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漢代の節について : 將軍假節の前提

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(1)

漢代の節について : 將軍假節の前提

その他のタイトル A Study of chieh (節)in Han Dynasty : symbol of the Emperor's messenger

著者 大庭 脩

雑誌名 関西大学東西学術研究所紀要

巻 2

ページ 23‑58

発行年 1969‑03‑30

URL http://hdl.handle.net/10112/16130

(2)

將軍という官職は戦国初期に発生したといわれる︒將軍は︑軍を

將いて外征し︑國に冠なす敵を討伐するが︑その職務を遂行する為

には強い独立性を持たしめる必要があり︑また部下の將兵を統制し

て目的の達成に全力をあげるためには︑部下の功労に対する褒賞権

と︑部下の不法行為に対する懲罰権とが保証されなければならな

五四三

一ハ

一一 問題の所在節に関する解説

l周禮にみえる節l

漢節の形態

節と使者

節を授けられる官職

その一前漢時代における諸例

節を授けられる官職その二後漢時代における特例

節と瞳との関係

漢代の節について︵大庭︶

一問題の所在 漢代の節について l將軍假節の前提I

い︒この賞罰二柄を把握することによって彼は部下に対する威信を

示し︑彼の命令は遵守遂行されるのである︒そこで將軍は︑任命さ

れる時に荘重な儀式によって王叉は皇帝より賞罰の二権を委譲され

るが︑特に部下の將兵に対する懲罰権の委任を象徴して斧鍼を授け

られた︒將軍の命令に背叛する者に対し︑斧鍼による殺裁を含む懲

罰権が委任されたのであり︑斧鍼による刑殺は要斬の形式をとった

ものと思われる︒任命された將軍は自軍に臨み︑斧鍼を建て︑全軍

の將兵に対して軍事行動の目的︑軍功に対する行賞の保証︑禁止事

項と違反行為に対する懲罰を宣言する︒この宣言が誓とも︑約束と

も瀞されるもので︑これ以後軍は將軍を頂点とする独立集団とな

り︑戦時体制に入り︑軍令が優先し︑軍法が適用される︒

私は﹁前漢の將軍﹂と題する小稿の中で︑將軍の基本的性格に関

して大要右にのべたようなことを骨子にしてその考証を試みたので

あるが︑そこで私は︑次のような点が引続き問題となるであろうと

予測しながら論述を進めていたのである︒それは︑一旦斧鍼を授け

られて任命された將軍は︑強い独立性を持ち︑時としては﹁將︑軍

大庭

(3)

に在れば君命も受けざる所あり﹂とて︑王命或いは皇帝の命を拒絶

することすらある︒從って逆に︑王若しくは皇帝側からこの將軍の

独立性に対して干渉制限をする必要がおこった時︑王若しくは皇帝

はどういう方法をとるのかという問題である︒この場合︑参考にな

るのは司馬穰宜の挿話である︒史記司馬穰宜列傳によれば︑

齊の景公は司馬穰宜を將軍として︑兵を將いて燕・晋の軍をふせ

がせようとした︒穰宜は自分が新参者で人人の信頼を得ていない

から王の籠臣を監軍としていただきたいと請い︑王は荘寶をそれ

に任じた︒穰貰は質と翌日日中時に軍門で會おうと約束し︑當日

は正確に時を計って荘買を待ちうけるが︑賀は期に遅れる︒先に

軍に入って約束を定めた穰宣は︑軍法によって斬殺しようとす

る︒荘寶は人をつかわし景公に報じて救を請うたが︑未だ反らぬ

うちに斬刑は行なわれてしまう︒しばらくして景公の遣わした使

者が節を持し︑賢を赦さんとて馳せて軍中に入ってくる︒穰宜は

﹁將︑軍に在りては君令も受けざる所有り﹂といい︑﹁軍中は馳

せざるに今使者馳す︒何とか云わん﹂と罪を軍正に問い︑軍正は

﹁斬すべし﹂と答えるが︑﹁君の使は殺すべからず﹂といって︑

そえぎそえうまその僕と︑車の左の鮒と左鰺を斬り︑三軍に伺えた︒

とある︒周勃世家にみえる文帝と周亜夫の挿話もこの話と類似して

いる︒文帝の後六年︑甸奴に備えて細柳に屯した周亜夫の軍を自ら労ら

うべく︑文帝はその地にいたったが︑先駆は軍門において止めら れて入るを得ず︑文帝は使をして節を持して將軍に詔を傳え︑﹁吾入りて軍を労せんと欲す﹂とつげて始めて︑亜夫は傳言して壁門を開かしめた︒しかし︑壁門の士吏が從馬の車騎に対し﹁將軍の約すらく︑軍中馳駆するを得ず﹂と告げたので︑文帝も轡を按じて徐行した︒

というのである︒いずれの話も將軍の独立性を物語る挿話として私

は前稿に引用したものである︒それは共に軍中は馳駆してはならぬ

という点共通して居て︑そのことは當時l戦國から漢代にかけて

l常識であったようであるが︑司馬穰宜の場合︑節を持した王の

使者は馳け入ってきたし︑周亜夫の場合も︑節を持した使が詔を傳

えるため壁門に入ることが認められており︑叉︑周亜夫軍の前に文

帝が労った將軍劉禮の將いた覇上の軍と︑將軍徐属の將いる鰊門の

軍については﹁覇上及び疎門の軍に至り︑直ちに馳せ入り︑將以下

騎して送迎す﹂とあって馳入することができたのである︒從って︑

皇帝自身は勿論︑節を持した使者は︑軍中を馳駆することがあり得

るという資料でもある︒否むしろ︑その方が慣行的であって︑司馬

穰茸や周亜夫はその慣行を拒否して威信をしめした特異な將軍であ

り︑実はそれは原則的︑理論的には支持され得ることであったと言

うべきであろう︒

前漢代の反乱に際して︑繍衣御史等が軍法を以て鎭圧に当ること

があり︑これは戒嚴令に比す蕊へき事例であり︑軍法の性格を知る上

に有用な資料であることは前稿にふれた通りである︒ところが︑前

(4)

稿においては論旨が難解になることを避けるためにふれなかった

が︑繍衣御史等が專殺権を振うに際して一應の区別のあったことが

察知される︒すなわち天漢二年の反乱の鎭定を記した資料の内︑威

宣傳では﹁二千石以下至小吏︑主者皆死﹂とし︑王訴傳では﹁以軍

興從事︑註二千石以下﹂としていて︑二千石もそれ以下も一括して

表現されているが︑元后傳にみえる王賀の傳では﹁奏殺二千石︑註

千石以下﹂と表記しており︑二千石は奏上して承認を得て殺し︑千

石以下は自己の判断で詠殺したことが認められる︒これも︑如何に

專殺権を移讓されているにしても︑自ら限度のあることを示すもの

と受取ってよい︒

このように考察してみれば︑王意若しくは帝意が將軍を束縛する

ことはもとより当然であるから︑その王意若しくは帝意を傳える使

者の意味が重要になってくるであろう︒そしてその使者は︑司馬穰

宣の傳においても︑周亜夫の傳においても節を持している︒この節

とはどういうものであろうか︒

使者が節を持することは常識なのであるが︑では節とは何かとい

うことになると特に考察されたものは少ない︒しかも將軍に関心の

ある私にとっては︑後漢末から三国時代にかけて將軍の中に﹁使持

節﹂﹁假節﹂の文字を冠した將軍が出てくる事と関連して︑極めて

興味をそそるものであるし︑更に例えば彼の倭の武王が使持節都督

倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事安東大將軍倭國王と穂した

ことを理解する前提にも是非明らかにする必要があると考え︑本稿

漢代の節について︵大庭︶ 節とはどういうものであるかということについては︑資料に乏しくない︒史記高祀本紀の高祀元年十月に︑浦公劉邦が覇上に至ったとき︑秦壬子嬰が降った様子を記して

柿公至覇上︑秦王子嬰︑素車白馬︑係頚以組︑封皇帝璽符節︑降

枳道芳︒

とあり︑皇帝の璽と符と節とを封じて降ったとしているが︑史記索

隠に引く章昭の説は

節は使者の擁する所なり︒

といい︑使者の持する節が秦にも存し︑璽符と共に封じて柿公にさ

し出したことが知れる︒そしてこの節はまさしく始皇本紀二十六年

の條に衣服旋腔節旗︑皆上黒︒

とする節であろう︒また索隠は章昭の説につづいて釈名をひいて

節は號令賞罰を為すの節なり︒叉︑節毛︑上下相重なる︒象を竹

の節に取る︒

と記している︒號令賞罰をなすの節というのは︑使者が節を擁する

ことによって君王の代理として號令賞罰を為すことを説明したもの

であり︑節毛云云はその形態についての説明で︑漢書の同じ処につ

けた顔師古の注にも では節を中心に考察をすすめてみたいと思う︒

二節に関する解説l周禮にみえる節I

(5)

節は毛を以て之を為り︑上下相重ね︑象を竹の節に取る︒因りて

以て名と為す︒將命者之を持して以て信と為す︒

とある︒節の形態については後述にゆだね︑今はしばらくその作用

について救述をつづけたい︒

使者が擁するという節︑あるいは將命者が持つことによって信を

しめす節について︑周禮の中にも記述がある︒しかし﹁周禮という

書物がえがき出している周制﹂の中では︑節は使者の節には限らな

い︒それで以下に周禮にみえる節について少し述べて置きたい︒

周禮の司徒︑掌節には

掌節︒守邦の節を掌どり︑而して其の用を辨じて以て王命を輔す

ぐ︒邦國を守る者は玉節を用い︑都鄙を守るものは角節を用う︒

凡そ邦國の使節︑山國は虎節を用い︑土國は人節を用い︑澤國は

龍節を用う︒皆金なり︒英蕩を以て之を輔すぐ︒門関は符節を用

い︑貨賄は璽節を用い︑道路は旋節を用う︒皆期有りて以て節を

反す︒凡そ天下に通達する者は必ず節有り︑傳を以て之を輔す

ぐ︒節無き者は幾有りて則ち達せず︒

とあって︑玉節︑角節︑虎節︑人節︑龍節︑符節︑璽節︑雄節など

の名がある︒もっともこれらは同列に並べるべきものではない︒注

に從って述べる所を理解してみると︑およそ次の様な事であろう︒

掌節の職務は守邦の節を掌どり︑その用を辨じて王命を輔けるに

あるが︑邦の節には珍圭︑牙璋︑穀圭︑碗圭︑淡圭があり︑王が命

ずることがあれば︑節の用を分別して使者に授け︑その節を持参す ることによって命の内容と節とが合致していれば︑受命者は信ずるわけで︑それによって王命の傳達を輔けるのである︒邦國を守る者に対しての使者には玉製の節を用い︑都鄙を守る者に対しての使者には角製の節を用いる︒

これに対して邦國より卿大夫を派遣して天子諸侯を訪う使の節

は︑山國は虎節︑土國つまり平地の國では人節︑澤の多い漁地の國

では龍節を用い︑皆金属製である︒山には虎が多く︑平地には人が

多く︑澤には龍が多いので︑金属で節をつくり︑象を鋳るのに必ず

その國に多い所のものをかたどり︑たがいに別って信を明らかにす

るのである︒

周禮の経文では続いて﹁英蕩を以て之を輔く﹂としている︒この

英蕩に関しては種々の解釈がなされているので少し細かくみてみる

必要がある︒

まず註では杜子春云はくとして

蕩はまさに帯と為すべし︑画器を以て此の節を盛るを謂う︒

或いは曰く︑英蕩は書函なり︒

とあり︑節を蔵する﹁はこ﹂であるという︒寶公彦は疏において︑

書画におさめて損捜せぬようにすると解して註の方向を敷布してい

る︒しかるに清の孫詰讓の正義では大略︑

蕩は帯にひとしいというが︑帯は金布を蔵する府であるから︑引

申して画器の意味になる︒英は華飾で函器のかざりである︒

という解をしめし︑その一方で別の解を次のようにのべる︒ 一一一ハ

(6)

続漢書百官志の劉注に干注を引いて云うl志二六百官志の符節

令の條の劉昭の注に周禮叉日︑以英蕩輔之︑干寶日とあるのを指

すl﹁英は刻書なり︑蕩は竹箭なり︒刻してその使する所の事

を害し︑以て三節の信を助く︒則ち漢の竹使符なる者も亦︑則を

故事に取るなり︒﹂と︒惠士奇がいうのに︑干説は是認できよう︒

英蕩とは傳である︒凡そ節を達するに皆傳がある︒傳は節を輔け

る所以のもので︑節は金属をもって作り︑傳は竹をもって作る︒

康成の謂うに﹁傳とは漢の過ぐる所に移する文書の如し﹂と︒

︵惠士奇の説は彼の禮説の巻五にみえる︒︶そこで詰讓が案ずる

のに︑干寳は﹁蕩は竹箭である﹂と解釈しているのは︑蕩とある

字は蕩の意味に見ているに違いない︒爾雅の釈艸に蕩は竹なりと

いい︑郭注に竹の別名なりという︒書經の禺貢の孔安國の疏に李

巡の説をひいて﹁竹節の相去ること一寸を蕩という﹂とし︑孫炎

は﹁竹の闇節なるを蕩という﹂し︑説文の竹部には︑﹁蕩は大竹

なり﹂と云う︒陳祥道も亦︑蕩を以て竹の函と解釈しているの

は︑干説に本づいているのである︒ここでは以英蕩輔節といい︑

下文で叉以傳輔節と云っているから︑英蕩と傳とは近い意味のよ

うである︒若し杜子春の説のように英蕩が画器であるとすると︑

函と節とがそれぞれ独立の価値を持ち1画節相將l︑﹁輔﹂とい

うのにふさわしくないから︑干寶の解釈がすぢからいって杜子春

の解釈よりもすぐれている︒

孫詰讓はこのようにのべて英蕩の蕩は竹であり︑金属性である節

漢代の節について︵大庭︶ を補助するものとして竹製の傳を用いると解釈したわけである︒私は孫氏の解釈を支持する︒それはとりもなおさず干寶の解釈を支持するわけである︒その根檬は孫氏が博く引いて証檬をしめしているので充分であろうが︑それ以外に︑もっと直接に周礼の本文でそれを推定させるものがある︒それは巻十︑周宮司遥下の小行人の條に

天下の六節を達す︒山國は虎節を用い︑土國は人節を用い︑澤國

は龍節を用い︑皆金を以て之を為る︒道路には旋節を用い︑門関

には符節を用い︑都鄙には管節を用う︒皆竹を以て之を為る︒

とある文で︑虎節︑人節︑龍節は金属で為るのに対して︑雄節︑符

節︑管節は竹をもって為るといっている︒これは掌節の部分では貨

賄は璽節を用うとある代りに都鄙には管節を用うとあるのが違うだ

けで︑後は同じであるところからすれば竹と解するのが妥当である

と思われるのである︒

つぎに門関に符節を用い︑貨賄に璽節を用い︑道路に族節を用い︑

それに小行人のいう都鄙に管節を用うとあるのは各々どういうこと

であるかを考えてみると︑注では門関とは司門・司関のこと︑貨賄

とは貨賄を通ずるを主さどる官で司市のことであるという︒それか

ら道路というのは五除を治するを主どる官である︒五徐は夏官司険

に五溝五除とあり︑注に径︑雌︑徐︑道︑路をあげているが︑掌節

の注では郷遂大夫をいうとしている︒そしてここにこれらの節をい

うわけは︑邦国の民が遠く他邦に至ったとき︑或いは他邦の民が来

ったとき︑若し門より入ろうとすれば司門が之がために節を為り︑

二二

(7)

関より入るものには司関が節を作り︑商人には司市が節を為り︑徴

し出しの命令のあったものや家を徒るものには郷遂の大夫が節を為

るのである︒また小行人の注で︑都鄙とは公の子弟及び卿大夫の采

地の吏のこととしている︒

このようにしてみると︑﹁周禮にえがかれている周の制度﹂では︑

王の使者︑卿大夫の使者より民にいたるまで︑およそ関を越えて他

國へゆく者は必ず節を持っており︑その目的と身分とによって節の

種類はいくつかあるということである︒そして節の材料からいう

と︑玉節︑角節︑金節︑竹節というようにわかれ︑玉節は珍圭︑牙

璋︑穀圭︑碗圭︑淡圭にわかれ︑金節は虎節︑人節︑龍節にわかれ

る︒そして金節を補なう竹節として符節︑雄節︑璽節︑管節がある︒

角節は説明がない︒こういう周制について鄭玄の注は漢の制度にあ

る節をなぞらえて説明しようとし︑それが逆に漢制を推定する素材

になることは王應麟の漢制孜以来人人の知る所であるが︑まず金節

のところでは﹁今漢に銅虎符有り︒﹂とする︒山國に虎節を用うと

いう虎の形と︑銅という金属の素材とを兼ねてつけた注であろうと

思う︒次に符節については︑﹁今の宮中の諸官の詔符の如きなり﹂

としるしている︒宮中の諸官の詔符とは何かということは確定し難

いが︑或いは宮門の門籍のことであるかも知れない︒漢書元帝紀の

應鋤の注に

籍とは二尺の竹牒で其の年紀︑名字︑物色を記して之を宮門に懸

け︑按省して相應ずれば乃ち入るを得るなり︒ とし︑叉後漢書費武傳の注に引く漢官儀に

凡そ官中に居るもの皆籍を披門に施し姓名を案ず︒當に入るべき

者は本官為に檗傳を封じ印信を審らかにして然る後之を受く︒

としているもので︑他に周禮天官宮正の注や秋官士師の注にもみ

え︑宮中の諸官が宮門に入るに際して必要なものである︒ただ︑籍

は宮門の方に備えてあるが︑符節が他の節と同様の用い方をすると

考えれば︑諸官が持参して自らを證明するものでなければあわない

ように思われる︒そうすればむしろ漢の関所で用いたと思われる符

がそれに近いようである︒符は説文解字の竹部に

符︑信なり︒漢制︑竹の長六寸なるを以てし︑分かちて相合す︒

とのべているように二分してたがいに一片を保持し︑それを合わし

て合致すれば信を置くというしくみのもので︑それが居延の地域で

も行なわれていたことは居延漢簡にも証檬があり︑旧稿にふれたこ

⑤⑥

とがある︒また銅虎符竹使符については別稿にのべた︒

次に璽節については今の印章なりとしている︒漢代に印章が官吏

たることを証する最も重要な物であり︑ついで封泥に押捺された印

形は信を示すものであったが︑ここで鄭氏が考えているのは︑貨賄

の検に押捺した印章なのであろうか︒居延漢簡の中には手紙につけ

た検のほかに︑荷物につけたと思われる検がいくつかあり︑表に宛

書のあるもののほかに何も書いていない検も數えられる︒それらは

いずれも封泥のための孔を持っている︒また敦煤漢簡の中には﹁顯

明燧藥函﹂と記した函のふたがあり︑やはり封泥孔l所謂璽室

(8)

lが掘ってある︒貨賄と印章をつなごうとすればこのような考え

以外に関連のつけように迷うのである︒ところが︑いま鄭氏の注に

こだわらず︑貨賄を通ずる為の節という実質に注目をした場合に

は︑一九五七年に安徽省壽縣で出土した部君啓節を看過するわけに

はゆかぬ︒これは楚の懐王から都君の啓に與えられた節で︑青銅製︒

四断片が出土したがうち三片は同銘で車節であり︑他の一断片は舟

節である︒車節三片にはそれぞれ共通の︑舟節には車節と同じ形式

の銘文があり︑車節では年間五十台の車の往來を認め︑馬・牛・特

の積荷は十頭分で車一台とみなし︑人夫の措う荷物は二十人分で車

一台とみなすとし︑この節を見たならば通過税をとってはならぬと

ある︒舟節では三舟を一艘として年間に五十艘の往來を許可し︑通

過税をとってはならぬとしている︒この節は出土してより他に例の

ない資料であるため関心をあつめ︑多くの研究があるが︑比較的銘

文にみえる地名の考証が多い︒私は最も興味を持ったのはその形態

ふしで︑竹の節に擬して作られ︑竹片の脅曲を摸し︑五枚合せると一本

の竹になるという姿は誠に注目すべきことである︒自然の竹の節は

微妙であって同じものを作ることは難かしい◎竹を︑節を中にして

切断し︑これをたてに割って分け持ち︑必要な時に合せてぴったり

合えば信用するという用い方は︑割符の原理そのままである︒この

部君啓節が銅をもって竹片の姿を作っている事実が︑節︑或いは符

など竹を冠る文字の本来的な発生の因を説くものと見られよう︒次

に五枚で一本の竹になるという五という數については郭沫若氏が指

漢代の節について︵大庭︶ 摘されたように後世︑漢代に銅虎符︑竹使符が五枚一組となってい

た數の祀形といえるであろう︒また私は︑別稿にこの竹形の節を合

するとまるい竹になる点からいうと︑これが周禮の小行人にある管

節が︑こういう形ではないのかと想像した︒しかし部君啓節は節の

姿からみれば右のような考察が出来るが︑節の銘の内容よりいえば

貨賄のための節といわざるを得ぬ︒もっとも周禮にいう貨賄の節は

このような免税のためのものではなくて︑運漕中の貨賄が不正の品

物でないことを証明する為のものであろう︒なお私は︑都君啓節は

恐らく年頭に楚王より都君に与えられ︑その後車十台︑若しくは舟

十艘の量をすぎる度に一枚ずつ関叉は王の役所に返納してゆく仕組

ではなかったかと想像している︒︵第一図参照︶

さて最後に残ったのが旋節である︒注には今の使者の擁する所の

節であるとし︑此の節を執って送行する者は道里日時の課を以てす

る︑それは漢代の郵行に程のあるようなものであるとしている︒旋

節を持って往還する者には一定期間に一定の距離をゆく規定があ

り︑それが漢の郵行に程があるのと同様であるというわけである︒

この注は本文に﹁皆期有り以て節を反す﹂とある句を意識にいれて

つけられたものであろうと思う︒漢の郵行とは公文書の傳達に関す

る規定で︑文書が郵或いは亭︑若くは燧などを逐次傳達されてゆく

記録は居延漢簡の中にも見られるが︑これに関しては郵送の時間が

限定されていたに違いない︒そして使者の往還についても時日が限

定されていたことは疑いない︒しかし︑私は本文の皆有期以反節は

(9)

2 1

批撞

第一図都君啓節1の実物の写眞は平凡社書道全集朋所収により︑2の原図は文物参孜資料一九五八ノ四所収︑殿漉非・羅

I車節1長銘壽縣出土的都君啓金節による︒

離懲鯉

烏#す

工凡副曝竃

溌掛

蕾│詞遼馴同リ

睡鑓塾

罰W州ク│壷

&2 1$凸

礎1 礎1

炎綱目勝 灘津 蕊,驚篭汐謬

弱冒│蕊│筈歸渥催

杢倒賎│煩

(10)

決して旋節にのみいわれたものでなく︑符節︑璽節も勿論だが︑玉

節︑角節以下も同様で︑その節の保管にあたるものが掌節の官であ

るという仕組であろうと思う︒また注に﹁其の徴令及び家徒を以て

するは︑郷遂大夫之が節を為る﹂といい︑郷遂大夫というのは五溌

を治するを主どる官︑すなわち道路を主どる官なのである︒そこで

徴令とは天子の﹁召し出し﹂であるし︑家徒は居を移すことである

から︑郷遂から人が他に鱒出してゆく時に郷遂の大夫が節を為ると

いう意味で︑天子の使者が節を擁するのとはいささか例を異にして

いるといわなければならない︒若し郷遂大夫が徴令のあった者や家

徒する者に与える節l証明といえば︑それはまさしく傅でなけれ

ばなるまい︒傳というのは漢書文帝紀の魏の張晏の注に

傳信なり︒今の過所のごときなり︒

とある傳信であり︑説文解字に

薬は傳信なり︒

とあることによって︑桑とも同義であることも知れる所の︑旅行者

の身分証明の文書である︒先に英蕩について引用した孫詰讓の周禮

正義の中に康成の説として﹁傳とは漢の過ぐる所に移する文書の如

し﹂とある解釈がこれにあたる︒傳に関しては先に旧稿に述べたの

で繰返さない︒

このように考察を加えてみると︑鄭注にのべられている節の解釈

と︑鄭注が今の何の如しと述べている漢の文物とはいささかくい違

っているように思われる︒だから鄭注がのべている解釈をもって今

漢代の節について︵大庭︶ の何の如しとしている漢の文物の説明に援用するのは愼重でなければならないであろう︒しかし︑璽節とは今の印章である︑旋節とは今の使者の擁する所の節がこれである︑という説明は︑本文の字面から端的にとらえた解説であるように思える︒從って︑上述のように周禮にみえる色々な節についてはなお問題を残しているけれども︑漢代に使者が擁する節は旋節という表現にみあう品物であるという事は少くとも周禮の注から是認できるようである︒

漢代の節は釈名や漢書の顔師古注のいうところでは︑節毛があっ

て重なりあい︑その形が竹の節を象どっていて︑そこから名前がつ

いたとされている︒後漢書の光武帝紀の章懐太子注には漢官儀を引

いて節は信を為す所以なり︒竹を以て之が柄を為ること長八尺︑旋牛

尾を以て其の恥を為ること三重︒

としるしている︒鹿牛は建牛と同じで︑からうしである︒光武紀の

注ではこのあとに糯桁與田邑書をつづけ︑その文に

今一節の任を以て三軍の威を建つ︒豈特に其の八尺の竹澤牛の尾

を寵せんや︒

とあるのをみても明らかで︑からうしの尾をもって恥︑すなわち毛

飾りを作って三重につけてあるのであろう︒恥は後漢書西南夷傳の

旋牛恥の注に

三漢節の形態

一一一一

(11)

毛を結んで飾となすなり︒

とある︒

ところで漢王朝の節は高祀の建國以来後漢の末まで変らなかった

かというとそうではない︒漢書武帝紀の征和二年七月の條に

按道侯韓説︑使者江充等︑驫を太子の宮に掘る︒壬午︑太子皇后

と謀りて充を斬り︑節を以て兵を発し︑丞相劉屈篭と大いに長安

に戦い︑死者數萬人なり︒庚寅太子亡げ︑皇后自殺す︒初めて城

門に屯兵を置き︑節を更めて黄旋を加う︒

とある︒すなわち戻太子の巫驫の乱の際に節が変ったというのであ

るが︑漢書の劉屈篭傳にはこの時の事情を次のように述べている︒

太子既に充を課し︑兵を発し宣言すらく︑帝甘泉に在り︑病困す︒

疑うらくは変有り︑姦臣乱をなさんと欲するかと︒上ここにおい

て甘泉より来りて城西の建章宮に幸し︑詔して三輔近縣の兵を発

し︑中二千石以下を部し︑永相をして將を兼ねしむ︒太子も亦使

者を遣し︑制を矯めて長安中都官の囚徒を赦し︑武庫の兵を発し︑

少傅石徳及び賓客張光等に命じ分ち將いしめ︑長安の囚如侯をし○0000Oて節を持たしめ︑長水及び宣曲の胡騎を発し皆以て装せしむ︒た

またま侍郎葬通長安に使し如侯を追捕し︑胡人に告げて曰く︑節

詐りあり︑聴くことなかれと︒遂に如侯を斬り︑騎をひきいて長○○○O安に入り︑叉輯濯士を発し︑以て大鴻臘商丘成に予う︒初め漢の000○○00000000○○○○000.00O○00節は純赤なり︒太子赤節を持するを以ての故に︑更めて黄旋を為◎000000︒◎Oり上に加え以て相別つ︒太子︑監北軍使者任安を召し︑北軍の兵 を発す︒安節を受け︑已にして軍門を閉し︑太子に應ずるを肯ぜず︑太子兵を引きて去る︒

即ち︑叛乱を起した太子の軍も︑丞相のひきいる漢軍も共に純赤の

漢節を持っているので具別がつかないから︑漢軍側では黄旋を上に

加えたというのである︒節が反乱に際して果たす役割については後

にふれることとし︑ここでは節の形態を中心にのべる︒戻太子の乱

をきっかけに黄旋が加えられたのであるが︑この節はその後︑漢代

を通じて用いられた︒ただ雷光傳に注目す顎へき記載がある︒それは

昭帝の崩後一時即位した昌邑王賀の行動を非難する上奏文の中に︑

皇帝の信璽行璽を大行前に受け︑次に就きて璽を発して封ぜず︑

こもご從官更も節を持し︑昌邑の從官騒宰官奴二百餘人を引き入れ︑常

に與に禁鬮の内に居らしめて散蔵し︑自ら符璽に之きて節十六を

取り︑朝暮臨するに從官をして更も節を持して從わしめ⁝・諸侯

王列侯二千石の綬及び墨綬黄綬を取り︑以て丼に昌邑の郎官者免

奴に侃びしめ︑節上の黄施を鍵易するに赤を以てす︒

とあって︑皇帝の信璽をはじめとして印綬に対して侮辱をなし︑ま

た節を弄んだことがとがめられているが︑黄鹿を赤にもどしたこと

があったと知れる︒從って昌邑王が廃せられ宣帝が立つと再び黄旛

にかえったのであろう︒後漢の末になるまでは黄鹿のままであった

と思われる︒その理由は後漢書の哀紹傳によると︑露帝の崩後衰紹

は司隷校尉に韓じていたが︑董卓が帝の廃立を議するに及んで勃然

として卓のもとを去るのである︒その時彼は

(12)

梶に改めたというのであろう︒

の條の注にも魏氏春秋を引き︑ 刀を横たえ長揖して径ちに出で︑節を上東門に懸け︑翼州へ奔った︒

という︒此処の後漢書の注は山陽公載記を引き︑

卓︑衰紹の節を棄つるを以て第一葆を改めて赤旗となす︒

とある︒衰紹によって節が侮辱せられたと考え︑第一葆の黄旋を赤

鹿に改めたというのであろう︒このことは続漢書百官志の符節令史

中平六年︑始めて節上の赤葆を復す︒

とある︒葆は蕊︑割などと同義であるとも︑鶏とも同じであるとも

いい︑羽毛でつくったかざりを意味するらしく︑第一葆は要するに

一番上の毛飾りを指している︒

それでは節が具体的にはどのような形のものなのかということに

なると︑その絵を掲げたものは極めて稀であるが︑林己奈夫氏が

﹁中國古代の旗について﹂という論文で示された節の姿は︑漢の画

像石の中に漢使者と説明が刻されている人物の所持している物を以

て節と推定されたのであって︑その推定の方法はまことに合理的で

ある︒ただその節の姿が右にのべた漢代の文献にみえる節の解説と

は少し違う点がある︒即ち画像石の漢使者の持つ節は毛らしい房が

一つついており︑別に中途から少し小さい房が垂れている︒旋牛尾

を以てその恥を為ること三重という解説からいえば︑節の柄につい

ている房が三つ欲しいのであるがその点が違う︒また中途から垂れ

ている小さい房が黄色になったり赤になったりした節上の葆なので

漢代の節について︵大庭︶ あろうか︒節の柄は漢官儀では八尺となっているが︑この画像石では使者の身長の三分の一位で︑漢の一尺を約一三糎とした時︑八尺ならば一八四糎程になり︑身長より長い位である筈の所がこのように短いのも疑問である︒しかし︑それに拘らず︑使者の持っているしるしは節であろうという林氏の推定は貴重であり︑なお資料の増加を気長く待つべきであろう︒︵第二図・第三図上図参照︶

節は皇帝︵若しくは王︶の意志を帯して趣く使者に授けられるも

のであり︑軽々しく授けられるものではない︒從って節に対する信

頼はとりもなおさず節を持する者に対する信頼となる︒また節を持

する使者は使命遂行のためには殺裁をも含む強行手段をとることも

あり︑その専断は許されていた︒私がその最も重要な例証と見るも

のは漢書の嚴助傳にみる武帝時代の事件である︒

武帝の建元三年︑閲越は兵を塞げて東風を園み︑東甑は急を漢に

告げた︒時に武帝は年は二十歳未満であったが︑方策を太尉田嶋

に問うた所︑田紛は消極策を言上した︒武帝はそれを不満とし︑

兵を発して東甑を救けようとした︒その時﹁吾新たに即位す︑虎

符を出し兵を郡國に発するを欲せず︒﹂といい︑すなわち嚴助を

遣わし︑節を以て兵を會稽に発した︒會稽の守は法をたてに距絶

して発しないでおこうとしたが︑助は一司馬を斬殺して帝の意志

を諭し︑遂に兵を発し︑海に浮かんで東願を救った︒

四節と使者

一一一一一一

(13)

第二図漢画像石にみえる節

円f4 L辞q p.■.

鐸!

l勲

好酎一

1

2 3

3図ともMissionArcheologiquedanslaChineseptentrionalparEdouardChavannes l909による。

1はPL・LVIIIの部分で、馬の右に立つ人物は左の車に乘って来たのであるが、漢使者と説明が ある。右手に持つものが節である。この図は林氏が指摘されたものである。

2はPL.XLVI 3もPL.XLVIの部分であるが、 2の左の端に馬車からはみ出しているもの、 3

の中央人物像が持っているものは、共に1と比較すると同じ種類に属すると見える。いづれも節である と思う。これを直接壁画に蚕きつければ第三図上図(P.56)のようになると私は思う。

(14)

というのである︒この話は要するに虎符を用いず節を用いて郡兵を

発したということなのだが︑武帝が︑何故新に即位をしたから虎符

を出すを欲しなかったのかは理解が困難である︒虎符を用いればた

やすく出兵出来るものをわざと節を用いたのは︑その前文に時に武

帝年未だ二十ならずとある文章が理由づけのように思われる︒特に

常法をやぶって自己の権力を示し︑或いは自己の権力をためそうと

いう若さの故の処置と解してはいかがであろうか︒そこで会稽郡守

は常法通り出兵を拒否したが︑嚴助は司馬を斬殺するという犠牲と

威嚇により帝意を示したのであろう︒節を持する使者の権限の大き

なことをしめすと思う︒

持節使が兵を指揮する例を一二塞げておきたい︒まず成帝紀によ

ると

永始三年十二月︑山陽の鐵官の徒蘇令等二百二十八人︑長吏を攻

殺し︑庫兵を盗み︑自ら將軍と穂し︑郡國十九を經歴し︑東郡太

守︑汝南都尉を殺す︒永相長史︑御史中丞を遣わし︑節を持し督

趣逐捕せしむ︒汝南太守嚴訴︑令等を捕斬す︒訳を遷して大司農

とし︑黄金百斤を賜う︒

とある︒地方に起った騒乱を鎭定するために丞相長史と御史中丞が

節を持して出撃した例であるが︑漢書威宣傳に天漢二年の騒乱を述

べた記事をみると

盗賊滋ミ起る︒南陽に梅免︑百政あり︑楚に段中︑杜少あり︑齊

に徐勃あり︑燕趙の間に堅盧︑萢主の属あり︒大群數千人に至る︒

漢代の節について︵大庭︶ 檀ままに自ら號し︑城邑を攻め︑庫兵を取り︑死罪を程し︑郡守都尉を縛辱し︑二千石を殺し︑徴をつくり縣に告げ趨り食を具えしむ︒小群は百を以て數う︒郷里を掠歯するもの數を穂ぐべからず︒ここにおいて上︑始め御史中丞︑丞相長史をして之を督せしむるも猶禁ずるあたわず︒乃ち光禄大夫萢昆︑諸部都尉及び故の九卿張徳らをして繍衣を衣︑節︑虎符を持し︑兵を発して興を以て鑿たしむ︒

とある︒光禄大夫萢昆等が所謂繍衣使者で︑軍興律を摘用して郡兵

を動員して鎭定にあたったのであるが︑そこで節︑虎符を持って出

動したことになっている︒從って︑威宣傳の資料だけであると御史

中丞︑永相長史は節を持していたとはいえないかも知れぬが︑成帝

紀の記事と比較すると︑恐らく節が與えられていたのではないかと

想像される︒また︑後漢の例であるが︑後漢書の法雄傳によると︑

安帝の永初三年︑海賊張伯路等三千餘人︑赤積を冠り︑緯衣を服

し︑自ら將軍と穂し︑濱海九郡を冠し︑二千石︑令長を殺す︒初

め侍御史朧雄を遣わし︑州郡の兵を督して之を鑿たしむ︒伯路等

降らんことを乞う︒尋いで復た屯聚す︒明年伯路復た平原の劉文

河等三百餘人と使者と鰐して厭次城を攻め︑長吏を殺し︑鱒じて

高唐に入り︑官寺を焼き︑繋囚を出し︑渠帥皆將軍と濡し︑共に

伯路に朝謁す︒伯路五梁の冠を冠り︑印綬を侃び︑糞衆浸やく盛

なり︒乃ち御史中丞王宗を遣わし︑節を持し︑幽翼諸郡の兵合し

て數萬を発し︑乃ち雄を徴して青州刺史と為し︑王宗と力を丼せ

(15)

て之を討ち︑連戦賊を敗る︒

とある︒これも前例と同様の騒乱で︑御史中丞が節を持し︑郡兵を

発している︒從って︑この法雄傳を参照すれば︑恐らく御史中丞が

節を持して騒乱を鎭めるために出動した時は︑節を以て郡兵を指揮

したであろうと想像されるのである︒

節を持った使者が自己の判断で殺裁を敢えてした例の最も大きい

ものは傅介子であろう︒彼は棲薗王を訣殺した︒

また將軍の陣螢に対しても節を持った使者が干渉を敢えてするこ

とができた︒その一例は漢書の陳平傳に見える︒高祀の末年奨噌が

高祀の怒にふれ︑陳平と周勃が斬殺におもむくが︑二人は噌が重臣

であることを思い︑高祀自らに註せしめようとし︑節を以て奨噌を

呼び出し︑樒車に載せて長安に詣ったという︒一軍の將を軍陣から

呼び出し得るのは非常な権限である︒これは漢初のことであるが︑

武帝時代には更に重要な例がある︒元封二年秋に棲船將軍楊僕は齊

より兵五萬を率いて勃海に浮び︑左將軍筍蔬は遼東に出でて朝鮮王

右渠を撃った︒ところが棲船將軍の軍が敗れて振わず︑戦局は思う

ように展開しなかった︒そして左將軍と櫻船將軍の間に仲違いがあ

り︑帝は故の濟南太守公孫遂を遣わしてこれを正さしめた︒公孫遂

は左將軍の訴えを然りとし︑

節を以て櫻船將軍を召して左將軍の軍に入れ︑事を計り︑即ち左

將軍の戯下をして執えて櫻船將軍を縛さしめ︑其の軍を丼せて以

て天子に報ず︒ とある︒しかし最終的には左將軍は﹁功を争い相嫉み計に乖く﹂に坐して棄市︑櫻船將軍は﹁兵列口に至り︑當に左將軍を待つべきに︑檀ままに先縦し失亡多き﹂に坐し︑課せられるべき所︑蹟うて庶人と為った︒この時︑本來相互に独立している筈の左將軍の軍内へ模船將軍を召して捕縛するなどという行為は︑節信によらなければ為し得ぬ行為であると思うのである︒

また節のこのような効果を知ると次の話も理由のあることと理解

されよう︒漢書の呉王鴻傅によると︑

周丘は郵下の人︑呉に亡命し︑酒を酷いて行無し︒王之を薄しと

して任ぜず︒周丘すなわち上謁して王に説きて曰く︑臣無能なる

を以て罪を行間に待つを得ず︒臣敢えて將ゆる所有らんを求むる0○00000に非ざるなり︒願わくぱ王に一漢節を請わん︒必ず以て報ゆると

ころあらんと︒王すなわち之を予う︒周丘節を得て夜馳せて下郵

に入る︒下郵時に呉反せりと聞き︑皆城守す︒傳舎に至り令を召

して戸に入らしめ︑從者をして罪を以て令を斬らしむ︒遂に昆弟

善くする所の豪吏を召して曰く︑呉の反兵且さに至らんとす︒下

郵を屠ふる食頃に過ぎず︒今先づ下らば家室必ず完からん︒能あ

る者は封侯に至らんと︒乃ち相告げ︑下郵皆下り︑周丘一夜にし

て三萬人を得たり︒

とある︒これは漢の節を建て︑漢使といつわり令を殺裁した所に下

郵を占領するにいたった原因があるわけであって︑節の効果の逆用

である︒從って准南王安の傳に︑ 一ニーハ

(16)

ここにおいて王乃ち官奴をして宮に入り︑皇帝の璽︑丞相︑御史︑

大將軍︑軍吏︑中二千石︑都官令丞の印及び秀近の郡太守都尉の

︒○○印︑漢使の節︑法冠を作らしむ︒

とあり︑この行為に対して

膠西王臣端議して曰く・⁝臣端の見る所︑その書節印図及び他の

逆無道なる事︑験しは明白なり︒

との弾劾がなされている︒また景十三王傳の江都王建傳によると︑

遂に兵器を作る︒王后の父胡應を號して將軍となす︒中大夫疾︑

材力有り︑騎射を善くするを號して露武君という︒黄屋の蒜を作0○0○○O治し︑皇帝の璽を刻し︑將軍都尉の金銀の印を鋳︑漢使の節二十︑

綬千餘を作り︑軍官の品員及び拝爵封侯之賞を具し︑天下の輿地

及軍陣図を具す︒

とある︒いずれも漢使の節を偽造することは反乱の準備として必須

であったし︑叉その行為は反乱の徴とみなされるべきものであっ

た︒

これと逆に︑後漢書都禺傳に︑禺が建武元年に王匡︑成丹︑劉均

らと戦った時に︑﹁劉均及び河東太守楊寶︑持節中郎將詞彊を獲て

皆之を斬る︒節六印綬五百を収得す﹂とあり︑減宮傳には宮が蜀を

攻めた時︑﹁前後節五印綬千八百を收得す﹂といい︑歌算傳には算

等が﹁王郎の大將九卿校尉以下四百餘級を斬り︑印綬百二十五節二

を得﹂とあるのは︑後漢の初め︑敵側の節を奪うことが手柄に數え

られたらしいことを推測せしめる資料である︒

漢代の節について︵大庭︶ このように︑節は︑それを持っている人間が皇帝の意志を帯びる

ものであり︑皇帝の身代りということになるから︑逆に使者は軽々

しく手離すべきではなかったと思われる︒例えば︑著名な蘇武の話

に︑彼は甸奴に捕えられ牧羊させられたが

漢節を杖つきて羊を牧し︑臥起に操り持ちて節旋壼く落つ︒

と漢書の彼の傳にある︒これは彼が漢王朝に対する節操をまもりつ

づけ︑甸奴に降伏しなかったという精神的なこともあるが︑皇帝か

ら授かった節を手離さなかったという具体的な行為が︑使者として

極めて重要なことであった︒張濤においても同じことで︑

篝︑漢節を持して失はず︒

とある︒同様の例が漢書菱推傳にもある︒それは菱悉が呉王に説く

べく使し︑呉王のために捕えられて殺されようとした時︑かつての

從史によってすくわれて逃れたが︑

錐︑節鹿を解きて之を懐にし︑展歩行くこと七十里︑明に梁騎を

見︑馳せ去りて遂に帰り報ず︒

とあり︑節の柄は置いて節旋だけを保ち帰ったとある︒呂氏の乱の

時の朱虚侯劉章の逸話も注目すべきである︒漢書の高后紀によると

章已に︵呂︶産を殺す︒帝︑謁者をして節を持して章を勢わしむ︒

章節を奪わんとす︒謁者肯んぜず︒章廼ち從いて與に載せ︑節信

に因りて馳せて長樂衛尉呂更始を斬る︒

とある︒朱虚侯は謁者の節を奪いとって︑それをたてて呂氏を註殺

しようとしたが︑謁者が承知しないので節を持った謁者ぐるみ車に

‑1‑7

(17)

乘せて馳せ︑呂更始を斬ったというのである︒これも使者は節を手

離すべきでないことの資料としてあげられるであろう︒

王葬が宰衡となった時︑

宰衡は常に節を持し︑止まる所謁者代りて之を持す︒

とあり︑動く時には必ず節を持っていた様である︒即ち常に皇帝に

代って命令が出来たことを意味すると思う︒ついでにいえば︑王葬

の居攝二年︑太保の甑郡を大將軍とし︑

鍼を高廟に受け︑天下の兵を領し︑左に節を杖つき右に鍼を把り

て城外に屯す︒

とあるが︑これは害経牧誓に︑武王が朝に商郊の牧野に至って誓っ

た時︑

王︑左に黄鍼を杖つき︑右に白旗を乗りて以て塵きて曰く︒

とある姿になぞらえたものであろう︒本来は王が手に持って指揮に

使っていたものを︑王の代理者に與え︑王の代理者のしるしとした

のが節の起源として有り得ることであろう︒それで節には何か特別

な意味がある様に異民族には受けとられていたのかも知れない︑と

思われるふしがある︒漢書の旬奴傳によると︑

甸奴の法︑漢使節を去らず︑墨を以て其の面に黙せざれば弩慮に

入るを得ず︒

という︒これによると甸奴は節を忌み嫌ったような印象を受ける︒

また︑南喜の丞相呂嘉が反した時︑漢は韓千秋等を遣わしたが轡は

千秋らを滅し︑ 人をして漢使の節を函封して塞上に置き︑好んで謁辞謝罪をなさしめた︒

とあるが︑これは節を皇帝とみなしての行為であろう︒同じく漢書

朝鮮傳では︑朝鮮王右渠が漢使衛山に答えた言葉に

降らんことを願うも將の詐りて臣を殺さんことを恐る︒今信節を

見る︒請うらくは服降せん︒

とある︒いずれの資料も非漢民族の地域にあっても︑節の持つ意味

が徹底して居り︑重大なものであったことを示すものといえよう︒

因みに申して置きたいが︑節についての表現に﹁節を持し﹂と

﹁節を杖き﹂とあるほかに﹁節を擁す﹂という表現がある︒擁はだ

きかかえて持つ意味であるから︑本来は大切に擁するのが普通の持

ち方であったと思われる︒

次に問題になるのは︑一度節を授けられると使者は大変な権限を

與えられたわけであるが︑使者が本来の使命を逸脱するとどうなる

かということである︒その最も簡単な例が汲籍の傳にある︒

汲諾は河内郡で失火があり︑千餘家が焼けたのを覗察に出向いた

が︑火災は大した被害はないが水旱の害が大きいのを見て︑便宜

を以て節を持し︑河内の倉の粟を発して貧民に振い︑帰って罪を

請うた︒

というのである︒この例は簡単で明瞭である︒汲諾の仕事は河内郡

の火災を硯察し︑若しくは適宜存問をするにあった︒しかるに彼は

水旱の害を救うのが急であると判断して︑節を持している使者の権

(18)

限を利用して河内倉の粟を発した︒彼は最後に﹁請うらくは節を帰

し︑矯制の皐に伏さん﹂と述べている︒顔師古は︑矯は託するの意

味で︑制詔を奉ずるに託して之を行なうということであるとする︒

漢書漏奉世傳にみえる杜欽の上疏に.

春秋の義遂事なく︑漢家の法矯制あり︒

との句がある︒その所の顔師古の注には

漢家の法︑檀ままに詔命を矯むれば︑功労ありと雌も賞を加えざ

るなり︒

という︒この師古注は︑祷奉世が功があったが賞を与えられなかっ

たという事実にもとづいた注で︑矯制の結果不利益があった場合の

ことは鯛れていない︒そのことについては︑漢書景武昭宣元成功臣

表の浩侯王恢の項の注に如淳が引く漢律を注目すべきである︒王恢

は故中郎將の資格で以て兵を將い車師王侯を捕得した功により浩侯

に封ぜられたのだが︑

酒泉に使し制を矯めて害あるに坐し︑死に當るを罪を晴ない免ぜ

られた︒l坐使酒泉矯制害當死噴罪免l

とあり︑如淳の注には

律矯詔大害要斬︑有矯詔害︑矯詔不害︒

とする︒制と詔とはこの場合は同一硯してよい︒從って矯詔は矯制

と同じことである︒制を矯め大害を與えた場合は要斬である︒その

ほかに矯制害ありと矯制害あらずとの二段階がある︒汲鰡や漏奉世

は矯制不害にあたると見られるのである︒而してこの律の存在が節

漢代の節について︵大庭︶ を持する使者を規制していたと思う︒

本節では節を授けられる官職にはどのようなものがあるかを考え

たい︒その前に節を保管する官のことを見て置こうと思う︒周禮の

掌節にあたる官である︒後漢書の百官志によると︑少府尚書令のも

とに符節令一人六百石があり︑本性に符節臺の率となり符節の事を

主どる・凡そ遣使には節を授くるを掌どるとあるのがそれであろう︒

符節令の下僚には尚符璽郎中四人︑符節令史がある︒尚符璽郎中は

蕾は二人で宮中にあり︑璽と虎符・竹符の半分を主さどったと本性

にいうから︑前漢時代は二人で︑前後漢共直接節には関らなかった

のであろうか︒注に引用した漢官では﹁當に法律に明らかな郎を得

くし﹂とし︑法律に詳しい人物でなければ勤まらない職であると知

れる︒

さて︑節を授けられる官についてみてゆきたいが︑最初は前漢時

代に限ってみよう︒まず職務遂行上常に節を授けられている官があ

った︒司隷校尉は置かれた當初はそうであった︒漢書百官公卿表に

よると

武帝の征和四年初めて置く︒節を持す︒中都官の徒千二百人を從

え︑巫霊を捕え︑大姦猪を督す︒後其の兵を罷む︒三輔三河弘農

を察す︒元帝初元四年節を去る︒ 五節を授けられる官職

lその一前漢時代における諸例I

(19)

とあって︑置かれた当初は節を授けられていた︒元帝が司隷校尉か

ら節を去った事情は漢書諸葛豊傳にみえる︒

元帝の時︑侍中許章外属たるを以て貴幸せらる︒著淫にして法度

を奉ぜず︑賓客事を犯し︑章と相連る︒豊章を案劾し︑其の事を

奏せんと欲す︒適たま許侍中の私出するに逢う︒豊車を駐め︑節

を學げ︑章に詔して曰く︑下れと︒之を收めんと欲す︑章迫害せ

られ︑車を馳せて走げ︑豊之を追う︒許侍中因りて宮門に入るを

得︑自ら上に帰す︒豊も亦上奏す︒ここに於いて豊の節を收む︒

司隷の節を去るは豊より始まる︒

というのがその話で︑元帝は恐らく司隷校尉の権限が強きに過ぎる

と判断したのであろう︒

後漢書西莞傳には

漢將軍李息︑郎中令徐自為を遣わし︑兵十萬人を將いて撃ちて之

を平げ︑始めて護尭校尉を置き︑節を持して統領せしむ︒

とあり︑また

蕾制︑益州部に蟹夷騎都尉を置き︑幽州部に領烏桓校尉を置き︑

涼州部に護弟校尉を置き︑皆節を持して領護せしめ︑其の怨結を

理め︑歳時循行し︑疾苦する所を問わしむ︒

とある︒また後漢書光武紀下に引く漢官儀には

使甸奴中郎將は節を擁す︒秩比二千石なり

とある︒この資料により︑衝夷騎都尉︑領烏桓校尉︑護莞校尉︑甸

奴中郎將は常に節を持していたと考えてよい︒これは從っている異 民族に対して專殺権を含む即決の権限を与えてあったためである壷︵︐〆O後漢書の鄭興傳によると︑鄭興が塊鴬に言った語に

夫れ中郎將︑太中大夫は使持節の官︑皆王者の器なり︒人民のま

さに制すべき所に非ざるなり︒

とある︒これは随意が自分の支配に服する者に與える職位をつくろ

うとした時に︑鄭興が諫めて述べた語であるから︑鴬が中郎將︑太

中大夫などの職を置こうとしたに違いない︒從ってこの資料は前漢

において中郎將︑太中大夫が節を持し帝使となる官と見なされてい

たことを裏書きする︒

このように︑ある時期の司隷校尉︑設置されて以後後漢にまで及

ぶ期間の衝夷騎都尉︑領烏桓校尉︑護莞校尉︑甸奴中郎將などは職

務として節を常に持っていたし︑中郎將や太中大夫は節を授けられ

て使者に立ったのであるが︑ここでその官職がどの範囲におよんで

いるものか少しく資料によって確かめてみようと思う︒

まず右にあげた諸官のうちでは中郎將の例は比較的容易に指摘で

きる︒例えば蘇武が甸奴の使を送って行って甸奴に捕えられた時は

﹁中郎將を以て節を持せしめ﹂たのであった︒また張審が大宛に使

した時は中郎將であった︒なおこの時は︑三百人を將い︑持節副使

が多く從って居たのである︒司馬相如傳にも﹁相如を拝して中郎將

と為し︑節を建てて往使せしむ﹂とある︒

蟹夷騎都尉とは異なるが︑宣帝紀の本始二年秋に甸奴を撃った記 四○

参照

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‘ 備考111本稿は、 咀刊)によった。

(16) に現れている「黄色い」と「びっくりした」の 2 つの繰り返しは, 2.1

著  節節節節節  節節節節  注射試験 非分離温州於ケル拘攣 實験方法 丈 献

N2b 同側の多発性リンパ節転移で最大径が 6cm 以下かつ節外浸潤なし N2c 両側または対側のリンパ節転移で最大径が 6cm 以下かつ節外浸潤なし

N2b 同側の多発性リンパ節転移で最大径が 6cm 以下かつ節外浸潤なし N2c 両側または対側のリンパ節転移で最大径が 6cm 以下かつ節外浸潤なし N3a

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