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現代に生きる三池

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現代に生きる三池

――時代と世代を超えて――

黒 沢 惟 昭

歴史が正しく書かれるやがてくる日に私たちは正しい道を進んだといわれよう

―「やがてくる日に」

一、三池労組解散

三池労組が解散―。二〇〇五年四月一一日の全国紙社会面に読者の何人が目を留め たであろうか。しかし、私にとっては忘れられないニュースであった。

六〇年安保と呼応して、戦後最大の労働争議といわれた「三池闘争」を三一三日間 の全面ストライキで闘い抜いた福岡県大牟田市の三井三池炭坑労働組合が四月一〇日 で解散し、四六年の結成以来五九年の歴史を閉じたのであった。最大時二万五千人を 数えた組合員は、組合分裂や相次ぐ解雇などで最後にはわずか一四人であった。九七 年に三池炭坑が閉山して八年。国内から炭坑労働組合がすべて消えたのだ。

私が三池に関心をもったのは、大学時代に三池闘争の理論的指導者として知られる 向坂逸郎さんの講演を聴いた時だった。 『資本論』がテーマだったが、それよりも当 時「向坂教室」と呼ばれた三池の労働者の学習の話の方が興味深かった。私たちも解 読に苦しんでいたゼミナールのテキスト『資本論』を炭鉱労働者たちがどのように読 み、理解するか。

研究室で『資本論』を勉強することも重要だが、現場で労働者がどのように学ぶか を知る必要がある。この向坂さんの「教訓」の重要性に気付いたのはずっとあとのこ とでであるが、向坂さんのすすめにしたがって、大牟田の炭住 (労働者の社宅) に泊 まり込み学習会に参加した。学生・院生時代そして教職に就いてからも幾度、三池に 通ったことだろう。

訪れるたびに組合員をはじめ家族、子どもたちとの交流をふかめた。現地の研究者 との討議も含めて学んだことははかり知れない。なかでも解雇されて三池を去った元 労組員の言葉が忘れられない。 「組合に色々批判もあるが、自分が助かりたかったら まず他人を助けなければならない。このことを組合の学習会で身体内にすり込まれて しまった」 。ここに学びと教育の意味が簡潔に表現されている。

三池の闘いに労組が敗北したが、それは一労組の敗北ではなかった。石炭から石油

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へのエネルギー革命が時代の背景にあった。その転換のなかで資本側は総資本として 結集し、労使関係の根本的変革を企図した。労組側も総労働として団結し、これに対 抗したがついに敗れた。以来、日本の多くの労働者は労働者というより、企業人、会 社人間となった。したがって、三池闘争の敗北が契機となって高度成長は軌道にのり 日本は豊かな国になった。それは否定できない。しかしその反面で、ともに学び助け あうという大切なことが喪われてしまった。教育の荒廃がいわれて久しい。その真因 はここにあるのではないか。三池労組は消えても三池の労働者が育み遺してくれたも のを若い世代に語り継がねばならない。それが三池に関わった世代の責務と考えてき た。たとえ時代の壁は厚く、世代の差は越えがたくとも。

ここで、念のために、現地で取材した若い記者の気持ちを確かめたい。

「弱者を切り捨てぬ社会を」と題された署名入りの解説記事 ( 『西日本新聞』二〇〇 五年四月一一日付) にはこう記されている。

闘い続けること―。それが、十日解散した三池炭坑労働組合 (三池労組) の歴史 だった。

二年前、福岡県大牟田市で労組の取材を始めた当初、集会のたびごとに会社や国 を指弾する労組に違和感を覚えた。 「なぜ、まだ続けるのだろうか」と。

彼ら自身、国策や資本と闘う中で、労働者の「限界」は感じていたかもしれない。

それでも、 「闘わずして負ければ、労働者に次は何も残らない」と三池労組最後の 組合長、芳川勝さん (六二) はいう。沈黙すれば弱者切捨てがまかり通るその危機 感を常に背負った三池労組の闘いの歴史。私の違和感は解けた。

解散の日の朝、芳川さんから一編の詩を見せられた。詠み人知らずの詩は旗に書 かれていた。

歴史が正しく書かれるやがてくる日に/私たちは正しい道を進んだといわれよう

(中略) 私たちの肩は労働でよじれ/指は貧乏で節くれだっていたが/そのまなざ しは/まっすぐで美しかったといわれよう (中略)

「総資本」と「総労働」の対立が先鋭化した一九六〇年。三池争議の最終局面と なった三川鉱ホッパー前で、一人の活動家がつくった「やがてくる日に」と題する 詩だ。争議の敗北を予感した労働者が、未来にこそ運動の広がりを託したのではな いか。

労働者の魂の叫びに似たその詩は、労組組織率が二割を切り、リストラが日常化 する競争至上の今を鋭く突く。

三川鉱炭じん爆発事故で被災した一酸化炭素 (co) 中毒患者の多くが入院する大 牟田労災病院は、国の再編計画で本年度中の廃止に直面する。事故や病気で記憶な どに障害がでる「高次脳機能障害」の治療拠点として存続できないかと、患者・家

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族たちは闘う。労組が解散しても、まだ未解決の問題が残っている。

国や企業に「弱者切り捨て」の風潮がまん延する。弱者が無視されない社会をど う構築するか。闘い続けた三池労組の理念は、これからも生かされると信じたい。

(大牟田支局・稲葉光昭)

三池労組解散の半月後に、JR 尼崎の脱線転覆事故が起き一〇七人が死亡した。

大惨事である。運転手のスピードの出し過ぎが事故の原因と伝えられた。その背景 に JR の過当な競争原理主義があることが指摘されている。その通りであると私は思 う。

このニュースに接した時、前出の「解説」記事にもある、六三年一一月九日に三池 三川鉱で起こった炭じん爆発のことが私の頭に浮かんだ。四五八人が死亡し、CO 中 毒患者八三九人を出した戦後最悪の炭鉱事故の発生だった。安全を軽視した生産第一 主義の結果であった。労組の力が強かったときは保安も維持されていたが、労働者側 の敗北、そして生産再開後まもなくの大惨事の発生であった。当時一主婦は次のよう な投書を寄せている (朝日新聞西部本社版、六三年一一月二〇日付)

三川鉱爆発の日、夫も坑内に入っていた。幸いにも無事だったが今回ほど考えさ せられたことはない。死んだりけがをしたりするのはいつも労働者。一緒に職場を 安全なところにしてくれと会社に要求しなければ。労働力は売っても生命まで売る 必要はないと夫は言う。生命の保障を要求するのは、まじめに働く鉱員の当然の権 利ではないでしょうか。定年まで精いっぱい働くという夫へのせめてもの手助けと して、夫たちの労働運動の正しさを訴えます。 (熊本県荒尾市古閑久代主婦・四三歳)

=抜粋。

因みにこの投書は、 「生命軽視憤りぶつけ」という見出しの、 「あの日から、ひと とき五〇年③炭鉱事故」 (朝日新聞、二〇〇一年八月一一日付) に再録されたものであ る。

乗客を巻き込むという点で鉄道と炭坑の事故は大きく違うだろう。とはいえ、現場 の状況を確かめうるのは、現場で働く労働者である。その人たちが危険について予知 し、それについて対策を専門の立場から訴えなければ事故は防げないだろう。そうで あれば、 「生命の保障を要求するのは、まじめに働く鉱員の当然の権利」という主張、

そしてそれを集約して経営側に要求するのは労働組合であるという点では産業に差は ない。だから、 「労働は売っても生命まで売る必要はない」ということは当然であり、

その点でも、 「労働運動の正しさ」を訴える主婦の文意に説得力がある。

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「命ガ欲シカ、金ガ欲シカ、楽ガシタカ」かつて三池で流行したスローガンであ る。三池闘争を支えた当時の労働者の素朴な気持ちの吐露であった。そのために労働 者たちは、組合に結集し、連帯の力を強めた。しかし、資本側のいう「生産性の向上」

のためには、この連帯は邪魔だった。だから、 「生産阻害者」として排除され、その 結果労組の力は弱まり、ついに終焉に至ったのである。そしてこの連帯の力の弱化と 逆比例するかのように高度成長は上昇した。この意味ですぐれたルポライター鎌田慧 が、高度成長は三池の地獄の上に咲いた徒花だと告発したのは正鵠を射ている。だと すれば、今回の JR 尼崎の惨事も、効率、便利さと引きかえに起こるべくして起こっ た人災とうけとめるべきだろう。因みに、 「水俣」の問題も高度経済成長の結果だっ たのではなく、高度成長のた

起きたのだということを詳しい調査を行なった色川 大吉氏の講演で識った。

よしんば組合終焉の儀式―「返魂式」で組合の魂は天に返っても、私は今後ともそ の魂を若い世代に原寸大で語り継いでいく覚悟を新たにした次第である。

ところで前出の記者は大牟田で取材を始めた当初は闘い続ける三池労組に違和感を 覚えたが、二年間の取材のなかで次第にその違和感が解けたと記している。残念なが ら、私は彼の感情の変化の過程を詳しく知ることはできない。しかし、大急ぎで記し た以上の経緯と通ずるものがあるのではないか。時代の壁と世代の差を超えるなにか があると信じたい。取材の結果三池労組の闘いに共感を示すに至った彼に大きな希望 を見い出す。それに励まされて「私の三池」を綴ってみよう。

二、三池炭鉱、苛酷な労務政策 1、日本屈指の炭鉱

三池炭鉱は福岡、熊本の両県にまたがり、一八八九年から閉山まで一〇八年間三井 資本が支配していた日本一の炭鉱であった。一九七三年の資料では、当時、一ヶ月で 二万トン掘れば優良炭鉱とされたが、三池ではなんと一日で二万トンも出炭され、日 本の石炭の三分の一は三池で出炭されたのである。

三池炭鉱の自然的社会的条件について次のように『三池炭鉱労働組合史』では (以 下『組合史』 ) 述べられている。

「三池炭鉱は良質の石炭からなる厚い炭層に恵まれ、全国でも最もすぐれた炭鉱で あった。坑内の労働条件は他の群小炭鉱のとうてい及びえないものがあり、機械化に も有利であった。三池は、筑豊炭田からも北九州の工業地帯からも離れ、福岡県南部 に位置し、筑後および肥後の農村をもつため、この炭鉱の労働力構造が筑豊炭田のそ

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れと決定的に異なることとなった。三池炭鉱の経営は最初は官業として出発し、その 払い下げをうけたのが日本屈指の大財閥、 (三井) であった。

これらの諸要因が、この炭鉱で働く労働者たちに、他に類のない特徴と性質をもた らすこととなった。 」

2、囚人労働

ところが、三井の労務政策は大変苛酷で戦前は中国、奄美大島、与輪島出身の労働 者を強制的にこき使った。三池炭鉱では敗戦時点で二千二百九十七人の朝鮮人が在籍 していたという資料がある。

しかも戦前は多くの囚人も使われた。監獄はレンガ塀で囲まれ、囚人が地上に出な いで直接鉱内に行ける地下道が掘られていた。

したがって戦後になっても炭鉱のイメージはたいへん悪く、坑内には囚人たちの幽 霊がでる、といううわさが立つほどであった。

三池における囚人の労働は明治六年 (一八七四年) に始まるが、その実態は悲惨の 一語に尽きる。 「囚人は監獄から手足を鎖でつながれて出て来て坑内で鎖がはずさ れ、一二時間の労働を強制させられた。一人当りの出炭量は筑豊の坑夫の二倍だが、

賃金は逆に半分程度で、それも囚人に交付されるのは多くて七〇%、あとは監獄の収 入となった。そのあまりにも苛酷な労働のために死亡する者は、明治一八年 (一八八 六年) に囚人の四・八%、一九年には四・四%と、一般の監獄の数倍に達した。この ような悲惨な状況を前に福岡県議会は明治二一年 (一八八九年) に三池監獄の廃止を 議決するほどであった。 」 ( 『組合史』 )

なお、次の指摘も注目すべきである。

「他の炭鉱にはほとんど例をみないこの囚人労働は、ただ単に坑夫募集難の解決と 低賃金の点で三池の経営者を利しただけではなく、囚人と一緒に働くという劣等感を 与えることによって、いわゆる『良民』労働者の近代的労働者意識の成長を妨げ、三 井資本のみ三池経営、ひいては大牟田市を中心とする周辺一帯の社会的・経済的支配 を容易にした」と湯村武人は『みいけ二〇年』の中で書いている。 ( 『組合史』 )

次に三池の労務管理の特色については、親子二代にわたって三池の炭鉱労働者とし て過ごし、三池闘争とともに、一労働者として生きた藤沢孝雄さんがご自身の経験か ら貴重な記録を残されているので、その一部を引用させて頂く。

3、「世話方」「請願巡査」による労働者管理

三井の労務管理とも関るので、私たち炭鉱労働者がどんな生活をしていたか、少し 話しておきます。

炭鉱では、炭鉱住宅 (炭住・たんじゅう) と呼ばれる「社宅」に労働者を住まわせて、

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労働者をがっちりと確保、管理していました。労働者の八割くらいは炭住で生活して いました。生活すべてが炭住の中でまかなえるような仕組みをつくっていました。必 要な品物は会社が経営する売店で買う。子どもは三井の私立小学校に通う。病院も保 育園もありました。つまり、炭鉱労働者は一般社会から隔離 (かくり) されていたわ けです。それはなぜかというと、労働者を管理するのにはそれがいちばん効果的、安 上がりだからです。いったん事故が起きたり、何か非常の事態が生じた時には、すぐ に動員できるし、監視もしやすいからです。

炭住には、 「世話方」 (せわかた) という会社の職員が配置されていました。世話方 は炭鉱には出ずに社宅に勤務し、労働者の生活態度、家族状況、すべてを監視してい て、逐一会社に報告するようになっていました。また、 「請願巡査」という制度もあっ て、会社の要請で警官が社宅に住んでいました。

世話方制度は戦後も続いていましたので、よく覚えています。子どもの頃、兄弟げ んかをしていると、おふくろたちは「早ようやめんか、世話方さんが来よらすぞ」と よく言ったものでした。世話方の報告ですべてが決まっていましたので、子どもに とっても恐ろしい存在として映っていたのです。

炭鉱労働者は低賃金なので、給料日前にはだいたいどの家庭でも財布が空っぽに なっていました。そこで会社は、売店で品物を買える「通い」 (かよい) という通帳を 全坑員に持たせ、ツケで買えるような仕組みをつくっていました。 「通い」でつかっ た代金は、給料から天引きされるようになっていました。しかも、 「通い」は二種類 つくられていて、成績がいい坑員には「黒通い」 、成績が悪い坑員は「赤通い」とい うぐあいに、差別されていました。

勤務形態は、三交替と常一番 (じょういちばん、昼間だけの八時間勤務) がありました。

三交替は一番方 (いちばんかた) 、二番方、三番方などと呼ばれていました。

労働者は出勤すると、作業着に着替え、キャップランプを借り、繰込場 (くりこみ ば、仕事の割当を指示する場) で配役 (はいえき) をもらい、坑内に行く電車に乗ります。

切羽 (きりは) 、採炭現場)までは、電車で一時間ほどかかりました。どんどん堀り進 むので、毎日毎日、掘った分だけ遠くなっていくのです。 (藤沢孝雄『三池闘争と私』三 池闘争と私刊行委員会、二〇〇〇年二月一〇日第三刷発行、二三ページ)

三、去るも地獄、残るも地獄

鎌田慧は三井三池の「阿鼻叫喚の泥沼」をすでに三〇年もまえに、 『去るも地獄残 るも地獄―三池炭鉱労働者の二十年』で抉りだしている。

私はこの鎌田の告発を改めてかみしめている。

わが国の労働運動史上空前の、恐らく絶後の三池闘争は一九六〇年夏にすさまじい

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燃え上がりを示し、世を震撼させた後、急速に終息に向かった。しかも、九七年三月 三〇日には三池炭坑そのものが閉山に至り、いまや三池労組も解散してしまった。そ れとともに三池の労働者の記憶は忘れ去られてしまうのだろうか。 (三池闘争の簡単な 歴史については本章の補論を参照されたい)

鎌田の書は三池の実相を見事に描き出している。何故、労働者たちが生活を、いや 命までもかけて闘わなければならなかったのか。

鎌田は、 「久保清さん (第一組合員) が (会社側が雇ったスト破りの暴力団によって) 刺 殺された六〇年三月から宮川睦男組合長が病死した八〇年三月まで、この『二つの 死』に象徴される三池の労働者たちの二十年の生と死に、日本の現代史を重ね合わ せ」ることによって「高度成長」の時代の意味を明らかにしようとする。だが、闘い 傷ついた人びとに強い共感を寄せる鎌田は、三井の差別的労務政策の実態に注目し、

戦前の「囚人労働」 「与輪島出身者」の差別の歴史を抉り出し、これらを「三井の恥 部」と断ずる。

戦後もこの「恥部」はかたちを変えて露呈する。人を人と思わぬ支配と管理。利用 価値があるとみれば即座に「地位」と「金」による取り込み。用済みとなれば容赦な き馘首。資本主義的「合理化」の一環といえばそれまでであるが、三池の場合には、

「どこか底しれない闇につつまれているような」不気味さを孕む。

同郷人、きょうだい、子どもたちまでも相互不信・憎悪に陥れた組合分裂。職・住 が近接し、閉塞された居住空間では、その「地獄」は想像を絶する。分裂の瞬間から 壁一つの隣の居住区が敵に変ずる。

六三年一一月九日の大変災は戦前・戦中以来の労務政策のあまりにも悲惨な帰結で ある。その時、四五八人の労働者が一瞬にして殺されたのであった。同時に一酸化炭 素中毒患者八三九人を出し、それにまつわる自殺、離婚、家族の蒸発なども日常的に 伴った。しかもその責任もあいまいにされてしまったのだ。 「まあ、囚人労働と変わ らんですね」という述懐も納得できよう。

三池の地獄は、鎌田の筆をもってしても「とうてい書ききれない未完の物語」であ るが、この地獄のなかで、命と生活と、なによりも人間の尊厳のために闘った労働者 たちの心意気、そこで培われ、育まれた権力・不正に対する憎しみ。反面、同志・組 合への信頼の確かさを、鎌田は組合員の告白と述懐を紹介しつつ克明に記す。まこと に感動的な記録である。

因みに、私もまた、学生時代に三池に関心をもって以来四〇余年、その間現地での 調査、聞き取りを繰り返してきた。九六年には、 「NHK スペシャル『戦後五〇年、

その時日本は』三池争議」がテレビで放映された。面談に応じてくれた人たち、訪れ るたびに泊めてもらった炭坑住宅、大牟田の街などが次々と画面に現れ、懐かしさの あまり涙があふれるのを抑えられなかった。

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「自分が助かるためには他人を助けなくてはならない」 「クビを切られた人と切ら れなかった人が心を一にして闘った」三池の労働者からしばしば聞いた言葉である。

ここには人間の在り方、そして教育の目的が端的に表白されている。

しかし、三池闘争の敗北は、人間をこのように捉える人びとを「生産阻害者」とし て労働の場から追放してしまった。事実、闘争の終焉をまつかのように、経済成長は 軌道に乗ったのであった。しかし、それは長くは続かなかった。

四〇年後の今日、日本経済は停滞・低落の度を深め、それに併行して日本社会の倫 理的頽落の傾向は強まる一方である。 「豊かさ」 (高度成長) を「徒花」におわらせな いためには、三池の「地獄」を再考し、そこに輝く「砂金」を照らし出し、原寸大で 語り伝える努力が必要である。

補論・三池闘争略史

前史

三井三池炭坑は、福岡県大牟田市から熊本県荒尾市にかけて広がっていた三井鉱山 系の炭鉱で、太平洋戦争敗戦による GHQ SCAP の民主化政策により、一九四六年 (昭 和二一年) に労働組合が結成された。もともと三池炭坑労組は労使協調の力が強く、

労働争議などには消極的な組合であった。

しかし、一九七四年 (昭和二二年) 頃から、大牟田市出身で三池炭坑ともゆかりの 深い九州大学教授の向坂逸郎が頻繁にこの地を訪れるようになり、向坂教室と呼ばれ る労働者向けの学校を開いて『資本論』などを講義するようになってから、労組の性 格は一変する。向坂は三池炭坑を来るべき社会主義革命の拠点と考えており、 『資本 論』の教育を通じて戦闘的な活動家の育成を図ったからである。

一九五三年ストライキ

一九五三年 (昭和二八年) 、行過ぎた労働争議拡大に危機感を抱き、逆に締め付けを 図っていた GHQ による占領も終結していたが、次第にエネルギー源は石炭から石油 へと変化し、石炭受容が落ち込みを見せ始めたことから、三井鉱山は経営合理化のた めに希望退職を募った。しかし、希望退職者が会社をあらかじめ系列の鉱山に割り当 てた数に達しなかったため、三四六四人に退職を勧告し、それに従わない二七〇〇人 を指名解雇した。このような会社の措置に炭鉱労働者と事務職員がともに反発し共 闘。指名解雇に反対し、ストライキに突入した。ストライキは一一三日間に及び、つ いに会社側は指名解雇を撤回、労働者側の勝利に終わった。この戦いは当時、 「英雄 なき一一三日間の闘い」ともてはやされ、三池労組は一躍その名を高めた。

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炭鉱労働者の自治区

以後、三池労組では労使協調派は力を失い、灰原茂雄を中心とする向坂門下の活動 家たちが影響力を振るうこととなった。一九五五年 (昭和三〇年) には、三池労組は 三井鉱山に対して、労働者が退職した際には必ずその子女を採用すること認めさせ た。また、労働者自身で各労働者の収入を平均化させるために、割の良い仕事と割の 悪い仕事を労働者が交互に輪番制で請け負う制度をつくるなどして、三池炭坑はさな がら労働者の自治区のような様相を呈することとなった。一方で、一九五三年のスト ライキの成功によって一部の炭坑労働者が増長し、事務職員に因縁をつけて吊るし上 げたりするようになったため、事務職員は次第に炭坑労働者との連帯意識を失って いった。

一九五九〜六〇年ストライキ

一九五三年のストライキ以降、経営合理化が進まない三井鉱山の経営はますます悪 化していった。このため、三井鉱山は三池炭鉱からの活動家の一掃を決意し、一九五 九年 (昭和三四年) 、一月一九日、六〇〇〇人の希望退職を含む会社再建案を提示し た。同年八月二九日には四五八〇人の人員削減案を発表。続いて一二月二日・三日に は一四九二人に退職を勧告し、これに応じない一二七八人を指名解雇とした。

労組側はこの措置に反発し、無期限ストに突入した。一方、会社側も経営再建の決 意は固く、三池鉱山のロックアウトと組合員の坑内立ち入り禁止でこれに対抗した。

財界が三井鉱山を全面的に支援した一方、日本労働組合総評議会 (総評) は三池労組 を全面的に支援したため、三井三池労組は「総資本対総労働の対決」などと呼ばれ た。ただし、総労働と言っても、事務職員層は日頃から吊るし上げなどを受けてきた 恨みから、今度はストライキに加わらなかった。

ストライキは長期化し、総評からのカンパ以外の収入を絶たれた組合員の生活は、

次第に苦しくなっていった。生活苦に耐えかねた一部の組合員は一九六〇年 (昭和三 五年) 三月一七日、第二組合 (三池新労) を結成してストライキを離脱する。三月二五 日にはピケを張っていた三池労組の組合員・久保清が暴力団員に刺殺される。三池労 組の組合員の約半分が三池新労に加わって、ストから離脱した。七月七日、石炭を出 荷まで貯めておく貯炭場であるホッパーへの組合員立ち入り禁止の仮処分を福岡地裁 が下すと、福岡県警はホッパーを占拠している三池労組組合員を排除するため警察隊 を差し向け、ホッパー周辺は一触即発の状態となった。そこで、流血の惨事を恐れた 日本炭坑労働組合 (炭労:全国の石炭産業の労働組合) と三池鉱山は中央労働委員会に 事態の解決を一任した。

八月一〇日、中央労働委員会は斡旋案を発表したが、その内容は会社は指名解雇を 取り消す代わりに、整理期間の終了をもって、指名解雇された労働者は自然に退職し

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たものとみなすという組合側に圧倒的に不利なものであった。しかし、もはや戦う限 界に達していた炭労も総評も斡旋案受諾を決め、向坂も斡旋案を受諾するよう三池労 組幹部を説得し、1 1月1 1日に三池労組は無期限ストライキを解除して、三井三池争議 は組合側の敗北に終わった。

向坂はその後も三井三池争議を神聖化したが、民間企業では労使協調路線が浸透し て、労使対決型の組合員は各地の労組で少数派となっていった。三池労使を支援・指 導した日本社会党や社会主義協会内でも、高橋正雄など従来の対決型の政治に対する 反省が生まれ、構造改革論が台頭するきっかけとなった。

三池炭鉱では一九六三年十一月九日に三川抗で炭じん爆発が発生した。この爆発事 故は四五八人の死者と一酸化炭素中毒患者八三九人を出す戦後最悪のものとなった。

炭じん爆発とは石炭の発掘の際に発生する石炭のちりが坑内に充満している時に、何 らかの原因 (この場合はトロッコの脱線) で火花などが発生して爆発することである。

防止策としては坑内の掃除や散水で十分であったが、それすら行われていなかった。

そのため三池闘争に敗北した組合の弱体化による労働環境悪化や会社の安全管理サボ タージュが原因として指摘された。 (この略史は高橋庄太郎氏から提供いただいた資料を転 載させていただいた。そのほか氏は文章作成上多くのご助言をされた。高橋氏に篤く御礼申し 上げる。 )

四、三池の足跡を辿る

二〇〇一年一一月、大牟田で行われた「三池闘争四〇周年」の記念学習会に招か れ、 「三池の学習活動」について報告を行った。

学習会に先立って、廃鉱になって久しい炭鉱や、調査の折に泊めてもらった労働者 の住宅 (炭住) の跡を案内していただいた。ガイド役の元労働部長 (その後、書記次長)

の山下開さんもしばしば道に迷った程に、大牟田の変貌はすさまじいものがあった。

私も、当然ながら、幾度もお世話になったはずの、宮ノ原社宅や臼井社宅跡に案内さ れ、この辺がそうだ、といわれても全く当時の記憶が甦えらなかった。

いささか残念であったが、ただ一九九七年の閉山後、国の重要文化財に指定された 万田坑は、閉された門から垣間見ることができた。また、暴力団に刺殺された第一組 合員の久保清さんの御影石製の殉難碑を辿りそこで手を合わすことができた。 「みん な泣いていました。かたきをとってくれと。首切り撤回、これがかたき討ちです」―

当時一人の主婦が叫んだ怒りの言葉が降りしきる秋雨のなかから聴こえてくるように 思われた。

そのほか、丘の上に建てられた、囚人労働者の集魂墓標、 「解脱塔」も訪れた。さ らに、一の浦墓地内の囚人墓地では名前がなく漢数字のみの番号が刻まれた墓標が散

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見されたが、それを実見したときはなんともいえない気持に襲われた。時間の関係 で、中国人や朝鮮人強制連行者殉難者碑「不二之塔」までは足をのばすことができな かったが、三池の「恥部」の一端に触れた私の心は重苦しかった。

向坂逸郎さんがよく組合員や研究者たちと会食をしたという食堂―たしか「だいふ く」という店で、一〇年程以前、山下さんからヒヤリングをしたのもこの店だった―

で、昼食をとったあと、近くの学習会の会場へ向った。 (当日の報告は次に補論として収 録した)

補論

三池闘争と三池の学習活動 1三池との出会い

三池と学習活動について、報告します。

私は一橋大学でスミスとマルクスの研究者、高島善哉先生から、 「社会科学として の教育」の意義を学び、研究テーマとしてきました。

私が教育学を志した契機は、色々ありますが、やはり三池にかかわったことが一番 大きかったと思います。

これまで研究してきたことを最近一冊の本 ( 『 「国家・市民社会と教育の位相」―疎外・

物象化・ヘゲモニーを磁場にして』御茶の水書房) にまとめました。その柱の一つが三池 の学習活動です。そこで三池の「労働者の魂」がどのように成立し、浸透したのかに ついて、三池に関する諸文献 ( 『みいけ1 0年』ほか) や聞き取り調査によってまとめて みました。

当時の私の関心は「疎外論」でした。 「疎外」とは何かについて、マルクス、フォ イエルバッハ、ヘーゲルの思想を中心に勉強したのです。

いま考えてみますと、現存 (当時) の社会主義国家が本当にマルクスの考えたもの と同じなのかどうか、そうした疑問が次第に生まれてきたこと、それを探るために初 期マルクスに還れと当時よくいわれたのですが、そのためにも「疎外論」を中心にマ ルクスの思想の形成過程を見直してみようと思ったのです。

同時に私が注目したのはまさに三池でした。高島ゼミのテキストは『資本論』でし たが、その中で向坂逸郎先生がよくいわれた「窮乏化論」に関心を持ちました。大学 祭にゼミナールとして参加することになったのですが、そのテーマが「窮乏化論」で した。

講師に向坂先生を招こうということになり、私が頼みにいくことになりまして、鷺 宮の先生宅に伺ったのですが、その時に「大学の研究室で『資本論』を読むのもいい が、労働者達と一緒に読むことも必要だ」と言われ、先生宅で行われた読書会に参加 し大学では得られない様々なことを学びました。

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大学祭の講演でも先生が、 「研究室で窮乏とは何かを勉強することも大切だが、ま ず三池に行ってみるべきだ。そこには窮乏の現実がある」と言われたことが印象に 残っています。その直後、向坂先生に誘われて宇治の「花やしき」参りました。

「社会主義協会」の集会が行われていたと思いますが、そこで九大の川口武彦さ ん、小島恒久さん、それに三池の宮川睦男さん、塚元敦義さん達に初めてお会いした のですが、三池の労働者の発言に大変感銘を受けました。

それまでは炭坑労働者にある種の偏見を持っていたと思いますが、大学の先生方と 堂々と話し合っている姿に感動したのです。

そこでも大牟田に行くことを強く薦められて、その後、何回となく三池へ足を運ぶ ようになりました。宮川、塚元、そして今日お見えの山下開さんをはじめ、三池の労 働者から、一生懸命に聞き取り調査をしました。

一方で、向坂先生の著書を中心にして「窮乏化論」の勉強も続けました。向坂先生 は細い理論的なことより、むしろ「窮乏」という事態を狭く捉えるのではなく、窮乏 化の作用に対して、労働者が抵抗・反抗し、人間を変えていく側面も含めて考えなけ ればいけないということを強調されました。当時の私にはそのことが強く印象に残り ました。

窮乏化の内実については当時、様々な説があったのですが、論者の多くは経済理論 として、あるいは社会政策論として研究されていたと思います。しかし、私が向坂理 論に魅かれたのは、人間の変革としての面です。

つまり、単に経済的に窮乏化していくということではなく、その中でどういう風に 労働者が抵抗して自己変革を遂げるのかという面をみなければならないということで すね。

ですから窮乏化論という経済学の理論としてだけではなくて、むしろ人間の自己

「疎外」とその回復の論理を私は捉えたかったのです。

資本主義社会の中で人間が疎外されており、その疎外からどうすれば回復できるか という側面に大きな関心を抱いていました。マルクスが追究したのはまさにそのこと ではないかと思ったのです。

その眼目を三池の人達が実践しているのだと私には思えたのです。人間尊重、広い 意味で人権の実現だと思いますが、それを現実に行っている場が三池だと感じまし た。

もちろん、窮乏化論、そのベースに思想としての「疎外論」があるわけですが、単 なる人間尊重というスローガンだけではもの足りない、現実に、具体的な実践が行わ れていなくては虚しい。その検証の場を求めていたのです。

その時に、向坂先生からお話を伺い三池の労働者との交流によって次第に事態が見 えてきたのだと思います。窮乏化という作用を通しながら、人間が人間になっていく

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ということを三池において考えてみたいと思ったのです。

当時は、高度成長に向いつつある時代で就職も比較的よくて、一橋大学でも、大学 に入るまでは勉強するが、入ってから後は大企業に就職することだけを考えていた学 生が圧倒的に多かったと思います。当初、私もその一人でしたが、今、申し上げたこ とを学んで、やっぱりそれではいけないのだと考えるようになりました。

三池では厳しい労働と差別 (窮乏化作用) の中で、それに反抗しながら、学習に取 り組んでいることが強く印象付けられましたから。

当時、 「向坂教室」が喧伝されていましたが、経済学を土台としながらも、経済学 者がやれない面もやってみようという野心も生じていました。

2疎外解放の教育学

私の研究の原点は三池だと述べましたが、労働者の自己疎外とその回復という面か ら、三池の「教育」に注目し、のめりこんでいったのですね。

窮乏化論を経済学として、政策論としても勉強しなければならないと思いますが、

それだけでは向坂先生が解釈されるマルクスの理論を実証できないと考えて、三池に 関心をもったのです。

「教育」ということをどう捉えるかは難しいのですが、昨日の自分より今日の自分 の方がよりよくなるということ、また共に学びあいながら、生きる力を強めていくこ と。簡単にいえばこれが教育だと思います。

大学での教育はそういう面はほとんどありません。いい会社に就職するための教育 ということになっているのではないか。そのことに疑問を持っていました。そういう 生き方で本当にいいのかという疑問が、三池を通して、働く人々の学習を知ることに よって、強く感じました。

かつては会社のいいなりになっていた人間が共に学びあいながら、共に生きる力を 強めていく、しかもそれがわれわれが考える単なる学習でなくて、現実の労働疎外の 中で、そして、一人ではなくて組合に参加し集団性を強めてそこに依拠しながら疎外 からの解放を実践していく、これは教育研究が追求している、共に学びつつ、現実と かかわりあいながら、お互いを高めあっていく、究極的には生きる力をつけていくこ とと大きく重なるのではないか、といまも思っています。

向坂先生の著書を読み、直接お話を聞いて、教育をそのように捉え直すことができ ました。酒を飲みケンカをする毎日の生活では、とても資本とは闘えないと考え、自 分を変えていく。それも一人で変えていくのではなく組合という場を通して皆で変え ていく、これこそが教育というものではないかと思ったわけです。

そこで大学院は高島善哉先生の薦めもあり東大に行くことになりましたが、そこで は期待した教育研究を見出すことはできませんでした。そこで三池への往復が繁く

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なったのです。

次に「自然発生性」と「意識性」について、話を進めたいと思います。この問題は レーニンがカウツキーを援用して強調するわけですがこれが私の労働者教育の有力な 手がかりになりました。

そこで自然発生性と意識性の関係が具体的に三池ではどうなっているのかを、塚元 敦義さん、灰原茂雄さん、そして山下開さんなどのヒヤリングをもとに考えました。

塚元さんの『労働者宣言』 (労働大学発行) なども参考にして、知能の進んだ先進的 労働者達が向坂先生などをはじめとする知識人たちとどのように結びついて、理論を 自分のものにしていったかということを学んだのです。八人の先進的な労働者のグ ループの成立、その背景には大牟田の政治文化研究会などがあるわけです。

一例を挙げれば、労働者の学歴の構成なども、他の炭鉱と比較すると、当時として は三池は比較的学歴の高い人が多かったのですね。そのほか九州の幹線の一大拠点と しての大牟田の地域性、文化水準もあったと考えられます。詳しいことは前出の拙著 を参照して下さい。

ですから三池の労働者と向坂先生など研究者との結びつきが、単に自然発生的にで はなく、また偶然でもなく、それらが育つ土壌が大牟田にあったと思います。

しばしばいわれるインテリが知識をお説教するというやり方や、逆に知識人がコン プレックスを持って労働者の所に行って現場をはいまわるということでもなく、自然 発生性と意識性がうまく結びついたという事態が自分なりに理解できました。

ですから私は三池には、端的に「外部注入説」の超克があったと考えています。

3大衆路線としての学習活動

次に、 「労働者の学習、教育についての仮説」については前掲拙著にも詳しく記し ましたが、三池の労働者の学習は、単なるもの知り、物取りをまなぶことではなく、

まさに、人間であることの自覚化と実現ですね。

その具体的展開としては、 「さんづけ」闘争など素朴なしかし不可欠な人権闘争な どいくつかの例があります。それらを組合を通じて広げていったこと、単なるサーク ル活動ではなかったことが肝要です。

こうした学習活動が大衆路線として確立し、これが「英雄なき一一三日のたたか い」へと結実していくわけですね。さらに生活革命運動を組合として組織します。こ れは会社との闘いを強化するために、単なるものとりでなく人間の尊厳を守るために どうしてもやらなければならなかったのです。そのことが基礎となって生活革命運動 が取り組まれていきます。

私たちは、人権といえばフランス革命、市民革命の理念として教わりましたが、も ちろんそれはそれとして、学習として必要ですが、三池の人達はそうではなくて、人

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権意識を自分たちが身につけなければ闘いに勝てないというギリギリのところで体得 していくのですね。

私は三池のこのようなところに強い関心を持ちました。教育はつねに現実の問題と のかかわりで、つまり机上の空論ではいけないとよくいわれますが、それではどうし たらいいんだろうかということについて答は多くの場合でてきません。三池の場合 は、家計簿の点検、給料袋一日寝かせ運動などが組合的に提起されましたし、闘いに 勝つために、いいかえれば人間の尊重、人権を現実に守っていくためには、そうしな ければ闘えないのだという面から、取り組まれていくわけです。

現実の問題を単なる理論として教えるのではなく、これを一つひとついわば肉体化 していくことを組合を通してやっていったことに私はとても感動しました。学習内容 についても、その形態、回数など前掲拙著に詳しくまとめましたのでご参照くださ い。

「仮説」という事に関連していいますと、資本主義社会は労働者を広い意味での窮 乏化に追い込んでいく作用があり、それは哲学や思想という問題としてのみあるので はなく、具体的に人間の心身に発現していかないと教育の問題にはならないというの が私の考えです。そして、それをまず意識の鋭い人が受け止めて、それを対自化し次 第に大衆に伝えていく、その媒体、 核 というものがなければならない。それが三 池の場合は労働組合だったと思います。グラムシは「全ての人間が知識人になる」と いう事の重要性を指摘していますが、それを三池では組合を通しての具体的な闘いの 中で実現しようとしてきたことが、教育とは何かを考える大きな示唆を私に与えてく れたと思います。その先進的な知識人の最先端に向坂先生などの研究者のグループが あったという事、しかも理論を研究室だけで保持しているのではなくて、現場の末端 の労働者にまでにいかにしたら浸透 (共有) させていくか、いつも考えたことそれが 三池の学習活動の特色だったのではないかと思います。

そのほか、五人組、長期抵抗統一路線、主婦会活動などについても語りたいのです が、時間の関係で省略します。

4三池闘争の問題点

最後になりますが、以上の事を踏まえて「問題点」を述べてみます。

一つは、平井陽一さんの本で ( 『三池争議―戦後労働運動の分水嶺』ミネルヴァ書房) 強 調されていることと関わる点です。それは三池闘争の 本質 についてです。

つまり三池闘争は資本家の勝手な都合で労働者の首を切ってはいけないということ に本質があり、その点は共有化されているが、しかし、三池闘争の意味はそれだけで はなく三池労組が「労働者的職場秩序」を確立しようとしたこと、それを経営者側が 排除することに眼目があったと指摘されています。例えば「輪番制」などによって、

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労働者側が生産コントロールなども行うわけですが、このために資本の側は経営権が 現場に浸透しないことにものすごいショックを受けたわけです。逆に労働者的秩序が 現場に浸透しつつある、これでは職制の権限 (経営権) が保てなくなる。これは資本 は絶対に認めることはできなかった。 「生産阻害者」として「首を切る」という意味 はここにあったのだという平井さんの指摘です。

つまり賃金、労働条件向上など、普通の労働組合活動であれば容認するが、三池で は生産コントロールなど労働者による職場秩序を確立するところまで進んだ。このこ とは資本はなんとしても認められなかった。労働運動の臨界域を超えた。このことが 三池闘争の本質であるにもかかわらずどれだけ三池をはじめ、多くの人々に共有化さ れていたのかという疑問を平井さんは提起しています。

この点について、三池労組ではどのように捉えていたかという問題です。

二つは、一と関係しますが、ふつうにいえば組合活動は資本主義社会を前提とし て、その中で労働力を有利に売っていくというものですが、三池の場合はそれを乗り 超えていこうという意志と実践があったと思います。

輪番制、生産コントロールは資本主義的なやり方に反するというか、これを乗り超 えていく実例だといえます。しかし、これは労働組合だけの力ではとてもできるもの ではなくて、社会主義政党との協力、共同闘争などが不可欠ですね。たとえば「社会 主義協会」という一つの社会党の核を通じて労働と政党と研究者が一体化していこう という意欲はわかるのですが、そこでは具体的に資本主義を超えるどのような展望を 見出していたのでしょうか。これが第二の問題です。

三つは、部落解放運動と労働組合の関係です。 『みいけ二〇年』などを読んでみま すと、ほとんど部落解放運動のことは出てきません。ただ灰原さんの『三池と向坂教 室』 (社会主義教会発行) では、 「部落解放運動の人の支援、援軍が非常に力になった」

などの記述はみられますが。

部落解放同盟側の『労働運動と部落解放運動』 (三一書房) という本では、三池のこ とがかなり詳しく書かれています。

三池の労働運動の中で、部落解放運動が余り重視されていなかったという印象です が、実際にはどうだったのでしょうか。

部落解放運動に携わっている人々に聞いても、 「やっぱり主力は組織労働者で部落 解放同盟は一時的な支援団体として扱われたのではないか」といわれたことがありま す。このように三池では主力はわれわれ組織労働者なんだという意識が強かったので はないでしょうか。

『資本論』二三章も「産業予備軍」の論理が使われています。向坂理論もそれに依 拠しているわけですね。ですから組織労働者が主体であることはわかりますが、しか し、それを余りにも強調しすぎたために、そうでない人々とか、組織に入りたくても

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入れない人々との連帯ということが弱かったのではないでしょうか。こうした面につ いて、当時どのように現場では考えていたのかという疑問があります。

以上、三点について、問題を提起致しましたので、討論・ご教示いただければと思 います。

五、三池の労働者との出会い

私が初めて三池の労働者に会ったのは、一九六三年宇治の平等院近くにある料亭

「花屋敷」においてであった。ここは生物学者から労農党の代議士になり、その後テ ロによって暗殺された山本宣治の生家として有名である。

向坂さんは学園祭に来学し、私たちのゼミナール主催のシンポジウムで講演され た。テーマは『資本論』の「窮乏化論」だった。その時私たちに、アカデミックに「窮 乏化論」を論ずるのも結構だが窮乏の実態を識るには三池に行くのが一番よいと繰り 返しいわれたことはすでに述べた。そこでなんとか一度は三池の労働者に会いたいと 念じていたところ、大学祭が終わって間もなく、宇治で「集会」があることを向坂さ んから知らされ友人と二人で出かけたのであった。

宇治川を背景に向坂さんと並んで写した写真を眺めるとその時の情景が浮かんでく る。大争議時の指導者、灰原茂雄氏 (争議時三池労組書記長) 、塚元敦義氏 (同、本所支 部長) らの説得的発言には大いに感動した。またその後三池に行く度にお世話になっ た九州大学の川口武彦教授 (当時) 、そして小島恒久助教授 (同) たちに会ったのもそ の際であった。元社民党衆議院議員の嶋崎譲氏もその時九大教授として参加してい た。さらに、当時の総評議長太田薫氏を真近に見たのもその集会であった。

自由時間や食事の際に若い労働者や活動家に囲まれ、語り合う向坂さんの実に楽し そうな姿も浮かんでくる。夜は、当時未だ健在であった山本宣治の未亡人とともに、

宣治の生涯を描いた映画『武器なき闘い』 (下元勉主演) を観る予定であったが、私た ちの宿舎が京都市内であったのでそれは断念して友人とともに夕食後には花屋敷を辞 さねばならなかったのは残念であった。だが、お目当ての三池の労働者をはじめその 関係の様々な人々に会えて私の収穫は大きかった。九州大牟田の三池炭鉱を訪れる きっかけになった、私にとって記念すべき集会であった。

当時私は大学三年生だった。その時三池の労働者と初めて出会い彼らが研究者と対 等に論じあう姿を目のあたりにして、それまで想像していた炭鉱労働者のイメージを 一変された。大きな驚きであった。

すでに、三池大争議は終結していたが、テレビで観た、デモを繰りかえし集会で怒 号する三池の勇士たちと宇治の集会で静かに語る労働者とは大きくかけはなれてい た。一方、私たちが多少とも勉強した「窮乏化」の理論と三池闘争の生々しい現状分

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析の間には一定の 溝 が感じられた。向坂さんの示唆にもかかわらず、三池へ行く ためにはもっと勉強してこの 溝 を埋める必要があることを痛感した。この意味で も、宇治の集会における三池の労働者との出会いの意義は大きかった。

六、社会科学としての教育をめざして

―恩師の質問、その後の研究遍歴―

あなたは何故一橋大学の社会学部を志望したのですか。今から四〇年前、学部長に 就任早々の高島善哉先生が入学時の面接で私に発せられた質問である。新入生に対す る一般的な問いだったかもしれないが、高島先生にあこがれて社会学部を選んだ私に は忘れがたい質問であった。先生の名著『社会科学入門』も読んでいたから、自分の 生きる道を発見するために社会科学を学びたいという意味を夢中で述べたところ、大 きくうなずかれた先生の姿が今も浮かぶ。だが、卒業後教育学を専攻し、当時の先生 の年齢をとうに越えたにもかかわらず、先生にお答えしたことがどの程度実現できた のか定かではない。

手許の高島先生監修『社会科学小事典』の「はしがき」に先生は、 「政治と経済と 教育が現代社会の建物を支えている三本の大黒柱である」と書かれている。これはま た先生が当時「社会科学概論」の講義で繰り返された主旋律でもあった。さらに、私 たちが学んだ学部の教育課程は、創設時の学部長上原専禄氏にちなんで「上原構想」

といわれ、 「歴史」 「社会」と並んで「教育」が三部門の一つに位置づけられていたの である。現代社会の認識のために、社会科学の一領域に教育 (学) が重要な地位を占 めていることが印象深かった。次第に社会科学としての教育に関心をもつようになっ た背景には以上の経緯があった。

だが、社会科学としての教育を具体的に考える契機となったのは、一橋祭の折に高 島ゼミナールが開催したシンポジウム「窮乏化論」であった。すでに触れたところで あるが、講師として来学した向坂逸郎さんが「窮乏化」の実相を識るには三井三池へ 行ってみるがよいと勧められ、三池炭鉱を訪れたことが大きい。首切り (失業) 反対 のたたかいの過程で、 「眠れる豚」といわれた労働者たちが「怒れる獅子」に自らを 変革したという向坂さんの講演の一端を、家族を含めた労働者たちと交流する中で確 めることができた。自分を変えると同時に働く仲間が力を合わせて首切りのない社会 を創る。そのために現存の体制も変革する―高島先生が示唆された社会科学としての 教育を考える素材がそこに在るように思われた。経済理論としての「窮乏化論」を人 間の変革、社会の変革に適用しようとした向坂さんの考え方はユニークであった。私 はそこから社会科学としての教育学を読みとろうと思い立ったのであった。

先生の勧めもあって大学院は東大教育学部に進んだが、期待した社会科学としての

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教育学がそこには見出せなかった。そこで三池への往復を重ねる中で教育の意味を考 え続けた。 「窮乏」を当時の流行の思想「疎外論」のなかで捉えかえし、疎外回復の 契機に教育の諸相を探るという作業も試みた。その結果、どうやら「人間の疎外と教 育」という修士論文を書き上げたが、三池の豊かな素材を生かすことはできなかっ た。一方、三池闘争の終息を一大転機として、この国の経済成長が本格的に進み、「窮 乏」による体制の変革はリアリティを失ったかのように思われた。

ところが、初めて就職した大学でイタリアの革命家アントニオ・グラムシの研究者 にめぐり会い、グラムシの思想に接する機会に恵まれ、その思想の魅力に次第にのめ りこんだ。グラムシは一八九一年、イタリアのサルデーニヤ島に生まれた。その後ト リーノ大学に進み大学在学中に労働運動にかかわり、大学を中退して革命家を志し た。グラムシも、体制変革のために青年時代に三池闘争と類似した「工場評議会」運 動に携わった。

しかし、その後まもなくファシストによって逮捕・投獄され十余年の獄中生活を余 儀なくされ四七才の若さでこの世を去った。

獄中における困難な状況で、運動の敗北の分析を行い、思索を続けた彼は、それを 三千ページに及ぶノートに遺した。この『獄中ノート』のなかで生産点主義の狭さを 克服し、ついに「ヘゲモニー論」、ヘゲモニーの機能領域、その相克の場としての「市 民社会」の 発見 に至った。その思惟の展開は私にとって非常に示唆的であった。

「ヘゲモニーは全て教育的関係である」とはグラムシの有名なテーゼであるが、こ のヘゲモニーと市民社会概念の連関を深めていけば「修論」では究められなかった三 池の鉱脈を分析できるのではないか。その時社会科学としての教育もほの見えてくる のではないか。そう考えてグラムシの思想に取り組んだのであった。 (私のグラムシ理 解については近刊の拙著『現代に生きるグラムシ―市民的ヘゲモニーの思想と現実―』大月書 店、二〇〇七年を参照されたいが、グラムシのキーワード「ヘゲモニー」とは説得による合意 形成という意味である。 )

ベルリンの壁が崩れてまもなく高島先生は亡くなられた。その数年前に、かつての ゼミナールの仲間と先生宅を訪れる機会があった。先生の前に出るとあの入学時の

「面接」の時と同じくどきまぎしてしまいその後の「報告」も満足にできなかった。

残念の極みである。これからも、先生が課された「宿題」を考え続けなくてはならな い。四〇年にわたる研究遍歴のなかで、向坂さん、三池の人々そしてグラムシほか 様々な人々との出会いがあったが、私の人生における高島先生の存在の大きさに改め て驚かざるをえないのである。

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七、 「すべての人間は知識人である」

―三池の学習を考える基礎理論―

このグラムシの知識人についての考え方を知ったときは驚いたし、感銘もうけた。

なお、グラムシはこうも言っている。専門分野だけでなく、生活面も考えてみれば、

専門家、素人の差は一層少ない。だから、知識人と非知識人 (大衆) の差は質的なも のでなく量

なのだ。両者の違いを固定的にではなく、社会の関

機 能的に捉えるべきである。

グラムシが活躍した二〇世紀前半のイタリアはマスコミが発達しつつあり、大衆文 化の時代に至りつつあったのだからこのように考えたのも当然といえよう。しかし、

革命家グラムシとしては次のような分析をしていたことに注目すべきである。

たしかに、全ての人は知識人であり、哲学者であるが、そしてそれ故にひとはそれ ぞれの 世界観 を選択しそれによって生きているのであるが、階級の支配下にある 大衆の世界は分裂状況にある。つまり、自分のものではない世界観を他の集団から借 りてそれを言葉の上だけで肯定し、信じている。これは一つの「政治的事実」である。

「現実」は謙虚な人、つつましい人々によって表現される。まず、大衆の「現実」

があり、大衆がそれを表現することが出発点である。ただし、この場合の大衆の表現 はつねに首尾一貫した「哲学」として表現されるわけではない。

しばしば「フォルクローレ」としてあるいは「民謡」とかいったもの、一般に「下 位文化」として表現される。これは、知的な屈服、従属による。そのため、行動様式 もしばしば一面的、セクト主義に陥らざるをえない。

ここで、知識人の役割が必要になるがグラムシは次のように述べていることにとり わけ留意を促したい。

分裂状況の克服のためには知的な人々の活動が要請されるが、それは大衆の「表現 する」 「現実」を練り上げることでしかない。しかも、グラムシは個人生活のなかに まったく新たに「一つの科学」をもちこむことが問題なのではなくて、すでに存在し ている活動を革新し「批判的」なものにすることが問題なのだ、と述べていることに 注目したい。

しかも、この際に忘れてはならないことは、大衆によって表現された「現実」を「感 ずる」ことなしには不可能であるにもかかわらず、知識人は往々にして「感じ」もし ないで「知る」ことができると思いこんでいるとグラムシは批判する。

ここからグラムシは次のようにいう。

大衆的分子は「感ずる」けれども、いつでも理解し、知るというわけではない。知 的分子は「知る」けれども、いつでも理解するとはかぎらないし、とりわけ「感ずる」

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とはかぎらない。

このため両者の「接触」が必要になる。

知識人は大衆とつねに「接触」を保つことによって、 「現実」を感じとらなくては

コ ム コム・プレンデレ

ならない。いいかえれば、大衆とともに現実を掴みとることが「知」識人の「知」の 前提である。その過程で「練り上げられた」ものこそが知であり、これをなし得る者 が知識人なのだ。

大衆もこの「接触」によって理解 ( 「とも」に「掴みとる」 ) し、自分たちの「哲学」

を「練り上げる」必要がある。

以上の知識人と大衆についてのグラムシの提言は示唆に富んでいる。ただし、それ に基いて三池の学習の構造をを系統的に分析するには至っていない。しかし、後論に 触れたように、向坂さんも、そのほかのチューターも機会あるごとに三池に滞在し、

労働者と絶えず「接触」を保とうとしたことは断言できる。そのことによって労働者

「大衆」の「現実」を「感じ」とろうと努めたのだと思う。そうした努力が『資本論』

という「知的」な教材を労働者「大衆」の「現実」である「フォルクローレ」「民謡」

といった、一般に「下位文化」として表現されたものとの架橋を可能にしたのではな いか。そして、労働者大衆のなかに「すでに存在している活動を革新し」それを「批 判的」なものに「練りあげる」ことを可能にしたのではないかと推測される。

逆に、それを通して知識人の方も『資本論』の理解をより深めたという面を忘れて はならないだろう。たとえば、後論で「労働強度」の例を述べたが、労働者はこれを

「疲れた」という感覚で表現した。知的分子はこれまで、 「労働強度」をこのように

「感じ」ることを含んだ 理解 をしていただろうか。大衆的分子と「接触」するこ とによってはじめて「労働強度」の新しい「理解」が可能になったのである。

しかも、三池の学習会は生活から遊離したサークル的なものではなく、厳しい闘い をすすめるために同志的結合をめざした組合による組織的学習であった。それによっ て、 「階級の支配下にある大衆」の分裂した世界観の克服を志向したことを忘れるべ きではない。この点を特記しておきたい。

八、眠れる豚 怒れる獅子

苛酷な三池の労務政策のなかで三池の労働者はどのように立ち上がったのか。どの ようにして強い組合をつくり上げたのか。向坂さんによれば、それは「窮乏化理論」

だということになる。向坂さんはよく私たちに、 「三池の労働者を育てたのは我々 じゃないよ、日本の独占資本だよ、三井資本だよ」といった。つまり、資本主義的一 般法則が一方で労働者に「窮乏」を強いたが、他方でそれが契機となって労働者を団 結させ、その窮乏に抵抗させる力を生みださせたのだという意味である。その根本に

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参照

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