︿論説﹀
アメリカ初期労働組合の結成と政策
アメ リカ初期労働組合の結成 と政策
はじめに
一︑独立後の労働者の状態
二︑商業資本主義の進出
三︑一時的団体の出現
四︑初期労働組合の結成
五︑初期労働組合の政策
おわりに 高橋保
はじめに
43
本稿は︑アメリカにおける初期労働組合の結成の背景および過程︑ならびにその政策について考察したものであ
る︒
一般に歴史発展段階において︑はじめて労働組合が結成されるときには︑二つの条件が整っていることが必要であ
る︒一つは︑唯一の生活資料である労働力を使用者に提供し︑その対価として賃金をうけとり︑これによって生活を
営む賃労働者階級が発生することである︒他は︑労働者個人が賃金︑労働時間その他の労働条件の改善について︑使
44
用者といわゆる個人交渉を行い︑その結果個人では要求が実現されえないことを痛感することである︒資本主義社会において︑労働組合の結成はもともと必然的な現象であるが︑そこに至るまでには少なくともこの二つの事柄が必要
かつ前提条件とされる︒
アメリカにおいて︑はじめての労働組合の結成をめぐって右のような前提条件が発生してくるのは︑独立戦争後︑
一七七〇年代後半である︒このころ︑商業資本主義が進出し︑いくつかの地方都市に親方と職人︑徒弟との離友現象
が生じ︑また工場制度の発展により工場労働者も発生してきた︒その結果︑労働者の間に一時的な団結が形成される
ようになった︒しかし︑このような団結は︑今日のような近代的な意味における労働組合とは異るが︑正式な労働組
合結成の前兆的な現象であった︒
アメリヵではじめての労働組合の結成をみるのは︑一七九二年である︒このとき︑ブイラデルフィアの靴工職人が
アメリカではじめての永続的な労働組合を結成した︒その後︑この労働組合は約十週間に及ぶ長期的なストライキな
・ども行っている︒そのような影響もあって︑同じような永続的な労働組合がいくつかの地方都市に誕生してきた︒
問題は︑このように発生してきたアメリカの初期労働組合が︑いかなる政策を企画し︑実施してきたかである︒し
かし︑これについての研究は︑きわめて困難なものとして︑あらゆるところで指摘されてきた︒それは︑何よりもア
メリカの初期労働組合のほとんどが一時的に結成され短期的にしか存続しなかったからである︒さらに︑このような
初期労働組合の行ったストライキも︑そのおおくは敗北したからである︒そのことから︑アメリカ初期労働組合につ
いての歴史的な記録が残されていなく︑これがまた研究の大きな障害になっていた︒
しかし︑幸にもそのような初期労働組合にあって︑たまたま靴工および印刷工の労働組合のみが︑比較的継続的な
労働組合を結成し︑積極的な組合活動も展開してきた︒そのためアメリカ初期の労働組合の政策については︑これら
アメ リカ初期労働組合の結成 と政策
45
の労働組合の歴吏的な記録を通して︑その全体的な状況を知る努力がなされてきた︒
今目︑この分野の研究を知る手がかりとして︑優れた古典的な労作が存在している︒たとえば︑コモンズを中心と
するウイスコンシン学派の手になる﹁アメリカ産業社会資料史﹂(>u︒2日魯§嘱田︒︒δ蔓︒h︾ヨ①.一︒⇔昌H5飢¢︑什円一⇔δ︒︒一①q)
や﹁アメリカ労働史﹂(田ω8蔓駄い接自ぼ筈①d箪巴ω翼Φ︒・)︑また︑フォナーの﹁アメリカ労働運動史﹂(震.け︒.団︒h
夢①ピ筈霞竃︒<①ヨ︒三冒昏︒d鼻巴ω叶讐⑦ω)などである︒
わが国において︑この分野の研究はけっしておおいとはいえない︒しかし︑なかでも︑川田寿著﹁アメリヵ労働運
動史﹂︑松井七郎著﹁米国労働運動史﹂などは︑優れた古典的な労作である︒本稿においても︑これらの著書のご威光
に浴していることを断っておきたい︒
なお︑本稿は︑﹁アメリヵ労働法の形成過程﹂の研究のため︑カリフォルニア大学(UCLA)に留学中︑ベンジャ
ミン・アーロン(ゆ︒且㊤巨口︾費8)教授の心暖まるご指導により︑ものにした研究の一部である︒研究の未熟さに恐
縮しつつ︑同教授に心から感謝申し上げたい︒
一︑独立後の労働者の状態
一︑一七七六年︑アメリヵの独立戦争は︑植民地側の勝利に終った︒この戦争は︑大きな二つの運動が同時に行わ
れたものであった︒一つは︑母国イギリスの抑圧的な支配から植民地を解放することであった︒他は︑アメリカ植民
( 1 )
地における政治的︑経済的︑社会的制度の民主化であった︒独立戦争は︑これらの運動を背景に︑労働者︑大多数の小農園者︑商人貴族らの自発的な結束によって行われた︒
なかでも植民地の労働者たちは︑この戦争中イギリスの植民地政策に積極的に反対して︑結束した行動をとった︒そ
れからの行動は︑一つの州内の行動に止まらず︑他の州との相互的な関係を形成するまで発展した︒こうして︑労働
者たちは︑自ら後に全国的な労働組合をつくる下地をつくりあげていった︒
独立戦争の結果︑アメリカはいよいよイギリスの重商主義植民地政策から解放された︒その結果︑アメリカは自国
の利益のために︑国内産業を行うことが可能となった︒また︑イギリスからの解放の結果︑アメリカは国内国外の市
場も拡大した︒さらに︑一七入九年になると︑ワシントンが初代アメリカ大統領に選出され︑新政府が発足した︒そ
して︑この新政府のもとで十三州が結合を強化し︑政局が安定した︒独立後のこれらのアメリカの情勢の変化は︑こ
の国の豊かな天然資源とあいまって︑産業を飛躍的に発展させることになった︒
二︑しかし︑独立後アメリカの産業は飛躍的に発展したものの︑労働者の生活状態は︑植民地未期時代と大差はな
かった︒労働者は︑この独立戦争によって︑とくに得たものは何もなかった︒
独立後のアメリカの労働者には︑まず戦争中の兵役を免れた植民地時代の年期奉公人(ぎ号三霞巴ω霞くき邑がいた︒
これらの末禦公人は︑独立後の大陸会議の葎によってすべて自由人(ヰooヨ雪)とな禽・また・奴隷制度から
解放された大多数の奴隷もいた︒さらに︑アイルランドやヨーロッパ各地方からやってきた多数の移民もいた︒また
さらに︑後に述べるように︑工場制度の発展とともに登揚してきた年少者や女子もいた︒
年少者や女子を除くと︑これらの労働者のほとんどは︑靴工︑印刷工︑大工︑石工︑レンガエ︑帽子工︑縫裁工・
船員として働いていた︒これらの労働者には︑熟練工や末熟練工がいた︒ほとんどの労働者は︑最初徒弟として働
き︑やがて職入となり︑さらにそのあるものは親方職人(ζ鋤ω§︒歪穿ヨき)となった︒
親方と職人は︑一つの仕事をお互に協力し合いながら同じ道具を使って働いた︒当時の労働者は︑最初徒弟とな
り︑それから職人とな親方となっていくことは綾的容易であ%準彼らは・独立撃の前から・病気華故にそ
なえるために︑また寡婦や弧児の救済のために︑自発的な﹁相互扶助団体﹂(チo日βε巴げgo津︒︒09①9ω)をつくって
いた︒しかし︑このような団体をつくっていたとはいえ︑労働者たちは常に賃金その他の労働条件について不満をも
アメリカ初期労働組合の結成 と政策
贋 (4)ち︑憤りの感情さえあらわしていた︒
三︑独立後︑アメリカでは織物工場を中心とする工場制度が発展してきた︒とくに︑ニューイングランドでは︑他
に先きがけてこのような織物工場が盛んに営まれるようになった︒
アメリカにおいて︑このような工場制度が発展してくる一つの背景は︑イギリスからの移民である︒イギリスで
は︑当時すでに繊維産業が盛んに行われていた︒まず︑一七三五年ジョン・ワイアットが紡績機を発明し︑産業革命
の端を開いた︒続いて一七六九年に︑スコットランドの技師ジェームス・ワットは実用的な蒸気機関を発明して産業
革命の第二段階がもたらされた︒この蒸気機関は︑本来坑内の水を汲み出すために工夫されたものであるが︑後に繊
維工業の動力として用いられるようになった︒イギリスからの移民は︑このような繊維産業についての知識をもって
アメリカにやってきた︒たとえば︑一七八九年にはサミェル・スレイターはイギリスから移住してきて︑アークライ
ト式水力紡績⁝機をアメリカに伝えた︒こうしてアメリヵでは︑繊物工場を中心に工場制度が発展するようになった︒
一八二〇年代後半になると︑アメリカでは地方のあちらこちらに織物工場が出現し︑そこで働く工揚労働者が次第
におおく現われてきた︒とくに︑このような工揚労働者は︑一八四〇年代以後になると︑急激に増加してきた︒
工場労働者のうち︑織物工場の労働者のほとんどは︑年少者と女子であった︒一八二〇年頃︑織物工揚の半数が九
から十歳の少年少女で︑労働時問は一日十二時間から十三時間︑賃金は一週三三から六七セントであったと報告され
て味琵︒また︑当時の典型的な広告に﹁求む︒木棉工場で働くことのできる五歳から入歳の子供たち﹂というものさ
(6)えあったといわれている︒
その他の地方の織物工揚の労働者は︑ほとんど近くの農夫の娘たちであった︒彼女は混み入った風通しの悪い工場
の寄宿舎で生活していた︒労働時間は長く︑朝五時から夜の七時までで賃金は一週二〜三ドル以下という安さであっ藁