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拡散する悪―『パリ劇壇艶事秘話』と1840年代のボードレール―

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寡黙な批評家詩人

ボードレールの作品をそれ自体として論じるのではなく、文学をめぐ る同時代の状況、とりわけそれを支えるジャーナリズムの世界への攪乱 的介入としてとらえ直すことの必要性は、近年の研究において繰り返し 強調されてきた

1

。ギュスターヴ・ル・ヴァヴァスールとともに書いた風 刺詩が 1 篇、すでに 1841 年に小新聞『海賊( Le Corsaire )』紙に匿名 で掲載されていることからも分かるように、ボードレールがゴシップ・

ジャーナリズムの世界と関わりを持った時期は、比較的早かったと推察 される。しかしすぐにインド洋への旅に出たことも関係するのか、その 後しばらく目立った痕跡を認めることはできない。1844 年 2 月に出版 された『パリ劇壇艶事秘話( Mystères galants des théâtres de Paris )』は、

女優や劇作家、批評家たちの醜聞や裏事情などを扱った約 40 本の記事 から成る 125 頁ほどの小冊子だが、これに執筆者として参加したのは確 実である。『海賊=魔王( Le Corsaire-Satan )』紙を中心に精力的な活動 を開始するのは、1845 年以降のことであり、それも 1846 年初頭に「ボ ードレール・デュファイス Baudelaire Dufays」と署名するようになる

1  この点をめぐる近年の研究動向および筆者自身の見解は、拙論「『編集長精神』の時代の 文学 - ボードレールとジャーナリズム」 『フランス近代詩とジャーナリズム』(平成 17-18 年度科学研究費補助金による研究成果報告書 研究課題番号:17520149 研究代表者:中地 義和(東京大学)) 2007 年 p. 9-28 を参照。

拡散する悪

―『パリ劇壇艶事秘話』と 1840 年代のボードレール―

海老根 龍介

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までは、匿名での執筆がほとんどであった

2

この時期のボードレールは、詩作の方でもきわめて控えめなふるまい を見せている。1845 年 5 月 25 日の『芸術家( L’Artiste )』誌に、「植 民地生まれのひとに(À une créole)」を「ボードレール・デュファイ ス」と署名付きで発表しているが、それを除けば、1844 年末から 46 年 にかけて同じく『芸術家』誌に掲載されたプリヴァ・ダングルモン名義 の詩篇のうち何篇かが、実はボードレールの作であったと推定され得る くらいで、公にされた詩篇は非常に少ない。創作活動そのものは活発で、

『悪の華』に収録されることになるかなりの数の詩篇の少なくとも原型 が、この時期には書かれていたこと、自ら望めば『海賊=悪魔』紙にこ れらを掲載するのは難しくない状況にあったことを踏まえると、若き詩 人はある程度意図的に自分の作品を世間から隠そうとしていたと考えら れる

3

。親しい友人であったル・ヴァヴァスールやエルネスト・プラロン が、積極的に作品を世に問うていたのと比べると、同じ環境にいたボー ドレールの自作発表への消極性は、なおさら際立って見える

4

。この 2 人

2  1840 年代半ばまでのボードレールのジャーナリズムにおける執筆状況は、本名を署名し た記事が存在しないこともあり、よく分かっていない部分も多い。伝記的事実については、

クロード・ピショワとジャン・ジグレールによる評伝をまず参照すべきであるが(Claude Pichois et Jean Ziegler, Baudelaire (1989), nouvelle édition, Fayard, 2005, と く に p. 215- 300)、 ジャーナリズムとの関係に特化した文献として、詩作、散文を問わず、ボードレー ルが新聞や雑誌媒体に発表した作品を選び編集した『ジャーナリストとしてのボードレー ル(Baudelaire journaliste)』に付されたアラン・ヴァイアンの序文、および発表年月日、

発表媒体、発表名義を記した作品リストも重要である。Baudelaire journaliste, articles et chroniques, choisis et présentés par Alain Vaillant, coll. GF, 2011.

3  『シルエット(La Silhouette)』紙や『海賊=魔王』紙に発表した韻文がいくつか発見さ れているが、4 行ほどのごく短いものやバンヴィルらとの即興的共作で、内容的にも詩作 というよりは戯言的パロディといった趣の強いものである。より本格的な詩作に関しては、

1840 年代前半からボードレールは多くを制作し、そこにのちに『悪の華』に収録されたも のも含まれていたことが、シャンフルーリ、シャルル・アスリノー、エルネスト・プラロ ンなど複数の証言から明らかになっている。そのまま真に受けるのが危険な証言もあるが、

たとえば 1843 年時点ですでに作られていた詩篇を、自らの記憶を頼りに慎重かつ具体的に 確定しようとしたプラロンの回想が、高い信憑性を有していることはつとに認められてい る。

4  発表に対するプラロンとル・ヴァヴァスールの貪欲さとボードレールの消極性という違 いには、グラハム・ロッブも注目している。Graham Robb, La Poésie de Baudelaire et la poésie française 1838-1852, Aubier, 1993, p. 68.

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は友人のオーギュスト・ドゾンとともに、1843 年に『詩集( Vers )』と 題された合同詩集を出版するのだが、もともとドゾンの代わりにボード レールが参加する予定で準備が進められ、実際におそらく 30 篇以上の 詩の原稿をル・ヴァヴァスールに手渡すなど、ボードレールも直前まで そのつもりで行動していた。最後の段階で手を引いたのは、ル・ヴァヴ ァスールが自分の原稿に手を加えようとしたのがきっかけであったよう だ

5

。辞退を表明する前、詩集の校正に関して、「子供っぽい文体(style enfantin)」には十分に気をつけてほしいと注文を出したプラロン宛の 書簡も残っているから

6

、プラロンやル・ヴァヴァスールの作品が示すあ る種の傾向に対して、ボードレールは違和感を覚えたのだろう。プラロ ンやル・ヴァヴァスールだけではない。親交を結んだ複数の文学者が、

仲間内で自作の詩を聞かせるボードレールの姿をのちに回想している が、その過激さが聴き手を当惑させることもしばしばだった

7

。この頃の ボードレールは、志を同じくする仲間たちとの交流を積極的に求めなが ら、その仲間たちの示す文学的傾向に批判的な距離を確保するという形 で、自らの創作を行っていた節がある。

1840 年代のボードレールの作品は詩作を行う知人に向けて書かれた ものが多く、ユゴーの劇作やドラクロワの絵画が当初から受けたような 公衆による抵抗を彼が感じるようになったのはすいぶん後になってのこ

5  のちにル・ヴァヴァスールは「彼 [ ボードレール ] は原稿を私に託しました。それはのち に « 悪の華 (憂鬱と理想)» に収録された何篇かの詩の草稿でした。平気な顔で私は自分 の評言を加えました。無分別で無遠慮な友人だった私は、こともあろうにそれに手直しし ようとさえしました。彼はなにも言わず、全然怒りもしませんでしたが、共著者になるこ とは撤回しました」と回想している。Pichois et Ziegler, op. cit., p.239 より引用。(訳文は 渡辺邦彦氏のものを借用した)。

6  1843 年 2 月 11 日 付 書 簡。Baudelaire, Correspondance, éd. Claude Pichois et Jean Ziegler, Bibliothèque de la Pléiade, t. I, p. 97.

7  たとえばルイ・ユルバックによる回想を参照のこと。Louis Ulbach, « Chronique », Paris- Magazine, 8 septembre 1867, Baudelaire devant ses contemporains (1957), témoignages rassemblés et présentés par W. T. Bandy et Claude Pichois, Klincksieck, 1995, p. 81-82 に 抜粋が再録。

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とであると、グラハム・ロッブは指摘している

8

。作品の公表に積極的で なかった以上のような状況からすれば、この指摘は大筋において正しい。

しかし相当に屈折していてその真意がはかりがたいとはいえ、はっき りとブルジョワに宛てたメッセージを冒頭に掲げた『1845 年のサロン

( Salon do 1845 )』や『1846 年のサロン( Salon de 1846 )』のことを考え れば

9

、創作者同士の個人レベルでの関係だけでなく、芸術の受容者とし ての「公衆」という問題を、ボードレールが早くから意識していたこと もまた否定はできない。注目すべきはむしろ、作品を差し向ける相手と の間に一つの関係性を積極的に打ち立てたうえで、その関係性に批評的 な揺さぶりをかけようとするボードレールに特徴的な姿勢が、キャリア のごく初期から見られることであろう。よく知られているように、ボー ドレールの詩篇には具体的な個人への献辞を伴ったものが複数あって、

中でも「白鳥(Le Cygne)」、「7 人の老人(Les Sept Vieillards)」、「小 さな老婆たち(Les Petites Vielles)」に付されたユゴーへの献辞、 「旅(Le Voyage)」に付されたマクシム・デュ・カンへの献辞などは、単なる敬 意の表明とみなすことは到底できない批評的意味合いを含んでいる

10

。 1840 年代のボードレールが自作を公に発表することに消極的で、若い

8  Robb, op. cit., p. 80. 

9  とりわけ『1846 年のサロン』の序文については、「ブルジョワ」への好意的な語りかけ という大枠の中に、あからさまな誇張や皮肉を差し込んでみせるボードレールの真意をめ ぐって、多くの解釈が提示されてきたが、最終的にブルジョワへの期待を重視するか、皮 肉や偽装された批判を重視するかでニュアンスは分かれるものの、どちらか一方のみに軸 足を置くのではなく、両者が複雑に絡み合っている点にこのテクストの本質を見るという 点において、少なくとも近年の研究者たちの見解はほぼ一致しているといえるだろう。基 本的な文献として、David Kelley, « Introduction » à son édition critique du Salon de 1846, Oxford, Clarendon Press, 1975 ; Annie Becq, « Baudelaire et ‟ L’Amour de l’Art ” : La dédicace ‟ aux bourgeois ” du Salon de 1846 », Romantisme, nº17-18, 1977, p. 71-78 ; Makoto Yokohari, « L’image du Bourgeois chez Baudelaire ‐ la préface du Salon de 1846‐ », Études de langue et littérature françaises, nº30, 1977, p. 54-67などを参照のこと。

10  ボ ー ド レ ー ル 作 品 に お け る 献 辞 の さ ま ざ ま な 機 能、 と り わ け「 体 制 批 判 的

(oppositionnel)」な性格を付与する機能については、Ross Chambers, « Baudelaire et la pratique de la dédicace », Saggi et recerche di letteratura francese, nº24, 1985, p. 119-140 で詳細に分析されている。

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創作仲間たちとの関わりという具体的な文脈の中に自らの作品を置くこ とを好んだのには、その方が作品の批評的機能を浮き彫りにできるとい う判断があったので、その向こう側に、しかもそれとしばしば分かちが たく結びついたものとして、芸術を受け取る公衆、さらにそれを伝える メディアという、のちに正面から相手取ることになるより大きな文脈を 意識していたことを、過小に見積もるのはおそらく適当ではない。

ゴシップ・ジャーナリズムという対抗言説

1840 年代のボードレールの批評性を、親しい創作者たちとの間で打 ち立てられた個人的な関係を踏まえて明らかにしようとした研究として は、先にも名前をあげたグラハム・ロッブの『ボードレールの詩とフラ ンス詩 1838 ‐ 1852』(1993)が著しい成果をあげている。ロッブはユ ゴーやサント・ブーヴら影響を受けた年長の詩人たち、ル・ヴァヴァス ールやプラロンら「ノルマンディー派」と呼ばれる学生時代からの友人、

テオドール・ド・バンヴィルやピエール・デュポンら親しく付き合った 新進の詩人たちなど、この時代のボードレールの文学的交友を丹念に洗 い出したうえで、詩人像や詩形、扱われる主題などを中心に再構成した この時代の文学的傾向や議論の文脈の中に、それらを置き直すことに成 功した。一方、ジャーナリズムとの関係については、『海賊=魔王』紙 の徹底的な調査を行うなど、多くの注目すべき知見を提示してはいるも のの、どちらかといえばロッブの議論の力点は、商業的成功を意識した ジャーナリズム特有の言語・文体が、19 世紀の詩的言語にいかに大き な影響を及ぼしたのかの考察に置かれている

11

。作品の制作を外側から

11  すでに挙げた著作の第 14 章(« Journalisme et modernité poétique », p. 313-339)なら びに « Les origines journalistiques de la prose poétique de Baudelaire », Lettres romanes, nº44, 1990, p. 15-25 を参照。『海賊=魔王』の調査に関しては、Robb, Le Corsaire-Satan en silhouette : le milieu journalistique de la jeunesse de Baudelaire, Nashville, Vanderbilt

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規定する公衆とメディアの力学そのものに対するボードレールの位置取 りという点に関して、さらなる検討を行う余地があると考えられる所以 であり、そこで大きな意味を持つ資料が本稿の冒頭部分で触れた『パリ 劇壇艶事秘話』である。複数いる執筆者のうち誰が書いたのかの特定か らして難しい記事も多いため、ボードレール研究の枠内では扱いにくい 資料であることはたしかだが

12

、1851 年に発表された「道義派のドラマ と小説(Les Drames et les romans honnêtes)」をはじめとする、ボー ドレール個人名義の複数のテクストと非常に似通った記述が見られる記 事が散見されるし、全体を貫く発想の中にも『悪の華』の詩人を思わせ るものが多く、文学的キャリアの出発点におけるボードレールの立場を 理解するための、重要な示唆を与えてくれることは間違いない。

『パリ劇壇艶事秘話』の出版元はカゼル書店となっているが、これは 名義貸しをしただけで、実際に発行したのはル・ガロワ書店であったと 見られている。ル・ガロワ書店は 1843 年 10 月に『パリの多情な女優た ち( Les Actrices galantes de Paris )』と題した冊子の刊行を予告した

University, 1985 にその成果が、本文校訂を施した重要記事の抜粋とともに収められている。

12  『パリ劇壇艶事秘話』に参加した書き手には、ボードレールのほかに、プリヴァ・ダン グルモン、ナダール、ジョルジュ・マチュー、フォルチュネ・ムジュレ、コンスタン師な どがいた。ジョルジュ・マチューの書いた記事については、そのペンネームであるデルン ヴァエルの署名を付した記事が複数載っていること、たとえ無署名であっても 1842 年なら びに 1847 年に刊行された自著中に収録されている記事もあることから、比較的同定が容易 である(ただし無署名で、かつデルンヴァエルの著作にも収録されていないが、さまざま な考証からほぼ確実にマチューの手になると判断しうる記事もある)。これらの記事の多さ から、『パリ劇壇艶事秘話』において、もっとも主導的な役割を果たしたのがマチューであ ることも、おそらく間違いないだろう。他方、残りの記事に関しては、誰が書いたのかを 見極めるのは難しい。ジャック・クレペは 1938 年の批評校訂版で、9 本の記事について、ボー ドレールが単独で、あるいは他の執筆者と共作で書いた可能性を指摘したが(Mystères galans des théâtres de Paris , éd. Jacques Crépet, Gallimard, 1938, « Introduction », p. XXIX-XXXVII)、翌年に出たコナール版全集では確実にボードレールが書いたもの として「ポンサール」1 本のみを収録した(Œuvres complètes de Baudelaire, Juvenilia, Œuvres posthumes, Reliquiae, éd. Jacques Crépet, Louis Conard, 1939, p. 482-483)。プレイ ヤード版を編集したピショワは、ある程度の考証を試みながらも、どの記事のどの箇所を 誰が書いたのかを特定するのは最終的には不可能であるとして、マチューに確実に帰せら れる記事を除いたすべての記事を収めている(Baudelaire, Œuvres complètes, éd. Claude Pichois, Bibliothèque de la Pléiade, t. II, 1976, p. 1536.)。

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のだが、そこで名前を挙げられた当時の大女優ラシェルから名誉毀損で 訴えられ、謝罪のうえ出版を取りやめていた。『パリ劇壇艶事秘話』に はここに収められるはずだった記事が複数含まれており、ル・ガロワは いったん断念した計画を仕切り直して実行に移したことが分かる

13

。実 名での記述を控えたためか、こちらでは訴訟を起こされることはなかっ た。とはいえ N の署名がナダールの作であることを示す表紙絵からし てかなり挑発的で、人食い鬼を表象し、その頭上に掲げられたタイトル のすぐ下には、それぞれ「訴訟(Action)」、「多情な女優たち(Actrices galantes)」、「きわめて多情な女優たち(Actrices très galantes)」と書 かれた 3 枚の紙を持ったピエロが描かれている。人食い鬼の上の歯には

「私たち(NOUS)」の文字が、下の歯には「ヴェロン(VERON)」の文 字が記され、この鬼がジャーナリズムにおいてラシェルを擁護する実力 者ルイ・ヴェロン博士を表していることを示している。と同時に「今に わかるさ(Nous verrons)」とも読める駄洒落になっており、ここには、

訴訟騒ぎを逆手にとって、読み手の関心を冊子の内容にひきつける戦略 を見て取ることができるだろう。すなわち、人食い鬼に喩えられた演劇 界、批評界の実力者と、ゴシップ記事に抗議して訴訟を起こす大物女優 の存在を印象づける表紙絵によって、演劇界にまつわる言説に抑圧が働 いている状況をカリカチュアとして明示し、『パリ劇壇艶事秘話』に収

13  『パリの多情な女優たち』で予定されていた内容は、1843 年 10 月 13 日の『フランス通 信(Courrier français)』紙、および 10 月 17 日の『コンスティテュショネル(Constitutionnel)』

紙に掲載された広告によって知ることができる。この広告はクレペによる校訂版に再録さ れている。Mystères galans des théâtres de Paris, éd. Jacques Crépet, p. 121-122.『パリの 多情な女優たち』をめぐる訴訟から『パリ劇壇艶事秘話』出版にいたる経緯の詳細は同書 の p. 122-127 を参照。版元がカゼル書店になっている点については、『パリ劇壇艶事秘話』

の序文的役割を果たす記事「前桟敷(Avant-Scène)」で、『パリの多情な女優たち』の出 版を断念せざるを得なかったル・ガロワが、収録予定の記事の書き手たちに別の版元へ持 ち込むよう促してできた書物であるという設定がなされていること、にもかかわらず冊子 の表紙裏などに広告を掲載している出版物はすべてル・ガロワ書店のものであることから、

圧力をかわすための設定につじつまを合わせるための名義貸しであると、ほぼ確実に判断 できる。(Ibid., « Introduction », p. XIV-XV.)

(8)

められた記事をそうした抑圧への対抗言説として位置づけてみせている のである

14

表紙の直後に「前桟敷(Avant-Scène)」と題された序文が置かれ、

その冒頭部分では、これから話題にすることになる女優たちに向けて、

冊子の内容と裁判の経緯が説明されている

15

。ル・ガロワは 1843 年か ら 1844 年はじめにかけて、『現代の有名な女優たち( Actrices célèbres

contemporaines )』と題された文集を分冊の形で刊行しており、これは

テオフィル・ゴーティエ、アルセーヌ・ウーセ、ジュール・ジャナン、

レオン・ゴズランといった人気作家が、当代の有名女優たちについて記 した文章を集めたものだ。出版を断念した『パリの多情な女たち』と、

それを仕切り直して出版する『パリ劇壇艶事秘話』は、この文集と対と なるもので、有名作家によって描かれた女優たちの称賛さるべき姿を、

風刺的なゴシップの力で相対化しようとしているというのである。裁 判は「1 人の若き悲劇女優」(ラシェルを指すのはいうまでもない)が、

予告を見ただけの段階で騒ぎ立てたことに端を発するが、彼女が問題と しているのは人が自分の「私生活に入り込んでくる」ことであり、ゴシ ップの内容が事実と反することではない。序文はこのような認識にもと づき、実際には男に囲われていたり迫害されていたりする女優たちが、

ジャーナリズムと結託して「清らかな女」という自らのイメージを作り

14  この表紙絵の読み解きに関しては、クレペ校訂版の p. 127、およびそれを受けたピショ ワによるプレイヤード版の解題(p. 1534)、さらには阿部良雄による解題(筑摩書房版『ボー ドレール全集』V 巻、p. 447)などを参照のこと。

15 Baudelaire, Œuvres complètes, éd. cit., t. II, p. 983-984. 『パリ劇壇艶事秘話』のテクスト については、クレペによる校訂版を参考にしつつ、参照、引用は、現時点でアクセスがよ り容易なプレイヤード版によって行うこととする。作者の確定を目的とはしていないので 詳述は控えるが、「前桟敷」にはボードレールの他のテクストを思わせる表現や内容が散 見されるため、ボードレールが関与した可能性が高いと考えられる。一方で、冊子出版を めぐる状況説明という側面も持っており、ル・ガロワの意向が強く反映していることも疑 いえない。クレペはル・ガロワの意向を汲みつつ、ボードレールがプリヴァと共同で執筆 した記事と考えるが(Mystères galans des théâtres de Paris, éd. Jacques Crépet, p. 131)、

ピショワはむしろムジュレとの共作ではないかという(Baudelaire, Œuvres complètes, éd.

cit., t. II, p. 1537)。ただしいずれの説も確定的な証拠があるわけではない。

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上げているメカニズムへと、読み手の目を向けようと試みている。『パ リ劇壇艶事秘話』が、有名女優たちのスキャンダルを消費したい公衆の 下世話な欲望に応える戯作的傾向を強く有していることは否定できない が、そのことは同時に、自分に都合のよいイメージだけを流布させよう とする女優たち、およびそれと結びついたジャーナリズムの抑圧的性格 に対する抵抗でもあったわけだ。

名指しこそしていないものの、ラシェルへの当てつけは『パリ劇 壇艶事秘話』においても、顕著である。「エール・ミニョンヌの物語

(Histoire d’Hère-Mignonne)」および「あるギターの物語(Histoire d’une guitare)」と題された 2 つの記事は、あたり役の 1 つであるラシーヌ『ア ンドロマック』のエルミオーヌやそれをもじった偽名(エール・ミニョ ンヌ)を用い、彼女がユダヤ人であるのを折にふれ強調することで

16

16  とりわけ「エール・ミニョンヌの物語」には反ユダヤ主義的色彩が強い。クレペはボー ドレールが反ユダヤ主義と完全には無縁でなかったことを認めつつも、戦闘的にそれを主 張したことはないとして、ボードレールを強く思わせる要素が多く見られる冒頭部分を除 いて、この記事はラシェルへの復讐心に燃えるル・ガロワと結託したムジュレのもので、ボー ドレールの関与はあったとしても限定的だったという(Mystères galans des théâtres de Paris, éd. Jacques Crépet, p. 151-152)。しかしこれは贔屓の引きたおしというもので、ピショ ワもいうように、反ユダヤ主義的だからといって、ボードレールが書いたものでないこと にはならない(Baudelaire, Œuvres complètes, éd. cit., t. II, p. 1541-1542)。実際、ユダヤ人 のモチーフは、ボードレールの他のテクストにも散見され、この記事が詩人の手になるも のにせよ、そうでないにせよ、同じことは問題になりえるのである。詩篇ではユダヤ人娼 婦を扱ったものや、「さまよえるユダヤ人」のイメージを用いたものなどが思い浮かぶが、

反ユダヤ主義的傾向がもっとも強く現れているとしばしば見なされるのは、『赤裸の心(Mon cœur mis à nu)』に含まれる次の文章であろう。「ユダヤ人種を殲滅するために組織すべ き素晴らしい陰謀。ユダヤ人、図書係、贖罪の証人。」(Baudelaire, Œuvres complètes, éd. cit., t. I, p. 706.)最近でもブレット・ボウルズが、1850 年代までのボードレールの反 ユダヤ主義はキリスト教神学的枠組みに収まるものであったが、この一節は 1860 年代に なって詩人がホロコーストの起源ともいえる近代的な人種差別へと移行したことを示すも のだと主張している(Brett Bowles, « Poetic Practice and Historical Paradigm : Charles Baudelaire’s Anti-Semitism », PMLA, vol. 115, nº2, 2000, p. 195-208)。ただしこの見方は、

ここでボードレールが参照しているはずのパスカル、およびパスカルを経由したアウグス ティヌスにまで遡れば、ユダヤ人は否定の対象であると同時に「贖罪の証人」として存在 理由を認められてもいるため、これを殲滅しようとするのはむしろ、原罪の観念を否定し、

「贖罪」に価値を置こうとしない進歩主義者のほうであったはずだと考えるジャン・スタロ バンスキによって批判されている。スタロバンスキにしたがえば、2 文目で「贖罪の証人」

というパスカル的表現を用いている以上、ボードレール自身がユダヤ人殲滅の「陰謀」に 肩入れするはずはなく、1 文目は彼が批判する進歩主義者の願望のアイロニカルな引用だ ということになる(Jean Starobinski, « Notes de lecture »¸ L’Année Baudelaire 6¸ 2002, p.

148-154)。ボードレールに反ユダヤ主義的傾向が認められるのは事実だが、それは同時代

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読み手にはっきりとラシェルと分かる女優の多情で強欲な実像を印象付 けようとしたものだ。まず学生や田舎から出てきたばかりの純情な若者 に、しばしば色じかけで、しかも家族がかりでたかる、まだ無名時代の ラシェルの行状が暴露され、そののち、演劇界での地位を確立するに伴 い、ジャーナリズムに影響力を持つ後ろ盾の力で、そうした汚れた過去 を人々に忘れさせていく過程が描き出される。強力な後ろ盾の 1 人ルイ・

ヴェロンとの間には恋愛関係があったことが指摘されるが、さらにヴェ ロンと別れたあとに、ナポレオンの私生児で、自ら劇作を試みジャーナ リズムにも足を突っ込んでいたヴァレフスキ伯爵の愛人となった顛末が 示される。伯爵に対してラシェルは、前日たまたま手に入れたギターに ついて、リヨンでカフェや酒場でどさまわりをしていた子供のころから ずっと苦労をともにしたものだと嘘をつくのだが、パリに出てくるまで の苦労話に心を動かされたヴァレフスキ伯爵は 2 人の愛の証しとして、

そのギターを譲るよう懇願する。女優はお金の問題ではないと断りなが らも、巧みに伯爵を誘導し、ギターと引き換えに 5 万フランもの大金を 手に入れることに成功したのだという。

『パリ劇壇艶事秘話』の執筆者のうち、これら 2 本の記事を書いたの が誰であるのか、たしかなことは分からない。しかし状況証拠から、ボ ードレールとプリヴァの関与がほぼ確実である「舞台裏(Coulisses)」

という記事の中にも、「ユダヤ的な精神」を持つ女優(すなわちラシェ ル)を批判する箇所が含まれていることから、同じ冊子中で同じ題材を 扱ったこれらの記事にも、彼らの意向が何らかの形で反映されている可 能性は高い

17

。共通するのは、私生活における大女優の堕落ぶりや強欲

に対する詩人の複雑な批評的態度とかなり密接に関係しており、ナチズムの源流と位置づ けて批判すれば済むものでないのはたしかだ。

17 細部に意見の相違はあるものの、クレペもピショワもボードレールの関与の可能性を認 めているが、実際のところ、特定の筆者に帰すことがきわめて難しく、ボードレールを思

(11)

さを暴き立てて、一般に共有されているイメージを転倒させようとして いることだ。実はこの時期のボードレールは、『パリ劇壇艶事秘話』以 外の場においても、同じようなことを繰り返し試みていたらしい。ク レペはのちにボードレールがオーギュスト・ヴィテュ、バンヴィルと ともに寄稿することになる小新聞『喧騒( Le Tintamarre )』を調査し、

1843 年 9 月 17 日 ‐ 24 日号と 12 月 3 日 ‐ 10 日号の「小通信(Petite Correspondance)」欄に、「シャルル・B*** 氏へ。L...Co... 女史に関する 記事は掲載していない。私生活にかかわる詳細を含み、本紙の領分を逸 脱するためだ」、「シャルル・B*** 氏へ。記事を掲載すれば 500 フランの 罰金と 3 ヶ月の監獄である。われわれは本紙の編集がそこまで高くつく ことは望まない」という記載が、それぞれ読まれることを発見した

18

。 ここで名指されている「シャルル・B*** 氏」がボードレールその人を指 すのだとすれば、彼は『喧騒』への持ち込み記事を、少なくとも 2 度に わたって拒否されていたことになる。くわえてフーリエ主義の機関紙『平 和的民主主義( La Démocratie pacifique )』に、原稿を「不道徳という 理由で拒否された」事情を記した、おそらくは 1843 年の末に書かれた 母親宛ての手紙も残っている

19

。ボードレールはこの頃スキャンダラス なゴシップ記事を複数のメディアに積極的に持ち込んでいたとみて、ま ず間違いはないだろう。『喧騒』紙への掲載が見送られた記事を、『平和 的民主主義』にそのまま持ち込んで、同じように拒絶されたということ

わせる発想が少なからず見られることから、関与の度合いを推定することしかできない。「エ ミール・ミニョンヌの物語」については、注の 16 を参照。「あるギターの物語」の方はム ジュレのものと考えることも可能である。ただしギターの話自体は当時ある程度流通して いたものだし、内容面でラシェルやヴァレフスキ伯爵を風刺する一方、『クロニック』紙を 編集していたアルミール・ガンドニエールという人物の署名を付して、ガンドニエールに 対する攻撃的なパスティーシュを試みた側面もあるなど、誰か個人の意向もさることなが ら、当時の風刺的小新聞の文脈を強く反映したものであることを、見落としてはならない(事 実関係の調査は、Mystères galans des théâtres de Paris, éd. Jacques Crépet, p. 155-161 で なされている)。

18  Mystères galans des théâtres de Paris, éd. Jacques Crépet, « Introduction », p. XXI.

19  Baudelaire, Correspondance, éd. cit., t. I, p. 103.

(12)

も大いにあり得る話である。少なくとも『喧騒』紙は掲載を拒否したこ とが確実の「L...Co... 女史に関する記事」は、女流詩人ルイーズ・コレ を扱ったものと思われるが、彼女は 1841 年に自分の放埓ぶりをメディ ア上で風刺したアルフォンス・カールの家に出向き、短刀で切りつけて 復讐を遂げようとしたことで有名だった。同じく 1843 年の後半にプラ ロンと 2 人での共同執筆を試みた未完の戯曲『イデオリュス( Idéolus )』

の草案の中に、「コレット夫人(コレのこと)のナイフ」という表現が 含まれていることからみても

20

、乱れた私生活がジャーナリズムに暴露 されるのを暴力で阻止しようとした例として、ボードレールはコレの 1 件に強い関心を寄せていたと考えられる。

専制君主を追い落とせ!

「エール・ミニョンヌの物語」、そして「1 つのギターの物語」が、ラ シェルという有名女優に焦点をあてて、演劇界ならびにジャーナリズム における偽善と抑圧の構造を抉りだしているのだとすれば、「ポンサー ル(Ponsard)」と題された記事は、同様の構造を 1 人の劇作家を中心 に暴き出そうとしたものである。よく知られるように、『パリ劇壇艶事 秘話』刊行の前年である 1843 年は、ユゴー作のロマン主義史劇『城主

たち( Les Burgraves )』が失敗し、ポンサールの新古典主義史劇『リ

ュクレース( Lucrèce )』が大成功を収めるなど、演劇界においてロマ ン主義が新古典主義に取って代わられた年として、象徴的な意味合いを

20  『イデオリュス』に関しては、原稿(第一幕のもの 1 通り、第二幕のもの 2 通り)のほか、

劇全体の構成を記した草案が 2 つ残されている。いずれも筆跡はほぼプラロンのものであ るが、片方の草案は、冒頭の数語ならびに欄外の人物リストにボードレールの筆跡が見られ、

またボードレールの自画像が描き込まれるなど、2 人の共同作業の痕跡がよりはっきり反 映されている。ただしこちらの草案は構成の提示等における完成度が低く、既存の『全集』

にはもう 1 つの草案が収録されている。「コレット夫人のナイフ」は、全集未収録の草案に 含まれる表現であるため、プレイヤード版では巻末のヴァリアントを参照する必要がある

(Baudelaire, Œuvres complètes, éd. cit., t. I, p. 1447)。

(13)

持っている。「ポンサール」はこの交代劇を戯文的な皮肉の力で批判し たものだが、見落としてならないのは、この記事の書き手が創作者と してのポンサールの問題点は問題点として指摘しながらも、批判の矛 先を彼のような人物を新古典主義の旗手として祭り上げてしまう同時代 のジャーナリズムのメカニズムにも向けていたという点であろう。そも そもここでポンサールは古典主義的な作家としてばかり捉えられてい るわけではない。きわめてロマン主義的なバイロンの劇詩『マンフレ

ッド( Manfred )』を 1837 年に翻訳刊行し、劇作家ギヨーム・ヴィエネ

が 1841 年に古代ローマを舞台とした悲劇『アルボガスト( Arbogaste )』

を上演した際には、ドーフィネ地方の雑誌で「過激ロマン派的なやり方」

でこれを強く批判するなど、ポンサールは「あなた方が思うよりずっと ロマン主義的」な面を持っているからだ

21

。『リュクレース』にしたとこ ろで、よく内容を吟味してみれば、さまざまなロマン派的要素が散りば められており、その欠点は古典主義的な志向にあるというよりは、己の 気質にのみ忠実にしたがって作品を制作する「素朴さ(naïveté)」を示 すことなく、ティトウス=リウィウス、アンドレ・シェニエ、ラシーヌ、

カトゥルスなど既存の多様な参照項を、ほどよく和らげながら配合する

「折衷主義(éclectisme)」にあるというのが、記事の書き手の見立てな のである

22

。記事「ポンサール」は、この「折衷主義」が力を得てしま う状況を、ジャーナリズムや公衆との関わりにおいて分析したものと読 むことができる。

パリのジャーナリズムの性向として、成功を勝ち得た者を貶めようと

21  Baudelaire, Œuvres complètes, éd. cit., t. II, p. 1003.

22  「ポンサール」にこのような主張が認められるのはたしかだが、「素朴さ」や「折衷主義」

という表現が用いられているわけではなく、これらはむしろ『1845 年のサロン』と、とり わけ『1846 年のサロン』で重要な役割をはたす語彙である。逆にいえば、「素朴さ」と「折 衷主義」という概念を用いて、「ポンサール」の内容を説明できるなら、この記事と 1840 年代のボードレールの他のテクストとの共通性が認められたことになるだろう。

(14)

する嫉妬深さが指摘され、ロマン主義に対する新古典主義の勝利も、こ の文脈において説明される。『芸術家』誌の創刊者としても知られるア シル・リクールが、「専制者と化した王(Roi devenu despote)」として 絶対的な権勢を誇っていたユゴーに対抗するために、ジャーナリズムの 世界でさまざまな働きかけをしたことが、ポンサールの成功の理由だと いうのである。戯文的な調子で綴られた顛末は次のようなものだ。最初 にリクールは友人であるジュール・ジャナンを訪ね、ラシェルを「発明」

したように、ポンサール(正確にはその作品『リュクレース』)を「発明」

するようにそそのかした。「発明」という語に、女優であれ、劇作家で あれ、その地位を約束するのは当人の才能や力量ではなく、ジャーナリ ズムによる喧伝であるという認識が表れているのは、いうまでもないだ ろう。次いでリクールはアントワーヌ・ジェーにも働きかけ、その結果、

「友人の友人は友人である」ため、ジェーの友人エチエンヌ・ジューイ もポンサールに好意的な立場をとることになった。当初はポンサールに 批判的だったジェーが、その後、擁護する側にまわった事実があるため、

いかにもありそうなことだと読み手に感じさせる話である。

こうしてジャナン、ジェー、ジューイを皮切りに、ポンサール称賛の 雰囲気がジャーナリズムで醸成されていったというのだが、さらに注意 すべきなのは、成功者の勢いを削ぐために「発明」してみせただけであ ったはずの新人に対して、「公衆の愚かしさ」が期待を超えた熱狂を示 す危険性も同時に指摘されていることである。この危険性は専制的暴君 に対する政治的反抗というメタファーを用いて、次のように描き出され る。

ある日、私たちのよきフランスによく似た国、立憲国家なら当然なが

ら反乱分子が徒党に分かれて存在しているような国において、暴君と化

(15)

し、背中に拍車を入れたり、あまりにもロマン主義的な鞭でたたいたり して、自分の臣民たちを支配している王様が、本気で嫌われるようにな ったところを思い浮かべてみていただきたい。― 若者たちも老人たち も、かつての人々もこれからの人々も、カフェ・タブーレよりも騒々し くおしゃべりで、密議と陰謀の巣窟となっている、ある大きな酒場、巨 大な喫煙所に、ひそかに集まってくる。正統王朝派の人たちが共和派の 人たちとともに飲み、気のいい誠実な共犯者同士のように、友愛をこめ て下等なワインを飲み下すのだ。善良な人たちなのだ、彼らはあらゆる 点で完全に意見が一致しているように見える。しかし本当に一致してい るのは次の一点だけだ。暴君を倒せ、それが肝心なことなのだ、と

23

「暴君と化し、背中に拍車を入れたり、あまりにもロマン主義的な鞭 でたたいたりして、自分の臣民たちを支配している王様」がユゴーを指 しているのは明らかだが、記事の書き手の立場からすると、暴君たり得 るほどの権勢を誇るユゴーは、ジャーナリズムと公衆の「発明」による まがい物ではなく、成功に見合うだけの能力を備えた人物と位置づけら れているようだ。己の気質にのみしたがい、作品を創作できるだけの「素 朴な」才能の持ち主は、それ以外の気質やスタイルを一切受け入れるこ とができないがために、他の人間を支配下におくことで自らの一貫性を 堅持しようとするが、それに耐えられなくなった凡庸な芸術家や公衆は、

こうした天才を表舞台から追放しようとする。これは『1846 年のサロ ン』から『哀れなベルギー(Pauvre Belgique !)』にいたるまで、ボー ドレールが一貫して批判する図式であり

24

、その意味で、この一節が記

23  Baudelaire, Œuvres complètes, éd. cit., t. II, p. 1001-1002.

24  『1846 年のサロン』の「流派および職人たちについて(Des écoles et des ouvriers)」の 章を参照(Baudelaire, Œuvres complètes, éd. cit., t. II, p. 490-492)。ベルギー批判であると ともに、フランス批判の書ともなりうるはずだった『哀れなベルギー』においては、たと

(16)

事の中でも『悪の華』の詩人にもっともふさわしい箇所であるのは間違 いないだろう。暴君の圧政にうんざりした人々は、これに反旗をひるが えすというただ一点において、互いに手を握り合っている。「友愛をこ めて(fraternellement)」という単語が示すように、ここでは一見共和 主義的あるいは社会主義的な色彩を帯びた革命運動が暗示されているわ けだが、もしこうした運動が、実際には確固たる政治的立場に由来する のではなく、正統王朝派から共和主義まで、本来なら相容れないはずの 主義主張の寄せ集めにすぎないのだとすれば、それと相同的に芸術にお いても、傑出した才能の持ち主を攻撃する芸術家や公衆は、多様な志向 を持った人々の統一を欠いた集まりにすぎないことになる。

先に指摘したポンサール自身の「折衷主義的」な傾向も、同じく政治 的行動との重ねあわせをとおして、次のように皮肉られる。

現在までのところ、ポンサール氏の伝記は、『リュクレース』第 5 幕 の最後で止まっている。将来、ボタンの穴に勲章をつけて、下院に地元 の利益を代表しにやってくるようなとき、彼の政治的見解がどのような ものになっているのかは分からない。おそらくそれもまた紋切型と付け 毛なのだろう

25

「紋切型(poncif)と付け毛(postiches)」という表現が、己に固有の 気質のみにしたがって何かを創り出すだけの能力がなく、既存のさまざ まな類型や断片的要素を組み合わせることしかできない劇作家の限界を

えば「美しさ」に対する人々の憎悪を指摘した箇所(Ibid., p. 831)、有名人に対する人々の 軽蔑を指摘した箇所(Ibid., p. 848)、人々の付和雷同ぶり、自分たちと同一の意見を持たぬ 人々への不寛容ぶりを指摘した箇所(Ibid., p. 858)などを総合すると、同じような図式でボー ドレールが 19 世紀社会への批判を展開していることが分かる。

25  Baudelaire, Œuvres complètes, éd. cit., t. II, p. 1004.

(17)

暗示しているのはいうまでもないだろう

26

。記事の最後には、ポンサー ルよりもさらに能力の劣ったオラティウス・セルジョンという人物がリ クールに宛てた手紙が引かれており(実際にはボードレールによる皮肉 に満ちたパスティーシュである)、悲劇の原稿を 1 つ送るので「あなた がポンサールにしたことを私にもしてくれるとありがたい」という趣旨 のことが述べられている。およそ洗練からはほど遠いぎこちない文体で 書かれ、口語の訛りをそのまま反映したかのように綴りの規則も無視さ れているが、クレペによれば、これはユダヤ的な混成語を思わせるとい う

27

。統辞誤用や不純正語法、あるいは綴り字の誤りに対して生涯を通 じてボードレールがとった厳しい姿勢

28

、 『パリ劇壇艶事秘話』全体に見 られる「ユダヤ的な精神」への当てこすりを考えれば、ここに芸術家と しての才能も力量も持たない個人が王たらんと欲してジャーナリズムに すり寄り、それが時として効を奏してしまう現状に対する強い不満が戯 画的に表現されているのは間違いないだろう。既存の類型を組み合わせ るだけの凡庸な個人が、傑出した才能による抑圧に反抗するだけでなく、

自分も同等の扱いを受けるにふさわしい力を有しているという錯覚にと らわれてしまいがちな、 「自惚れの世紀(siècle infatué de lui-même)

29

」 の危険性が示唆されているのである。才能豊かな別の誰かに統治される

26  『1846 年のサロン』で「シック」とともに「紋切型」が厳しく批判されていることが想 起される。「シックと紋切型について(Du chic et du poncif)」の章を参照(Ibid., p. 468)。

27  Mystères galans des théâtres de Paris, éd. Jacques Crépet, p. 177.

28  1846 年 に 発 表 さ れ た 恋 愛 論 の 一 種 で あ る「 愛 に 関 す る 慰 め の 箴 言 抄(Choix de maximes consolantes sur l’amour)」では、女性のおかす綴りの間違いを「思い出と逸楽 の素朴な詩」をもたらすものと肯定的に論評しているが(Baudelaire, Œuvres complètes, éd. cit., t. I, p. 549)、執筆年代が近いテクストであるとはいえこれは例外と見なすべきで、

民主主義と芸術との関係を考察したという側面のある 1852 年ならびに 1857 年のポー論 で、統辞誤用や不純正語法、綴りの誤りの増加を芸術の衰退として捉えているのをはじめ

(Baudelaire, Œuvres complètes, éd. cit., t. II, p. 273 および p. 320 などを参照)、芸術の質の 低下と構文、語彙、綴りの誤りの蔓延とを結びつける傾向が、ボードレールにほぼ一貫し て強く見られることは疑いをいれない。

29  「エドガー・ポーに関する新たな覚書(Notes nouvelles sur Edgar Poe)」に読まれる表 現である(Ibid., p. 322)。

(18)

かわりに、自分が他人を支配しようという傲慢な自負心を 1 人 1 人が発 揮すれば、各人ばらばらの混沌が生じるのは避けられない。作品の雑種 性と集団の雑種性はこうして密接に結び付くわけだが、「専制君主」へ の反抗という 1 点において、人々は表向きの統一性をかろうじて確保し、

集団として内包する無秩序状態を隠蔽している

30

。ジャーナリズムによ る喧伝、創作者の能力の欠如、真の才能に対する人々の嫌悪が相互に絡 まり合って、芸術の質の低下を引き起こすメカニズムが、深い洞察とと もに分析されているのが分かるだろう。

結論にかえて

『パリ劇壇艶事秘話』をよく読むと、悪のエネルギーの衰えが芸術的 創造の衰えと結びつけられていることに気づく。たとえば「舞台裏」の 冒頭部分では、 「人々が剣を持ち、それを使う方法を知っていた時代」、 「風 俗犯罪の取り締まりや名誉棄損の裁判がまだ発明されていなかった時 代」こそが、女優たちが才能を持っていた古き良き時代であったと位置 づけられている。暴力がより制限なく行使され、放蕩がより大々的に行 われていたとき、すなわち悪がより力を持っていたときに、芸術的才能 もまたより豊かに発揮されていたというのだ。『パリ劇壇艶事秘話』の 書き手たちは、「善良さ」を幻想として広める芸術家やジャーナリズム

30  凡庸な人間が「自分こそが君臨する権利がある」と思い込むことで、芸術の堕落と社会 的混乱が同時に引き起こされるという図式は、『1846 年のサロン』にはっきりと書きこま れている。ボードレールはこうした傲慢な自己主張を、「共和主義」のメタファーで理解し ていた節があり、「巡査にせよ憲兵にせよ、真の軍隊」が 1 人の共和主義者を打ちのめす場 面を眺める喜びを語った、読み手をやや戸惑わせる一節も(Ibid., p. 430)、その文脈で理解 すべきものと考えられるだろう。一方で、各々自らが王たらんと欲する集団が、真に才能 ある個人に対峙したとき、表向きとはいえ一定の統一性をどのように獲得するかについて は、この時期のボードレールのテクストにつっこんだ考察は見られない。ジェローム・テ ロは『哀れなベルギー』の分析において、それぞれが「自分もできる」と思いあがってい る人々が、「競合の均衡」によって「ベルギー人」という統一体を構成し、自分と敵対し ているという図式をボードレールが提示しているとして、この図式を生み出すメカニズム を検討している。(Jérôme Thélot, Baudelaire, violence et poésie, Gallimard, 1993, p. 187- 195)。

(19)

が、実際には悪徳と無縁でない事実を明るみに出しただけでなく、とき に無自覚なやり方で世の中を暴力的に支配してしまうメカニズムを、戯 文的文体の力で対抗的に可視化してみせた。しかしボードレールにとっ て、さらに重要なのは、「善良さ」という幻想の蔓延が芸術的衰退と表 裏一体であるという認識である。「ポンサール」でユゴーが「専制的暴 君」に喩えられていたことから分かるように、すぐれた芸術的才能は他 の人間に対して強い抑圧を加えることで、自らの一貫性を堅持しようと する。この暴力に人々が耐えられなくなると、本来はばらばらの凡庸な 個人が手を握り合って表向きの統一性を作り出し、集団として抵抗を試 みることになるが、友愛に満ちたこの集団は、当然のことながら突出し た才能を内に抱えることはできない。そして潜在的には存在するはずの 互いの間の暴力を、平和な空間を維持する「善良」な存在であるという 印象で覆い隠しながら、暴君たる才能豊かな芸術家を追い落とすために 集団全体として暴力を行使する。強力な芸術的才能が追いつめられ、既 存のスタイルを模倣し組み合わせただけの凡庸な人たちが力を獲得する 一方、強力な個人に集中していた暴力は、薄められ自覚を欠いた形で社 会全体に拡散していく。

『パリ劇壇艶事秘話』全体を見ると、この冊子をボードレールが主導

したとは、たしかにいえないところもある。しかし芸術の質と公衆との

関係について、悪や偽善といった主題と関連づけて掘り下げられている

ところを見ると、ボードレールが生涯に渉って取り組んだ問題が、粗削

りながらもかなり明確な形で提起されていることは間違いない。『パリ

劇壇艶事秘話』を視界に収めながら、1840 年代のボードレールを読み

直すことは、悪という詩人を特徴づける主題が、単なる個人的な志向の

みに由来するのではなく、同時代の芸術の状況、言論の状況への批評的

介入と考えられる所以を、あらためて浮き彫りにするための不可欠の作

(20)

業だと考えられよう。

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