一八四八革命の中でユダヤ教徒は何を考えていたか(上)
﹃オーストリア・ユダヤ中央⁝機関紙﹄を読む
増谷英樹
はじめに
一八四八年の革命は一般に﹁近代の転換点﹂として位置づけられ︑﹁ヨーロッパの近代﹂が変質し︑近代の負の側面であ
る帝国主義の時代への序曲をなすと解釈されてきた︒そうした解釈は︑革命の一五〇周年を迎えた一九九八年の時期に
ある意味では大きな変更を加えられ︑ドイツにおいては︑革命の中に現代の支配思想につながる自由主義の根源を見い
だそうとする研究も現われてきた︒それにも拘らず︑この革命はヨーロッパの近代の展開のなかで︑否定的にも肯定的
にもその変質をなした事件として位置づけられるものであったことには変わりはない︒具体的な歴史展開においても︑
一八四八年革命は様々な人々の行動や思考に転換と変質をもたらした︒逆な表現で言えば︑そうした様々な人々の思想
や行動の変化こそが革命であった︒その点に関してはすでに二〇年も前に拙著﹃ビラの中の革命ーウィーン・一八四八
の年﹃において示しておいたことであるが︑その際に不十分にしか表現できなかった問題として人々の﹁宗教的﹂な意識の
問題の変質・変化の問題があった︒
ここで﹁宗教的﹂と括弧をつけて表現したのは︑﹁宗教的﹂という表現自体がまさにウィーンの一八四八年革命におい
て変化していった人々の意識とその表現の転換を示すからに他ならない︒ヨーロッパ全体においては︑一七八九年に始
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メトロポリタン史学四号二〇〇八年一二月八六
まるフランス革命が︑王権とキリスト教の支配を否定する﹁世俗﹂の論理を組立て︑﹁自由・平等・博愛﹂という表現によっ
て王権とキリスト教的11﹁宗教的﹂支配の論理を否定しようとしたと考えることができる︒そうした﹁世俗﹂の論理を構
築するにあたって︑否定する対象として﹁宗教的﹂な思考が区別されたのである︒何が﹁世俗﹂であるかを考えることに
のよって初めて﹁宗教的﹂なものが規定され︑﹁宗教的﹂という表現も生まれたといってよいであろ・飯︒そうした変化はウィー
ンにおいては一八四八年革命を待たざるをえなかった︒ウィーン体制下においては︑民衆の﹁世俗的﹂思考の代表として
の﹁自由﹂あるいは﹁平等﹂ないしは﹁民族﹂﹁国民﹂といった概念が押さえつけられてきたからである︒
本シンポジウムの﹁民衆運動と宗教﹂という問題設定は多少の誤解を生む可能性はあるが︑さしあたって本稿では
一八四八年革命という﹁民衆運動﹂の中での﹁宗教的﹂意識がどのような変化や転換を見せたかを︑その後において﹁宗
教的﹂にも﹁民族的﹂にも捉えられたユダヤの人々の意識の変化のなかに探ってみようと思う︒その際︑主要な史料とな
るのは︑一八四八年の革命の際に︑ユダヤ教のなかでは﹁改革派﹂に属し︑社会的には同化を志向するイシドーア・ブッシュ
とM.レッテリースが編集した﹃ユダヤ教徒の信仰の自由と文化︑歴史︑文学のためのオーストリア中央機関紙﹄(以下﹃中
央機関紙﹄ないし﹁機関紙﹂と略称)と称する週間新聞である︒そこには当然同化志向のユダヤ教徒が集まり︑その議論
を展開しているのだが︑その論理は多岐にわたり︑場合によっては同化志向を越えたり逸脱したりする論理が多々現れ
る︒むしろ︑そうした逸脱や不規則発言的意見表明のなかに︑民衆運動の中で﹁世俗﹂と﹁宗教﹂との間を行き来するユ
ダヤの人々の意識をみることができる︒
﹃中央⁝機関紙﹄の綱領は次のように定めていた︒
﹁言葉は自由であり︑思想は自由である︒⁝我々もまた︑ながい長い年月我々を圧迫し蔑んできたものを︑いまやも
う心の中に封印しておく必要はない︒我々もまた︑われわれが望むことを︑そして我々が人間として忠実な祖国の子と
して要求する権利のあることを︑自由に公に発言することが許される︒我々はいまやオーストリアにおいて美しくより
良い未来に直面している︒まさにそれ故に︑いまや人々を惹起し︑精神を高め︑高められた未来のために備えることがこ
の新聞の高貴な役割なのである︒﹂﹁我々はいかなる党派も︑いかなる傾向も排除しない︒自由な意識は他者を制限しよ
うとしてはならないし︑真の自由は︑すべての信念を認めていかねばならないし︑それらに完全な承認を与え自らを制
御しなければならない︒﹂﹁我々が特に要求するものは自由と愛である︒﹂﹃中央機関紙﹄は︑扱う対象として七つの分野を挙げている︒一︑祖国のユダヤ教徒の状況の紹介︒二︑ユダヤ教の歴史︒
三︑人々の伝記︒四︑学問的な論文︒五︑読み物としての新聞︒六︑娯楽と対話の新聞︒七︑社会的政治的出来事の週間報
㈲告︒これらは二と三を除くならば︑他の新聞と比較してもとくに新たな点はないが︑内容的にはいくつか特徴的な点が
ある︒四の説明は以下のように述べている︒﹁我々が熱心に追い求めるのは︑協調を媒介し︑我々の信仰仲間のなかに共
存と統一の感覚を維持し強化することである︒社会的協力‑貧民扶助の改善︑労働の組織化︑共同利用企画の推進など
ーおよび宗教的領域における融和接近﹂︒この内容は︑編集者たちがこの当時の新たな意識としての社会的な側面︑とく
に労働の問題や貧民救済に目を向け無ければならないと考えていることを示していると同時に︑彼らが﹁世俗﹂と﹁宗教﹂
の間を結びつけようとしていたことを示す︒そして︑それは実際にいくつかの記事として現れる︒六の説明では﹁我々は
この点において︑才能豊かなイスラエルの女性を企画に獲得したい﹂と述べ︑とくに女性の参加が希望されていること
は特筆されてもよいであろう︒
さて︑ほとんどが同化志向のユダヤ教徒であるこの﹃中央機関紙﹄の編集者たちが︑三月の革命のなかで彼らの方向
性に確信をもって︑かなり大上段に振りかぶった形で設定したこれらの目標は︑実際にどれだけ実現に近づいたのだろ
うか︒少なくともどれだけ実現に近づけようと努力し考えたかを︑議論として取り上げられたされたさまざまな問題を
通して検証してみよう︒
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メトロポリタン史学四号二〇〇八年一二月八八
一︑期待と不安から革命の中に
三月二四日に発行されたこの機関紙の第一号の巻頭を飾った論文は︑コペンハーゲン出身で永らくウィーンの改革派
ユダヤ教徒の指導者であったイサーク・ノア・マンハイマーの﹁ユダヤ問題に関する表明﹂と題する評論であった︒マン
ハイマーは自らをユダヤ教徒の歴史的呼称である﹁ラビ﹂ではなく一般に伝道者ないし説教者を意味する﹁プレディガー﹂
と名のり︑同化を求める当時の改革派の基本姿勢を示す︒その内容も︑革命初期のこの三月に改革派ユダヤ教徒が革命
に対してもっていた期待と不安の両面を明確に示すものであった︒
﹁この一週間︑公衆は私が望んでいた以上にユダヤ問題に取り組んできた︒我々の信仰の仲間たちの利害を心に抱きな
がら︑永遠に記憶に残すべきこの日々の出来事を︑新しい時代の到来として歓喜をもって迎えた我々は皆︑我々の権利︑
これまで屈辱的なほど制限され蔑ろにされてきた我々の権利が今後我々に保障され︑もはや再び侵犯されることはあり
えないだろうという確信に貫かれている︒こうした熱狂への︑敢えて言うならば陶酔した感覚のなかで︑我々はすべて
の疑念を忘れて︑運動の全体的流れのなかに身を任せた︒そして蜂起と運動の最初の瞬間から︑我々は我々独自の問題
においては何事も企ててはならず︑何事も語ってはならないこと︑人間の権利︑市民の権利によって我々の権利が間違
のいなくやってくることを肝に銘じて意識してきたh﹁と︒
この冒頭の文章においてマンハイマーは︑革命の最初の一週間にユダヤ教徒たちが熱狂的にこれに参加したことを高
く評価している︒その評価の基準は︑ユダヤ教徒が独自の問題をあえて持ち出さないで︑﹁人間の権利﹂﹁市民の権利﹂を
擁護する市民一般の蜂起ないし運動に参加したことにこそおかれる︒マンハイマーにおいては︑ユダヤ教徒の権利は﹁人
間の権利︑市民の権利﹂の一部として実現されるべきものと位置づけられ︑それはこの革命において﹁間違いなく﹂実現
されるであろうと期待されていた︒
ゆしかし︑この評論はしばしば︑マンハイマーによるユダヤ教徒の過剰な行動への諌言とも解釈される︒というのは︑こ
の文章に続いてマンハイマーは︑﹁バリケードの三日間﹂の後一七日におこなわれた葬送の際に自らおこなった演説を引
用し︑そこで次のように述べているからである︒
﹁いまやすべてが我々のためではない!他人が我々の代わりに発言してくれないならば︑﹃ユダヤ教徒の解放﹄につい
て一言もしゃべってはならない︒我々のために一言も発言してはならないし︑行動してはならない︒我々の権利のために
請願書を提出したり︑要望の文書も書いてはならない︒何の要求も訴えもしてはならない︒...我々は︑忍耐と落ち着
きをもってわれわれの運命を受け入れ大事にしなければならない︒我々の権利のために腕の一つも挙げてはならないし︑
足の一歩も踏み出してはならない︒最初に︑人間の生き︑呼吸し︑考え︑語る権利がくる︒最初に資格をもった栄誉あるみ自由な市民の権利がきて︑その後にユダヤ教徒がくるHと︒
確かにこの文章は︑積極的な行動への諌言にも聞こえる︒しかし同時にそこにはむしろ︑長く続いてきたウィーンの
ユダヤ教団の同化主義者幹部がその指導性を維持しようとする意図の方が強く読み取れる︒マンハイマーは︑革命や運
動のなかで﹁遅かれ早かれ起こるであろう﹂﹁転換﹂と﹁反動﹂を怖れ︑ユダヤ教徒の要求の急進化を阻止することによっ
て︑運動を啓蒙的な段階に統制しようとしたと見ることができる︒
そうしたマンハイマーの怖れを強化したのは︑その前日に出されたユダヤ教徒の﹁全ての宗派の平等を求める﹂一つ
の請願書であった︒その請願書はユダヤ教徒の学生たちによって用意され︑ウィーン市民の署名を集めるべく多くのカ
フェハウスに置かれた︒しかし︑学生たちの請願書は︑彼らの意図に反して︑ウィーン市民たちの反ユダヤ的感情をかりねたて︑たちどころにいくつもの反ユダヤのビラが出まわったのであム︒マンハイマーら教団の指導者たちは下オースト
リアの州議会に請願書提出の許可を申請しようとしたが︑﹁我々は二四時間遅かった﹂と述べている︒
しかし︑この評論の論理をさらに追ってみると︑この革命のなかでマンハイマーらのユダヤ教団指導部の態度や考え
方が少なからず変化してきていることが読み取れる︒請願書運動の経緯を説明した後︑マンハイマーは﹁我々が守ろう
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