域民が全面的に負担 した事実を挙 げ、そこか ら地域民 には、小学校 に対する共同所有意識が生まれた とい う歴史仮説 を提出 した。従来 は、国家が小学校教育の普及を人々に強制 しなが ら、財政的補助をしなかつたことの批判材料 として、
そのことは語 られることがあつても、そ こに肯定的意義を与えた研究は皆無であった。
しか しなが ら思い切 つた仮説を提起 した ことで研究者 としての自己暴露性 に自信が生まれ、 しか も さいわいな ことにその後の研究がわた しの歴史仮説 を実証 して くれた こともあって、わた しはこの研 究を契機 として、 日常の人々の教育活動のなかに積極的意義 を見出す研究をすることになった。
時あたかも、おちこぼれ、おちこぼしが問題 になってお り、すべての子 どもに豊かな学力をとい う 活動が展開 されていた。教育は子 どもの人格 を形成するとい う哲学的な目的論が、現実の実践で具体 化 されていた。特 に読み書き算の基礎学力が持つ人間発達的意味が 目標論 として問題 になつていた。
教育史はそれ にどう呼応できるか、それがわた しの歴史研究の課題 になつた。
製糸女工の教育は、義務教育であることか ら、全体 として臣民形成 とい う大枠か ら抜 け出 られない とい う性格 をもちなが らも、感情の豊か さの育ち、行動の統制、認識能力の発達な ど人格形成 におお き く役立 った と言える。この点に着 目して、本稿では、製糸女工が読み書きを会得することを通 じて、
どうい う能力を獲得 し、人間的発達を遂げるのか とい うことに関 して、① ことば と情動 との関係、②
122
花 井信
読み書きは社会と自然の認識の基礎であると同時に総合であること、③分析と総合という認識能力の 形成、④読み書き学習は脳の働きをどう活性化するか、これら四点にわたつて述べてみたい。
1.
現代心理学の成果によれば、人間はことばで感情を高めた り、鎮めた りするし、ことばで行動を統 制する。たとえば、小さな子 どもが散歩中に大と出合ったとき、怖さに親の後ろに隠れる光景はよく 見るところである。そのときに、親が「怖 くないわよ」 と言いながら大をなでると、子 どもも「こわ
くな―い」 と言いながら、大を恐る恐るなでることができる。大に対する恐怖心が親の声掛けで鎮ま り、自分の声で勇気を奮いたたせて行動に移るのである。あるいは、少 し高いところから飛び降 りよ うとするときに、親が「よいしょ」 と声をかけることによつて、子 どもは恐怖心に打ち勝つて勇気を 振 り絞って飛ぶことができる
[補
注1]。「おねえちゃんでしょ」とい うことばを親から不断に言われ続けると、たとえ小さい子であつても、
弟あるいは妹を守ろうとか、弟や妹に手本を示そ うとい う気持ちと行動に移 らせる。けなげな強 さを 発揮 した り、や さしい思いや りを見せた りできるようになる。つ らいときも、「おねえちゃんだから」
とい う自分の声で、涙をこらえて、つ らさを乗 り越えた りすることができる。忍耐力は精神の問題だ としても、ことばがそれを補強 しているのである。ただし、ことばが価値観を拘束することがある。
ことばに表わせないもどかしさが、幼児期に乱暴な行動 として表われる場合が少な くない。乱暴な 振る舞いをする太郎君は、じつは自分の気持ちを外に表わす手段を獲得 していないかもしれないので ある。悲しくなつたときに、暴力を振るう太郎君が、「ぼく涙がでちやう」と言えるようになれば、粗 野な振る舞いは控えるようになる。感情がことばとして表出されることができれば、感情が′いの内に 積もりこみ、わだかまることが減 り、少 しは性格が純化され、行動が精錬されて くるのである。
こうしたことは小さな子 どもだけに見られることではない。成人にもあてはまるのであつて、友だ ちとの評いでいらだったときに、第三者から「落ち着け」 とい う声がかかると、手を振 り上げようと した気持ちがおさまる。兄弟げんかも、親から、「手をあげちゃだめ」とたしなめられれば、派手な殴 り合いも起 こらない。家庭内での、「めし」、「かね」、「ふろ」だけの会話では、とげとげしい感情は濾 過されないのである。
声かけが気分を高揚させる顕著な例を挙げれば、スポニッは声を出すことで、身体の動きに力を与 えることができる。野球やバレーボールなどで選手は声を出すことで、自分に気合を入れている。応 援もそ・うなのであって、「高見盛―」とか「柔ちや一ん」とかの声がかかると、かけられた人間は、「やつ てやろう」 とい う気持ちに自分を高めることができ、行動がスムーズになる。
製糸女工たちが、長時間の単調な労働で疲れたときに、「つかれたね」とか「よくがんばつたね」と 声をかけあ うことで、精神の緊張 と疲労を癒すことができるし、みずからの働きに満足するのである。
つ らい労働にくじけそ うになつたときに、仲間からの「あきらめちゃだめ」、「ないちゃだめ」とい う ことばで、気持ちを奮い立たせることができるのである。
話 しことばは、しかし、身振 り手振 り、態度、表情、感情などと一体化されて相手に伝わる。片言 ことばであっても、正確な言い回しではなくても、気持ちは相手に伝わるものである。それに対して 書きことばは、そ ういつたものとは無縁であり、無機的に相手 と対するから、書かれたことばをとお して、その意味を考えイメージを膨 らませなければならない。そめためには、書きことばに習熟する 必要がある。話 しことばでは、「腹が減つた」とだけ気分をこめて言えばすむ ところを、書きことばで は、「腹がものすごく減つた」、「腹が減って頭がふ らふらする」、「腹が減つて背中とくつつきそ うだ」、
「腹が減 つてか らだが冷える」、「腹が減つて力がでない」 とか工夫 しなければ、書きことばで状況を 相手に伝 えることはむずか しい。
他方では、外部的声かけが、いつたん内部的声かけになつてか ら外 に出るものが、書きことばであ るか ら、内省 を内に合む ことになる。手紙や 日記はつい最近まで、遠い人に感情 を表出する最大の手 段であつた。 うれ しい ことや悲 しい ことや驚いた こと、そ ういった感情の高ま りや落ち込みを親 しい 他人 と共有 したい、分かってもらいたい とい うところか ら、手紙 とい う手段 に訴 えるものなのであろ う。自分の気持ちを遠 くにいる他人 に伝 えることで、心の内部 に高まつた感情を吐き出 し、それによつ て興奮が抑 えられ、鎮まるのであ り、鬱屈 した気分が晴れるのである。その書 きことばを駆使できな い とい う事態は、心の高ぶ りや落ち込みを外部 に出す手立てがない とい うことであるか ら、感情はこ とばで濾過 されることな く、直接的に外部化 されることにな り、行動や態度の荒々 しさとして 自己の 内部 と外部 に表出される。
2.
1915年 度 に長野県諏訪郡の製糸工場特別教授で実施 された、尋常1年生の書き方分野の問題 に、知 識 を求めるとして、「「諏訪で一番大きな川」は何 と云ふ川な りや」 とい うものがある。川であるのに
「長い」でもな く、「広い」でもない、「大きな」 とい うことばが使われている。もしも小 さいこども に、象―頭 とあ り5匹の絵 を見せて、どち らが多い と尋ねると、たいがいは象 と答 える。「大 きい」と
「多い」の概念上の違いが分か らないか らである。「大きい」と「多い」は密接な関係がもちろんあつ て、大きな繭か らは糸が多 くとれそ うである。‐しか し、小 さい繭か らも多 くの糸が取れることがある か ら、絶対的な関係でない。
ところで、 こうした、「大きい」・「長い」・「広い」 とい うのは、いずれ も量 に関係する概念である。
川 とい うと一般 には「長い」を連想 しがちであるが、「大きい」とい うことばは複合的で、「長 さ」、「広 さ」、「かさ」を合む概念である。「板の大 きさ」 とい うと、寸法つま り「長 さ」を指 し、「部屋の大き さ」 とい うと、面積つま り「広 さ」を指す。「ダンボール箱の大きさ」 とい うと、容積つま り「か さ」
を指す。 したがって、その 「大きい」 とい う量概念 をつかむ ことは、空間認識 として重要 になつて く る。水平の関係だけではな く、垂直な関係 も合むか らである。そ こをおそ らくは教師は考えて、「長い」
で もない し、「広い」でもない し、「深い」でもない、それ らをひつ くるめた総合的な 「大きい川」 と 問 うた ところに、 この問題の奥深い意味がある。
じつは、この問題の一題前 に、「「くちばしのながい とり」は何か」とい う問題がある。「長い」とい う概念 を掴ませた後 に、「大きい」とい う概念を投 げかけているのである。この順序に教師の小憎 らし い教育的配慮、教材観が見て取れる。
「大きい」はもちろんのこと、「長い」、「広い」とい うことば、つま り空間認識のことばは、社会認 識、 自然認識の根底にある概念である。
いまひ と
2、
「大きい」とい うことばは、正確に測つて言つていることばではない。「/Jヽさいか」、「大 きいか」と比べてみた ら、「大きい」と言 つているに過 ぎない。大雑把 に言つて 「大きい」とい うこと である。このものの掴み方、概念は算数 につながる。「白髪三千丈」とは大げさだが、もし大学で受講 する学生が90人いれば、われわれは学生が 100人 ぐらい受けていると言って しま う。概数 とい うのは 重要な把握の しかたである。四捨五入 とい う操作がある くらいであるか ら、観念の操作 としては機能 的である。そ うした思考 を助 けることに役立つ概念 として、「大きい」 とい うことばを学ぶのである。124 花 井
信3.
ついで、2年生の「訳」を問 う問題で、「こくもつ とはどんなもの」とい う出題がある。これは、こ とばの機能のひ とつである命名にかかわる問題である。穀物 にはいろいろな種類、育て方、食べ方が あるとしても、それ ら、ひえ・粟・米・麦・豆な どを一般化 して代表するのが、穀物 とい う名称であ る。その穀物 とい うことばを知つているか と同時に、要点は、穀物の概念を くだき、専門用語で言 え ば分析 と総合を求める問いである。麦はその種子を食べる、米 も種子を食べ る、そばもその種子を食 べ ると食用を分析 していつて、それ らに共通する種子を食べるとい う要素を取 り出して、そ うい う種 を食べる植物 を穀物 と一般化 し総合する。
そ う理解 されれば、今度はその概念 を武器 に、 ごまや とうもろこしは どうだろ うか と分析が及び、
それ らも種子を食用 にするか ら穀物 に属すると総合 され、他方同じように主食の用 にもなる
[補
注2]
甘藷は、 しか し根の塊だか ら穀物ではない と分析 され、甘藷は大根・ にんじん・ ごぼ うな どの根菜類 として別な分類 に総合 され るのである。
こうして、分析 と総合を循環するように思考が発展 してい くのである。その思考を助 ける問題が、「こ くもつ とは どんなもの」 とい う問題の本質である。
もちろんなが ら、問い自体はそ こまでは要求 していない。国定教科書『尋常小学読本』巻四にある とお りの、米、麦、豆の種類、つま り、「もち米・ごはんの米」、「小麦・大麦」、「あずき・大豆」の区 別がつ けばいいにとどまる。学力は目標 に応 じればいいのだか ら。 しか し、学習 した知識 を基 に、思 考は発展するものである。そ こを伝統的な教育学は形式陶冶 と言つた。
さて、 ことばは正 しく使いこなせない と、 自分の意思を、他人に正 しく伝えることができない。 こ とばの機能のふたつめに、 コミュニケーシ ョンの道具 とい う意義がある。道具は道具 としての使い方 を会得 しない と、用 をなさない。最近は鋸 とい う道具を使 う機会はめったにないが、大きい粗い歯 と 小 さい細かい歯は、 どうい うふ うに使 うかを知つて、鋸が使 える。最近の若者はナイフで りんごを う ま く剥けないよ うだ。ガス レンジはノブをひねれば着火するか ら、マ ッチでガスをつ ける機会の減つ ゛ た若者は、マ ッチのす り方 を知 らないものが多 くなつた。
それ と同じで、 ことばは、 ことばの使い方 に習熟 してこそ、 コミュニケーシ ョンの道具 として意味 を持 つて くる。
「太郎君 と遊んだ」 とい う文 と「遊んで楽 しかつた」 とい う文を結びつけるには、接続詞あるいは 接続助詞が必要である。その場合、「けれ ども」とい う接続助詞 と「ので」とい う接続助詞を選んでみ ると、「太郎君 と遊んだけれ ども楽 しかつた」とい うの と、「太郎君 と遊んだので楽 しかつた」のでは、
主体の太郎君 に対する関心、興味が別のもの として語 られて くる。「けれ ども楽 しかった」とい うつな ぎかたでは、あま り遊ぶ気にならない、遊んでも楽 しい ことを期待 していなかつたけれ ども、意外 に 楽 しかつた とい う思いもよらぬ結果 に喜んでいる様 になる。他方、「ので楽 しかった」の方は、やつぱ り遊んでよかつた とい う思い、期待通 りのさすが太郎君だつた とい う満足感が表われている。 もとも と「けれ ども」 とい うことばは、逆接的にあるいは対比的に次の文へつながるのが 日本語の正統であ るか ら
[補
注3]、 「花井の授業を聴いたけれ どもおもしろかつた」とい う学生のことばを聞 くと、妙な 気になつて しま う。現在の用法では、ただ単なる前置きとして、「けれ ども」とい う使い方が認め られ ているか ら、ただ単 に花井の授業を前提的に言つたのか、それ とも花井は気難 しい話をするやつ と思 つ ていた ところ意外だった とい う意味なのか、理解 しかねるか らである。 もっともそんなことを気にす るほ うが神経質なので、おもしろい とい う評価だけを受け止めればいいのかもしれない。大学の授業 評価な どとい う妙なものが横行 している昨今、 しか し、気になる。「太郎君 と遊んだ」 とい う文 と「遊んで楽 しかつた」 とい うふたつの文を一文に総合する場合、総 合することばを選ばない と、つま り、 ことばの正 しい意味、使い方を知つていない と、まった く自分 の意思 とは別な文意になつて、誤つたメッセニジを相手に伝えてしま う恐ろしさがあるのである。because なのか、それ ともbutなのか。本来な らば「ので」とか「か ら」と言 うべきときに、「けれ ども」と言
うことによって、心に傷 を負わせた り、親 しい友を失つた りす ることだってあるだろ う。
日本の古い男の標本みたいに、「男は黙つて」といっても、それはとんでもない思い上が りであつて、
あるいは自分中心 に世間が回つているような錯覚であつて、気持ちはことばに出さなければ相手 に伝 わ らない。
教育学の伝統的な言い方をすれば、論理的に考えるためには、「しかし」、「だか ら」t「なぜな らば」
といったことばの使い方を会得 しない といけないのである。
人間は、 自然・社会 を認識するにあたって、分析 と総合 とい う方法を駆使する。国語 とい う教科で も、その方法は鍛 えられる。
漢字を取 り上げてもそ うである。漢字は 〈へん〉や 〈つ くり〉などの構成要素か ら成 り立っている。
例えばのぎへん 「禾」は、 もともとは年貢 として収める稲 とい う意味である。それが、 自分のものに するとい う意味の 「ム」 と結合すると、年貢 として収めてもまだ稲が余れば自分のものにできた とい うことで、「わた し」とい う意味になる。年貢が収め られるだけ稲が収穫できれば、日々に声を出 して 喜びなごむか ら、「禾」と「口」が合体 されて 「和」になるのである。こうい うように構成要素に分解 してか ら、それ ら要素を一定の規則で再構成す ることが漢字である。漢字の学習を通 じて、分析 と総 合 とい う思考方法に慣れれば、「税」がなぜ「かねへん」ではな く「のぎへん」なのかも分かって くる。
分析 と総合の関係を算数 に移 して考 えよう。まず 10進 法は、一の位の数が 10集 まれば、十の位の 1に なる。だか ら一位の数の総合が十位の数である。他方十位の数は一位の数に分析 される。また十の 位の数が 10集 まれば百位の数の1になる。したがつて、十位の数の総合が百位の数であ り、百位の数 を分析 したものが十位の数 になる。 こうしてあ らゆる数の基本 になるこの一位数を、 日本では伝統的 に基数――基 になる数 と呼んできた。・
この基数の足 し算、例 えば緑表紙本
(第
五期国定算術教科書)で、2+2=□
は合成、□+□=4は
分解 といわれた ように、基数の足 し算の訓練 を通 じて分析 と総合の思考能力が鍛えられた。
製糸女工 に即そ う。先の 1915年 度諏訪郡の2年生の算術の問題 に、12+23、 27‑14と い う計算間 題がある。なんの変哲 もない足 し算 と引き算のようにみえて、 ここにも、分析 と総合 とい う思考の働 きがある。足 し算の方は、12と い うま とま りと23と い うま とま りを合わせて、35と い う新 しいま と ま りを作 るのである。つま りは、ふたつのま とま りか ら、ひ とつの新 しいまとま りを総合するのであ る。引き算の方は と言えば、27と い う一つのま とま りを二つ に分析する場合、一方が 14で あつた とき、
他方は どうい うま とま りか と問 うているのである。つま り27と い うまとま りか ら 14と い うまとま り と、別な 13と い うまとま りに分解するのである。
もっと操作的に言えば、12を 10と 2に分解 し、23を 20と 3に分解 し、それか ら 10と 20を足 して
3a2と
3を足 して5、 両者をまとめて 35と 総合す る。 このように分析 と総合が、相互的 に進む。分析 と総合 とい う思考の育ちは、す ぐれて技術的な教育方法 に頼 るところが大きい。教育学で教育 方法 とい う分野が独立 してあるように、教育方法 には独 自の思想がある。 したがつて、知識や試験問 題だけではな く、それをどう教えたか とい う思索 と技術があつて、分析 と総合 とい う思考 に子 どもが な じむか どうかの検討が必要である。 しか し、教育方法がず さんであっても、知識の積み重ねが、言 い換 えれば、概念、 ことばの獲得が思考 を促す とい う機能があることを考えれば、教育方法をとりあ
126 花
井 信
えず捨象 して、試験問題だけで思考の質を推察することは許 され よう。
教育方法の思想 と技術の例を挙げよう。手紙を書 くときにt定型を覚えておけば、「拝啓
春の盛 り、
あなたさまにはお変わ りな くお過 ごしのことと拝察いた します。 さて………」 と書 きやすい。そ こを自 由に書けと言われると、 どう書いた らいいのか考えあ ぐねて、かえつて筆が とま どう。 したがつて、
近代 日本教育の初期 に、範例文 とい うものを子 どもに覚えさせた意図は、文をたやす く書かせ ようと い う手立ての用意であつて、す ぐれて教育的配慮 に満ちていたのである。た とえ実践上に行き過 ぎや 硬直 さがあつた としても、教育方法 としては決 して否定 されるべ きものではない。 しか し読み書き能 力が進んだ 1900年 代に入 り、範例文に則るとかえつて型 にはま り、形式 に流れるとい う反省か ら、子 どもの思 うがまま、感 じたままを随意 に書かせ ようとい う改革が起 こつて くるのは、教育方法の思想 と技術の歴史的拮抗状況である。
としても教育の伝統は定型文に則 るとい うことであ り、製糸女工の教育でもその方法が取 られた。
松代の特別学級で学んだ女工の作文が『長野新聞』に紹介 されている。「朝夕さむ さに向かひましたが 御母 さまには御かは りあ りませんかわた し事は昼は毎 日糸をとり
夜はまいばんが くもむべんきや う して居ます
御 しんはいなきや うにねがひます」。時候の挨拶か ら始ま り先方の安否の挨拶へ と続 き、
それか ら自分の 日常へ と向か う筆遣いは、決ま りきつた手紙文の様式である。定型 を覚えたがうえの 自己表現である。記者はこの女工の作文について、「冒頭 に先づ朝夕の寒気を叙 し、それか ら昼は何々、
夜は何々 と対句を求めて書かれたのは中なかの文才である」 と評 している。 この対句 とい う形式 も、
範例 としては、「朝 に道を聞かば、タベに死す とも可な り」とい う『論語』が思い出されるのであつて、
先例の習得を通 じて表現は自分のものになる。
他方、算数の学習で身につ く力 として、アル ゴ リズムがある。諏訪郡の特別教授で出された4年生 の算数の問題 に、637÷ 7と い うものがある。割 り算をするときに行なわれる、一連の操作、たてて、
かけて、ひいて、おろす一一 これ も定型あるいは規則であつて、 これを守ることによつて しか正解 に た どりつかない。明確な規貝1に従つて行なわれる操作のシステムであ り、複雑な課題 を一連の単純な 操作を追つて解いてい く手続 きの指示がアルゴ リズムである。 この真理 に気づ けば、ある一定の手順 を獲得することによつて 目標が達成できると理解 され、行動や仕事には順序性があ り、それを踏んで おけば間違わず に上手 くい くとい う段取 りを、子 どもは覚えるようになる。それが、人間の知恵であ り、向上である。仕事がスムーズにできることは、製糸工場経営者のみが願 うことではな く、女工の 人間的発達 に欠かせない ことが らである。生きている以上人間にま とわ りつ く、種々の制限か ら解放
されるわけだか ら、人間的 自由の獲得 にほかな らないのである。
基礎のない創造はあ りえない ように、真似て、慣れてか ら初めて 自由になることができるとい う、
学習法の考えが存立する余地は十分にある。
教育方法の重要性 について、視点を変えて、現代の学習指導要領を考えてみ よう。「歌」とい う漢字 は2年生で習 うとされている。しか し、その構成要素である「可」は5年で初めて習 うのであ り、「欠」
は4年で初めて習 うのである。同じように「話」は2年生で習 う漢字であ りなが ら、「舌」は5年生で 初めて習 う漢字なのである。分析 と総合 とい う見地か らは、逸脱 した方法のように考 えられる。 しか しなが ら、 こうした学習指導要領の漢字配列の仕方は、漢字の要素 もしくは一般性か ら仕組まれた教 育方法ではない。
問題は複雑であって、教育方法の伝統的考えとして、身近な生活か ら入るとい う思想があるのであ る。そ う見れば、「うた」は幼稚園・保育園で慣れ親 しんでいるのであるか ら、「うた」を漢字で どう 書 くかを2年生で習 うことはおか しいことではない。他方、「欠」な どとい うのは生活ではめったに使
わないのであって、「欠席」 とい う熟語で覚えるのが自然である
(い
ずれ も4年生で習 う漢字)。 「可」とい う漢字 もそ うであつて、「可能」といつた熟語 として習 う
(い
ずれ も5年生で習 う漢字)のが普通 である[補
注4]。「歌」は単独で使われるのに対 して、構成要素の部分は単独では教えにくい。一般性 か ら入 るのには、 こうした困難性が存在す る。学習指導要領の漢字の学年配列は、おそ らくはそ このところを勘案 したのであろ う。
ほかの例 を挙げよう。学習指導要領の学年配当漢字で釈然 としないのは、「姉・妹」の二字が2年生 で習 う漢字であるな らば、「妹」のつ くりである「未」は4年生で習 うのではな くて、「姉」のつ くり、
「市」 と同じように2年生で習 うようにするのが筋だろ うとい う疑問点である。 もちろん反論は十分 に予想 され るのであって、一方の 「市」は静岡市のように使われるにもかかわ らず、他方の 「未」は
「未来」のように使われるものであることから、問題が生 じる。「来」は「くる」とまずは読ませたい のであって、「らい」と読ませ るのは2年生 にはむずか しかろ う。あるいは「妹」は「まい」であつて、
「み」 とは読まないのに対 して、「姉」は 「し」であって、「市」も「し」である。 こうい う問題が伏 在 しているように思われ る。
以上のような次第であるか ら、漢字は構成要素に分析 ―総合 して覚えるといっても、教育方法はた だちに要素の一般か ら入 るのが妥当とい うことにもな らないのである。漢字の分析 ―総合 とい う思考 の育ちが、教育方法 と必ず しも相即 しない理由はここにある。
教育方法だけの問題ではない。カ リキュラム、つま り、何 を、いつ教 えるのが適切か とい う問題 も ある。1980年 代に落ちこばれ、落ちこぼ しがかまびす しくなった ときの例を挙げよう。小学校で習 う べ き漢字数は、1958年度の学習指導要領では881文字であつたのが、1977年 度学習指導要領では 996 文字になつた (1989年 度 には 1006文 字 になつている)。 多 くなつた ことも問題だけれ ども、どの学年 が多 くなつたかが、いっそ う重要である。第4学年がそれまでの205文字か ら 195文 字 と減 り、第5学 年が 194文 字か ら 195文 字 と変わ らなかったのに対 して、第1学年は46文字か ら76文字、第2学年 が105文 字か ら 145文 字へ と、大幅に低学年で増加 した。全体で 115文 字増 えた中で、三分の二近 く の70文字が低学年 に配当されたのである。学力の未定着はこうしたカ リキュラム と無関係ではない と、
心ある教育学者は憂えたものである。
4.
聞いて習 うことも大事だけれ ども、書いて覚えることが、学習の理解 を助ける。最近の脳科学が明 らかにした ところによれば
[補
注5]、 書 きなが ら漢字を覚えよ うとす るときと、日で見るだけで漢字 を覚えようとしているときでは、書 くときのほ うがはるかに脳 の働 く場所が広 く、活発である。女工 たちが文字を書いて覚えたことは、人間的発達の保障であつた。日本で昔か ら、書いて覚えた方法は、経験的な方法であうても、科学的な裏づ けがあつたのである。
テ レビゲームよりも、読み書き計算の方が、脳はよく働き、特 に前頭前野の領域が活性化 している。
前頭前野はものごとを考 えた り、覚えた りするときに働 くところで、感情や思考をコン トロール した り、創造力を発揮 した りするときに働 く領域である。川島隆太・東北大学教授 によれば、音読や単純 計算以上 に前頭前野を活性化するものは見つかつていない とい うことである。喜びを感 じた り、怒 り をなだめた りす るのは前頭前野であ り、好き・嫌い とい う気持ちも前頭前野がかかわつていることが 分かつてきている。 さきに、 ことばが情動 にかかわることを述べた。両者 とも前頭前野の支配すると ころである。その発達が読み書 き計算で促進 され るとすれば、人間教育は情感の表出が先ではな く、
読み書 きが土台にすえられなければな らない。その豊かな大地の上 に、感情の出 し入れが統制 される
128 花 井 信
べ きである。
また行動の指令を出 しているのが前頭前野であるか ら、最近の切れやすい子 どもは、脳科学者か ら すると前頭前野の機能が弱い、発達が未熟 とい うことになるそ うである。
読み書きが脳 の働きに大きな役割を果たす とすれば、人間の発達 に重要な意味を持つ。何気ない、
当た り前の学習行為が、人間にとつて絶対的な、欠かせぬ営み とい うことになる。
「師曰く学んで時にこれを習 う又楽 しか らずや」 と声を出す ことや、大きな声を出して歌を歌 うこ とは、意味ある学習行為である。考えているときの脳の働 きぐあい と、計算や音読の ときの脳の働 き ぐあいを くらべると、考 えているときはわずかな ところしか働いていない。黙読の ときと音読 してい るときとでは、音読 しているときのほ うが脳の活動範囲が広い。大脳の70パーセ ン ト以上 もの神経細 胞が働いていることが分かつた。そ うであれば、掛け算の九九 を声を出して言 うとい うことは、大 き な効果がある。また小 さな子が、「あい うえ
おお さま
朝のあい さつ
あ くびを
あん ぐり
ああ
おはよう」 と教科書を声を出 して読む ことは大事である。女工たちは、無言で長時間糸を取 る。その 行為は、テ レビゲーム と同じように、脳 の活性化 にはほとん ど役立たないのである。考えるとい うよ りかは、 日と手を機械的に反応 させ るだけである。それに対 して、文字を見、声 に出して文字を読む ことは、た とえ、初歩的な内容であっても、脳 の働 きとしては最高なのである。
製糸女工の特別教育 について、貧弱な実態であっただ とか、 レベルが低すぎるとか、労働 に疲れた 身体 に余計な負担 をかけただ とか言われてきた。 しか し、短時間であつても、読み書き算を習 うこと 自体 に、脳 を活性化 させる意味が認め られるのであって、その意義が認め られる今 日、ますます 「悲 哀」的教育史評価は退 けられなければな らない。
川島隆太・東北大学教授 によれば、同じ声に出 して読む ことでも、暗唱 よりも文字を見なが ら音読 するほ うが脳 は働 くとい う。だか ら、黒板 に書いた ことをノー トに写 させるよりも、教師が話 した こ とをノー トに書かせ るほ うが脳は働 くことになる。なぜな らば、一方で、耳で聞 くことにより音声言 語 を使い、他方で、手で書 くことにより文字的言語を使 うか らである。
なぜ音読のほ うが脳は働 くのか。りII島氏の説明ではこうなる。人間の言語 には文字的言語 と音声的 言語のふたつがあると言われている。脳はこのふたつを別のシステムを使つて処理す るようである。
文字的言語は目か ら入力 し、出力は手で書 くので、日にしたものがなんであるかを調べ る後頭葉か ら、
手を動かす場所 に情報 を伝 える。音声的言語は耳か ら入力し、出力は日か ら発するので、聞 こえた音 がなにかを調べ る聴覚野か ら、口を動かす場所 に情報を伝える。そ うであれば音読は、 日で見たもの を回か ら出 し、 さらに出した音を自分の耳で聞 くとい うことだか ら、文字的言語 と音声的言語の両方 のシステムを使 うことになるのである。
結
1922年 の冬、帰郷する女工たちに対 して、長野県の工場課は、「こうなさい六箇条」とい うビラを手 渡 した。そ こには、
一
来年製糸工場 に入 る約束をす るときには、契約書に書いてあることを能 く御覧な さい。
(中
略)三
御土産や移転料や居住料な どに欲の皮を突つ張 らずに、次のような工場 を選びな さい。
(イか らホを省略)
へ
特別教育を授 けて くれる工場
(中
略)五
尋常小学校 を卒 えてか らお入 りな さい。
な どとある。
厳 しい労働条件のなかでも、それが契約書 に違反 していないか どうかの、 自己吟味を求めるもので ある。そのためには、女工たちに教育が必要であった。文字に隠 された労働環境のイメージを読み解 く能力を形成するために、義務教育を終 えてか ら働かせたい とい う指導、無理ならば、せめて特別教 育の行なわれている工場を選びな さい とい う行政の意図が示 されている。
1910年 代の試験問題、読み書きの意義 にういて、現代の科学の成果 にたって考察 した。この方法に 対 して、1910年 代の心理学、教育学の立脚点か ら人間の思考の歴史的意味を検討すべきだ との批判が 出 されるかもしれない。 しか し、昔か ら今 にまでわたって続 けられている人間の行為に、現代の科学 で光を当てることは、 これまで未知であつた人間行動のメカニズム、合理性や法則性が明 らかになる ことであるか ら、科学の方法 として許 されることである。そ うしなければ、歴史はいつまでも遅れた もの として現代か ら排除 される。
もっとも、分析 と総合 については、1890年 代の教授法書 に、分解・結合な どといった形で頻出する。
だか ら、近代教育の幕開けを象徴する『小学読本』が、「凡世界に住居する人に、五種あ り、○亜細亜 人種、○欧羅巴人種、○亜米利加人種、○阿弗利加人種な り、○ 日本人は、亜細亜人種の中な り、」と 始めている手法は、分解法 とい うことになる。 したがって、1910年 代の試験問題を、分析・総合の認 識方法 に即 して説明す ることは、時代に即 した方法 といえる。
人々が 日常的に経験 によって積み重ねてきた活動を、現代の発達 した科学で検証することは、経験 則の科学性 を確かめることであ り、経験則の積み重ねが科学であることをも示す学問観なのである。
歴史的に繰 り返 されてきた人々の英知を、後代の人が理論化 し科学化することを通 じて、学問は発展 してきた し、学問の世代継承が行なわれてきた。人文・社会科学の概念・理論は歴史的であるとい う ことの意味は、おそ らくそ こにある。だか ら現代の科学で歴史的過去を考察することは、少 しも不当 なことではない し、む しろそ うしない ことは、現在のほ うが過去 より優れているとい う、歴史に対す る現代の思い上が りである。
[補
注1][補
注2][補
注3]岡本夏木『子 どもとことば』岩波書店、1982年 。
『大言海』によれば、穀物は、「人の、日日の飯 となし、糧 とするものの称」と説明される。
『広辞苑』第五版によれば、「けれ ども」は、助詞の説明としては、「前に述べた事柄から続 くと考えられる事以外の事が続 く意を表す」とまず記 し、第二の説明としては、「言いさし の文の最後に付けて、ためらったり相手の反応を待った りする柔らかな表現」とあるだけ である。前者が接続助詞、後者が終助詞としての語義である。接続助詞としては、第二の 意味を認めていない。ほかの国語辞書は、 日本語のゆらぎを反映していて、接続助詞とし ての説明として、「①対比的な関係にある二つの事柄を結び付ける。②前置きを示す」(『明 鏡』)のふたつの説明をあげる場合が多い。
実際に国語教科書を見てみると、東京書籍『新 しい国語』
(平
成12年度版、四上)によれば、「生活の中で気持ちを伝え合 うために、方言は欠かすことのできないもの」とあり、学習 欄で「欠の使い方」として、「会議の欠席者」とある。「席」とい う漢字はここで学ぶ。『新 しい国語』五上では、学習コラムで「次のことばを、「・¨できる」とい う可の うの意味を表 す言い方にしよう」 と出てきて、他方 「能」とい う漢字は、五下の物語 「大造 じいさんと
[補
注 4]130 花 井 信
がん」のなかで、「かれの本能は、そ う感 じた らしいのです」 と出て くる。
版が変わると、『新 しい国語』
(平
成 14年 版)でも、五下の 「マザーテ レサ」のなかで、「修道院を出る許可」とい うかたちで登場 し、賄ヒ」は五上のコラム欄「形のにている漢字」
に「技―技能
競技
特技」 として出ている。 どちらが子 どもが学ぶのにいいのか、専門 家ではないか ら判断できないけれ ども、筆者の考えるところでは、二方は「本能」のほ う がいい し、他方は 「許可」のほ うがいい。
[補
注 5]り│1島隆太『読み・書 き・計算が子 どもの脳 を育てる』子 どもの未来社、2002年 。本稿は、総合女性史研究会大会 (2004年 3月 27日)に招かれて報告 したものを文章化 したものであ る。拙著『製糸女工の教育史』で うま く具体的に展開できなかつたために、筆者のなかで懸案になつ ていた事柄をま とめることで、補遺 としたい。