人民主権の論理
白石正樹
人民主権の論理
一 目
二
三 次
人民主権の性質
1主権の不可譲性2主権の不可分性
人民主権の限界人民主権の維持
1人民集会(小国)2代議政治(大国)
一人民主権の性質
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人民主権の原理は︑政治思想史上︑J・J・ルソーの名と分かち難く結びついている︒十入世紀の中頃︑﹁祖国は自
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由なくして︑自由は徳なくして︑徳は市民なくして存在しえない﹂と書いたとき︑ルソーは﹁市民﹂の真の意味を歴96
史の彼方に喪失した近代人に︑徳と自由を︑また祖国を教えることがいかに困難な課題か十分認識していたはずであ
る︒﹁大部分の人は︑都会(<≡︒)を都市国家(Ω什似)と︑また都会の住民(び︒⊆お8芭を市民(Ω8団窪)と取りちがえてい
( 2 )
る﹂.ここには彼の嘆息が感じられる︒しかし︑個人の自由が︑自分で自己を律することにあるとすれば︑人民にとっても自由とは︑自分で自己を律する︑つまり自己立法︑自己統治であらねばならない︒これがルソーにおける政治
的自由であって︑人民による人民のための政治は︑理論的に︑人民主権の原理を要請することになる︒
( 3 )
主権の定義は︑﹃社会契約論﹄よりも﹃ジュネーヴ草稿﹄で︑より詳しく説明されている︒例えば﹁国家には︑国家を支える土ハ同のカ(二b6暁OHOO60bPゴP二昌O)と︑この力を導く一般意志(巨︒<︒喜紙ひq曾陣巴︒)とがあり︑後者の前者
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への適用(越bぎ彗8)こそ主権を構成するものである﹂.また﹁主権の真の性質は︑一般意志の指導と公権力の使用( 5 )
との問に︑つねに時と所と効力の一致(毬8a号8日ρ締猷o〜山.︒{h9があるということである﹂︒これに対して﹃契約論﹄には︑草稿の定義をはるかに簡略にした次のような表現しかみられない︒すなわち﹁主権は一般意志の行使
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(O×①HO戸O⑦)にほかならない﹂︒もっとも︑定稿第二編第一章のこの表現も︑政治体の能動的側面に関係し︑立法権として顕在化した主権を意味す
る点では︑草稿第一編第四章の二つの説明と同じ主旨である︒既に﹁社会契約﹂の定式で明らかにされたように︑ル
ソーにおいて﹁主権者﹂とは︑自覚的︑法的結合体としての人民にほかならなかった︒すなわち︑契約締結によって
ヘへ成立する政治的人民が︑能動的には﹁主権者﹂︑受動的には﹁国家﹂と呼ばれた︒この能動的とは︑法的秩序の創造
ヘへを意味し︑受動的とは︑法的秩序の維持を意味していた︒従って︑これらの主権の定義も動態的に把握する必要があ
ヘへるのであって︑その際︑定稿の定義は︑人民の一般意志の顕在化︑つまり立法権の行使であり︑法秩序の創造に対応
ヘヘへすることがわかる︒同様に︑草稿の二つの定義も政治体の能動的側面を表現しており︑適用とはその作動であり︑一
へ激とは作動の緕果を表わしていることがわかる︒
人民主権の論理
しかし﹃契約論﹄には︑動態的な主権の概念のみでなく︑次のような静態的なものも見いだされる︒﹁主権は本質
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的に︑}般意志のなかにある﹂︑また﹃エミール﹄にも﹁主権の本質(い︑①ω︒︒88号冨︒︒︒薯①邑器什似)は一般意志のな( 8 )
かにある﹂と記されている︒こうした説明は︑先の諸定義と同様に︑主権を人民の一般意志のうちに見いだす︒しかし︑これを二般意志の行
使﹂つまり立法権の行使に限定しないことにおいて︑先の諸定義と異なっている︒このような静態的概念の意義は︑
主権が具体的に立法権として機能していない時にも︑主権が潜在的に︑人民たる資格として︑人民の中に常住すると
いうことにある︒このことは﹃契約論﹄第四編第一章のルソー自身の説明によって明らかになろう︒すなわち︑政府
の圧政や一党派の専制によって︑人々の自由な意見が沈黙を余儀なくされ︑個別的利害を目的とする不正な恣意のみ
が法律として可決されるような場合がありうる︒そうした場合︑一般意志が破壊された︑あるいは腐敗したというこ
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とになるだろうか︒﹁否︑それはつねに存在し(けOρμ]Od[﹃ωOO]Pωけ帥]DけO)︑不変で純粋である﹂︒さらにルソーは︑﹃山からの手紙﹄(︼七六四)に次のように書いている︒﹁主権が人民の掌中にある諸君の国のような国家においては︑つねに
姿を現わすということはなくとも︑立法者(寂σq巨讐︒舞)はつねに存在する︒それは人民総会(O︒口ω亀σq鏑卑①一)におい
てしか︑集合せず畿をもって話さない・しかし人民総会以外では・消滅してしまうのではな脇煕・ここで立馨
というのは︑立法権を有する人民口主権者のことであって︑人民総会が散会しても︑つねに主権が人民の中にあると
いう静態的概念が示されている︒
1 主 権 の 不 可 譲 性
︑
人々が﹁社会契約﹂によって国家を設立した目的は︑生来の自由を損うことなく︑自分達の生存と幸福を保証する法的秩序を作ることである︒そしてこの目的に向かって国家の諸権力を指導できるのは︑人民の一般意志のみであ
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る︒なぜなら﹁個別的利害の対立が社会の設立を必要なものとしたとしても︑その同じ利害の一致こそ︑社会の設立
を可能なものとしたのである︒こうしたさまざまの利害の中にある共通なものこそ︑社会のきずなを形成するのであ
る﹂(9ミミ︑Lぎ戸魯・一)︒政治社会は︑もっぱらこの土ハ通利益に基づいて統治されねばならず︑この共通利益をめ
ざす人民の一般意志のみが︑正当性を具えた主権の名に値することになる︒
・ルソーによれば﹁主権者とは集合的存在(ロコ伽什民ΦOO一一〇〇叶一{)にほかならない﹂(奪ミ)︒こうした主権の集合的構成か
ら︑主権の二つの性質︑すなわち不可譲性︑不可分性が引き出される︒ところで︑人民主権が譲渡できないとするル
( 11 )
ソーの主張は︑ヘンデルの指摘するように︑過去との断絶を卒直かつ明白に告げる新理論であった︒一般に︑大陸の近世自然法学派においては︑天賦不可譲の権利(自然権)という観念が希薄であって︑グロチウスに典型的に見られる
ように︑個人が自己の自由を譲渡ないし放棄して他人の奴隷となることも何ら妨げなかった︒これと同様の推論によ
って︑人民主権も当然︑君主に譲渡しうるものとされていた︒また︑プーフェンドルフ︑ジュリウ︑バルベィラック
等は︑人民が支配11服従契約(統治契約)によって︑その主権を君主に譲渡しうると考えていた︒
これに対してルソーの前提は︑個人の自由が譲渡ないし放棄しえないという人間性(げコbP鋤旨騨α)の理論である︒自由
の放棄とは︑人間たる資格︑つまり人問性の権利ならびに義務をさえ放棄することであって︑人間の自然と相いれな
い︒彼の﹁社会契約﹂は︑いかに全面的譲渡という形式を取ろうとも︑個人の自由を放棄するのでなく︑無制約な自
然的自由を制限して︑自律的な市民的自由に変えるのみである︒同様に︑本来独立の個人として︑アダムやロビンソ
ン●クルーソあ如㌔)潜在的主権の籍を有する会が・契約締結によって成立させた主馨とは︑集合体として
の人民自体にほかならなかった︒主権は人民の一般意志の中に︑かつその行使にのみ存し︑一個人または一部の人々
に譲渡することは不可能である︒またルソーは︑﹃社会契約論﹄の﹁政府の設立は決して契約でないこと﹂という章
その他で︑支配11服従契約の観念を根底的に否定し去った︒
ざて︑大陸の近世自然法学派において︑人民が主権を譲渡しうることについては異論がなかったが︑主権者となった
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君主が同様に主権譲渡権(あるいは王国譲渡権)を有するかどうか︑については見解が分かれていた︒グロチウスによれば︑君主が主権を完全なる所有権として(冒お滋①ぎ胃8膏鼠口ω)有するか︑それとも用益権によって(冒おロω無﹃ロ?
ε帥H凶︒)有するかに従って︑王国の区別(すなわち﹁o旨βヨ①ω冨践ヨo巨碧×または喉o蜜霊80ω口のg陣自099︒畔①︒Q)が生ずる︒
前者は︑征服権による建国か︑人民が留保なしに服従した場合であって︑この場合には君主は自由に主権を譲渡でき
る︒後者は王国が人民の自由な同意によって(b錠琶覧︒貯︒二蕎︒8昌ω自8日︒導含℃窪覧①)設立された場合であって
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この揚合には︑人民は君主が主権を譲渡することを認めているはずがないとされる︒プーフェンドルフやビュルラマキの理論にも︑こうした王国の区別が認められる︒しかし︑グロチウスの﹃戦争と平和の法﹄をフランス語に翻訳し
たバルベィラックは︑このような君主の主権(王国)譲渡権をほぼ否定している︒彼によれば︑君主が完全なる所有
権としての主権を所持するのは︑ただ一つ次のような場合に限られる︒それは君主と人民との契約(60昌くO口汁一〇口)が︑
君主は王冠譲渡権(山轟輿碁①二簿︒・霞・量を有すると明言しているときであって・これは極めてまれであ弼主
権の所有は︑当然その行使権を伴うが︑しかし譲渡権を意味しない︒正確には同畠窪墓ωb讐誌臼︒艮き×は決して存在
しないし︑主権は︑君主が思いのままに使用しうる相続財産(ロ昌冨巳日o貯o)と同列に扱いえない︒このようにバルベ
ィラックは︑所有権と主権との混同を避けて︑君主の主権譲渡権を否定している︒しかし︑彼は支配口服従契約を是
認していたから︑次のように人民の主権譲渡を当然のことと考えていた︒﹁人民が︑いかなる方法によるのであれ︑真
正の君主に服従した瞬間︑入民はもはや主権をもたない︒なぜなら︑ひとが一権力を誰かに委ね︑しかも︑それにも
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かかわらずその権力を保持しているというのは︑矛盾を含んでいるからである﹂︒ただし彼は︑君主が公共の福祉に反して主権を乱用したときには︑人民の側にそれを取り戻す権利(脅o蹄号δH①實曾紆⑦)が留保されているとしてい
る︒