大坂の両替商銭屋の芸能享受
はじめに
大 阪 商 業 大 学 商 業 史 博 物 館 に、 元・ 同 大 学 教 授 の 佐 古 慶 三 氏 の 旧 蔵 文 書 が 所 蔵 さ れ て い る。 そ の 中 に、 幕 末 か ら 明 治 初 期 にかけて大坂で両替商を営んでいた逸身家銭屋佐兵衛の日記が残されている。
両 替 商 の 銭 屋 に つ い て は、 近 年、 新 た な 史 料 の 発 見 に よ り、 主 に 日 本 史 の 分 野 で 注 目 さ れ、 基 礎 的 研 究 が 進 展 し て い る。 資 料 調 査 の 報 告 書 作 成 を 手 始 め に、 研 究 書 二 冊 が 刊 行 さ れ、 大 阪 歴 史 博 物 館 で は 二 〇 一 四 年 十 一 月 ~ 二 〇 一 五 年 一 月 に 特 集 展 示 が 開 催 さ れ た。 本 稿 は、 そ れ ら の 成 果 に よ り 近 年 明 ら か に な っ た 銭 屋 家 の 基 本 的 な す が た を ふ ま え、 大 阪 商 大 蔵 の 日 記 を素材として、銭屋の芸能とのかかわりを考察するものである。 銭 屋 に つ い て の 研 究 が 近 年 に な っ て 進 展 し た の は、 「 逸 身 家 文 書 」( 逸 身 喜 一 郎 氏 蔵、 現 在 は 大 阪 歴 史 博 物 館 に 寄 託 ) の 発 見 と 調 査・ 活 用 が な さ れ た の が そ の 理 由 で あ る。 そ れ に 加 え て 大 阪 商 大 蔵 の 日 記 等 も 併 せ て 用 い ら れ る こ と に よ り、 日 本 史 分 野、 と り わ け 社 会 経 済 史 の 方 面 に つ い て 成 果 が 発 表 さ れ た。 ま ず『 大 坂 両 替 商 逸 身 家 文 書 現 状 記 録 調 査 報 告 書 』 が 公 刊
さ れ、 そ れ に 続 い て 逸 身 喜 一 郎・ 吉 田 伸 之 編『 両 替 商 銭 屋 佐 兵 衛 』 が、 第 一 巻『 四 代 佐 兵 衛 評 伝 』、 第 二 巻『 逸 身 家 文 書
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大坂の両替商銭屋の芸能享受
中 川 桂
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研 究 』 の 二 冊 と し て、 二 〇 一 四 年 に 東 京 大 学 出 版 会 か ら 刊 行 さ れ て い る。 さ き に 記 し た 大 阪 歴 史 博 物 館 で の 特 集 展 示 の 際 に も、 解 説 パ ン フ レ ッ ト が 作 成 さ れ た。 本 稿 で も、 日 記 中 に 登 場 す る 人 物 の 概 要 説 明 な ど、 銭 屋 に 関 す る 基 礎 的 な 事 項 は こ れ らの成果に拠っていることをまず断っておく。 さ て、 大 坂 島 之 内 の 石 灰 町 に 店 を 構 え て い た 銭 屋 佐 兵 衛 の 日 記( 以 下、 本 稿 で は「 銭 屋 日 記 」 と 記 す ) の 概 要 に つ い て は、 第 一 巻『 四 代 佐 兵 衛 評 伝 』 の 中 で、 「 史 料 改 題 3 銭 佐 日 記 」 と し て 須 賀 博 樹 氏 に よ り 紹 介 さ れ て い る。 こ の 書 の 表 題 に も 見
ら れ る ご と く、 銭 屋 日 記 を 残 し た 佐 兵 衛 は、 四 代 目 の 銭 屋 佐 兵 衛 に あ た る。 ち な み に 彼 は 文 化 五 年( 一 八 〇 八 ) の 生 ま れ で あ り、 明 治 二 十 四 年( 一 八 九 一 ) に 歿 し て い る。 ま た、 天 保 四 年( 一 八 三 三 ) に 家 督 を 相 続 し て い る こ と が 明 ら か に な っ て いる。 な お、 同 書 内 に お い て 逸 身 喜 一 郎 氏 は、 銭 屋 日 記 の 筆 者 に つ い て「 日 記 を 書 い て い る も の は 店 の 者 で あ る。 そ の 階 層 は お そ ら く 手 代 で あ る と 推 測 で き る が、 本 当 の と こ ろ は 分 か ら な い。 筆 跡 は し ょ っ ち ゅ う 変 わ っ て い る が、 そ れ ほ ど 人 数 が 多 い ようにもみえない」 (第一章 はじめに「一 史料と方法」 )としている。
銭 屋 日 記 は 近 世 末 期 か ら 明 治 期 に 至 る、 計 二 十 一 冊 が 伝 存 し て い る。 そ の 期 間 は 嘉 永 五 年( 一 八 五 二 ) 十 一 月 か ら 明 治 十 五 年( 一 八 八 二 ) 五 月 ま で に 及 ぶ が、 途 中、 安 政 七 年( 一 八 六 〇 ) か ら 慶 応 元 年( 一 八 六 五 ) ま で の 期 間 は 欠 け て い る な ど、 残 さ れ て い な い 時 期 も あ る。 ま た、 記 述 が ご く 僅 か で あ る 時 期 も あ っ て そ の 内 容 は 一 定 で は な い が、 と も か く も 三 十 年 に わ た る 記 録 が 残 さ れ て い る。 近 世 の 時 期 の も の は、 欠 け て い る 時 期 を 除 く と、 あ る 程 度 の 記 述 が 毎 年 残 さ れ て い る。 そ し てその日記は、ほぼ四代佐兵衛が当主を勤めた期間のものである。 そ の う ち、 日 記 の 八 冊 目 ま で に あ た る 安 政 四 年 十 二 月 ま で に つ い て は、 大 阪 商 業 大 学 商 業 史 博 物 館 か ら「 銭 屋 Ⅰ 」 と し て 翻 刻 が 刊 行 さ れ て い る。 今 回 の 使 用 に あ た っ て は、 右 記 の 箇 所 に つ い て は 原 則 と し て 翻 刻 を 参 照 し、 そ れ 以 後 の 年 次 に つ い
て は 大 阪 商 大 所 蔵 の 原 文 書 を 確 認 し た。 た だ し、 翻 刻 は 付 さ れ て い る 句 読 点 が 少 な く、 読 解 し に く い 難 点 が あ る た め、 今 回
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は未翻刻部分の記事を引用する際と同基準で私に句読点を付している。 と こ ろ で、 こ れ ま で に 筆 者 は、 「『 浪 速 詰 方 日 記 』 芸 能 関 係 記 事 の 考 察 」( 『 大 阪 商 業 大 学 商 業 史 博 物 館 紀 要 』 六 号、 二 〇 〇 五 年 ) お よ び「 久 留 米 藩 の 大 坂 蔵 屋 敷 勤 番 日 記 に 見 る 芸 能 享 受 」( 『 芸 能 史 研 究 』 一 七 九 号、 二 〇 〇 七 年 ) に お い て、 大 坂 蔵 屋 敷 勤 番 の 武 士 と 芸 能 と の か か わ り を 考 察 し た。 ま た、 「 大 坂 の 惣 年 寄 記 録 に み る 能 記 事 ― 公 私 に お け る 能 と の か か わ り ― 」( 『 演 劇 学 論 叢 』 五 号、 二 〇 〇 二 年 ) に お い て、 大 坂 南 組 惣 年 寄 で あ る 永 瀬 家 と 能 と の か か わ り に つ い て も 考 察 し て
い る。 本 稿 は こ れ ら の 考 察 の 延 長 線 上 と し て、 有 力 両 替 商 と 芸 能 と の か か わ り を 確 認 し よ う と す る も の で あ る。 銭 屋 は 決 し て 特 別 な 芸 能 愛 好 家 で あ る 様 子 は な く、 い わ ば 当 時 の 大 坂 に あ っ て、 芸 能 に 対 し て は 一 般 的 な 接 点 を 有 す る 商 家 で あ る と 考 えられる。その商家が、芸能とどのようなかかわりを有していたのかにつき、日記の記述から探っていきたい。
一 能と小松原家
銭屋と能楽のかかわりに話を進める前に、大坂の両替商と能とのかかわりについての概要を見ておきたい。 こ の 件 に つ い て は、 宮 本 圭 造 氏 の「 大 坂 商 人 の 演 能 活 動 ― 担 い 手 か ら 見 る 近 世 大 坂 能 楽 史 ― 」( 大 阪 大 学 大 学 院 文 学 研 究 科 演 劇 学 研 究 室『 演 劇 学 論 叢 』 十 一 号 ) に 有 用 な 成 果 が あ る。 と く に 近 世 後 期 の 大 坂 で は、 遠 里 彦 三 郎、 井 坂 次 郎 右 衛 門 な ど、 自 身 で も 能 を 嗜 む 両 替 商 が お り、 文 化 三 年( 一 八 〇 六 ) に 刊 行 さ れ た 能 役 者 の 名 寄 せ で あ る『 乱 舞 人 物 録 』 に は、 当 時 の 大 坂 の 両 替 商 が 多 数 掲 載 さ れ て い る こ と が 示 さ れ て い る。 す な わ ち、 宮 本 氏 の 指 摘 す る「 当 時 の 大 坂 の 能 界 に お い て、 両 替商をはじめとする富商の素人役者がきわめて大きな位置を占めていた」との事実を、まず確認しておきたいのである。 今 回 考 察 の 対 象 と す る 銭 屋 佐 兵 衛 は、 そ の よ う な 素 人 役 者 で も な く、 ま た 愛 好 者 と し て も そ こ ま で 熱 心 な 存 在 で あ っ た と
は 思 わ れ な い。 し か し な が ら、 い っ ぽ う で や は り 宮 本 氏 が 指 摘 す る よ う に、 大 坂 で 勧 進 能 な ど が 開 催 さ れ る 際 に、 一 例 と し
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て は 住 友 家 の よ う な 大 両 替 商 は そ の 資 金 提 供 が 期 待 さ れ、 ま た 能 興 行 時 に 観 客 と し て 期 待 さ れ た の も 大 坂 商 人 の 面 々 で あ っ た。 宮 本 氏 に よ れ ば、 両 替 屋・ 助 松 屋 の『 毎 日 用 事 留 』 に は、 「 能 役 者 か ら 催 し の 案 内 が 届 け ら れ た と い う 内 容 の 記 事 が 頻 出 」 し、 勧 進 能 の 畳 札( 入 場 券 ) が 送 ら れ て き て、 そ れ を 購 入 す る 場 合 と、 若 干 の 銀 を 添 え て 返 却 す る 場 合 の 方 式 が 定 型 化 していたという。 銭 屋 日 記 に は、 能 を 稽 古 し て い る 事 実 が 明 確 に 記 さ れ る 箇 所 は な く、 ま た 右 記 の よ う な 能 興 行 の 案 内 も、 直 接 能 役 者 か ら
届 い た こ と は 跡 付 け ら れ な い。 そ れ で も 以 下 に 記 す よ う に 能 と の か か わ り が 確 認 で き る の で、 そ こ に は 特 別 な 愛 好 者 で は な いレベルの両替商の様子が現れているものと考えたい。 で は こ こ か ら、 銭 屋 日 記 内 の 能 関 係 記 事 を 見 て い く こ と に す る。 そ の 初 出 は、 安 政 三 年( 一 八 五 六 ) 四 月 晦 日( 日 記 の 記 入は五月一日)のものである。これはおそらく手紙の写しと思われる。 然 者 来 ル 十 三 日 於 小 松 原 能 興 行 有 之 候 ニ 付、 治 部 左 衛 門 方 始 一 同 御 案 内 申 度 候 間、 御 入 来 被 下 候 様 致 度、 此 段 可 得 御 意 如斯御座候。以上
四月晦日 こ れ は 五 月 十 三 日 に 催 さ れ る 小 松 原 能 興 行 の 知 ら せ と い う べ き も の で あ る。 そ の 続 き と な る 記 事 が 確 か に 五 月 十 三 日 に 見 られるので以下に引く。 当旦那様・丈助、土浦御振舞ニ而小松原能場へ御越、供八助。 こ こ に は、 「 土 浦 御 振 舞 」 の た め 小 松 原 の 能 場 へ 出 向 い た こ と が 記 さ れ て い る。 土 浦 は 常 陸 国 の 土 浦 藩 の こ と で あ ろ う。 銭 屋 と 土 浦 藩 に つ い て は、 両 者 の 関 係 が さ ほ ど 密 接 で あ っ た 気 配 は な い が、 後 述 す る よ う に 安 政 六 年 四 月 十 一 日 に は、 丈 助 が土浦芝居へ出向いたとの記事が見られる。土浦からの誘引は能のみでなく芝居でも行われていたことになる。
さ き の 記 事 に 戻 る と、 こ こ で は 土 浦 の「 御 振 舞 」 と し て 小 松 原 の 能 場 へ 出 向 き、 能 の 見 物 を し た こ と が 知 ら れ る。 こ こ か
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ら 見 る と、 小 松 原 と 直 接 の 関 係 を 有 し て い た の は 土 浦 藩 側 で あ り、 そ の 誘 引 に 従 っ て「 当 旦 那 様 」 す な わ ち 当 主 で あ る 四 代 佐 兵 衛 が 出 向 い た 先 が 小 松 原 の 能 場 で あ っ た、 と い う こ と に な ろ う が、 い ず れ に し て も 銭 屋 と 小 松 原 に 接 点 が 生 じ た こ と に は 相 違 が な い と い え よ う。 な お、 当 主 に 同 行 し て い る 丈 助 は、 備 後 町 の 店 の 責 任 者 で あ る 三 人 の 中 の 一 人 で、 と く に 当 主 か らの信頼が厚く、能や芝居の見物時には頻繁に名が見られる人物であ る
(1)。 さ て、 こ こ に 見 ら れ る「 小 松 原 」 と は、 大 坂 住 の 大 倉 流 小 鼓 役 者 で あ る 小 松 原 家 と 考 え ら れ る。 小 松 原 家 は 寛 政 期 に は、
大 坂 住 の ま ま 紀 州 藩 の お 抱 え 役 者 と な っ て お り、 近 世 末 期 に は 父 の 伝 右 衛 門 と 子 の 伝 四 郎 が 活 動 し て い た。 彼 ら は 大 坂 の 各 方 面 の 有 力 人 物 と 交 際 を し て お り、 小 松 原 伝 四 郎 は、 か つ て 筆 者 が 考 察 し た 福 岡 藩 蔵 屋 敷 勘 定 奉 行 の 大 岡 克 俊( 大 阪 商 業 大 学 商 業 史 博 物 館 蔵『 浪 速 詰 方 日 記 』) 、 久 留 米 藩 蔵 屋 敷 勤 番 の 吉 村 辰 之 丞( 吉 村 筆 の 公 私 日 記 ) の 両 名 と も 交 際 が み ら れ た。 典 型 的 な 例 を 一 例 示 せ ば、 嘉 永 三 年( 一 八 五 〇 ) 二 月 二 十 六・ 二 十 七 日 の 両 日、 小 松 原 伝 四 郎 宅 で 能 興 行 が な さ れ た 際、 福 岡 藩 の 大 岡 は そ の 両 日 と も 見 物 に 出 か け た 上、 二 十 七 日 に は 終 演 後 に 九 郎 衛 門 町 の 茶 屋 へ 同 道 し、 宴 を と も に し た 模 様 で あ る。
再 び 前 述 の 宮 本 氏 の 論 考 を 参 照 す る と、 そ こ で は 両 替 商 の 井 坂 家 と 小 松 原 伝 四 郎 と の 交 際 に 触 れ て お り、 幕 末( 年 次 は 不 詳 ) の 書 状 か ら は、 井 坂 広 賀 が 小 松 原 に 小 鼓 の 稽 古 を 受 け、 小 松 原 宅 で の 演 能 に も 素 人 役 者 と し て 出 演 し た こ と が う か が え るという。 大 谷 節 子 氏 は、 鼓 方 役 者 の 大 倉 宣 義 と 天 満 天 神( 現・ 大 阪 天 満 宮 ) 神 主 の 滋 岡 功 長 と の 交 流 に つ い て、 「 能 役 者 の 雅 交 ― 大 倉 宣 義 と 大 坂 天 満 宮 神 主 滋 岡 家 を め ぐ っ て ― 」( 『 芸 能 史 研 究 』 一 四 九 号 ) で 紹 介 さ れ て い る。 そ こ か ら は 小 松 原 と 滋 岡 と の 直 接 の 交 流 は う か が え な い も の の、 筆 者 は『 浪 速 詰 方 日 記 』 の 考 察 の 際 に、 弘 化 ~ 嘉 永 期 の 滋 岡 家 と 小 松 原 伝 四 郎 と の 交 流 に つ い て 紹 介 し た こ と が あ る。 今 回 の 銭 屋 日 記 に よ っ て、 さ ら に 小 松 原 家 が 有 力 両 替 商 の 一 つ で あ る 銭 屋 と も 接 点 を 有 し
て い た こ と が 確 か め ら れ た。 武 家 や 商 家 に と っ て 謡 や 仕 舞 な ど の 芸 は 重 要 な 嗜 み で は あ っ た の だ が、 こ の よ う に 同 時 期 の 大
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坂で、小松原という特定の役者が幅を利かせていたことには注目しておいてよいと思われる。 小 松 原 伝 右 衛 門 に つ い て は、 小 林 健 二 氏 の「 江 戸 時 代 に お け る 大 坂 の 能 役 者 」( 『 上 方 文 化 研 究 セ ン タ ー 研 究 年 報 』 第 三 号 ) で も 触 れ ら れ て い る。 小 林 氏 が 延 宝 七 年( 一 六 七 九 ) の『 難 波 鶴 』 か ら、 前 述 し た 文 化 三 年 の『 乱 舞 人 物 録 』 ま で、 年 代 の 異 な る 五 点 の 名 寄 せ を 確 認 し た と こ ろ、 江 戸 期 の 全 般 を 通 じ て そ の 名 前 が 載 っ て い る 役 者 が 極 め て 少 な い 中 に あ っ て、 シ テ 方 の 古 春( 小 春 ) 左 衛 門 と、 小 松 原 伝 右 衛 門 は 例 外 的 な 存 在 で あ っ た こ と が 指 摘 さ れ て い る。 す な わ ち、 長 年 に わ た り
大 坂 に 根 付 い て 活 動 し て い た 小 松 原 家 が、 そ の 土 地 に お い て 諸 方 面 の 有 力 者 と も、 数 代 に わ た っ て 広 く 交 流 関 係 を 築 い て い たということになろう。 続けて、小松原と銭屋の関係を知り得る能関係の記事を確認しておきたい。 安政六年五月十四日条に以下の記事が見られる。 当 旦 那 様、 若 旦 那 様、 孝 旦 那 様、 丈
(ママ)介 様、 猶 村 常( 舞 ) 台 へ 御 能 見 ニ 御 越、 供 九 介、 十 内、 喜 八。 雨 天 相 成 候 ニ 付、 日 延ニ相成候故御帰り。
こ の 能 見 物 は 楢 村 常 舞 台 で の 見 物 で あ る。 「 若 旦 那 様 」 は 当 主 で あ る 佐 兵 衛 の 長 男 の 卯 一 郎( の ち 五 代 佐 兵 衛 )、 「 孝 旦 那 様 」 は 二 男 の 孝 之 助 で、 の ち 二 代 目 佐 一 郎 と な る 人 物 で あ る。 ご く 簡 略 な 記 述 で、 上 演 内 容 に つ い て は 記 さ れ て い な い が、 雨天のため順延になったことが知られる。 こ の 時 の 能 興 行 と 一 致 す る 記 録 が『 大 阪 市 史 』 第 四・ 下 の 触 書 中 に 残 さ れ て い る。 そ の「 補 達 八 九 九 」 に よ れ ば、 四 月 二 十 一 日 付 で「 大 倉 六 蔵 興 行 勧 進 能 桟 敷 代・ 畳 代・ 木 戸 札 代 銀 之 事 」 と 題 す る 達 し が 出 て お り、 場 所 と 趣 意 に つ い て は「 於 楢村屋鋪勧進能興行」 、興行期間や開催日時については「晴天六日」 「初日来ル五月十二日之由」と記されている。 こ こ か ら、 こ の 能 興 行 は 勧 進 能 で あ っ た こ と が 知 ら れ る。 ま た、 催 主 が 大 倉 六 蔵 で あ る こ と や、 勧 進 能 は 五 月 十 二 日 か ら
晴天六日間の予定で開催されたものであることも明らかとなる。
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こ の 時 の 勧 進 能 に つ い て は、 大 谷 節 子 氏 が『 大 倉 流 小 史 』 の 中 で 各 種 の 資 料 を 掲 載 し て 紹 介 さ れ て い る。 勧 進 能 興 行 番 組、 お よ び そ の 解 題 に よ る と、 刷 り 番 組 に 添 え ら れ た 書 き 入 れ に よ り、 実 際 の 公 演 の 様 相 が う か が え る。 五 月 十 二 日 に 初 日 を 開 け た 勧 進 能 は、 三 日 目 の 十 四 日、 こ の 日 四 曲 目 の「 松 風 」 の 途 中 で 雨 の た め 中 止 さ れ た ら し い。 一 日 の 間 を 置 き、 十 六 日 に 再開された時は、刷り番組にはない「田村」が初めに置かれ、続いて「松風」の物着から以降が演じられた。 そ の よ う な、 天 候 不 良 に よ る 予 定 の 変 更 は、 銭 屋 日 記 か ら も 推 察 さ れ る。 翌 々 日 の 五 月 十 六 日 条 に 以 下 の 記 事 が 見 ら れ る
のである。 若旦那様、供猶七、孫介、十内、喜八、猶村屋敷江勧進能見ニ御越。 十 四 日 の 能 が 雨 天 で「 日 延 」 と な り、 さ ら に 日 記 に よ れ ば 翌 十 五 日 も 雨 天 で あ っ た た め、 十 六 日 に 順 延 さ れ た 勧 進 能 を 改 め て 見 物 に 出 向 い た こ と が 記 さ れ て い る。 以 下 は 推 測 で あ る が、 十 四 日 の 上 演 が 途 中 で 中 止 と な っ た た め、 日 を 改 め て の 公 演に再入場が許されるなどの措置がとられたのではないだろうか。 さ て、 五 月 十 四 日 条 の 記 事 に は、 直 接 の 小 松 原 と の 接 点 は 触 れ ら れ て い な い。 し か し、 大 谷 節 子 氏 の「 『 安 政 六 年 大 倉 六
蔵 東 海 道 紀 行 文 』 紹 介 と 翻 刻 」( 大 阪 市 立 大 学 国 語 国 文 学 研 究 室『 文 学 史 研 究 』 第 三 十 三 号 ) に よ れ ば、 こ の 勧 進 能 の 主 催 者 で、 江 戸 住 の 鼓 役 者 で あ る 大 倉 六 蔵 が 来 坂 し た 際 に、 小 松 原 伝 右 衛 門 は 天 満 八 軒 屋 の 船 着 場 ま で 出 迎 え に 行 き、 ま た 六 蔵 は 斉 藤 町 の 伝 右 衛 門 宅 へ 逗 留 し た こ と が 記 さ れ て い る。 そ し て、 勧 進 能 興 行 番 組 に よ れ ば、 伝 右 衛 門 は 初 日 の「 船 弁 慶 」、 四日目の「熊野」 、五日目の「正尊」で囃子方として出演している。 す な わ ち、 こ の 勧 進 能 に は 伝 右 衛 門 が 多 少 な り と も 関 与 し て い た と い え る。 そ う な る と、 銭 屋 家 が「 御 講 」 な ど の 誘 引 は なかったにもかかわらず、勧進能の見物に出向いたのには、伝右衛門からの案内があった可能性が考えられよう。 こ れ ら の ほ か、 小 松 原 家 と の 直 接 の 関 連 は 見 い だ せ な い も の の、 能 楽 の 見 物 を 示 す 記 事 は い く つ か み ら れ る。 安 政 四 年 九
月四日条には御霊宮での能狂言見物の記事がある。
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若旦那様御霊宮能狂言見物ニ御越之事。供勝兵衛、弁当持東介。 こ れ も 簡 略 な 記 述 で あ る た め、 若 旦 那( 卯 一 郎 ) が 見 物 に 出 向 い た こ と は 分 か る も の の、 目 的 等 は 明 確 で な い。 し か し、 こ の 記 事 で は 開 催 地 が 注 目 に 値 す る。 御 霊 宮 は 宮 地 の 歌 舞 伎 芝 居 や 人 形 浄 瑠 璃 が 盛 ん に 行 わ れ、 こ と に 近 代 に は 御 霊 文 楽 座 で 名 を 馳 せ た 場 所 で あ る。 こ の 地 で 能 狂 言 が 行 わ れ た と の 記 録 は 乏 し く、 こ の 時 の 演 能 に つ い て も『 近 来 年 代 記 』 な ど 大 坂 の 編 年 体 記 録 に は 見 ら れ な い。 お そ ら く 稽 古 能 な ど の 催 し と 思 わ れ る が、 能 狂 言 開 催 の 事 実 を 示 す こ の 記 事 は 貴 重 な も の と
いえよう。 さらに慶応年間にも二例の記事が見られる。まず慶応二年(一八六六)四月十日条に以下の記事がある。 一、若旦那様・丈助、土州江能狂言拝見ニ御越被遊候事。供三助。 こ こ で は「 土 州 江 能 狂 言 拝 見 」 と あ る が、 能 舞 台 な ど 上 演 の 場 所 に つ い て は 触 れ て い な い の で、 お そ ら く 高 知 藩( 土 佐 藩)の蔵屋敷における演能に招かれて見物したものと考えられ る
(2)。 また、翌慶応三年四月二十五日条にも次の記事が見られる。
一、若旦那様并ニ丈助・嘉兵衛、土州能興行有之、被召出出勤之事。 こ れ も 詳 細 は 分 か り か ね る 記 述 で あ る が、 「 土 州 能 興 行 」 と あ る こ と か ら、 や は り 高 知 藩 で の 演 能 機 会 が あ り、 そ の 誘 い を 受 け て の 能 見 物 と 考 え ら れ る。 こ れ ら の よ う な 誘 引 に よ る 芸 能 の 見 物 に つ い て は、 主 に 次 項 の 芝 居 見 物 の 考 察 中 で 詳 し く 述べることとするが、蔵屋敷における演能は、取引のある両替商を招く催しとしても機能していたと考えられる。
二 芝居見物
芸 能 に か か わ る 記 事 の 中 で は、 芝 居 見 物 の 記 事 が、 事 例 と し て は 最 も 多 い。 こ の 事 実 は そ れ だ け 当 時 の 大 坂 に お い て、 と
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く に 歌 舞 伎 芝 居 が、 こ ん に ち で い う 観 客 動 員 面 で は 圧 倒 的 な 人 気 を 誇 っ て い た こ と の 表 れ で あ る。 銭 屋 日 記 に 見 ら れ る 芝 居 見 物 の 記 事 は、 そ の 行 動 に つ い て 比 較 的 詳 細 に 記 し た も の と、 ご く 簡 略 に し か 記 さ れ て い な い も の と の 内 容 の 精 粗 が あ る。 い ず れ に し て も 外 題 や 出 演 者 な ど の 情 報 は ほ と ん ど 記 さ れ て い な い。 こ れ は 大 前 提 と し て、 こ の 日 記 が 商 家 の 公 務 日 記 で あ り、 個 人 に よ る 私 用 日 記 で は な い こ と に よ る。 だ が、 前 述 し た よ う に、 特 段 の 芸 能 愛 好 者 で は な い 商 人 の 見 物 姿 勢 と し て は、 ある意味で芝居に対する標準的な姿勢が表れたものではないかと思われる。 と こ ろ で、 芝 居 見 物 の あ り 方 に も、 ど う や ら 大 別 す れ ば 二 通 り の 行 動 様 式 が 存 在 し た よ う で あ る。 以 下 で は、 各 々 に つ い て考察していきたい。 〔ア〕 銭屋内での芝居行 そ の 一 は、 銭 屋 の 店 の 中 で、 当 主 や 若 旦 那 な ど 特 定 の 人 物 が 中 心 と な り、 供 を 含 め た 店 の 者 や、 妻 な ど の 家 族 を 連 れ た 一 行 で 見 物 に 出 向 く も の で あ る。 最 小 単 位 で は 店 の 主 要 人 物 に、 供 の 者 一 人 が 従 う 二 人 で の 行 動 が あ る。 ま た、 大 勢 に な る と
店の者が打ち揃って、十人以上での見物となることもある。 まず、一、 二例を示したうえで、同様の事例について検討していきたい。 安政三年(一八五六)二月十日条の記事は以下のごとくである。 十日 戌 天気 店方芝居行、丈助・孫助・市松・亀吉・梅吉。 (筆者注・無関係の記事を略す) 御土様御新宅 ゟ 芝居行、御寮人様・若旦那様・ 様。尤若太夫芝居忠臣蔵新狂言。
こ こ で は 若 旦 那 夫 妻 と 子 息、 そ し て 店 の 手 代 ら に 加 え、 名 前 か ら 察 す る に 丁 稚( 近 世 大 坂 で は 正 確 に は「 子 供 」 と 称 す
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る ) ま で 引 き 連 れ て、 道 頓 堀 の 若 太 夫 芝 居 へ 行 き、 見 物 を し て い る。 ま た、 「 忠 臣 蔵 新 狂 言 」 と 上 演 外 題 に 触 れ て い る の が 珍 し く、 以 後 は ほ と ん ど 外 題 が 控 え ら れ て い な い の に 対 し て、 こ の 事 例 は 興 味 深 い。 御 寮 人 様 は 当 主・ 佐 兵 衛 の 妻 で あ る ト ヨ で あ る。 ま た、 『 四 代 佐 兵 衛 評 伝 』 に よ れ ば、 様 は ど う や ら「 ぼ ん さ ま 」 と で も い う 意 味 ら し く、 こ れ は 若 旦 那 の 元 服 以前をこう記しているものである。ここではおそらく二男を指しているのであろう。 伝 存 す る 役 割 番 付 に よ れ ば、 若 太 夫 芝 居 で は こ の 年 の 正 月 よ り「 忠 臣 蔵 続 礎 」「 澤 紫 染 て 由 兵 衛 」 が 上 演 さ れ、 沢 村 源 之
助( 三 代 )、 中 村 駒 三 郎( の ち 五 代 市 川 鰕 十 郎 ) ら が 出 演 し て い る。 近 世 後 期 大 坂 の 編 年 体 見 聞 記 録 の 一 つ で あ る『 浮 世 見 聞 集 』( 大 阪 府 立 中 之 島 図 書 館 蔵
(3)) に は、 こ の 年 の 二 ノ 替 り 狂 言 で あ る 若 太 夫 芝 居 の 上 演 に つ き「 古 今 の 大 当 り、 大 入 群 集 い た し 三 月 中 比 迄 い た し 候 事 」 と の 記 載 が あ り、 人 気 が 高 か っ た こ と が う か が え る。 銭 屋 日 記 に も「 忠 臣 蔵 新 狂 言 」 と あ る ように、人気作の「仮名手本忠臣蔵」自体ではなく、その世界を用いた新たな作品が人気を集めたのであろう。 また、同三年三月二十四日条に以下の記事が見られる。 当旦那様・若旦那様・ 様中芝居行、供半七。
(筆者注・無関係の記事を略す) 三村宗匠・御家様、跡 ゟ 中芝居へ御越。供まつ、供七介。 こ こ で は 当 主 の 佐 兵 衛 ら 三 人 に 供 の 者 一 人 が つ き、 ま ず 四 人 が 中 の 芝 居 に 出 向 き、 後 か ら 三 村 宗 匠 と「 御 家 様 」( 佐 兵 衛 の 妻 か ) が 供 を 連 れ て 合 流 し て い る の で、 都 合 八 人 で の 芝 居 見 物 で あ る。 中 の 芝 居 は 道 頓 堀 の 芝 居 小 屋 の 中 で も 最 も 格 の 高 い、 大 芝 居 に あ た る 小 屋 で あ り、 そ こ で 八 人 が 見 物 し て い る と こ ろ か ら、 こ の 事 例 は な か な か 豪 勢 な 芝 居 見 物 で あ る と 思 わ れる。 役 割 番 付 に よ れ ば、 こ の 時 期 の 中 の 芝 居 で は 尾 上 多 見 蔵( 二 代 )、 実 川 延 三 郎( 初 代。 の ち 二 代 実 川 額 十 郎 ) ら の 出 演 で
「 昔
むかし鐙
あぶみ文
ぶんぶの武 功
いさおし」 が 上 演 さ れ て い た。 『 浮 世 見 聞 集 』 に は、 三 の 替 り 狂 言 に お け る 中 の 芝 居 に つ い て の 記 事 が あ り、 「 右 大 入
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大 あ た り。 大 久 保 一 代 記 之 趣 向。 海 老 蔵、 彦 左 衛 門 役 大 出 来 評 判 」 と あ る。 五 代 目 市 川 海 老 蔵 は、 七 代 目 団 十 郎 を 名 乗 っ た 後、 天 保 三 年( 一 八 三 二 ) か ら 再 び 海 老 蔵 に 戻 っ た。 天 保 改 革 時 に 江 戸 十 里 四 方 追 放 の 処 罰 を 受 け た が、 各 地 の 芝 居 に 出 演 して人気を得た。この時も評判が高かったことが知られる。 な お、 三 村 宗 匠 に つ い て の 詳 細 は 不 明 で あ る が、 翌 安 政 四 年 の 十 二 月 八 日 条 に「 三 村 様 御 茶 稽 古 」 と あ る の で、 茶 道 の 宗 匠かと思われ る
(4)。
こ の よ う に 店 の 者 で 芝 居 へ 出 向 く 場 合、 店 の 当 主 や 息 子 な ど 中 心 的 な 人 物 を 軸 に、 供 の 者 な ど 奉 公 人 を 含 め、 時 に は さ き の宗匠のような周辺の関係者も加えて、芝居の見物が行われていたことが知られる。 そのような芝居見物のあり方がよく分かるのが以下の事例である。安政四年四月十六日条のものである。 平 嘉 ゟ 使 来 ル、 店 ニ 而 勝 兵 衛 引 合。 明 日 中 芝 居 西 上 桟 敷、 三 ゟ 五 迄 之 内 代 壱 両 三 朱、 尤 客 八 人 雑 用 壱 人 ま へ 九 匁 が へ 誂 ル。 冒 頭 の 記 事 は 芝 居 見 物 と 直 接 関 係 の な い も の と 思 わ れ、 そ れ 以 降 が 芝 居 見 物 に つ い て の も の で あ る。 中 の 芝 居 で の 見 物 に
際 し、 西 側 上 段 の 桟 敷 を「 三 ゟ 五 迄 」 と い う か ら、 桟 敷 三 軒 分 を 買 っ た も の で あ ろ う。 代 金 は 一 両 三 朱 と あ る。 予 測 さ れ る こ と で は あ る が、 店 か ら の 芝 居 見 物 は 大 衆 席 で あ る 平 場 で は な く、 桟 敷 で の 見 物 で あ っ た こ と が 確 か め ら れ る。 見 物 し た 位 置( 座 席 ) に つ い て 記 さ れ て い る も の も 稀 で、 他 に 同 様 の 事 例 は 見 ら れ な い が、 店 か ら 出 向 く 際 は お そ ら く 桟 敷 で の 見 物 が 原則であったと思われる。 そして翌日の四月十七日条に次の記事が見られる。 御家様・京都丹後屋奥様・ 様・若旦那様・ 様、中の芝居へ御越、供三人。 こ の 日 に は、 中 の 芝 居 へ 前 日 の 記 事 通 り 都 合 八 人 で 出 向 い て い る。 様 は、 『 四 代 佐 兵 衛 評 伝 』 に よ れ ば、 や は り 日 記 に
は 娘 た ち を こ う 記 し て い る と の こ と で あ る。 佐 兵 衛 に は 娘 が 三 人 い る が、 こ の 様 が そ の 中 の だ れ に あ た る か は 不 明 で あ る。
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また、京都の丹後屋は親戚の野々口家である。 役 割 番 付 に よ れ ば、 三 月 吉 日 よ り の 中 の 芝 居 の も の が あ り、 四 月 十 七 日 も お そ ら く こ の 公 演 中 で あ っ た も の と 思 わ れ る。 演 目 は「 行
ゆきひらそなれのまつ平 磯 馴 松 」 ほ か で あ っ た が、 『 浮 世 見 聞 集 』 に は、 こ の 公 演 に つ い て 中 山 南 枝( 二 代 ) の 一 世 一 代 興 行 で あ っ た ことを記し、 「右大入、南枝一世一代汐汲女小ふじ。衣装、見物人眼を驚せり」と述べている。 これらのほか、簡略な記述ながら、店の者で芝居へ出向いた記録と思われるものを以下に挙げておく。
・安政四年二月二十六日 勝兵衛・亀吉・又吉・益吉・三之介、角芝居行。 ・安政四年二月二十七日 猶七・米吉・梅吉・廣吉・駒吉、芝居行。 こ の 二 例 で は、 人 名 か ら 推 測 す る に、 丁 稚 の 見 物 者 が 多 か っ た と 見 ら れ る。 こ の 両 日 は 店 の 丁 稚 た ち に 芝 居 見 物 の 機 会 を 与 え た と い う こ と で あ ろ う。 こ こ か ら、 芝 居 を 見 物 す る こ と で、 軍 記 物 な ど に よ り 古 典 へ の 造 詣 を 深 め た り、 ま た 当 時 の 一 般 常 識 を 知 っ た り す る こ と が 得 意 先 と の 会 話 の 種 と も な る と し て、 店 側 が 積 極 的 に 見 物 の 機 会 を 設 け て い た 可 能 性 も あ る と 思われる。
店 の 者 大 勢 で の 芝 居 見 物 を 示 す 例 と し て、 安 政 六 年 二 月 の 事 例 が 挙 げ ら れ る。 二 月 十 一 日 か ら 十 五 日 に か け て、 都 合 三 日 に わ た っ て 芝 居 を 見 物 し て い る が、 見 物 に 出 向 い た 者 の 名 前 は 重 複 し て い な い。 十 一 日 お よ び 十 二 日 は 見 物 し た 芝 居 小 屋 の 名 前 も 不 明 で あ る が、 十 五 日 は 角 芝 居 と あ り、 相 当 な 大 人 数 で の 見 物 で あ る。 そ れ に 先 立 つ 二 日 は 各 々 四、 五 名 で の 見 物 で あ る た め、 角 芝 居 よ り 小 規 模 な 小 屋 で の 見 物 で あ っ た 可 能 性 も 考 え ら れ る。 こ ち ら に つ い て も 確 保 で き る 桟 敷 の 収 容 人 数 の 関係上、三日に分かれて芝居を見物したものと思われる。 ・二月十一日 今日芝居行。勝兵衛・彦吉・季吉・隅吉参り。
・二月十二日
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今日芝居行。忠兵衛・又吉・永吉・□吉・政吉。 ・二月十五日 御新造様 丹後屋 御 両
(寮カ)人様・奥様・若旦那様・孝旦那様・ 様、角芝居江御越被遊候。供孫介 跡 ゟ 丈介 京おつる殿・お松殿・お中殿・おうめ殿・その・九介・三介。
そして、店から出向く芝居見物がそれと分かるように記されているのが、以下に示す慶応二年二月二十日条のものである。 一、徳助・皆助・助吉、店芝居早朝 ゟ 参候事。 こ れ も ご く 簡 略 な 記 事 で あ る が、 文 意 か ら 見 て、 店 が 主 体 と な る 芝 居 見 物 を「 店 芝 居 」 と 称 し て い た ら し い こ と が う か が える。残念ながら小屋の名前は記されていないが、芝居見物の性質を考える上では看過できない記事であろう。 右 記 で 取 り 上 げ た も の の ほ か、 店 か ら の 芝 居 行 と 推 測 さ れ る 事 例 と し て は、 安 政 五 年 二 月 十 七 日 お よ び 翌 十 八 日 に、 い ず れ も 中 の 芝 居 へ 出 向 い た 事 例、 ま た 慶 応 二 年 二 月 二 十 二 日 条 で、 奥 様 と 御 寮 人 様 が 供 四 人 を 召 し 連 れ て 中 の 芝 居 の 見 物 に 出
向 い た 事 例 が 挙 げ ら れ る。 小 屋 の 名 称 が 不 明 で あ る 事 例 を 除 く と、 店 か ら の 芝 居 行 に 使 わ れ た 小 屋 は、 大 芝 居 で あ る 中 の 芝 居と角芝居のいずれかである。
〔イ〕 回章等による誘引での芝居行 次に、職能上の交際による何らかの誘引行為によって、店の者が芝居へ出向いた事例を見ていく。 まず、安政五年二月九日条に以下の記事が見られる。 丈助、備後 丁
(町町)丁 内芝居参会ニ付、中之芝居被参候。
丈 助 は 先 述 し た よ う に 銭 屋 の 手 代 で あ る が、 こ の 時 期 に は 備 後 町 に あ る 両 替 店 を 任 さ れ た 一 人 で あ っ た。 そ の 備 後 町 内 で
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設 け ら れ た 芝 居 見 物 の 参 会 が あ り、 中 の 芝 居 へ 出 向 い た こ と を 記 し た も の で あ る。 こ れ は 町 内 の 有 力 者、 ま た は 代 表 者 の 寄 合といった形での芝居見物がなされていたことを示す事例と考えられる。 と こ ろ で、 銭 屋 日 記 の 中 に は、 主 に 蔵 屋 敷 か ら の、 回 章 や 回 状 と 称 さ れ る 回 覧 書 類 に よ っ て、 飲 食 の 宴 席 や 住 吉 社 参 詣、 そ し て 芝 居 見 物 な ど を 誘 い か け る 内 容 の 記 事 が し ば し ば 見 ら れ る。 回 章 は そ の 文 面 を 日 記 に 控 え る 形 で 記 録 さ れ て い る こ と が多い。そこからは寄合が、取引関係のある諸藩の蔵屋敷の「御講」などとして開催された様子もうかがえる。
回 章 に よ る 芝 居 行 と 思 わ れ る 記 事 は、 銭 屋 日 記 で は 安 政 五 年 以 降 に 見 ら れ る よ う に な る。 ま ず、 同 年 二 月 十 七 日 条 の 記 事 を以下に示す。 因州回章 然 者 来 ル 廿 五 日 因 州 御 屋 敷 御 講、 道 頓 堀 中 之 芝 居 ニ お ゐ て 御 催 ニ 御 座 候 間、 乍 御 苦 労 無 御 不 参 当 日 早 朝 よ り 留 方 衆 へ 向 御出懸ケ可被成下候。右御案内迄御断御座候。已上 倉橋屋
二月十六日 藤四郎 同 勝兵衛 無拠用向差支御座候間、不参仕候。此段宜奉希候。 こ の 事 例 は「 因 州 御 屋 敷 」 す な わ ち 因 幡 国 鳥 取 藩 の 蔵 屋 敷 か ら、 二 月 二 十 五 日 に 中 の 芝 居 で の 見 物 を 誘 う 回 章 の 控 と 考 え られる。ただし、この時は差し支えがあったため参加しなかったものとみられる。 このような、回章による芝居見物への誘引事例をいくつか確認しておきたい。
安政六年の四月には、連続して該当記事が見られる。
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・四月一日 然 者 因 州 御 屋 敷 御 講、 三 月 ゟ 来 ル 四 月 八 日 於 中 之 芝 居 御 催 直 し 相 成 可 申 候 間、 早 朝 ゟ 大 七 方 へ 向、 各 様 方 無 御 不 参 御 出 席被成下度、右御案内迄為断御座候。以上 倉橋屋 藤四郎 同 勝兵衛
・四月八日 丈助因州御講代り、中芝居へ参り候。供三介。 こ の 事 例 で は 四 月 一 日 に 回 章 が 届 き、 そ こ で は 因 州 鳥 取 藩 蔵 屋 敷 の「 御 講 」 と し て、 来 る 四 月 八 日 に 中 の 芝 居 で の 見 物 が 通 達 さ れ て い る。 そ し て 八 日 に、 銭 屋 の 代 表 と し て 丈 助 が 三 介 を 供 に 連 れ て 中 の 芝 居 へ 出 向 い た。 役 割 番 付 お よ び『 浮 世 見 聞 集 』 に よ れ ば、 こ の 年 の 三 の 替 り は「 菅 原 伝 授 手 習 鑑 」 と「 油 売 恋 山 崎 」 の 上 演 で、 嵐 吉 三 郎( 三 代 )、 坂 東 亀 蔵 ら の 出 演であった。
こ の よ う な 芝 居 行 は、 諸 藩 の 蔵 屋 敷 等 が 主 導 し て の、 「 御 講 」 や「 御 振 舞 」 と 称 さ れ る、 接 待 等 の 意 味 合 い を 持 つ 芝 居 見 物 と 考 え ら れ る。 こ の よ う な 催 し は 月 例 も し く は そ れ に 近 い 頻 度 で 開 催 さ れ た ら し く、 実 際 に こ の よ う な 形 で 芝 居 見 物 が 誘 い か け ら れ る 記 事 が 多 く 見 ら れ、 定 例 行 事 化 し て い た 様 子 が う か が え る。 具 体 的 な 記 述 に は 欠 け る が、 慶 応 二 年 八 月 十 三 日 条の「銭丈、講振舞ニ而角芝居被参候事」も同種の事例といえる。 こ の 類 の 芝 居 見 物 が ど の よ う な 性 格 で あ っ た か、 銭 屋 日 記 か ら は 詳 細 を 明 ら か に し え な い と こ ろ で あ る が、 福 岡 藩 の 大 岡 に よ る『 浪 速 詰 方 日 記 』 の 事 例 で は、 芝 居 見 物 の 終 了 後 に 茶 屋 に 場 所 を 移 し、 飲 食 が な さ れ る の が 通 例 で あ っ た。 こ こ で は ひ と ま ず、 蔵 屋 敷 が 主 導 し、 有 力 商 家 の 代 表 者 が 集 ま る 形 で の 芝 居 見 物 が 定 例 と し て 開 催 さ れ て い た、 と い う 事 実 を 確 認 し
ておきたい。
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さ ら に、 右 に 示 し た 中 の 芝 居 で の 見 物 か ら 三 日 後 に あ た る 四 月 十 一 日 に は「 丈 助、 土 浦 芝 居 行 参 り 候。 供 三 介 」 と の 記 事 も あ り、 近 接 し た 時 期 に、 鳥 取 藩 と 土 浦 藩 と い っ た よ う に 別 の 主 催 者 か ら 芝 居 見 物 の 誘 引 が 生 じ、 芝 居 行 が 続 く こ と も あ っ たようである。 こ こ ま で 見 た よ う に、 銭 屋 で は 回 章 等 に よ る 芝 居 の 誘 引 が あ っ た 場 合、 多 数 の 事 例 で 丈 助 が 出 向 い て い る こ と が 確 か め ら れ る。 そ こ で、 明 ら か に 丈 助 に 宛 て ら れ た 回 章 に よ り 見 物 し た 一 例 と し て、 慶 応 二 年 三 月 八 日 条 の も の を 挙 げ て お き た い。
これは津藩からの回章によるものである。 一、津回章左ニ 然者来ル十一日、大西芝居角平江早朝 ゟ 御苦労被下度、此段乍略 義
(ママ)一紙を以奉希候。書外乱拝話候。以上 江川 格三郎 三月八日 加嶋屋 勘七様 加嶋屋 利助様 炭屋 正助様
銭屋 丈助様 加嶋屋 嘉助様 こ の よ う に、 回 章 の 宛 所 と し て 四 人 目 に 丈 助 の 名 が 見 え る。 こ れ ら か ら、 芝 居 見 物 等 の 誘 引 に 対 し て は、 銭 屋 で は 主 に 丈 助が対応する役目であったことが確かめられる。 そ し て こ の 誘 引 の 結 果、 三 月 十 一 日 に「 丈 助、 津 芝 居 行 ニ 付 大 西 へ 参 り 候。 供 岩 助 」 と あ っ て、 予 定 通 り 十 一 日 に 大 西 芝 居(この時の正式な名称は筑後芝居)へ出向いたことが知られる。 ち な み に、 こ の 時 は 同 じ 三 月 八 日 付 で 鳥 取 藩 か ら の 回 章 が 来 て お り( 日 記 に は 九 日 条 に 記 載 )、 三 月 十 四 日 に、 津 藩 と 同 じ く 大 西 芝 居 で の 見 物 が 行 わ れ た。 さ す が に こ の 時 は、 三 日 後 に 同 じ 芝 居 を 見 物 す る こ と を 避 け た も の か、 丈 助 で は な く 若
旦那が見物に行っている。
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なお、 この月に筑後芝居では中村宗十郎(三代。前名は三代三枡源之助) 、 嵐雛助(六代)らの出演で「仮名手本忠臣蔵」 が上演された。誘引の見物先が重複したのは、人気狂言が上演されたためであったかもしれない。 こ こ ま で に 見 た 事 例 は、 備 後 町 町 内 の 芝 居 参 会、 回 章 に よ る 鳥 取 藩 や 津 藩 の 蔵 屋 敷 か ら の 誘 引 に よ る 見 物 で あ っ た。 そ れ ら と は 少 し 異 な る 形 で の 誘 引 に よ り 見 物 に 赴 い た 事 例 が あ る の で、 以 下 に 示 し て お き た い。 安 政 六 年 十 月 二 十 六 日 条 の 記 事 に見られるものである。
一、 高 鍋 御 屋 鋪 神 代 様・ 稲 倉 様・ 岩 村 様・ 平 八 殿、 角 芝 居 振 舞。 内 ゟ 当 旦 那 様・ 若 旦 那 様・ 丈 助・ 常 七、 供 九 助・ 七 助、 芝居茶屋角平ニ而御越被成候。 そ し て 翌 二 十 七 日 条 に は「 海 老 屋 平 八、 昨 日 芝 居 行 礼 ニ 来 る 」 と の 記 事 が あ る。 海 老 屋 平 八 は 前 日 の 日 記 中 の「 平 八 殿 」 で あ り、 芝 居 行 の 振 舞 に 出 向 い て も ら っ た 礼 に 来 て い る の が 分 か る。 ち な み に こ の 時 の 芝 居 は 尾 上 多 見 蔵( 二 代 )、 嵐 璃 珏 (二代)らによる「幼稚子敵討」と「義経千本桜」 (道行初音旅)であった。 こ の 事 例 で は、 回 章 の よ う に 複 数 の 対 象 へ 呼 び か け る と い う 形 で は な く、 銭 屋 の 店 だ け に 絞 っ た 振 舞 が 催 さ れ、 角 芝 居 で
の 見 物 が 行 わ れ て い る。 そ の た め か 見 物 に 赴 い た 人 数 も 多 く、 銭 屋 か ら は 当 主・ 若 旦 那( 長 男 卯 一 郎 )・ 丈 助 ら に 供 の 者 を 含 め て 都 合 六 名、 高 鍋 藩 屋 敷 の 人 々 を 含 め れ ば 総 勢 十 名 で の 見 物 で あ る。 回 章 に よ る 見 物 時 の よ う に、 店 一 軒 か ら 若 干 名 が 出 向 く 形 と は 明 ら か に 異 な っ て い る。 こ の 時 に 振 舞 の 主 体 と な っ て い る の は 高 鍋 藩 で あ る が、 同 藩 の 蔵 屋 敷 に つ き、 天 保 四 年( 一 八 三 三 ) の 時 点 で そ の 名 代・ 蔵 元 は 銭 屋 佐 兵 衛 が 勤 め て い る( 『 藩 史 大 事 典 』 第 七 巻 九 州 編、 そ の 出 典 は『 宮 崎 県 近 世 経 済 史 』) 。 ま た、 銭 屋 の 家 で は す で に 文 化 年 間 に は、 高 鍋 藩 と の 貸 借 関 係( 貸 付 ) が あ っ た と い う( 小 林 延 人「 資 料 紹 介『 土 佐 用 日 記 』 改 題 」『 大 坂 両 替 商 逸 身 家 文 書 現 状 記 録 調 査 報 告 書 』) 。 こ こ に み ら れ る 振 舞 で の 芝 居 見 物 は、 お そ ら く このような関係に起因するものであろう。
高 鍋 屋 敷 に よ る 振 舞 の 事 例 は 慶 応 二 年( 一 八 六 六 ) 二 月 十 四 日 条 に も 見 ら れ、 こ の 時 は 店 か ら は 若 旦 那・ 孝 旦 那( 二 男 孝
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之助) ・丈助・専助と供の岩助の計五名が角芝居へ見物に出向いている。 と こ ろ で、 能 の 項 で も 触 れ た よ う に、 銭 屋 は 幕 末 期 に 入 り 高 知 藩 と の 関 係 性 を 強 め た。 と く に 慶 応 年 間 に は そ の 取 引 も 増 加している。そのような関係を示す事例として一件、慶応三年三月十二日条の記事を示しておきたい。 一、若旦那様・丈助・嘉兵衛、宿毛振舞候ニ付、角平 ゟ 角ノ芝居江罷越候事。 さ き に 引 い た 安 政 六 年 十 月 二 十 六 日 条 の 記 事 中 に も 見 ら れ た よ う に、 「 角 平 」 は 芝 居 茶 屋 で あ り、 そ こ を 通 じ た 振 舞 と し
て の 角 芝 居 見 物 が な さ れ て い る。 宿 毛 領 は 高 知 藩 の 支 藩 で あ り、 こ こ で の 宿 毛 は 広 く は 高 知 藩 を 指 す も の と 思 わ れ る。 同 藩 と 銭 屋 と の つ な が り は、 前 述 し た 小 林 氏 の 改 題 に よ れ ば、 安 政 五 年 七 月 か ら 高 知 藩 へ の 貸 し 付 け が 始 ま っ た も の で あ る と い う。 そ の 後、 交 流 は 親 密 に な っ た よ う で、 貸 付 額 は 明 治 四 年( 一 八 七 一 ) ま で に 銀 三 万 貫 以 上 に の ぼ っ た。 こ の 時 振 舞 に 招 か れ た 丈 助 は、 こ の 四 ヵ 月 後 に あ た る 慶 応 三 年 七 月 か ら 高 知 藩 へ の 出 張 の 役 を 務 め て い る。 こ の 振 舞 は、 そ の よ う な 銭 屋 と 高 知 藩 と の 関 係 を 表 し た も の で あ ろ う。 こ の 年・ 慶 応 三 年 に は、 た び た び 高 知 藩 の 振 舞 が 催 さ れ て お り、 三 月 十 七 日 に は 若 旦 那 が 中 の 芝 居 へ、 九 月 二 十 二 日 に も 若 旦 那 と 嘉 兵 衛( 供 は 三 助 と 岩 助 ) が 角 芝 居 へ 出 掛 け て お り、 高 知 藩 と の 交 際 が 強 ま
っている様子がうかがえる。
〔ウ〕芝居小屋についての考察 こ こ ま で は 銭 屋 を 主 体 と す る 芝 居 行 と、 回 章 等 に よ る 誘 引 に よ る 芝 居 行 の 別 を 確 認 し た。 以 下 に 示 す も の も、 そ の 主 体 か らは後者の事例に入るが、見物に赴く芝居小屋について、ここまで挙げたものとは異なる事例を確認しておきたい。 幕 末 期 の 大 坂 で は、 先 述 し た よ う に 格 の 高 い 芝 居 小 屋 は 道 頓 堀 に 位 置 す る 中 の 芝 居 と 角 芝 居 の 二 軒 で あ り、 振 舞 等 の 際 に 見 物 に 用 い ら れ る 小 屋 は 多 く が こ れ ら で 占 め ら れ て い る。 福 岡 藩 の『 浪 速 詰 方 日 記 』 で は、 見 物 し た 小 屋 が 分 か る 記 録 八 件
の う ち 六 件 が 中 の 芝 居 で 占 め ら れ て い た。 そ の ほ か は 一 件 が 角 芝 居、 残 る 一 件 は 筑 後 芝 居 で あ っ た。 ま た、 久 留 米 藩 の 勤 番
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日記では、同様の六件の記録すべてが中の芝居での見物であった。 し か し、 銭 屋 日 記 中 に 見 ら れ る 芝 居 見 物 は、 筑 後 芝 居( 大 西 芝 居 ) で の 見 物 が 中・ 角 の 両 芝 居 に 次 い で 多 く、 た び た び 足 を 運 ん だ こ と が 確 か め ら れ る。 こ の 点 は 蔵 屋 敷 役 人 の 日 記 に 見 ら れ た 傾 向 と は 異 な っ て お り、 特 徴 の ひ と つ に 挙 げ て よ い だ ろう。その一例は、慶応二年三月の事例としてすでに示した通りである。 筑 後 芝 居 は 道 頓 堀 に あ っ た 芝 居 小 屋 の 一 つ で あ る。 そ の 名 称 は、 伝 存 す る 役 割 番 付 の 表 記 に よ れ ば、 も と も と は 大 西 芝 居
と 記 さ れ て い た が、 天 保 三 年 三 月 か ら 筑 後 芝 居 と の 表 記 が み ら れ る よ う に な る。 そ の 後、 と く に 天 保 年 間 は 大 西 と 筑 後 の 名 称 が 混 交 し て 使 用 さ れ、 天 保 の 末 あ た り か ら は ほ ぼ 筑 後 芝 居 と の 表 記 に な る。 銭 屋 日 記 が 残 る 安 政 年 間 以 降 は、 興 行 側 の 表 記 と し て は ほ ぼ 筑 後 芝 居 と な る が、 見 物 客 の 間 で は、 大 西 芝 居 と の 呼 称 が 通 称 と し て 用 い ら れ て い た。 銭 屋 日 記 で も、 筑 後 芝居についてはいずれも大西芝居と表記されている。 筑 後 芝 居 に 関 す る 記 事 が 最 初 に 銭 屋 日 記 に あ ら わ れ る の は、 安 政 四 年 三 月 十 九 日 条 で あ る。 そ こ に は 因 州 鳥 取 藩 か ら の 書 状 で、 来 る 二 十 六 日 に「 大 西 芝 居 行 」 の 誘 い が あ っ た 旨 が 記 さ れ て い る。 そ れ を 受 け て、 三 月 二 十 六 日 条 に 以 下 の 記 事 が 見
られる。 当旦那様・丈助、因州元〆様振舞ニ而大西芝居へ御越、供又吉。 ここでは鳥取藩の振舞として、当主・丈助・供の又吉の三名が筑後芝居へ見物に出かけている。 また、慶応二年正月十六日には高知藩からの回状で、筑後芝居行の案内が来ている。 一、土州回状左 之
(ママ)然 者 此 度 筑 後 芝 居 行 御 催 し 被 遊 御 用 向 被 仰 付 難 有 仕 合 ニ 奉 存 候 然 ル 処 御 日 取 来 ル 廿 ニ 日 相 被 極 候 得 共、 御 屋 敷 様 方 御 都 合宜敷様承り申候。乍恐御差支無之候得ハ御参加可被下候。先者右御窺申上度、如此ニ御座候。以上
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(ママ)
(ママ)
正 ―――― 日 留田屋
この時の上演は、尾上松緑・中村宗十郎(三代)らの出演による「もゝちどり鳴門白浪」 「けいせい買指南所」であった。 そ し て 慶 応 三 年 に は、 因 州 鳥 取 藩 蔵 屋 敷 の 九 月 分 の 御 講 と し て、 十 月 七 日 に 筑 後 芝 居 で 芝 居 見 物 が 行 わ れ て い る。 こ の 時 の演目は実川延若、 中村宗十郎(三代)らによる「 実
みのりの穐
あき佐
さくらの倉 賑
にぎわい」であった。佐倉惣五郎を扱った芝居で、 「狭倉藤五郎」
を実川延若が演じている。 以 上 の よ う な 筑 後 芝 居 行 の 事 例 の ほ か に、 堀 江 芝 居 に 出 向 い た 例 が 一 例 見 ら れ る。 慶 応 二 年 十 一 月 二 十 四 日 条 の 記 事 で あ る。 一、津振舞堀江芝居行丈助罷越候事。 役 割 番 付 を 参 照 す る と、 堀 江 芝 居 に お い て 慶 応 二 年 十 一 月 吉 日 よ り の 興 行 を 示 す 番 付 が 残 さ れ て い る。 実 川 額 十 郎( 二 代。 前 名 実 川 延 三 郎 ) ほ か の 出 演 で、 「 三 勝 櫛 赤 根 色 指 」「 須 磨 都 源 平 躑 躅 」「 比 翼 鳥 辺 山 」 の 三 作 が 上 演 さ れ て い る。 堀 江 の 小
屋 で あ れ ば 人 形 浄 瑠 璃 の 可 能 性 も 考 え ら れ る が、 『 義 太 夫 年 表 近 世 篇 』 に は こ の 時 期 の 番 付 が 見 ら れ ず、 他 の 資 料 か ら も 興 行 は 確 認 で き な い。 し た が っ て、 こ れ は 歌 舞 伎 の 興 行 を 見 物 に 行 っ た も の と 考 え て よ い だ ろ う。 い ず れ に し て も 堀 江 芝 居 の 見 物 を 示 す も の は こ の 一 例 の み で、 稀 有 な 事 例 で あ っ た こ と が う か が え る。 堀 江 は 道 頓 堀 の 芝 居 と は や や 性 格 が 異 な り、 新 地 繁 栄 の 名 目 で 芝 居 櫓 が 許 さ れ て い た も の で あ る。 小 屋 の 格 と し て は 中 の 芝 居 お よ び 角 芝 居 よ り は 下 が る が、 振 舞 を 計 画 す る 側 は そ の あ た り の 意 識 は さ ほ ど な か っ た も の の よ う で、 堀 江 芝 居 で の 見 物 が 実 際 に 行 わ れ た 事 例 の あ っ た こ と が 確 認 さ れ た
(5)。 こ の よ う に、 誘 引 に よ る 商 家 の 芝 居 見 物 で は、 蔵 屋 敷 に お け る そ れ よ り も、 利 用 さ れ る 芝 居 小 屋 が 広 い 対 象 か ら 選 択 さ れ
て い た と い え る。 そ の 理 由 は 明 確 に し 得 な い が、 お そ ら く は 商 家 の 芝 居 見 物 の ほ う が、 蔵 屋 敷 勤 番 の 見 物 よ り も 小 屋 の 格 へ
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のこだわりが少なく、自由度が大きかったためと考えられる。 ま た、 こ れ ら の 事 例 か ら 伺 え る 点 と し て、 誘 引 で 芝 居 へ 出 向 く 場 合 は、 主 に 若 旦 那 や 丈 助 な ど、 店 の 主 要 な 人 物 が 出 向 い て い る こ と が 挙 げ ら れ る。 そ し て 女 性 や 幼 い 子 供 な ど を 連 れ て 行 っ て い な い の が、 店 一 同 で 出 向 く 芝 居 見 物 と の 差 異 と い え る だ ろ う。 こ れ は 店 の 芝 居 行 が 一 族 で の 娯 楽 で あ る の に 対 し、 誘 引 に よ る 芝 居 行 は 商 業 活 動 に お け る 交 際 の 一 環 で あ る、 と の区別によるものであろう。
三 見世物の見物
見 世 物 の 見 物 事 例 は 少 な く、 二 例 の み で あ る。 し か し 事 例 こ そ 少 な い が、 講 や 振 舞 と し て の 見 物 に は な り 得 な い 見 世 物 興 行を見に行くという行動には、見物対象へのある程度の興味があったものと思われる。 二例のうちの一つは安政四年(一八五七)三月八日条の記事である。
当旦那様・若旦那様生人形ニ御越、 共
(供か)勝兵衛。 甚 だ 簡 略 な 記 事 で あ り、 当 時 流 行 の 生 人 形 を 見 物 に 行 っ た こ と が 知 ら れ る の み で、 こ こ か ら は 興 行 場 所 も 確 認 で き な い。 そこで、他の編年記録により照合を試みたい。 近 世 末 期 大 坂 の 編 年 記 録 と し て 有 用 な も の の 代 表 格 は『 近 来 年 代 記 』( 『 大 阪 市 史 史 料 第 一 ・ 二 輯 』) で あ る が、 安 政 二 年 から同四年までの記事が欠けており、確かめることができない。 そ こ で、 同 様 の 編 年 記 録 で あ る『 浮 世 見 聞 集 』 を 参 照 す る と、 ち ょ う ど こ の 年 の 二 月 か ら 生 人 形 の 興 行 が な さ れ た こ と が 確かめられる。安政四年二月の記事として以下のようにある。
当 月 上 旬 よ り、 難 波 新 地 松 乃 尾 南 山 ニ お ゐ て、 浮 世 見 立 四 十 八 曲 の 滑 稽 生 人 形 見 世 物 有 之。 見 物 夥 敷 事。 人 形 細 工 人 松
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本喜三郎。 同 難 波 新 地 溝 の 側 ニ 而 い ろ は た と へ 見 立 生 人 形 有 之。 大 切 曽 我 対 面 場、 宝 舩 の せ り 上 ケ 是 又 右 同 様 大 あ た り 也。 人 形細工人安本善蔵。 す な わ ち、 こ の 時 期 は ち ょ う ど 難 波 新 地 の 二 ヵ 所 に お い て、 松 本 喜 三 郎 と 安 本 善 蔵 と い う 生 人 形 を 代 表 す る 細 工 人 二 人 の 小 屋 が 立 ち、 ま さ に 流 行・ 人 気 沸 騰 の 生 人 形 興 行 の 競 演 が な さ れ て お り、 「 見 物 夥 敷 」「 大 あ た り 」 等 と あ る よ う に 非 常 な
人 気 を 博 し て い た。 銭 屋 の 当 旦 那 様( 佐 兵 衛 ) と 若 旦 那 様( 卯 一 郎 ) が ど ち ら を 見 に 行 っ た の か 確 定 す る こ と は で き な い が、 二人は生人形の人気を耳にし、難波新地に足を運んだものと思われる。 松 本 喜 三 郎 の 大 坂 初 興 行 は 安 政 元 年 で、 そ の 人 気 を も っ て 翌 二 年 に は 江 戸 で 初 興 行 を 行 い、 さ ら に そ の 翌 三 年 に 二 度 目 の 江 戸 興 行 を 行 っ て い る。 江 戸 で の 興 行 で 確 固 た る 知 名 度・ 人 気 を 得 た の ち の、 再 度 の 大 坂 興 行 で あ り、 安 政 四 年 に は そ の 評 判 も 高 ま り、 人 気 を 得 た も の で あ ろ う。 こ の 見 物 に は、 生 人 形 自 体 へ の 関 心 の み な ら ず、 当 時 の 話 題 や 流 行 に 対 す る 興 味 も あったのではないかと推測される。
二例めは安政六年二月二十三日条の記事である。 当旦那様・供猶七、なんば新地江家御らんに御越被遊候。并御見せ物見ニ御越。 難 波 新 地 へ 家 を 御 覧 に 行 か れ た、 と は ど の よ う な 目 的 で あ っ た の か が 判 然 と し な い が、 難 波 新 地 と い え ば 見 世 物 興 行 の 代 表的な場所であり、そのついでにという形ではあるが見世物興行へ足を運んだということであろう。 『 近 来 年 代 記 』 に よ る と、 二 月 の 当 該 期 に 上 演 さ れ て い た も の の 特 定 に は 至 ら な い が、 こ の 年 の 一 月 か ら 三 月 に か け て、 大坂では以下の見世物興行がなされたことが知られる(見世物と無関係の記事は省く) 。 ○かるわさ 難波新地
○みせ物 大仏殿
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(中略) ○廿四孝生人形 松井善蔵 ○力持 江戸登り 大当り。 ○女のこま回し 江戸登
○らん か
(「間」)渡り 竹田小蝶 (中略) ○三月廿三日御城代御入。 ○三国伝来玉藻前 人形細工 ○殺生石所 生人形ニて ○南都元興寺塔
二月廿九日夜出火。 ○生人形忠臣蔵 是ハ二ワ加なり。 ○牛の角力 角ニてつきあふなり。大当りなり。 こ れ ら の 興 行 場 所 は 冒 頭 の 軽 業 以 外 に は 明 記 さ れ て い な い が、 当 時 の 大 坂 の 見 世 物 興 行 場 所 を 考 え れ ば、 こ れ ら の 多 く は 難 波 新 地 で 行 わ れ て い た と 思 わ れ る。 少 な く と も 見 世 物 は こ の よ う に 同 時 に 一 定 数 の 小 屋 が 出 て 興 行 さ れ て お り、 見 物 客 も
集まっていたことになる。当主の佐兵衛と猶七が見た見世物も、これらの中に含まれている可能性があろう。
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さ き に 見 世 物 見 物 に 出 向 く 行 為 は、 見 物 対 象 へ の あ る 程 度 の 興 味 に よ る も の と 記 し た が、 そ の 見 物 は、 対 象 へ の 興 味 の み ならず当時の世相や流行(話題性)への関心のあらわれとも考えられる。
むすびにかえて
今 回 は 考 察 の 主 た る 対 象 と は し な か っ た が、 銭 屋 日 記 に は 明 治 元 年( 一 八 六 八 ) 以 降 の も の( 慶 応 四 年 九 月 か ら 明 治 に 改 元)が、計三冊残されている。 そ の 内 容 を 見 る と、 当 然 と も い え よ う が、 明 治 と 改 元 さ れ て も す ぐ に 旧 来 の 諸 方 式 は 改 ま ら な か っ た よ う で、 日 記 に は そ れ 以 前 と 同 様 に、 回 章 に よ る 芝 居 見 物 の 誘 引 も 数 例 確 認 で き る。 ま た、 催 し の 主 体 は 明 ら か で は な い が、 店 の 者 た ち で 芝 居 を見に行った例も見られる。 江 戸 期 に 比 し て 最 も 相 違 が 認 め ら れ る の は 相 撲 見 物 で あ り、 こ の 事 例 が 明 治 元 年 以 後、 明 ら か に 増 加 し て い る。 近 世 の 銭
屋 日 記 に お い て は、 相 撲 見 物 の 記 事 は 安 政 期 に 数 例 見 受 け ら れ る が、 芝 居 見 物 の よ う に 時 期 を 問 わ ず 繰 り 返 し な さ れ て い る 様 子 は な い。 と こ ろ が 明 治 二 年 に は、 四 月 十 八 日 付 の 回 章 に よ る 誘 引 で、 同 月 二 十 日 に 難 波 新 地 の 相 撲 興 行 に、 丈 助 と 供 の 三 助 が 足 を 運 ん で い る。 こ れ は 土 浦 藩 か ら の 回 章 に よ る 振 舞 で あ っ た。 ま た、 同 年 六 月 九 日 に も 高 知 藩 か ら の 回 章 に よ り、 稲 荷 例 祭 に 伴 っ て の 相 撲 興 行 へ の 誘 い が 来 て い る。 さ ら に 六 月 二 十 五 日 条( 回 章 は 日 付 不 記 ) に は、 鳥 取 藩 か ら の 回 章 が 控 え ら れ て い る。 そ れ は 因 州 御 屋 敷 下 山 宮 御 祭 礼 に お い て 二 十 八 日 に 相 撲 を 催 す と の 誘 引 で、 若 旦 那 と 丈 助 が そ の 祭 礼 に 出 か け て い る の で、 お そ ら く 相 撲 も 見 物 し た も の で あ ろ う。 近 世 に は 回 章 に よ る 相 撲 見 物 の 事 例 は 見 ら れ な か っ た の で、 こ れ は 誘引の対象が変化した、正確に言えば対象が拡大したと考えることができる。
勧 進 相 撲 や 稽 古 相 撲 は 近 世 か ら 大 坂 で も 行 わ れ て い た も の で あ り、 明 治 期 に 入 っ て い き な り 興 行 が 増 加 し た と い っ た 類 の
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