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テロール男爵の『古(いにしえ)のフランス,ピトレ スク・ロマンティック紀行』

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テロール男爵の『古(いにしえ)のフランス,ピトレ スク・ロマンティック紀行』

著者 石木, 隆治

雑誌名 東京学芸大学紀要. 人文社会科学系. II

巻 57

ページ 69‑101

発行年 2006‑01

その他の言語のタイ トル

Le voyage pittoresque et romantique dans l ancienne France par le Baron Taylor

URL http://hdl.handle.net/2309/1156

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《はじめに》

周知のように英国では「ピクチャレスク」という審美的観念が存在して,特に現在ではそれにまつわって 様々な議論がおこなわれている。わが国でも「ピクチャレスク」に連なる「崇高」の概念をめぐっての『崇高 と美の観念をめぐる』が邦訳されているし,また「ピクチャレスク」の代表的思想家ウイリアム・ギルピンの 主要作品の復刻が刊行されるなど,研究も活発におこなわれている。ところで,このピクチャレスクという概 念は純粋に英国固有の観念であって,フランスには存在しないのであろうか。否,そんなことはなくて,フラ ンスにも立派に存在する。「ピトレスク」というフランス語は18世紀には盛んに用いられた語であって,その 示すところもおおむね英語のピクチャレスクと同じであった。しかし,「ピトレスク」は「形容詞」としてそ の存在を認められていたのであって,決してある美的「傾向」「美学」そのものとして認知されているわけで はない。

では実際には「ピトレスク」とはさまざまな書物のなかに散在する単なる「形容詞」としてのみ存在してい たかというと決してそんなことはなくて,本書でこれから主要に扱う『古のフランス,ピトレスク・ロマン ティック紀行』という膨大な書物によって物質化していることでもわかるように,あるひとつの「ピトレスク な態度」というものが実在していたことは確かである。そうしてこうした「態度」は拙論で検討する10年刊 行の『古のフランス,ピトレスク・ロマンティック紀行』よって,その最高峰をむかえたのである。これは当 時のアカデミー美術のなかにしかるべき位置を持つことが出来なかったし,まして文学史・美術史の中にもそ の正当な場所を見いだすことなど出来なかったので,当時はかなり高い評価を受けたもののそのまま忘れ去ら れてしまった。しかしながら,この『ピトレスク・ロマンティック紀行』という書物が登場したのは,ピトレ スクの長い準備期間を過ぎて,それがほとんど最終局面に入ろうとしたときに登場してきて,その最後の壮麗 な花を飾ったのである。本論では,『ピトレスク・ロマンティック紀行』そのものにできるだけ焦点をあて,

この書を通じて「ピトレスク」なる概念について考えてみたい。

いにしえ

0年,テロール男爵とシャルル・ノディエが中心となって『 古のフランス,ピトレスク・ロマンティッ ク紀行』Voyage pittoresque et romantique dans l’ancienne Franceという膨大な書物の刊行を開始する。これはわ が国ではまったく知られていない文献だが,フランスの文化史を理解するのに欠かせない文献であって,本書 が19世紀の文学,美術,考古学研究,あるいは旅行に与えた影響は計り知れない。しかし,逆に言うとあまり にも多彩な性格を持っていたために,各分野が強い専門性を確立して,より独立的な性格をもつに至ることに なる後世には忘れられることになった書物である。

これはフランスのありとあらゆる歴史的に意味のある遺跡,記念物をリトグラフと解説文によって紹介しよ

いにしえ

テロール男爵の『 古のフランス,ピトレスク・ロマンティック紀行』

Le voyage pittoresque et romantique dans l’ancienne France par le Baron Taylor

石 木 隆 治 人文社会**

(2 0 0 5年8月3 1日受理)

Le voyage pittoresque et romantique dans l’ancienne France par le Baron Taylor / Takaharu ISHIKI

** 東京学芸大学(14―81 小金井市貫井北町4―1―1)

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うという野心的な試みであった。著者はジュスタン・テロール男爵,作家のシャルル・ノディエ,アルフォン ス・ド・カイユーであり,そして当初の出版社はフィルマン・ディド兄であった。二つ折りの大きな判型の書 物で,厚さもかなりある。リトグラフィー用のベージュがかった厚めの紙を使用しているので,たとえば第1 巻は総ページが10ページほどだが厚さは7センチ以上ある。18年まで,つまり60年近くを費やして24巻刊 行され,32枚の図版を数えたが,結局完成に至らなかった。しかし,フランスのかなりの地域を網羅して から中断したのである。文章,図版で協力した人の総数はおおよそ10を超える。これは

P・ギナールによれ

ば「もっとも美しい書物[...]わがフランスの中世芸術の擁護と顕揚にもっとも貢献した書物のひとつ」であ る。

当時は製本をしないで一部分が完成するたびに,予約購読者に渡していたようで,サイズは二つ折り版,つ まり縦54センチ,横35センチの大きなもので,4枚分のテキストと4枚のインディアンペーパーに印刷された リトグラフの絵が,当初15フラン50で,後に18フランで頒布された。全部が揃った後,各自が製本したようで ある。ラングドックとピカルディーの巻からは,中世の写本をまねて,図版が各ページを縁取りしてテキスト 部分を囲むように変更された。これをヴィニェットという。紙も通常の印刷用紙上に刷られるようになった。

大きさでも,重さでも一般の庶民が家庭で気楽に開いて読むような類の書物ではなかったので,購買したの はやはりもっぱら王侯貴族や,大ブルジョワだったようだ。第1巻の刊行時に予約購読者として名前を連ねて いるのは,フランス王ルイ18世や,オルレアン公爵,これとは別にオルレアン公爵夫人,さらにはリトグラ フィーの擁護者として有名だったベリー公爵夫人ら王族9名,ロシア皇帝始め外国の王族7名,フランスの大 臣3名,公共図書館4館,それ以外の貴族,ブルジョワ,書店など,総計は54名であった。

挿絵を担当したのはエヴァリスト・フラゴナール,ジャン=バティスト・イザベイ,息子のウジェーヌ・イ ザベイ,ジェリコー,アングル,オラース・ヴェルネ,ボニントン,ドーザがいる。またディオラマの共同主 催者であるブトン,さらにディオラマと写真術を発明したダゲール,修復家として名高いヴィオレ=ル=デュッ クといった当時の錚々たる画家が下絵を描き,それを専門の版画家が,あるいは画家自身がリトグラフにした ので,この挿絵を見るだけで十分な価値がある。出版が長期に亘ったので,リトグラフィー作者にも交代が あった。テロール男爵は出版のリズムに合わせて,すばやくリトグラフィーの作品を提供してくれ,しかも彼 の気むずかしい注文を忠実にこなしてくれる画家を求めたので,アドリアン・ドーザの位置が次第に高くなっ ていったということも付け加えておきたい。しかし後期に多くの作品を提供した作家として名を残したのはウ ジェーヌ・シセリとエミール・サゴである。

いにしえ

最初の2巻は『 古のノルマンディー』を対象としていた(10年から25年)。その後,フランシュ・コンテ 編一巻,オーヴェルニュ編2巻,さらにはラングドック4巻というように,フランスの中でも未開な土地,つ まりそれだけピトレスクな景観の残る土地を優先した後,英国人に人気のあるピカルディー3巻,そして当時 人気が上昇しつつあったブルターニュ3巻,ドフィネ編1巻,そしてシャンパーニュ編3巻,ブルゴーニュ編 一巻と続き,最後に南部ノルマンディー編の1巻を加えたところでストップした,というように,フランス全 国の半分近くを網羅したことになる。詳細については注を参照されたい。また,ノルマンディーをめぐる巻が この膨大な叢書の最初と最後を飾っていることも注目に値する。各巻が擁する図版の多さにも注目されたい。

当時は,有名な古刹は別として地方にどういう寺院があって,山岳地帯などではどういうピトレスクな風景が あるかなど,まだまだよくわかっていなかったので,この企画はフランス全体の史跡,景勝地を知る上で画期 的なものであった。

しかしこの膨大な著作は最初からこれほど巨大な仕事になるとは予測していたかどうかは疑わしい。手持ち 資金も少なく,またどれだけ売れるのかまったくわからなかったからだ。ノディエの娘マリーの証言による と,当初50フランの準備資金しかなかったという。出版当初は全部で何巻になるかの予告はなく,単に『ノ ルマンディー』の巻が予定されているのみである。

1,執筆者たち

『古のフランス,ピトレスク・ロマンティック紀行』には著者は3人いた。まずあまり影の濃くない協力者 としてアルフォンス・ド・カイユー(18−16)がいる。彼は建築家で美術アカデミーの自由会員であった が,本質的には行政官的な仕事をした人であった。15年には王立美術館の事務長,ついで副館長,最後に4

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年に館長となった人である。彼はテロール男爵の若き日からの友人であったので,この大企画に参加したもの と思われる。しかし,彼の貢献はほとんど無視しても良い程度である。

《シャルル・ノディエ》

もうひとりの著者シャルル・ノディエ(10−14)は,わが国では『スマラ』『トリルビー』『パンくずの 妖精』といった怪奇幻想系の作家と見なされているが,正統的なフランス文学史をかじったことのある人なら 誰でも知っているように,ロマン派の先駆者として極めて高い評価を受けている人物である。彼は若い頃フラ ンス革命に巻き込まれてだいぶ苦労しながら博物学に興味を持ったりした後,イギリス人のある知識人の秘書 になり,イギリスのロマン主義的文学,とくにシェイクスピアに親しんでアンソロジーを出し,またゲーテの 研究をこの時期にしている。さらにはオノマトペに関する辞書を作っている。この時代の人によくあるよう に,われわれがふつう想定している学問システムにうまくはまらない執筆活動を行った作家である。その後パ リに出てアルスナル図書館の館長に任命され,家に優雅な文芸サロンを開いてロマン派の称揚につとめた。彼 のサロンにはユゴー,デュマと言った,後にロマン派を代表することになる人物たちが集まり,そのためロマ ン派の父祖という称号を奉られることになったことはよく知られている。『ピトレスク・ロマンティック紀 行』にリトグラフィーの作品を発表した多くの画家もこのアルスナルに呼ばれたことがあることも忘れてはな らない。

彼は10年代から当時英国の流行作家であったウォルター・スコットの紹介を早くから始めていて,まさに 中世文化の復活に大きく貢献した一人である。また『ピトレスク・ロマンティック紀行』の初刊を発表した 0年には,バイロンの作品の成功に刺激されて,パリのサンマルタン座でノディエは『ヴァンパイア』を上 演している。この作品はタイトルでわかるようにかなり通俗的な怪奇的作品で,彼は著者として名前が載るの を断ったほどだが商業的には大成功で,この後かなりの数の似たようなテーマの芝居が現れた。彼がこうい う作品を書いたのは,ひとえに英国でのウォルポール『オトラント城綺譚』,アン・ラドクリフ『ユドルフォ の謎』らの成功をみてのことであろう。10年代,20年代というのは,このように英国で始まったゴシック・

ロマンスの幻想怪奇趣味がパリにも入り込んできた時代であり,ノディエはその紹介の急先鋒であったことは 明記しておく必要がある。彼は自作『ザルツブルグの画家』でも,放置された僧院の数々を主人公に訪れさせ たりしているから,ノディエ自身がこの『ピトレスク・ロマンティック紀行』に関わるのは,必然であったの である。

ノディエ自身は大旅行家というほどではなかったようだが,ウォルター・スコットらの影響を受けて,代表 作『パンくずの妖精』では,スコットランドとそしてモン・サン=ミシェルなどを舞台としとしているように スコットランド,ノルマンディーについては知っていた。というのも,18年にはテロールらとノルマン ディーを訪れたばかりか,20年にはテロールらとともに英国を訪れ,スコットランドのウォルター・スコット の故地グラスゴーを訪問するなどしるからであり,『ディエップよりスコットランド山系逍遙』を3ヶ月後に は出版もしている。その他にもセーヌ川を巡る紀行文,また『歴史のパリ,パリの通り逍遥』(18)『新パリ 物語,パリ周辺逍遙』といった紹介文の監修者になったりしており,当時高揚してきた土地の魅力に対する関 心に決して無関心ではなかった。というよりも当時の英国で「ゴシック」と「ピクチャレスク」が分けがたい ものであったことを,そのまま引き受けていた,と言ったらいいか。

《テロール男爵》

3人目で最後の著者ジュスタン・テロール(ブリュッセル19−パリ19)「芸術家たちの父」と呼ばれた 人物については日本では全くと言ってよいほど知られていない。彼は19世紀を代表する人物の一人として,没 後すぐに伝記を書かれるぐらいの大物だったのだが,今日ではフランスでもほぼ忘れられた存在である。専門 分野が定まっている人なら,それぞれフランスにも(そして,わが国にも)専門家がいて紹介するから,一定 の知名度を持つことができるのだけど,このひとはその専門がなかったことが,その後忘れられてしまった理 由のひとつになるだろう。

彼の母方はもともとアイルランド系の貴族の家系で,フランドルはイープルの貴族としての生活を送ったあ と,祖父にはブラバンの王の参事をした人を持つ。父はイギリス生まれで,ライデン大学で教鞭を執ってい

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た。彼自身はブリュッセルでフランス大革命の年に誕生した。テロールは早くからフランスの土を踏み,最初 パリで,次にレンヌで恐怖政治時代を過ごした。成長してからは,当時パリのオペラ座の舞台装置家をしてい たデゴッティのもとで絵描きとして働く。この頃彼は主としてデゴッティのアトリエで,シセリ親子,ダゲー ル,アローなど,のちのちの『ピトレスク・ロマンティック紀行』作成において重要な役を演ずる人々を知り 合った。10−11年にはじめて「芸術家として,古物研究家としての巡礼」に出て,フランドル,ドイツ,ロー マ,ナポリをまわった。以後たえず続くこうした探索の旅の端緒となる。

もともと文学とジャーナリズムへの道を志していたのだが,徴兵逃れが思うようにいかず,もともと有能で あったせいだろう,気がついたときはオルセー将軍のもとで頭角をあらわしその側近となってしまった。しか し,彼は旅行へのやみがたい思いがあり,軍籍を維持したまま16年,17年とオランダ,ドイツへと旅する。

そして18年にはすでに述べたように,友人のノディエ夫妻とその娘のマリー,カイユー,そしてジャン=バティ スト・イザベイの息子でまだほんの子供だったウジェーヌ・イザベイとともにノルマンディーへの旅行に出

いにしえ

た。この旅行が彼らによる『 古のフランス,ピトレスク・ロマンティック紀行』直接の端緒になったことは 疑いない。20年にはノディエ夫人を除いた同じメンバでまたもやイングランド,スコットランド旅行を実行し た。彼は自らデッサンもよくし,14年には,サロンで2等賞のメダルをもらっている。また,『ピトレスク・

ロマンティック紀行』の制作と併行して,19年から30年にかけて,各地の史跡,記念物の保存に関して議会 に陳情を繰り返して行い,後にヴィオレ=ル=デュックらが活躍することになる《史跡委員会》Commission des

Monuments historiques

の礎を築くのになにがしか貢献した人でもある。5年には今日のコメディー・フラン セーズの王代理顧問として運営の仕事にあたるようになり,この年にこの仕事や,『ピトレスク・ロマン ティック紀行』の功績もあって男爵の称号をもらった。以後13年間,コメディー・フランセーズの仕事に携わ る。彼は友情に厚い人であり,また進取の気性の人だったから,20年代にダゲール,ブトンが企画したディオ ラマの計画に資金面で協力し,これを成功させるのに貢献した。この間,彼はロマン派の演劇に協力し,デュ マ父,アルフレッド・ド・ヴィニー,カジミール・ドラヴィーニュらの作品を上演したばかりでなく,過去に スキャンダルを起こして上演を禁じられていた『フィガロの結婚』等も,かまわず上演させた。ヴィクトル・

ユゴーがロマン派としての勝利をかためた『エルナニ』の上演を許可したのは,彼だと言われている。その後,

美術総監の仕事につくが,これはやや名誉職的な仕事であり,その間に彼は公式,非公式の任務を帯びてさま ざまな旅に出たのである。

その後,彼はエジプトのルクソールのオベリスクをフランスに移送するために陣頭指揮をした。オベリスク は移送のために特別に作られた船に乗せられてナイルを下り,地中海を渡った後,セーヌを上って直接パリま で運ばれたのである。現在,その偉容をコンコルド広場に見せていることは周知の通りである。その後テロー ルはスペインに何度かの旅をしたが,これはスペインのムリリョ,ヴェラスケス,ズルバラン,リベイラ,そ してゴヤらの絵画を大量に収集してルーヴルの富を増やすためであった。現在の考え方からすれば帝国主義的 な美術品収集の先兵だったのだが,当時のスペインやエジプトは優れた美術品の保存が確実に行えない状況に あったので,世界一自由で,世界一過去の美術品に対する敬意を持っているフランスで保存することが,そう した美術品のためにもなるという考え方があったのである。彼自身にとってはおそらく,『ピトレスク・ロマ ンティック紀行』のなかでフランスの歴史記念物の美しさを称揚し,その保存を訴えようとしたことと,エジ プトで,スペインで危機に瀕した文化財の保存をはかりたいという想いとのあいだには,同じ精神の発露で あったのだろう。

8年には美術視学官となり,さまざまな芸術家の援助のための協会を五つ作り,また文芸家協会の創立者 のひとりでもある。そのあと,フランス美術館連合の顧問となり,最後に上院議員となった(19年)。現在 でも彼の名を冠した芸術家支援組織≪テロール財団≫が存在して活動を続けている。この時代にはナポレオン のもとで現在のルーヴル美術館を作ったヴィヴァン・ドノンとか,長くルーヴルの美術部長を務めて,権力を 振るったフォルバンらのように,行政と芸術の間にあって活躍した人がたくさん出ているが,そのうちの一人 と考えて良いだろう。

テロール男爵とはどんな人だったか? 当時のシュヌヴィエール侯爵が非常にうまい言い方で要約をしてい る。

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彼は全てであった。軍人にして画家,文人にして劇作家,劇場支配人,美術視学官,古物収集家,愛書狂,

旅行者,外交官,美術特使,考古学者であり,かつアマチュアであった。一言で言えば,芸術と科学,精神 的営為がもたらすことの出来るすべてのすばらしいものを体現していた。もっといえば何にもまして愛国の 人,疲れを知らない善行の人であった。

彼が死んだ時やり残したことは,自己の回想録を書くことだけであったという。彼は創生期のロマン主義者 にふさわしく王党派であり,またエジプト,スペインから文化財を持ち去るなど帝国主義者でもあった。ま た,当時の人々がうらやむような仕事をどれもかなりの高いレベルで実現したことは事実ではあっても,正真 正銘のディレッタントであったとも言える。彼の著作は学問的な造詣の深さという点では当時から徐々に台頭 してきたアルシス・ド・コモン,ヴィオレ=ル=デュックらの学者グループに追い越されていくのである。ま た,史跡保存に関わる行政官としては,メリメのような華々しい活躍はできなかった。旅行の印象を書く文筆 家としてはシャトーブリアン,フローベール,マクシム・デュカンに負けるのである。しかし,彼は編集者と して優れた能力を発揮したし,また他の人たちには表現できない何かを表現している。それはシロートっぽさ ではあるけれど,なにか現代につながっていくような感性,一般の旅行者に近い感性である。

執筆に関しては最初のノルマンディーを扱った二巻はノディエが執筆した。ただ,ノディエ自身の言葉を信 ずるならば,一部の美術に関する部分はテロールが執筆したという。その後ノディエは自分自身の仕事で多忙 をきわめたために執筆を降りた。その後は一貫してテロールが執筆したが,いちぶは若い研究者の協力を得て いる。しかし,当時ノディエは文筆家として高名だったから,テロール男爵は彼の思い出を記録し,また売り 上げを伸ばすためにノディエが執筆から降りた後も彼の名前をはずさなかった。そこから,さまざまな誤解が 生じた。いずれにしても著作の発案,制作,監修のいずれもテロールが中心であったので,彼を中心人物とす ることが正しいだろう。

彼はどのようにしてこの膨大な仕事を実現していったのだろうか。彼がこの仕事を着想した時期に関しては いろいろな説がある。ある人は,11年,彼が22歳の時にヨーロッパ中の故地をまわる巡礼を始めたときに,

すでにキリスト教的考古学の書物の構想を持っていたという。また別の人は,13年に徴兵で彼が戦地に赴い たときにすでに,こうした構想を胸に抱いていたという。テロール自身,『ピトレスク・ロマンティック紀行』

の中の各所でいろいろ違ったことを言っている。『ブルターニュ編』(13)の中では「35年前に私ははじめて ブルターニュを訪れた。そうしてこの美しい地域のピトレスクな景観を眺めて,私は『紀行』を思いついた」

と書いているのである。35年前というと,18年頃だろうか。ちょっと早すぎる気もしないではないが,いず れにせよ彼が20代の頃にすでに『ピトレスク・ロマンティック紀行』の構想を持っていたことがわかる。とも あれ彼がこの計画に実際に着手することができるのは,18年になってノディエと知り合った後のことであろ う。

彼はどうしてこのように膨大な時間と精力を必要とする仕事を行ったのだろうか。それはある種の危機感の 表明でもあった。フランス大革命後,キリスト教の権威は地に落ちて,各地で教会,僧院は行政による廃止の 対象となり,また攻撃,破壊,略奪を被った僧院も数知れずあったのである。国家から払い下げを受けて,そ うした僧院の建物を解体して,建築材として石を売る業者も現れた。さらには,イギリス人の観光客が大量に 流入してきて,由緒ある石像彫刻の断片などを捨て金で買い取って持ち帰ることも起きた。英国人はフランス の史跡保存政策の貧困を非難しながら,他方ではこのような持ち帰りを行っている者もいたのである。『ピト レスク・ロマンティック紀行』では「英国人たちはジュミエージュの僧院の石を持ち去り,また石工たちがレ ザンドリーの美しい屋敷のすばらしい彫刻を壊している」としている。

つまりテロール男爵は崩壊の危機にさらされていた中世芸術のすばらしさを一般に知らしめることによって

「中世の傑作を野蛮人の槌から守る」ことを使命としていたのである。

仕事はどのように始まったのだろうか。これについてはノディエの証言がある。

最初になされた提案に賛同したとき,私はこの計画が畏友テロール氏の指揮の下でこれほど大きさなものと

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なるとは想像もしていなかった。氏の希有な才能,氏の多彩な知識,疲れを知らない精力ならもっと大きな 企図も可能かと思われたが。[...]われわれカイユー氏と私は謹んで以上の証言をするものである。この間に も氏は,興味深い注釈においていくつかのあやふやな事実を確認するために巧みな探求を続けていられるば かりでなく,新たにクロッキーを描いて,その大胆さ,巧みさによって応援の手練れの画家たちの指針を与 えているのである。

このように,この大仕事のヘゲモニーを握ったのがテロールであることは疑いがないが,実際の執筆は誰が 行ったかについては,いささかの議論があった。というかいくつかの勘違いもあったし,またテロールはなぜ か敵の多い人だったので,意図的な歪曲もあったようである。当時,ノディエも協力していた『文学芸術年報』

で報告者のルルディウはこの『ピトレスク・ロマンティック紀行』の企画を褒め称えた後に,この企画は「ノ ディエ氏が計画して成功させたもので,我々の期待をことごとく満たしている」と書いているのだが,数ヶ月 後には同じ雑誌がテロールの名を「挿絵担当」としてあげているのみである。また『パンドラ』誌は「ノディ エ氏の文体の魅力」のみを語っている。

すでに述べたようにこの『ピトレスク・ロマンティック紀行』のなかでも,少なくともノルマンディーに関 する2巻については,執筆を行ったのはノディエであり,その後の巻は,主としてテロールが執筆したものと 思われている。このことについてはノディエ自身の証言がある。2巻目の最後で,書き手は謝辞を述べている が,ここではテロール男爵とカイユーにも謝辞が向けられているので,これはノディエが執筆したとしか考え られない。

後になって新聞の『シルフィッド』紙が『古のフランス,ピトレスク・ロマンティック紀行』の執筆に当たっ て,テロール男爵が他人に書かせたのに自分の名前を使っていると攻撃したことがあった。この時すぐに反撃 したのは,その名前を使われたと目された人たちであった。

ノディエは『ジュルナル・デ・デバ』誌に載せた公開書簡でこう反駁している。

拝啓,貴紙において「コレクター」と署名された記事の一節を拝読,非常な驚きを覚えましたので,こうし て書簡をしたためます。「テロール氏はシャルル・ノディエが本文を書いた書物に自分の名で署名をしてい る」とありますが,貴下にこのような情報をもたらした者は,貴下の信頼を濫用していると言わざるをえま せん。小生は『ピトレスク・ロマンティック紀行』の執筆に関して,テロール氏と一緒に働きまして,二人 で書物に署名をいたしました。最初の2巻の大部分は小生が受け持ちましたが,最良の部分がそうだとは言 いかねます。それというのは,美術に関するテロール氏の執筆部分は私の受け持ち分よりも成功を収めてお りますし,これからも収めるでしょう。その後,テロール氏はこれまで出版された『ピトレスク・ロマン ティック紀行』の10ないし12巻を一人で執筆されました。こうした既出版部分が小生に帰されることがある のは,テロール氏が礼儀上,昔の協力者の名前を残していてくれるからに過ぎません。

小生はこれまでたびたび抗議しなければならない羽目になりましたし,またこの機会にもきっぱりと,そ して名誉にかけて抗議いたしますが,小生は一行も書いてはいないのです。久しい以前から,寄る年波には 勝てず,また日々の苦しみ,仕事の義務のせいでこのような膨大な仕事に必要な研究,配慮,勤勉さをもつ ことができません。(13年5月23日,パリにて)

しかしその後になると,今度はテロールが中心になって執筆したものの,何人かの協力者がいたのは当然とい えば当然であろう。『文学的フランス』誌においてケラールは18年以前に出版されたプロヴァンスに関する 5つの巻はテロールの手になるものだと言っている。30年後になってもこの『ピトレスク・ロマンティック紀 行』の執筆者についての議論はかしましく行われ,世論はなぜかテロールに対して厳しい声も多かった。これ に対してケラールはちょっと微妙な書き方をしている。

ところで,われわれはノディエに関する記事のなかで示したように,この本の執筆に当たってはテロール男 爵ほとんどひとりで十分だった。ただ,現場にいて秘書役をつとめた作家たちに部分的な執筆を依頼したこ とはある。アメデ・ド・セゼナ氏はオーヴェルニュ編,ブルゴーニュ編,ドフィネ,ラングドック,ピカル

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ディーの一部を担当し,またブルターニュ編の校閲を行った。ドゴール氏はブルターニュ編を担当。アドリ ヤン・ド・クルセル氏は他の部分の著者である。テロール男爵は今世紀のアレクサンドル・ド・ラボルド のような存在である。

ケラールはテロールをさまざまなゴースト・ライターを使ったアレクサンドル・デュマのような存在にした がっているように見える。とくにアメデ・ド・セゼナが抜きんでて執筆に協力した,と。ところが当のセゼナ はまったく異なることを書いている。

テロール男爵は一人でこの大著の構想をしたのだが,いつも変わらずこの企画の主導者でもあった。挿絵の 分類,選択,仕事の全体の割り振り,土地と歴史記念物に関する自分の研究などの仕事にもかかわらず,氏 は原稿の執筆に必要な数多くの探求に没頭していた。当初,ノディエ氏が協力していたが,その後はずっと テロール男爵が単独で執筆部門を担当している。

またテロールは,14年からは(つまり,ドフィネ,ブルゴーニュ,シャンパーニュ,南部ノルマンディー 編に関しては),自分の名前のみを表紙に入れている。これは彼の自信を表すものだろう。また,89歳になっ て,彼の初期の協力者がことごとく亡くなり,最後の一人のようにして残った後も,『ピトレスク・ロマン ティック紀行』の執筆に意欲を失っておらず,書斎である客に向かって『ピトレスク・ロマンティック紀行』

を指さしながら,「自分はこの本の一章を口述筆記したばかりだ」と言ったという。彼はこの作品の完成に向 けて,最後まで執念を燃やしたのである。

2,『ピトレスク・ロマンティック紀行』の政治的な意図

この本はまずなによりも歴史的・考古学的な記念物を示して,記述することに重点を置いて,その意図はま ずもって文化的な性格を持つことはすでに述べたが,しかしそれが政治的な意図をもつことも忘れてはならな い。周知のようにフランスでは大革命後,宣誓を拒否した僧たちは放逐され,僧院,教会は破壊されたのだが,

このように精神的,物質的に損害を被った国民精神の遺物(キリスト教建築物のこと)をここに書物の形で保 存しようと言うのがこの本の意図するところである。少なくともノディエの序文にはそう書いてある。彼は序 文の冒頭に

いにしえ

フランスの古の歴史記念物は特殊な性格を持っている。変わることがないすぐれて国民的な観念,情念の領 域に属しているのである。こうした記念物が崩壊すると言うことは,思想にとってもっと重要な崩壊,長い 間王政を支えていた諸制度の崩壊を物語っている。歴史記念物の崩壊は王政の崩壊なのである。

ノディエ,テロールは遅れてきた王党派であって,フランスの国家的精神を体現してきたそうした歴史記念 物をできるだけ保存し,それが不可能ならばそれがなくなる前に,せめて記録の形で残そうという,かなり せっぱ詰まった気持ちがこの本の意図するところである。こうした意志は実はナポレオンの意図を継承する物 である。統領ナポレオンは大革命以来のフランスのナショナリズムをさらに高揚させて,ギリシャ,ローマ や,イタリアのルネッサンスに還元されないガリアの文化を称揚しようとしていた。だから,この本はある種 の危機意識の表れであると同時に,一種積極的な政治的な思惑の書でもある。

ナポレオンはこうした活動に熱心で,すでに10年頃から各県に任せて,それぞれ県の文化財の記述などを 行わせていた。各県はその県の『簡約記述目録』を出版して,県内の文化財の発見に努めるように指示をした。

いくつかの県では実際に出版にまでこぎ着けたが,執筆を行ったのは各県在住の役人,文学者,建設部門の技 師等だったので,出来,不出来の差が激しく,全体としてあまりよいものができなかった。はかばかしい成果 が上がらないのに業を煮やしたナポレオンはこの計画を凍結し,各県知事の責任において『県別資料集』を制 作させた。この計画は11年には「タルン版」からスタートして,10年頃にはほぼ全県が出揃った。これは 各県の分が同じ体裁で,また全てパリで印刷されており,ナポレオンの考えでは,これのひと揃いが『フラン ス全国記述集』を構成すべきものであった。この資料は各県の産業情報を主とするものだが,旅行者向けの観

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光情報をも載せていた。

この成功を受けて,たとえばこの当時大臣を務めていたモンタリヴェは「フランスの史跡,とりわけ古い城 郭」についての情報を提出するように10年に各県知事に指示しているのである。こうした動きの背後には,

当時フランスの歴史記念物に関する膨大な研究を準備していたミランやアレクサンドル・ド・ラボルドらの動 きがある。ミランは17年に膨大な『フランス各県の旅』の原稿を完成し,またラボルドは『歴史的事実と芸 術研究との関連で考察されたフランスの史跡,年代別目録』を作っていた。『ピトレスク・ロマンティック紀 行』の序文でも言及されているこの本の中で,ラボルドは「フランスはヨーロッパ諸国の中で文句なしにあら ゆる時代を通じてもっとも史跡に富む」と述べている。そうして,「あらゆる時代の遺産を集め,歴史家には 比較研究の素材を提供し,芸術家には模範とすべき素材を提供し,土地を愛する人々にはフランスの栄光の最 良の思い出」を提供すると述べている。かなり愛国的な調子である。またルノワールはナポレオンの支持のも とに,フランス王の墓所として有名なパリ郊外のサンドニ寺院にあった王たちの墓までも集めたフランス史跡

博物館

Monuments français

を作った。このようにナポレオンは歴史上の遺跡を最大限活用することによって,

自己の存立基盤であるナショナリズムの高揚を図ったのである。

ナポレオンに取って代わった復古王政は,実は王,貴族,教会が奪われていた財産を取り戻すことに熱心で あって,国家の政策としてこうした国の宝を収集,分類し,顕揚するという仕事には必ずしも熱心ではなかっ た。それで,せっかくできたばかりのフランス史跡博物館をいきなり解散させたりすることさえした。王族,

貴族や僧たちが本来自分たちのものであった僧院や城の遺産を取り戻す邪魔になったからである。このよう に,復古王政はギロチンの記憶におびえながらかろうじて存続していった年寄りの政権であって,なにか新し い目標に向かって突き進む意欲はまるでなかった。しかし,この時代になると在野の研究者の研究成果や,地 方での動き,世論の流れなどによって,史跡保存の流れは留めようのないものとなっていく。各地域では自分 たちの地方にある史跡についてもっと詳細な著述へと向かったのである。このような動きの結果がはっきりと めだってきたのは,17年頃のことである。10年前には研究者ミランらの研究と保存の動きに対して冷たかっ た世論なのに,この年画家のルイ・ガルヌレが版画を発表して,石工たちがパリ近郊のモンモランシーの城を 解体している情景を描き出すと,人々は大いに憤激した。また,この年には画家のボージャンが『フランス,

新ピトレスク紀行』を発表して好評を得て,4年まで刊行が続いた。この紀行集には,ボージャン当人以外に,

ミシャロン,ゴブラン,ギヨといった当時のそうそうたる画家が加わっている。これを受けて,時の内相ドゥ カーズは再度,各県の知事に対して地域の記念物に対するリポートを出すように求めている。今回は記念物を どんどん持ち去りつつある英国人に対する対策という意味もあった。

この時期にはもちろん歴史記念物をカタログ化して記録しようとする試みも継続しており,たとえばダジャ ンクールは4世紀から16世紀に絞って歴史記念物の記録をしようとした。またこれと類似した企図としては オーバン=ルイ・ミランの『古のフランス』がある。この書はもっぱら破壊の被害にあっている記念物に焦点 を合わせている。

実は共和制を主張する野党側には,こうした史跡保存の動きを冷ややかに見る論調も少なくなかった。彼ら から見ると,教会と僧院を復元することは古き権力の思い出を呼び起こすことになり,また城の復興を図るこ とは,そこに住んでいた権力者の「おぞましき放蕩と憎むべき裏切り」を復活させることにつながるからだっ た。しかし,援護射撃は英国の方から来た。『ピトレスク・ロマンティック紀行』刊行直後の21年,イギリス の新聞『コータリー・レヴュー』紙は「中世におけるノルマンディーの建築」と題する長い記事を載せて,ノ ルマンディーの史跡研究の書を紹介し,フランス人の無関心を非難しながら,『ピトレスク・ロマンティック 紀行』を擁護したのである。

こうした動きに対しては復古王政も無関心でなかった。むしろこうした動きに便乗して自分たちの先祖の時 代の文化を賞揚することによって,自分たちの権威の正当性を誇示できるのだから,基本的にはこうした動き には好意的だった。たとえば,画家のユヴェは,ルイ18世の愛人であったカイラ侯爵夫人のためにゴシック・

トロヴァトール的な絵画をたくさん描いているし,またベリー公爵夫人(後述)も同じような絵画が大好き で,そうした絵画,風景画を大いに奨励した。15年にルイ18世の葬式がパリ郊外のサンドニ寺院で,また同 年ランスでシャルル10世の戴冠式が挙行されたときは,いずれも中世風の服装,由緒正しき式次第と雰囲気で 実行されたのである。『ピトレスク・ロマンティック紀行』の刊行を始めたテロールが25年に男爵に任命され

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たのは,こういう空気のなかのことであった。ノディエもまた24年にアルスナル図書館の館員として正式に採 用される。

《印象の旅》

しかし,この『古のフランス,ピトレスク・ロマンティック紀行』の目的は先行する研究書の類とは少々異 なるところがあるこの企画は政府に委嘱された学者の本ではなく,あくまでも民間の自主的な企画(ある程 度,政府の援助は受けたようだが)であった。また二人とも研究者とは大いに異なる経歴の持ち主である。ま た本当に国民的な遺産を研究し,それをきちんと残そうとすれば,たった一つの城の廃墟,たった一つの僧院 にしても,長い歴史があり,建築学上のさまざまな議論があるだろう。そういうことは,この二人には不可能 である。そうしたことは執筆者には十分わかっていたことであって,ノディエは序文でこう述べている。

われわれはフランスを学者として巡るのではない。そうではなくて,なにか興味深い眺めを鑑賞することを 望み,気高い思い出を味わいたがっている旅行者として回ろうとしているのである。[...]言ってみれば,

これは発見の旅ではなく,印象の旅なのである。

「発見の旅ではなく,印象の旅」なのだ。その後,彼はこう続けている。

われわれは歴史の痕跡のあとを辿ることはしない。歴史を援用するのは,そうした歴史の重たい証言がわれ われの感動を強めたり,その圧倒的な物語で史跡の荘厳さを強化したりして,感動を高めるのに協力してく れる場合のみである。さらにこういうことがある。われわれは歴史のもたらす情報が,伝承という道を通し て伝えられるとき以上に,生き生きとした関心をもってこれを聞くことはないのである。人間の記憶は,数 世紀のあいだ継承された思い出話を通して伝えられるときに,生き生きとした歴史の感覚をひとの心に伝え ることができるのである。

つまりこれは学者が研究の成果を報告したり,研究の成果を一般向けにやさしく書いたりする本ではなく,ア マチュアの旅行者が見たままの印象を記述する本である。また,18世紀の「記述」集のように,実証的,科学 的な本ではなく,いわば民族学的,詩的,私的な旅行記なのである。非科学的な「伝承」をも取り上げるとい うのだから。彼は続ける。

どれほど田舎の案内人の素朴な話が,現代の歴史家たちの論争に光明をもたらしてくれたことだろう。われ われはものを信じやすい性格なので,厳しい批評家なら批判しそうな観念も受け入れる。このように受け入 れるのは,研究好きな読者に権威的に押しつけるためではなくて,感じやすい読者の新たな感動のもとを提 供するためである。われわれは子供っぽいお涙頂戴式の話の感動的な誤りを排除しないし,また偶然の結果 生まれた間違いも,うそによる誤りも排除しない。われわれは,それどころか古き城の塔の中の守護精霊 や,小さな部落のなじみの小妖精の話を集めるのである。

彼がこのような発言をするのは,もちろんロマン主義が時代のフォークロワからさまざまな要素を取材して 利用したという事実がある。実際,このあとで筆者ノディエはシェイクスピアのお化けはフォークロワに源泉 を持っているといい,そのあとにダンテ,スタール夫人,ゲーテ,シラーらの名を援用している。実際,『古 のフランス,ピトレスク・ロマンティック紀行』のなかのすくなくともノディエが書いた部分に関してはそう いうフォークロワに対する嗜好を読み取ることが出来る。ノルマンディー編の中にいくつかそうした伝承物語 の紹介があるし,おそらくこれはノディエにしか書けまいと思われるロマンティックな文章に接することがあ る。第2巻から,ノルマンディーのプルヴィルの海辺の情景を引用すると,

海の眺めは次第に恐ろしいものになっていった。嵐の時のプルヴィルほどに,目と想像力に恐ろしく映る海 をほかにあまり知らないほどだ。これは移動砂に囲まれたモン=サン=ミシェルをなにがしか思わせるもの

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がある。またこの自然風景の憂鬱な影響のせいで,われわれは民衆の迷信めいた伝承を喜んで聞く気になる のであった。

つまりノディエが言いたいのは,これは客観的な歴史をたどる書物ではなく,史跡にただよう独特の雰囲気

(それを彼は革命前に存在した国民的な精神とみなしている)をよく再現するものであるのならば,フォーク ロワ的な言い伝えでも構わず採用するというのである。詩人の書く歴史である。

ノディエが降りた後,執筆を担当したテロールは前任者ほど文筆の才がなかったし,おそらくそういう考え 方には賛成ではなかったから,それ以降この作品はいっそう歴史記述的になり,考古学的になる。彼は個々の 史跡の説明にあたって,まずガロ・ロマン時代からはじめて歴史の記述を行い,ついで問題の史跡の記述と場 所の描写を行う。彼の文体はレトリック調で,やや単調である。彼はおそらく初期にノディエが書いていた頃 に行われていた批判,感興の赴くままに書きすぎる,ロマンティックに過ぎるといった非難を意識していたの かもしれない。というか,もともとテロール男爵にとっては,ノディエのこうしたロマンティックに過ぎる要 素は受け入れがたいものであったろう。なぜならば,詩的な印象を既述するだけの旅ならば,フランス全国を 津々浦々,隈なく表現するほどのこともないからである。つまりテロール男爵が担当している部分は「記述」

description

という本来のジャンルに戻ったということができるだろう。実際,テロールの執筆部分には「記述」

という語が頻出するのは事実である。

ただ,そうはいってもテロール男爵の執筆部分に関して,このように膨大な書物の細部にわたって正確を期 すことは大変な労苦を伴うものであったことは言うまでもない。テロールが書いたことがらが当時の学問水準 から言っても常にオリジナリティがあったとは言えないが,それでも彼は昔の旅行家の本を漁り,学者に精確 な詳細を尋ねた。ノディエの親友であったシャルル・ヴェスはテロールの知的好奇心の格好のターゲットとさ れ,テロールからの質問の手紙に悩まされたという。また,彼の書庫はこうした研究にとってはほんとうに役 に立つ図書室となり,こうした分野の研究に関しては,パリの古いサント・ジュヌヴィエーヴの図書館や,後 にパリの国立図書館になる王立図書館に比せられたという。

したがって,この書物は,膨大で細々として研究によって,崩壊しつつある国民的遺産を記述し残そうとす るばかりではなく,むしろそうした歴史記念物がもっているピトレスクで,かつロマンティック,さらには審 美的な価値の中に,国民精神の発露をみて,それを残そうとしたのだと考えることが出来る。また,この作品 はむしろそれが擁している膨大な図版によって評価されるべきものであるという人もいる。ドーザをはじめと して,フラゴナール,イザベイ,その他錚々たる画家を動員して作られたリトグラフによる図版はテロールに よるチェックを受けているからであろう,作者は異なるのに,ある共通の雰囲気を漂わせている。それは失わ れた時代の事物や,人々や精神に対する深い思いである。

3,ノルマンディー

『ピトレスク・ロマンティック紀行』がノルマンディー編から始まったことの意義は大きい。ノルマン ディーはもともと史跡の多いところとして知られていたが,そうした現象が起こるのは歴史上重要な事件が数 多く起こったようないつもフランス史のスポットライトを常に浴びてきた場所であることも大きいが,もう一 つには英国ではじまったゴシックへの関心をもった英国人が海外に押し出してまで,ゴシックの遺跡を見よう とするときに,ノルマンディーはいちばん近く,いちばん手頃な場所として意識されたことも大きな理由だろ う。

もともと,ヴァイキングがノルマンディーに建国した9世紀から11世紀ほど間での間は,このノルマン ディー公国はヨーロッパでももっとも活力のある国として,遠くシチリアにまで属国を作ったほどだが,その 影響もあって,多くの史跡を抱え,また風景も美しく,しかも英国人から見れば物価も安く旅館の食事も美味 であることから,英国人を引きつけたのである。彼らはノルマンディーに入り込んできて,遺跡を勝手に持ち 去ったりしたが,他方フランス人がゴシックの遺跡を大事にしないことを非難もして,史跡研究の発展を促し た側面もある。そうした動きを受けて,シャルル・デュエリシエ・ド・ジェルヴィル(10−13)らがノル マンディーの史跡の研究を始めた。そうして友人たちを集めて研究会を開き,「ロマネスク建築」という概念 を始めて提出したのは,18年のことである。ジェルヴィルはほとんど故郷のヴァローニュを離れなかったか ら,彼の説はパリまで届かなかったが,彼の友人で,政治家,学者であるオーギュスト・ル・プレヴォ(1

(12)

−19)はジェルヴィルの研究を発展させ,パリの知的世界にも知らせたのである。

しかし,このことを受けて,またもっと大きな文脈の中に置き換えてみると,このフランス国内での美学的 な興味の転換が大きな意味をもっている。そうして,このことが,10年頃にはっきりした形をとってきた価 値観の変化,つまりひとびとの関心がイタリアを離れて,18世紀には一部がスイスなどへと移ったあと,ス コットランドやノルマンディーへ,一言で言えば,北方へと関心が集まっていく現象の締めくくりとなったの である。

これまで,ルネッサンス以降の美的価値観に影響を受けて,風景画といったら(少なくとも公式的には)ロー マ近郊の風景しか認めてこなかった価値観が崩れて,自国内の普通の風景がローマ近郊に勝るとも劣らないと 考えるようになっていくのである。英国の影響を受けながら,そうしてルソーの影響を受けながら起こったこ うしたロマン主義的なパラダイムの転換のあおりをうけた起こった変動であって,単なる自然発生的な動きで はない。また,フランスで18世紀には,保養や観光の地として好まれたのは,当然ながらパリ近郊と,そして スイスであったが,それが次第にノルマンディーへと移っていく流れをあらわしているものである。ノルマン ディーはパリと並んで首都に近い,あるいは交通の便が発達している,ピトレスクな景観に富むという理由で 人気を得たのである。

パリ近郊で人気を得た場所は多々あるが,そのなかでも特に有名だったのはパリの北おおよそ60キロメート ルの地に位置するシャンティ,またルソーの墓で有名になったエルムノンヴィル,さらにはパリの西南70キロ メートルほどに位置するフォンテーヌブローの森などがある。フォンテーヌブローの森を愛でる慣習は長く続 いて,後のバルビゾン派の発展につながることはよく知られている事実である(バルビゾンの村はフォンテー ヌブローの森はずれにあるいくつかの村の一つに過ぎなかった)。また,パリ近郊は印象派の揺籃の地として も知られているが,そうしたことが起こったのはずいぶん以前からパリ近郊の森や川を愛でる習慣があっての ことである。

『ピトレスク・ロマンティック紀行』では,ヴァロワ地方のサンリス等,ごく一部を除いてパリ近郊は扱っ ていない。この書物はフランス全国のまだ十分に知られていないピトレスクな魅力を紹介しようという野心を 持っていて,パリ近郊はすでに多くの情報があると判断してのことだろう。これに対して,ノルマンディーは

『古のフランス,ピトレスク・ロマンティック紀行』の最初の2巻を占めるなど,非常に重要な役割を演じて いる。拙論では書物の目的からして,『古のフランス,ピトレスク・ロマンティック紀行』のノルマンディー 編3巻(3巻目は最後に刊行された)を主として参照することとしたい。必要な場合にのみ,他の巻にも言及 することにする。

《ノルマンディー編,Ⅰ》

ノルマンディーを重視する姿勢は全体の序文でも示唆されているが,『フランシュ・コンテ』編のノディエ による序文でも,中世建築の功績がすべてイギリス人に帰せられることに対する反発が,ノルマンディーを最 初に取り上げた理由として説明されている

序文のあと,この膨大な書物はごくごくさりげなく,セーヌ河をパリから下ってルアンに近いルヴィエから 始める。そのあと,叙述はセーヌを下り,《恋人河岸》にいたる。ここで,著者はこの土地の歴史よりは,こ の「恋人河岸」という名前にこだわって詩的想像をめぐらす。専制的な領主が娘をもらい受けようとした若者 に出した条件はこの美しい娘を抱いたまま,急な斜面を全力で頂上まで登ることだった。若者は最後,息絶 え,娘は絶望のために死んだ。この地の紹介はこれだけである。これは何らかの理由で《恋人河岸》という名 前がついたこの土地に事後的に伝承が被さったのであろう。大岡昇平が『武蔵野夫人』の執筆に当たって,た だただ名前にひかれて「恋ヶ窪」を作品の舞台にしたような話である。つまりノディエは史実を語りながら,

同時にフォークロワを語り,その町の詩的印象を述べるのである。彼は,僧院の歴史をたどるのと同じくらい の情熱で妖精の宿る木やプロエルメルの樫の木について語る。つまり伝説と事実がない交ぜになっているので ある。

そのあと,叙述はルアンをとばしてしまい(第2巻で登場する),セーヌを下って悪魔王ロベールの城の廃 墟に立ち寄って,この由来のはっきりしない悪行の王様についての噂を語ったかと思うと,さらにセーヌを下 り,ブロトンヌの森の中の僧院の建ち並ぶ地帯にはいる。まずはジュミエージュの骸骨のような廃墟について

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