多文化的市民像の実験 : ツイン・シティの事例か ら
その他のタイトル Experimenting Multicultural Citizenship : The Case of Tuin Cities
著者 大津留(北川) 智恵子
雑誌名 關西大學法學論集
巻 57
号 5
ページ 691‑736
発行年 2008‑02‑15
URL http://hdl.handle.net/10112/12219
ている
多文化的市民像の実験
移民の国を自負するアメリカは︑二ご世紀になっても世界から人びとを引き寄せる力を失ってはいない︒むしろ︑
アメリカが展開する自由主義的経済システムは冷戦終結後に全憔界に拡大され︑競争に取り残された途上国に住む人 びととアメリカとの格差はさらに広まった︒唯一の超大国として傲慢に振舞うアメリカヘの批判が高まる中で︑取り 残された世界から富めるアメリカを目指す人の流れはそれに逆行しながら続いている︒
二0
0六年一月に公開された二
0
0三年の人口統計では︑
アメリカに住む外国生まれの人口が約三三五三万人︑そ
(l
)
のうちアメリカの市民権のないものが一九六四万人にも上った︒アメリカに住む市民権をもたない人びとの割合は︑
一九
八
0年の三・一パーセントから︑二
000
年の六・六パーセントヘと急速に増加し︑この傾向はますます強くなっ
( C
a m
a r
o t
a
20 05
)︒このうち︑
は じ め に
︵ 六 九 一
︶
︱ ︱
10
0万人ほどは非合法にアメリカに滞在しているものと推測されている
ツ イ ン
・ シ テ ィ の 事 例 か ら
多文化的市民像の実験
大津留︵北川︶智恵子
v o
t a
m o
s )
!﹂というスローガンを掲げ︑
アメリカ各地で数百万人を動員するデモ行進をおこなった
( W
且s
h i
n g
o t
n
第 五 七 巻 五 号 市民権を持たない︑法的には﹁アメリカ人﹂
ではない人口が増加を続ける状況は︑︱
1 0
世紀後半からアメリカの課
題となっていた。そこに、九•一―事件によって国内にテロの危険が潜んでいるという認識が強められたため、反移 民感情がさらに強められることになった︒その︱つの表れが︑二
0
五年末に下院で可決された移民法改正︵下院法0
案四 四三 七号
︶ であった︒移民法改正の見込みが消えた︱
10
0七年八月には︑
国境管理をおこなうことを表明した
( B
u s
h 2
0 0
7 )
︒
ブッシュ政権は現行法の枠内で厳しい 国境を要塞化し︑不法滞在者を犯罪者として厳しく取り扱うという下院法案の内容︑そして実際にブッシュ政権に
より国境が壁として立ちはだかる状況は︑移民の増加に違和感を持っていた人びとには共感を持たれたが︑多くの移 民出身者やその関係者にとっては︑
アメリカの進むべき方向として懸念を抱かせた︒移民への対応は︑
が集住する地域と︑ほとんど見受けられない地域との間で大きく異なっている イノリティ人口が都市部に集住する傾向のため︑地域によっては成人人口の半分以上が︑労働や納税によってアメリ
(2
)
カ社会に貢献しながらも︑市民権を持たないために政治的な権利を奪われたまま暮らすことになっている︒
二0
0五年の下院での反移民感情をむき出しにした移民法改正の動きを受けて︑
メキシコ系を中心とする移民や彼 らに共感する人びとは
1 1
0 0
六年五月に﹁今日はデモ行進をし︑明日は投票に行く
(A o h ra ma rc ha o m
s ;
ma na na Po兵
May
1 0 ,
2 0
0 6
, A 3)
︒そして︑二
0
0六年秋の選挙では新たに市民権を取得した︑あるいはこれまで市民権が
あっても投票に行かなかったマイノリティが︑より多くの票を投じるのではないかと予測された︒
(P ew Hi
s p
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i c
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2 0
0 6
a ,
) 7
︒
(P ew Hi
p s
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2 0
0 6
b .
2 )
︒ 関法
︵ 六 九 二
︶
マ マイノリティ
多文化的市民像の実験
かについて︑分析を通して考えていきたい︒ 題は投げかけたと言える︒
しかし︑こうしたデモは︑狭い意味での政治的な権利を求めるものというよりも︑
も︑アメリカ社会の一員とみなされないことへのマイノリティの憤りを表すものであった︒それでは︑誰でもアメリ カ人になれるというシビック・ナショナリズムを掲げるアメリカで︑何が﹁市民﹂であることに求められているのだ ろうか︒市民権を持たない人びとに注目が集まる一方︑市民としての関わりそのものを深めようとして市民社会にお
いて繰り広げられる活動は︑
アメリカ社会の中でどのように評価されるべきなのか︒
中で︑形式的な市民権だけでは語りきれない︑市民であることの真意を問い直す︱つのきっかけを︑移民法改正の問 本稿では︑北欧移民を中心として発展してきたミネソタ州のミネアポリス
1 1 セントポール
に焦点をあて︑そこで過去三
0年ほどの間に急速に増加した非白人人口︑特にアメリカでもっとも大きなモン系のコ
ミュニティと︑彼らを取り囲む主流杜会や他のマイノリティとの関係を事例として取り上げたい︒従来︑主流社会と マイノリティの軋楔の原因をなず﹁差異﹂を︑むしろ積極的な資産として受け入れようとすることで︑主流社会によ
る﹁アメリカたるもの﹂
の一方的な押し付けではなく︑多文化的な市民像を共に描こうとする試みが︑この地域では 続けられている︒ミネアポリス
1 1 セントボール地域を︱つの
︵ 六 九 三
︶
﹁場﹂として繰り広げられる実験は︑どのようにして︑
アメリカ社会の中に生きながら アメリカがますます多様化する
︵ツイン・シティ︶地域
またどこまで︑多文化的市民像の構築へとつながり︑それがアメリカにおける市民のあり方に何を示すことになるの
ら外れる多数の移民がヨーロッパ東南地域からアメリカに渡ってきた︒その際︑彼らをアメリカ社会の構成員として アメリカは何度も移民の波を経験してきたが︑
いえ
ない
︒
20 01 )
実際
︑
アメリカ人とは︑民族や宗教ではなく︑
こうしたシビック・ナショナリズムは移民の国アメリカの特徴とされる︒しかし︑シビック・ナショナリズムは無制 限に適応されてきたわけではなく︑歴史的にはアメリカ人として受け入れられる範囲は限定されていた︒また︑個別 集団への婦属意識を捨て︑政治的な理念のもとに形成される﹁共通の市民権﹂を掲げる自由主義は︑政治的理念は何 ら文化的な側面を持たない︑無色透明のものだという前提にたっているが︑その前提そのものが西欧的な思考を普遍
的なものと等値してきた矛盾が︑今日の世界のあちこちで目にされる︒ ( 1
)
は︑移民が
アメリカが移民をどのように利用しながら︑国民の統一を図っていたかについて論じたホーニグ
﹁本来あるべきアメリカ﹂に能動的に同化する過程を通して︑
ティを確固たるものにしてきたとする︒そこで︑﹁本来あるべきアメリカ﹂というものは︑キムリッカ のいう何ら文化的背景を持たない市民像ではなく︑特定の歴史と文化を反映したものである︒それに近づくことで忠 誠心を示すことが求められてきたアメリカの歴史は︑決して︑無色のシビック・ナショナリズムを実践してきたとは
多文化的な市民権の模索 関法
一九世紀末にはそれまでよりもさらに﹁本来あるべきアメリカ﹂か
ン ビ ッ ク
・ ナ シ ョ ナ リ ズ ム の 神 話
第 五 七 巻 五 号
︵一
九九
八︶
アメリカ自身がそのアイデンティ
( H
o n
i g
アメリカの政治的な理念を共有することによって定義づけられるとされ︑
四
︵六 九四
︶
多文化的市民像の実験
ところが︑こうした二
0世紀後半のリベラルな多文化的市民像には︑これまでの﹁本来あるべきアメリカ﹂の中心
をなしてきた人びとからは反発があった︒アメリカのあるべき市民像は︑社会の構成員が統治責任を共有するという 共和主義的な理念の上に成り立っていた︒それに対して︑
ていない人びとが増大することで︑
を取ってアメリカ人とならないままに︑福祉︑医療︑教育といったサービスを提供されているデニズンと称される人 ( 2
)
市民としての関わりの強化
して増大した︒その中で︑ 会の役割であった︒ 既に規定されたものへの同化︑ 迎えるために﹁市民教育﹂の名のもとに活動が行なわれたが︑そこでの中心的な考えは︑
五
︵ 六
九 五
︶
アメリカ人とは何かという︑
つまり一様のアメリカ化であった︒そして︑それを草の根て実践していたのが市民社
二0
世紀後半︑冷戦の中でアフリカ系に対する人種差別が緩和され︑
権利が拡大した︒また同じ時期には︑移民法改正によってヨーロッパ以外︑特にラテンアメリカからの移民が実態と
︵ 白
人 ︑
リベラルな政治理念のもとにマイノリティの アングロサクソン︑プロテスタント︶
伝統的なアメリカ像の正統性も挑戦を受けることになる︒
人の規定においても︑同じように多文化的市民像の模索へとつながった︒そして︑
成で大きな役割を果たしているのが︑同じく市民社会なのである︒
に収敏していくような︑
アメリカに存在する異なる文化が︑西欧的なものを筆頭に 序列化されるのではなく︑それぞれが対等に尊厳をもって受け入れられるべきであるとした多文化主義は︑
アメリカ
アメリカ社会の中で︑権利を主張しながらも責任を果たし アメリカの民主主義が空洞化されるという懸念が大彦くなった︒加えて︑市民権
いわゆる
WASP
□世紀をはさんで新しい市民像形
口が増すことで︑経済的にこれらの人びとと
i競合する階層の人びとの間にも危機感が持たれた︒あるいは︑
れた︒こうした懸念が合わさりながら︑権利の主張には責任の分担が伴うべきだという考え方を支えていた︒実際︑
こうした懸念を反映して︑
も責任を持つことが︑権利を主張する前提となっている︒
このように︑新たにアメリカに参入してくる人びとに︑
ま生
れ︑
アメリカ人として当然のように生きている人びとにとっても︑同じ前提がアメリカ市民としてのあるべき姿
本的な知識や︑好ましい人格
( g
o o
d c h a r a c t e r ) のほとんどない人びとが多いことは︑投票率が五
0
%に達しないという近年の選挙の傾向からも明らかである︒国家
に対して権利を主張するが︑
( N
a t
i o
n a
l C om mi ss io n o
n C i v i c e R
n e
w a
l .
n . d
. )
アメリカの民主政治を脅かしているのは︑少なくとも一度はアメリカ市民としての資質が試される︑新しくアメリ カ人になる人びと以上に︑こうした観客として︑自ら主体的に関わろうとしないアメリカ人の増加であるかもしれな い︒そうした立場から︑広くアメリカ人全体に市民としての関わりを深めていこうという動きが出てきた︒特に︑高
等教育の機会に恵まれ︑社会の中で指導的な立場に立つべき若者が︑利己的な価値に没頭するようになっている傾向 ん存在している を示していることになる︒しかし︑実際には︑ アィの文化的な権利の拡張によって︑
関法
第 五 七 巻 五 号
アメリカ社会に対する関心や関わり
アメリカが英語の通じない国になってしまうのではないかという危機感も持た 一九九六年の移民法改正や福祉法改正は︑
アメリカ社会の一員として経済的にも政治的に アメリカヘの責任を求めることは︑裏返せば︑
アメリカの市民権を取得するために問われる︑歴史・政治に関する基 という条件を満たしていない︑生まれながらのアメリカ人はたくさ
( C
e n
t e
r f o r D em oc ra cy n a d C i t i z e n s h , i p
20 00
)︒そ
h
以上
︑に
それに対して自らは責任を取ろうとしないこうした現象は︑
という名称で呼ばれたりする︒
六
︵ 六 九 六
︶
アメリカに
﹁観戦型民主主義﹂
マ イ ノ リ
( l )
多文化的市民像の実験
には懸念が持たれた︒こうした傾向を逆転させるために︑若者に奉仕活動を通した教育︵サービス・ラーニング︶を 推進する︑キャンパス・コンパクトという大学間のネットワークが作られた こうした市民社会での動きと並行して︑
もすように浸透していくことを奨励し︑
継続しながらも︑弱者のエンパワメントにつなぐぺく︑奉仕に携わる若者に高等教育資金の機会を提供していった
︵大
津留
二 0
0三 ︶
︒ アメリカ社会の構成員に大きな変化が生じた︱
1 0 梶紀後半には︑このようにアメリカの政府と全国的な市民杜会の
組織によって︑
アメリカの市民像をめぐる大ぎな議論が展開された︒が︑それと呼応するように︑それぞれの地域コ ミュニティも︑各自の抱える問題への取り組みを模索していたのである
Cその一っとして︑
ながら︑急速に多民族化が進んでいるミネソタ州のツイン・シティ地域の事例に焦点を当ててみたい︒
ミ ネ ソ タ の モ ン 系 住 民 モン系難民の歴史
ティアとしてのアメリカ部隊が始まった︒また︑
ブッシュ
ブッシュ
︵父
︶ は
︑
七
︵ 六 九 七
︶
一人一人の善行が杜会全体にろうそくの火をと
︵大
津留
二 0
0三 ︶
︒
︵父︶政権では全国・コミュニティ奉仕法が成立し︑有償ボラン ポインツ・オブ・ライト財団を創設した︒
クリントン政権はこれを基本的に
いまだに白人社会てあり ミネソタ州の州都セントポール市は︑ミシシッピ川を両側から挟むように発展した都市である︒そのすぐ西側に接
しているのがミネアポリス市で︑それぞれの都市部が途切れることなく続き︑歴史的にも経済的にも深い関係にある 両市は︑﹁双子の都市︵ツイン・シティ︶﹂と別称されている︒冬季の気温は零下二
0
度を切ることもある寒冷地で︑
第 五 七 巻 五 号 五大湖を経由して入植した移民は北欧出身者が多く︑そのために社会福祉を重視した政治が行なわれてきた︒
﹃タイム﹄誌が︑全米で最も住みやすい州としてミネソタ州を取り上げるほど︑生活環境の豊かな州である ( G r a u b a r d
2 0 01
) ︒
ほとんどがヨーロッパ系で構成されていたミネソタ州であるが︑
カ系が移住したり︑一︱
0世紀には養鶏産業などで働くメキシコ系らの移民労働者が移住したりしてきたことで︑人口
は多様化をみせ始めた︒が︑
そうしたミネソタの人口構成を質的に最も急速に変容させたのが︑南ヴェトナムが崩壊 した一九七五年以降の︑東南アジアからの移住の増加であった︒たとえば︑
一九
九
0年には一七・七パーセントに達している︒その東南アジア系の
ツイン・シティ地域で他の地域よりも著しい増加を見せたのが︑
と 呼 ば れ る シ ェ ン ク ワ ン
( X
i e
n g
モン系住民の人口であった︒
九一
六
0年代
セントポール市のマイノリティ人口は︑
モン系は︑そもそもは中国雲南省に住む少数民族であり︑今日でもミャオ族として知られている︒中国での少数民 族としての迫害を逃れ︑ラオスの山岳に至った人々が︑自らを﹁自由な人︵モン︶﹂と称するようになったとされる
( U
r b
a n
i a
k L
e s
c h
, a n d O' Do no h g ue 1 99 9)
︒ラオスにおいても少数民族であったモン族は︑第一次インドシナ戦争中 は︑共産勢力と対立してフランスを支援する立場を取った︒ジュネーブ協定によっていったんラオスの中立化が成立 するが︑冷戦の両極からの肩入れを受けた左右の勢力と中立派の三者の間でクーデターが繰り返され︑
には内戦状態となっていた︒北ヴェトナムから南ヴェトナムヘと敷かれた補給路であるホーチミンルートは︑ちょう ど 共 産 党 の 迫 害 に 対 抗 す る モ ン 族 の 居 住 地 域
︑ Kh ou an g)
中で
︑も
九一
七
0年には四・六パーセントであったが︑
0年に 関法
壷 の 高 原 ( P l a i n o f J a r s )
︵別名ポンサバン
P h o n s a v a n ) 付近を通っていた︒第一次インドシナ戦争時代からの反共の立場と︑山岳
一九世紀にミシシッピ川を遡って南部からアフリ
ノ\
︵ 六 九 八
︶
一九
七
多文化的市民像の実験
図1 モン族居住地域(丸の部分)
出典: CIA World Factbook地図より筆者作成
隊として動員されることになった︒もっとも︑ 地帯に土地勘があるという地理的条件とが合わさり︑
九
︵ 六 九 九
︶
イ国境にはモン族の難民キャンプができ︑そ タイ国境の内側へと逃げることになった︒
夕
よる追害を恐れて︑
メコン川を命がけで渡り︑
かった多くの一般のモン族は︑
パテトラオに
はごく少数に限られたため︑直接保護されな へ運ばれた︒しかし︑
アメリカ軍による救援
は︑アメリカ軍によって難民としてアメリカ 五
年︑
ヴァン将軍らモン族の軍事指導者たち
アメリカが南ヴェトナムから撤退した一九七 P a
o )
との間で交わされていたという︒実際︑
者であったヴァン・パオ将軍
( G e n e r a l V a n g
が責任を持つという約束が︑反体制側の指導 将来モン族に不利益が生じる場合はアメリカ
アメリカがモン族の協力を仰ぐにあたって︑
モン族はアメリカにより中央情報局︵以下︑
ほどはいずれの立場も取らなかったので︑全てのモンが親米だったわけではなかった
CI
A)
モン族の三分の一ほどは共産勢カパテトラオ側に付き︑他の三分の一
( Y a n g ,
D
19
93
) ︒
の秘密部
そして一九八一年二月には︑ 七八年末には︑
一万人に達したと推定されている
第 五 七 巻 五 号 ム戦争の終結に伴うインドシナ難民は︑政府の方針により一箇所の集住することがないようアメリカ各地にて受け入
れられた︒ミネソタ州では教会関係者などが身元引受人となったり︑受け入れ後の難民の生活支援をおこなったりし た︒最初の東南アジア系難民が到着した一九七五年五月以降︑
ティ︑国際インスティテュートなどが︑二言語のスタッフを扉って難民に対応したり︑ミネソタ州政府がインドシ ナ・タスクフォース室を作ったりして︑州やこれらの団体と協働で対応にあたった
.
( M H S ,
n . d . a )
︒
一番初めのモン系住民は一九七六年一月にセントポールに到着している︒
(R
am
e s
y)
郡でモン系住民が千名に︑翌年末までには二千名に︑
( M S H ,
d . n . a )
加︒
えて
︑ セントポールの位置するラムジー
︑ネソタ歴史協会の記録によると︑
モン系は大家族が特徴で︑
ルター派社会サービスの他に︑
関法
ゃ
図2 タ イ 国 境 の 難 民 キ ャ ン プ
出典: Long (1993, 33)より筆者作成
一 九
カトリック・チャリ
慈善活動が盛んな地域であった︒ヴェトナ ン州と並んでルター派社会サービスなどの た移民の背景から︑隣接するウィスコンシ 原因はない︒ミネソタ州は︑それを形成し たかをモン族のほうから説明する内因的な なぜミネソタ州に最も集住するようになっ
こうしたラオス山岳民族であるモン族が︑
年代終わりまで存続することになった︒ れは国連が最終的に撤廃を決める一九九〇
10
︵ 七
00
)
多文化的市民像の実験
1990
2000
Number of Hmong
>1000 500螂 1000 100碑 500 50 . 100 .
<50
図3 ミネソタ州の郡ごとのモン系人口分布 出典: HND and HCRC (2004, 45).
からもわかる 多産による自然増加もある︒これは︑全米の中位年齢が一二五・三歳であるのに対し︑
(H
ND
a
n d
H
CR
C 2
00 4, 1 2)
︒こうして︑全米のモン系人口は︑
九九0
年には九万四四三九人︑二
00
年には一八万六三一00
人と増加した カのいずれかの地域に難民として受け入れられた後︑
モン系では一六・一歳であること
(H
N C
a
n d
H
CR
C 2
04 , 12
) ︒
セントポールに定住するモン系も︑前述の団体などが身元引受人となって直接タイ難民キャンプから移住する人び との流れと︑その家族の構成員の増加によって人口が拡大した︒が︑さらに多くのモン系入口増は︑
いったんアメリ セントポールヘと二次移住した人びとによるものだった︒また︑
︵ 七
0
1 )
一九
八
0年には四万七四三
0人 ︑
雇用されることはなかった﹂
( V a n g
1981)︒
第 五 七 巻 五 号
一九
七
0年代半ばにアメリカ社会が受け入れた東南アジア系難民の人口規模からいくと︑主流はヴェトナム系︑
ンボジア系であり︑ラオスから来た︑しかも少数民族であるモン系の存在は︑
なかった︒さらにモン系をアメリカ社会の中で見えなくしていたのが︑彼らがアメリカヘと移住する原因が︑
力にとって負の記憶となったヴェトナム戦争において︑それも
C I
Aの秘密工作を支援した兵士という︑表面化され
見えない存在であるモン系に関して︑
な難民としてアメリカに来たが︑ラオス人についてアメリカの人びとは知らない︒ラオス難民とは誰かと尋ね続けて いる︒全米でインドシナ難民センターと称するものを設立しているが︑そこでは難民の中の多数派を占め︑教育も受 けているという理由で︑
ドシナ難民支援プログラムに含まれてもいなかったため︑ラオス難民を支援するためにラオス人が公的・私的機関に しかも︑全米に抗散して住み続ける他の東南アジア系と異なり︑同族︵クラン︶を単位とする伝統的な行事が多い
モン系住民は︑その文化的アイデンティティを守るためにも︑きわめて集住傾向が強い︒そのため︑ にくい役割であったためだった︒ ) ( 2
受け人れ社会とモン系住民の関係 も増加している︒ 近年ではモン系難民自身がアメリカ市民権を取り︑
関法
︵ 七
0二 ︶
一定の所得を得ることで︑身元引受人として親族を呼び寄せる形
カ
アメリカ社会ではほとんど知られてい
アメリ ヴァン将軍はこのように語っている︒﹁ヴェトナム人やカンボジア人は法的
ヴェトナム人やカンボジア人が雇用されている︒ラオス人は一九七六年七月一日まで︑イン
モン系のラオス
表l 2000年国勢調査でのモン系の集住地域 多文化的市民像の実験
州 都 市
カリフォルニア 65,095 ツイン・シティ (ミネソタ) 40,707 ミネソタ 41,800 フレズノ (カリフォルニア) 22,456 ウィスコンシン 33,791 サクラメント(カリフォルニア) 16,621 ノース・カロライナ 7,093 ミルウォーキー(ウィスコンシン) 8,078 ミシガン 5,383 メルセド(カリフォルニア) 6,148 出典: Hmong Cultural Centerサイト3)
自然の厳しさにもかかわらず︑ ア等からの難民の増加により︑ 89
)
ラオスからの累積は全体の六%︑出身国別で第五位で
二0
0五
年に
は︑
山岳での生活様式を維持できるように︑
カリフォルニア州フレズノを中心としたセント この地域は﹁カリフォルニアの中西部﹂と言われるほどの保守的な地域で︑地元住民と
の摩擦などモン系にとって住みやすい場所とは言えなかった︒そのため︑
︵三
二二
人︶
︑
ニューヨーク
ロ シ
ウィスコンシン州への再移住を行なう住民も多く︑たとえば一九九七年には難民全体の 再移住においてミネソタ州は一︱五八九人の入超で︑
︵ニ
ニ五
人︶
o f R e f u g e e e R
s e
t t
l e
m e
n t
1
99 7)
︒ ︱
10 00
年の時点では︑
( U . S
O f . f i c e (K
au fm an 2 00 0,
とすら呼ばれている︒連邦難民再定住局の年次報告が始まった一九八三年から一九 九七年までの累積で受け入れた難民の一八パーセントがラオスからで︑その半分はモン
系であるとされる ヴァージニア
( U .
S.
O f
f i c e o f R
e f u g e e e R
s e
t t
l e
m e
n t
1997 ︑
あっ
た︒
U .
S .
O f
f i c e o f R e f u g e e e R
s e
t t
l e
m e
n t 2
00 5)
︒
モン系にとってミネソタ州やウィスコンシン州が魅力 的な居住地となっているのは︑北欧の伝統を受け継いだ社会福祉サービスの質の高さで︑
一九九六年の福祉法改正によって全国的に福祉が後退した後も︑福祉が比較的高水準に カで最もモン系が多く住む地域となり︑ ラル・バレーの農耕地域に︑
︵ 七
0 1
︱
‑
︶
﹁アメリカのモン系の首都﹂
ツイン・シティ地域がアメリ
から移住があった カリフォルニア
︵七
︱︱
六人
︶︑ 廿
i l , や
ヽ︑ 不ソ タ
モン系の指導者による計画的な移住も促進された︒しかし︑
よって占められるようになっていた 箇所で︑それらの総個数は︱二八
0戸であった︒
ポールで住んだ公営住宅は︑家族用に作られたマクドナフ︑ 低かった︒
他のマイノリティにも増して︑ シントンの各州に次ぐ︶ 三
・八
%︶
第 五 七 巻 五 号
保たれている︒また︑ミネソタ州は教育水準が高く︑失業率が低い
(D
EE
D
20 06
) ︑
上住んでおり︑
関法
にも上っている
ロースヴェルト︑
マウント・エアリー︑デュンダンの四
︵ 七
0
四 ︶ アメリカの中でも生活の質の高い︑暮らしやすい地域だということができる︒二
0
五年0
にミネソタ州が連邦政府から難民支援のために受けた経費は全米で五位︵フロリダ︑
カリフォルニア︑
テキ
サス
︑
ワ
( U .
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O
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i c
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ef
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e R
s e
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l e
e m
n t
2
00 5)
︒しかし︑こうした暮らしや
すさは︑歴史的に北欧系の白人の多い地域であり続けたことにも起因しており︑その状況を急速に変えることになる かもしれないアジア系住民が増大を︑必ずしも全ての住民が歓迎したわけではない︒
モン系は周囲との摩擦の原因を多く抱えていた︒山岳で農耕を行ない︑シャーマニ ズムを信じる民族であり︑住宅地の中で生け贄の動物を殺害するなど︑主流のアメリカ社会とは非常に生活様式が異 なった︒しかもほとんど英語を話さないだけでなく︑もともと文字を持たない民族であったため︑識字率そのものも
一九七八年のセントポール市公営住宅の年次報告書には︑非常に異なる生活環境から来たモン系のために ビデオを作って︑住宅の手入れや禁止事項などを︑指導しなくてはならなかった記録が残されている︒
アメリカに到着後の難民は一般的に︑当初は援助を受けながら公営住宅に住み︑就職支援を受けるが︑仕事につい て︑資産ができるにつれ︑公営住宅を離れて地域コミュニティの中で生活するようになる︒大家族のモン系がセント
一九七七年には︑これらの公営住宅にアジア系住民が六
0
0家族以
一九
八
0年後半には公営住宅の八五ー九
0
パーセントが東南アジア系住民︑その多くがモン系住民に
( A
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り︶
︒
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01 0六年七月現在で全国の四・八%に対して
四 ︱
多文化的市民像の実験
などした︒これは︑
さら
に︑
バーシティ地区フリープレス﹄ ナィの目には不公正に映った︒たとえば︑
一 五
﹃サ
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掛け
︶
アメリカの多くの都市部がそうであるが︑
セントポールでも地価によって階層的な住み分けがなされており︑
ノリティが居住できる地域は限られている︒そのため︑増大するモン系と他のマイノリティは居住区域がほぼ重複し︑
に集中していることがわかる︶︒その中で︑こうした公営住宅におけるモン系の集住は︑他のマイノリ 現金援助
(R CA )
︵ 四
月 ︶
一九七八年という早い時期に︑﹃セントポール・パイオニア・プレス﹄
﹁モンと黒人の間で人種的対立勃発﹂という見出しの記事を掲載している︒
同じようなマイノリティ間の軋礫は︑隣接するミネアポリス市でも生じており︑
一九七八年の
は は︑﹁ラオス系家族が公営住宅に住む権利がないとは言うつもりはないが︑彼
らが集住した結果として黒人の住宅が不足している︒貧しい黒人にとって︑
ひどい状況が生じている﹂と伝えている︒
マイノリティ地域の恵まれない条件に置かれたモン系の若者たちは︑英語がしゃべれず︑仕事もなく︑
ァ
メリカ社会から疎外されたままの年長の男性たちをロールモデルにできないため︑ギャング化して暴力や麻薬に走る
モン系コミュニティの問題であるだけてなく︑集住する彼らを固まりとして受け入れた地域の住 民にも弊害をもたらした︒そして︑こうしたモン系の若者にどのようなロールモデルを示しながら教育をおこなって いくかが︑家族と地域コミュニティが連携して取り組む課題となった︒
ヴェトナム戦争によるインドシナからの難民の流れを受けて︑
アメリカは一九八
0年に難民法を制定し︑それに基
づいて難民への援助を次のように連邦政府と地方政府で分担ずることを決定していた︒当初︑連邦政府からは︑難民
と難民医療援助
(R MA ) が三年間与えられていたが︑財政赤字などの影響で一九八一一年には一
限られた社会資源をお互いに奪い合う形となった
︵ 七
0五 ︶
︵ 図
4
で示される公営住宅は︑図
5
の貧困率一五%以上の地域︵濃
マイ
八ヶ月へ︑さらに現在では八ヶ月までへと縮小されてきている 入れられた難民に対しては︑受け入れた州は連邦政府から援助資金を受け取ることができるが︑
鬱
0高層住宅 鬱 家 族 用 住 宅
関法
第 五 七 巻 五 号
図4 セ ン ト ポ ー ル 市 の 公 営 住 宅
出典: PHA (1984, 10‑11)
‑ , , , . . . . . . , . .
( A
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n 聴き取り︶︒さらに︑国外から直接受け
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e2 一六
アメリカ国内での
63
暴^
図5 2002年選挙区別貧困率 (65区は25.6%)
出典:ミネソダ州議会サイト4)
︵ 七
0六 ︶
多文化的市民像の実験
とができるのか︒もちろん︑ b,
1 6.
9
)﹂という語りもある
C 担となった︒
一 七
︵﹃セントポール・ディスパッチ﹂
一九
七
次移住の場合には難民としての地位を失うため連邦からの援助もなく︑全ての出費が受け入れた州や自治体の自己負 こうしてモン系住民は︑文化的にも︑財政的にも︑治安の面でも︑受け入れたコミュニティにとっての﹁負債﹂と
して映りがちであった︒しかし︑
もあ
った
︒
モン系住民の側からは︑なぜモン系がここにいるかを知らない主流社会への苛立ち アメリカの国益のために
CIA のもとで戦闘に参加し︑二万人ものモン族兵士が命を奪われ︑しかもヴェ トナム戦争終結とともに︑祖国に戻ることができなくなった自分たちに対して︑
めるべきだという気持ちもあった︒たとえば︑ミネソタ歴史協会のオーラル・ピストリー調木且には︑﹁どうしてアメ リカに来たんだ︑このチビで︑黒い髪のお前たち︒お前たちはアメリカに来て︑われわれから全てを奪おうとするの
~、、>こ、
カ と し ぅ ふ ぅ
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たくさんの対立がありました︒教会の中ですら︑こういうことを言う人がいました
どのようにすれば︑
モン系がこうした摩擦を抱えた状態から︑
のか︒どうすればモン系同士︑
アメリカ社会がもっとその貢献を認
( M H S
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コミュニティの構成員として共存できるようになる モン系と他のマイノリティ︑そしてマイノリティ全体と主流杜会の関係を変容するこ
ツイン・シティ地域の人びとが︑
モン系について知ろうとしてこなかったわけではない︒
たとえば︑地元の新聞は︑﹁モン族がセントポールで新たな生活を始める﹂
八年︱︱一月一九日︶︑﹁米を支援し死か逃亡を迫られるラオス部族﹂︵﹃ミネアポリス・トリビューン﹄
一三日︶などの見出しの記事で︑
一九七九年四月
モン系とアメリカとの関わりについての情報提供がなされてきた︒さらには︑そう したモン系以外の人びとの認識の溝を埋めるべく︑
モン系の民族組織や州の人文委員会などが︑
モンに関する情報を
︵ 七
0七 ︶
している 提供してきた
第 五 七 巻 五
一九九五年四月九日の 号
スの点で︑あいつらは負債なのか資産なのか﹄ ﹃セントポール・パイオニア﹄は︑﹁移民サイクルが拒否段階にいた
モン系人口が限りなく増え続けることが︑地域コミュニティを限界にまで追いやっている状況
を︑次のように伝えた︒﹁あいつらは英語もうまく話さない︒お互いにひっつきあっていて︑周りと違っている︒い
(5
)
ルドルフ・ヴェロシは︑移民に対する人びとの感情は﹃税や公共サービ
という問いに︑社会がどう答えるかにかかっていると述ぺている︒﹂
しかし︑前述されているように︑年長のモン系はいつの日かラオスに帰国することを夢見て︑
わりながらも︑地域コミュニティに積極的関わってこようとはしてこなかった︒
勢調査では一︱一・八パーセントと低かったのは︑モン系の貧困率が六四・五パーセントであったことにも起因している
( 6 )
︵7
)
が︑こうしたアメリカヘ中途半端な気持ちの現れであるとも言われている︒
伝統的な白人社会であったミネソタが︑地域にコミットしようとしない移民の受け入れの限界に近づいているかも
モン系を含めマイノリティ人口の多い︑ダコタ︑ラムジー︑
( A
n t
i , R a c i s m R e s e a r c h T ea
m 2
00 4)
︒調査結果は︑これらの地域に人種差別
が存在しており︑人種・エスニック集団・文化を越えた接触や交流が︑信教団体や学校︑地域︑職場において必要で
この調査は白人が人種差別を認識するのは当然だが︑それだけではなく︑
ティ側が自分たちのエンパワメントをはかり︑市民としてより深くアメリカ社会と関わっていく必要があるとも指摘
( A n t
i ,
R a c i s m e R s e a r c h Te am
2
00 4, 8)
︒ あると指摘している︒さらに︑ 種差別意識の調木且結果にも現れている しれないという点は︑ つも祖国のことばかり話している︒
︵ 中
略 ︶
る﹂という見出しで︑ それにもかかわらず︑ 関法
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︶︒
モン系の持ち家率が一九九0
年の国
ワシントンの各郡で行なわれた人
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マイノリ モン系の活動には関
︵ 七
0
八 ︶
きた
︒ なっ て︑
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多文化的市民像の実験
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ド 会はどのように関わっているのかについて見ていきたい︒する人たちで集住し︑便宜を分け合う形で支えあってきた︒そもそも︑得られる機会についての情報そのものも︑そうした個人的な情報網によってヨーロッパやアジアという出身地域に伝播されてきた︒︱
1 0
憔紀末に移住をおこなったモン系においても︑こうしたエスニック集団のネソトワークは︑伝播 手段が電話やインターネットに置き換わっているにせよ︑大きな役割を果たしている︒
ただ し︑
一 九
ワール
ツイン・シティ地域でモン系のエンパワメントはどのように試みられているのか︑そしてそこに市民社
エスニックな情報・人脈のネットワークを持っており︑それぞれ出身地を同じく モン系の場合は難民としてアメリカに移住したため︑初期の移住者は前述したようにアメリカ人の身元引
受人を頼り︑難民定住機関の助けを借りながら︑
ルター派杜会サービス︑
それでは︑
アメリカでの生活を始めている︒
カトリック・チャリティ︑国際インスティテュートに加え︑
ユダヤ家族サービス
アメリカヘの移民集団の多くは︑
︵旧ソ連からの難民のみ︶
モン系のネットワークの中でのみ難民が生活をするという場合も生じてくる︒
広がりを見せるエスニック集団の活動
ツ イ ン
・ シ テ ィ の 市 民 社 会 と モ ン 系 の エ ン パ ワ メ ン ト ツイン・シティ地域では︑前述の
ミネソタ教会協議会︑
という組織が︑難民の受け入れおよび定住を支援して モン系難民がアメリカの市民権を取り︑資力も蓄えるようになると︑今度はモン系自身が直接身元引受人と タイのキャンプに残る難民を呼び寄せるようになる︒その場合︑主流社会の難民定住機関と関わることなく︑
︵ 七
0九 ︶
アメリカという土地に移住することによって