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徂徠学派文士と朝鮮通信使

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徂徠学派文士と朝鮮通信使  

      ─

「 古文辞学

」 の展開をめぐって─

 

藍    弘岳

はじめに

  荻 生 徂 徠( 一 六 六 六 ─ 一 七 二 八 ) の「 古 文 辞 学

」 は、 常 に 文 学 と い う 私 的 空 間 の 学 問 と し て 理 解 さ れ て い る

。 し か し、 「 古 文 辞 学 」 は 外 交 と い う 公 的 空 間 の 実 践 に も か か わ っ て い る。 も と も と、 漢 文 脈 に お け る 「 文 学 」 に は、 政 治 に 関 わ ろ う と す る 士 人 意 識 へ の 志 向 が 内 包 さ れ て い る

。「 古 文 辞 学 」 も そ の 例 外 で は な い。 本 稿 で は、 こ う し た 問 題 意 識 に 基 づ き、 漢 文脈における「文学」の伝統から、従来よく検討されてきた服部南郭(一六八三─一七五九)の詩文よりも、山県周南(一 六 八 七 ─ 一 七 五 二 )、 木 下 蘭 皐( 一 六 八 一 ─ 一 七 五 二 )、 太 宰 春 台( 一 六 八 〇 ─ 一 七 四 七 )、 山 根 華 陽( 一 六 九 七 ─ 一 七 七 二 )、 小 田 村 鄜 山( 一 七 〇 三 ─ 一 七 六 六 )、 松 崎 観 海( 一 七 二 五 ─ 一 七 七 五 )、 滝 鶴 台( 一 七 〇 九 ─ 一 七 七 三 ) ら と、 第 八 回 から第十一回までの朝鮮通信使との筆談・唱和を検討する。

  山 県 周 南 が 正 徳 年 間( 一 七 一 一 ─ 一 七 一 六 ) に 來 日 し た 朝 鮮 通 信 使 の 書 記 官 た る 南 泛 叟 を 相 手 に 詠 ん だ 詩 に は、 「 芙 蓉 積 雪千秋白、自是名山堪託 負

」とある。この詩句は王世貞(一五二六─一五九〇)が李攀龍(一五一四─一五七〇)の漢詩を

(2)

「 峨 眉 積 雪 」、 或 い は「 白 雪

」 に 讃 え た 表 現 を 模 倣 し な が ら、 「 峨 眉 」 を「 芙 蓉 」 に 取 り 替 え た こ と に よ っ て 作 ら れ た 詩 句 で あ る

。この漢詩においては、荻生徂徠のことは、直接に日本一の名山たる富士山に比擬されている。また、徂徠が使う印鑑 の 一 つ は 「 芙 蓉 白 雪 」 で も あ る よ う に、 そ れ は 徂 徠 が 愛 用 す る 詩 語 で あ っ た

。 こ う し た「 芙 蓉 白 雪 」「 芙 蓉 積 雪 」 な ど の 詩 句は、模倣の技法と格調の詩風を重んじる「古文辞学」の特徴をよく表現しているので、徂徠とその弟子たちに愛用されて い る

。しかし、なぜ彼らはその「 党

」の「文 士

((

」の詩文に対して、これほどの自信を持っているのか。この問題は彼らの文 学観に関わるほか、十七、十八世紀東アジア漢文圏における政治と文化の情況の変化にも関わっている。

  まず、 「先王同文の治」 (太宰春台の語、後述)という伝統を共有する漢文圏においては、中国は長い間、 「文学」 (「文」 ) の中心として、絶えず「文」をその周辺に伝播していく。然るに、十七世紀前期の「華夷変態」が起こった後、日本では、 「 文 」 の 中 心 は す で に 転 移 し つ つ あ る と い う 主 張 が 出 て き た。 徂 徠 は そ の 一 人 で あ る

((

。 確 か に、 荻 生 徂 徠 を は じ め と し た 徂 徠 学 派 文 士 は 日 本 文 運 の 発 展 に 対 し て、 重 要 な 貢 献 を し て い た。 後 述 の よ う に、 十 一 回 目 の 朝 鮮 通 信 使 も そ れ を 認 め て い る

((

。しかし、東アジア漢文学史においては、徂徠学派の文学が一席を占めているのは、やはりその明代古文辞派との関連で 展開された「古文辞学」から理解すべきであろう。後述のように、この関連で、徂徠には日本こそ、これからの「文」の中 心になろうという意識が芽生えてきたのであろう。

  一方、同じく十八世紀前期に生きていた東アジアの文士たる申維翰(一六八一─?)も朝鮮人が「孔孟」と「洛閩」の教 えを継承するものという小中華意識を明確に持ってい る

((

。このように、十八世紀前期の日本と朝鮮の文士にとって、夷狄に 統 治 さ れ て い る 清 朝 中 国 と 比 べ れ ば、 日 本 或 い は 朝 鮮 こ そ、 漢 文 圏 の 中 心( 「 華 」「 文 」、 孔 孟 の 教 え の 継 承 者 ) た る べ き で ある。しかし、いずれが真の継承者になれるのか。そのライバル意識は外交のための詩文交流に現れているほかに、それぞ れの著作にも表現されている。

  ま ず、 朝 鮮 か ら 見 れ ば、 徳 川 日 本 の 情 況 は、 申 維 翰 が 指 摘 し た よ う に、 「 文 」 の 能 力 は 直 接 に 功 名 な ど に は 関 係 し て い な

(3)

((

。だから、徳川儒者がその「文」の能力を発揮できる場は、教育のほかに、外交しかないと言えるかもしれな い

((

。という のも、十八世紀の東アジア漢文圏においては、漢文は言語の差異を超えて、諸地域の人間がお互いに意思疎通ができる唯一 の手段と言えよう。荻生徂徠も、現在、文士の文学的才能が発揮できる場は「外交」しかないと考えてい る

((

。しかも、彼か ら 見 れ ば、 日 本 に と っ て、 も っ と も 重 要 な 外 交 相 手 は ま さ に 朝 鮮 で あ る

((

。 そ れ ゆ え に、 朝 鮮 通 信 使 を 接 待 し て、 彼 ら と 筆 談、唱和することは、多くの徳川儒者にとって、重要な仕事になっている。朝鮮通信使によってその詩文が評価されたこと も ま た、 大 部 分 の 儒 者 に と っ て、 う れ し い こ と だ っ た と 理 解 で き よ う。 例 え ば、 申 維 翰 に よ れ ば、 日 本 は「 中 華 」 と「 絶 遠 」 し な が ら も「 精 華 の 地 」 に 生 長 し て、 「 文 字 の 貴 ぶ べ き 」 こ と を 知 る 同 文 化 圏 で あ る 故 に、 「 我 国 詩 文 」 を 求 め る 「 日 本 」 人 は、 「 貴 賎 賢 愚 」 の 関 係 な く、 わ れ わ れ を「 神 仙 の 如 く 」 仰 ぎ、 わ れ わ れ が 作 っ た 詩 文 を 「 珠 玉 」 の よ う に 大 事 し て い る

((

。しかし、後述のように、江戸時代の文士は必ずしも、皆が通信使を「神仙の如く」仰ぐのではなかった。反対に、彼 らは詩賦外交という伝統を有する漢文圏において、外国から来た使節と対等に交流ないし競争しようとしていた。特に、荻 生徂徠を初めとした徂徠学派文士はそういうふうに望んでいた。山県周南に言わせれば、秦漢以前の士大夫のように、 「使」 (外交使者)は「士の専務」である(

る行動になる場合もあるはずである。 躍していた遣唐使に演じられる舞台を求めている。だが、擬古は単なる創作意識に関わる演技ではなく、現実の政治に関わ

((

)。擬古主義の関連からいうと、彼らは中国春秋戦国時代の外交使節、或いは唐で活   それゆえに、拙稿は従来の通信使研究が重んじる善鄰と友好という「和」の面だけではなく、詩文による競爭の面をも重 視する。こうした視点から、徂徠学派の文士は 「 古文辞学 」 の立場から、第八次(辛卯、一七一一)から第十一次(甲申、 一七六四)の朝鮮通信使とどのように筆談と漢詩文の唱和をしていたか、特に彼らはどのような詩文の批評、学問の議論を 行っていたかを検討する。さらに、こうした考察を踏まえ、東アジア漢文学における「古文辞学」の展開、及び徂徠学派文 士と朝鮮通信使との交流行動が持つ意味を考える(

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)。

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一   徂徠学派文士と正徳度朝鮮通信使 ─ 『問槎畸賞』をめぐって   荻 生 徂 徠 の 生 涯 に は、 三 度 の 朝 鮮 通 信 使 の 来 聘 が あ っ た。 一 回 目 は 天 和 二 年( 壬 戌、 一 六 八 二 )、 二 回 目 は 正 徳 元 年( 辛 卯、 一 七 一 一 )、 三 回 目 は 享 保 四 年( 己 亥、 一 七 一 九 ) で あ る。 天 和 度 朝 鮮 通 信 使( 一 六 八 二 ) は 五 代 將 軍 徳 川 綱 吉 の 襲 職 を 祝 賀 す る た め に 来 た の で、 今 回 の 使 節 と 詩 の 唱 和 を し た 日 本 の 文 士 は 林 家 儒 者 以 外、 木 下 順 庵 と そ の 門 下 生( 以 下、 「 木 門文士」と略)だけであった。この時、荻生徂徠は南総に流放されているので、会うことができなかった。

  そ れ に 対 し て、 徂 徠 が 最 初 に 通 信 使 の 行 列 の 見 物 を し た の は 正 徳 元 年、 家 宣 襲 封 祝 賀 の た め に 来 日 し た 正 徳 度 通 信 使 で あった。その時、彼は「古文辞学」を唱え始めていた。にもかかわらず、彼は通信使たちとの漢詩文の応酬には行かなかっ た。その理由は、 「 輦上君子 」(新井白石)の命令で 「 陪臣処士 」 が勝手に朝鮮通信使に会って漢詩文のやり取りをすること は許されていなかったからであ る

((

。実際、その時、木門の新井白石はすでに政治の実権を握り、朝鮮通信使関係の業務を主 導している。しかも、彼は後に、中後期の通信使にもっともその名を知られた日本文士になってい る

((

。しかし、徂徠門下の 萩藩の藩士たる山県周南とその友人たる入江若水などは、正徳元年来聘の通信使と直接に漢詩文の応酬をしていた。徂徠は これらの周りの友人と弟子たちからある程度その情況を把握してい た

((

  実際、正徳元年来聘の朝鮮通信使節団と日本文士との間には盛んに筆談と唱和が行われていたので、多くの筆談唱和集が 編 纂、 出 版 さ れ た。 し か し、 仁 斎 学 派 に 属 す る 瀬 尾 維 賢 に よ っ て 編 纂 さ れ た『 雞 林 唱 和 集 』 に は、 一 部 の 山 県 周 南 の 詩 以 外、安藤東野など徂徠学派の唱和詩は全部収録されていない。これは徂徠一門には不快に感じた。さらに、その続編『七家 唱和集』にも、木下順庵の門生の詩だけが収録され た

((

。だから、正徳二年、徂徠の門人によって『問槎畸賞』と『廣陵問槎 録』が編纂され、出版された。それには、専ら徂徠学派文士及びその周辺詩人と朝鮮通信使との筆談と唱和詩が収録されて

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いる。この節では、主として『問槎畸賞』を材料にして、徂徠学派文士と通信使との詩文における交流と競爭を検討する。

信使詩文の醜さを喩えたことによって、世間の注意を惹き、徂徠一門の知名度を高めようとしたのであろ う

((

  『 問 槎 畸 賞 』 は そ の 書 名 の 如 く、 主 と し て『 荘 子 』「 徳 充 符 篇 」 に お け る「 支 離 疏 」「 哀 駘 它 」 な ど の 畸 形 の イ メ ー ジ で 通

。まず、徂徠は 入江若水の書信から、長州の赤間関において、朝鮮通信使と山県周南との詩文應酬が雨森芳洲に褒められたことを知った。 それで、徂徠が周南に宛てた書信( 「與県次公

も、その弟子の詩が「海西無双」と褒められたことをうれしく思ってい る

((

」)によれば、彼は雨森芳洲は周南の詩を批評する資格がないと思いながら

。徂徠は周南の詩について、王維と李白にも評さ れ た「 晁 卿 」( 阿 部 仲 麻 呂 ) が 作 っ た よ う な「 芙 蓉 白 雪 」 の 色 を 持 つ 詩 に 喩 え た だ け で は な く、 そ の 表 現 を「 赤 関 の 捷 」 と も評してい る

((

。さらに、 「與県次公

((

酬 」 と 詠 え、 「 白 雪 」 と い う 詩 語 を 再 び 登 場 さ せ て、 周 南 の 高 雅 的 な 詩 句 が 朝 鮮 通 信 使 の 詩 よ り 優 れ て い る と、 形 容 し て い

」を書いた同年に、徂徠は周南に一首の漢詩を送り、 「一歌白雪動高秋、槎客如雲不敢

。ほかの書信に於いても、周南が作った漢詩は盛唐詩と区別できないほど素晴らしいと、称讃してい る

((

。このように、徂 徠 か ら 見 れ ば、 『 問 槎 畸 賞 』 に 収 録 さ れ た 徂 徠 学 派 文 士 の 詩 は「 芙 蓉 白 雪 の 色 」 を 持 ち、 阿 倍 仲 麻 呂 が 作 っ た 詩 と 比 べ て も、少しも遜色がな い

((

  一 方、 彼 は 通 信 使 の 詩 を 厳 し い 目 で 見 て い る。 例 え ば、 『 問 槎 畸 賞 』 の 初 頭 に 置 か れ た 漢 詩 に、 山 県 周 南 が 作 っ た「 奉 呈 龍 湖 厳 公 案 下

((

」( 現 場 で 詠 ん だ も の で は な く、 作 っ た 後 に 通 信 使 に 呈 し た 詩 で あ る ) と い う 詩 が あ る。 そ の 詩 は 次 の よ う で ある。

赤目関西玉樹秋、長風吹送木蘭舟。 誰知海上蓬壼月、總入詩人脾裏流。

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また、その詩の後に、通信使「龍湖」が唱和した「奉和周南示韻」が排列されている 。

橘樹楓林海上秋、滄洲斜日住歸舟。 仙區到處窮探勝、歴盡驚濤似穩流。

この唱和詩に対して、徂徠は「早知龍湖敵不過」と評してい る

((

。しかし、徂徠の批評基準は何であろうか。基本的には、格 律から言うと、その二つの詩はともに、七言絕句の仄起格平声韻になっている。龍湖の詩の格律は完全に基本の格式に合っ て い る の に 対 し て、 周 南 の 詩 の 第 四 句 は 変 格 に な っ て い る。 し か し、 格 律 の 正 確 さ は お そ ら く そ の 主 要 な 批 評 基 準 で は な く、 そ れ は や は り 詩 句 全 体 が 持 つ「 格 調 」 の こ と だ と 思 わ れ る。 周 南 の 詩 の「 格 調 」 は 明 ら か に 擬 唐 詩 で、 「 関 西 」 な ど の 辺 塞 詩 と、 「 玉 樹 」「 蓬 壺 」「 木 蘭 舟 」 等 の 盛 唐 詩 の 辞 を 多 用 し て い る。 彼 は そ れ に よ っ て、 雄 麗 の 気 象 を 営 造 し よ う と し て い る。 そ の う ち、 「 蓬 壺 」 は 李 白 が 作 っ た「 哭 晁 卿 衡 」 と い う 詩 の 辞 で あ る。 こ う し た 観 点 か ら 見 れ ば、 確 か に 龍 湖 の 詩 は 宋詩の如く、叙述的な語調になっている。だから、徂徠は「與県次公

開、 馬 島 風 煙 伯 仲 間 」 に 対 し て も、 醜 く て 「 宋 人 」 の 詩 の よ う だ と 評 し て い る

((

を襲う卑靡の詩だと見下している。その批評の基準は右の如く、李東郭の「奉席上諸詞伯」という詩の詩句「日東形勝両雄

」に、 「西人詩」 (朝鮮通信使の詩)が「宋元の旧」

。 別 の 詩 句 に 対 し て も、 「 甚 だ し く 俚 俗 」 だ というコメントをし た

((

。さらに、朝鮮使者の詩には「懦色」を持つという周南のコメントに対して、徂徠は「一語道破」と 首肯し た

((

  そ れ に 対 し て、 徂 徠 は「 格 調 」、 明 代 古 文 辞 派 か ら 継 承 し た 擬 唐 詩 の 観 点 か ら、 周 南 の 詩 を 極 め て 高 く 評 価 し て い る。 例 えば、周南が雨森芳洲に託して李東郭に呈した十首の詩における第二首の七言律 詩

((

に対して、徂徠は「大氐次公七律色沢似 仲 黙、 神 理 肖 于 鱗、 而 骨 格 原 諸 右 丞、 所 以 為 妙

((

」 と、 評 し て い る。 つ ま り、 徂 徠 は「 色 沢 」「 神 理 」「 骨 格 」( 詩 の 句 法 と 格

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式など声律の問題を指している)など、多面的に「格調」の次元でその詩を評価している。そのほかに、いちいち挙げる余 裕がないが、徂徠は周南が作った詩に対して、 「雄麗無 比

((

」、 「大得盛唐妙 境

((

」と、 「七言歌行之妙、弇州後當属斯 人

((

」と評価 し て い る。 す な わ ち、 徂 徠 か ら 見 れ ば、 山 県 周 南 の 詩 は「 右 丞 」( 王 維 ) の よ う な 盛 唐 詩 人、 或 い は 明 代 復 古 派 の 何 景 明 (仲黙) 、李于鱗、王世貞( 「元美」 )が作った「格調」を重んじる詩風になってい る

((

  右 の よ う に、 周 南 は 徂 徠 の 古 文 辞 学 を 正 面 か ら 受 け 止 め て、 「 芙 蓉 白 雪 の 色 」 を も つ 詩 文 を 作 る こ と が で き た。 そ れ 故 に、通信使と筆談をしていた時、彼は次のように、簡潔に「古文辞学」的な詩文観を敷衍していた。

六 経 古 史 而 降、 歴 代 之 文、 先 儒 具 有 評 論。 唐 宋 之 間、 文 学 益 盛、 良 工 巨 匠、 比 跡 輩 出、 其 中 詩 有 李 杜 蘇 黄、 文 有 八 大 家。……迄至明時、有四傑者出焉、専以古文為号、王李為盛。風格体裁非復四子八家之旧、而英発超邁、巍然卓出。又 袁中郎、鍾伯敬之徒、自撰規則、別建一家以不践前古之跡為 美

((

この文はおそらく、徂徠学派の詩文観がもっとも早く出版物に掲載されたものかもしれない。ともかく、周南は右の議論を 踏まえて通信使に対して「今之盛者、在唐宋耶、在明諸子 耶

((

」という質問をした。だが、通信使からの答えはなかった。

  に も か か わ ら ず、 明 代 の 李 王 の 詩 文 を 尊 ぶ「 古 文 辞 学 」 の 展 開 と い う 観 点 か ら 見 れ ば、 『 問 槎 畸 賞 』 か ら 次 の よ う な 意 義 が 読 み 取 れ よ う。 ま ず、 『 問 槎 畸 賞 』 に は、 一 番 重 要 な の は、 や は り、 両 方 の 詩 作 に 対 す る 徂 徠 が 加 え た コ メ ン ト で は な い か。というのも、そのコメントはその詩論を表現しているだけではなく、日本内部に存在するほかの党派の詩人に対する挑 戦の意味をも持っている。徂徠たちが特に意識している相手はやはり、木門の詩人であろ う

((

。ただし、徂徠と木門詩人との 関 係 は 友 人 で あ り な が ら も、 ラ イ バ ル で も あ る。 こ の よ う に、 徂 徠 の 門 人 た ち が 通 信 使 と 筆 談、 唱 和 し て い る 時 は、 そ の 「党」としての繋がりとその文学的特質を強調している。この意味で、 『問槎畸賞』はある種の「古文辞学」の学派成立の宣

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言 書 と い う 面 を 持 っ て い る と 言 え よ う。 こ の 点 と 関 連 し て、 す で に 指 摘 さ れ て い る よ う に、 『 問 槎 畸 賞 』 の 出 版 に は、 成 立 したばかりの徂徠の私塾の宣伝も兼ねていたのであろ う

((

  さ ら に、 『 問 槎 畸 賞 』 に も 収 録 さ れ た 入 江 若 水 宛 の 書 簡 に よ れ ば、 朝 鮮 が「 吾 猿 面 王 」( 豊 臣 秀 吉 ) に 負 け た の で、 「 文 」 で日本を凌ぐために、特別に優秀な詩才をもつ人を通信使に選抜して来日させたのだと、徂徠は見てい る

((

。そもそも、朝鮮 王朝の「文」が優れていることは、江戸時代の文士たちの共通認識とも言える。徂徠はむろん、それを認めている。徂徠か ら見れば、朝鮮の「文」が優れた原因は、朝鮮は中国の春秋戦国時代の晋・楚のような大国に挟まれた鄭国のような小国な ので、外交辞令といった「文」の要素を特に重視している、という理解であっ た

((

。しかし、既述のように、徂徠は「芙蓉白 雪 の 色 」 を 持 つ 徂 徠 学 派 の 擬 盛 唐 詩 は 通 信 使 ら が 作 っ た 宋 調 的 な 詩 よ り 優 れ て い る と、 見 て い る。 こ の よ う に、 『 問 槎 畸 賞』からある種の詩文論による徂徠の自負、すなわち朝鮮に対する日本の「文」における優越意識が読み取れる。そうであ るから、彼は通信使にその詩文が評されたことですぐ有頂天になっている日本文士の表現を非常に嫌がってい た

((

。しかし、 通信使は彼らの文学に対して、それほど関心を持っていなかったようである。実際、正徳元年来聘した朝鮮通信使の日記な どを見ると、趙泰億の『東槎録』には「次贈周南平孝孺」という詩が載せられている以 外

((

、殆ど徂徠学派に関する記述は見 当たらない。

  にもかかわらず、徂徠自身とその弟子たちが明代古文辞派の文学論を継承する意識から見れば、徂徠は徂徠一門が日本だ けではなく、東アジア漢文圏全体において、重要な一席を占めようとする望みを持っていることも窺えよう。こうした「古 文 辞 学 」 的 な 文 学 論 か ら 生 じ た 優 越 意 識 は ま た、 東 ア ジ ア の 漢 文 学 史 上、 日 本 文 士 が 朝 鮮 詩 文 に 対 し て 軽 蔑 の 目 で 見 な が ら、 日 本 の「 文 」 に 対 す る 自 負 を 持 つ よ う に な る 転 換 点 と 言 え る か も し れ な い。 実 際、 『 問 槎 畸 賞 』 が 刊 行 さ れ た 一 年 後、 徂徠は「大東文章竢我以興、今日之盛、振古所無」と述べてい る

((

。こうした自負と期待を有しながら、彼らは享保四年に来 聘した通信使節団を迎えた。

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二   徂徠学派文士と享保度朝鮮通信使 ─ 『客館璀粲集』 『信陽山人韓館倡和稿』をめぐって   荻 生 徂 徠 は、 享 保 四 年 に 來 聘 の 通 信 使 と 初 対 面 し た よ う で あ る。 後 に、 彼 は「 贈 朝 鮮 使 序 」 と い う 文 章 を 書 い た が、 《 徂 徠集》には収録されなかっ た

((

。その文には、徂徠は「今歳己亥某号申君從聘以來、而余始獲偕二三子就見於其館」とある。 こ の 文 章 に 言 う「 申 君 」 と は、 享 保 度 通 信 使 団 の 制 述 官 た る 申 維 翰( 号 は 青 泉 ) を 指 し て い る は ず で あ る( 後 述 )。 と も か く、以下、申維翰を中心に、議論を進める。

  ま ず、 尾 張 の 藩 士 で あ る 木 下 蘭 皐 は 徂 徠 学 派 の 一 員 で あ る

((

。 享 保 四 年( 一 七 一 九 ) の 時 に 通 信 使 を 接 待 し て『 客 館 璀 粲 集』という筆談唱和集を残した。通信使の帰りに、蘭皐は再び申維翰と会った時、徂徠の古文辞学について、次のように述 べている。

東都有徂徠先生者夙務古文辞之学、非姫公宣父之書不涉於目、非左馬班楊之策不発干笥、非騒選李杜之篇不歴干思。蓋 斉功於明李献吉矣。先生嘗謂文章之道達意修辞二派発自聖言、其実両者相須、非修辞則意不得達、故三代時二派未嘗分 別 也。 東 京 偏 修 辞 而 達 意 一 派 寥 寥、 六 朝 浮 靡 至 唐 而 極 矣。 故 韓 柳 以 達 意 振 之、 宇 宙 一 新、 至 欧 蘇 又 衰、 降 迨 元 明 再 極 矣。時有出李于鱗王元美者焉、専以修辞振之、一以古為則可謂大豪傑矣。故評隲西京下文人唐取韓柳、明取王李為是故 也。余遊其門、受其書読之甚驩、今者執簡之士莫不趨風而宗之矣。貴邦文華之隆幾不譲中国尚矣。今之操觚之家法宋元 之旧耶、在明世諸 家

((

こ れ は ま と ま っ て い る「 古 文 辞 の 学 」 の 紹 介 文 と 言 え よ う。 こ の 文 に よ れ ば、 前 回 の 正 徳 度 朝 鮮 通 信 使 が 来 た 頃 と は 異 な

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り、 徂 徠 の 学 說 は す で に 日 本 で は 相 当 に 流 行 っ て い た。 申 維 翰 が 聞 い た 後 も、 「 徂 徠 先 生 姓 諱 亦 未 聞、 而 其 論 古 文 辞 意 達 辞 修 二 段、 大 令 人 躍 然 稱 快 」 と 答 え て か ら、 李 朝 の 文 士 が「 儒 道 」 を 尊 ぶ 故 に、 そ の 文 に は「 宋 習 」 を 持 っ て い る こ と と、 「 王 李 の 文 」 を 専 攻 す る 人 は か な り 少 な い と い う よ う な 説 明 を し た

((

。 だ が、 彼 自 身 は そ の 少 数 派 の 一 人 と 言 え る。 と い う の も、 李 瀰 が 申 維 翰 の 著 作 た る『 青 泉 集 』「 序 」 に お い て、 申 維 翰 に つ い て、 そ の「 文 」 は「 弇 山 稿 」 と「 並 驅 の 意 」 を 持 ち、その「詩」は「李于鱗」を「準」としてい る

((

。実際、申維翰の文集を読んでみたら、確かに時には徂徠学派文士の文集 を読んだかのように錯覚した。ともかく、ほかの享保度通信使と比べれば、申維翰は確かに李王の学に対して比較的に深い 理 解 を し て い る。 彼 は 当 時、 「 李 王 を 模 し て 文 名 を 博 し 」 た 朝 鮮 の 古 文 辞 派 の 代 表 者 と も 言 わ れ て い る

((

。 そ れ な の に、 彼 が 書いた著名な『海遊録』には、徂徠は言及されていない。

   し か し、 申 維 翰 は 蘭 皐 と の 筆 談 に お い て、 蘭 皐 の 贈 っ た 詩 文 に 対 し て、 「 未 見 足 下 先 得 仙 人 篇、 絶 驚 有 古 調、 疑 其 曉 漢 音、 而 及 見 之、 聽 其 語 言 乃 信 然

((

」 と 述 べ て い る。 蘭 皐 は 確 か に、 「 唐 語 」 で 通 信 使 と 会 話 を し て み た

((

。 そ し て、 彼 の 詩 に は 次のようなものがある。

玉京仙人御六龍、翺翔遠欲窮扶桑。 夜半東南日毬躍、大海涌動碎琳琅。 倏忽騁轡凌紫虛、朝餐石髓暮瓊漿。

両神女吹風簫、雲間飄颻素霓裳。 俯観蓬萊五雲簇、少時停駕上高堂。 珊瑚寶玦輝玳筵、仙人解顏共壺觴。 左把芙蓉右弄芝、咳唾成丹薄玉床。

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雲気聚散何容易、空望窈冥心欲狂。 願使吾輩生羽翼、翻跡長隨崑崙 岡

((

  こ れ は 平 声 陽 韻 を 押 し た 擬 漢 魏 古 詩 で あ る。 格 調 を 重 ん じ る 徂 徠 学 派 の 詩 風 を よ く 表 現 し て い る。 申 維 翰 は こ の「 仙 人 篇」について、 「漢音」を知る観点から、 「古調」を持つことを褒めている。これについて、彼が蘭皐のために書いた「玉壺 詩稿序」にも「其言用華語、其読書用華音、其志慕華人」と述べてい る

((

。これは実は、華から夷を見る態度で成された評価 であり、申維翰がもつ「小中華意識」を表している。

  実際、蘭皐との筆談において、申維翰は明確に日本文士の「唱和筆談」の 「 文理脈絡 」 が分かりにくいところが多いこと や「 声 律 」 が 習 熟 し て い な い こ と な ど、 そ の 原 因 を 彼 な り に 説 明 し て い る

((

。 こ の 点 に つ い て、 『 海 游 録 』 で、 彼 は よ り 詳 し くその意見を披露している。その意見によれば、日本の文学マーケットの情況は当時の朝鮮と比べればよりよいし、当時の 日本には科挙がない故に、日本文士の批評の目は鋭いが、日本語と習俗の影響によって、その詩の声律には間違いが多く、 語順がよく転倒してい る

((

  だ か ら、 彼 は 蘭 皐 の「 仙 人 篇 」 を 褒 め て も、 『 海 游 録 』 の な か で 徂 徠 学 派 の 文 学 的 主 張 に つ い て 殆 ど 言 及 し な か っ た

((

。 と は い え、 申 は、 「 日 本 為 文 者、 皆 以 八 大 家 文 抄、 読 習 専 尚 …… 間 有 人 以 書 來 問 曰、 皇 明 王 李 諸 家、 與 欧 蘇 孰 賢 云 云、 而 渠 輩 学習明人者。亦未之見也」と述べてい る

((

。この文は、木下蘭皐、或いはほかの徂徠学派文士のことを言っているではないか と 推 測 で き る。 た だ し、 「 渠 輩 学 習 明 人 者、 亦 未 之 見 也 」 と い う 申 の 発 言 は か な り 疑 わ し い と 思 わ れ る。 と い う の も、 既 述 の よ う に、 木 下 蘭 皐 と の 筆 談 に お い て、 蘭 皐 は す で に そ の 師 た る 荻 生 徂 徠 が 明 代 李・ 王 の 学 を 尊 ぶ こ と を 伝 え た は ず で あ る。さらに、申との筆談において、蘭皐は、

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余 於 詩 道、 古 必 尚 漢 魏、 近 體 必 盛 唐、 且 慕 明 李 王 等 七 子。 未 嘗 学 大 暦 以 來 倣 西 崑 體 者 所 為 矣。 元 瑞 云: 「 詩 歌 之 道 一 盛 於漢、再盛於唐、又再盛明」 。余謂確論 也

((

とも述べている。そうであるならば、なぜ申維翰は明代李・王など七子の詩文を尊ぶ徂徠学派詩論を無視したのか。

  こ の 疑 問 と 関 連 し て、 申 維 翰 は 木 下 蘭 皐 ら が ど れ ほ ど「 漢 音 」「 古 調 」 を 知 っ て い た か ど う か に つ い て、 お そ ら く 疑 問 を 持ったはずである。例えば、彼が朝鮮に帰ってから書いた『海游録』で、その疑いと推測を表明した。

日本人與余対坐酬唱者率多粗疏、遁塞、語無倫序、或見其橐中私藁、時有一句一聯之最佳者、観席上所賦全是天壤。余 意南京海賈每以書籍來販於長崎島、故順治以後、江南才子之詩集多在日本、而為我人所以未見者。則彼或暗偸狐白、而 取媚於秦姬者 歟

((

  つまり、彼は日本文士が直接に対面の時に唱和の詩と事前に作っておいた詩稿との間にはかなりの差があることを気づい た。例えば、前述の蘭皐の「仙人篇」は事前に作っておいた詩作である。申の推測によれば、それはおそらく日本の文士が 朝鮮では見ることのできない清朝順治以後の中国江南才子の詩作を模倣、剽窃したものかもしれない。これは合理的な疑い と言えよう。しかし、朝鮮通信使が詩を作る速さと格律の正確性などを重んじるのに対して、徂徠一門の文士はより詩の格 調 の 問 題 を 重 視 し て い る。 そ し て、 格 調 を 持 つ 詩 は も と よ り 模 倣 と 剽 窃 の 技 法 を 使 う の で あ ろ う。 に も か か わ ら ず、 明 代 李・王の学にも共鳴する申維翰が十八世紀日本漢文学の発展を、中国の江南才子の詩文に対する剽竊だというように理解し ている。これはおそらく申維翰の 「 小中華意識 」 に基づいた合理的な判断であるが、こうした判断によって、せっかく朝鮮 と日本における李王の文学の擁護者が出会ったのに、更なる文学交流が出来なかった。

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  それに対して、既述のように、徂徠の「贈朝鮮使者序」という草稿には、申維翰と会ったことが書かれている。しかし、 こ の 二 人 は 直 接 に 筆 談 と 唱 和 を し な っ た よ う で あ る。 『 海 游 録 』 に も 徂 徠 の こ と は 言 及 さ れ て い な い。 と も か く、 徂 徠 か ら 見れば、朝鮮が特に詩が出来る人才を外交使節として選んで来日させたことは詩賦外交という漢文圏の伝統たる「古道」に 相 応 し い こ と で あ る

((

。 お そ ら く、 徂 徠 は 彼 個 人 の 学 問 の 成 熟 に 従 い、 こ う し た 伝 統 に 対 す る 意 識 か ら、 過 去 の 競 争 心( 「 客 気 」) を 抑 え、 よ り 正 面 か ら 通 信 使 と の 唱 和 の 意 義 を 理 解 し て い る よ う で あ る。 つ ま り、 徂 徠 に と っ て、 通 信 使 は た だ、 詩 文を競うライバルだけではなく、 「晁卿の交」 (盛唐期、阿部仲麻呂と李白、王維などの中国詩人との交流)を実現する相手 でもある。

  実際、徂徠の弟子たる太宰春台もこのような「古道」の観点から朝鮮通信使との漢詩外交を見ている。申維翰を始めとし て、享保四年に来聘した朝鮮通信使団は江戸に来たとき、岡島冠山という徂徠学派周辺の人と筆談、唱和したほかに、徂徠 の弟子たる太宰春台、 「石叔潭」 (石川大凡) 、「須溪秋子師」 (秋元澹園) 、「原泉稻有伯」 (稲富原泉)らと、東本願寺におい て 筆 談 と 唱 和 を 行 な っ た。 そ の と き 太 宰 春 台 は、 『 信 陽 山 人 韓 館 倡 和 稿

((

』 と い う 著 作 を 遺 し た。 そ の『 唱 和 稿 』 に 記 載 さ れ た筆談によれば、春台は、荻生徂徠に従って「古文辞」を学ぶことを表明している。しかし、その序言によれば、当日、申 維翰とほかの三名の書記官は林家儒者と会うために、彼らとの筆談の時間を短くして簡単に済ませて、その場で唱和するこ とはできなかった。彼らにとって、実に不愉快な経験であった。そのために、春台は雨森芳洲に託して、すでに作った古詩 と五篇の「序」を書き、使節団のメンバーに送った。その内に、春台が申維翰に送った「奉送朝鮮製述青泉申公序」という 文章がある。朝鮮通信使と唱和した日本各地の文士の多くは通信使たちが詩を作るスピードの速さ( 「善詩與其敏捷難當」 ) を 賞 賛 し て い る の に 対 し て、 春 台 は 古 代 中 国 の 礼 楽 政 治 の 視 点、 「 賦 詩 言 志 」 と い う 伝 統 に お い て は、 外 交 の 場 に お け る 「 賦 詩 」 は 主 と し て「 雅 頌 の 言 を 誦 む 」 べ き で あ り、 詩 作 の 多 さ と 早 さ な ど を 競 争 す る の で は な い は ず で あ る

((

。 春 台 は こ う した観点から通信使が現場で、その詩を唱和しないことに対して遺憾の意を表した。

(14)

  さらに、春台は「奉送朝鮮從事記室菊溪張公序」において、通信使節団に、 「吾党の士」 (徂徠学派)は「先王礼楽」の習 得 者 と 伝 承 者 で あ る こ と を 表 明 し、 ま た、 日 本 と 朝 鮮 は 同 じ く「 「 先 王 同 文 の 治 」 を 受 け、 同 一 文 化 圏 に 属 し て い る こ と を 主 張 し て い る

((

。 春 台 は こ う し た 考 え を 踏 ま え て、 あ る 種 の 漢 文 文 化 圏 の 発 想 を 表 明 し た だ け で は な く、 「 先 王 礼 楽 」 を 習 得 した「吾党の士」の文学の、日本乃至漢文文化圏全体における重要性を主張している。右のように、通信使と交流経験を持 つほかの徂徠学派文士と比べれば、春台の発言の特徴はこういう彼が持つ「先王礼楽」の知識に対する自負と言えよう。こ うした自負で、春台は日本人にとって、漢文で書かれた 「 先王礼楽 」 の学びは言うまでもなく可能であるだけではなく、そ れを実践して徳川日本の風俗を改めれば、徳川日本の民を 「 三代の民 」 に変えることさえ可能だと考えてい る

((

  ともかく、徂徠学派の文士は江戶と尾張(名古屋)などで、享保四年に來聘した通信使と筆談、並びに詩文の交換などを し て い た。 た だ、 前 回 と 異 な り、 彼 ら は「 古 文 辞 学 」 を 強 調 し て 宋 学 を 批 判 し た だ け で は な く、 「 賦 詩 言 志 」 と い う 伝 統 の 視 点 か ら 通 信 使 の 詩 文 を 見 る よ う に な っ て い る。 こ れ は 実 は、 徂 徠 学 派 の 学 問 が 「 古 文 辞 学 」( 漢 文 学 ) か ら 「 礼 楽 」( 経 学、政治学)への展開と平行しているとも言える。しかし、三代の詩賦外交という伝統はいかに理解すべきであろうか。そ のポイントは交流( 「和」 )の面にあるのか、それとも競争の面にあるのか。その理解にはやはり個人差があると思われる。 つまり、春台はより「和」の面を重んじるのに対して、徂徠は競争の面をより強調しているようである。

  実際、徂徠は「世治競於文、乱乃武爭」という考えを持ってい る

((

。彼がいう「晁卿の交」もまた、弟子たちが阿部仲麻呂 の よ う に、 国 際 交 流 の 場 に お い て、 「 文 」 の 能 力 に よ っ て 評 価 さ れ る た め の 励 ま し の 言 葉 と 言 え る。 外 交 は 確 か に、 日 本 の 文士がその才能を発揮できる少数の分野の一つであろう。徂徠一門は外交分野で、その才能を貢献しようとしている。次に 述べるように、萩藩に勤 める山県周南とその弟子たちはそういう機会に恵まれていた。

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三   徂徠学派文士と寛延度朝鮮通信使 ─ 『長門戊辰問槎』 『来庭集』をめぐって   寛 延 元 年( 一 七 四 八 )、 朝 鮮 通 信 使 は ほ ぼ 三 十 年 ぶ り に、 来 聘 し た。 例 年 の よ う に、 萩 藩 の 儒 者 た ち は 赤 間 関 で 通 信 使 を 迎 え て 筆 談、 唱 和 を し て い た。 こ の と き、 『 長 門 戊 辰 問 槎 』 と い う 著 作 が 編 纂 さ れ た。 そ れ に よ れ ば、 筆 談 に お い て、 製 述 官の朴矩軒は山県周南の弟子たる山根華陽との間に、申維翰の近況、その唱和詩の出版情況などについて、いろいろ情報を 交わしてい た

((

。彼はまた、同じく周南の弟子たる小田村鄜山に、日本に来る前にすでに申維翰に日本の「文華」情況につい て伺ったが、三十年が過ぎたので、現在、誰が学界の牛耳を取っているか、新井白石の門人は活躍しているかといった質問 をし た

((

。鄜山は次のように答えている。

四十年前有徂徠者以復古之学独歩海内、従遊如雲。嚆矢其間、東都有南郭春台、我藩有周南、皆経学文章窺其薀 奥

((

鄜山の目から見ると、当代文学の風雲児は当然、徂徠学派の文士である。しかし、こうした答えを聞いた後、朴矩軒は徂徠 学派の学問を理解する気がなかったようで、さらに進んで質問をしなかった。とはいえ、後述のように、それ以後の旅程に 伴い、江戸で、松崎観海らとの筆談によって、徂徠の学問にかかわる認識を深めていく。

  右 の 引 用 文 で は も う 一 つ の 注 目 す べ き と こ ろ が あ る。 そ れ は 服 部 と 春 台 を 代 表 に し た 一 般 的 な 徂 徠 学 派 論 と は や や 異 な り、自らの師である周南を徂徠の「復古の学」を継承した重要メンバーとして強調したことである。しかも、山根華陽が指 摘 し て い る よ う に、 徂 徠 が 勃 興 し た 後 の 日 本 で は、 「 文 柄 」 を 握 る 人 物 は 服 部 南 郭 と 太 宰 春 台 と 山 県 周 南 な ど 二、 三 人 だ け で、そのなかで政治に関与できる人は実は周南だけであ る

((

。周南は確かに、積極的に萩藩の教育と外交に携わっていた。彼 の弟子と孫弟子たちも、通信使の接待役などとして活躍していた。そして、徂徠の孫弟子世代になると、李王の文章だけで

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はなく、徂徠と周南の文章それ自体が模倣の対象になっている。これは実は枚挙にいとまがないが、例えば、小田村鄜山は 「 済庵李公案下 」 という詩に、 「 三韓仙使木蘭舟、錦纜牙檣紫気流 」 と詠み、李攀龍が愛用する 「 紫気 」 だけではなく、周南 が使った 「 木蘭舟 」 をも使ってあ る

((

、或いは山根華陽は 「 祥雲護送木蘭 船

((

」、 「 泱映何者表東海、唯有芙蓉白雪 浮

((

」 とも詠ん で い る。 こ の よ う に、 「 紫 気 」「 木 蘭 舟 」、 或 い は「 芙 蓉 白 雪 」 な ど の 表 現 は 徂 徠 学 派 文 士 が 作 っ た 漢 詩 に 繰 り 返 し 出 て く る。この面から見れば、 「古文辞学」がいかに徳川の現実外交にかかわっていたかが窺えよう。

  一 方、 太 宰 春 台 の 弟 子 で、 篠 山 藩 に 仕 え た 松 崎 観 海 も、 寛 延 度 の 朝 鮮 通 信 使 と 筆 談、 唱 和 を し て、 『 来 庭 集 』 と い う 著 作 を残した。彼は通信使たちに、徂徠と春台の著作を推薦して、お読みになったかと伺ったが、書記の李済菴は 「 得尽見之 」 と答えてごまかし た

((

。だが、実際は読んだはずがないので、観海は、別の日に再会した時、李・王の詩などについて意見を 交 わ し た 後、 も う 一 回 伺 っ た。 今 度、 李 済 菴 は よ う や く 春 台 の 著 作 と 徂 徠 の『 弁 道 』『 弁 名 』 を 読 ん だ こ と が な い と 認 め た。 そ れ に よ っ て、 観 海 は 対 馬 の 以 酊 庵 長 老 の 僧 承 堅 を 通 し て、 徂 徠 の『 弁 道 』『 弁 名 』 を 通 信 使 に 送 る よ う に す る と 約 束 を し て か ら、 「 古 文 辞 学 」 に よ る「 宋 学 」 批 判 を 展 開 し て い る。 だ が、 学 問 方 法 論 と し て の「 古 文 辞 学 」 が「 陸 王 」 の 思 想 とは異なっているのに、寛延度の通信使たちはやはり徂徠のことに対して、伊藤仁斎と一緒に、王陽明のような異端と捉え てい る

((

。それに対して、後に、観海が李済菴に宛てた手紙に、観海は差異を重んじる徂徠の道論を踏まえて 「 人人各以所見 為道 」 と言い、ある種の相対主義的な立場から、通信使がもつ 「 党同伐異 」 というような原理主義的な思惟を戒めてい る

((

。 さらに、 「 本朝之美 」 を紹介する立場で、経典解釈方法としての 「 古文辞学 」 を詳しく紹介してい た

((

  ともかく、寛延度の通信使たちは、徂徠学派の文士らとの筆談、手紙のやり取りのほかに、朱子学らとの筆談などを通し て、ようやく徂徠学派の存在を気づき、朱熹の経学に挑戦しようとした「古文辞学」に対して、興味を持つようになってい る

((

。それによって、後述のように、次の宝暦度の朝鮮通信使になると、すでに徂徠学派について、ある程度の予備知識を持 つようになり、さらなる資料収集をもしようとしていた。

(17)

四   徂徠学派文士と宝暦度朝鮮通信使 ─ 『長門癸甲問槎』をめぐって   四回目に宝暦度の朝鮮通信使と会った萩藩の山根華陽は 「 古文辞学 」 の視点から、通信使の詩は「蘇黄末派之雄」と評し ただけではなく、経典解釈方法としての 「 古文辞学 」 の展開によって生産された儒学(礼楽)の視点からも、通信使たちが 「 性 理 」 を 専 ら 主 張 し て、 文 の「 達 意 」 だ け を 重 ん じ る こ と を 見 下 し て い る

((

。 さ ら に、 同 じ く 周 南 の 弟 子 た る 滝 鶴 台 は 詩 文 論 と し て の 「 古 文 辞 学 」 だ け で は な く、 徂 徠 の 学 問 方 法 論、 及 び そ れ に よ っ て 展 開 さ れ た 徂 徠 の「 復 古 の 学 」( 経 学 説、 道 論)など、徂徠学をめぐって通信使たちと議論をしていた。

  ま ず、 滝 鶴 台 は、 「 排 程 朱 而 為 禅 儒、 不 取 其 学。 宗 古 経 而 不 據 註 解、 以 古 言 證 古 経 」 と い う 徂 徠 の 態 度 と 方 法 を 説 明 し て い る

((

。それに対して、書記の元重挙は「不信程朱者皆異端也」という意見で応じた。これに対して、滝氏は「謹領明諭」と 答えただけであ る

((

。こうして、宝暦十四年(一七六四)十二月二十九日会席での徂徠学を巡る議論は暫く一段落した。しか し、 後 に 滝 鶴 台 は 通 信 使 に 宛 て た 書 信 に、 「 聖 人 の 道 」 に 基 づ き、 右 に 述 べ た 松 崎 観 海 と 同 じ く、 あ る 種 の 差 異 を 重 ん じ る 相対主義的な立 場

((

から、 「標同伐異」 「貴中国賎夷狄」を務めとする原理主義的で中華中心主義的な朱子学に対して、批判を 加え た

((

。それに対して、通信使はその返信に、まず、 「小華三客」と自称したほかに、 「天地至大而不能不先陽而後陰。聖人 至 公 而 不 能 内 華 而 外 夷。 或 中 国 而 夷 其 行 則 夷 狄 之、 夷 狄 而 変 於 夏 則 中 国 之 」 と 答 え た

((

。 こ の 文 は 陰 陽 と い う 自 然 の 道 理 か ら、朝鮮が明代から継承した中華主義を弁解している。

  それから、滝鶴台は翌年五月二十一日に、帰国途中の通信使と赤間関で再会して、漢詩の唱和と筆談を行った。この時、 徂徠学に関わる議論が再開された。まず、元重挙は「日東文運日辟、古人所稱天気自北而南者、斯有験矣。但恨目今波奔而 水趣者、大抵明儒王李之余弊、而唱而起之者、物徂徠実執其 咎

((

」と述べ、徂徠学は「世道の害」だというような意見を矢継

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ぎ早に披露してい る

((

。また、成龍淵も徂徠の文学才能を認めながらも、その儒学説を怪しいと認識してい る

((

。ともかく、こ う し た 通 信 使 た ち の 徂 徠 論 に 対 し て、 滝 鶴 台 は、 「 主 一 無 適 」 な ど 多 く の 実 践 方 法 を 唱 え た 朱 子 学 と 異 な り、 徂 徠 の 教 え に は「敬天守礼」のほかに、別の「操存実践之法」がないと説明してい る

((

。さらに、彼は次のような考えを示した。

此方無経義策士用朱子新注等之制、是以君子之学各従所好、且此方封建之治與三代同風、非漢唐之所得與比也。……紫 陽綱目之厳刻、其或可用諸郡県之世、而不宜施諸封建之国 也

((

つまり、徳川日本の制度は李氏朝鮮と異なり、朱子学を試験内容とする科挙がないだけではなく、郡県制度でもない。反対 に、徳川日本は三代と同じく、封建の世である。だから、彼はこうした制度の差異に基づく相対主義的な視点から、通信使 たちに、自分が「宋後之学」 (宋学)を捨てて、 「古学」に務める理由を説明している。つまり、滝氏は通信使たちに、朱子 学は普遍的教えのようであるが、実は特定の制度と時代などに制限されていることを教え、さらに制度などの差異を認識し て か ら、 徂 徠 学 の 当 否 を 評 価 す べ き だ と、 勧 め て い る。 し か し、 南 秋 月 は や は り、 道 徳 原 理 主 義 的 な 視 点 か ら、 「 三 代 以 封 建治国而以人道精微、孝弟忠信為教、其学問何嘗與後世異乎」と言い返し た

((

。この南秋月の答えを受け止めて、最後に滝鶴 台は国が治まればなによりであり、こうした「学術異同」を爭う必要ないだろうと、この議論にピリオドをつけ た

((

  このように、滝鶴台と朝鮮通信使たちの徂徠学をめぐる議論は文化相対主義者と道徳原理主義者と間の論争にも似通って いる。お互いに妥協できる結論が得られないのは当然のことである。本稿では、特に滝鶴台の思考に注目したい。右に見て きた滝の思考は普遍的な価値を認めない相対主義と理解できる面を持っているが、原理主義的な朱子学よりも、多元性と差 異を認める「聖人の道」のほうが普遍性を持つと主張している。これは「古文辞学」の展開によって生産された重要な思想 遺産だと言える。それは一言で言い尽くせないが、人情の普遍性と歴史文化のコンテクストを重んじる歴史文脈主義から導

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き出した普遍主義といえるかもしれない。滝鶴台は徂徠からこうした重要な思想遺産を継承したと、私は理解している。

  しかし、右に見てきたように、滝鶴台から見れば、格調を持つ日本の詩文が宋調的な朝鮮通信使の詩文よりすばらしいだ けではなく、封建の世たる徳川日本は三代のような時代だという見方を持つようになっている。実際、滝鶴台の師たる山県 周南は、 「礼」はまだ制定されずに、多くの「軍国の制」を延用しているが、 「封建之制、三代以来、莫整於昭 代

((

」と述べて い る。 ま た、 滝 鶴 台 も 師 と し て 仰 い だ 服 部 南 郭 は、 「 方 今 国 家 依 封 建 之 制、 礼 譲 和 楽、 幾 乎 三 代 之 俗

((

」 と い う よ う な 考 え を 持っている。松崎観海も現在の日本は 「 比盛三代 」 という認識をもってい る

(((

。滝の思考はこれらの徂徠学派文士たちが提出 した考えを踏まえているのであろう。指摘されているように、このような見方は十八世紀中期において、徂徠学派だけでは なく、次第に一般の知識人も持つようになっていた。それは結局、日本人の人柄のよさを強調するという日本特殊論と日本 優位論に導かれ た

(((

。このように、徂徠学派の文士は三代の「聖人の道」と「宋学」を歴史のコンテクストにおいて相対化し たが、三代の「聖人の道」を価値的に優越していると認めたうえに、当代日本(徳川日本)と三代との近似性まで主張する ようになっている。その結果として、日本優越論が生まれたのである。

  一方、朝鮮通信使は滝鶴台らとの唱和と筆談を通して、より徂徠学を知るようになっている。彼らは徂徠学に対して批判 的な立場を取っているにせよ、刺激を受けている。後に、通信使と実際筆談を行った滝鶴台は「海外の華 人

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」として評価さ れただけではなく、荻生徂徠は 「 海外の傑士 」 とも評されてい る

(((

。しかも、すでに指摘されているように、その刺激は朝鮮 における清朝の詩文と学問への興味と吸収に繋がってい く

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。しかし、本稿では、特に注目したいのは、右に検討した享保度 通 信 使 の 申 維 翰 だ け で は な く、 宝 暦 度 通 信 使 ら も 日 本 の「 文 運 」( 「 文 明 之 運 」) が 盛 ん に な っ た 重 要 な 一 因 を、 長 崎 か ら 輸 入された漢籍に見ていることであ る

(((

。というのも、こうした見方には、夷狄日本を「文明」に導く原動力は日本人の人柄に した日本特殊論ではなく、反対に漢学の知識こそ文明化の原動力だという意識を表しているのである。それだけではなく、 詳論する余裕はないが、その見方には朝鮮を通さなかった日本の文明化に対する驚きと警戒、及び海外貿易と南方中国(海

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洋中国)に対する憧憬が窺えよう。

結論に代えて

  朝鮮通信使と日本文士との交流は常に「善鄰」の角度から解釈されているが、前述のように実は競爭の観点から理解すべ き面も持っている。拙稿は主として、後者の観点から、第八回から第十一回までの朝鮮通信使を考察対象にして、十八世紀 において、徂徠学派文士はいかに「古文辞学」の立場から朝鮮通信使の詩文と学問を見ていたか、またどのように見られて いたかを明らかにした。

  まず、右の考察から分かるように、徂徠学派の文士と朝鮮通信使との間に交わされた詩文の唱和の多くは直接に対面して 展開されたものではなく、事前に作りあげた詩を相手に与えてからその返事をもらうという形で唱和していたものである。 それだけではなく、両者は共に自らの著作に、相手の詩文に対して、自らの文学観から批評を加えている。徂徠学派文士は 主 と し て 詩 文 の「 格 調 」 を 重 ん じ る 「 古 文 辞 学 」 の 観 点 か ら 批 評 を し て い る。 彼 ら に と っ て、 「 芙 蓉 白 雪 の 色 」 を 持 つ 徂 徠 一 門 の 詩 は 日 本 文 運 を 担 う 責 任 を 持 つ だ け で は な く、 「 先 王 同 文 の 治 」 を 共 有 す る 地 域 で は、 日 本 の 漢 文 学 が「 宋 調 」 的 な 朝鮮漢文学より優れていたこと証明にもなっていた。さらに、詩文論としての「古文辞学」だけではなく、経典解釈方法と しての「古文辞学」によって展開された道論(儒学説)を基準にして、徂徠学派文士たちは朝鮮通信使の外交言動を批評し たりして、交流をしようとしている。こうした批評から、われわれは「古文辞学」がいかに外交と繋がっているかを確認で き る の で は な い か。 こ の 意 味 で、 徂 徠 学 派 文 士 に と っ て、 「 古 文 辞 学 」 は 自 己 の 内 面 に 耽 溺 す る 私 的 な 文 学 世 界 に か か わ る も の だ け で は な く、 外 交 と い う 公 的 空 間 に も か か わ る 学 問 で も あ っ た と 言 え よ う。 別 の 観 点 か ら 言 え ば、 「 古 文 辞 学 」 は 確 かに擬古主義的な面を持っているので、彼らの多くは機会に恵まれれば、自らを外交に務める春秋戦国時代の士人ないし唐

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朝への遣唐使に擬して演じようとしているのではないか。少なくとも、そういう役を求める人は少なくなかろう。

  さ ら に 言 う と、 「 古 文 辞 学 」 の 展 開 の 重 要 な 帰 結 の 一 つ は、 朝 鮮 の 漢 文 学 と 儒 学 と の 対 比 を 通 し て、 徂 徠 学 派 文 士 た ち が 自 ら の 生 き る 時 代 と 社 会 の「 文 明 」 は 盛 ん で「 三 代 」 の よ う だ と 肯 定 的 に 捉 え た こ と で あ る。 さ ら に 論 証 す る 必 要 が あ る が、こうした見方は後に、徳川後期における日本特殊論、日本優位論など、日本のナショナリスティックな感情の高揚に繋 がっていくのではないかと思われる。

  一方、朝鮮の文士はスピードと「声律」から徂徠学派の文学を批評しているだけではなく、その詩作は江南地域から輸入 された清朝文学を剽窃したものではないかという疑いさえ持っていた。既述のように、このような見方はかなり広がってい たようである。とすると、こうした見方から、次のことが言えよう。つまり、十八世紀ごろの朝鮮が接触した現実の中国は 主として、清朝政府と北方中国であったのに対して、日本が接触したそれは主に南方の海外貿易を勤めていた民間人になっ ている。こうした差異はどのような意味を持つか。紙幅が尽きるので、さらに探究することができないが、これからこうし た観点から、十七世紀以後の東アジア漢学を考える必要があろう。  

の歴史研究の方法論に含まれている。 作、論、 ば、る。に「 ら、う「は、ら、る。  1)徂徠は『譯文筌諦初編』「題言」に「合古今而一、是吾古文辞学」(『荻生徂徠全集』みすず書房、一九七四年、一五頁)と述べている。

が、上、る。し、 た、る。は、  2)稿う。は、て、

参照

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