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社会史と大江さん

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社会史と大江さん

東   敏 雄

       ととなった。大江志乃夫さんにはそのときはじめ1      て会った。塙作楽さん,木戸田四郎さん,米田和

ここでいう社会史とは一般的な意味での社会史   夫さん,鈴木清さん,平野伸生さんがいた。木戸 ではない。大江さんが担当してこられた茨城大学  田さんは私を引き合わせたところで用は済んだと 人文学部社会科学科の講義科目としての社会史で   でもいうように,演説会とか,席をたって行った。

ある。この文章の題名も「大江さんと社会史」,  姿よく焼上った「いしもち」が目の前にあった。

「社会史と大江さん」,いずれを採るか迷ったが,  私にとって,勝田市史事始めであった。」(拙稿 結局いま言ったような意味での社会史を軸に大江   「ある,でんわ,から」『勝田市史近代・現代編H

さんの業績の一端を眺めてみようという趣旨から  付録」1981.3)。

して後者にすることとした。       もっとも,この文章では昭和45年秋のある日と 大江さんのお名前はだいぶ前から知ってはいた。  書いているが,記録を見ると,大江さんが総括主 しかし専門分野が違うということもあって,著書  幹として委嘱されたのが45年7月1日で,私は幹 論文に目を通すことはほとんどなかった。もちろ  事として1か月後の昭和45年8月1日に委嘱され

ん面識もなかった。大江さんと私との出会いを取  ているから,これは夏7月のある日というのが正 り持ったのは,勝田という自治体の歴史編さん事  確である。

業であった。大江さんはこの事業に責任的立場で    このころ大江さんは東京教育大学に所属され,

参加されたのである。       東京は練馬区の大泉学園あたりに住まわれていた。

私は以前こんな文章を書いたことがある。    大江さんは月に一回,勝田に通われていたのであ

「午後も5時を過ぎれば,わが研究室は居心地   る。私たち近現代史の編さん委員は,月に一度研 がよい。エレベーターはもう動かない。6階にあ  究会を開き決して事務手続きだけの会にはしない,

るので離れ小島だ。脚を余り使わない現代人は,  という方針をたてた。これを頑ななまで押し通し 百段余りの階段を敢えて登っても,という気持ち  た。大江さんご自身もこんな文章を書いている。

にはならないらしい。それに,でんわも通じない。   「月例研究会に私が欠席したのは二回である。

自宅では,わが部屋の受話器はとり外してしまっ  一回目は49年12月9日だと記億するがかぜをひい た。というわけで,独りでいるときはでんわと  て発熱し,研究会終了後に中根の『はこや』で予 縁がない。それでも,家人が在宅するときはだ  定していた忘年会にも欠席した。二度目は55年3 め。だから5時過ぎの研究室はわが家より快適で   月28日,同月6日に胃潰瘍の手術をし,21日に退 ある。       院まだ自宅で臥床中であった。私が参加した研

昭和45年秋のある日,そのでんわが鳴った。宿  究会でこれほど定期的に開かれ、これほど永続し,

直まで外から電話がかかっているという。外線と  これほど欠席することなく身を入れた研究会はな 内線の受話器を重ねるという細工をしたらしい。  いし,これほど内容の充実した研究もめずらしい。

微かに声が聞こえてくる。こうして,そのころは  この永年にわたる継続的な共同研究の成果が近代・

いきつけの,季節料理が看板の店の一間に坐るこ  現代編二巻を産みだすことができたのであるから,

(2)

ちょっと他の自治体史編さん事業がまねできるこ  の設置は学科の構成原理に総合性を持ち込むとい とではないとひそかに自負している」(大江志乃   う意味で画期的的な役割を果たした。たとえば地 夫「近代・現代編二巻を完成した今」同前)。    方自治論は経済・法学・経営商業・社会という旧 この自治体史の編さんは大江さんその後のお仕  来の「教室」割拠的性格とは異質のものだったか 事にも影響を与えたのではないか。大江さんはい  らである。

まの文章に続けて次のように書いている。      しかしこの流れは突如として形成されたもので

「私自身もちょうど40代の年齢の油の乗りきっ  はなかった。それはたとえば,学科決議というよ た10年余を勝田市史編さん事業に振り向けたから  うな明確なものではなく,したがって学科の全員 総括主幹という大役が勤まったのであり,一生に  がはっきり意識していたというようなものではな 二度とできない大事業であったし,また今から大  かった。だが後になって考えてみれば以前にあっ 学定年近い年齢までの今後の10年間にもう一度こ  ては経済学科の中でほとんど地歩を占めていなかっ れとおなじ規模の事業をやれといわれても,その  た社会学を,ひとつの教室として充実していこう 体力も意欲もない。「勝田市史』はその意味では   という意志が学科に芽生えたとき総合化は始まっ 私の一私だけのではないが一ライフ・ワークであ  たのである。政経学科から経済学科へという狭い る」(同前)。       専門分野への分化の道が制度として採択されなが ライフ・ワーク。重い言葉である。大江さんは   ら,それとは逆な総合化への底流が動き始めたと 限定をつけてこの言葉を使っておられるが,それ  いうことである。わが国最初の社会科学としての にしても,ここでの仕事と体験が大江さんその後  総合的学科への展開は,この動きを抜きにしては の研究に影響を与えたと想像するに難くない。   考えられない。大江さんはこの新生社会科学科が,

カリキュラムの目玉商品のひとつとした社会史初 2      代の担当者として,1976年5月茨城大学に赴任さ 東京教育大学の大江さんが勝田市に通っておら  れたのである。

れたころ、茨城大学ではひとつの教育改革が進行    大江さんが前任校の東京教育大学で社会史とい していた。人文学部経済学科でのことである。経   う授業科目を担当されていたのかどうか,それは 済学科は大江さんが所属された社会科学科の前身  知らない。いずれにしても社会科学としての総合 である。       的教育のかなめとして位置づけられた茨城大学で 1949年5月31日,茨城大学は戦後教育改革によ   の社会史という科目は,大江さんにとっても初め る新制大学として発足した。社会科学科の遠い前  てのことではなかったのか。最初のころ,大江さ 身である政経学科は,このとき,文理学部内の一   んは社会史の講義概要を次のように記している。

学科として産声を上げた。14年を経過した1963年,   「講義の概要:社会史とはどんな学問であるか.

政経学科は経済学科に改組された。このとき政経  社会史の方法はどのようにあるべきかを序論とし,

学科という複合的学科は経済学科から経済学部へ   自然史と社会史とのかかわり,社会関係の成立と という専門分化の方向に方針転換したのである。  発展の歴史を,主として日本の歴史に即して,原 その5年後、1968年には経済学科,文学科,理学   始社会より近代に至るまで概観する。

科で構成されていた文理学部が改組され,教養部,   社会史という学問分野はまだ十分に確立してい 人文学部,理学部となった。文理学部経済学科は  ず,古くは社会経済史というかたちで経済史と分 人文学部経済学科となった。       離していなかった。その後,民俗学や比較人類学 それから4年,1974年のこと経済学科に地域社  や社会学の分野での歴史的考察が社会史的な方法 会論という学科目が増設された。授業科目は地域   の中に取りこまれ,近代に至っては文明の生態史 社会論と地方自治論の二つであった。この学科目  観や地域研究というような新しい問題提起もまた,

(3)

広義の社会史としての存在を主張しつつある。こ  における新局面を拓いたのではないのか,と。感 うした研究領域の昏迷のなかで,学際的領域に属   である。

する社会科学としての社会史をきずきあげること   大江さんは茨城大学の冊子のなかでご自分の研 がさしせまった課題になっているが,そうした多  究分野を社会史とされ,これを「近代日本社会史 様な傾向を整理しながら,社会史とはいかにある  とくに近代軍事史および民衆史」と説明されてい べきかを考えてみたい」(『昭和53年度 文学科・  る。この短かな表現だけでは近代日本社会史,近 社会科学科 授業科目講義概要」茨城大学人文学   代軍事史,民衆史,三者の関連は判然としないが,

部)。      大江さんが続いて挙げておられる業績リストを見 るとひとつの姿が浮かびあがってくる (『茨城大 3       学教官要覧』茨城大学,1988)。

大江さんが茨城大学に赴任される以前のある夏    『国民教育と軍隊一日本軍国主義教育政策の成 のこと,勝田市史編さんに関係する何人かで島根   立と展開一』新日本出版社,1974。

の海辺を訪れたことがある。大江さんご夫婦も一    『日露戦争の軍事史的研究』岩波書店,1976。

行の中にあった。志田諄一さん,平野伸生さん,   「戒厳令』岩波書店,1978。

そして私ども夫婦と下の娘が一緒であった。同じ    『戦争と民衆の社会史」現代史出版会,1979。

く勝田の市史編さんに専門委員として参加されて    『徴兵制』岩波書店,1981。

いた帯刀治さんの生家が海辺街道筋の宿でそこを    『昭和の歴史3・天皇の軍隊』小学館,1983。

訪れたのである。海で浴び,沖に釣りし,日本海    『統帥権』日本評論社,1983。

の珍味に杯を傾けた何日かであった。その折,大    『靖国神社』岩波書店,1984。

江さんは茨城大学に行っても,という意味の言葉    『凧の時』筑摩書房,1985。

を洩らされた。勝田という自治体史編さん事業の    『日本の参謀本部』中央公論社,1985。

なかで大江さんの心情が茨城に近づいたことを実    『日露戦争と日本の軍隊』立風書房,1987。

感したものであった。大江さんにとってもこの小    「兵士たちの日露戦争一五百通の軍事郵便から一』

旅行は印象深かったらしく,「凧の時』のあとが   朝日新聞社,1988。

きに同書にある出雲方言に触れて,これは「茨城   大江さんにはこれ以降も「税務署の犯罪一納税 大学の同僚で簸川郡多伎町出身の帯刀治氏の手を  者の告発一』(立風書房,1988)から「壁の世紀』

わずらわした。氏の実家は,現在は営業していな  (講談社,1992)まで7つの著作がある(「教官研 いが,山陰道筋の日本海に面した宿場の大きな旅   究教育等業績一覧』茨城大学人文学部,1992)。し 籠屋である。私もかって氏の両親の在世中に一夏   かし小論の構想からすれば,まずは74年から88年 お世話になり,泳ぎと海の味覚の両方を楽しませ   あたりに範囲を絞ってもよいのではないか。

ていただいたことがある」と書いている。      大江さんの著作は多岐にわたり,専門外の私に もちろん,大江さんの気持が茨城大学に傾いた  はその筋の評に耐える整理は難しい。それを承知 経路はより複雑であろう。しかし大江さんがそこ  で,敢えて70年代半ば以降の諸業績のなかで骨格 での成果を後にライフ・ワークとまで表現した勝   をなす作品として『国民教育と軍隊一日本軍国主 田での体験が,ご自分の研究と絡み合いながら,  義教育政策の成立と展開一』と『日露戦争の軍事 茨城を身近に引きつけたのではないかと考えてい  史的研究』を挙げておきたい。発行年次はこのlll頁 る。私はこの文章を書くにあたって仮説を立てた。  になっているが,内容的には「日露戦争の軍事史

日露戦争という研究テーマの設定,勝田という自  的研究』が先にあってもおかしくない。とくにこ 治体の歴史編さん,茨城大学での社会史という講   の作品第1章「陸軍軍備の拡大と兵力動員」のテー 義の担当,これらの中で大江さんはその後の研究  マである「日露戦争における軍事体制の組織論的

(4)

分析」は,1987年刊の『日露戦争と日本の軍隊』  とするところをもっとも端的に展開し,かつ先行 につながり,そこで形成された軍事的理論が最新   する諸研究の未開拓の分野に手を染めた部分は,

作『壁の世紀』に至るまで,多くの作品にあって  第W章,ついで第H章である」とされている。さ 横糸のような役割を果たしている。個々の作品に,  らに続けて「とくに頁数としても全体の約三分の 固有の主題による縦糸としての流れがあるのは当  一をしめる第IV章の主題『国民の軍事的組織化』

然だが,その流れはいずれかの局面で上記2作と   に至る政策展開の歴史的過程を追跡する視角から,

交錯しているのである。その意味で最初の『軍事  第1章以下の叙述は成立した」としておられる。

史的研究』は諸作の持続低音発信源といってもよ  そしてこの「第IV章 軍国主義思想動員への国民 い。大江さんが世界史および日本史における日露   の軍事的組織化」を支える各地の地域史料のなか 戦争の画期的性格を認識したとき,以降における  に,大江さんが70年以降参加された茨城における 研究展開の視野は広がったといってよい。     自治体史編さん活動の成果があった。

 とはいっても,『軍事史的研究』は大江さんの       4構想の一部である。大江さんは『軍事史的研究』

の「はしがき」で「本書は日露戦争戦時体制の研   だがこの段階にあっては,大江さんの作品に人 究二部作の第一部である」とされ,第一部の軍事  物が登場することはあっても,一般には知られざ 体制の第四章がこの著作であるとしている。第二  る民衆が,個々の人間としての全体像を読者の前 部に予定された「国内支配体制」は「日露戦争戦   に現わすことはなかった。それは『日露戦争の軍 時体制の研究そのものが,日露戦後体制の研究と  事史的研究』から3年後の1979年に『戦争と民衆 合わせて,日本における帝国主義支配体制成立過   の社会史』で具体化し,1985年の歴史小説『凧の 程の研究として構想されたので,厳密にいえば,  時』として結実するのである。『凧の時』は第12

日露戦時の軍事体制,国内支配体制,日露戦後体   回大佛次郎賞の栄誉に輝いた。

制の研究三部作の第一部ということになる」と書   最近,大佛次郎『パリ燃ゆ」を再度読む機会が いておられる。つまりこれ以降の研究テーマとし  あった。1964年朝日新聞社刊の上下二冊本で読ん て国内支配体制,日露戦後体制を挙げておられる。  だ。前には気にもとめなっかった「あとがき」の この研究の広がり,したがって構想の背景に,日  一言が,前後の脈絡から離れて目をついた。「で 露戦争の持つ画期的性格の認識とともに,1970年  すから,事件とともにそれが起こる要因となった 以降の自治体史編さんでの体験があったのではな  人間たちを見ることが大切になります」。人間た いのか。こう考えると,先には順序が逆でもおか  ちを見る。茨城以降の大江さんの作品の特徴のひ しくないといったが,そうではなくて,やはり  とつは,この人間たちを見るという視点が加わっ

『国民教育と軍隊』における視野の展開こそが  たごとかもしれない。

『軍事史的研究』構想の前にあり,順は当然とい    『戦争と民衆の社会史』は,大江さんのなかで えよう。      旧来の日露戦争を軸とする軍事史研究,勝田での 事実,『国民教育と軍隊」は『軍事史的研究』  自治体史編さん,茨城大学での社会史の担当,こ でこれ以降の研究テーマとした国内支配体制,日  れらが一体となって生れた作品である。同書の 露戦後体制研究に先鞭をつけた作品である。『国  「あとがき」に大江さんはこう書いている。「東京 民教育と軍隊」は大江さんによれば教科書裁判支  教育大学の廃学にともなって茨城大学に転出し,

援運動や筑波大学問題などの「教育闘争」のなか   文学部日本史学の日本近代史講座所属から社会科 で学んだ「門前の小僧」の「ささやかな成果」で  学科社会史の担当にかわった私が,自分なりに社 あるというが,同時に日露戦後研究の成果でもあっ  会史と呼ぶに値する仕事をしてみたいと考えてい た。同書「まえがき」で大江さんは「本書の主題  たとき,本書のような構想でまとめることに決心

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した背景には,NHK教養部の竹内康氏の示唆」  として読むか,歴史叙述の手法から逸脱した社会 があった,と。勝田という地名はそれまで日本近  史の叙述として読むか,読者の自由にまかせたい。

代史の概説書にはまったく登場することがなかっ  ある時代の限られた時間と空間に生きた人々の群 たという。取り立てて注目される歴史的事件もな  像を,とくに歴史のひだに属するデテイルにまで

く,平凡な農村だったのである。そこを舞台とし  立ちいって推理し,描いてみたいという願望は歴 て大江さんは近代のほとんど全時期を通して,軍  史叙述にしたがう人間の業である。業であること 事と戦争と.いう視点からの農村社会史の叙述をこ  を知って,歴史家としての節度を越えないことが の書で試みた。そこに民衆が登場する。脚で歩き,  歴史学の本来の道であろう」と。この節度を越え 話を聞き,たとえどんな断片であろうとも厭わず  る誘惑に大江さんを誘ったのは大岡昇平『天諌組』

史料を探し,地域の景観を自分の目で確かめ,生  であるというが,先の時と空間を主人公とした構 活の全体を実感し,そこに浮かび上がってくる人  想によって「節度」は越えなかったというのが大 間がこの書物には登場する。このような作業は独  江さんの言いたいところであろう。が,はたから

りでできるものではないが,それだけに勝田とい  見れば,大江さんにあって業をして一冊の書物と う自治体の歴史編さんにおける共同作業とその上  いう姿を取らしめたものは,やはり小論で述べて に立つこの作品は,大江さんにとっても大きな意  きたような大江さんが体験された道筋の方ではな 味を持っていたのではないか。私はこの作品こそ  かったのかと考えている。

が,後年,大江さんがある『誘惑』に駆られる素   大江さんのお仕事は非常に多い。「社会史と大 因となったと考えている。       江さん」と範囲を限っても,まだ『兵士たちの日 明治40年代,それはやがて来る冬を告げる木枯   露戦争一五百通の軍事郵便から一』と『壁の世紀』

らし吹きすさぶ時代であると大江さんはいう。こ  の2作がある。とくに『凧の時』と『壁の世紀』

の限られた時代,そして限られた空間を主人公と  をどうつなぐのか考えあぐねた。時間切れである。

し,これをそこで生きてきた人々を通して描き出  別の折り,どなたかに委ねたい。『戒厳令』(1987),

す。大江さんの『凧の時』の構想である。時と空   『徴兵制』(1981),『昭和の歴史3・天皇の軍隊』

間が主人公で人物が手段とは。一見奇異とも思え   (1983),『統師権』(1983),『日本の参謀本部』

る構想は,歴史の本筋にかかわる史伝体の叙述と,  (1985)等も『国民教育と軍隊一日本軍国主義教育 歴史のひだに属する物語体で書かれる部分,この  政策の成立と展開一』(1974),『日露戦争の軍事 両者によって描き出される時と空間が同書の主人   史的研究』(1976)と関連づけて述べなければな 公だという大江さんの発想によるものと理解され  らないが,これも小論の構想からして割愛した。

る。このあたりは,大江さんの作品における人間   それにしても,大江さんはご自分の体験を,は とは,ということでひとつ議論になると思われる  たから見れば貧欲とも思える勢いで作品に昇華さ が,ここでは問題提起だけにとどめたい。     れている。「社会史と大江さん」の道筋を彩る諸

ともかくこの立論は「歴史叙述にしたがう人間  作も,このような姿勢から生まれ出たものであろ の業」と「歴史家の節度」とについての大江さん  う。健康に留意され,ときにはスキーでリラック 流の折り合いのつけ方と思うが,私としてはむし  スし,これからも活躍されていくことを期待した

うその業の方に興味を持つ。「あとがき」で大江  い。(1993.1.22)

さんはこんなふうに言う。「この一冊を歴史小説

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