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水道事業と公営原則

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(1)

水道事業と公営原則

その他のタイトル Water Utility and Municipalization

著者 寺尾 晃洋

雑誌名 關西大學商學論集

巻 24

号 5

ページ 404‑430

発行年 1979‑12‑25

URL http://hdl.handle.net/10112/00020928

(2)

20(404) 

関西大学商学論集第況巻

5

(1979

12

月 )

水道事業と公営原則

寺 尾 晃 洋

本稿では公益事業の

1

つとしての水道事業,とくにわが国の場合につい て,公共性とはどのような内容をもつか,なにがそれを保障しているか,ぃ わゆる収益主義との関連などの問題について考えてみたい。ここでは歴史的 に水道法制定にいたるわが国水道事業の発展をたどりながら,これらの諸点 を検討することにしたい。

水道事業の公共性と公営原則

(1) 

上水道の創設

わが国においても,一般の欽用を主とした上水道は,ろ過装置を欠いた前 近代的なものまでふくめれば,その歴史はかなり古く,

1590

年(天正

18

年 )

の神田水道(江戸)にさかのぼることができる。封建時代の大都市であった

江戸では,

17

世紀中莱人口増大につれて玉川上水

(1654

年),亀有上水

(1659

年),青山上水

(1660

年),三田上水

(1664

年),千川上水

(1696

年)などが

つくられた。地方でも,

17

世紀に入ると一般の欽用を主とするものとして

は ,

1607

年(慶長

12

年)近江八幡水道を手はじめに, 赤穂水道

(1616

年 ) ,

中津水道

(1620

年),福山水道

(1622

年),桑名御用水

(1626

年 ) , 高松水道

(1644

年),尾久島水道

(1646

年),宇土轟水道

(1652

年),水戸笠原水道

(1663

(3)

水道事業と公営原則(寺尾) (

405)21 

年 ) , 名古屋巾下水道

(1663

年)などが現われ, 官専用のものとしては鳥取 水道

(1616

年 ) , 指宿水道

(1628

年),磯集成館水道

(1628

年),金沢辰己用 水

(1632

年)などができた。これらは比較的にはやい時期の出硯であるが,

(1) 

その後全国各地に広がった。

明治初年における上水道の状況は,

i

ことえば東京における旧江戸水道をと ってみると,つぎのようであった。

1879

年(明治1

2

年)の調査によれば,玉 川上水市街樋線,旧西の丸分掛,浜離宮掛,京橋筋霊厳島辺築地掛,皇城吹 上掛,神田上水市街樋線,およぴ烏山村分水組合ほか 6つの分水組合,用水 組合が活動していただけあって,水源調査の不備のため亀有,青山,三田,

千川上水は自然に水がかれて用をなさなくなっていた。その後1

881

年(明治

14

年)千川上水を改良した千川水道会社が創設され,

1882

年(明治1

5

年)あ

(2) 

らたに麻生水道が完成した。これらの水道は河川,湖沼,井泉などの水源か ら直接引水し,不完全な土管,木樋,溝渠などによって導水しただけのもの であったので,管理の効果が小さくひとたび水路の上流に悪疫が発生すれば

かわや

ひとたまりもなかった。井戸も構造が不完全をきわめ,厠の汚水が浸透して 悪疫が伝播した。下水道の不備は一層ひどく,汚水がいたるところに滞溜 し降雨ごとに路上にあふれ,床下をおかし,井戸に浸入し,不衛生極まりな かった。こういう状態であったからコレラが大流行した。

コレラは,

1822

年(文政

5

年 )

8

月オランダの商船がジャワから長崎へ運 んできたのが最初であった。このときの流行は相当はげしく,九州から中 国,さらに大阪に入り,大阪市内の死亡者は

1

か月数千人を数え,周辺の郡 部では

9

月1

3

日およぴ1

4

日の両日に

134

人の死亡者がでたと言われる。第

2

回目の大流行の年であった1

858

年(安政

5

年)から

1860

年(万延元年)にか けて,全国に数十万の息者が発生し, とくに江戸は流行が最もはげしく,

(1)  日本水道協会 (以下日水協と略する) 「日本水道史総論編」日本水道協会,

1967,  612,  66

ページ以下.

88

ページ以下を参照。旧水道については堀越正雄

「日本の上水」新人物往来社.

1970,

は好著である。

(2) 

同 上 ,

85 88

ページ。

(4)

22(406) 

第 24 巻 第 5

1858

8

月には毎日の死亡者が

1

万人を数え, 当時

400

余か所の寺院および

9

か所の火葬場で取扱った死者は,実に

28

6,000

人以上と言われる。この 年の翌年再ぴ病勢がもり返し,結局

1860

年になってようやくおさまったと伝

(3) 

えられている。このように旧式の上水道は伝染病の流行にはまったく無力で あった。

さて明治維新となり諸外国との国交が頻繁となるにつれて,伝染病が猛威 を振いはじめた。ことにコレラはしばしば全国的に猶猥をきわめ, また赤 痢,腸チフスなど従来からの水系伝染病も多発した。コレラは

1877

年(明治

10

年)長崎に入港したイギリスの船から全国に広がり, 全息者数

1

3,710

人,死亡者

7,967

人に達した。明治

10 20

年の間にとくに猛烈をきわめたの は ,

1879

年(明治

12

年)と

1886

年(明治

19

年)であった

1879

年には,コレラ は愛媛県に発生し,大分県に及び, さらに全国に広がって,全患者数

16

2,637

人,死亡者

10

5,786

人に及んだ。

1886

年には患者数

15

5,574

人,死 亡者数

11

86

人 ,

3

41

県およぴ北海道にまで達した。そのうち大阪・石川

•富山・東京•福井•新潟が最もひどく,流行をまぬがれた県は鹿児島•宮 崎の

2

県だけであった。

1877

年〜

1887

年(明治

10 20

年)の間のコレラ・赤 痢・腸チフスの患者及ぴ死亡者は,それぞれ

82

1,320

人 ,

37

2,293

人とい う多数にのぽった。この死亡者数は全患者数の実に

45.3

彩にあたり,うちコ

(4) 

レラによる死亡者は

27

3,816

人,コレラ息者の

66.4

彩にのぼった。

そこできれいな自然水を商う民間のいわゆる水屋が各地に繁盛した。しか し水不足につけこんで水料を釣り上げ,暴利をむさぼる者が硯われ,のみ水 についての市民の不満が沸騰した。

1878

年(明治

11

年)には「欽料水注意法」

が制定され,府県では「井戸に関する取締規則」を定めたところもあり,す でに飲料水の取締りが強化されてはいたが,防疫上の効果はそれほどあがら

(3) 

中島工学博士記念事業会(以下中島と略する)「日本水道史」中島工学博士記

念事業会,

1927, 1 2

ページ。

(4) 

日水協,前掲書,

136

ページ。

(5)

水道事業と公営原則(寺尾)

(407)23 

(5) 

なかった。民営水道会社の計画は各地にみられたものの,あまり成功しなか った。たとえば横浜では,

1868

年(明治元年),

1870

年(明治 3 年)に個人 による水道計画があったが実硯をみず,神奈川県の行政指導でできた水道会 社が大蔵省からの資金の貸下げをえて

1871

年(明治

4

年)着工,

1873

年(明 治

6

年 )

12

年竣工通水の運びとなった。しかしこの水道も木樋水道であった ため漏水がひどく,市内全部に供給することができなかったばかりでなく,

収支の点においても予定をそごし,負債

14

2,230

69

3

厘を残し,

1874

年(明治 7年)会社の事業は町会所に引き継がれたのである。さらにその後

(6) 

県の経営に移されたにもかかわらず,経営は依然困難であった。その後新潟

(1880

年 ,

1889

年),神戸

(1886

年 ,

1889

年),長崎

(1888

年),東京

(1888

年)のほか,秋田町

(1874

年 ,

1884

年 ,

1887)

,郡山

(1888

年)などにも民営 水道会社の敷設計画がみられたが,通水をみたけれども新潟のように不完全 な工事によって汚水が浸透し,また予期した利益をあげえなかったもの,資

(7) 

金調達に失敗し計画倒れにおわったものがほとんどであった。このように 伝染病対策として水道が不可欠となり,抜本的な方策が望まれるようになっ た 。

さらに防火上からも水道の必要性が強まった。明治以前の江戸では大火に よる被害はまさに言語に絶するものがあった。明治になっても毎年のように 東京は大火に見舞われた。焼火戸数

1,000

戸以上の大火を拾ってみれば次の

(8) 

ようであった。

1869

年1

2

月28 日 元数寄屋町より出火木挽町,汐溜辺に至る

9

町(焼失3

, 402

戸,死者22 人 )

1870

年1

2

月22 日 日本橋難波町より出火,

18

町(全焼1

,180

戸,半焼57 戸 )

(5) 

日水協,前掲書,

137

ページ以下。

(6) 

日水協,前掲書,

148

ページ。

(7) 

日水協,前掲書,

148

ページ以下。

(8) 

藤口透吾・小鯖英一「消防1

00

年史」創思社,

1968, 136157

ページ,中島,前

掲書,

14

ページ。

(6)

24(408) 

24

巻 第 5 号

1872

2

26

日 祝田町より出火,築地まで.(全焼

2,926

戸,焼死者

9

人 , 負傷

60

余人)

1872

12

9

日 東福田町より出火,小網町に至る

12

町(全焼

4,952

戸 )

1873

11

月1

7

日 京橋川口町より出火(全焼

1,231

戸 )

1876

11

月2

9

日 数寄屋町より出火新湊町

7

丁目に至る

13

町(全焼

8,906

戸,罹災者 2万余人)

18.78

3

17

日 神田黒門町より出火,日本橋区内に至る(全焼

5,125

戸 )

1879

12

26

日 箔屋町より出火,日本橋区,高橋区内を焼く

13

町(全焼

1

613

戸,罹災者

3

5,980

余人,焼死者

23

人 )

1880

2

3

日 日本橋橘町より出火,久松町,浜町に至る(焼失家屋

1, 776

戸 )

1880

12

30

日 神田鍛冶町より出火,日本橋に至る

9

1881

1

26

日 神田松枝町より出火, 日本橋, 本所, 深川に至る

30

(被災戸数

1

637

戸,罹災者

3

6,564

人 )

1881

2

11

日 神田柳町より出火,

21

箇町

13

町(全焼

7,751

戸 )

1881

2

21

日 四谷箪笥町出火,

10

箇町(全焼

1,499

戸 )

1885

3

13

日 日本橋坂本町より出火,茅場町一帯

(1,220

戸焼失)

1887

12

19

日 日本橋蠣殻町より出火,松島町まで(全焼

1,690

戸 )

1890

2

27

日 浅草区三軒町より出火,西仲町へ(全焼

1,460

戸 )

1892

4

10

日 神田猿楽町より出火,日本橋本石町通りへ(全焼

4,170

戸 )

1898

3

23

日 本郷春木町

2

丁目から出火,元町

1

丁目まで

4

町(全焼

1,478

戸,焼死者

2

名 )

1911

4

9

日 吉原内より出火,千住まで

14

町(全焼

6,189

戸,半焼

69

戸,死者

5

人,負傷者

109

人 )

1912

3

21

日 洲崎弁天町より出火,西平川町まで

6

江戸と呼ばれていたころ, 将軍が遠出をする場合には,「火食の禁」と称

して,火を取り扱う商売の者は店を休むぺしという達しがでたくらいであっ

(7)

水道事業と公営原則(寺尾) (

409)25 

た。明治天皇が東京に都を定めその初めの都入りにあたっても「火食の禁」

(9) 

の町触れが出されたが,これは

1876

年(明治

9

年)廃止されるまで続いた。

それほど火事には神経をとがらせていたが,大火が絶えなかったのは,木

(10) 

造家屋が圧倒的に多かったこともあるが,近代的な有圧水道が長い間なかっ たせいでもあった。蒸気ボンプが出動して威力を見せはじめたのはせいぜい

(11) 

1888

年 ,

1889

年(明治21 年,同22 年)ごろからであった。こうして防火の必 要が伝染病対策に加えて根本対策としての近代的な水道敷設を急務としたの である。

待望の近代水道は,港湾都市横浜において

1885

年(明治18 年)着工,

1887

年(明治2

0

年 )

10

月1

7

日 ,

8

万人の市民が見守るなかで配水管にとりつけら れた消火栓:からの放水試験の成功をもって開始された。人びとは初めて見る 筒先から奔出する水圧の威力に驚嘆し,文明開花を賛美したと伝ええられて

(12) 

いる。これを計画し建設したのは神奈川県(県令沖守固)であり,設計施工 したのは当時イギリス陸軍工兵中佐パーマー

(HenrySpencer Palmer)

で あった。工事費の減額指令もあって, 1 人 1 日計画使用水量が最初の計画の

20

ガロン

(90.8

£)から

18

ガロン

(81.7

£)に減らされたにもかかわらず,

工事費は

107

万円余にのぼり,その全額が国庫からの借入れであった。 当時 の県は,府県制公布

(1890

年 ( 明 治23 年)]以前のものであって,近代的な 地方自治制度としての地方自治体ではなく,国の地方行政官庁に属するもの であったので,この事業はいわば地方庁管理の国営事業と言うべきものであ った。 この水道は

1890

年(明治23 年)「水道条例」に基いて横浜市に引き継

(9)

藤ロ・小鯖,前掲書,

65

ページ。

(10)  1921

年(大正1

0

年 )

12

月東京市調査でも, 家屋総棟数3

58,441

棟のうち,木造

97.4%

, レンガ造2.4% , 鉄筋コンクリート造0

.2

%にすぎなかった。 (中島,前 掲書, 9 ページ)

(11)  1884

年(明治1

7

年)には東京に蒸気ボンプ

1

台のみ。

1889

年(明治2

2

年)には

8

台になった。藤ロ・小鯖,前掲書,

9396

ページ,

151

ページ参照。

(12) 

日水協,前掲書,

169

ページ。

(8)

26(410) 

24 巻 第 5 号

(13) 

がれた。ついで港湾都市函館の水道が1889 年 ( 明 治22 年)区営で,長崎の水 道が1891 年 ( 明 治24 年)に史上最切の市営として,さらに水道条例に基く最 切の市営水道として敷設認可をえた大阪のそれが1895 年(明治28 年)に完成 し,内務省衛生局雇技師兼工科大学講師バルトン(

WilliamK. Burton)

に よる広島の水道が

1898

年(明治31 年)に竣工した。東京帝国大学工科大学教授

・東京市水道技師中島鋭治による近代水道の初期工事が東京で完成したのが

1899

年 ( 明 治32 年 )

12

月 で あ り , 東 京 市 営 水 道 の 全 工 事 が 竣 工 を み た の は

1911

年 ( 明 治44 年 )

3月のことであった。 1905

年 ( 明 治38 年)には神戸,同

(14) 

じく岡山,

1906

年(明治39 年)には下関に水道が完成した。

1905

年(明治38 年)末現在主要都市水道の給水状況は表

1

のとおりであった。この表では零 表

1

水道給水状況

(1905

年末現在)

\  専 用 共 用 水道使用状況 普及率

戸 戸 % 

横 浜

10,533  23,661  55 

函 館

1,701  15,618  76 

長 崎

4,627  14,408  87 

大 阪

32,336  133,600  67 

広 島

7,790  18,116  58 

神 戸

10,536  15,671  33 

東 京

80,608  92,580  35 

岡 山

2,301  4,902  51 

下 関

392  113 

(日本水道協会「日本水道史」総論絹,

日本水道協会,

1967

年 ,

196

ページ)

細な利用者による共用が多いことがと くに注目される。

*区営の区とは,市制町村制

(1888

年 ) 以前の制度で市の前身である。

ただ水道の普及はきわめて緩慢であ り,今世紀になった明治30 年代におい ても全国でわずか

9

市と

2

つ の 小 規 模

(15) 

な 町 に し か 水 道 が な く , 内 務 省 衛 生 局の調査によれば,

1903

年 ( 明 治36 年)における全国総人口に対する水道 普 及 率 はわずか

3.15%

に す ぎ な か っ

(13) 

日水協,前掲書,

168 169

ページ,

170

ページ。中島,前掲書,

341

ページ以下。

竹中龍雄「日本公企業成立史」(大阪商科大学経済研究所調査梨報第1

4

輯),大同 書院,

1939, 27 30

ページにはくわしい記述がある。

(14) 

日水協,前掲書,

172186

ページ,

190

ページ参照。このほか竹中,前掘書,第 3 章近代的水道企業の成立,にはくわしい記述がある。なお,各都市水道局の年 史などが参考になる。

(15) 

泰野町,根室町である。日水協,前掲書,

190

ページ.

(9)

(16) 

た 。

水道事業と公営原則(寺尾)

(411)27 

こうしてなおきわめて部分的ではあったが,上水道の普及は公衆衛生上,

また防火上大きな威力を発揮した。確かに伝染病は激減した。たとえば東京 では,水道敷設前

6

か年の人口

1

万人あたり伝染病(もっばら水の媒介によ るチフス・コレラ・赤痢) による死亡者数は年平掏

71.68

人であったのが,

(17) 

水道敷設後

6

か年では年平均

25.25

人に減った。火災の場合もさきにみたよ うに明治

30

年代

(1897

年以降)に入ると,東京では大火が急減したが,これ

(18) 

は近代的な水道ができ消防水利が消火栓時代に入ったことを証明している。

たとえば甲府は歩兵連隊の設置にともなって欽料水が不足し,

1912

年(大正 元年)水道が竣工した。ここでも水道敷設前

9

か年平均では戸数

1

万戸あた り火災戸数は年間

34.7

戸であったのが,水道敷設後

10

か年平均では

7.4

戸に

(19) 

激減した。

(2

、 ) 水道条例と「市町村営主義」

防疫と防火という行政目的がはっきりしたので法律の整備が必要になって きた。そこで

1890

年(明治

23

年)水道条例が制定をみた。水道条例は水道の

「市町村営主義」の確立をもってよく知られている。この法律は第

2

条で次 のように規定している。すなわち「水道は市町村其公費を以てするに非ざれ ば , 之を敷設することをえず。」この市町村営主義は当時の国民にとって決 して耳新しいものではなかった。

1871

年(明治

4

年 )

12

月の大政官布告第

648

* 

号は,「治水修路」の事業は「地方」の行う要務であると規定しており,

1874

年のファン・ドールン

(VanDoorn, C.J.

)提出の東京水道改良意見書も「水

(20) 

道のエは親しく都府のエに関る」とのべていた。

1887

年(明治

20

年 )

6

月 ,

(16) 

日水協,・前掲書,

196

ページ。

(17) 

中島,前掲書,

133

ページ。

(18) 

藤口•小鯖,前掲書, 157 ページ。

(19) 

中島,前掲書,

134

ページ。

(20) 

日水協,前掲書,

241 242

ページ。

(10)

28(412) 

24

巻 第

5

政 府 は 『 水 道 敷 設 の 目 的 を 決 定 す る の 件 』 を 閣 議 決 定 し , そ の な か で 次 の よ

(21) 

うにのべている。

* 

「地方」とは後述の地方政府の意味である。

「抑々給水の事たるや,其小なるものよりして云えば一家の使用に供するに過ぎず と雖,其大なるものよりして云えば,実に全都会の生命に関するの工事たるが故に,

水道の敷設は誰をして起工せしむる敷は最も先づ其目的を一定せざるべからず,蓋し 水道敷設に二法あり,第一は地方政府をして地方税の経済を以て之を起工せしめ,第 二は私立の会社に委付して之を起工せしむるにあり,而して此二法の凱れが優れるを 問へば,則ち第一に在りと云はざる可らず。」

し か も 水 道 敷 設 の た め の 経 費 支 弁 に つ い て は 次 の よ う に の べ ら れ て い る 。

* 

「然らば則ち本邦に於ても今後水道の敷設を奨励するには宜しく之を地方政府に委 付し,地方税の経済を以て之を起工せしむるを以て原則とし,私立会社に委付するは 万己むを得ざる場合にのみ適用するの変則と定むべきなり,若又地方民力の此起工に 堪へざらん乎,宜しく府県債借入を許すべし,府県債の借入を許すも共全体の利は私 立会社に委付して起工せしむるに勝れり,……地方政府の事業は私利よりも寧ろ公益 に進むに早きの傾きあるものにして,起工改良共に共便実に少からず,而して給水な るものは人生の必要物たるが故に工事一たび落成すれば時に応じて水税を減じ水最を 増し其他工事に改良を加ふる等の事をなすとも,決して損失を招くべき性質の事業に あらざるが故に,地方政府に於ては仮令負個を借入するも,之が為め甚だしき困難に 陥るの恐れなければなり。」

* 

地方政府とは地方行政官庁を意味し,

1887

年のこの閣議決定は官営主義 をとるものであって「市町村営主義」をとるものではなかった C 自治省「地 方公営企業制度資料」, 地方財務協会,

1973, 6 7

ページ参照。この書物で は,三川秀夫が「水道条例に於ける市町村営主義の原則」(「都市問題」

23

7

号 ,

1936)

においてこの閣議決定によって市町村営主義が確立されたという論 者(たとえば亀山孝ー「衛生行政法」)を批判したことが紹介され,この見方が 一般に肯定されていると書かれている。〕

水 道 条 例 の 立 案 に つ い て は , 主 務 官 庁 の 内 務 省 衛 生 局 と こ の 制 度 を 法 規 上 不 必 要 と す る 法 制 局 と の 間 に せ っ し ょ う が あ っ た が , こ の な か で 衛 生 局 は 制

(21) 

中島,前掲書,

84 85

ページ。日水協,前掲書,

243 244

ページ。

(11)

水道事業と公営原則(寺尾) (

413)29 

( 2 2 ) .  

定の必要性を次のように陳述した。一部抜すいして重ねて水道条例の立法意 図を尋ねてみたい。

〔本案第二条に水道は,市町村に於て其公費を以て,之を布設経理すべきものと掲 げたるは水道を以て公共の営造物と為し,市町村をして之を経理せしむるの意を明に し,以て一私人,若くは一会社の経営に委付せざるの原則を示すものなり。要するに 水道を公設と為し,又は私設と為すの得失は,世間,或は其の説を異にするものあり と雖も,市町村は道路を改修し,橋梁を架設すると均<其住民の家事用等に対し,宜

<給水の方法を設くべきものにして,私設水道の弊あるは,之を欧米の実例に徴し,

己に当局者の知悉する所なれば,市町村の公費を以て水道を布設せしめんことを欲す るの目的を以て此原則を明記したり。蓋し,市町村制は,市町村に許すに営造物を建 設・管理するの権を以てせりと雖も,然れども是は唯汎く諸般の営造物を建設し且之 を管理するを許すに止まり,他の公共団体若くは私人私立会社等の之を建設管理する を妨げざるなり。他語以て之を云へば,市町村制は某々の事業を以て,市町村の営造 物を定むるにあらずして,唯広く営造物の建設を許し,又之を建設したる以上は之を 管理するの権利を与へたるのみ。是を以て本案,特に其の第二条を以て此大原則を示 し,水道を以て,市町村の営造物とすることを規定せざるは嵩に其の用なしと謂うを 得んや。」

こ こ で 明 確 に さ れ た こ と は 水 道 が 行 政 の 一 環 で あ り , 市 町 村 の 「 公 営 造 物」であるという点であった。したがって企業的側面は全く無視された。同 時に「都市社会政策」といった側面はむしろ弱<,次の国庫補助金の支出規 準にみられるように,まず政治的軍事的動機が主導したことは,わが国にお ける水道の歴史の特徴として指摘されねばならない。

上水道敷設費に対する国庫補助は1888 年度(明治21 年度)から函館区営水 道に

3

か年に分割して

7

5,000

円が交付されたのが最切であった。翌年度 には長崎市水道,

1891

年 度 に は 東 京 市 水 道 , 大 阪 市 水 道 に 補 助 金 が 交 付 さ れ,その後次第に他都市に及んだ。横浜水道が全額国庫支弁によって施工さ れたのは開港場としての休面の問題があったからであるが,政府は財源難の なかでまず当時の主要都市であった三府五港に限定して,その水道敷設費の

(22) 

日水協,前掲書,

356357

ページ。

(12)

30(414) 

24

巻 第

5

3

分の

1

を標準として国庫補助をおこなったのである。

1900

年度(明治

33

年 度)からは,対象範囲を,三府五港のほかこれに準ずる大市区,産業の発達 に重大な関係のある地区,および師団,旅団所在地の水道に拡大し,その補 助率は三府五港以外は水道敷設費の

4

分の

1

とした。岡山や下関がこれに該 当した。なお

1907

年度(明治

40

年度)からは補助件数の培加に伴って全部一 律に

4

分の

1

が適用されることになった。このように補助対象は主要な都市 に限られ,明治年代では町村営水道には地方費補助が奨励されただけで,国 庫補助金の交付は行われなかった。ただ

1918

年(大正

7

年)からは大都市隣

(23) 

接の町村に拡大されることになった(補助率

1/4)

。明治絶対主義政府は産業,

教育,港湾,鉄道などの国家的基幹施設や巨額の軍事費支出を優先し,殖産 興業富国強兵のかげに水道の普及をあとまわしにしたことは争えない事実で あった。政府が国際港湾都市と軍事都市に水道敷設補助金支出を限定したこ とはそのなによりの証拠であった。

さらに明治の水道の用途はすでに家事用ばかりではなかった。

1887

5

月 の「横浜水道給水規則」,「横浜水道共用栓規則」,「横浜外国人居留地給水規 則」の料金表によれば,横浜水道の場合は, 家事用 (放任給水=定額制),

(24) 

低所得者用(共用栓)のほか,大口需要者用(特殊用)があり,

1895

年の大 阪水道の場合は家事用(放任給水)のほか官衝,兵営,監獄,官公立学校,

病院など市税を賦課されない建築物への給水用,船舶用,営業用の別があっ た。この場合料金格差は,負担力を基準にして設けられたのでなく,市財政 全体への寄与の度合いが尺度となって設けられたものであって,兵営を除き 市税を負担してないという理由で,官衝等の公共用に営業用より高い料金が 課されていた。兵営用については,大阪市が軍用地である大阪城址を陸軍か ら借用していたという理由で安い料金が課された。この料金格差をつけた尺

(23) 

中島,前掲書,

17

ページ。日水協,前掲書,

172 188

ページ,

549 552

ページ。

竹中,前掲書,

23 24

ページ。赤間関(下関)は「特別輸出港」「軍事上の関係」

と説明されている(竹中,前掲書,

24

ページ)。

(24) 

日水協,前掲書,

476 477

ページ。

(13)

水道事業と公営原則(寺尾) (

415)31 

度からみても当時の水道事業が地方団体のおこなう他の行政的諸事業とほぼ

(25) 

同一に観念されていたことがわかって興味深いが,このような用途の多様性 を反映して,水道の目的をどこにおいたらよいかについて,主務官庁の内務 省衛生局と法制局との間で法律案のつき合わせ過程で大いに論議がかわされ た。最初内務省衛生局が作成した「水道条例」の素案

(1888

10

月)におい . . . .  

ては, 「本条例に於て水道とは, 市町村若くは其の一部の住民の家事用其の

• • • • • • (26) 

他需用に応じ給水の目的を以て布設する水道を云」う(第

1

条)というよう に(傍点引用者), のみ水は他の需要と並列的に扱われていた。 ところでそ の後の成文化をめぐる内務省と法務局とのせっしょう過程で,この箇所につ いて法制局が反対の意向を示し, 次のような代案が出された。「本条例に於 て水道とは市町村の住民専飲用需用に応じ,給水の目的を以て布設する水道 . 

を云」う (傍点引用者)。 この法制局の意見に対して内務省衛生局は専飲用

(27) 

という

3

字を削除し

(1889

7

月 ) , 結局この意向に沿って「水道条例」が

1890

2

月に制定をみたのである。 そこにおいては当該箇所は, 「 第

1

条水

• • • • • (28) 

道とは市町村の住民の需要に応じ給水の目的を以て布設する水道を云」ぅ

(傍点引用者), というように, のみ水以外の需要を含みうる含蓄ある表現 になったのである。もっともこの対立の背後には官僚組織のセクショナリズ ムがかくされていたことはまぎれもなかった。この水道の目的についての法 律上のあいまいさは,水政についての一応の役割分担が

1957

年「水道法」制 定で決まってはじめて解消された。

公営原則の財政的裏づけ

( 1 )   公費による裏づけとその限界

水道条例の市町村営主義は,市税の繰入れおよび国庫補助によって基本的

(25) 

日水協,前掲書,

478479

ページ。

(26) 

日水協,前掲書,

353

ページ。

(27) 

日水協,前掲書,

355359

ページ。

(28) 

日水協,前掲書,

361

ページ。

(14)

32(416) 

24 

にその行政的性格を保障された。

巻 第 5  号

しかし市町村にとって財源の確保は決して 容易ではなかった。 この点について

1890

年代を中心に大阪市営水道事業の財 政状態をみてみよう。

大阪市営水道は

1895

年(明治28 年 )

8

15

日から給水が開始された。創設 の工事費は,

1891

年(明治24 年)いったんは減額されて

222

万円となり, その 財源は水道公債募集金

197

万円, 国庫補助金15 万円,市税金100 万円からなっ ていたが, その後増額され建設利息をふくみ約 2 5 6 万円となった。 このよう に創設財源はほぼ 9 割が地方債をあて残りを税金の繰入れでまかなったので ある。 ところが運営費をまかなうことも容易ではなかった。表 2のように,

はじめ水道料金だけでは水道費(公債償還金を除く経常経費)すらでなかっ

(29) 

たが,

1898

年(明治31 年)それがまかなえるようになってからも,公債償還金

(29) 

竹中,前掲書,

58

ページ参照。竹中教授は,初期の近代的市営水道企業中,自 立経営でなく不足経営であったのは,長崎と大阪だけであったと指摘している。

参考のため,次に,竹中教授の引用にしたがい水料(=使用料)及び維持修繕費

(=水道費)を対比して示そう(竹中,前掲書,

35 36

ページ)。

種 目 料 持 繕 費 水 維 修 同 同 同 同 同 同 同 同 同 同 同 同 同 同 同 同

横 浜 函 館 J i l   J i l  

535 

1892  1893  1894 

長崎

大阪

66,342  3,006  40,728  73,036  3,901  7,281  40,728  ‑ 11,943  72,440  3,497  4,302  40,728  ‑ 21,902  81.442  5,574  4,112  40,728  4,950  21,532  81,770  6,174  3,592  40,728  5,486  14,460  85,868  6,266  4,642  11,301  40,728  6,165  17,387  40,438  93,741  7,198  8,409  84,007  40,728  8,500  23,160  96,292  102,786 14,960  13,235 127,595  37,295  9,766  31,296 140,190 

広島

神戸

東京

P l   山 円

表 2 大阪市水道事業歳入歳出決算

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