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植 民 地 奴 隷 制 度 と 中 国 人 苦 力 貿 易   − 華 僑 経 済 史 に 関 す る 一 側 面 −

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全文

(1)

貿

須 山 卓  

農奴制が文明社会から消失し始めてまもな‑︑しかし新しい植民地奴隷制が出現した︒メキシコ︑ペルーにおける

スペイン人︑西部および東部ア7‑カにおけるポルトガル人︑マラッカ︑ジャワ︑セイロンにおけるオランダ人など

の過去における奴隷経済の樹立は︑奴隷供給のより完全な組織をもった︑より強固な︽強制︾および︽奴隷︾労働の

基礎のうえに築かれた経済的支配であった︒そして奴隷経済は'J.A.Hobsonの指摘するように︑それ自身において︑

( 1)

また︑あらゆる事情のもとにあっても︑損のゆ‑ものではなかった︑といった言葉に注目する必要がある︒事実二

八三〇年のヨーロッパ植民地が有していた奴隷は︑僅か二五〇万にすぎなかったが︑三位紀を通じて幾百万の奴隷が

植民地生産物中の﹁原料﹂として使用されをために流入した︒そして︑この生産物こそ'スペイン人︑ポルトガル人︑

( 2)

オランダ人およびイギ‑ス商人達の初期の巨富を形成した︒

またもう一つの例として,これより先きの一六一九年オランダ船が二〇人のアフ‑カ人をジェイムズタウンの植民

(2)

アフリカの奴隷貿易(経済l筆者注)は︑すでに一

OO

年以上経過していた︒ポルトガルは︑

ヨーロッパにアフリカ人たちを売りこんでいた︒奴隷貿易は︑まもなくイギリスやスペインに

( 註

3)

ひろがり︑南北アメリカの新大陸が発見されたときには︑その新大陸の植民地へと伸びていった︒しかしアメリカの

場合にみられるように︑当時︑奴隷貿易があり︑早くからやがて合衆国となる土地に黒人たちがいたにもかかわらず︑

奴隷制度は︑ただちに始められたわけではなかった︒イギリスの植民者たちには︑かれらの新しい植民地の基礎がた

( 註

4)

めを助けてくれる労働力が︑きわめて必要だったのである日そして︑その労働力の主たる担い手が奴隷であり︑それ

が奴隷経済を生んだのである︒

それならこうして生じた奴隷経済

H

植民地奴隷制の基本的生産関係の奴隷とは︑一体どういう性格のものなのか︒

さきに引用した

し ﹁ ロ ロ ロ

ω

円 ︑ ︒ ω

m w

の奴隷についての記述をもう一度ここで借用するとこう言っている口

﹁奴隷とは︑自動車や家や机が所有されるように︑他の人間によって所有されるとは︒売りとばされうる財産の一部

として生きるとは︑│母親から売られていく子供︑夫から売られていく妻︒人間とは考えられずに︑ひとつの︽物︾

として考えられるとは︒その︽物︾は︑畑を耕し︑木を切り︑食物を料理し︑他人の子供を養育する︒その︽物︾の

(中略)奴隷であると唯一の機能は︑読者よ︑あなたならあなたを所有する人間によって︑決定されてしまうのだ︒

は︑'人間性が拒まれている条件のもとで︑人間であるということだ︒かれらは︑奴隷ではなかった︒かれらは︑人間

( 註

5)

であった︒かれらの条件が︑奴隷制度であったのだ︒﹂

しかし︑こうした奴隷制もやがてその利益ある期間の限界が到来するならば︑必然的にその機能的一生を閉ざす運

命とならざるをえない︒アダム・スミスが﹁国富論﹂の中で指摘したように﹁あらゆる時代および国民の経験に徴す

るに︑自由人によってなされる仕事は奴隷によってなされるよりも結局安いようにみえる﹂といった状況︑すなわち

(3)

経済社会に資本主義的構成の歴史的発展が現実に到来し︑経済的上部構造のイデオロlグとしての人道主義者たちの

眼に奴隷制度が社会の政治的・道徳的に恐るべき変則として映ずるとともに︑それが害悪以外の何物でもないといっ

た風潮が一般化し支配的になってきたときにはじめて︑奴隷制の廃止は警鐙となって表面化されることを過去の歴史

は物語っている︒事実︑一八三三年にイギリスがニグロ奴隷を解放したのにはじまって︑フランスは一八四八年︑ペ

ルーは一八五五年︑ポルトガル一八五八年︑アメリカ一八六

O

年︑オランダ一八六三年︑スペイン一八七

O

年と相つ

いで奴隷制は廃止されている︒

こうして一九世紀にわたって行なわれた奴隷制の廃止という事実は︑まさしく画時代的な出来事の一つであった乙

とは確かであろう︒しかし言葉の包括的な意味において︑その内容において自由労働が奴隷労働にかわることを意味

しているとしても︑当時の現実の問題には︑自由労働が完全に自己貫徹をとげるための条件には︑なお社会経済機構の

内部に克服されなければならない諸条件の残浮があったと乙ろに問題があった︒L

c ‑

A

lルス女史の言葉を借

奴隷貿易および奴隷所有を効果的に廃止せんとするならば︑と前言しながらつぎのように述べている

﹁奴隷に代るべき何か他の運輸形態が提供されなければならなかった︒というのは︑奴隷は主要な需要物の一つであ

り︑したがって︑主要な交換品の一つであったからである︒そのうえ︑従来の奴隷をもってする年貢に代るべき他の

課税形態が案出されなければならず︑また︑農業に従事する奴隷労働に代るべき何等かの形態の自由労働が具備され

( 註

6)

なければならなかった︒﹂たしかに︑このこと自体奴隷制の廃止は︑従来の奴隷所有者的雇用主がいまやその労働者

個人を所有することなしに︑労働力を他に獲得しなければならないという生産の体制を︑新しい基盤のうえにおきか

えることを意味していた︒

しかし︑当時の奴隷解放過程における現実的諸関連のもつ多くの問題が﹁農業に従事する奴隷・労働に代るべき何ら

貿

(4)

144品 ︑

11

 

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J

かの形態の自由労働が具備されなければならなかった﹂とする経済的時代的要請が支配的であったとするならば︑そ

こに求められる自由労働の具体的形態は︑ヴェl・ライハルトがその著﹁前資本主義社会経済史﹂の中に指摘するよ

( 註

7)

うな﹁資本主義もまた奴隷制度の歴史に新しき一ページを書き加える﹂以外になかったのである日すなわち︑

主義的構成の時代は︑奴隷制度と賃労働とは相互に排除し合うことなく︑奴隷制度の新たな形態

l

植民地的奴隷制度

( 注

8)

を創設する﹂ことに活路を求めるほかなかったのである0・マルクスによると︑植民地的奴隷制度は︑その原型とし

て当初イギリスの綿業に児童奴隷制が導入され︑その初期の変形として合衆国の商業的搾取制度の中に多少とも家

く 0

己 円 四

ω

m w ︿ O

) 父長制的な奴隷制を誘発するに至ったことを指摘し︑事実︑このヨーロッパにおける賃労働の隠蔽された奴隷制

( 註

9)

は︑その脚台として︑新世界における露骨な奴隷制を必要とした︑と述べている︒つまり︑ (肝

FO

従来の

植民地に価値を与えたものは︑この賃労働の隠蔽された奴隷制度にほかならなかったのである︒

したがって︑奴隷制度の廃止後は︑若干のヨーロッパ諸国の植民地では︑いわゆる劣等人程の労働をやや長期の契

このシステムを奴隷制の代用物にしようと試みたが︑その多くの場合は合法的奴隷貿易という名目をと

らざるをえなかった︒この種のシステムが一八六七年頃の南海諸島やニュlカレドニアおよびフィジーなどのヨl

ッパ入植民地において行なわれていたことは周知とおりである︒それは初めのうちこそ︑自主的契約にもとずいて実

施されていたのであるが︑ん抗措貧慾な商人たちは︑まもなく自由契約のかわりに暴力や欺摘を利用しはじめ︑土着原

住民を甘言で労役船に誘いこみ︑暴力で留置したり︑また︑海岸や丸木船の上で捕えて船に連れこむなどの暴力をも

つでした︒しかも︑労働条件がどんなものであるかはほとんど知らされていなかったので︑彼らは合法の期間以上に

酷使される結果になった︒この貿易は久しからずして活動分野を拡大していった︒そしてこ乙に密接な歴史的関連の

もとに登場してきたのが︑本稿のテlマとする中国人苦力貿易とその展開過程である︒

(5)

( 註

1)

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O︿

O D

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門 口

C h VHh己 目

ωg

wE

U0

・松沢・住谷・阪本訳﹁資本主義論﹂一四ページ

( 註 2 )

A‑Jホブスン﹁前掲書﹂一四ページ ( 註

3)

ジュリアスレスタl木島始・寅寅秀訳﹁奴隷とは﹂岩波新書二ページ ( 註 4﹀ジュリアスレスタl木島始・黄寅秀訳

=

︿ 註

5)

ジュリアスレスタl木島始・黄寅秀訳﹁前掲書﹂一七ページ ( 註

6)

﹁の・﹀・関口

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開 ︒ ︒ ロ

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︿ め 吋

22

問自主

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ω ω σ

岡倉古志郎訳﹁イギリス植民地経済史﹂七八ページ

(

7)

l・ライハルト﹁前資本主義社会経済史論﹂永住道雄訳・叢文閥・二三九ページ

( 註

8)

ヴェ!・ライハルト﹁前掲書﹂二三九ページ

( 註

9)

マルクス﹁資本論﹂

ω

世界の大思想

m

五九五ページ

中国人苦力貿易とその歴史的背景

( 註

1)

中国人苦力貿易は︑インド人苦力の貿易制度とともにイギリスの砂糖植民

3 c m

旬︒♀

oE g)

の発達に依存した︒

そしてこの制度は中国人苦力貿易(吋

E O

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5

g口ぽ)︑だけを取りあげてみても︑それは著るしい展開を

( 註

2)

示した

c

このイギリスの砂糖植民はいわゆる立SEEg

ogと呼ばれる栽植植民地企業の一つとして開発され

たものであるが︑これはその名称がしめす通り周到な計画のもとに創造されたものであった︒したがってここでは砂糖︑

たばこ︑もしくはコーヒーのような一定の型の熱帯特産物の生産を目的として建設されたものであり︑その繁栄と発

植民地奴隷制度と中国人苦力貿易

(6)

J¥ 

展とは︑何よりもまず大規模農業生産あるいは海上貿易に依存してきた︒すなわち︑それは物質交換の可能性の基礎の

( 註

3)

うえに立っていた︒換言すれば︑一七世紀の末葉にいたるまでに︑ヨーロッパにおいて当初︑珍重物ないしは者修品と

乙れらすべての

生産に対するヨーロッパ資本の投下は増大し︑また西インドやアメリカ植民地の土着人口が不足をつげたとき︑これ されていた熱帯産物のうち︑砂糖や紅茶やラムもまた同様な需要をもつこととなった︒したがって︑

を補なうためにアフリカの奴隷が一一樫の投下資本として輸入されたように︑当初は貿易によって結ぼれていたヨl

(

4)

いまや永久的な投資関係にまで発展した︒そして︑プランテlション企業は植民地的資本企業ッパと熱帯の関連は︑

の一形態として︑必然的に資本の要求として︑その物質交換の基礎は資本機能の拡大のうえに統一されることが不可

避的となったのであるD

このことは︑その後における熱帯植民地諸地域の開発過程に支配的な意味をもつことになるのであるが︑それはと

もかくとして︑プランテ!ション企業においては︑その繁栄の基礎を支配するところの不可欠の要素は︑価値増殖過

程としての労働過程での直接的︑生産的労働者の存在であり︑その有無乙そが決定的な意味をもたらしたのである︒

すなわちプランテlションにおける農場耕作に従事する労働力確保の問題こそプランテ

i

ション企業の重要なきめ手

の一つだったのである︒たとえば︑イギリスのような︒フランテ!ジョン植民地においては︑そこで使役される労働力

が海外から輸入されたものか︑あるいは土着のものであるかによって労働効果に大変な相違があった︒したがって︑

イギリス植民地体制下にあっては︑輸入労働力を擁する一群の良業植民地としてはヴァlジニアおよび同州南方の大

陸諸地域および英領ギアナとホンデュラスを含む西インドのごとき諸地域のほか︑セイロン︑

l︑北

ボルネオおよびモlリシヤス等がそれに依拠したが︑土着労働力に依拠するグループとしては︑

(

5)

ヤおよび以前の旧独領植民地であったアフリカ諸植民地などが︑その代表的なものであった︒ ニヤサランド︑ケニ

(7)

プランテlション企業が以上のような性格のものである限り︑事実上︑植民地的奴隷制度および奴隷貿易を誘発し

た端緒は︑この種良国労働力に対する初期の需要であった︒そして︑この制度がすたれたのちにおいて︑土着原住民

を労働に誘引し︑あるいは強制する種々の方法が工夫された︒さもなければ︑

( 註

6)

ればならなかった︑からである︒ そのかわりに移民の供給を獲得しなけ プランテiション企業において支配的な地位を占めた砂糖業に︑奴隷制廃止によって労働力の不足がつげられ︑危

機にみまわれたのは一八四二年の西インド諸島においてである︒従来︑西インド諸島の︒フランテ!ション企業の基盤

は︑低廉な労働力に立脚しながらも︑なお労働力に不足が生じた場合には︑インドから苦力を輸入して乙れを補って

いた︒ところがイギリス議会は︑すでに一八

O

七年に奴隷売買の廃止を決議して以来︑その影響がようやく露呈され

つつあった過程において︑政府は率先して奴隷制度の廃止を強行し︑一八三四年甘庶栽培地では向う五カ年︑その他

の地方では四カ年の猶予期間をおいて︑乙れを撤廃するにいたった︒このためプランテlションでは多大の労働力不

足が生じた︒しかも一八四六年にはジョン・ラッセル郷

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F o ロ河口

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)

が砂糖関税の統一を実施したため︑

キューバ︑ボルトリコ︑ブラジルなどイギリスに対する有力な競争国が出現しただけでなく︑さらにドイツ︑

ス︑オランダ諸国が甜菜糖栄の拡張を図ったほか︑また︑アメリカも砂糖輸入関税を課したため︑イギリス糖業の不

利は一層促進される結果となった︒しかし︑これによってニグロ奴隷の輸入を復活し︑奴隷制度に逆行する乙とは他

の条件において一層不可能であったので︑何らかこれに代りうる対抗的な労働力獲得の方法が要求されざるをえなか

( F o E ω E E ‑ 3 )

を中心にした特別委員会を

組織するとともにその対策に乗りだしたが︑同委員会の主張は砂糖業の復活のためには︑他の新たな労働人口の移入

( 註

7)

によって︑その不足の労働力を補充強化する以外に方法がないということを結論づけた口 った︒イギリス政府は一八四二年(七月二六日)ロード・スタンレイ

植民地奴隷制度と中国人苦力貿易

(8)

マデリアおよびシエラ・レオ︑不等から労働力の輸入が行なわれ︑とくにそれに対して・

は年期奉行労働制度

3 3 g g

o

同﹀忘円

8 2

の g

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℃)といわれる特殊の労働補充の方法によってその危機を救済しょ

( 註

8)

うと図ったが︑結局のと乙ろ生産的労働者として間断なき継続労働への能力と傾向をもっといわれる中国人労働者が その結果︑インド︑

着目されるに至り︑ここにはじめて中国人苦力の輸入という事態が歴史的脚光を浴びる契機になった︒

それがはじめて論議の対象になったのは︑中国人の導入について︑

O

六年トリニダッド(斗ユロ包包)に一八二

人の中国人男子と一人の中国人婦人が導入されたことについてであった︒乙れは当時イギリス政府の長官であり︑後

に閣僚に昇進したキャプテン・レイマン(の

m w H u g E F m

可 w

B m w

Z・)の提案により農園主W

(

B g )

が輸入発起人となって実施したものであった︒これら輸入の中国人は砂糖︒フランテlションにおける使役のみが目的

であったが︑彼らの仲間のうちに婦人がいなかったことが︑不満の原因となりほとんど全部のものが本国へ帰えって

( 註

9)

しまった︒また︑一八一一年イギリスの下院委員は東方から自由労働者を英領西インド植民地へ供給することが可能

であるか否かについて提案し︑中国人についても︑その自由民は秩序正しきか︑あるいは勤勉なる習慣を判然と堅持し

(註叩)

ているかどうかについての調査がなされるよう提案したが︑これらの調査からは何ものもえられなかった︒

大規模な中国人苦力の最初の輸入は一八二九年モlリシヤス(マダカスカル島東方約五百浬)において実施された

( 註 日 )

このとき四

OO

人の中国人苦力が導入されたが︑彼らのすべてのものが︑一カ月足らずで帰国してしま

一八四三年には英領マレ!のマラッカ居住の中国人労働者が二回にわたって英領ギアナに輸入されたが︑第一回は

O

人︑第二回には五

OO

人が輸入された︒

(

)

れはもっとも成功をおさめたものであった︒しかし︑ 一八四四年一月一日までには全部で二︑

O

人の中国労働者が︑

このときはあたかもアへχ戦争が終結する前後の時期であった

(9)

ので︑強制的に連行された無事の中国人が多数であった︒

一八四三年五月︑英領ギアナの農園主たちは東方諸地域の旅行に出発したが︑ことにマレ!のシンガポール︑

‑ マ フ

ッカおよびペナン島の英領直轄植民地において︑中国人移民約一

O

万人が労働者として使役されている実情を目撃し

たとき︑彼らは深い感銘を受け︑その報告を西インド委員会へ送ったが︑それにはつぎのごとく報告されている︒

﹁プリンス・オプ・ウエ!ルズなるペナン島において二︑

000

エーカーの土地がもっぱら中国人労働者によって

開墾され︑酷熱の日ざかりに甘庶を収穫し︑水路を掘り︑あるいは甘煎を運搬したりしているのを目撃した︒そして

彼らはもっとも選択された西インドのクリlオルド(の

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ω )

が実行するのと同じようにすべての仕事を跨陪なく

やってのけている様を敢えて報告することができる︒気候は大部分が英領︑ギアナと同様である︒中国人労働者は強靭

で精力的であり︑幼年時代から骨折り仕事に慣らされ︑勤勉で金銭の獲得に熱心である︒

わたくしたちは︑苦力の諸階級やアジア諸民族をみたが︑乙こではわたくしたちが見たほど以上に自分たちの目的

( 註 日 )

に合致した人程を発見したととがない︒﹂と述べ︑さらに附言して﹁モlリシヤスの農園主のためて

000

人の中

国人労働者が海峡植民地から送り出された﹂と報告し︑英領ギアナにあっても︑中国人苦力一人につき一

0

ドルない

( 註 日 )

しは一二ドルの割合で陸上げできれば十分に引き合う可能性がある旨の意見を開陳した︒ギアナの委員会は右の報告

にもとずき︑さらに調査を進めるため︑一八五

O

年九月︑カルカッタ駐在の英領ギアナ移民処理局のジエムス・ホワ

(

ω 5 2

E

Z )

を最初の中国訪問使節に任命したが︑彼れは一八五一年五月ホンコンに到着し︑六月中国

を訪問してつぎのような報告を書き送った︒

﹁わたくしは西インドの移民のように植民事業のあらゆる観点において中国人がベンガル人以上に勝れているとい

( 註 日 )

うことを勧告するのに跨陪しない﹂と述べ︑さらにホワイトはその報告中に農業労働者の効果についても言及し︑西イ

植民地奴隷制度と中国人苦力貿易

(10)

ンドの場合の例を引用して︑つぎのごとく述べた︒

﹁福建・広東地方では西インド向け農業労働者は五年の労働契約のもとで帰国する乙とを約束する以外は︑輸入業

者に対して毎月四ドルの割合をもって食糧費および宿泊料が支払われつつある︒中国から西インドまでの移民給資は

インドからのそれよりも左程高価でなく︑後者は一人当り二二ドルであるが︑前者は一人当り一五ドルである︒年間

中移民を輸入することができればかなり経費は節約され︑また十一月と三月との聞の北東モンスーンの吹く季節に西

インドに船が運行されれば普通のときより三

O

日ないし四

O

日でもっとも経済的となり︑一方︑良国労働者はl農作 業は大部分冬季には休止されるから

i

すみやかにもっとも好ましい時期に到着することができる︒そして一日九時間

(

)

の労働を着実に進めることができる﹂︒

アモイ

乙のホワイトの勧告が受理されると同時に一八五二年十月には︑最初の中国人苦力の英領ギアナへの輸送が度門(

福建省)から行なわれた︒しかし︑このとき乗船した一五四人のうち︑航海中六九人が死亡するという悲惨な事故が

あって︑九五人だけが到着したにすぎなかった︒乙の同じ年に他の二隻の船が六五七人の中国人を輸送した︒そして︑

その二隻のうちの一隻のグレンタナl号(六一五トン)は三五

O

人の中国人苦力を度門から乗船させたが︑航海中四

三人が死亡し︑また他の一隻のサムエル・ボジング号(六六九トン)では三五二人の中国人苦力を同様度円から乗船

させたが︑航海中に六二人が死亡するに至り︑その結果︑この年ギアナに到着した中国人の数は全体で六五七人であ

(

)

00

ドルの補助金を支払することを当局に進言しホワイトは乙の実情に接し︑その後中国移民に対して一人頭割一

たが︑実際には八

0

ドルが支給されたにすぎなかった︒

ホワイトはその後イギリスを訪問したが︑一八五三年秋にホンコンに再び戻り︑英領ギアナ当局が一八五三年五月

(11)

に採択した計画にもとづいて一八五三

i

OO

人および若い中国人女子二

OO

人ないし三

00

人を試験的に移入する計画を実施することになった︒それに関して彼れは当局に報告書を送り﹁信頼すべき取引先き

の少女は一

O

才から一五才までの年齢で約四

0

ドルになるかも知れない︒したがってわたくしはこの額を支払う目的

からもっと信頼される移民の若干のものに対して︑彼らが出港前に結婚することを条件に契約させたい︒この望まし き考慮が西インドから帰国する中国人移民によってもたらされるとき︑この方法は婦女子を骨折りによって手に入れ

( 註 四 )

る手段を全く不必要にするかも知れない﹂と述べた︒それとともにホワイトは︑また無条約港の南決(広東省の潮州)

から苦力を乗船させる計画をたてたが︑

この二つの計画はイギリス外務省を極度に驚かせ︑そして﹁

oEQRg

をしてつぎのような意見を開陳さした︒すなわち﹁ホワイト氏の婦人移民を獲得する計画は最大の濫用に道を開くよ うに思われ︑それはイギリス領内の婦女子を売却することを法律的に承認するのと同様である﹂と︒その結果︑ホワ 苦 イ 力 ト 貿 は 易 イ の ギ 第 リ

の 当 局 局 面 か

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事 彼 態 れ で は 終 ー

末 八を 五

告 四

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明方

7 こ

しかし︑乙れより先き一八五三年一月および三月にいたる期間中は中国人の英領ギアナへの上陸はまだ許可されて

いたので︑この年に六四七人の男子移民がジョージタウンに上陸した︒つまり︑グレンタナ

i

号から二六二人︑ エンジン号から八五人︑そしてサムpエル・ボジングトン号から三

OO

人が上陸している︒それまでに英領ギアナに陸

(註却)

上げされた中国人婦女子はなかった︒これらの上陸苦力はギアナ領内の各プランテ!ションに割当て配分された

D

しかし︑乙のような苛酷な形武によって英領ギアナの各プランテ

lションに配分された中国人苦力は︑経済的には 所詮︑運輸中の損失によって高価なる労働商品とならざるを得なかった︒イギリス政府はこれらの事態を改善するた め一八五三年トlマス・ジェラルド(︑

H d o g g O O Z E )

を中国に派遣した︒彼れの計画によると︑中国移民に対し︑

植民地奴隷制度と中国人苦力貿易

(12)

もし男子一人二

0

ドル︑女子一人二五ドル程度で評価した価格をもって契約できれば︑男子二︑九九

O

人︑女子て四七

(註包) O

人を越えない程度の数の中国人移民を英領︑ギアナおよびトリニダッドに移入することが可能であるというにあった︒

彼れはこの計画を実施するのに︑ポルトガル領マカオから中国人苦力を輸送したため︑西インド委員会の利益代表 者としては︑その行為はプランタ

l

の歓迎するところであったが︑実際の面での手段において︑英領ギアナ政府およ

(註幻)

一八五九年七月イギリス本国に帰えされることになった︒びイギリス植民地当局の反対にあいリコールされて︑

一八五九年GJ・オースチン(戸︒・﹀ロω江口)は英領︑ギアナにおける移民に対して恒久制度を樹立する

(註幻)

ため︑イギリス女皇の勅令を奉じて中国に派遣されることになった︒彼れは一八五九年から一八六二年の三カ年聞に

医薬使節と協力して家族移民の制度を設け︑六︑六五三人の成人男子と一︑三

O

五人の成人女子および一九七人の幼 児とを輸送した︒渡航者の死亡数二五六人(二・八%)︑航海中に出生した八人の乳児を含めて二︑九

O

七人がジョ

ージタウンに到着した︒移民は一八六五年まで継続され︑さらに二︑六六七人の男子と七

O

六人の女子および一二三 中 人 国 の 人 幼 の 児 総 が 数 ー

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ま た た途中の輸送状況などについてはまさに現世の生地獄そのままで︑大仕掛けな誘惑と誘拐に満ちた徹底的な奴隷扱い

のそれに終結した︒しかしその裏面にはロ!ド・.スタンレイが一八四三年九月西インド委員会に回答を送ったときの 言葉に﹁中国人苦力の導入はおそらく他のいかなる人種の移入より解放されたニグロ奴隷以上に︑より効率的である

( 註 お )

ことを確信した﹂と述べているように︑中国人苦力を労働商品価値として高く評価する考え方と事実の存在があった︒

このことはただに西インド委員会だけの見解としてでなく︑プランテ

l

ション植民地を領有した当時のヨーロッパ各 国が共通的にいだいていた認識のそれであった︒したがって︑奴隷制度廃止後︑イギリスのホンコンにおける中国人

(13)

苦力貿易の取締りは一一屈強化されても︑依然としてその輸送は︑条約港から無条約港へと転々として処を変えて濫用

される結果となった︒

ところでイギリスの西インド当局が一八四九l五二年間に実施した中国人苦力に関する評価とその供給源になって

いる中国国内の事情についての調査は︑つぎのごとき結論を出している点が興味深い︒﹁南部中国の窮之は︑例年苦力の

大多数が必要に迫まられて移民している口乙れら中国移民は国内法律によって中国臣民にたいして禁ぜられ︑とりわけ

許可証を所有せざる移民であり︑.名目上は非合法的なものである︒しかし︑地方官憲はこれに干渉する乙とをしない︒

したがってこれら移民の実際数はさらに多数にのぼっている︒結果的には毎年飢餓に瀕した壮健な人聞が溢れ︑それ

らの一部のものは新世界の耕作者あるいは無断借地人

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として特殊の契約労働制度の経路によりすでに転

( 註 お )

用をみつつある︒﹂﹁また中国移民は西インドの開墾の促進にもっとも大きな価値となるに違いなく︑(中略)彼ら移

(註幻)

民の減退は野蛮的なニグロ売買に逆戻らしめ︑砂糖生産における奴隷制度を奨励することに導くであろう︒﹂

こうした中国人苦力に対する見解と判断は︑それ故にとそ︑実際的に現実の面において苦力貿易の根源を徹底的に

制しえざる理由となったのである︒

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Z包円)によると﹁西洋における低賃金労働の要求と︑中国の過剰人口とは

( 註 お )

東洋および西洋の良心なき商人たちのために暴利をむさぼるべき仕事を提供したのである﹂と述べ︑その苦力の供給

源には三つのルl

つぎのように指摘する﹁第一は広東省における閥族閣の戦いで捕えられ︑捕獲者によ

り中固またはポルトガルの人買人に内密に売却される捕虜︑第二は沿岸でとらわれる村民や漁夫︑第三はマカオにお

いて獲物を求めて俳佃しているブローカーの手先きのために賭博に引きいれられ︑負けた金額の支払いに代えて一身

( 註 お )

を委ねる者﹂が乙れであった︒

植民地奴隷制度と中国人苦力貿易

(14)

もちろん︑苦力貿易の取引過程には︑乙の程の大仕掛けの組織網のもとに合法性を名目に濫用が行なわれたことは︑

乙乙に改めて指摘するまでもないが︑これらの現象は社会経済的観点からすれば︑むしろ結果的な表面現象ともいえ

るのであって︑本質的にはより根本的な原因がそこに内在していることに注意を払う必要がある︒つまり︑具体的に

言ってそこには当時中国がおかれていた内外の社会経済的諸条件にもっと立ち入って限を向けることの必要性を指摘

したいのである︒

すなわち︑当時イギリスおよびフランスを先駆とする外国資本主義が中国社会へ侵入を開始したのは二八四二年の

アヘン戦争ならびに一八五八

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年のアロl戦争を発端としているが︑その時期はあたかも世界歴史の面では

奴隷売買の廃止期に逢着していた︒それと同時にイギリスおよびフランス資本主義の資本家的生産方法が中国社会に

もたらしたものは︑賃金労働者の不断の再生産と資本の蓄積に比例した中国人民大衆の相対的過剰人口とであり︑しか

もその生産方法たるや︑自然経済でなく︑市場と緊密に結びつき︑その需要に適応していた中国の家内工業や手工業

を強力に破壊しなければやまなかったと乙ろの︑いわゆる植民地的生産関係そのものであり︑それは経済外強制のも

とに新たに一雇用労働者が創造されていく収奪過程のそれであった︒じたがって当時︑中国はアへンとともにイギリス

製商品の多くを負担させられ︑中国人をイギリスの工業への貢納者となすためには最大の強圧が必要であった︒中国

人に﹁着物を着せる﹂ためには︑それを裸にしなければならなかった︒中国人をイギリス商品の﹁支払い能力﹂ある

(

)

購買者とするためには︑それを赤貧の地位に陥れねばならなかった︒しかも︑中国社会の農業と家内工業との結合は︑

ここでは単に自然物的経済関係の形態でなく︑農民の飢餓的食扶持の独特な保険であり︑農村﹁過剰人口﹂の生活資

(註担)

源であった︑そのものさえも外国資本主義はこれを破壊しなければならなかったし︑かつ破壊したのである︒

中国人民の窮之化は︑このような社会経済的基礎の崩壊によって分出されたものであって︑単なる社会的現象のそ

(15)

れではなかった︒こうした原因の支配のもとに中国人民大衆は︑窮之に晴えぎながら︑あるいは誘惑され︑あるいは

誘拐の対象になって苦力貿易の供給源をも形成する結果になった︒このことは︑

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六四

年の大平天国運動が外国の侵略的資本主義の侵入に対する農民大衆のもっとも典型的な自然的反抗であったといわ

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﹁洋鬼﹂に対するもっとも執掛かつはげしい斗争であったれ︑しかもそれは植民地奴隷制度を伴った外国資本主義・

ことを振り返ってみても十分首肯されるところであろう︒以上のように外国資本主義の中国侵略の結果︑招来された中

国苦力貿易は︑当時の中国政府の移民政策と植民地支配各国の中国人労働者に対する奴隷的招致欲求との聞に生れた

一穏の﹁崎型児的存在﹂であったということができるであろう︒

かくして輩出される中国人苦力の一群は一八四七年から一八七四年の聞に度門・広束・ホンコン・アモイ!とくに

後の二港ーから︑キユパi

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iおよびサンドウイッチ諸島に向って出港した︒その数二五万ないし五

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万に上ると推定され︑たとえば一八六四年にはアモイからキュパーに向ったものは四︑四七九人︑ペルlへは六︑二四

一八六五年にはキュパl

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七人︑ペルlへ八︑四一七人であった︒同じ二年間に当時のフランス国旗

( 註 お )

のもとで活動していたキュパl人代理官によって︑さらに二︑七一六人の中国人苦力が広東から輸送せられている

D

とりわけ︑ペルlにおける中国人苦力貿易のピ!クとしては一八七二年に二ニ︑三四一人が陸上げされたときであ

( 註 お )

るが︑一八七四年までペルlに輸送された苦力の総数は八七︑三四三人であったD

また︑カルフォルニアに陸上げされた中国人苦力の数は︑一八四九年の三二三人から一躍一八五二年には一八︑

四三四人に激増している︒一八四九

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一八六八年の二

0

年聞にサンフランシスコに陸上げされた中国人苦力の数も一

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八︑四七一人となり︑そのうち四五︑八八七人は右の期間中に帰国している︒また同じ期聞にオーストラリアへ渡

(註出)

った数もほぼとれに匹敵している︒

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(16)

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2)

大資本の投下によって熱帯地域において行なわれる大規模の農業経営をさすが︑その生産の目的とするものは概ね温帯

文化地域において生産し得られずして彼地に需要の多きもので︑これが大量の生産をなし︑そして概ね世界市場におい

て重要商品として取扱われるものである︒決して熱帯土着民の生活必需品に限られないものである︒これを栽植というの

は英語の

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の訳語であって︑樹木を植えつけることを意味したものであるが︑それはこの事業の初期におい

て樹木作物を以て主なる生産目的としたによる︒それは欧米人の主として行なえる農業経営型であって︑その経営者もし

くは投資者は必ずしも植民者にあらず概ね少数の監督者のみ移住し︑労働力は専らその他の土着民が︑外部労働の輸入に

これを需めているのである︒この監督者ないしは管理者がいわゆる栽植人

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円である︒その作物は世界市場に需要O

多き商業的生産をしかも大量に行なうのであるから概ねその経営は単作式である︒広大な農場に例えばコーヒー︑棉︑ゴ

ム︑タバコ︑ココ榔子等の各々一一位を栽培するのであって︑これら栽植作物

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ロの円︒宮の種類も比較的少数の

ものにほぼ定っている︒(富田芳郎﹁植民地理﹂叢文問︑昭和二一年︑一五九ページ)

( 註 3)L

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‑ A

lルス﹁前掲書﹂七八ページ

( 註 4)I

C

lヴス﹁熱帯閤の農業と労働﹂花田正男訳︑ダイヤモンド社︑昭和一八年︑四ページグリ

( 註 5)L

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‑ A

lルス﹁前掲書﹂七八ページ

( 註 6)L

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‑ A

lルス﹁前掲者﹂二八ページ

( 註

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8)

中国の勤労者(常に特に中国農民を意味する)は︑多く苦力として欧米植民地へ輩出されているが︑かれらの尋常ならざ

る労働の強制性は︑生理学的につねに︑科学的観察者の注目するところであった︒リヒトホlフエンによれば﹁粘り強い

根気と極端な忍耐﹂とは︑勤労しつつある中国人の特徴である︑と言い︑なお︑中国人の﹁生産的労働への傾向﹂すなわ

(17)

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(制。)

Noel  Deerr;  op

, 

cit.

, 

p.  399 

(制日)

Noel  Deerr;  Ibid.

, 

p.  399 

(制口)

Noel  Deerr;  Ibid.

, 

p.  399 

(制口)

Cecil  Clementi;  The  chinese  in  Britioh  Guiana

, 

1915

, 

pp.  7  ~ 8 

(制口)

Cec

i1 

Clementi;  Ibid.

, 

pp.  4'""  5 

(;l;ti~)

Cecil  Clementi;  Ibid.

, 

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, 

(制巳)

Cecel  Clementi;  Ibid.

, 

pp.  23'‑""24 

(柑出)

Cecel  Clementi;  Ibid.

, 

pp.  24 ,... 25 

(制口)

Cecel  Clementi;  Ibid.

, 

pp.  33"‑'35 

(制~)

Cecel  Clementi;  Ibid.

, 

p.  41 

(柑~) Cecel  Clementi;  Ibid.

, 

p.  43 

(制~) Cecel  Clementi;  Ibid.

, 

pp.  43"‑'44 

(制民)

Cecel  Clemen  ti;  Ibid.

, 

p.  61 

(制民)

Cecel  Clementi;  Ibid.

, 

P.  73 

(制民)

Cecel  Clementi;  Ibid.

, 

P.  62 

(制お)

Noel  Deerr;  op

ci

1., 

p:  400 

(;ttj~)

P.  C.  Campbell;  op

cit.

, 

p.  90 

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(18)

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(註初)サフアロフ﹁近代支那社会史﹂早川二郎訳︑白拐社︑昭和十二年六ページ

(註担)サフアロフ﹁前掲書﹂七ページ

( 註 お ) 出

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中国人苦力貿易の形態と待遇

または支払移民と呼び︑

名を﹁除単新客﹂ロロヨ広

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いわゆる自由移民のことである︒他の一つは渡航旅費の前借りのもので︑ 中国苦力の募集の内容には二つの方法があった︒その一つは渡航旅費の自己負担によるもので︑

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または未払移民と呼び︑いわゆる契約移民の乙とであるが︑一般には快資制︒円︒︐

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と呼ばれているものである︒初期の移民でペルlに輸送された大部分の苦力は︑いずれもこの紋

(

1)

資制によるもので︑その身分の取扱いについては奴隷として売買しないという保障はなにもなかったDこの契約制度

は︑その後急速に発達をみ︑その待遇はあたかも豚畜のように取扱われて売買されたので︑当時はアヘンの密売のこ

参照

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