有無日考
小
島
小
五 郎
O有無日の語義
有無日については一条懸路の公事根源五月の条に︑その二十五日は
﹁是は村上天皇の御国忌也︑紅中にありなしの日とは申すにや︑廃務日
にあらざれども政おこなはれ侍らず︑叉急転などあれば俄に政事有︑さ
てありなしの日とは申事﹂
とあって︑五月二十五日は村上天皇の忌日に当り︑これを﹁ありなし
の日﹂と称したこと及び﹁ありなし﹂の語義についても述べてある︒こ
の有無日については︑富山房の国史辞典や最近の日本歴史大辞典にはそ
の項すら無く︑加藤貞次郎著増訂有職故実辞典は流石に有無日の項は立
て玉あるが︑その説明は公事根源の転記に過ぎず︑続有識問答︵増訂故
実叢書所牧︶にも有無日に関する問答が見えるが︑それも﹁公事根源に
見ゆる有なしの日の事ふるきふみにも出しや﹂と有無日の出典を問うた
に対し︑台記康治二年五月二十五日条の一部分を挙げたに止まり何等の
解説もない︒要するに︑有無日については公事根源の記述以上には何ら
加えられていないかに見える︒恐らく︑それは資料の乏しさに因ると思
われ︑続有識問答が有無目の曲ハ拠として台形康治二年五月二十五目条の
一部分をあぐるに止まったことは今述べた通りであり︑大日本史料第一
編二十一の村上天皇の壷口康保四年二十五日条にも有無日の資料を掲げ
てはあるが︑それも中右記天仁元年五月二十五日及び長承三年五月二十
五日条︑台記前掲条︑公事根源五月の有無日条にすぎない︒固より筆者 は特に加うべき資料をもつわけでないが︑有無日はかの延喜天暦聖代説の沿革と連らなるという意味において︑単に有職故実の問題たるに止まらぬと考え︑一往の叙述を試みて︑後日に資したいと思う次第である︒ さて先ず有無日の語義であるが︑それは公事根源に明らかで︑別に加除を要しないほどであるが︑実は古来の説明がすべて公事根源と同様ではなかった︒例えば︑申原家の人々による年申行事の五月の条によれば次の通りに記されている︒ 望遠年中行事 +吾村上天皇崩遺徳薄霧雛肇 師元年中行事 謂有無日 十五日村上天皇雪目事宮中謂之有無日錐非廃務 無政井結政 師光年申行事 +吾村上天皇蟹魏薦縮響難民 右の諸学によれば︑有無日に関する説明は何れも同様で︑事務ではないが政並びに結政無しというのであるから︑そこには﹁無﹂の義が語らる鼠だけで︑ ﹁有﹂の義は全く見られない︒これと共通する説明は台記康治二年五月二十五目条に見え︑そこには﹁今日村上天皇崩日也︑錐非国忌廃務︑古人伝言︑不可行公事︑不可有政云々︑号有無日﹂と記されている︒即ち︑公事を行うべからず︑政有るべからずというのであるか
⑮ D
有 無 日 考
有無 日 考
ら︑こ鼠にも﹁有﹂の義は全然見られず︑有無日の語義を説くものとし
て如何かと思われるが︑それはしばらく措くとして︑少くとも公事根源
の記述と一致しないもの玉あったことは疑いない︒従って︑続有職問答
が﹁公事根源に見ゆる有なしの日の事ふるきふみにも出しや﹂とした場
合︑それに答えて︑台記のこの日の条を掲げたのは適当といえず︑それ
には︑むしろ中右記天仁元年五月二十五日条等︑中右記の有無日につい
ての記述を挙ぐべきであった︒
即ち申右記天仁元年五月二十五日条には
今日官中子有無日︑強無結政︑二叉有急事者︑可行政歎︑依随同称有
無︑是官中綬実也︑是村上先帝御忌日也︑本錐不平国忌︑我朝聖主︑後
人恋遺徳︑循強不行政歎︑明主仁風︑遠及後代歎
とあって︑ ﹁依二死称有無﹂と有無の語義を明確に述べており︑その
後段に見ゆる﹁循強剛行政歎﹂と同様の文言は同じ中右記の長承三年五
月二十五日条に﹁官中故実称有無日︑強不行政也﹂とあり︑叉︑中右記大治二年五月二十五日条にも﹁錐不被置国忌︑依聖主御忌日︑強不純行
政事也﹂とあって︑ 公事根源の叙述と如何にも適合しておるといえよ
う︒ 併しそれにしても︑台記のこの部分は大外記師安の言である︒外記と
いえば太政官にあって︑所謂公事の先例故格を論ずる元締と目された官職であり︑わけても中原町の人々はその中枢にいた筈であるのに︑大外
記申原師安ともあろう人が︑有無日について不充分の甘薯をしたとも思
われない︒有無日についての師安の説萌が不充分であったか否かは今問
わぬにしても︑少くとも︑中原家の人々の説明と中御門宗忠が中右記に
記述するところとに若干の相違があることは確かであり︑猶︑前掲の師
資︑師元の年申行事より時代が降って︑鎌倉時代初期のものと見なされ
ている年中行事秘露や続群書類従所牧の年中行事抄︑元亨四年年中行事
等の有無日に関する記述も︑師遠らのそれと同然で︑従って︑平安末期 から鎌倉初期の年中行事には有無日の条が見えているが︑その説明は殆んどすべて︑中右記の記事とは僅かにせよ不一致があること鼠なり︑そこに有無日の性格なり沿革とか鼠わるものが潜んでいるかに思われる︒
◎有無日と国忌
台記康治二年五月二十五日条及び中原家の人々の年中行事に見ゆると
ころが有無日の語義に関し︑ ﹁無﹂の義を述べたに止まることをいま指
摘したわけであるが︑これらの記述は猶︑有無日が何故に起ったかにつ
いても何らふれておらず︑或は ﹁古人云﹂とし︑叉は ﹁宮中謂之有無
日﹂という類で︑た父先例故実︑年中行事の一つとして無反省に之を承
けついだにすぎぬかの理博を示している︒恐らくそれは有無日のことが
当時形式化していたからであろうが︑一条兼良もこれらに基ずいたもの
か︑同様にして有無日の起源については全くふれていないこと冒頭の引
用で明らかである︒従って公事根源に見ゆる有無日の説明は有無の語義
については一往の叙述があると認めらる玉にせよ︑その起源にふれなかった点を遺憾とせざるを得ない︒このように見来ると︑有無日について
は中右記の叙述を最も尊重せねばならぬというべきであろう︒
即ち前に掲げた中右記天仁元年五月二十五日条に見ても︑有無の語義
について明確に叙述しておるのみならず︑その起源についても﹁本木不
置国忌︑我等聖主︑後人恋遺徳︑循強不行政歎﹂ と明記しておる︒即
ち︑この有無日は後人が聖主村上天皇の遺徳を敬慕した玉めに起った故
実であるとするのであるが︑この点は中右記長承三年五月二十五日条に
も﹁是天下仰聖主遺徳思其余風歎﹂とあり︑史上に著名な天暦の聖主へ
の追慕の念からこの事が起ったとの説明は何人も躊躇なく之を肯定する
であろうが︑唯この場合気になるのは︑村上天皇のために何故に国忌を
置かなかったかという点である︒村上天皇が類稀なる聖主であったれば
こそ有無日のことが起ったとはいえ︑何としても有無日は︑ ﹁後人﹂に
の
⑮
よる一種私的な云わば準国忌にすぎず︑律令制度に基ずく国家的儀礼た
る国忌とは自ら軽重の差がある筈である︒
この点についての最も簡明な解答は︑小野宮年中行事によって︑それ
は村上天皇の遺贈があったからによるとする事である︒然し︑この時代
に屡々見られた﹁国忌山陵を置かず﹂との遺筆は云わば形式的慣例的な
もので︑従って遺詔の有無が国忌を設置するか否かの鍵であったとは思
われない︒それは村上天皇に近い頃の例に見ても︑円融・一条両帝には
遺詔があり︵日本紀国正暦二年二月十九日及び寛弘入年七月八日条︶︑
一方︑冷泉・花山両帝には蜜蝋があったと伝えられず︑しかも四聖共に
国忌を置かれなかった事実からでも明らかである︒然るに︑この事に関しては一条兼良に説があり︑その江次第抄︑国忌の条で六帝国忌存続の
理由を説いた箇所がそれで︑そこには
仁明光孝醍醐其場蓋天下不忍殿去︑是以後世聖君翅鞘不立山陵国忌︑
其意者不可過七廟連呼
とある︒即ち︑醍醐以後の諸帝は遺即して山陵国忌を立てなかったの
で︑六帝国忌はそのま鼠存続したというのであるが︑後世の諸帝がすべ
て遺即したとも思えぬことは前述の通りであり︑叉︑忌寸があった場合
にせよ︑それが兼山の説く如き意味であったかは明証もなく︑遽に信じ
難い︒更に云えば︑兼良は仁明・光孝・醍醐三聖の国忌の存続した理由
をその徳天下を蓋うたが故であるとしておるが︑これでは国忌のことが
徳の高下にか鼓わるかの筆致で︑昭穆にもとずく国忌の本義と苦るとし
なければならぬ︒下りに一歩を譲って︑徳の高かったが故にその国忌が
永世不廃となったという説を認めるとすれば︑仁明・光孝・醍醐の三帝
にそれほどのものがあり︑その後の諸帝には之に及ぶものがなかったと
いうことになるのであるが︑延喜の帝醍醐天皇はとにかくとして︑仁明
・光孝の両帝については左程の聖徳は伝えられておらず︑しかも猶その
国忌が置かれたのみか永世不廃となるというならば︑天暦の聖主村上天
有 無 日 考 皇に於いても︑この事がなければならぬのに︑村上天皇の場合は国忌を置くことすら見られなかったのである︒六帝国忌存続の理由についての江次第抄の説は今猶﹁聞くべき説.である﹂ ︵書陵部紀要第2号所載︑中村一郎氏︑国忌の廃置について︑参照︶と有力視されているようであるが︑精しく見来れば未だ信じ難い点がないでない︒又︑六帝国忌存続の理由として﹁永世勤仕した国忌を廃する事は忍びないばかりでなく︑若し廃したら何らかの彫りがあるだろうと恐れていた様子も見える﹂ ︵前掲︑中村氏論文︶との説もあるが︑これは六帝国忌の固定してしまった遙か後世からは云えるであろうが︑醍醐天皇以後の国忌を置かず︑天智より醍醐までの六七の国忌のみに止まった理由としては未だ不充分であろう︒国忌存廃の問題は今は略するとして︑端的に之を云えば︑一条兼良の説も六帝国忌の永世不廃となった後世から︑如何にも尤もらしく︑且学者らしい説明を加えたまでで︑実は天皇の国忌は新しく置かれぬと共に︑従来のを廃止もしなかったという︑無関心乃至消極的な黒雲で遇せられたのではないかと思われる︒平安時代の有職書として知らる玉西宮記︑北山抄︑江次第の三者を見ても︑西宮老楽十二には特に国忌の条があり︑加うるに国忌省除の論理の形式まで載せてあるが︑北山抄に至れば︑国忌についてはた黛月日にかけて︑例えば︑四月廿九日国忌事︑八月廿六日国忌事とある如く︑殆んどその日の国忌に当ることを示す程度の記述に止まり︑又︑西宮記の国忌の条には︑天暦四年十二月二十三日の光仁天皇の国忌及び承平七年八月二十六日の光孝天皇の国忌は共に上卿なく之を執り行ったとあり︑朱雀天皇から村上天皇にかけての頃には国忌に対する熱意は薄らいだかの感がある︒ところが︑この関心が薄らいだと見るべきは実は天皇の国忌であって︑皇后・中宮等母系の方々の国忌はその後も廃置を見た︒前掲の中村一郎氏の論丈に従い醍醐天皇以後に置かれた国忌を表示すれば次の通りである︒ 新置した天皇 続柄 御方 の⑮
有 無 日 考
村上天皇
〃 花山〃
三条ノ
後冷泉〃
白河−
鳥羽〃
二条〃
後嵯峨〃
即ち︑み考えられ︑
ず︑る︒従って︑
后 母
母
〃 汐
〃
〃
〃
〃
醍醐中宮藤原穏子
村上中宮〃 安子
冷泉女御〃 懐子
〃 〃 勢子
後朱雀女御〃嬉子
後三条女御ノ茂子
堀河女御〃 以子
後白河女御〃勢子
土御門後宮源通子
右の表に依れば村上天皇時代以後は国忌はた黛母系においての
父系の国忌は醍醐天皇のそれを薪臥して以来全く見られ
従っては廃除の必要もなく︑そのま玉に据え置かれたという訳であ
仁明・光孝・醍醐三智の国忌が存続したのは︑その徳天下
を蓋うたからという如きことではなくて︑薪しく天皇の国忌が置かれな
くなったから︑これら三帝の国忌を除く必要もなくて存続したというに
止まる︒村上天皇の国忌が置かれなかったというのも︑聖徳如何によっ
たのではなく︑当時の一般情勢に従ったまでであると解しなければなら
ぬであろう︒
⇔ 延喜天暦聖代説と有無日
このようにして村上天皇の国忌は正式に置かる鼠ことなく時を経て行
くのであるが︑やがてその間に︑村上天皇を醍醐天皇と共に聖主と仰ぐ
風潮が高まって来る︒所謂延喜天暦聖代説の高まりであるが︑これは坂
本太郎氏も嘗って指摘された如く︵史学雑誌四九ノ六︑延喜天暦の治に
就いて︶︑先ず丈人の間に興つたと思われる︒即ち本朝丈粋︑続本朝文
士︑本朝丈集を曝けば︑その例証に乏しくない︒例えば︑本朝丈粋巻第
六奏状の部には︑ 謹案延喜天暦二朝之故事⁝︒ ︵天元三年正月十三日付 源順︶ 近訪延喜天暦之故事遠問周回漢家之遺風⁝︒ ︵正暦四年正月十一日付 大江匡衡︶ 情訪延喜天暦二代之故事⁝︒ ︵長和三年正月二十三日付 源為憲︶等の句が見え︑続本朝丈粋巻第六にも 伏尋延喜天暦之政 ⁝︒ ︵寛仁四年正月十五日付 大江時棟︶があり︑又︑本朝選集巻髪六十には 延喜天暦長保長治聖代明時⁝︒ ︵安元三年七月五日付 願丈︑藤原超越︶ 我朝弘仁貞観之聖代︑延喜天暦之明時⁝︒ ︵丈治三年三月四日付 後白河天皇院宣︶が見える︒これらの申︑本朝召集所牧の例は少しく時代が降るが︑本朝丈粋及び続丈粋所見の例は殆んど一条・三条天皇時代のものである︒恰もこの期の丈人であった大江匡衡には殊に延喜天暦を謳った丈が多く︑その江吏部集には次の諸例が見える︒ 昔延喜天暦二代聖主︑各奉為母后手書⁝︒ ︵巻中︑釈教部︶ 長保寛弘摂政︑擬延喜天暦︑江家因国所愚輩多⁝︒ ︵南中︑帝徳部︶ 黍伝祖父胎聖跡︑為子辞官任本官︑天暦余風今在此⁝︒ 就中祖父江納言︑以老子経毒断延喜天暦二代明主⁝︒ 妥当今盛興延喜天暦之故事⁝︒ 昔祖父江中納言︑ 延喜聖代奉付両皇子学名︑ 天暦聖代添付両皇子之
名⁝︒
の
⑮
︵巻中︑人倫部︶
延喜聖代︑祖父為天子師︑為東宮学士︑兼復授第十一皇子︑其皇子即
天暦聖主也⁝︒
︵巻中︑文部︶
これらの文例よりして︑一条天皇時代以後︑平安朝の文人の間に延喜
天暦を聖代として讃仰回顧する風潮の存したことが知らる玉が︑併し前
掲の諸例は殆んど奏状離郷の類で︑そこに聖代と見え聖主と記しても︑
多くは丈飾三吟に過ぎぬといえなくもない︒大江以言が寛弘四年二月二
十二日の奏状で︑﹁方今聖主﹂と一条天皇をた玉え︵本朝丈粋巻第六所
牧︶︑ 大江匡衡が正暦四年正月十一日の奏状で︑当時に ﹁感聖代之復
旧﹂とし︑又︑同人が長徳二年四月二日の奏状で︑ ﹁当時善政化﹂を﹁延喜之旧風﹂に比したのも︵本朝丈粋巻第六︶︑奏状たる以上︑敬意
美称を以って丈を飾ったにすぎぬというほかはない︒唯併し︑一条天皇
時代は続古事談︵第一王道后宮︶や神童正統記︵巻之四︶等で︑延喜天暦に劣らずとされたほどであるから︑さきの表現もすべて舞丈とはなし
難いかも知れぬが︑この種の平出に見ゆるところ︑例えば
延喜天暦長保長治聖代明時
︵本朝文集巻斗六十酒量︑安元三年七月五日付︑願交︑藤原永範︶
我朝弘仁貞観之聖代︑延喜天暦之明時
︵同前 所牧︑文治三年三月四日付 院宣︶
等を見れば︑その聖代・明時というに︑どれほどの批判検討を加えての
ことが疑わしく︑叉︑交人達の関与した改元関係の記録その他に見ゆる
聖代の名で上掲以外のものを挙ぐれば︑
筆陣聖代︵続群書類従巻二七入︑元号早起︑改元新華字難事︶
宝亀聖代︵平戸記延応二年七月十六日条︑改元難陳︶
延暦聖代︵続群書類従巻二九〇︑資定卿改元軍記︶
弘仁聖代︵本朝続文安巻二所牧︑藤原敦光町文︶
有 無 日 考 承和聖代︵続群書類従巻二七八︑元号字抄︑改元新号字難事︶仁和聖代︵続群書類従巻二宮阜︑改元部類︑貞和度改元条︶寛平聖代︵ 〃 巻二九〇︑弘治改元定記︶万寿聖代︵ 〃 巻二八二︑改元部類︑応和一建久︑永万度改 元宮︶天喜聖代︵ 〃 巻二七八︑元号字抄︑改元新号字難事︶寛弘聖代︵ 〃 巻二八三︑改元部類治承度改元条︶延久聖代︵兵範記保元元年十月十八日条︑台記久安三年二月三日条 等︶応徳聖代︵兵範記仁安三年六月二十二日条︶康和聖代︵同前条︒続群書類従三二入湯︑改元部類︑貞和度改元 条︶承徳聖代︵ 〃 巻二八四︑元暦改元定記︒永昌記保 安五年四月三日条天治改元議︶ の天仁聖代︵山棟記︑寿永二年三月十六日条︒平戸記寛元三年二月十 ⑮ 日条︒続群書類従巻二八四︑改元部類︑暦応度改元条︶丈治聖代︵続群書類従巻二八四︑改元部類︑丈安度改元条︶
があり︑これらはその何故に聖代と呼ばる鼠かについては何等の説述も
なく︑唯聖代とされておるのであって︑これらの用例からすれば︑延喜
天暦の聖代というのも︑他の多くの聖代と同じく︑丈人達の単なる美称
尊称に止まり︑又︑その延喜天暦と併称されたのも︑中国で有名な建武
・永平とか︑わが国の弘仁・貞観︑永観・寛弘︑長保・長治︑応徳・康
和の類と同様︑対偶的に表現された意味の併称乃至連称にすぎぬから︑
延喜天暦の語が屡々現われたとて︑特に云うに足らぬとも一往考えられ
ぬでない︒
併しながら︑延喜天暦は前掲の聖代と称せられた多くのものと異なる
ものをもつ︒それは延喜天暦を聖代としたことの文献が他に較べて広範
有 無 日 考
囲に及んだこと鼠︑その現わる呉こと頻繁なことである︒即ち︑これを
一条・三条天皇時代の資料についてのみ見ても︑ ﹁延喜天暦曇勝躍︑復
当時之王化也﹂としたのは類聚母野抄第一所生長保五年十月十四日の左
弁官下文であり︑ ﹁天暦占領御代﹂の語は寛弘三年十月十一日付の金剛
峯寺雑丈︵大日本皮料一ノ十一︑康保二年六月十七日条所牧︶に見え︑
更に当時の日記にもこの種の丈言が屡々窺える︒例えば小右記長徳三年
六月二十五日及び七月九日条で右大将笹葺の大納言昇進を論じた場合に
は﹁延喜聖代﹂︑ ﹁天暦御時﹂︑ ﹁延喜天暦等例﹂︑ ﹁彼二朝例﹂と見
え︑小右記にはその他︑ ﹁延喜天暦御宇量有如馬鍬﹂ ︵長和三年十二月
二十日条︶︑ ﹁延喜天暦御時﹂ ︵永襯三年四月二十五日条︶とあり︑権
記寛弘八年五月二十七日条には﹁此卦延喜天暦寛御身共所野崎﹂︑左経
記長元四年九月十四日曝には﹁延喜天暦間︑只公家被行如此之事﹂︑同
書長元九年五月十五日条には﹁今上御心喪重弁喜色有定︑大略錐有延喜
天暦之例﹂とある類である︒唯併し︑日記の類に見ゆるのは聖代・聖主
の事に関するというよりは︑先例の拠点としての延喜天暦に過ぎないと
の見方もあり得る︒なるほど︑これら日記の類は公事の先例故格につい
ての記述で埋まり︑しかも︑その何故にある時代の先例を省みたか等に
ついては殆んど何も聞き得ないのが常であるから︑或る時代の先例につ
いて記す事多かったとて︑必ずしも之を他に勝り尊重したとも︑まして
それが聖代観の故であるとも即断は出来ないであろうが︑たゴ延喜天暦
の場合のみは些か他と異なると思われる︒それは延喜天暦の先例という
のは平安申期の公家社会における最も尊重すべき先例であったからで︑
端的に之をいえば︑先例故格の源泉とも目された九条流小野宮流の故実
の形成はこの延喜天暦時代にあったからである︒九条流といえば九条殿
師輔︑小野宮流といえば清慎公実頼が中核とされ︑それは具体的にはこ
れら両人の九条相下記及び清台下記乃至は両人の教命に示されている訳
であるが︑それは実に延喜天暦時代の先例に他ならなかった︒小右記に 於いて清慎公の先例が尊重された事例の多いのは自然のことで改めて述ぶる必要はないが︑それと共に九条流をも尊重し︑先公御記︑九条記と称して両者を併せ参照する︵小右記長和四年九丹十一日条︶とか︑九条相府記︑ 清慎公御記とよんで互に参勘する ︵小右記万寿五年七月一日条︶とかの例は決して乏しくなく︑しかも両者に見ゆるところを公事の範例としたことは﹁清慎公九条殿共不被呼見参︑以後可為亀鏡﹂︵小右記長和四年八月十二日条︶等の例でも明らかである︒而して云うところの清慎公・九条殿の兄弟両人が延喜天暦の間にあって朝儀典礼の中心となっていたこと改めていうまでもない︒小右記に比較すれば単記には清慎公記を引くことは少なく︑殆んど九条殿の例であるのは︑行成が九条流の人であったのと︑ 行成は実群遊の有職家でなかったからであろうが︑猶権記寛弘六年三月一日条によれば行成は道長の命を蒙って九条殿の御日記十二巻を書写しており︑叉同書長保四年正月廿八日条に︑九条殿の天暦四年の日記上巻を内大臣公季の許に持参した等あるところがらすれば︑九条殿の日記換言すれば延喜天暦時代の先例を含む日記が︑道長その他の顕官によっても尊重されたことを伝えておる︒ 小野宮流の小右記︑九条流の権記が共に清慎公実頼及び九条師輔の先例を省みた由を語るのは︑当時の所謂﹁家之御田﹂ ︵小右記寛弘九年五月二日条︶︑ 二家之例L︵小右記寛弘二年三月十九日条︶の尊重にすぎぬとも見られるが︑これらの何れにも属せぬ源経頼の左経記にも︑これら両者の先例を尊重した由が見られるとすれば︑延喜天暦時代の先例尊重は当時の風潮をなしていたといって誤りあるまい︒左経記長元元年五月十一日条には雷鳴陣の座次について経頼らが小野宮殿御記と九条殿天暦二年の御記との記事を比較考究したとあり︑その他︑長元四年二月四日条には天丈密奏に関して小野宮大臣御日記を︑長元八年五月三日条には諸道論義については清慎公天暦十一年二月二十五日の例を見たとあ
り︑叉︑長元元年十一月一日条には朔旦冬至に関する九条殿天暦九年御 ①σ
記を︑万寿三年正月二十二日条には不与状の事を議するに当って天暦五年の九条殿の御日記を参溶したとあり︑実直・師輔の先例︑換言すれば
延喜天暦時代の先例は︑当時殊の外尊重されていたと見える︒ 恐らくは︑公家社会におけるこの現実が文人達に反映した玉め︑延喜
天暦聖代説は三筆の世界に強くも認められたのであろうし︑叉︑丈人達
の説くところが︑一般朝臣達に尊重し依拠すべき先例として延喜天暦の
それを強く意識せしめ︑要するに互に因果の関係をなしつ奥延喜天暦の
先例尊重の風と文人達の延喜天暦聖代観とが互に相応じて一条︒三条天
皇時代以後︑延喜天暦聖代説に確平たる地位を与えることになったと思
わる玉のである︒延喜天暦時代が聖代とさるΣ最大の理由は共に聖主を
戴いたからであることは言うまでもないから︑延喜天暦時代の回顧は醍
醐・村上両玄への回顧敬慕にほかならぬこと玉なる︒ところで醍醐天皇には国忌が定められておるが︑村上天皇には国忌が置かれていない︒延
喜天暦聖代説の高まりと共に︑村上天皇の忌日についての関心の起るで
あろうことが予測される︒
⑭ 有無日の消長
然しながら事実は︑直ちに有無日がいわれだしたとも見えず︑小野宮
年中行事には五月条で
廿吾邑上天皇遠離曝
とし︑たゴこの日が村上天皇の崩日に当ると記すのみで︑有無日の丈字
は見えない︒其の後の年中行事が殆んどすべて有無日の事を記したとこ
ろがらすれば︑ 若し︑ 実資時代に有無日のことが云われておったなら
ば︑之を忘れる筈はなく︑記載のないということは︑その事実のなかっ
た長めと見るほかはあるまい︒同じ実資の日記小右記に見ても︑その永
観三年五月二十五日条に村上天皇国忌に関係ありと思わる玉記事がある
が︑それは﹁早朝罷出︑詣堀河辺︑見小児之所悩︑即事参院︑御国忌
有 無 日 考 也︑下官候忌事︑内供定石候⁝⁝しと︑唯︑村上天皇の忌日により院に参じたとあるのみで︑やはり有無日の文字は残していない︒この事は権記に見ても同様で︑権記寛弘六年五月二十五日条にも﹁今日村上御国忌也︑磯目被供養経也﹂とはあるが︑こ玉にも有無日の丈字は見えない︒以上述べたところよりすれば︑実資︒行成の時代即ち一条・三条天皇時代には延喜天暦聖代説は興り来っているにしても︑未だ有無日のことは見られなかったといわねばなるまい︒併し注意すべきは︑小野宮年中行事には﹁依嘱詔領置国忌﹂と明記しているに拘らず︑同じ実資が日記で
﹁御国忌也﹂と記し︑叉︑行成も︑これを﹁村上御国忌也﹂と云ってい
る事である︒即ち正式に国忌と定められて居ないにも拘らず︑村上天皇
の崩日を国忌と申した事であるが︑小右記︑権家ではこの村上天皇に限
らず︑円融帝の二月十二日︑冷泉帝の十月頃四日置 一条帝の六月廿一
日︑三条帝の五月九日についても︑それらの条には﹁御国忌也﹂と記し
たのであって︑恐らくは︑天皇の忌日という程の意にすぎず︑正式に国
忌と定められている場合であろうと︑然らざる場合であろうと︑之を明
確に区別しなくなっていたからであろう︒併し︑又一面からいえば︑正
式な国忌に定められていなくとも︑猶その崩日が何らかの意味で日記の
類に記されたということには注目せねばならぬのであって︑その崩後数
年間について︑この事があったとて︑それは異とするに足らぬにせよ︑
崩後相当の年月を経ても猶その忌日が忘れられなかったとなると︑何事
かそこに考えねばならぬであろう︒時代を降っての例ながら︑台記康治
三年五月七日及び久安三年五月七日条に ﹁延久聖主御忌日﹂ のため︑
﹁精進阿彌陀仏恒例事毎年不閾﹂︑ ﹁念仏如例﹂とあって︑後三条天皇
の忌日五月七日は国忌の中に数えられなかったにも拘らず︑頼長は五月
七日に仏事を修した由を示しておるが︑それが後三条帝への敬慕に出て
いる事は﹁延久聖主﹂と記し︑又︑軍記久安三年二月三日条に﹁源有仁
愚者延久聖主孫﹂とこ玉にも聖主と記したことでも知れる︒康治・久安
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有 無 日 考
といえば後三条天皇崩要約入十年に垂んとする頃であるが︑しかも猶そ
の忌日を忘れないというところに︑延久聖主への並々ならぬ追慕の念を
見なければならぬが︑しかも︑この後三条帝を以て延久聖主と称したこ
とは︑ 玉葉安元三年五月三日条や明月記嘉禎元年五月七日条にも見え
て︑単に民営のみに止まらぬ︑広き流れのあった事が推察される︒
即ち︑台記に見ゆる延久聖主の例からも穿り老えらる曳のは︑たとい
小右記・権記等に未だ有無日の名は見えなくとも︑村上天皇崩後五十年
以上をすぎて猶村上天皇の忌日が記されておるということは︑正暦二年
崩御の円融天皇︑寛弘八年崩御の冷泉天皇・一条天皇の忌日の事が記さ
れておるのと同日の談でなく︑そこには︑何らか格別な理由の存したこ
とが考えられる︒
このようにして︑明確ではないまでも︑村上天皇の忌日への関心が考
えらる玉とすれば︑やがてそれが有無日の名を以って現わる玉ことも推
測に難くないが︑実は遺憾ながら直ちにそれに答える資料がなく︑後世
の有無日に関する記述の中から湖り之を捉えるほかはない︒では有無日
の名を辿り得るのは︑どの頃からであろうか︒再び中右記天仁元年五月
二十五日条によれば︑この有無日のことは﹁是官中故実也﹂といわれ︑
叉︑この日︑有無日の故に結政を行わなかったのを﹁駄駄今存古風歎﹂
としたところがら見れば︑それは宗忠時代に最早や﹁故実﹂となり﹁古
風﹂とされていた程に古くからあったものとせねばならず︑さればこそ
宗忠と同時代の先例故格の専門家中原師遠も︑その年中行事に︑村上天
皇の崩日五月二十五日を有無日と称したことを記載したわけである︒併
し︑天仁の頃といえば︑長保・寛弘の頃から見ても︑早や百年を経過し
ており︑恐らくは︑この間に有無日の故実は形成されたのであろうが︑
それにしても︑百年間というのをいま少し狭めては考えられぬであろう
か︒ 資料を渉猟すること寡なく︑ 今これを充分に果すことは望めない
が︑軍記康治二年五月二十五日条はこの間の消息を窺わしむるものをも つ︒即ち︑有無日に当るこの日︑政を行うべきや否やが問題となったので︑その先例を頭弁資信に問うこと&なったところ︑資信は﹁右大弁俊雅朝臣長和之比有此例之由所三乗﹂というので︑その俊雅を招いて問うた︒この時︑右大弁俊雅は
寛弘之問昔有賑給筆墨不可叶例長和四年︑昔有政観鷺
と対えたので︑今際は早く結政の事を始めるよう命じたという︒寛弘の
間︑この日賑給定があったというのも︑長和四年のこの日政があったと
いうのも共に史料綜覧に見えず︑又︑皮料通覧荘子経記にも︑長和四年
五月二十五日条を欠くから︑俊雅の言を確めるわけに行かぬが︑台記の
この日の条によれば︑資信に先例を問うたのは︑この人が﹁所以能覚日
記也﹂とあり︑俊雅という人は︑その夜頼長が書札を以って︑その﹁覚
呪事﹂と﹁無失儀之事﹂を謝したという人であるから︑これらの人々の
挙げた三道+分癒に値するものであ・ξとを疑うわけに行くま働
い︒とすれば︑寛弘・長和の例というのは︑村上天皇の忌日が有無日と
されていたにも拘らず︑賑給定や政が行われた例と見なければならず︑
従って︑俊雅などは寛弘・長和の頃には既に有無日の事が云われていた
と見ていたことになる︒ ところが一方権記寛弘六年五月二十五日条に
﹁村上天皇御国忌也﹂とはあるが︑別に有無日の文字が見えぬことは前
に一言した如くである︒尤も注記に有無日と見えないからとて︑有無日
の事は未だいわれていなかったとはいえぬから︑何れとも確言は出来ぬ
が︑己に寛弘・長和の頃が有無日の先例として勘考さるべき範囲に属す
ると康治頃の人々によって考えられていたことは疑いあるまい︒
ところが︑年記のこの日の条には猶︑師安が︑
寛治・応徳翌日行公事之例
を一紙に書いて持来ったとある︒応徳・寛治の頃といえば康治の頃より
約六十年前に当り︑応徳三年は白河上皇院政開始の年といわれており︑
史料通覧本中右記は応徳四年即ち寛治元年から始まり︑時に宗忠は二十
六才であった︒この寛々・応徳の頃此日公事を行った例があるとして︑
それを一紙に認めて持参したというのは︑有無日だる此日の例にほかな
らず︑従って寛治・応徳時代明らかに有無日のことがいわれていたと見
て差支えない︒さきに有無日の有力な資料として中右記の天仁元年五月
二十五日条をあけておいたが︑ この天仁元年︵一一〇八︶ は寛治元年
︵一〇八七︶より僅かに約二十年の後であるし︑且天仁の頃既に適中の
故実となっているとか︑政の無いのは古風であるとか云って︑有無日の︑事の相当古い時代に発している由を示しているところがらすれば︑応徳
・寛治の頃に有無日のことの充分知られていたことは争う余地はない︒
このようにして寛治・応徳の例というのが︑寛治・応徳の有無日の先例
にほかならぬとすれば︑さきに右大弁俊雅のあげた寛弘・長和の先例と
いうのも︑同様にして有無日の先例と解せねばならず︑このような類推
にして許さる玉とすれば︑寛弘・長和の頃の小右記・耳払の記事に有無
日の交字は見えなくとも︑その事実は存立したと推論出来ないであるま
い︒然し︑徒らに推論することは.避けねばならぬから︑寛弘・長和の頃
に有無日のことが云われていたか否かは確言出来ぬにしても︑恰も当時
は延喜天暦聖代説の興り来っていたことは確実であるから︑この頃から
遠からずして有無日の故実が形成され︑応徳・寛治頃は最早明確な存在
となっていたと思われ︑さればこそ中右記に︑あのように明晰な記述が
見られたのであり︑中原師遠の年中行事にも記載された次第である︒
ところで更に台記康治二年五月二十五日条の冒頭を見れば︑この日︑
有無目のことが問題となった事情が語られておるが︑それによれば︑こ
の日の列見に二省及び弁・少納言の参ずべきや否やを頼長が大外記師安
に問うた時︑師安は﹁皆参具︑兵部輔用代﹂と答え︑その際叉師安は
﹁今日村上天皇黒日也︑錐非国忌廃務云々﹂と語ったとある︒子安が語ったこの有無日のことは里長にとって唐突の感がしたものか︑ 頼長は
﹁日来不断之︑只今思出︑奇怪々々﹂と云ったとあり︑こ玉に於いて前
有無 日 考 定の如く︑勘弁資信を招いて先例を尋ぬること玉なったという︒この間の事情よりすれば︑身長には有無日という如きは全く彼の知識の外にあったらしく︑先例故実の専門家たる外記によって始めて当日教えられたというのであるから︑当時は有無日のことが世間周知の故実でなくなっていたといわねばなるまい︒しかも︑この時の割安の説明も﹁古人伝言︑不可行公事︑不可有政云々︑号有無日﹂というに止まり︑有無日の説明としては不充分たるを免れぬ︒師安の説明も﹁有無﹂の義を説いて充分ならず︑頼長は﹁目来不二之﹂といえば︑頼長時代にはわずかに有職家の聞に語り伝えらる玉にすぎなくなっていたのではあるまいか︒その後のものと知らる鼠年中行事秘抄・師光年中行事・年中行事抄・元亨四年年中行事等での有無日の説萌がこの目安の言と同様で冒頭にもふれた如く有無の語義についても明確を欠いた等からすれば︑平安末期には有無日のことは︑その義は充分思うことなく唯慣習的に中原家などの専門家に語りつがる鼠にすぎなくなって居たかと思われる︒それも建武年中行事に至れば︑有無日の記載を見ない︒延喜天暦を理想と仰いだと知らる鼓後醍醐天皇御撰の年中行事に天暦の聖主敬慕に発する有無日の故実が記載されていないとすれば︑恐らくは建武の頃には有無日はいわれなくなっていたかとも思われる︒して見れば︑村上天皇追慕の念というのも︑ 永きに亘り存在しつゴけたものではなかったかと思われ︑叉︑若し︑建武時代に有無日のことが忘れられていたとすれば︑当時の延喜天暦の回顧というのも︑ 天皇及び側近者遠耳かの人々の政治理想に止まり︑広く宮廷一般に漂うものでなかったということになる︒続有職問答で︑ ﹁有無日のことふるきふみにも出しや﹂と問うたにせよ︑大日本史料で有無日の資料を集めて見ても︑平安時代以後のものを示し得ないのは︑ その事自体が有無目の消長を語るものであろうし︑ 更にいうならば︑大鏡に見ゆる延喜天暦聖代説のことなどを考えるにつけても︑この有無日の消長とも考え合わせばならぬかと思われるが︑それらは後日に譲り︑有無日の素描のみで筆を欄く︒ ︵中学教室︶ の⑮