文化としての宗教
同州命日山何日
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戸 め
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ロ ∞
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己 }円 己
Ha
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‑}
目 次
序
日本の宗教
I .
神道
1.
神社神道
2皇室神道
内 ふ
E .
仏
1 教
. 葬式仏教
2.
般若心経
3 .
嘆異抄 三 仏 教 の 源 流 問 ヒ ン ド ウ
l教
五
I 世
界 啓
,if¥
刀可
教
セム
系 神 教
ユダヤ教
H .
キリスト教
m .
イスラム教
︑22ノ 宅ZA
〆s z︑
六.補遺
七.参考文献
中 津
民
5
賞 序
明高
幹苑
hは︑﹁人間が自燃に手を加えて形成してぎた 衣食性を初め技術・学関・芸能・道徳・宗教・政治 の議式と内容を含む︒文明とほぼ同意義に用いられると とが多いが︑ドイツでは人間の精神的・内語的な生活にかかわるもの を文化と呼︑び︑文明と区別することがある﹂と説明している︒これに 対して司馬連太部は﹁文化とは︑特定の集関(たとえば民放)におい
てのみ通用する特殊なもので他に及ぼしがたい不合理のもので︑税同一姻
的でない︒文明は︑誰れもが捗加できる撤回溺的なもの・合理的なもの・
機能的なものである﹂山と解説する︒
宗教は︑特定の民挟の生前線式を形成してきた文化の典型といえる︒
国諜社会の交流の時代を迎えて︑諾畏族の異文化としての宗教を理解 することが本論のねらいである︒そのためとはまず︑自国の宗教を知 らねばならない︒神道と仏教である︒次にインドの宗教︑そして︑
ダヤ教︑キリスト教︑イスラム教を考察する︒
ユ
( 2 ) 筑後o月(2004)
弘前学院大学文学部紀委
日本の宗教
の宗教は縄文晩期︑弥生初期の紀冗前
3
世紀ごろから始まるイ ネづくりの農耕社会の成立とともに基本型が形成された︒すなわち︑
生産と生活の共間体によって営まれる農耕儀礼を主体とし︑日紫崇拝︑
通霊山一市拝︑呪術が発達した多神教であった︒ω宗教の定義を﹃広詐苑加 は︑﹁宗教とは神または何ちかの詔越的絶対著︑或いは卑俗なものから 分離され禁吋給された神聖なるものに関する信仰・行事︒また︑それら の連鵠的体系︒帰依者は精神的共同体を営む﹂と記している︒
では︑﹁カミ﹂と一拍凡そ称してカミ
というは︑尊尚の栽なれば︑君上のごとき︑首長のごとき︑皆これを カミとい弘︑近く身
ζ
とりても頭髪のごときをい弘︑速くの物におい ても︑上なる所さしてカミといふ﹂と述べている︒鵠大野皆は吋日本
一拍をさかのぼるh
において︑﹁カミとは︑まず蓄をざすことが多い︒次 に虎とか蛇︑襲︑オオカミとか恐るべき動物の激烈な力に対して人間 が到底対抗し得ない︑恐るべき存識をカミという︒また︑山︑坂︑川︑
道︑織などは︑その巨大な存在自体が威圧的であったので︑人間の恐 怖の対象をカミとした︒ここに見られるカミの特性は︑人間によって 好まれ︑親しまれ︑品寵される詐在ではない︒ぞれは︑恐怖︑畏怖︑畏 敬の対象ではあっても︑人間的な交泌を持つ対象とは全額忠われてい ない︒話︑猛獣から始まって︑山や川の通行をおびやかす存在とされ ており︑支記者としてのカミも︑恐ろしい存在としてしか把諾されて いない︺と説明している︒ω
このような素朴な信仰心は現代まで︑
てい
る︒
神 道
日本は︑神道の国である︒信徒数は
lls
︑384
︑223
人である︒
神 事 は 元 日 記 参 拝
︑ ゴ 一
︑ 受 験 の 祈 願
︑ 冠 婚 葬 祭
︑ 季 節 毎 の 祭 り な ど枚挙に暇がない︒神道を区分すると︑①神社神道︑恐皐室
④学派神道︑⑤教一派神道・神道系新宗教である
5長
1 .
神社神道 これは神道のもっとも代表的なもので︑持社を中心とし
りを行う︒
党主ノ宮、
祭 り 我 々 日 本 人 の 宗 教 は
︑ 祭 り と し て の 神 道 で あ る︒持道の重要な行事である祭りは︑神道的実践の鯵行でもある︒祭 りは︑神と人とが出会い︑和楽し︑それにより生活を正常なものとし て生成発壊させてゆくものである︒神社は︑神と人が出会う場所で︑
そこでは条件が必要である︒その条件とは﹁礼﹂と
である
拝
の 対 象 は と 時 ば れ る も の で あ る
G
神体
は︑
もの実体をいうのではなく︑﹁御霊代︺ともいうように︑神の鎮まる依 代である︒即ち︑樹木・岩石・山岳などのほか︑島・洞窟・滝などの 自対物がしばしば持の神体として祭柑の対象となっているが︑古くは これらは神そのものと考えちれていた︒また︑社搬の発達とも関連し つつ︑人工的物件︿工芸品・貴重品﹀が御霊代とされた︒鏑・剣・勾
玉などはその実例である︒礼持の仕方法︑﹁一一拝二拍子一拝﹂である︒
﹁拝﹂と﹁拍子﹂が神道の拝礼作法の特住である︒さらに︑正式の礼
拝においては︑玉串を奉納する︒
(2) き し
の
文化としての宗教
( 3 )
問 教 典
花服部神社官同の片山文彦は次の
な神学はない︒神道は︑日本に止し
のではないο
日 本 と い う 属 土 に 生 ま れ 膏 っ 日 本 人 と 共 に 出 現 し た
のが神道である︒従って︑教典はない︒あるとすれば︑それは自然︑
しかも日本という風土と気按よりなる自然である︒しかし︑何か書か
れたものに寄り懸かりたいという気持ちがあるから︑強いていえば︑
古事記︒日本書紀・古語拾遺である︒記・紀などには︑神話の部分と
歴史があるが︑煙史と神話がつながっても一向にかまわない︒むしろ
孜々の組先は神だと考えることが︑桂霊信停にもっともなじむもので
ある
九州
仰さ
らに
︑﹁
神道
ι
は独副の教興がないので︑自然から学ぶ︒自撚︿親神様﹀の命ずるままに生活を具現するわけだから︑考え方が不
自然になり︑罪械れの状騰になれば︑ただちに棋ぎ械えをして︑自然
に一成ることが大切である︒神道では︑出
‑ m ‑
動植物などあらゆるも
のに神を見︑八
万の神々の非主を認める︒人間は自然の一部であり︑r u
吉然を窺として生かされる︒自然を破壊することは︑親殺しにつなが
る︒神は自黙と共に伝統を大切にする︒それ誌︑万世一系の天皇であ
る︒天皇を戴き天皇制を護持することによって︑
シ ﹂ ︒
であ
る﹂
2 .
皇護神道 べている︒﹁神道には体系的
あって作られたも
ているの
天皇が関わりをも ヤマト政権の成立と管機に連携しているので宮経神道
大和朝廷
の持
々は
︑
(タカマガハラ)
の子孫として︑天神(アマツカミ)オホミカミ)といい︑農耕儀礼を 新嘗祭︿ニとナメ﹀と大嘗祭の起源護祭(ニヒナメ)は︑農耕儀礼の中て︑オホキミが最高祭司として新嘗祭を主宰した︒新嘗祭の天皇が持とともに新穀を食べ︑天皇が天一の時期から毎年の新嘗祭と区別して︑天内
うになった︒最初の大昔祭は問暦
6 7
3年 ︑
以障では︑明治天患は明治4
年日
門 日︑昭和天泉は昭和3年日月M
呂 ︑
秋に行われているのは︑
る ︒
国
た ︒ 家
つ
ているかろである︒
3 .
伊勢神宮∞
起 漉
崇神天皇︑垂仁天皇の時代と伝え
の時代に︑疫病が流行し農民の反乱がおこったため︑
その結果︑宮中で耐っていた天照大神(アマテラスオ
それ
て︑
山内
てい
る︒
の
天皇が
ホミ
カミ
﹀
ヤマトオホケニタマノカミ
い 切 っ ︒
この二神を朝起の
6年に︑アマテラスオホミカ
神体は山県位をあらわず三一種の神器
である︒伊勢神棋の外宮は︑トヨウケノカミを祭神とし ﹂とになったと
のひとつ
売 ア
タノ
カガ
ミ﹂
てい
る︒
成立当初は天皇家の氏神とい
の成立によって︑全国の神社のなかで
性 格 を そ な え る に 至 っ た
︒ 伊 勢 神 宮 の こ う し て
確立とが併行して確定した︒アマテラスオホミカミは︑
は オ ホ ヒ ル メ ム チ と 呼 ば れ る 高 天 原 の る が
︑ つ
(4 ) 第40り(2004)
弘前学院大学文学部紀要
マテラスオホミカミは︑けはの神︑水の持︑海の神など︑基
本的に農業神としての性格を備えている︒事軒時代になって︑伊勢信 仰の民衆化が進み︑民衆の間では農業神と並んで引に記る商業持とし て︑現批利益信抑の対象となった︒江戸時代に入ると集団参宮の
かげまいり﹂﹁ぬけまいり﹂が流行した︒
∞ 天 皇 制 と の 関 わ り 普通︑大嘗附印刷は天皇即位の後︑アマチラスオホミカミ︑及︑び
一大神・地祇に薦め︑自らも食す神事で︑その後い均年行われるものが︑
新嘗摂である︒大嘗祭は︑設の版(とやはり)の下で行われる徹夜の儀
式である︒即泣の礼は自同骨寸行われる︒一方は宗教的側面であり︑前
方は政治的側面である︒大嘗祭は︑また︑天皇の神絡化の儀式といっ
てよ
い︒
太平洋戦争は︑天皇を﹁現人神︺として先頭︑に立てて戦った︒敗戦
した時︑連合国軍総司令部品︑天山間活の非宗教化を要求した︒﹁神道指
令 ﹂
(1
94
5年ロ月同社)は来型制を以下の如く競定した︒﹁日本/
天皇ハソノ家系︑血統或イハ特殊ナル起諒ノ故ニ地図ノ元首に壌ルト
スル︑主義﹂︒究室の﹁家系︑皇統︑起糠﹂とは︑記紀における﹁天孫降
臨﹂神話を指す︒ぞれは日本の建国神話の源である︒ぞれを連合国は
否定
した
︒
連合国は﹁神道指令﹂につづいて︑天皇の﹁人間宣言﹂
(1
54
6年
1月2
日)を出した︒しかし﹁現人神﹂と﹁人間︺と辻︑対立語では なかった︒神道には︑人そ死後だけで辻なく︑生前むも神(ミコト)
として記る民俗があったのである︒戦後も天自主は依然として
の入︑すなわちア刀ミごである︒
﹁貴
種︺
﹁絶
対﹂
注.捗考文献
山 可 馬 遼 太 郎
﹃ ア メ リ カ 棄 描
h m
初頁
俗村上重良司自本宗教事典﹄
2
頁 講 談 社 学 術 文 藤
ω
大野晋明日本語脅さかのぼる﹄何一段大 法 輪 編 集 部
・ キ リ ス ト 教
・ 神 道
︑ ど こ が ち が う か
﹄
前掲議
sB
和 61 年
1988年
は性
︑ ︑
︐
e ' ' '
尽υ
ハ ︒
吋・キリスト教と大嘗祭h
富坂キリスト教センター編
: tt
40 斑 (7)
ひろさちゃ・上田賢治円神道の聖典﹄鈴木出版社
1992年
II
仏 教
1.
山 韓式仏教 葬 式 仏 教 へ の 喪 函 前 項 で
︑ 日 本 誌 神 道 の 悶 で あ る と 述 べ た
︒ だ が
︑ 仏 教 問 で もある︒信後数は実に
8
9︑
033
︑804
入である︒我々日本人は実 に不思議な文化の中に生活している︒国中いたる所に神社と寺院が現 在する︒そうでありながら︑個人的には﹁無宗教﹂なのである︒仏教 国ミャンマーは︑仏教が生活に溶け込んでいるのに︑日本人において は︑縁が薄い︒仏教の本費は︑輪廻と四苦八苦の官しみから解説する ことであった︒しかし︑何故︑わが同においては﹁葬式仏教﹂になっ
てしまったのか︒川内満利麿が興味深い分析をしているので︑著書明日
本人はなぜ無京教なのか恥から引用させて国く︒著者は先ず︑日本の 宗教を﹁自然宗教いと﹁餅唱宗教﹂という熟語で底分する︒﹁朗唱宗 教﹂とは︑教組と教典茂び教尽によって成立している宗教である︒そ の代表は︑キリスト教︑仏教︑イスうム教などである︒これに対して
﹁z H
然宗教﹂は︑教祖はおらず︑自然発生的で︑無意識に先祖たちに
文化としてのお教
( 5 )
てきた宗教であると定義する︒
中間の日本人は︑三つのことを鵠じていたという︒
在が文字通り倍じられていた︒第二は︑仏教ととも
にもたらされたインド人の世界観であるしハ道輪組︑即ち︑あらゆる生
き物は地獄︑餓鬼︑悲生︑阿修羅︑人間︑天︑の六つの度界を巡り続
けるということを信じていた︒つまり︑前世や来世の与在と生まれ変
わりが信じられていた︒第三辻︑死後︑地獄や餓鬼︑畜生といった世
界に落ちないように︑死後の世界の救済が切実に求められていた︒こ
の一二者が︑一体となって信じられていた時代が中世である︒部
郎内満は︑その例として親驚を取り上げる︒親鷲が法黙の弟子になっ
たのは︑死後地獄に昭一ちないようにするにはどうしたらよいのかとい
う悩みからであった︒当時︑出家して僧侶になった縄自のA
つは
︑ぃ
ハ
道輪刷仰の恐怖から逃れるためであった︒それには仏になるのが最上の
解決方法であった︒ ょ っ次
に︑
第一
は︑
最高の知忠を身につけることによって二
い存在のことである︒度と六道を輪廻するこ
し か し
︑ こ う し た 神 仏 へ の て 資 を 変 え 蛤 め る
︒ そ
れは︑罷教の徳日が加わるようとなったからである︒初めは︑仁義札
智信という徳日を守ることが神仏への詰仰とならんで強擁されていた
が︑やがて︑神仏がこの喪に姿そ現すのも︑儒教の教え︑つまり仁義
札智拾を人々に実践させるためであり︑仏の前で予告合わせたり︑神
社の社殿にぬかずかなくても︑こうした嬬教の教えを守っているかぎ
り
︑ そ の 人 間 を 救 う の だ と 教 え る よ う に な っ た か ら で あ る と い
wつ ︒
8︑7控紀になると︑
活に・自信を持ちはじめ︑台
それを︑﹁憂き世﹂から﹁A
いっても︑死後のことがまっ の開発などが進み︑人々はこの撲の生
つようになった︒
へという︒しかし︑この枇を裂しむと
にかからないというわけではな
そしてその危恨そ解消してくれるのが
のである︒﹁葬式仏教﹂とは︑日本に国有の仏教のあ
日 本 文 化 の ユ ニ ー ク っ て
︑ タ イ や ヴ エ
では︑ほと
﹁ 葬 式 仏 教
﹂ ま ず
︑ 僧 侶 に よ っ ら れ る
︒ 法 名 と い 名 は
︑ 教 義 上 減 需 を 必 要 と し な い 浄 土 真 宗 の
教団で使用される︒戒名(法名﹀は︑おしなべて﹁釈
OO
L
と記され
るが︑その﹁釈いは︑釈湘の﹁釈﹂に由来しており︑仏の弟子になっ
たことを治す︒もとは︑生きているうちに弘教徒になった誌として与
えられたものであった︒
つぎに︑葬送が仏教犠礼で行われ︑そのあと死者のための法要や年
忌が︑僧担を詔いて行われる︒具体的に言えば︑初夜︑二七吾(ふた
なのか)︑四七E︑四九日の法要があり︑一出向己むの後︑普通は三三回忌
で終了する︒そして︑盆や命日には墓参りをする︒家には仏塘があっ
て位牌が置かれている︒こ﹁葬式仏教﹂である︒
内 ノι
仏 教 は も は 関 心 が な か っ た
︒ ゴ 内 分 が 死 ん で も
︑ の 倍 者 に 任 せ て 弟 子 た ち 法 修 行 に 励 む よ
うに教えている︒インドでは︑七世紀後半にいたるまで︑火葬場で簡
単な経文を読み上汗るだけだったという︒
阿満は︑その仏教が︑死者祭記に深く関わるようになったのは︑﹁苧﹂
という価値を重んじる中悶
ζ
伝わってからだと
w生誕に親に 亡 き 親 に 対 し て も 尽 く す
︒ 加 え
その分量が死 ﹁考﹂を尽くすの
て︑中国では︑この肢でどのような善行を実践したか︑
後 の 幸
︑ る と も い 付 加 じ ら れ て い た
︒ そ こ で
︑
かっ
た︒
りト
刀を
さし
てお
り︑
トナ
ム︑
とい
Pつ ︒ 叫
葬式仏教の定馨 であったいであろう
つ け
マ・ブッダは
の 死
︑
︑
︐
︐
SFρ o
jsg
第40甘 (2004) ︑ ︑ 弘前学説大学文学部紀要
後の幸福を願って︑亡き親にかわってこの世いで善行を請む︑そのもっ
とも効果のあるものが︑仏への供養であったというのである︒
さらに︑日限紀の法然による専修念仏の登場も﹁葬式仏教﹂の成す
の上で大きな意義があっと阿満は言う︒締法黙の念仏はそれまでの念
仏とは異なり︑死者の鋳魂慰霊の呪文ではなく︑阿弥陀仏の救済原理
を明らかにして︑幽生きている人間の救済を対象とした︒阿弥陀仏は︑
その人間が義人であろうが悪人であろうが︑自分の名前を呼ぶもの討
すべて自分の出︑時点極楽浄土に迎えとって仏とするという諦いを
もっている︒法然の念仏は︑あくまでも生きている人関のためのもの
であり︑一人一人が阿弥陀仏を信じるかどうかという決斯の上で成
立する宗教であって︑死J者の鎮魂慰霊のためのものではなかった︒し
かし︑生前の在り方は不問に付して︑死者を阿弥陀仏の慈悲にゆだね
るという︑生きている人間のおもいやりが︑﹁葬式仏教いを支えるとと
になったのだというわけである︒
印﹁ホトケ﹂の由来
死者を﹁ホトケ﹂と時ぶことこそ︑﹁葬式仏教﹂の極致であると阿満
は治
べる
︒それは︑死者を祭れば︑﹁ホトケいになるという告仰こ
ω
そが︑﹁浮世﹂の事楽や儲教の道徳ムム忠義(道徳を守ってさえおれば人生
拡充実したものになる)を可能にしたのである︒では︑なぜ死者を
﹁ホトケ﹂というのか︒仏教では本来﹁仏﹂はっフツ﹂と読まれてき
た︒﹁ブツ﹂は﹁プッダ﹂に由来する︒ブッダの意味は︑﹁党者﹂︑﹁梧っ
た人﹂である︒決して﹁死者﹂を意味しない︒このインドの﹁ブッダい
という音に中国人は﹁仏﹂という漢字を当てた︒﹁仏﹂は中国語である︒
これに対して﹁ホトケ﹂という読み方は日本一語である︒﹁仏﹂という漢
字を中国音の﹁ブツ﹂ではなく︑﹁ホトケ﹂と読むようになったのはな
ぜ か
︒ い ま だ に 結 論 辻 出 て い な い と い う
︒
﹁ ホ ト ケ
﹂ と は
︑
﹁ホトキ﹂という器物に食べ物をいれて祭る霊のことで︑
行事から始まったと説明する︒これに詳して︑存資蕗左衛門は︑﹁ホト
ケ﹂という表現は︑死者そ祭るとき︑死者の霊魂を寄りつかせるため
に使われる木の技が︑﹁ブトキ﹂と呼ばれていたことかち転じたという︒
間満は︑死者を﹁ホトケ﹂と称するのは︑仏教本来の教え北よると
いうよりも︑仏教以前の日本の﹁自然宗教﹂の考え方が深くかかわっ
ていた︒つまり︑﹁ホトケ﹂とは︑伝統的な﹁カミ﹂の一種であると結
の
論づ
ける
︒
ところで︑死者そ﹁ホトケ﹂と呼ぶのが一般化するのは︑仏教憎侶
による葬送と法事が普通となる︑近世になってからで︑.死者︑が生語︑
仏教に締依していなくても葬犠の部に︑僧侶から引導を受けて戒名を
段けられ︑釈避の弟子となれば︑﹁仏﹂となることができると信じられ
た︒さちに︑江一円時代の半︑ばころから︑死鞍そのものを﹁ホトケ﹂と
呼ぶようになった︒人は死ねば︑﹁ホトケ﹂になる︒このように︑死後
の安楽の保証が約束されているために︑この世を生きている間にも︑
創唱宗教を選び取る必要はなかった︒だから多くのH本人は︑安心し
﹁無宗教﹂を標携しているのだ︑と阿満はいう︒ω
2 て
.
﹁般
若心
経﹂
日 本 人 に 最 も 親 し ま れ て い る 経 本 は
︑ で あ ろ う
︒ 葬 式 で
あげられるお経の殆どが﹃心経﹄だからである︒私たちは︑此のお純
の立臼読を覚えている菩である︒これは﹁観自在菩臨行深摩訴般若発破
ぎやてい羅蜜多時﹂で始まり︑﹁掲帝掲晴︑按騒掲帯︑波羅僧掲帝︑菩提僧湾
問﹂で純わるο意味不明でも︑何故か写経に打ち込む人が後をたたな
い︒日本仏教十三宗が一同に会して︑一つのお経を読むとすれば︑で心
経
﹂ 以 外 に な い
︒ そ れ は
︑ こ の 経 の 解 く 般 若 観 の 思 想 が 大 柴 仏 教の精髄だからだという︒
ω
文化としての京教
( 7 )
て紹
介す
る︒
r‑一丸
一、仰向J
行深
州市
制般
若波
縦欝
多持
︑
︹般若波羅繁多を行ず
る叫吋︺色色色与舎~,J支ど
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︑
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ソ し よ う ぜ L Z
エ性
是色
︑︹
舎利
子よ
︑﹄
︹告は空に異ならず︑空
︹告は即ち是れ空︑空は
︹こ
の諸
法は
空相
にし
て︺
︑ 四 三 是ぜ垢〈舎 故ニ不ぶ利
空:浄1子
中:川
空の
中に
は︺
︑
︹色もなく︑受・想・行
の完成の﹁心﹂を説い
ということは︑﹁悟り﹂体験に参ずる
(観音さま)は︑深い鞍若の智慧の完
成を実践していた時に︑五つの構成要素(肉体︑感覚︑表象︑
知識)は空だと悟って︑一切の人生苦を解決した︒これが話取
の意味だという︒絡しかし︑この経文の解釈は︑一筋ではな
詠 み 人 に よ っ 宝 道 無 難 禅 師 は
れ
盤 む 掛
無立眼日明t耳lご
、う鼻ぴ
話可
身え
産iこ
乃とな 空しし
畳 む 〕
老号
死し
こともなし可
以下
︑
︹ し ハ
1
九︺
は省
略︒
吋般若心経加は︑般若
とい
う︒
従っ
て︑
吋心
一経
い
ということになる︒ ︹無明もなく︑亦た無明の尽さることも
︹乃至老死もなく︑亦た老死の尽きる
空
擁
﹂ と は
︑
﹁ 観 ず れ ば 自 に 在 る 菩 離 な り
﹂ と い う
︒ て 観 れ ば
︑
観者ざまは自己の中に在す帯隣だというのである︒また白臨禅師は﹁悶疋
非情愛総べて拾うてば︑汝に許す生身の観自在なることを﹂という︒
相対的な分割のゐを投げ捨てたら︑君自身が肉身の観音さまだという
のである︒天桂弾師法︑﹁観自在菩薩とは余人にあらず︑御者なり﹂と
一ゴ
一口
う︒
それ
は︑
私の
この
穿心
の奥
にい
る︑
もう
一人
の︑
﹁本
当の
自己
﹂
を自覚して︑その﹁本来の︑真実の白己﹂に生ざる生活のこだという︒
以下
︑円
般若
心経
加の
一百
一拍
手}
説明
する
︒
﹁樺制﹂は韓大︑﹁般若﹂は智掛川︑﹁波縦藤多いは︑完成という意味で
ある︒︹期制般菅波羅鑑多﹂とは︑偉大な鵠りの智畿の完成という意味
である︒悟りの詩怒とはヱ本来の自己の自覚いで島り︑自技を空じて︑
だ 心 ま あ ら わ
白日が無になるとき︑法が露になる﹁絶対否定部絶対書定﹂の論理で
ある︒浄土宗では︑それを﹁阿弥陀仏﹂という︒﹁需弥詑﹂は﹁永遠の
背汚名・無援の智慧﹂の意味である︒﹁摩詔般若波羅蜜多﹂と﹁南無阿
弥陀仏﹂とは同じであるという︒悶
﹁菩
薩﹂
とは
︑
であ
る︒
る ︒
の 略 語 で
︑ め る 入 と い う い 意 味
︿党
者)
にな
る前
は︑
ったのセあ
次 に
︑ の
﹁ 空
﹂ と は
︑ 形 あ る も の は 空 で 実 体
はないということである︒だが︑虚無主義ではなく︑いったん否定的
に 見 た も の を
︑ の だ と い う
︒ お 経 と い う も の は 理
解しにくいので︑この辺りで終わりにする︒
3.
Em
異抄
h
円般
若心
経
hと 並 ん で よ く 知 ら れ て い る の は で あ る
︒ も っ
とも︑知られているのは︑たった一行の文干にすぎないご詩人なほもっ
て 往 生 を 議 ぐ
︒ 悪 人 を や
﹂ で あ る
︒ は 晩 年 の 親 驚 に
( 8 )
弘前学院大学文学部紀要
近侍した唯円が︑師の教えが異なってゆくのを嘆き︑後自身が親鷺真
実の教えと信ずるところを記したものである︒﹃歎異抄hは全体で第十
八章から成立している︒ここでは︑第一章と第一一一章の﹁詩人なほもっ
て﹂を取り扱う︒
一 章・
の議頼不思議に場けられまいらせて︑往生をば遂ぐるなりと信
じて︑ム必仏中さんと思ひ立つ心の起こる持︑即ち︑摂取不器の利益に
預けしめ給ふなり︒弥陀の本願には︑老少・善悪の人を択ばれず︒た
ざ い あ く 仁 ん : 時 う ば ん
だ︑信心を必要とすと知るべし︒その故は︑罪懇深重・煩悩織捕の衆生 m wうしじようしゅドしよう
者助けんがための願にてまします︒しかれば︑本願を信ぜんには︑的
の善も裂にあらず︒念仏に勝るべき善なさ故に︒悪をも怖るべからず︒
の本頼を妨ぐる程の患なさが故に¥
の不患議な力にお助けいただいて︑極楽仲土に生ま
れることができるのだ﹂と信じて︑念仏をとなえようと思い立つ︑むが
生ずるとき︑即産に︑阿弥陀仏は︑救いとってお捨てにならぬご山利益
を人間にお受けさせになるのである︒この体陀の本願におかせられて
は︑老人・年少者・善人・愚人というように︑人間を差別してはお選
びにならな:ただ︑それを信ずる心が肝要であると心得なくてはな
罪 悪 が 深 く
︑ 一 切 の 生 き 物 を 救
第40~} (2004)
安良岡氏の
らない
その
おうとするための願であらせられるからである︒
それだから︑弥陀の本願を信ずるには︑ほかのどんな善事も︑必要
ではない︒念仏よりまさるはずの善はないのであるから︒悪事をも恐
れ て 誌 な ら ぬ
︒ ほ
︑ ど の い の で あ る か ら
︒
第 三 章
﹁ 善 人 な ほ も っ て 往 金 を 遂 く
︒ 悪 人 を や
﹂
しかるを︑世の人常に苦はく︑﹁悪人なほ往生す︒いかに況んや︑善
人をや﹂︒この条二口一︑その詩はれあるに叡たれども︑本願他力の意識
に背けり︒その故は︑底力作蕎の人は︑偏へに︑結hを頼む心欠ける
問︑弥陀の本願にあちず︒しかれども︑自力の心を翻して︑的力を頼
み︑奉れば︑真実報士の詮生を遂ぐなり︒
煩悩呉足のわれらは︑いずれの行にても︑生死を離るることあるべ
からずを梯れみ給ひて︑願そ起こし給ふ本意︑悪人成仏のためなれば︑
地力を頼み奉る悪人︑もっとも︑往生の正国なり︒よって幾人だにこ
そ往生すれ︑まして︑悪人は︑
の訳注
善人でさえも住生ができる︒まして︑悪人は言うまでもない︒とこ
ろが︑医間の人は︑普湘には︑﹁悪人でさえ往生する︒まして︑善人は
言うまでもない﹂と言っている︒このことは︑一応︑理由があるよう
であるが︑弥陀の本搬の能力にもとづく救いの本旨にそむいている︒
なぜかというと︑自己のhに願って善事をなす人は︑弥陀の的力をい
ちずに︑⁝信頼する心が欠けているから︑弥陀の本願から外れている︒
しかしながら︑その白日の力を頼む心をすっかり改めて︑弥柁の他力
をお頼り申し上げれば︑まことの浄土の往生ができるのである︒すべ
ての煩舗を身につけているわたしたちは︑どんな修行によづても︑生
死を重一ねる迷いの境地を逃れることができないことを︑阿弥陀仏がお
憐れみになって︑救おうとなさる願を起こしになるご目的は︑悪人も
仏になれるというためであるから︑体陀の他方をお頼み申しあげる悪
人が︑第一に︑桜楽往生できる本当の因縁をなしているのである︒そ
れで︑善人でさえも往生する︒まして︑悪入試詰うまでもない︑と︑
親轡附搬入は仰せちれました︒
文化としての宗教
( 9 )
﹁悪人﹂とは︑道鰭的基準によるも
のではない︒宗教的意義におけるものであって︑特児︑弥陀の本願に
対する人間としての詩人と悪人との匹加が重要である︒附そこで︑﹁そ
の故は﹂と言って︑以下︑なぜ︑﹁忠人﹂が特にすぐれて往生を遂げる
ものであるかを説明するのである︒貌驚は︑﹁善人﹂をァ自力作善の
人﹂と一一一口い直し︑その意識について︑﹁他力を頼む心欠けたる問︑弥陀
の本願にあらず﹂と鋭く快剃している︒まことに︑第一輩にあったよ
うに︑弥陀の本願辻︑﹁罪悪深重・蝦悩織盛の衆生を賠けんがための願
にてまします﹂のである︒それなのに自己の力を信じ︑善事をなす 人は︑それだけ︑自己の罪悪や煩棋を忘れて︑本願から遠ざかること になる︒そういう詩人の救われる道は︑自分の心を翻して︑他均を頼
むと︑真実報士の詮生ができるのである︒
この︑教えは︑十字架が紫いが︑キリスト教の
している事柄と詳われる︒ ここで言っている
注.参考文献
﹁信仰義人﹂と共通
日頁
吋日本人はなぜ無宗教なのかh
ちくま新書
りん
AVハHV1i
(5) (4) (3) (2)
32 頁 上 掲 書
々
36 ぼ
, 々
川 町 頁
々
52
民
ハ ︒
54 ‑g
々 QO) (9) (8) (7)
々 々
63 民 々
山 山 頁
々
65 頁
Q2) (11)
吋般若心経を解く﹄講談社
安 良
131 [附 2~i 17 頁 織 頁 民
作 訳 注
々 (15) Q4) Q3)
々
旺し
凡社
文庫
19S2年
山 山 頁
供 々
仏教の源流
1.
仏教と葬犠
我々の日常食活の中で仏教はどのような地位を占めているだろうか︒
大多数の日本人は死ねば︑葬儀を仏教式で執り行い︑﹁戒名﹂をもらう︒
そして︑家には仏壇が設置され定期的に墓参と法事を営む︒所議離 式仏教と部撤される所以である︒しかし︑仏教の本質は葬儀なのだろ
うか
イ ︒
ン ド 人 の 人 生 観 に 人 間 誌 死 に よ っ て 消 滅 す る も の で は 沿 く︑生まれ変わって次の生涯を開始する︒これが﹁輸矧いである︒韓 廼は永劫につづく︒この輪組かち説出することを﹁解説﹂という︒仏
教も︑輪嬬説を前提とし︑解読を日標とする︒
次に︑我々日本人は︑死者を﹁仏﹂(ホトケ﹀と呼び︑死者の霊が安
ちかに静まることを﹁成仏する﹂とコ一一口う︒しかし︑仏教学者の渡辺照
宏によれば︑仏教聖典の中にはそのような用法はないという︒川死に よってすべての人が﹁払陀に成る﹂ことを求認するとすれば︑仏教の
体系は燕用になるであろう︒あるいはまた︑﹁読経ないし念仏によって
死者が成仏するいということも仏典の中には根拠がないと渡辺はいう︒
さらに︑﹁往生﹂という諦も︑成仏と同じように﹁死ぬ﹂という意味で
用いられている︒しかし︑仏典の用法によると︑一つの生涯を終える
といい︑その後に新しい生涯を始めることを
﹂と
を
︑ ︑
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宅zi /署
第40~~. (2004) ︑
弘前学院大学文学部紀要
ま た は と い う
︒ 若 干 の 漢 訳 仏 典 で は こ の 世 界 ( 裟 婆
﹀ よ り 憐
れた仏国土に住まれ変わることを強識して﹁往生﹂という︒中でも西
方の阿弥陀仏の機楽浄土への往生を願うことが中間で流行し︑それが
日本にも怯えられたのであると渡辺は述べている︒これが本来の仏教
であるなら︑仏教は葬式の専売ではない︒
では︑仏教の開抱の教えは何だったのか︒
2 .
仏陀の伝詑
仏 陀 の 松 記 の 資 料 は サ ン ス ク リ ッ チ ベ ッ ト 語 訳
︑ 携 訳 等 多 い
が︑仏陀の﹁麓史的事実﹂を再構成することはできないという︒部な
ぜなら︑産史的記述と考えられたものが創作であったり︑架空と思わ
れる記述の議に史実が揺されているととも珍しくないからである︒す
べての聖典は︑ただの事実ではなくて︑宗教的事実を伝えることを唯
一の使命として議かれた︒他の多くの宗教文学と同様に︑仏教文学も
また︑事実の描写という形式によって︑実は宗教的真理を説いている
ことが多いと渡辺照宏は述べている︒的このことは︑キリスト教の文
献においても同じであろう︒
3 .
仏陀の生涯
仏教は︑紀元前560i480年頃北インドに出現した人物を隣祖
とする宗教である︒仏陀江田有名詞で誌なく︑﹁目覚めた人﹂という意
味である︒仏陀は︑サンスクリット語のヂロ︿山内生とを漢字で昔写し
たもので︑﹁甘覚めたもの﹂﹁最高の真理を梧った者﹂という意味で︑
完全な入絡者のことである︒
インドでは︑後に仏陀となる人を斉蕗と呼ぶ伝統文化があった︒持
薩とは︑﹁仏詑となる資格をそなえたもの﹂という意味である︒すなわ
ち︑その多くの過去の生涯および︑この世に生まれてから仏詑として 成道するまでを菩薩という
彼(菩薩・仏陀)の母の名はマiヤ
l
(麻耶)と古う︒マiヤl
辻 ︑
分娩の時︑ある轄の枝に手を掛け︑立ったままの姿勢で︑その布肢か
ら彼を産んだο彼はただちに地上に立って捗み'日分法仏陀となるため
に生まれたことそ宣言したという︒械が生まれて期もない頃︑アシタ
という仙人が山から降りて訪ねてきて︑その人相を見て﹁この入は仏
陀になる﹂と予苦した︒彼泣シッダi
ルタ
︿悉
達多
)と
名づ
けら
れた
︒﹁
額
望が満たされたもの﹂という意味である︒僚はげ識の時︑結婚した︒
妃は3人いたという︒玉︿ハろは︑彼のために︑三つの宵殻を賠て︑
最高の衣食を与え︑女性たちを侍らした︒それにもかかわら︑ず彼は悩
んだ︒﹁世間の患者たちは︑自分が若い︑病み︑死ぬことを亡やれ︑佑人
の者
︑
L瓶︑死をけぎらいするが私は自分も老い︑病み︑死ぬことを思
い︑快楽を避けて修行し︑静寂の境地に奈りたいJ
と決
心す
る︒
彼が宮殿から税出したのは印識の時と推定されている︒識は︑出家
修行者(シュラマナ﹀の仲間に入る︒務行者は家庭を離れ︑身分︑需
産を捨て︑単独に︑あるいは集団で︑修行に励み︑在家の信者の支持
によって金活するのが原則であった︒彼はただ一人で苫行に励んだ︒
節食から断食に入り時吸を持制した︒肉体を苦しめることによって
精持的自由の境地に速しようとして死に直面したが︑それでもなお目
的(人間の汗悩の根本的解決)に速することはできなかった︒出家生
活に入ってから6年︑去行法解脱に達する道で誌ないことを悟って突
然︑行を中止した︒そして︑車︑想によって最高の真理を悟ることを
のである︒彼辻アシュヴアツ夕︑またはピッパうという樹(設け
の下で常持して仏陀となった︒の苦悩の解明は以下の通り
ある
﹁人々は生死をくりかえし︑そのたびに老死などの苦悩を受ける︒老 ︒