文字の歌を歌うということ
著者 遠藤 耕太郎
雑誌名 文學藝術
巻 43
ページ 1‑7
発行年 2019‑12
URL http://id.nii.ac.jp/1087/00003374/
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歌とは何か
今年、中学一年になった下の娘が受験勉強をしていたころのことである。日本史の宿題をやっているのを見ていた ら、突然「アレクサ!」と呼びかける。そして「織田信長はいつの人?」などと聞いている。するとアレクサは答え て く れ、 娘 は 宿 題 帳 に 答 え を 書 く。 「 ア レ ク サ!織 田 信 長 は 何 を し た 人?」 「 ア レ ク サ!豊 臣 秀 吉 は い つ の 人?」 …… 。「それじゃ宿題にならんだろう」と笑ったものだ。アレクサはAIアシスタントと言うのだそうだ。ほかにも、 「ヘイ!シリ」とか「オッケーグーグル」とかがあるらしい。 「アレクサ!テレビ点けて」といえば、テレビも点くの である。まったく知らない人が見たら、まるで魔法と思うのだろう。
そ う い え ば、 上 の 娘 と よ く 見 た ハ リ ー ポ ッ タ ー で も、 魔 法 学 校 ホ グ ワ ー ツ の 学 生 は、 「 ウ ィ ン ガ ー デ ィ ア ム レ ビ オーサ」とか声に出して、物を浮かせる練習をしていた。要するに、時代や地域を超えて、目に見えないモノを動か すのは、音声なのである。それもただの音声ではなく、 「アレクサ!」とか「オッケーグーグル」とか、 「ウィンガー ディアム … 」とか、一定の決まりや抑揚が必要だ。そのもっとも洗練された形の一つに、日本で言えば五七音を基調 とする和歌がある。目に見えないモノに 訴
うったえるのが 歌
うたなのだ。 文字の歌を歌うということ
遠 藤
耕
太
郎
声に出して歌われる和歌
『万葉集』に、
海
わたの底 奥
おきつ白波立田山 何
いつ時 か越えなむ 妹
いもがあたり見む(巻一 ・ 八三) 〈海の底の奥深くから白波が立つ龍田山、この山をいつ越えるのだろうか。妻の家の辺りを早く見たいものだ〉 と い う 歌 が あ る。 海 の 底 の 奥 深 く か ら 白 波 が 立 つ、 こ れ は 恐 ろ し い イ メ ー ジ だ。 そ の イ メ ー ジ が「 た つ 」 の 掛 詞 に よって、今越えようとしている難所、龍田山と重ねられる。龍田山は大和(奈良)と河内(大阪の東南部)の境界の 山、旅の危険が潜む、言い換えれば悪い神が祟りをなすような場所である。旅に出た男は、こういう難所で、妻や故 郷 を 偲 ぶ 歌 を 歌 う。 妻 や 故 郷 は、 故 郷 の 神 に 守 ら れ た 場 所 で あ る か ら、 そ れ を 歌 い 込 む こ と が、 旅 の 恐 怖 を や わ ら げ、故郷の神に旅の安全を祈ることにもなるのである。
これとよく似た女の歌が、後代の『伊勢物語』二三段に登場する。大和から龍田山を越えて、 河
かふち内 国 高
たかやす安 郡に住む 別の女のもとに行く夫の、旅の安全を祈った有名な歌である。 風吹けば沖つ白波立田山 夜
よは半 にや君がひとり越ゆらむ 〈風が吹くと沖の白波が立つ。龍田山をこんな夜中にあなたはひとり越えようとしているのだろうか〉
夜中に沖の方で立つ白波、これも恐ろしいイメージだ。悪神が白波を起こして旅人を引き寄せようとしている。そ のイメージが、やはり「たつ」によって龍田山と重ねられ、夫の旅を心配し、その安全を祈る妻の歌になっている。
この時、夫は、別の女のもとに行こうとする自分を快く送り出す妻を疑って、庭の植木の陰に隠れて様子を見てい た。妻はよく化粧をしてこの歌を歌う。化粧するのは、それが神に祈る神聖な行為だからだ。夫はその歌を聞き、高 安の女のもとには通わなくなったという、歌の力を描いた章段である。男は庭の植木の陰からその歌を聞いたのだか ら、妻は、この歌を音として発声していたのである。それは故郷の神という見えないモノに夫の旅の安全を祈るため
である。万葉の男の歌も、やはり声に出して歌っているのだろう。
〈濃い色にあなたの衣を染めればよかった。足柄の峠を越えるときに、はっきりと見えるでしょうから〉 色深く背なが衣は染めましを御坂たばらばま清かに見む(二十 ・ 四四二四、 妻 、 物 部 刀 自売 )
めもののべのとじめ〈足柄山の峠に立って袖を振ったら、家にいる妻は、はっきりと私を見てくれるだろうか〉 足 柄 の 御 坂 に 立 して袖振らば 家 なる 妹 は 清 に見もかも(二十 ・ 四四二三、 埼 玉 郡 上 丁 藤 原部 等 母 麿 )
あしがらみさかたいはいもさやさきたまのこほりかみつよぼろふじわらべのともまろ婦の歌が収録されている。 『 万 葉 集 』 に は、 奈 良 時 代 に 東 国 か ら 徴 集 さ れ、 北 九 州 の 沿 岸 警 備 に あ た っ た 防 人 た ち の 歌 と し て、 次 の よ う な 夫
さきもり足柄山の峠もまた、難所である。悪神が旅人を狙っている。夫は峠で袖を振って妻との、つまり故郷の神との近さ を確認しようとする。実際には濃い色で染めてなかったのだろう。それでも妻は、はっきりとではなくても見ようと 歌う。こうした歌も、声に出して歌われたのだろう。
夫婦は、夫が難所に近づいたころ、お互いに声に出して相手を思う歌を歌い、そのことによって、故郷の神の加護 を祈り、お互いの不安を癒してきたのであった。
文字の受容
と こ ろ で、 『 万 葉 集 』 の 歌 も『 伊 勢 物 語 』 の 歌 も、 文 字 で 書 か れ た 歌 で あ る。 古 代 日 本 の 人 々 は、 中 国 か ら 漢 字 を 受容し、徐々に漢字によって日本語を記す工夫を重ねてきた。
土 の 鉄 剣 に は、 四 七 一 年 の 銘 が あ る が、 五 世 紀 に は か な り 広 範 に 漢 字 が 使 わ れ、 七 世 紀 に は 文 字 に よ る 行 政 が 広 が 武帝の建武中元二年(五七年)である。以来、漢字は中原王朝との関係の中で機能してきた。埼玉県の 稲 荷山 古墳出
いなりやま『 後 漢 書 』 東 夷 伝 に よ れ ば、 倭 の 奴 国 の 王 が「 漢 委 奴 国 王 」 印 綬 を 受 け、 後 漢 の 冊 封 体 制 に 組 み 込 ま れ た の は、 洪
さくほうり、八世紀初頭には文字によって運営される国家、すなわち律令国家が成立する。
こうした漢字の受容の流れの中で、土着の言語や、漢字の背後にある中国的な概念、思想の輸入によって新たに作 ら れ た 言 語 が、 漢 字 に よ っ て 表 記 さ れ る よ う に な っ た。 漢 字 は、 一 字 が 意 味 と 音 と を 表 す 表 語 文 字 で あ る。 漢 字 の、 意味を表す側面を利用して、土着の言語を表す方法が訓であり、例えば「山」と表記して、土着の言語「やま」と発 音 す る。 ま た、 漢 字 の 音 を 表 す 側 面 を 利 用 し て、 土 着 の 言 語 を 表 す 方 法 が 音 仮 名 で あ り、 「 夜 麻 」 と 表 記 し て 同 じ く 「 や ま 」 と 発 音 す る。 す で に、 稲 荷 山 古 墳 出 土 の 鉄 剣 は、 自 ら の 名「 乎
ヲワケ獲 居 」 や 雄 略 天 皇 の 名「 獲
ワカタケル加 多 支 鹵 」 を 音 仮 名で記している。平安朝に始まる平仮名や片仮名も、音仮名から生まれた。
である。このように、万葉和歌は漢字によって表記された歌であり、それまでの土着の歌そのものではない。 を作る。音仮名表記が日本語の語順になるのは当然だが、訓字主体表記の場合も日本語の語順で表記するのがふつう る音仮名表記が多い。また、漢語は主語 ― 述語 ― 目的語の順で文を作るが、日本語は、主語 ― 目的語 ― 述語の順で文 『 万 葉 集 』 で は 訓 字 を 中 心 と し て 付 属 語 を 音 仮 名 で 表 記 す る 訓 字 主 体 表 記 と、 す べ て を 一 字 一 音 の 音 仮 名 で 表 記 す
にもかかわらず、万葉人は、そして平安朝の人々は、やはり声に出して歌うのである。そこに、歌は目に見えない モノに働きかけるものだという考え方は残っているのである。
音数律の歌
ただ異なる面もある。文字以前の歌はメロディーに乗せて歌われるのだが、文字で書かれた万葉の歌はメロディー に乗せるわけではない。五音七音を組み合わせた長歌や短歌という音数律(音数によって作り上げるリズム)に乗せ て、いわば唱えられるのである。 「ナンマイダー、ナンマイダー」というようなものである。
な ぜ、 五 音 七 音 を 基 調 と す る リ ズ ム を 和 歌 は 持 つ よ う に な っ た の か。 こ の あ た り を、 私 が 二 十 年 間 調 査 し て い る、
中 国 西 南 部 に 暮 ら す モ ソ 人 と い う 少 数 民 族 の 人 々 の 歌 を 手 掛 か り に、 少 し 想 像 し て み よ う。 モ ソ 人 は 四 川 省 と 雲 南 省 の 省 境、 標 高 三 千 メ ー ト ル 弱 の 盆 地 に暮らす人々である。
雲 南 省 永 寧 郷 八
バ瓦
ワ村 の ア ゼ ス ガ( モ ソ 人、 男、 当 時 二 九 歳 ) は 歌 の 上 手 だ。 一 九 九 九 年、 ア ゼ ス ガ に ア ハ バ ラ( モ ソ 人 の 歌 掛 け 歌 の メ ロ デ ィ ー) を 即 興 で 何 首 か 歌 っ て も ら っ た 後、 そ の 歌 を 記 録 す る た め に、 今 歌 っ た 歌 を、 歌 う の で は な く 話 す よ う に 言 っ て ほ し い と 注 文 を 出 し た こ と が あ る。 モ ソ 語 を 通 訳 し て く れ る ア ウ ォ ジ パ は す ぐ に そ れ が で き る か ら、 当 然 す ぐ に 話 す 口 調 で 歌 を 繰 り 返 し て く れ る と 思 っ て い た の だ が、 彼 に は そ れ が で き な か っ た。 ア ウ ォ ジ パ は 中 学 を 卒 業 し て い て 漢 字 が 書 け る の で、 漢 字 を 音 仮 名 と し て、つまり万葉仮名風に聞いた歌をメモしているのである。
し か し 漢 字 の 書 け な い ア ゼ ス ガ に は、 私 の 出 し た 注 文 の 意 味 が わ か ら な い ら し い。 私 は す で に 彼 の 歌 っ た 歌 が、 ア ハ バ ラ と い う 七 音 + 七 音 で 一 首 を な す歌形であることを知っていたから、それを告げ、一音ずつ区切って「アハバラマダミ、バラヤハアリリ」と指を折 り な が ら 説 明 し た の だ が、 そ れ で も う ま く い か な い。 や ろ う と し て も な か な か う ま く 区 切 れ が 合 わ な い。 彼 は メ ロ ディーに載せて歌っており、七音の区切れとメロディーの区切れが異なっているのである。かえって彼は、歌いなが ら指を折って、本当に七音+七音になっていることに驚いていた。音数でリズムを作ることを音数律というが、音数 律は文字で書かれることによってはじめて意識されるのである。
その時、私が思い出したのは紀貫之が『土佐日記』に書き残した有名なエピソードである。九三五年、土佐守の任
歌を掛け合うモソ人の男女。歌声はかなり遠くまで響く。
を 終 え 、 和 泉 国 ( 大 阪 の 南 西 部 ) の 沖 を 都 に 向 け て 航 行 し て い た 貫 之 は 、 ふ と 船 頭 の 言 葉 に 耳 を と め た 。 早 く 出 航 し よ う と 促 す と 、 舵 取 り が 舟 子 た ち に 「 み ふ ね よ り お ほ せ た ぶ な り 、 あ さ ぎ た の い で こ ぬ さ き に 、 つ な で は や ひ け 」( お 船 か ら の ご 命 令 だ 。 朝 の 北 風 の 吹 く 前 に 綱 を 早 く 引 け ) と 言 っ た 。 そ れ が 歌 の よ う で も あ っ た の で 書 き 出 し て み る と 、 ほ ん と う に 三 十 一 文 字 ( 五 七 五 七 七 ) で あ っ た と い う の で あ る 。 文 字 で 書 か れ る こ と で 音 数 律 が 確 か め ら れ た わ け だ 。
五七音音数律の広がり
西
さい條
じょう勉
つとむは、 「アジアの中の和歌」 (岡部隆志・工藤隆・西條勉編『七五調のアジア 音数律から見る日本短歌とア ジ ア の 歌 』 大 修 館 書 店、 二 〇 一 一 年 ) で、 和 歌 の 音 数 律 は 声 や メ ロ デ ィ ー と い う 音 楽 の 要 素 を 切 り 離 し、 「 ウ タ フ 」 か ら「 ヨ ム 」( 詠・ 誦・ 読 ) へ の 転 換 に よ っ て 成 立 し た と い う。 音 楽 の 要 素 を 切 り 離 す と、 そ こ に は 日 本 語 が 内 在 す る リ ズ ム が 現 れ て く る。 こ の リ ズ ム に つ い て 西 條 は、 坂 野 信 彦( 『 七 五 調 の 謎 を と く
―日 本 語 リ ズ ム 原 論 』 大 修 館 書店、一九九六)によりながら次のように説明する。日本語のリズムは二音を一拍として四拍八音をひとまとまりと する傾向がある。例えば八音の「ビン|ボウ|ヒマ|ナシ」などは四拍子にぴったり収まって好都合のように見える が、 「 雪 は 降 り し き る 」 の よ う な 場 合 は「 ユ キ | ハ フ | リ シ | キ ル 」 の よ う に 意 味 と リ ズ ム が ず れ て し ま う。 そ こ で 休止を入れて調整すると「ユキ|ハ ~ |フリ|シキ|ル ~ 」と五拍子になってしまい四拍子が破たんする。ところが これを「雪降りしきる」と七音にすると「ユキ|フリ|シキ|ル ~ 」となり、余った一音分を、意味とリズムのずれ を調整するために使うことができる。こうした日本語が内在するリズムが、音楽の要素を切り離し、歌を「ヨム」こ とになったときに、三十一文字という和歌の定型を作りあげたというのである。
貫之の紹介した船頭のことばは、この説を支持するように見える。が、私はこの説を疑っている。万葉の歌より古 い『古事記』や『日本書紀』の歌謡には、偶数音の音数律があるし、枕詞も古いものは四音が多い。
また、モソ人の歌は七七音を基準とする。近くに暮らすナシ族の歌は五五五五音を、同じくペー族の歌は七七七五 音 を、 ミ ャ ン マ ー と の 国 境 付 近 に 暮 ら す リ ス 族 の 歌 は 七 七 音 あ る い は 七 七 七 七 音 を 基 準 と す る。 以 上 は い ず れ も チ ベットビルマ語族に属するが、オーストロ・タイ語族に属するチワン族の歌は五五五五音を基準とし、同じくトン族 の歌の場合、古いものは四六音を中心とし、新しいものは七七音を基準とする。
五音七音が各民族の言語に内在したリズムなのか、それとも民族言語レベルを越えた、より普遍的な要因を想定す るべきなのか。
例えばペー族やナシ族は古くから漢民族の影響をかなり強く受けており、支配者層は自ら漢詩を作ってもいる。モ ソ人も元代以降、土司(中央王朝は中国西南部の民族を統治するため、首長に官職を授け自治を行なわせた。この官 職が土司である)を通じて中央王朝に支配された。私は、そういう歴史のなかで、漢詩の五七音音数律が日本を含め た 周 辺 民 族 に 広 が っ た 可 能 性 を 指 摘 し て い る。 今 後、 そ れ ぞ れ の 民 族 言 語 が 内 在 す る リ ズ ム が 明 ら か に な っ て く れ ば、和歌の五七音音数律の起源も明らかになってくると思う。
和歌は、文字以前の声の歌がその本質としていた、見えないモノへの働きかけの機能を継承しつつ、漢字を受容し たことに始まる音数律という新たなリズムを整え、声に出して唱えられる歌となったのである。現在でも、お正月の 宮中歌会始め、百人一首の大会などでも、和歌は声に出して唱えられている。その起源は中華文明の周縁に暮らす東 アジアの人々に共通する、 「歌う」という営みの中にある。
参考文献
遠藤耕太郎「アジア辺境国家の七五調―ペー族の五七音数律を遡る―」(岡部隆志・工藤隆・西條勉編『七五調のアジア 音数律から見る日本短歌とアジアの歌』大修館書店、二〇一一年)