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ベトナム問題の基本的考え方

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(1)

ベトナム問題の基本的考え方

重  藤  威  夫

2 3 4

序       説  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…  71

民族の歴史………・・ 73

生活環境(南北統一の必然性)…………・一・… 80

結  語………・・…・・83

序 説

 ベトナム問題を論ずる場合,根本的に重要なことは,先づその民族の歴史とその生活環 境(Lebensraum)について透徹した認識をもつことである。各民族にはそれぞれ固有の 歴史があることは勿論であって,その民族の歴史はその民族の性格形成に重要な関係があ

る。またその生活環境は各民族毎に異るものであって,それらの民族のもつ特殊な生活環 境は,それらの民族の政治,経済,社会等民族生活の形成其の他各方面に至大な影響を及 ぼすことは勿論である。従ってベトナムに限らず,現在ベトナム冑題と共に全世界の注目 を集めている。インドネシアの問題にしても,先づ第一に以上の諸問題について,根本的 な理解をもたねばならない。各民族の歴史や生活環境等の問題について根本的な認識をも つことによって,はじめて確乎不動の政策が生まれてくるのは当然である。これまで我国 の政府当局をはじめ指導階級のベトナム問題に対する論説やその政策観は何れも右の諸問 題についての根本的認識が不足し,従ってその政策が確乎たる信念から出たものとは見受 けがたいのである。佐藤総理をはじめ外相の国会における答弁などにあらわれたところで は, 「米軍の北爆もまた止むをえない。」などとペンタゴンの意見をそのま\繰返している にすぎない。これではアジアにおける先進国,指導国家として,東南アジアの安定に対し て重大な責任をもつ我国政府首脳部の見解としては国民にはなはだ頼りない感を与えてい ることはいうま℃もないことであろう。民族の歴史と生活環境について正しい認識をもち,

一定の政策を樹立し,一貫した方針で臨むべきである。

 筆者は昨40年3月末頃,20年振りでベトナムを再訪する機会をえた。昭和18年7月から

21年5月まで,第二次大戦中,約3ケ年間,南洋学院教授としてベトナムに在留した経験

がある。南洋学院がサイゴンに設立されていた関係で,主としてサイゴンに在留したわけ

であるが,学院の学生たちと共に農村実体調査のために,メコン。デルタ地帯の各地方を

踏査した経験がある。またカンボジヤにあるアンコール・ワットや中部安南の首都ユエお

よび北部ベトナムのソンコイ・デルタの申心に位するハノイにも足せきをのばしている。

(2)

昨年の旅行ではサイゴンおよびサイゴンから40キロ位はなれているビエン・ホワとチュー

・ドー・モを訪れたにすぎない。それ以上奥地に入ることは極めて危険であったからであ る。昨年の旅行の主目的はベトナムの最近の情勢を実際に体験することにあったが,その 他に戦時中の関係で20年前に訪問できなかったベトナム周辺の地域,バンコック・クアラ

ンルプール・シンガポール・ホンコン等を視察することも重要な目的であった。これらの 周辺の諸都市を視察することによって,サイゴンとの比較観察が可能になる。戦後20年に

わたる内乱の連続が如何にベトナムの経済その他の文化の各方面の発展を妨げたかという ことを実際に視察できたことは望外の幸であった。

 戦前および戦時中のサイゴンは小パリーと称されるにふさわしい美麗な町であった。熱 帯樹のタマリニエー,チーク,ゴムなどの深緑の並木道が,クリーム色の洋館と美しい対 照をなしていた。その間に熱帯特有のブーゲンベリアの真紅の花が年中咲き乱れ,街全体 にはなやかな色彩を添えていた。並木道のところどころには,優美なアオザイ服を着た意 企娘が点在する。パリーのように世界で最も壮麗な都市を造る能力をもったフランス人が,

初から周到な都市計画の下に苦心してつくり上げた都市であるから,美しくない筈はない。

長年の内乱で,昔時よりは大分町が汚くなっているが,まだ町の中心部は昔の美しい面影 が残って居り,現時点においても,町の美しい風景については,バンコック,クアラルン プール,シンガポール等の諸都市は遠く及ばない。セーヌ河流域のように何の変哲もない 平凡な田園の中心に世界最低の都市パリーを造ったほどのフランス人が・熱帯の特殊な色 彩に富み,変化の多いサイゴン地域で都市づくりに専念したのであるから・町全体として は,サイゴンの方がパリー以上に美しい町であると言いうる。これは両都市を実際に見学

した体験から右のように考えている。

 戦時中は接続都市であり華僑の町シヨロンを合せて人口30万位の都市であったが,現在 は150万位に膨張している。サイゴンの中心街は昔とかわらない美しさを見せているが・

華僑の町シヨロンは人口が増加したぼけで,昔の繁栄の面影はなく,雑然とした細民の多 い汚い町に変っている。これはベトナム政府の華僑圧迫政策のあらわれである。この点に ついては後述するが,これは戦時中と戦後のベトナムの著るしい注目すべき変化である。

 第二に注目すべき点は,サイゴンの都市の近代化が,周辺の諸都市に比べてはなはだ立 おくれていることである。バンコック,クアラルンプール,シンガポールなどの諸都市は 近代的な巨大なビルが立ちならび,欧米の近代都市に迫ろうとして居り,その近代化が大 いに進みつ\あることが看取されるが,サイゴンは植民都市としての美しさは,これらの 諸都市よりはるかに優越しているが,近代化という点では20年前と大した相違が見られな い。戦後できた近代的ビルといえばカラベル,ホテルが唯一のものであろう。ホテルの冷 房設備なども以上にあげた他の諸都市のホテルに比べると立ちおくれている。20年間の内 乱が都市の近代化を強く妨げたことは明かである。

 第三にサイゴン市民の衛生状態は,少しも進歩。向上が見られないどころか,むしろ逆

(3)

に低下している傾向がある。ベトナムでは一年中を通じてペストの流行が見られる。これ は戦時中にも見られた。戦後の現在でも相変らず流行している。但しベトナムに限らず東 南アジアの熱帯地方で見られるペストは,腺ペストであって,温帯や亜寒帯地方で見られ るような肺ペストではない。従って空気伝染しないので,爆発的な大流行にならないのが 熱帯のペストの特色である。年中流行しているといっても散発的のものである。昨年旅行

したときにサイゴンおよびその近郊で,ペストのほかにコレラが流行していた。コレラの 流行は戦時中の三年間は見られなかった。このことは住民の衛生状態が,長年の内乱で悪 化していることの証左であろう。また20年前は,シヨロン地区に陰惨なアヘン窟が諸々に 見られた。20年後の今日,もうすでにこのように陰惨なアヘン窟は消滅しているものと考 えていたが,依然として存続していることを知って,住民の不幸の深さを思知らされざる をえなかった。以上の事柄は,長年の戦争というものが,その民族にとって如何に不幸で あり,災をもたらすものであるかということを明白に物語っているというべきである。

二  民 族 の 歴 史

 ベトナム民族の歴史の著るしい特色は,過去2,000年にわたって,他民族の直接の支配 下にあるか或は朝貢国として,間接の支配下にあったということである。従って完全な独 立国としての歴史をもたなかったと言ってよい。

 西紀前から938年まで,約1,050年にわたって漢民族の領土であった。奏の始皇帝時代

(B。C.221−209)にすでに安南攻略が行われたが,完全に漢民族の領土になったのは, B.

C.111年に漢の武帝によって併合された時以後である。中国は漢(B.C.206−A.D.219)

以後は,三国,西岳,東告,南北朝,随(589−618),唐(618−907)と王朝の交代が行わ れたが,その間1,000年以上にわたって,申国の領土であった。唐が907年に滅亡した後,

中国は五代時代(907−959)に入るが,五代時代には中国内で内乱相つぎ,そのために植 民地への統治力が著るしく弱くなった。それを奇貨おくべしとして安南の呉権(Ngo)が,

中国に反旗をひるがえし,独立を宣言し,独立国家の建設に着手した。時に938年である。

その間1,050年にわたって,中国の直接の領土であった。

 中国は五代以後は,北宋,南宋(960−1279),元(1279−1368),明(1368−1644),清

(1644−1912)と王朝は交代した。その間約900年である。その間歴代の中国王朝はたえず 侵略軍隊を安国に送って,再び直接の領土になそうと試みた。しかしこの時代になると,

安南国も一応独立国家の体裁を備えているので,軍備を有し,抵抗を試み,往昔のように 簡単に中国の侵略を許さなかった。次に年代記的に中国により侵攻の歴史の概観を記す。

  981年…北宋軍来意したが,北宋軍大敗して本国に引揚ぐ。

  983年…安南国から北宋に使節を送り,好を通ず。

  986年…北宋は帝(安南)を封じて,安南都護となすあ北宋に朝貢す。

(4)

  1007年…北宋は帝を交趾郡王に封ず。

  1060年…北宋軍侵入したが,勝利を得なかった。

  1181年…南庭は帝を封じて,安南国王となす。

       宋に朝貢す。

 南宋は1279年に蒙古族の元の世祖(フビライ)によって滅された。中国には元の王朝が 始つたが,依然として安南への侵略軍はたえず向けられた。

  1257年…元軍侵入したが,元享は敗北した。

  1258年…安南国から使節を元に遣した。以後3年に1貢を常例とすることに定め,

       元の朝貢国となる。

  1262年…元は帝(安南)を灘南国王に封ず。

       〔註,元軍が我国に来塗したのは,1274年(文永の役)と1281年(弘安の役)の二回        である。〕

  1284年…元生来々。

  1285年…元軍来意し,元軍勝利を得た。安南国王は上皇と共に敗走した。そこで元        は冷酒を安南国王に封じた。元軍の支配は一時的であって,同年中に安南        国軍が勢を盛返し,古謡は敗走した。

  1288年…両軍侵攻したが,元山敗北。安南国軍は元の哨船300隻を捕かくした。元        軍の方では多数の溺死者を出した。

  1306年…元に朝貢。

 強盛を誇った元王朝も90年間中国を支配しただけで,1368年には明の太祖(朱元璋)に 滅され,元王朝は終止符を打った。ついで明王朝が始つた。明朝は1368年から1644年まで,

276年間にわたって中国を支配したが,安南国へは度々侵略軍を送っている。

  1406年…明の大軍10万人が侵攻し,明軍は勝利をえて安南の首都に入城した。

  1407年…明軍は安南国統活に着手し,地方官を任命した。

  1410年…安南国軍勢を盛りかえし,明軍を攻め勝利をえた。明軍の大部分の兵は本        国に戻らず,屯田兵として安倉に永住した。

  1414年…国民の風俗を明の風俗に習わせた。

  1418年…仁義来攻。

  1420年…侵略軍である明軍を破った。

  1425年…明転が大挙して来心したが,明軍は勝利をうることができなかった。

  1427年…明軍さらに来攻したが,出軍は大敗を招き,嬉和した。

  1431年…明に使節を送って,封を求めた。明に毎年5万両を朝貢することになった。

  1433年…明に使節を送り,封を求めた。

  1462年…明は帝を安南国王に封じた。

(5)

  1598年…明は帝を安南都遊心となした。

  1629年…明に歳貢をなした。

 明国は1644年に満州族である清国軍に北京を占領され,276年間中国を支配した法国は こ\に滅亡した。その後清国は1912年に中華民国が成立するまで,268年聞中国を支配し た。清国は1912年2月に宜統帝が退位し,滅亡した。清国の時代になっても,安南国は依 然として中国に対して,朝貢国としての地位から脱却できなかった。

  1663年…清国に二二をなした。

  1667年…清は帝を山南国王に封じた。

  1719年…清は帝を安濃国王に封ず。

  1787年…清の大軍が安南に侵攻した。しかし決定的な勝利をえなかった。同年清は        帝を安南国王に封じた。

  1789年…清軍の来攻があったが,二軍は大敗して引上げた。

  1824年…清国に二部をなす。

 清国は1912年に滅亡し,中華民国が成立したが,それ以前に山南はフランスの統治下に 入った。1862年にフランスと安南国との間に締結されたサイゴン条約により,南部インド シナの交趾支那がフランスに割譲され,その領土になった。その後安南,トンキン,カン ボジヤ,ラオスはそれぞれフランスの保護国になったが,実質上は何等フランスの領土と 異るところはなかった。その状態が83年間つづき,第ご高大戦後になってインドシナの政 治状勢は一変した。

 1945年にはホー・チ・ミン(胡志明)を大統領とするベトナム民主共和国が,トンキン に成立した。またフランスは1949年6月にパオ。ダィ(保大)を元首とするベトナム国を 建設して,安富と交趾支那地域に従来のフランスの勢力を温存しようと計った。パオ。ダ

イはフランスが印度支那全体に支配権を揮っていた間,安南国皇帝として虚位につき,実 質的には何等の統治権をも行使していなかった。第二次大戦後インド・シナのベトナム人 民の間に燃え上った熾烈な民族独立運動の前には,人為的なベトナム国の建設はあまりに も弱かった。小細工にすぎなかった感がある。かくて1946年から54年までの9年間にわた る内戦が経続した。それはベトナム民主共和国軍と主としてフランスの植民地軍隊との問 で戦われた。ついにフランス軍はインドシナから全面的に敗退することになった。しかし フランスは旧帝国主義的勢力をインドシナの中部および南部に温存しようとする野望を捨 てされなかった。1954年4月から7月までの間に休戦協定が成立し,ジュネーブ会議の結 果,北緯17度線でインドシナを南北に分割することになった。ジュネーブ協定は1954年7 月12日に調印された。1955年10月にはパオ。ダィが退位し,ゴ。ゲイン・ジェムを大統領

とするベトナム共和国が成立した。この17度線で南北に分割したということに,現在のベ トナム問題の根本的な禍根がある。この分割はフランスがベトナム統治の夢を捨て切れず,

旧帝国主義的勢力を温存しようという野望から出たことは明かである。

(6)

 以上において,ベトナム民族の歴史の素描を試みたが,ベトナム民族史約2,000年間を 通じて,完全な独立国家の時代が殆んどなかったことがその著るしい特色である。西紀前 から漢民族の直接の領土としての時代が1,000年以上つづいた。また19世紀の後半からは 83年にわたってフランス人の植民地時代がつづいた。その間の900年間は,形式上は一応

の独立国家の体裁を備えていたが,完全な独立国家とは言えない状態が経続した。

 その聞,中国の王朝は北宋・南宋。元・明。清と数次交代したが,安直国王は何れの王 朝に対しても朝貢国として,半従属国の立場をとった。安臥国王は歴代の中国の王朝から,

「安南帝を封じて,函南国王となす。」という封冊を受領するのに甘んじていた。この朝貢 国の形式をとったことは,安南国が中国に対する一種の安全保障政策であった。歴代の中 国王朝はベトナム統治の夢を忘れえず,たえず侵略軍を向けた。1406年の山国からの侵略 軍は10万の大兵に上ったこともある。しかし侵略軍は決定的勝利を収めることができなか った。敗走した場合も多い。1410年に侵略した明軍は一時勝利をえたが,四年後には海南 軍に勢力を盛返された。しかし明軍の大部分は本国に戻らないで,屯田兵としてベトナム に永住したという事例もある。これ以後,明朝の風俗が函南の社会に次第にひろがった。

侵略軍が決定的な勝利を収めえなかった理由については次のように考えられる。

 第一は938年以後のベトナムは一応独立国家としての体裁を備えていたので,或程度の 軍備を有し,侵略軍に対して抵抗したこと。

 第二に交通不便な当時にあっては,中国の本土からベトナムまで長駆遠征軍を送ること は非常な困難を伴ったこと。大部隊に供給する軍需品の輸送など大なる困難を生じたこと は明かである。それに伴って財力の消耗も著るしかったのは当然である。

 第三に熱帯地方には目に見えない大敵が居る。アラリヤ,アミーバ赤痢,細菌性赤痢,

コレラ,ペスト,デング熱等一年を通じて流行している熱帯地方に,医学が未発達の時代 に大軍を送ることは無謀に近い暴挙であった。900年間にわたって度々中国から侵略の大 軍が向けられたにか㌧わらず,侵略軍が決定的な勝利をえなかった最大の原因は,こ\に

あるといっても過言ではないであろう。

 安固王朝の方から見れば,侵略軍が決定的勝利を収めなかったにしても,度々の侵略に 対して防衛戦争を行うことは,国力を大いに消耗した。従ってできうる限り侵略の鋭鋒を さけるために,一種の安全保障として,朝貢国の形式をとったことはやむをえない措置で あった。しかしそのために完全な独立国家としての立場を捨て㌧,半従属国としての地位 に甘んじなければならなかった。この点は安南の地理的位置が,かかる政策をとらぎるを えないようになさしめたと言いうる。同じ東南アジアの熱帯地方でもパキスタン,ビルマ,

タイは北部に越えがたい大山脈を控えて居り,中国からの侵略は極めて困難である。それ に反して,ベトナムは広西省から容易に侵入しうる位置にある。そこには大山脈はなく,

道は平担で軍隊の輸送に著るしい困難はない。我国の場合は海を隔てているために,中国

からの侵略は,わずかに元軍からの侵略が二回行われたにすぎない。しかもその二回共侵

(7)

心打が完全に挫折して,引上げざるを得なかった。元の国王からの封冊に対しては,豊臣 秀吉のように破り捨てたり或は元の使節を斬首して事が終る幸運に恵まれた。

 以上のようなベトナム民族の歴史は,その民族精神の形成に深刻な影響を及ぼすごとは 否定できないであろう。それは熾烈な不退転の民族独立への欲求と徹底した反骨精神とな ってあらわれている。か\るベトナム人の民族独立の精神と反骨とは,我国のように未だ かつて外国の侵略をうけたことなく,外国の植民地としての苦難を経験したことがない民 族には,とうてい理解し難い深刻さがあると考えられる。我国の場合は,地理的条件が幸 して,世界史上稀有の幸福な民族の歴史をもっている。ホー・チ。ミンのように徹底した 反骨精神を貫く人間像は,ベトナムの民族の歴史的背景を抜きにしては考え得られない。

日本民族の歴史からはか\る人間像は生まれにくい。我国の場合は,沖縄の歴史がベトナ ムの歴史に似ている点がある。琉球は江戸時代,薩摩藩と清国とから二重に搾取をうけて いた。琉球は二つの国から植民地として遇されていた。薩摩藩の役人が琉球に出張して,

搾取をつづけている間は,琉球では薩摩藩の旗印をか\げ,清国の旗を隠しておく。薩摩 藩の役人が引上げた後,清国の役人が同様の目的で出張している間は,清国の旗を掲揚し,

薩摩藩の旗印は隠しておく状態が継続した。か\る苦難の歴史は我国の内地人は幸にして,

建国以来現代にいたるまで経験しなかった。従って,琉球の民族史からは反骨に徹底した 人間像が生れぎるを得ないと考えられる。その代表的な例として,共産党の故徳田球一を

あげうるであろう。か\る人間像は我国の歴史からは生れがたい。

 人間社会の歴史的事実として,時の権力階級に対して反逆的立場をとり,一生を反骨精 神を以て貫くことは,苦難の生涯を送ることにならぎるをえない。現世的な幸福にそむい て,いばらの道を歩むことになる。人間はだれでも一回しかない生涯をできるだけ幸福に 平隠無事に過したいとこいねがうものである。国家あるいは民族全体の幸福のために,あ るいは民族の独立のために,自己の生涯を犠牲にして,戦うということは,よほどの覚悟 がなければできないことである。如何なる時代,如何なる国家においても,国民の大多数

は先づ自己の幸福を追求し,民族全体のために犠牲的生涯を送ることをいとうであろう。

時の権力階級に追随して・できるだけ現世的な幸福を得られる生涯を送りたいと願うであ ろう。この類型の代表的な人間像を我々は,ベトナムではゴ・ジン・ジェムに見出すこと ができる。彼は米国の強力な軍事上の援助に安住して,現世的な幸福を追求した。そして ベトナム民族の生活向上のために,先づ第一に実行しなければならなかった農地改革を断 行する勇に欠けていた。いかなる時代,いかなる国でもこの種の人間像が圧倒的に多いの である。しかし極めて少数の民族のために犠牲となることをいとわぬ人間が, 「世の光・

地の塩」として,どちらにでも動き易い一般大衆を率いて進むところに問題の核心がある。

ベトナム民族も圧倒的な大多数は,おそらくゴ。ジン・ジェム式の人物であろう。しみ・し,

ベトナム人の平凡な市民の間に我々が想像以上に,民族の独立精神やフランス人に対する

敵がい心の強烈な人物を見出レてわζろい耀騨油るr南洋学院の部とレて御いや

(8)

たベトナムのインテリ青年の一人にそれを見出した。彼の言動からすると,ベトナムには 第二次大戦中あるいはそれ以前から,ベトナム人の間に独立秘密結社が存在していたこと

を充分に推察させるに足るものがあった。

 ベトナム人の民族独立への強い執念は,対華僑政策にもこれを見ることができる。東南 アジアの諸国のうち,比較的に完全独立をまっとうすることができたタイでは華僑に対し て,同化政策をとっているが,ベトナムでは戦後とくに強い圧迫政策をとっている。この

ことはベトナム人の強い独立への執念を示すものである。

 ベトナム政府は1957年に「華僑帰化法」を施行した。これは次のような内容をもってい

る。

 (→ ベトナム生れの華商は,ベトナム人とみなし,6ケ月以内に姓名を変え,国籍を変   更させる。

 口 華商経営の中学校を閉鎖する。

 日 華商が11種の職業につくことを禁止する。

 右の1腫の職業の中には精米業が含まれている。従来,長い間ベトナム農村からの米の 買集め,精米,輸出を殆んど独占し,ベトナムの米穀市場を支配して来た華僑にとって,

この法律は重大な影響を与えるもので,まさに死活問題である。ベトナム政府の華僑に対 する苛酷な圧迫政策のあらわれである。しかし往年の米国のカリフオルニや州の排日土地 法が実質的には皆野移民に大打撃を与えなかったのと同様に,この法律も実質的には華僑 に大打撃を与えるものではない。その理由は,現在,南ベトナムには1,035,000人の華僑 がいるが, 900,000人以上はベトナム国籍の取得者であるからである。この法律の公布前 に,いち早くベトナムに帰化したり,或は経営をベトナム人名義に変更したりして,たくみ にその圧迫から免れることができるからである。その抜け道は容易に見出すことができる。

      昭和40年3月にシヨロンを       魂

       訪れたとき,20年前の繁栄に        比べて,その精米工場のさび        れ方のひどいのにおどろいた

ショPンにある多数の精米工場の一例。戦時申は年中さか んに操業していたが,今は開店休業に近い状態である。

(40年3月筆者撮影)

が,その重要な原因の一つは 華僑に精米業の経営を禁止し たことによるものである。そ のためにシヨロンに集中して いた精米工場が,南ベトナム 各地の農村に分散した結果,

シヨロンがこれまでベトナム

の精米工業を独占してきた地

位を失った。戦時中まではシ

(9)

ヨロンは精米工業の町と言っ てよいほど,それによって繁 栄していた。その当時シヨロ

ンの10万位の人口は大半精米 業によって生活していた。イ ンドシナの中部から南部にか けてベトナムの精米業は殆ん ど全部シヨロンに集中してい た。第二の原因は.戦後20年 間にわたる内乱つづきで,南 ベトナムの米作の中心地であ るメコン・デルタ地帯が戦場 化し,米作農業が衰えたこと である。全盛時代には年間 150万トンの米を輸出してい た米の大輸出国が,現在では 逆に年間30万トンの米を輸入 しなければならなくなってい る。このことも見過してはな らない大きな事実である  本年3月14日にサイゴンで,

資産40億円ピアストル(約200 億円)といわれる華商ダ・ビ ン(35才)が銃殺刑に処せら れた。彼はグエン・孔門・キ

 ショロンにある米輸送船,戦時中は80キP位の重い米袋を 苦力が肩にかついで,工場から運びこむ風景がさかんに見ら れた。今は空船が多い。 (40年3月筆者撮影)

シヨFンとサイゴン港とを結ぶ支那運河(arroyO chinois)

戦時中は米輸送船の往来が盛であった。写真の奥の方がシヨ ロンになる。         (40年3月筆者撮影)

首相が,汚職役人と悪徳商人を裁くために新設した特別法廷の最初の被告であった。鉄棒,

鉄板,せんいの輸入で不当な利益をえたのが原因であると伝えられている。これは戦時中 の非常時態が生んだ特別のケースには相違ないが,その根本には過去数世紀にわたって,

ベトナム経済の実権を支配し,巨富を蓄積してきた華僑に対する現地人の根強い反感がひ そんでいることは疑いえない。

 以上ベトナム政府の華僑圧迫政策をみてきたが,タイは同化政策をとっている。タイに

は現在,約3,800,000人の華僑が住んでいる。これは全人口の18.2%にあたる。タイ政府は

大体において華僑の大資本には同化,定着化を促す政策をとっている。最:も有力な華僑資

本家50人のうち73%,また次に有力な100人のうち一60%はタイの支配層と密接に結付いて

いる。これらの有力な華僑資本は,従来の商業資本中心から向上レて,次第に産業資本と

(10)

して定着化する傾向にあり,新設工場の大半は華僑資本によるものといわれている。しか しタイ政府も全面的に華僑同化政策をとっているわけではなく,国家意識,国民主義の立 場から,中小華僑資本や華僑の下層階級には圧迫政策の方向をとっている。しかしベトナ

ムに比べるとそれは寛大で,まだ著るしく表面化していない。

三  生活環境(南北統一の必然性)

 1954年ジュネーブ協定により,17度線でベトナムを南北に二分したことは,フランスが 帝国主義的残存勢力を温存しようとする苦肉の政策から出たことは明かである。白人の間 には昔からアジアをその植民地とみる考え方が根本にあると思われる。こ\に現在のベト ナム動乱の根本的禍根がある。元来ベトナムは安南と称されていた昔から南北に分割され ては生きて行けない国である。昔から南方の米と北方の鉱産資源一ホンゲイの無煙炭など 一との交換関係によって,経済的に生存をつづけてきた国である。これを南北に2分する

こと自体に根本的な誤があるのであって,分割がつづく限り永久に紛争は絶えないであろ

う。

 元来地理学的にはベトナムは,世界で人口稀薄の国とされている。ベトナムの人口は 1936年度には23,030,000人であったが,最近では,31,000,000人に増加している。こ㌧に いうベトナムはトンキン,安野,ラオス,カンボジヤ,交趾支那を含む旧仏領インド・シ ナ全体である。戦前における一平方粁当の人口密度は次のようになっている。

      1∵概1齢_

      二∵ぞ嘉::::∴/

 我国内:地の戦前における一平方キロ当の人口密度181人に比べると,約6分の1にすぎ ない。フランス本国は75.9人である。か㌧る数字からベトナムは世界における人口稀薄の 国の部類にあげられている。しかし平野地方だけに限ってこれを見れば,逆に人口過剰国

と言わねばならない。ベトナムでの人口の大部分はトンキン。デルタ,中部の海岸近くの

平野,メコン・デルタに集中している。とくにトンキン。デルタの人口密度は世界で屈指

の人口過多地域の一である。山岳地方をも含めた場合には統計的に人口稀薄の観を呈する

が,それでは問題の解決を誤るおそれがある。ベトナム人のほとんど全部はデルタ地帯に

のみ居住し,山岳地方にはモイ族,モン族,メオ族等と称される極めて少数の山地民族が

住んでいるにすぎない。彼等はインドネシア系の低級な民族で,焼畑農法などによって生

活している。とくにモイ族は南部インド。シナの山岳地帯に多いが,年中半裸体で,男子

は主として狩猟に従事している。

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 しからば,何故人口の大部分がデルタ地方に集中するのであろうか?ベトナム人の殆ん ど全部は山岳地帯を避けて,デルタ地方にのみ集中して生活している。これはベトナム問 題を考える場合に見逃してはならない重要な点である。ベトナム人が山岳地方を避けて,

平野地方にのみ集中する理由は,山岳地方にとくに熱帯性マラリアが一年を通じて,強い 勢で流行しているからである。元来ベトナム民族は有史以前から,幾千年という長い間,

マラリアと戦って来た民族で,温帯地方の民族に比べると民族全体として,マラリアに対 して一種の免疫性。抵抗力をもった民族である。しかしさすがのベトナム人も熱帯性マラ リアに対しては,おそれをなして山地を避けて生活している。熱帯性マラリアは山地にだ け集中的に流行しているもので,平野地方には殆んど見られないものである。平野地方に は3日熱と4日熱の二種のマラリアが流行している。マラリアには熱帯性,3日熱,4日 熱の三種がある。その中で熱帯性マラリアは一名悪性マラリアとも言われ,危険な症状を 呈する。これが永引くと黒水病と称される悪性貧血に陥り,死亡率は高い。これにはマラ リアの特効薬であるキニーネは効かない。ドイツで製造されている合成薬アテブリン,プ ラスモヒンが効くだけである。3日熱,・4日熱はこれに比べると症状が軽く,キニーネに よって治療できる。ベトナム人は3日熱,4日熱に対しては,民族として一種の抵抗力・

免疫性を持って居り,この種のマラリアに対しては彼等はほとんどおそれをもっていない。

 熱帯特有の疫病という温帯地方の国々では見られない特殊な原因によって,人口の殆ん ど全部が平野地方,とくに北部のソンコイ河と,南部のメコン河の二つのデルタ地帯に過 度に集中する結果,一般的に過剰人口のなやみをもっているが,とくに北部のソンコイ●

デルタ地方では昔から過剰人口,食糧不足になやまされつづけて来た。その解決策として・

−毎年北部の過剰人口の南部への出稼ぎあるいは移住があり,同時に南部から米を15万トン GO7万石)以上の移入が行われた。第二次大戦中,南北を縦貫する鉄道の鉄橋が米軍の軍 用機によって破壊されていた\めに,トンキン地方の食糧不足は深刻であった・とくに 1944年秋から1945年春にかけて,ハノイ市内だけで毎日数十から数百の餓死者の死体が道 端などにころがっている惨状を呈した。まさに我国の天明の大豆饅を想わせるものがあっ た。その当時餓死者はトンキン地方で200万に達したといわれる。これは米軍の上陸に備 えて, トンキン駐在の日本軍がラオスの山岳地帯に篭城するために,食糧の大量徴発をや ったからである。南部のメコン。デルタ地方はその当時でも比較的に米に恵まれていた。

 元来ベトナムは昔から米の大輸出国として知られている。戦前は平均毎年150万トン

(1,000万石)位の輸出能力があった。しかしこれは貧乏な農民の犠牲によって,これだけ

の輸出がなされて来たのである。農民の生活程度が向上して,農民が米を主食とするよう

になれば,米の大輸出国にはとうてい成りえないのが実状である。ベトナムには0.5層目

タール以下の零細農民が圧倒的に多い。従って彼等は貧乏である。他に産業らしいものは

ないので,彼等の生活は主として米に依存している。米はすぐ金になるので,彼等は米を

売ってほかの生活必需物資を購1入する。また一年間の生活資金を精米業者である華僑から

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前借して,青田売買により,収穫した米は殆んど全部華僑の手に渡る。貧乏な農民は米の 代りにマニオツク(manioc)を主食としている。米の大生産国でありながら,農…民が米を 主食としないのは不しぎな現象であるが,彼等の貧困な生活がか\る生活をよぎなくして いるのである。マニオックは一年生の高さ一米余の灌木の根からとった澱粉である。我国 のタロー芋の一種で,さつま芋の形状をしている根を乾燥させて,それから澱粉をつくる。

その澱粉から我国のウドンに似たものを作って主食としている。芋類であるから栄養価は 米に劣っている。蛋白資源としては,デルタ地方のことで,クリークがいたるところにあ る。そこからとれるナマズ等の川魚類をたべている。戦前には交趾支那では米産出量の約 50が国内で消費され,残は輸出に向けられた。トンキン,アンナンは人口過剰地帯で,輸 出能力はなく,とくにトンキン,ラオスは国内消費に不足している。

 耕地の所有関係ではトンキン,アンナンでは0.5ヘクタール以下の零細土地所有者が圧 倒的に多い。我国では戦後の農地改革前に0.5ヘクタール以下の農民は34.996であったが,

トンキン,アンナンではその2倍に上っていた。

 交趾支那ではとくに米田が大土地所有者に集中している。交趾支那の米田総面積は2,30 0,000ヘクタールであるが,米田の45%は50ヘクタール以上の大土地所有者の手中にある。

また米田の60%が小作田である。

 トンキンの農民人口の約3分の2は,半隷農的雇農階級である。彼等は零細土地所有者 で,生活費の半分を賃金所得に依存して居り,賃金を求めて季節労働者として村から村へ 渡り歩いている。トンキンの過剰人口は,毎年数万人が交趾支那に主として移住する。そ の中の一部はカンボジヤや太平洋の仏領植民地に移住している。

 ベトナム農民の貧困を救うために,先づ第一にやらねばならぬことは,農地改革である。

大地主の手から零細農民に土地を再分配して,農民の生産意欲を高めねばならない。そし て稲作の生産性を向上させることが,ベトナム農民の生活を向上させるための最も重要な 基本的政策となる。1955年にベトナム共和国(南ベトナム国)成立後,ゴ。ジン・ジェム 大統領が,先づ第一にやらねばならなかったことは,この農地改革であった。しかし彼は それを断行するの勇がなかった。彼以後の大統領もそれをやらなかった。そこに現在,ベ トコンに乗ぜられる隙があったと言わねばならない。ベトナムは米以外には,大して産業 らしい産業はないのであるから,米の生産性を増加して,輸出の増加をはかり,その輸出 に見合うものとして,工業化に必要な資材やプラントの輸入を計らねばならない。同時に それは農民の生活を向上させるための有力な方法となることは勿論である。たゴ先進国の 援助にだけ依存することは、国家,国民の将来のために禍根を残すことになる。

 戦前からベトナムの一ヘクタール当の米の生産量は,我国の3分の1以下であったが,

最近においても,我国の生産性が著るしく増加しているので,その差は更に大きくなって

いる。1959年一60年にかけて,南ベトナム国の水稲,ヘクタール当もみ収量は,2.121ト

ン(1段当1石3斗位)である。我国の水準に引上げるためには,収量を約4倍に増加させ

(13)

ねばならない。これは稲作技術の改良によって,容易に成就できることである。稲作のた めにはいわゆる最適条件の地(optimum)であって,その自然的条件に恵まれていること は我国よりはるかに上位にある。長い間の内乱のために,生産性の向上どころではなく,

逆に生産量の減少により,外国から年間30万トンの米の輸入を仰がなければならない状態 である。このためにも今の動乱の即時解決が望まれる。

四 結 語

 以上の二つの基本的考え方を前提とすれば,結論は次のように明かである。その結論を 書く前に,米国大統領の考え方の誤を指適しておかねばならない。

 ジョンソン大統領は1965年4月7日にジョンス・ホプキンス大学での講演中で「我々は 欧州の自由のために戦い,その防衛に成功した。米国はベトナムでも自由を防衛する責任 がある。」という趣旨を述べている。また同大統領は,同年7月28日に記者会見をなし,そ の席上で「ヒットラーを早期に叩かなかったことは誤であった。そのために我々はあれだ けの犠性を払わねばならなかった。ベトナムでもそのような誤を犯してはならない。」と いう趣旨を述べている。米国の現在のベトナムにおける軍事行動が,アジアにおける自由 の防衛のための戦であって,帝国主義的侵略のためのものでないことは認めるが,それに は他に適当な方法がある筈である。元来温順そのもので,血なまぐさい惨酷な戦などとう ていやれそうもないベトナム人を駆り立て㌧,戦斗を継続し,彼等を塗炭の苦みにおとし 入れるような非人道的行為は許されない。またヒットラーとベトコンとを同一視している が,これは根本的に誤である。ヒットラーは初から明白に欧州,および世界征服の野心を もつていた。ベトコンにはか\る大胆不敵な野心はない。ベトコンの実体は把握しにくい が,彼等は共産主義的侵略のために南下しているというよりも,むしろ民族の独立心が旺 盛で,南北統一の悲願を根本目的として行動していると考うべきである。また彼等は昔か

らベトナム人がなして来たことをなし,なすべきことをなしているにすぎない。なして来 たことというのは,トンキンの過剰人口が毎年生きんがために南のデルタ地方に出稼ぎ或 は移住してきたことを意味する。またなすべきことというのは,農地改革を意味する。

 の ベトナムの民族の特有の歴史から生じた特殊な民族精神,即ち,反骨に徹底し,敵 がい心が旺盛であるという観点から考えるならば,米軍が現在行っている北爆は間題の解 決をますます悪化していると言わねばならない。それはベトナム人の反骨や敵がい心を一 そうあふりたてるだけで,閥題の解決どころか,逆に困難を一そう大にしていると考えら れる。北爆がつづけられている限り,ベトナム民主共和国政府は,フアン・バン・ドン首 相が,1965年4月初旬に提起した次の四点から一歩も退くことはないであろう。

  (1)ジュネーブ協定に基き,アメリカは,ベトナム南部から撤退する。北部に対する

   戦争行為を停止する。

(14)

  (2)ベトナムの平和的統一まで,南北いずれも外国の軍事基地,軍隊,軍事要員をお    かない。

  (3)南部解放民族戦線の綱要に基き,南部のことは南部の人民が解決し,外国の干渉    を許さない。

  (4)ベトナムの平和的統一は,ベトナム人民自身によって解決し,外国の干渉を許さ    ない。

 口  第二の観点,即ち南北を統一しなければ,ベトナムは民族として生存できない生 活環境の下にあるということから見れば,ベトナム問題解決のための根本条件は,17度 線を撤廃して南北の統一を実現するということになる。これを実現しない限り,米軍が如 何に軍事力を増強してもベトナムの紛争は永久に絶えることはないであろう。1965年3月 末当時,ベトナムに派遣されている米軍の兵力は8万人であり,米軍が使う軍事費は一日 に4,500万ドルに上っていた。7月頃はさらに12万人となり,その後17万人に増強され た。また韓国軍も2万人が参加している

 しかし米軍が如何に兵力を増強し,大兵力を以てしても,ベトコンが農民の心を把握し ている以上,勝利を収める見込はほとんどないであろう。米軍の軍事行動が永引けば,永 引くほど,ベトナム人をますます塗炭の苦に追込むだけで,問題の解決には一歩も前進し ないことになる。米軍の支配力はかって第二次大戦中,日本軍が支那大陸で経験したよう な点と線の占領にすぎないのがその実状である。

 ベトコンが南ベトナム国の農村の大部分に浸透し得た理由は・彼等の手で行った農地改 革がベトナム農民に歓迎されているからである。農地改革にベトコンが先鞭をつけたこと が,彼等が成功した主なる原因である。南ベトナム政府もおくればせながら,1965年9月 以来農地改革に着手したといわれている。その政府の発表によれば,昨年9月以来所有権 が不明となった旧フランス人所有の農園などを3,000戸あまりの農…家に配分し,さらに22 万家族に135,000ヘクタールの休閑地を払下げた由である。政府の農地改革はあまりにお そきに失して居り,まだ着手したばかりで,今後どのような成行を示すか注目に価する。

これはすでに大部分め農村でベトコンが実行した後のことであり,政府の農地改革には露 なる期待はかけられないであろう。メコン・デルタ地帯にすでにベトコン政府が成立して いることは,次の諸事実から大体推察される。

 (1)ベトコン側から発行された自動車道路通行税の領収証が存在する。

 (2)Esso(米)やShell(英)の石油会社がベトコンに税金を支払っている。これは石   油スタンドを爆破されないためである。

 (3)フランス人等が経営している大農園ではフランス人はベトコンに税金を支払ってい   る。

 以上の諸事情はベトナムにおける米国軍の軍事行動を正当化する根処は一つもないこと

を示している,問題の解決には先づ米国軍がベトナムから撤退するζとが先決問題である

(15)

ことは明である。勝利なき戦をいつまでも継続して,貴重な人命を犠性にし,また物的に 莫大な損失を招くことの愚を米国政府と米国軍当局がさとって,先づ米軍が引上げること が,アジア全体の平和確立のために要請される。

 それから後のことはベトナム人の自主的な解決にゆだねるべきであろう。ベトナム国家 にとって当面の重要な問題は,強力な中央集権的近代国家の建設であろう。そのためには 不合理な17度線をまつ第一に撤廃し,南北の統一を計らねばならない。米国軍が引上げ た後は,ホー・チ・ミンを大統領とするベトナム民主共和国がベトナム全土を支配するこ

とになるであろう。しかし如何なる政治体制,経済組織をとるかということは,その民族 の自主的な判断にまかせるべきであって,あえて外国が干渉すべきことではない。ホー・

チ・ミンが全土を支配することになっても,ベトナムがすぐに共産化するとは考えられな い。南部の仏教徒,カトリック教徒等は民族主義の色彩が強く,反共産主義者であるから,

彼等の勢力は軽視できない。南北統一,中央集権国家建設後,直ちに憲法を制定し,国民 議会を創設すべきである。議会制度を通じて民主的な政治の運営をなすことが,ベトナム 国家100年の大計のために望まれる。立憲共和政体が望ましい。デイクテーターシップ

(独裁制)による共産主義国家の建設は,ベトナム人民の政治思想の発達を妨げ,彼等の 不幸の源となるであろう。立憲共和政府の下に,共産主義者は左派政党を組織し,仏教徒,

カトリック教徒等は右派政党を組織し,暴力によらず言論を通じて,多数決の原理により,

円満な政治の運営がなされねばならない。その後においてはじめてベトナム国家の近代国

家としての隆々たる発展が期待できる。

参照

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