著者 金城 珠
雑誌名 掛川市・大須賀地区. ‑ (フィールドワーク実習調 査報告書 ; 平成28年度)
ページ 21‑26
発行年 2016‑12
出版者 静岡大学人文社会科学部社会学科文化人類学コース
URL http://hdl.handle.net/10297/9956
大須賀地区の住民と年中行事との関わり
~地域における伝承~
金城珠
1 はじめに
2 大須賀地区における年中行事 3 年中行事の衰退と復活への取りくみ 4 継承することの意識
5 おわりに
1 はじめに
静岡県掛川市大須賀地区について町史などの文献を調べたところ、毎年 4 月に行われる 三熊野神社大祭が地域の最も大きな行事であることがわかった。この大祭を支えているの は地域住民の強い繋がりではないかと考え、このことから大祭以外での地域住民同士の関 わり方に興味を持った。民俗学者の宮田登によると、年中行事や冠婚葬祭は日常生活のリ ズムをつくる重要な儀礼であり、基層文化の根幹をなす主要素として、それぞれの地域社 会の歴史的条件に規制されながら今日まで伝承されてきている(宮田 2006: 18)という。
つまり、年中行事にはその地域の特色が色濃く反映されている。そこで私は年中行事に焦 点をあて、大須賀地区の特色と、どのように地域住民が年中行事と関わっているかについ て調査することにした。本章では年中行事とそれを通した大須賀地区の人びとの関わりを 見ていきたい。
2 大須賀地区における年中行事
まず、文献や地域の人からの聞き取り調査でわかった大須賀地区の年中行事について紹 介する。
サナブリ(6月下旬)
昔から日本の農業の中心は稲作で、その作業過程の折り目ごとに様々な儀式が行われて きた。サナブリもそういった農耕儀礼の一つであり、その風習は全国各地でみられるが、
その意義については種々の説がある。
一つは、正月に山奥から村里へと降りてきたサという田の神が、田植えが終わると田か ら天へとのぼる(サノボル)という意味からきているというものである。
二つは、田植えの終了を祝い農休みの日とするものである。三つは稲作の順調を願う農 作祈願を意味するものである。四つは各家の悪い神を追い払うという厄払いや家内安全を 意味するものである。今回対象とする大須賀地区大渕のサナブリは、もともとは豊作祈願 を意味するものであったそうだが、現在は厄払いとしての意味合いが強いという。またこ の地域では、サナブリは子どもたちによる民俗行事として継承されてきた。大渕地区は現 在、野賀、新井、中新井、岡原、浜、東大谷、野中、藤塚、雨垂の 9 区からなるが、その うち東大谷を除く8区でサナブリが行われているという。
今回の調査では、新井区在住のA氏(男性)に話を聞いた。A氏の説明によると、サナ ブリは各地区で独自のやり方があり、地区の特徴を表す行事となっているという。新井区 では毎年 6 月の下旬ごろ、子どもたちが鐘の音に合わせて笹を振り、唱えごとをしながら 深夜に区内の家々を回る。この唱えごとも各地区で異なるらしく、新井区では「ほーらや いと、ねんねこやいとう」と唱えるという。昔からサナブリは小学生ほどの年齢の男子の みが参加でき引き継いできたそうだが、少子化などの人手不足から現在は中学生が参加し たり、また2001(平成13)年には女子も参加できるようになったりなど工夫をしてきたと いう。また、サナブリの計画から準備、当日に至るまで全て子どもたちだけで行っていた ものが今は保護者が協力し、実施の時期についても各地区の区長会で子どもたちの学校に 配慮し日曜日にするなど、地区の行事を継承するために様々なことを工夫しているという。
地の神祭り(12月15日)
日本の民俗信仰において、田には田の神、山には山の神がいると信じられてきたように、
屋敷にも屋敷神がいると信じられてきた。大須賀地区では屋敷神のことを地の神と呼んで おり、年に一度屋敷内(大抵は北西隅)に置かれた地の神の祠を祀り、家内の安泰や繁盛 を願う日であるそうだ。昔は毎年新しいわらや竹で祠を作り直し、赤飯やおこわなどの供 え物をもらいに子どもたちが家々を訪問する風習があったという。
中本町在住のB氏(男性、60代)は、「この地域ではほとんどの人の家の敷地内に祠が あると思う。毎年おなますやおこわを供えたり、お供え物を近所の人がおすそ分けに持っ てきてくれることもある」と話していた。一般に地の神は家の奥の目立たないところに祀 られているそうで、今回の調査中の始めのうちはこの地域を歩いていても気がつかなかっ たが、敷地内の一角に小さな家のような形をした祠を発見することが多々あった。
遠州横須賀倶楽部のC氏(男性、60代)によると、地の神様とは亡くなった故人の霊の ことで、50年経つとその霊が戻ってきて先祖代々の土地を守ってくれるという伝えがある そうだ。「昔はわらや竹で毎回新しく建て替えるしきたりがあったが今はコンクリートや 石でできたものが売っているからね、ほとんどの人が形として置いているだけだね。それ でも草を刈ったりして粗末にはしないんだよ」と話した。
3 年中行事の衰退と復活への取りくみ
遠州横須賀倶楽部のD氏(男性)の説明によると、この地域は昭和30年代から50年代 の前半ごろまで商店が多く立ち並び、商工会の活動が活発であったという。しかし昭和50 年代後半ごろから徐々に商店が減りはじめると商工会の活動も衰え、それに伴うようにし て地域における年中行事は衰退の傾向にあったそうだ。地域で行われていた行事は各家庭 もちでされるように変化したという。今回の調査では、年中行事を地域でやることで地域 を活性化させようとする取り組みがあることがわかった。ここではその取り組みについて 紹介する。
正月は年の初めにあたり、正月の神、年の神、先祖の神が家や地域に来臨すると考えら れ、日本の伝統的なしきたりのなかでは、丁重に神々を祀るということがされてきた。ま た、宗教儀礼的な意味合いとは別に、人びとが集い互いの健勝と平安を祈り合うこともさ れてきた。
D 氏が住む新屋町では、元旦の朝に町の稽古場に住民が集まり、紅白のかまぼこや冷酒 などを食べながら新年を祝うのが恒例となっている。住民は各家庭から代表で一人参加す るということで、38世帯ある新屋町では、だいたい3分の2ほどの住民が集まるという。
昔はみんな特に言われなくても元旦の朝には集まっていたが、参加が強制というよりは、
それが当たり前だと考えていたそうだ。横須賀で育った若い人たちの中には、親の都合が 悪いときに代わりに顔を出す人もいるそうだが、他の地域の出身の人やこの地域に嫁いで きた若い女性などはあまり来ないという。
新年のあいさつを交わした後に、町の総代神である三熊野神社へ皆で一斉に参拝し、そ のまま隣にある安禅寺へ向かい寺の境内にある「お宮さま」(金比羅さま、豊川稲荷様、
子安様)にお参りするのも恒例となっている。各町でもそれぞれの町の氏神が祀ってある 神社に住民で一緒に参拝するという。
この三熊野神社には、今では初詣に地域の多くの人が訪れるが、以前は 4 月の大祭以外 で来る地域住民は全くいなかったそうだ。地域にとって大切な神社であるのに、祭り以外 に誰も来ないというのは寂しいと思い立ち、D 氏ら遠州横須賀倶楽部によって「年越し三
社会」が1989(平成元)年に結成された。年越し三社会は「初詣は地元のお宮から」とい
うスローガンを掲げ、地域の人が神社に初詣に訪れるように様々な取り組みをしてきたそ うだ。D 氏は「ここに住んでいるからに神社にお守りされている。毎年祭りもさせてもら っている。年の初めによその神社へお参りに行くのもいいが、地元の神社にもまずは立ち 寄ってほしかった」と話した。
この際、D 氏たちが地域の人びとを引きつける取り組みとして行ったのが、神社で甘酒 を配ったり、年越しそばを販売したりすることなどである。活動を始めた最初の年は、年 越しそばを200杯作っても20杯ほどしか売れなかったという。また正月以外でも、毎月第
4日曜日に神社でおもちをつくなど三社市を開いたり、宣伝のチラシを近所に配ったりした 甲斐もあって、徐々に神社へ足を運ぶ人が増えたという。D 氏は、最初の年に売れ残った そばを倶楽部のメンバーで食べるのに苦労したという思い出話を聞かせてくれたが、様々 な活動によって神社に人が戻ってきたことをとても嬉しく思っているように感じた。この 年越し三社会の活動は30年近く続いていて、現在は地域に定着している新しい年中行事と いえるのではないかと思う。
七夕の季節になると、以前は商工会が中心となってその年に生えた新竹を採りに行き、
各家庭に配ったり売ったりしていたという。そして短冊を付けた笹を町の端から端まで飾 りつけていたそうだが、その風習も徐々に衰退していったという。その後しばらくは笹を 飾ることはなくなっていたようだが、平成に入ったころから東本町の住民が町を挙げて七 夕の笹飾りを再びやり始めたそうだ。きっかけは子どもたちとの何気ない会話の中で、昔 の七夕の様子について話したところ、子どもたちの方から「やってみたい」ということに なったという。東本町が笹飾りをするようになると、周りの町も触発され 5 町がやるよう になったという。八百甚がある中本町では 5 町の中でも特に華やかに笹を飾っていたそう だが、次の世代に引き継ぐことができず、7~8年前にやめてしまったそうだ。
B氏によると、七夕が終わった後に竹を売ったり切ったりする処分が毎年大変でやめてし まったという。また「今は子どもが少ないからね。どうしてもやる人がいない」と言って いた。現在では七夕の笹飾りをしている町は、東本町・新屋町・十六軒町の 3 町だけだそ うで、その準備や笹飾りはそれぞれの町ごとで行っているという。新屋町では13本の竹を 飾るそうで、大祭の祢里係と青年の若衆が竹を採りにいき、事前に住民に配っておいた短 冊を皆で稽古場に集まって飾りつけをするそうだ。
D 氏は「子どもたちも呼ぶのだけど、大人ばっかり来るよ。最近の子どもは忙しいでし ょ、習い事とか塾だとか。大人より忙しそうだね。だから参加する子は少ないよ」と話し ていた。また「ここみたいに小さな町だと行事なんてのはやりたい人がやる時代だから。
やれる人がずっとやる、そうでないと続けられない」とも語っていた。各町でもこのよう な行事をできる人が不足している、という問題を抱えていることが感じられた。それでもD 氏は、町を飾る笹の風景を見るたびに風情がある、初夏の風物詩だと感じるそうだ。昔は 七夕の新竹は翌日に川に流す風習があったらしく、新竹は傷みやすく一夜だけのものであ り、またお盆の際にも使われることから精霊を呼ぶものだと考えていた、と教えてくれた。
また「年中行事はイベントのように観光客やよその地域から人を集めたりするものではな く、地域の人が地域の行事として楽しめればそれでいい。子どもたちに昔の町の雰囲気を 少しでも伝えられたら」と話したのがとても印象的であった。
4 継承することの意識
現在地域における年中行事の取り組みは、遠州横須賀倶楽部のような組織や大渕地区の ように区長会などが主体となっているが、いくつかの問題もあることがわかった。たとえ ば、年中行事を継承・維持するための担い手不足は大きな問題である。また、各家庭で行 われるようになった年中行事はなおざりになりがちである。D 氏は、「家庭の中は見えな い。見えないものは姿を消しやすい。極端なことをいえば、年中行事はやらなくてもいい もの。それでも残っているということは、心のゆとりや季節を感じることで人間は心が豊 かになるから」という。
今回の調査で、地域における年中行事は、時代の移り変わりとともに本来の意味合いや やり方、目的は変わっていくように感じられた。それでも、話を聞いた地域住民の人びと は、「形が変わったとしても残したい」と話していた。サナブリについて聞いたA氏は、
「年中行事はその時代に生きている人がその時代のやり方でやればいい。静かに脈々と続 けていくものだから。変わっていくことを確かに歯がゆく感じることもあるが、その変化 も勉強になる。だからこそ昔を懐かしむことができる」と語ってくれた。年中行事を継承 する根本には、地域の人や子どもたちが楽しむもの、という意識があるように感じられた。
5 おわりに
以上、今回のフィールドワークでは、大須賀地区における年中行事と住民との関わりに ついて調査した。調査をするなかで、祭りが地域住民間を結びつけ、防災対策や子どもた ちの郷土教育など、まちづくりの活動においても大きな影響を与えていることがわかった。
また地域住民の祭りに対する熱い想いもうかがえた。
その一方で、日本全国で地域間での繋がりの希薄化が社会的な問題になっているように、
大須賀地区も同様の問題を抱えていることがわかった。年中行事のような行事の取り組み やその継承は、地域社会を基盤として支えられてきたものが、家庭または個人へと変化し ている。その理由としては、生活様式や家族形態の変化、また一部の住民の関心の低さな ども考えられる。
こうしたなかで、本来の年中行事の意味合いや目的、やり方などは時代とともに変化し ていくものであるが、それは「地域の行事は地域住民が楽しめればいい」また「毎年やる からこそやりやすいように変化し、次の世代へと続けられるもの」という意識があること がわかった。この調査を通じて、地域における年中行事の形が変わってしまったことや、
人びとの意識が薄まったということよりも、形を変えながらも受け継がれてきたというこ とに注目するべきだと感じた。
伝統的な行事が変化することはしばしばネガティブに捉えられがちであるが、地域に現 在も残っているということに目を向けてみると、地域やその住民にとっては大切な意味を
持つものではないかと思う。また変化することに対して、全てを悪いように捉えているわ けではない、とも感じた。C氏は、「変化がいい方向へ行くベクトルがここにはある」と語 ってくれた。こうした変化が地域を見直すことや、地域の良さに気がつくという良い面も もたらすのではないかと思う。
参照文献
宮田登
2006 『宮田登 日本を語る 暮らしと年中行事』吉川弘文館。
宮本袈裟雄・谷口貢
2009 『日本の民俗信仰』八千代出版株式会社。