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自然の探究におけるアリストテレスの学問方法論に 関する研究

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自然の探究におけるアリストテレスの学問方法論に 関する研究

國越, 道貴

九州大学文学研究科哲学・哲学史専攻

https://doi.org/10.11501/3150681

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自然の探究におけるアリストテレスの学問方法論に関する研究

目次

第l章 アリストテレスの自然学の構想 6

第l節 自然の探求 6

第2節 「分析論後書』の学問構想 9

第 3 節 『自然学』の学問構想 1 1

第4節 自然学の方法論 1 3

第5節 目的論的自然学の構想 1 5

第2章 アリストテレスの目的論的自然学 2 1

第l節 アリストテレスの 目的論 2 1 第2節 目的論的自然始動因説への難問 2 4 第 3 節 目的論的自然始動因説の難問への論駁 3 1

補選一一排除主義と還元主義 3 6 第4節 始動因としての自然 3 8

第5節 資料因としての自然 4 5

第 3 章 アリストテレスの目的論的自然学の擁護 5 1

第 1 節 目的論的自然学への現代的評価 5 1

第l項 近代科学の目的論の否認 5 1

(4)

第2項 現代生物学の合目的性理解 5 2 第3項 アリストテレスの目的論の構図 5 4

第2節 自然学と第一勤者 5 5

第1項 目的論的自然学の拡張解釈 5 5 第2項 自然学における第一勤者の位置 5 8

第3節 自然と技術の類比 6 0

第l項 二つの目的論一一行為と機能 6 1

第2項 一つの目的論一一始動因と目的図の一致 6 2 第3項 方法論的モデルとしての技術 6 3

第4章 原因の探求と定義の定式化 6 8

第l 節 定義論の問題 6 9

第2節 存在概念の拡張 7 2

第3節 原因の存在把握 7 5

第4節 存在把握の成立 7 6

第 5 節 名 目的定義 8 0

第6節 定義の確定 8 3

第5章 論証知と個別事象の認識 8 5

第l節 知識と必然性 8 6

第2節 自 体性 8 8

第3節 全称性 8 9

第4節 普遍性の問題 9 2

第5節 個別命題の必然性 9 4

(5)

註 文献表

9 7 131

(6)

本研究は、紀元前六世紀ミレトス派に始まる「自然の探求(取

引 “

σωS lσTOp

l

a ) J

以来、今日の自然科学に到るまで営々と続けられてきた自然を把握しようとする試みにお いて、最も影響力のあった一入、 アリストテレス(384-322 BC)をとりあげ、彼の自然学(

向中uσl

)の学問方法論を明らかにしようとするものである。

我々の回りには、自然によって生成変化する物や現象があり、我々自身もまた生物とし て、自然によって生成する物である。 自然とは、何よりそうした物や現象の始源であり原 因であろう。 或る者はそれらが組成される素材を自然と理解し、或る者は素材から形成さ れる構遣を自然と理解して、自然の探求に向かった。 アリストテレス は、こうしたミレト ス派以来の先行する自然学 者の見解を批判的に検討した上で、自然の探求を四原因の探求

として提示している。 四原因とは、質料図、始動図、形相図、 目的因である。 自然を探求 する者は、 これら総てを探求しなければならない。 その意味は、自然をこれら四原因のそ れぞれとして捉え、探求しなければならないということである。

しかし、 これら四原因の探求は\ それらをただ羅列することでは決してない。 四原因は いわば概念的な連関において探求されるのである。 アリストテレスは、先ず、自然事象の 活動や機能を捉え、 それを(1)目的因をする。 そして、活動し機能する場面でこそ、その 物の形や構造を捉えられるのであり、 それが(2)形相因である。 こうした形や構造を組成 するのは、任意の素材ではなく特定の性質をもっ素材でなければならず\ これが(3)質料 図である。 しかし、素材がひとりでに或る一定の形や構造を生成することがあるとしても、

それは偶然によることである。 素材を形相因に従い一定の仕方で恒常的に組成していくも のがあり、それが(4)始動因である 。 このように、四原因は目的因を中心とする 連関をなしている。 こうした連関は、四原因の探求方式として、次のように定式化される ( r自然学J n巻7章) 。

(1) 目的因: 何故、目的Tであるのがよいのか (2) 形相因: 目的Tが、 Xであった

(3)質料因: 目的Tがあろうとするならば、 Xが必然的にある (4) 始動因: Xから必然的に(恒常的に)目的Tが生じる

(7)

こうした探求方式にこそアリストテレスの自然学の方法論の根幹があると見定めたい。

アリストテレスの自然学の方法論について典拠とされるテキストは、同時に、自然事象 についての目的論の典拠とされている。 アリストテレスの自然学は、評価されるにせよ批 判されるにせよ、 「目的論的」という特徴づけがなされてきた。 それは正当なことである が、先の目的因を焦点とした四原因の探求にこそ、その意味を理解すべきである。 近年に おいても、物理主義の批判的検討という現代哲学のトピックを背景として、アリストテレ スの自然事象についての目的論に関する多くの研究がなされている。 しかし、そうした研 究において、アリストテレスの目的論的自然学という構想、の全容が理解されているとは思 われない。 必要であるのは\ 自然学が学問であるという観点である。

アリストテレスの自然学の方法論の典拠として最も基本的なテキストは『自然学J第2 巻であり、これが本論で主題的に抜う一方のテキストである。 他に、 「動物部分論」第1 巻はアリストテレスの著作で大きな部分を占める動物論全体への序論に当たり、方法論を 求めるべき基本的テキストである。 また『形而上学』第l巻は四原因探求の歴史的経緯が 述べられており重要である。 本論は\ こうしたテキストについても、『自然学』を補足す るものとして参照している(後述の略記に従えば、 「動物部分論』は問、 r形而上学Jは Metaph. に当たる)。

さて、本論で主題的に扱う他方のテキストは、アリストテレスの論理的著作の一つ『分 析論後書』である。 伝統的解釈において、アリストテレスの著作全体が体系的に理解され る中で、 r 分析論後書』はまさに学問方法論を提供するものと考えられているのである。

『分析論後書』は、 当時、 ユークリッド『原論Jの成立(c.323 BC:ほぼアリストテレスの 没年)を目前にして完成期を迎えていたギリシア数学を範として、論証による体系として 学問(知識)のあり方を構想したものと見ることができる。 論証による体系的学問構想と は、定義を起点として、諸命題が含む主語項と述語項とを、それぞれの項の定義によって 連関づけることであるといってよい。 論証とは、こうした連関づけである。 この場合、論 証や定義は事象の原因を構成要素とする点、そして、論証によって定義による連関づけが なされるとき必然性が保証される点が特に重要である。 アリストテレスの自然学は、こう した『分析論後書』の学問構想、を背景として成立している。 このことが本論の一連の考察 の焦点となるテーゼである。

しかしながら、本論の目指すべき考察の方向は、アリストテレス研究における難問の一 つに阻まれている。 つまり、 自然学に限らず彼の著作では、厳密にいって、 r分析論後

(8)

書』における論証体系としての学問構想が実現されてはおらず\ 学問構想と実際の著作と の問に何らかの平離が存在することは認めなければならないのである。 そして、今日有力 な解釈は\ 伝統的解釈に沿て 『分析論後書 の学問論が自然学において方法論として保 持されているとは考えておらず、むしろ著作の本離を本腕のまま放置するという方策がと られている。 その一つは、伝統的な体系的解釈に反目する発展史的解釈である。 それによ れば、 初期作である『分析論後書』では数学を学問知識の純型とするプラトン的教説に影 響されていたが(Solmsen) " 後には経験的或いは帰納主義的立場をとるとされる(Jaeger)。

そのために自然学著作において「分析論後書Jの構想は撤回されている訳である。 また別 の解釈-cは、 『分析論後書』の学問構想、は、教授・学習という限られた目的のために構想 されのであり\ 自然学著作それ以前の探求的ま た は試論的段階であるとされる (ßarnes)。 もとよりこれらの解釈に立つ限りは、自然学的著作における自然探求の意味を

r分析論後書 の学問論求める ことはきないの

しかし\同時に指摘しなければならないのは、 こうした解釈に対する批判を含む研究が

近年なされつつあることである。 特に本研究に関係する研究として\自然学のうち、 特に 動物学的著作において、 その方法論の背景とじて「分析論後書Jを考えなければならない という指摘である(Gotthelf,Lennox)。 もとより、 こうした研究には大いに啓発される。

しかし、 本論が目指しているのは、 自然学のより個別的な論点から『分析論後書Jの学問 方法論の有効性を考察するのではなく\ あくまで、 自然学が一般に成立するために提示さ れた自然学の方法論の解明である。 つまり、 四原因を目的因を起点として必然的連関にお いて探求するという方法を、 『分析論後書Jの学問構想に照らして解明することである

それは、単に叙述の何らかの照応ということだけではありえない。 自然学という学問の成 立を問うているの であり\ 学問の成立を主題する『分析論後書』の根幹に関わらざるをえ ないのである。 それが明らかにされれば、 自然学と『分析論後書』とを分断する解釈は自 ずと退けられるであろう。

本論は5章で構成される。 その各々について各章冒頭に概要を与えているが、各章の要 点を示しておきたい。

第l章は、 「自然の探求Jという古代ギリシアの活動が、 アリストテレスによって方法 論的に明確にされ、近代に受け継がれる経線を概観する。 その場合、 アリストテレスのソ

クラテスとプラトンからの継承を強調する(第l節)。 そして、 アリストテレスの『分析 論後書Jでの学問構想、とr自然学』の学問方法論を照応させる(第2 - 4!行)。 最後に、

3

(9)

自然法則の確定と自然法則による自然事象の説明という近代自然科学の基本的方法論に即 して、 アリストテレスの目的論的自然学の構恕を概観する(第5節)。

第2章は、 アリストテレスの目的論的自然学を『自然学』に即して解明する。 こ れまで の解釈とは異なり、 アリストテレスは先に掲げた四原因の探求方式に従い、 目的囚として の自然を起点として、 始動因としての自然を論じるとともに(第1-4節)、 質料因とし ての臼然を論じている(第5節)点を明らかにする。 始動因としての自然はアリストテレ スにとって最も基本的な意味での自然理解であり、 質料因としての自然は先行する自然学 者に最も特徴的に見られる自然理解である。 こ うした四原因としての自然把握は、 個々の 領域での「自然の探求Jの方法論を与えている。

第3章は、 目的論的自然学への批判を検討する。 先ず、 近代科学と対立的に理解される 目的論の意味を明らかにし\ 現代生物学での「合目的性」の処理を検討する。 そして、 ア リストテレスの目的論との対比を試みる(第l節)。 そして、 自然学で自然界の創造者の

が前提されている(第2Ñ的、 或いは行為をモデルとする自然の擬人化である(第3節) という主要な批判の論点を、 テキストに即して退ける。

第4章・第5章は、 『分析論後書』ヘ移行する。 各節はr分析論後書』独自の概念に即 して分節されるため、 本論全体への位置づけのみを明確にしておきたい。 第4章・第5章 は、 アリストテレスの定義(論証)を自然科学の自然法則として見た場合、 それぞれ、 自 然法則の確定と自然法則による個々の事象説明という点に関わる。

第4章は、原因が定義(論証)として定式化される過程を考察する。 個々の事象で原因 が把揮され、 事象と原因との恒常的連関が定義に定式化されるといった見方を退ける。

原因探求においては、 予め(原因が結果づける)事象が一般的に捉えなければならないこ と、 そして原因は定義(論証)という枠組みの中で探求されるこ とを明らかにする。 こ う した原因探求の方法は、 個々の事象のあり方(恒常的連関)に関わらず、 定義(論証)の 必然性を保証する。

第5章は、 定式化された定義が、 個々の事象を知るこ とにいかに寄与しているかを考察 する。 こ の場合、 自然事象に限定せず、 一般的な仕方で考察する。 個々の事象はいわば定 義のもとに包摂される(個々の物を定義される限りのもの主L三捉える)ことで、 個々の 事象のあり方に関わらず、 知るというこ とにおいて必然的認識が成立するこ とを明らかに

する。

本論において、 アリストテレス著作への指示は、 H.G.Liddel1 and R.Scott,A Greek-

(10)

English Lexicon (Oxford)の略記に従う。 しかし、 指示箇所は、 著作略記に後続するベツ

ヵー版頁づけによって特定されるので、 改めてその略記を掲げることはしない(r分析論 後書』とr自然学』については文脈上明らかな場合著作指示を省略している)。 研究文献 への指示は、それぞれの箇所でなされる。 使用文献については別に文献表で示す。 文献表 では、 その冒頭に記すように、文献のテーマ毎に分類して掲げる。 アリストテレス研究文 献については、研究過程で参照した特に関連する文献に限るが、 本論では言及されない文 献も含まれている。

尚、 本論第2-4章の大部分は公刊論文に由来するが、 ほぼ全面的に書き改め見解の修 正を含んでいる。 第5章は、 日本哲学会で発表し現在同学会誌に応募している原稿に子を 加えたものであるo

5

(11)

第l章 アリストテレスの自然学の構想

自然科学は、古代ギリシアの「自然の探求」に由来するといわれる。 その意味を、 ソク ラテスとプラトンを継承しつつ、アリストテレスが確定した自然学の学問論的方法論に求 たい。 アリストテレスは、自然を四原因のそれぞれとして把握し、四原因を定義として定 式化するという方法論を与えるとともに、こうした定義を起点とし自然諸事象を説明(論 証)するという学問構想を与えた。 それは自然科学における自然法則としての自然探求と、

自然法則の理論的体系化の営みに照応するものである(第1節)。

アリストテレスは、 r分析論後書』において、論証による休系的知識として学聞を構想 している。 その要点は、論証を通じて、事象を必然的であると知り、事象と原因の連関を 知ることにある。 このこつは同時に成立すべきことであり、論証を通じて、事象と原因の 必然的連関を知るというが要求されているのである(第2節)。

アリストテレスの『自然学Jは体系的知識として自然学を示唆することで始まる。 しか し、その内実はすぐには与えられない(第3節)。 自然学の方法論は、自然学は四原因と して把握しなければならないとして与える四原因の探求方式に求められる。 つまり、 目的 因(=形相因)の把握を起点とし、それとの必然的連関をもつものとして、始動因と質料 因は探求されるのである。 この「必然的連関」は『分析論後書』の学問機想を背景にして のみ理解されうることである(第4節)。

r分析論後書Jの学問構想は必然性を要求するが、自然事象は必然的ではない。 アリス トテレスが自然事象について与える定義や論証を自然法則として捉え、自然法則を確定す る場面、そして自然法則のもとで個々の自然事象を知る場面において、必然性の成立を概 観する(第5節)。

第1節 自然の探求

「自然の探求(恥Pl

ω

σω<; 1σTOp i a ) Jと呼ばれる活動は、紀元前六世紀のミレトス 派に始まる(1) 。 そして、この活動こそが、自然科学と呼ばれて今日に到る活動の始まり であると考えられている。 しかし、何故、ギリシア(イオニア植民地ミレトス)に始まる とされるのであろうか。 一方で、既にエジプトやパビロニアでは天文現象の観測jや予測を 行っていた訳であるし、他方で、既にギリシア内でも自然現象に関する言説(神話)は存

(12)

在していたからである。こうした問題に対する回答は一様ではないが\ ここではロイドに よる方法論的観点、からの特徴づけを取り上げたいω 。

ロイドは、(1)自然の発見と(2)批判的論争の実践を挙げる。(1) 自然の発見とは、自 然現象カにきまぐれな力の産物ではなく、確定可能な因果連鎖に支配される規則的現象で あるという認識である(3) 。それゆえ、自然は、個々の現象としてではなく、一般的に探 求されるのである。(2) 批判的論争の実践とは、文字通り、相互の見解の批判的検討であ る。こうした特徴づけは、自然の探求の「神話からの脱却」という場合に、何が問題であ るかを明示している。神話が語るのは、多くの場合、(1' )特定の時間と場所で起こる自然 現象(地震、雷鳴)についてなのである。また、それぞれの神話は、(2' )自然界について 相互に異なることを語っても何ら構わないのである。

確かに、こうした方法論的特徴づけによって、 自然科学の源をギリシアに求めることが 正当化されよう。しかし、ギリシア世界において、こうした方法論は更に明確化されてお り、 その成果は自然科学の方法論の中にも保持されている。(1)(2)の特徴づけは、 アリス トテレスにおいて、それぞれ(a)自然現象の観察から自然法則を捉え、それを通じて個々 の自然現象を説明(予測)するということ、(b) 自然の諸法則を理論として体系化するこ とに明確化されていると考えられる。そして、その明確化の経織においては、ソクラテス、

プラトンからの継承を指摘しておかなければならない。

ロイドの特徴づけは、(1)事象を一般的に探求するといい、(2) 批判的に検討するとい い、 ともに\ ソクラテスに相応しいものである。もとより、ソクラテスは自然を離れ倫理 的な事柄に向かった(門etaph.A6:987bl-2,cf.PA Al:642a28-31)。しかし\方法論の深化あ るいは徹底化は、ソクラテスそしてプラトンに婦さねばならない。アリストテレスの自然 の探求を考えていく場合に、彼の出身地からイオニア自然学者の系譜に位置づけるという 見方が可能であるけれども、アカデメイアに学んだ点でソクラテス ・ プラトンの系譜にあ ることを外すことはできない。アリストテレスは、プラトンとは対比されるべき経験論者 であるから、経験的事象である自然事象に向かったという見方はあまりに素朴すぎる。ア リストテレスは、ソクラテス ・ プラトンが徹底化した方法論的態度によって、先行する自 然学者の見解を吟味し、 自然の探求に向かったのである。こうした継承の中で、アリスト テレスは(1)(2)を(a)(b)として明確化したと考えることができるであろう。

(1)自然現象を一般的に探求しようとする試みが、(a)自然法則の把握へと方法論上明 確にされるという場合、アリストテレスにおいて、自然法則に当たるものは、定義或いは

7

(13)

論証である。 それらは、個々の自然現象から一般化して捉えられたものであり、それらに よって個々の自然現象を説明する点で、自然法則に概念上対応する(的 。 しかしながら、

自然現象の一般化がこのような定義や論証によってなされることは決して自明ではなく、

方法論的吟味を要したのである。

アリストテレスが自然事象を一般的に捉えるのは、原因の連関においてであり、 それを 定義や論証において定式化する。 そして、知識(学問) は定義や論証を通じて成立するの である。 ところで、アリストテレスは、事柄を一般的に定義することを最初にした者とし てソクラテスを挙げ(門etaph.門4:1078b17-19,cf.Al:987b2-4)、この点に関し、先行する自 然学者はわずかに触れただけだったと証言する(門etaph.門4:1078b19-21,PA Al:642a26-28)。

先行する自然学者は自然事象を一般的に捉えてなかったのである。 アリストテレスが自然 事象を一般的に捉えるのは原因連関においてである訳だが\ その原因概念はプラトンの理 論を背景としている(Pl.Phd.96A-99D,Pl.Ti.47E-48E,cf.4GC-D) ω 。 そして、原因の連 関を、定義や論証において定式化し、定義や論証に通じて知識(学問)成立するという。

知識を成立させるという点において、とりわけ論証は、プラトンの「原因の思考( OlTlOC;;

ÀOYlσμÓC;;, Pl.門en.98A3-4) Jを指導理念としていたと推測される。 論証は「原因を与え る推論( TOÛ OlÓTl Óσu以OYlσμÓC;;, APo.A13:78b3,A14:79a22)Jとも呼ばれるのである。

アリストテレスの自然事象を一般的に把握する方法は、こうしたソクラテス、プラトンの 背景のもとでのみ成立したのである。

(2) 批判的な検討ということが、アリストテレスにおいて、(b)理論の体系化という仕 方で明確化されることには\次のような経緯を考えられる。 或る人 の或る事象についての 見解(信念) が批判的に検討される場合\ その見解(信念)が矛盾を含むか否かが先ず問 題とされる。 ところで、その人が或る命題(A) を認めた時、 その命題と直接矛盾する命 題 (-, A) を認めることはないとしても、 矛盾する命題を帰結するような別の (諸) 命題

(ß) を認めることはあり得ることである(cf.APo.A2:72bl-3)。 そLて、これはソクラテ スの論駁(エレンコス) が必要とされる事態である。 信念は整合的でなければならない。

これは理論の整合性の問題とも本来同じ問題である。 つまり、学問( È1T lσTω11 )とは、

(本の中にある)単なる理論ではなく、本来的に我々が知るということ( È1Tl<HOσ80l )な のである。 学問が体系的理論として整備されるということは、 それを知る我々の信念(

πlσTEÚElV) もまた体系的整備されていることを意味するのである(cf.A2: 72a25-b4) ω。

しかし信念・理論の整合性だけでは充分ではない問 。 信念・理論内の諸命題は、循環

(14)

論j去によって正当化されない (真とされなしづからである(cf.APo.A3:72b25-73a20) 。 信 念・理論には、他の命題を通じて正当化されるのではない特権的命題、つまり原理がある のである(cf. APo. A3: 72b18- 25) (8) 。 これが、知識の成立という点における公理論的体系 化の意味であり、以後、ユークリッド「原論』を範型とする学問のあり方を定めたのであ る。

さて、(a) 自然法則のj巴j屋といい、(b)理論の体系化といい、自然科学の方法論の核心 的部分として今日も保持されており、 こうした方法論的明確化に貢献した者として、アリ ストテレスの考察を検討したい (本論の多くは、個々のいわば自然法則に関わるけれども、

常に(b) が背景にあることを明記しておきたい) 。 しかし、本論は、自然科学の方法論に 関する今日的了解に前提し、それをアリストテレスの論点に探るといった単なる「先祖探 しJではない。 むしろ、方法論が本来担っていた役割や意味を、アリストテレスの方法論 の確立に採りたいのである。 それは今目的了解に再考を迫ることにもなるはずである。 自 然科学の方法論という場合、科学哲学という部門の特殊問題と考えられる傾向があるけれ

ども、 自然事象についての知識の成立というより一般的問題として考えなければならない 問 。 この点に関し、少なくともニュートン『プリンキピア』の成立に前後する時代まで はそうであったはずである(10)。 アリストテレスにおいて、知識の成立が一般的に問われ た上で、自然事象の知識が問われるのであり、初めから知識の理論(認識論) と科学の理 論 (科学論) という具合に分脱されてはいないのである。

第2節 r分析論後書」の学問構想

アリストテレスの学問構想は、次のような仕方でまとめられる。 r或る事象を知ってい る( E 1T íσTOσ80 l ) JとL、うことは、

(i) その事象の原因を認知している( YlVWσKεl V ) (ii)その事象は必然的であると認知している

という条件のもとで捉えられる(A2: 71b9-16)。 そして、その上で、 「我々は、論証を通じ てもまた知っていると主張する(れぱV 0εKOlOl'cmooεlぷωS E rOÉVOl ) J (A2:71b17)と される。 もちろん、論証が知のすべてをおおいつくす訳ではない。 論証はすべての事象に ついて成立するのではなく、論証不能な原理がある(A3)。 しかし、論証される事象につい て、 「知っているということ」は、「論証をもつ こと( TÒ E'xεlV álTÓO引とl V ) J (A2:

9

(15)

71b28-29,72a25-26,A4:73a21-23,B3:90b9-10,21-22)を意味するのである。 それゆえ、条

件(i)(i i)に即していえば、

(i ' ) 論証を通じて、その事象の原因を認知している

(i i ')論証を通じて、 その事象は必然的であると認 知している

ということが成立していなければならない。

アリストテレスに お い て 、 論証 ( GTTÓO El(lS )とは「知識成立に関わ る (

ÉTTlCJT叩OVlKÓV ) J推論、つまり「それをもつことでそれに即し(K08'ó、V Tý é'xεlV

OlJTÓV ) J知っているということが成立する推論であり、 それに尽きる(A2:71b17-19)。

推論とは\妥当な論理形式をもっ議論として〈1Z}\ 弁託論の中でも問題となる一般概念で あり(11)、そうした一般概念に対し「知識を成立させる(TTO lεlV ÈTTlσTIlμηV ) Jというこ とが論証を規定する種差となっているのである (A2:71b23-25)(13)。 別の著作で「教示的 議論( olðoσKOÀlKOlくÀÓYOl>, SE 2:165bl-3) JとH子ばれるのも、論証のことである。

論証を通じて、(i)原因の認知、(ii)必必、然性の認知が、いかに成立するか見ておきたい。

先ず(ii)必必、然↑性生の認

の主語項と述語項との「白体的(K口08'0ω心T刊ó 川J) と呼ばれる連関である(ωA4心:7花3b16ふ-1凶8,A6ふ : 7丸4b凶5一-11ο)0 自体的連関とは、次のような項と項との定義的連関である(A4:73a34-b5,16-18,

A6:74b7-10,A22:84a13-14)。 つまり、 rAはBである」という命題の主語と述語が、

(1) Aの定義にBが含まれる、或いは(2)Bの定義にAが含まれるという仕方で定義によ って連関している場合を指す。 論証に通じて、前提の諸項の自体的連関によって、結論の 諸項の自体的連関が確保される(cf.A6:75a29-31)。 二つの前提iAはBであるJ i BはC

である」が共に自体的である場合、結論iAはCであるjの自体性を保証するのである。

このことが\ 論証を通じて、結論を必然的であることと認知するということである (APo.A4:73a21-24)。

他方(i)原因の認知であるが、原因の認識とは、正確には、「事象の原因を、その事象 の原因であると認知すること(TηV T'dTiav oiGμε80 YlV�σKE l V Ol'行V TらmZyμá ÈσTlV,

ÖTl ÈμlVOU OlTlO ÈσTl, A2:71bl0-12)Jである(A2:71bl0-12)。 つまり事象と原因との 連関が問われるのである。 それは論証において次のように形式化されていく。 事象が命題

rAはCである( ÖT l ) Jで表わされるとする。 r何故AはCであるか(0 l ÓT l ) J、 つ まり事象の原因を認知するとは、原因 (B)を通じてその事象iAはCであるJを認知す ることであるが(A6:75a35)、このことが、原因を中項Bとし、それを通じてrAはCであ

(16)

る」という事象を認識するという仕方で、論証として提示されるのである(APo.ßll)。 つ まり、結論IAはCである」が、前提IAはBであるJ I ßはCであるjにおいて中項B と連関されることで、論証を通じて、事象IAはCである」の原因Bが認知されるのであ る。

ところで、例えば(i)必然性の認知は数学の問題であり、(ii)原因の認知は自然学の問 題であるといった仕方で、(i)(i i)は別々の問題ではない。 ともに成立しなければならな いのである( TE ... KOl, ß2:71bl0-12)。 それゆえ、(ii)原因の認知において、(1)必然 性の認知が問われているのである。 このことは、原因と事象とが、自体的連関にあること を要求している(ß16:98b22-23,cf.B8:93b12,Bl1:94b19-20)。 つまり、原因と事象とは定 義的連関になければならない。 確かに、事象の定義は、そもそも事象の原因によって定式 化される(Metaph.H4:1044b15,APo.B10:93b39)。 しかし、問題は解消されない。 つまり、

原因を探求し定義を確定する場面と\定義が確定された上で事象の原因を認知する場面を 区別して考えなければならないのであるo r自然学」の方法論の展開を見て、再びこの考 察に戻りたい (第5節)。

第3節 「自然学」の学問構想

アリストテレスが、 『分析論後書』の学問構想、に照らして、 自然学を展開しようと意図 していることは、 「自然学」冒頭の叙述。こ示唆されている(Al: 184al0-16)。

すべての「方法論をそなえた学問(μ8óoo<; ) Jに関して〈川、 原理・原因・構成要 素がある(=規定されている) (事象を〕知ること( TÒ ElOÉVOl KOl Tられ{σTOσ80l )が成立するのは、それら〔原理・原因・構成要素)を認知することによって( EK ) である(1 5)。 というのも、第一の原因、第一の原理を、構成要素にいたるまで、認知 する場合に、それぞれの事象を知っている( YlYV�σKεl V )と思うからである。 そうで ある以上、自然についての知識 (学問)(�lTE P iωσω<; E lT l<Hrí�Tl )にあってもまた、

先ず原理に関わる事象を規定すること( 0 l Op lσω80l )を試みなければならない。

ここで、自然学が第一原理にもとづく体系的知識として構想されていることを読み取れる。

そして、前節の (i)原因の認知に照応して、事象を知るということは、原因 (原理・構成

1 1

(17)

要素) を認知することである点が確認され、原因 (原理・構成要素)を規定しなければな らないとされる 。 ここでは、前節の(i i)必然性の認知は問題とされてないけれども、自然 学において 必然性は問題とならないと即断することはできない 。 (i)原因の認知は、(i i) 必然性の認知 を同時に充たさなければならないのである 。 示唆される体系的知識には、 必 然性の問題が潜在しているということもできるであろう 。 実際、後に見るように (次節)、

原因の探求において、 必然性の問題が方法論的に明示されることになるのである 。

さて、 『自然学Jはこうして原理の規定に向かう訳であるが、第1巻は「自然について の知識Jに限定されない仕方で、先行自然学者たちの原理に関する見解を検討することに 出てられる。 自然という限定が現れるのは、第2巻からと見てよい 。 第2巻では先ず、自 然(向中心σ15 )とは「内在する動の始源」であるという自然の基本的な理解が述べられる 。

「自然があることJは明らかであるとし" I自然とは何であるか」について、これまでの 見解を提示しそれ を吟味することになる 。 自然は質料であるという説と、形相であるとい う説であり、 アリストテレスは形相説に優位性を認める(81)。 しかしながら、自然学(向 中uσlKTÍ )は質料をも探求しなければならないことが確認される 。 つまり、一方で、数学 と対比される中で\ 自然学が形相と共に質料も扱わなければならないことが、また他方で、

技術と類比する中で、形相(目的)と質料 (手段)とのそれぞれを万IJの学問が級うのでな く同じ学問が扱うことが、述べられるのである(82)。

ところで次に、 原因について考察され\原因が四つの仕方であり、またそれだけしかな いことが論じられる(83-6)。 この一連の原因論は、確かに、 その考察の最初に明示される ように、 自然による生成変化を知るには、その原因を知らなければならないという点から なされている(83:194b17 -23)。 つまり、 r自然学』冒頭の「自然についての知識Jの成立 に要する「原因の認知」 を求めている 。 また、自然が原因の一例として挙げられている (84:19Ga30-31,85:196b22,86:198al-13)。 しかし\原因論(83-6)は、 自然学という場合に 限られない一般的考察にとどまる 。 それは、凶原因の定義的部分(B3:194b23-195b21)がほ ぼそのまま「形而上学J ð.巻哲学辞典の「原因」の項目(ム2)となっており、またその考 察の中で「自然」はその派生語を含めほとんど用いられないことから伺われることである

(1 ó)

こうした原因の考察(B3-6)を終えると、 自然学者は、四つの仕方で原因を知らなければ ならないとし、四原因説の成果を振り返る(B7)。 ここで、 アリストテレスの視点は、自然 学へと再び限定される 。 つまり、「自然とは何であるか」の先行する見解として検討され、

(18)

自 然学が扱うべきとされていた形相質料(B1-2)が、 それ らを含む原因として問われる こと に なるのである。

第4節 自然学の方法論

アリストテレスは原因論で一般的に考察した結果を振り返りCB7:198a14-21)、 次のよう に述べる(ß7:198a22-24)。

さて\ 原因は四つであるから、 そのすべてについて知ることが自然学者 (蜘σlkds ) の課題であり、 自然学にふさわしい仕方で(和σL KIJS )" r何故か? Jという悶い

をこ れ らすべて-質料因・形相図 始動因・目的因一ーに 定 型 化 (還元 ) し て(

avdyεL V ) 答える べきである。

自然学者は、 自然事象について、 四原因のすべてを探究しなければな らない。 ここ で名指 される自然学者は、 もとより『自然学Jで既に批判検討された「先行する自然学者Jでは ありえない。 アリストテレスは\ ここで彼の構想する自然学の研究者を名指しているので ある。 その意味で、 彼の自然学の成立を告げているといってもよい(17)。

アリストテレスは自らの探究方法を定式化するのに先立ち、 先行する自然学者の探究方 法(σKOπOUσL, p1.3.)を批判しているので、 簡単に見ておきたい。 この批判の要点は、 先 行する自然学者 が目的図を探究しない点にある(B7:198a31-33)。 つまり、 形相因と目的図 とが一致するので(ゐTε)、 目的因を捉え損ね、 先行する自然学者は「何故か?Jの問い を質料因・形相因・始動因としてだけ定型化して答えた(B7:198a31-33)。 そのことは彼 ら の立てた次のような探究方法の定式に見てとれるとされる(B7:198a33-35)。

何かが何の後に生じるか( TlμεTà Tl YlYVETOl ) (形相因・質料因) 何が最初に作用したか( Tl lTPWTOV ÈlTOlll<JEV) (始動因〕

何が作用を受けたか( Tl E'lT08EV ) (質料因)

ところ で、 形相因と目的因が 一致すること は、 アリストテレスの方法論上重要な点に関 わるので、 特に確認しておきたい。 三原因の一致である。 つまり、 形相因と目的因とは同

.

1 3

(19)

一(約)であり、それら二原因と始動因とは種において同じ( T�ε向El TOÙTÓ )であると される。 r人間は人間を生む」と例示されるが、成人Aが生んだ子供Bは成人Bを目指し て成長すると分析すれば、成人Aが始動因であり、成人Bが目的因・形相因に当たる。 A とBは数的には同一ではないが、 「種Jとして一致するのである。 ところで、こうした仕 方での三原因の一致は\ 常に成り立つ訳ではなく多くの場合にいえることである。 r多く の場合」とは、始動因が「動きながら動かすもの (変化しながら変化させるもの) Jの場 合であlJ (87: 198a24- 27),自然学の対象になる場合である。

こうした目的図を見逃しているという批判を経て、アリストテレス自身は目的因を焦点 とする四原因の探究方法を定式化している。 そして、ここに\先に (第3 ÎÏñ) 指摘した必 然性の問題が現れるのである。 つまり、自然は、何かの為に働く( fVEKá TOU ) ので目的 因をも知らなければならないとした上で(87: 198b4-5)、目的図をいわば方法論的定点と仮 定し、四つの原因を探求するための悶いが必然性を含む仕方で提示するのである。 いま目 的となる生成の終点をTとすれば、次のように定式化できょう(198b5-9) (1 B)。

始動因 これこれから必然的に終点T(が生成する〕

(これこれから端的に(必然的に〕或いは多くの場合に)

ÖTL ÉK TOÛOE aVáYKD TÓOE ( TÒ oÈ ÉK TOÛOε行aTTÀWS行ws ÉTTl TらTTOÀ心) 質料因 終点Tがあろうとするならば(何が必然的にあるか〕

(前提から結論が〔必然的に導かれる)ように)

E lμÉÀÀE l TOO i {,σω80lJぶσπεP ÈK TWV 1TPOTáσωV Tらcruμwipqσμq 形相因 終点、Tが本質であった

6Tl ToGT'Rv Tb Ti行V E TVOl

目的因 何故そのようにTを終点とするのがよいのか

一一端的にょいということではなしそれぞれのあり様にとってよいのか OlÓTl ßÉÀTlOV OÜTWS --OÙX àTTÀWS aÀÀo TÒ TTPÒS TnV ÈKáσTOLJ Olh{av

つまり、終点Tが定まれば、他の原因はそれに基づいて探求されることになるのである。

ただし、終点Tについては、次のことに付け加えておかなければならない。 目的因として の終点、( TÉÀOS )は、テキスト上既に指摘されていたことであるが、ここで目的因の問い においても述べられるように、ただ生成の末端(白XOTOV ) に位置するということだけで

(20)

はなく\ 善いものとして終点に位置しているのである(B2:194a32-33,B3:195a23-25) 。

さて、ここで始動因の探求と (明示的ではないにせよ)質料因の探求において、必然性 が問題となっているのである。 これは何か唐突な印象を与える。 しかし、例えば、後続す る議論(B9)で必然性が問題になるからであるといった解説では順序が逆であり、その議論 の背景となる先行自然学者が原因を必然性に還元したこと(B8:198b12) とも直接関係しな い。 むしろ、ここでの必然性は、 アリストテレスの学問構想という独自の視点から導入さ れていると考えるべきであろう。

つまり、 r分析論後書』において確認したように (第2節) 、 アリストテレスは、 「或 る事象を知っている」ということの成立を\ その事象の(i)原因の認知と(i i)必然性の認 知において捉えた。 学問(知識)が成立するのも、それに即してのことであった(^Po.A2:

71b9-12,17) 0 r自然学』において、既に、自然による生成変化を知るには、(i)その原 因を認知しなければならないとされた(B3:194b17-20,B7:198a22,cf.Al:184a15-16)。 しか

し、他方、そうした原因の認知が、自然学という学問として成立するためには、(ii)必然 性の認知を要するのである。

それは四原因説の問題の中で次のように考えられるであろう。 原因は四つの仕方であり、

自然学者はそのすべての仕方で認知しなければならないとする(B7:198a22-24, 198b5)。 と

ころで\ 四原因を認知するということには、知の対象となる事象が四原因によって分節化 し規定するということが含まれるのである。 そこで、もしその四つの原因が相互に何の関 連もないとしたら、知の対象となる事象は(ii)必然性の認知の条件を充たしえず、そこに 学問の成立を認めえないのである。 しかし、その場合、始動因や質料図が予め何らか目的 因とは独立に認知され、その後に目的因との必然的連関が認知されるといったことではな い。 その探求方式に示されるように、始動因や質料因は目的因との必然的な連関のもとで 担生三認知されるのである。 つまり、ここで目的因を定点としそれに必然的に連関するも のとして始動因と質料因を問うたのは、(i 1)必然性の問題を含みこんだ仕方で(i) 原因を 問うているからである。 自然学は、学問として、必然的な連関をなす諸原因を定義として 定式化するのである。

こうして導入された始動因と質料因の二つの探究方法の定式は、後続の議論(B8-9)を支 配することになるのである(cf. ÀEKTÉOV

ðr,

,B8 init.,198bl0) (19)。

第5節 目的論的自然学の構想

1 5

(21)

自然学は自然事象の諸原因を探求するが(Ph.B7:198a22-24) 、それら諸原因は定義や論 証の内において定式化される(APo.B8:93b7-12,Metaph.H4:1044b9-15)。 こうして、アリス

トテレスにとって、自然学は学問として成立するである。 ところで、定義や論証において 学問を構想することは、数学において当時整備されつつあった公理論的体系化を純型とし た学問構想であることは、アリストテレスの著作から明らかであるは0)。 アリストテレス にとって、学問 (知識) が必然性に関わることは、 最も基本的な事柄である。 その場合、

定義や論証は次のように必然性を保証するのである。 つまり、 命題の諸項が、

益fi

îEを通じ

て、 (自体的連関と呼ばれる) 定義に基づく関係をもつことを示すことによって、その命 題の必然性が確保されるのである(APo.A4:73b16-18,A6:74b6-7) 。 しかしながら、 自然事 象に関するこうした必然的な知識は可能であるか当然問われなければならない。

我々が観察する自然事象は、数学のような常に一定の仕方であるという性質を示さない ということを問題とすることができる。 自然事象が示すのは、「多くの場合」一定の仕方 である (生起する) ということに留まる。 アリストテレスは、確かに、学の対象として

「常に或いは多くの場合の事象Jも認めている(APo.A30:87b21-22)。 しかし、自然事象に ついてはそうした性質をもつことで既に学問の成立が保証されていると考えることはでき ない。

「自然法則」という概念を使えば、(1) 自然事象の観察から自然法則を確立する過程と、

(2) 自然法則から自然事象のあり方を説明する過程を区別して問題とすることができる。

先ず、(2) について見ておきたい。 ここでは、自然法則による自然事象の説明を、アリス トテレスの事例によらず、 ( 論理学の初等教本に頻出する) rソクラテスは死ぬ」を結論 とする事例でアリストテレスの考察の概要が見ておきたい。 自然法則「人聞は死ぬJと初 期条件「ソクラテスは人間であるJから、 「ソクラテスは死ぬJは説明される。 けれども、

こうした説明は満足しうる説明ではないと考えられる場合がある。 何故、他の維でもなく 当のソクラテスが死ぬのかということが明らかにされないからである。 そして、前提にど れほど精綴な条件を加えようとも、 こうした不満は残るであろう。 しかしながら、もとよ り\ この事例はそうした説明を意図するものではない。 rソクラテスは死ぬ」とは、ソク ラテスは人間である限り、死ぬということに尽きる。

さて、指定される前提のもとで「ソクラテスは死ぬ」のは必然的である。 しかし、そう した論理的必然性ではなく、「ソクラテスは死ぬJこと自体を必然的であると考えること

(22)

もできる。 つまり、自然法則「人間は死ぬ」が必然的である場合である。 íソクラテスは 死ぬ」は、自然法則の一事例である限りで必然的である。 個々の自然事象は、確かに、必 然的な性質をもつものではない。 しかし、学問の成立に求められる必然性は、個々の事象 がそれ自体必然的であることを要求するものではない。 個々の自然事象を担金ということ において、必然性を要求するのである。 この場合、もし、或る自然事象をその自然事象固 査ζ\ 他の(同様な)いかなる自然事象とも異なる仕方で知られ(説明され)なければな らないとすれば( íソクラテスをソクラテスとして」のように)、必然性はない。 しかし、

自然法則に包摂される限りで問題とする場合( íソクラテスを人間としてJのようにJ )、

個々の自然事象を知るということにおいて、必然性は成立するのである。 アリストテレス の見解はこの点に求められるといってよい(21)。

他方、(1)自然事象から自然法則を確定する過程の問題がある。 この場合、個々の自然 事象の連関を観察して、恒常的連関を帰納し、それを自然法則に定式化するという見方が 多くの場合とられる。 しかし、自然事象の恒常的連関はもとより必然性をみたすものでは なく、こうした見方から自然法則の必然性は確保できないのである。 それに対し、アリス トテレスの場合、自然法則は、それを確定する段階において既に必然性を確保するべきも のとして探求されているといってもよい。 彼の自然法則の内実は原因結果の連関である。

しかし、原因結果の連関といっても、個々の自然事象の連関にあるものではない。 先ず結 果となる事象を一般的に把握し、その事象との必然的連関を保証する枠組みにおいて、原 因が探求されるのである。 先に第4節で見た四原因の探求方式はそのことを示している。

つまり\ 目的因において自然事象を一般的に把握し、そうした事象を必然化するものとし て始動因が、またそうした事象の成立に(必要である意味で)必然的な質料因が探求され るのであるはZ)。 この場合、目的因と他の二原因(始動因・質料因)は、いわば概念的連 関という必然的枠組みにおいて探求されるのである。 こうして探求された諸原因が、自然 法則に\ つまりアリストテレスにおいては定義や論証に、定式化されるのであるは3)。

その内実は本論において詳述するけれども、より具体的な仕方で予め素描しておきたい。

自然事象の生成変化が、或る事象(A)から或る事象(B)へと、常に或いは多くの場合 に(以下「恒常的にJと略記する)観察されたとする。 r歯(B)が生えるJという自然 事象を例としたい。 さて、原因を問うには、先ず結果(原因づけられる事象)Bがしかる べき仕方で捉えなければならない(cf.PA A1:639b8-10,640a13-15)。 アリストテレスは、

生成したものBの機能を目的因とし(PA A5:645b15-16)、先ず目的因を把握しなければな

1 7

(23)

らないとする(PAAl:639bll-19,cf.Ph.ß7:198b4-9)。 それは「歯(B)が生成した」 と い う ことを「歯(B)が機能 (食物を岨鴨) しているJことで捉えることである。 生成結果 を目的 因(機能) として捉えることは、とりわけ 生物 の様々な活動 (生命現象)について

至極当然の ことである。

しかし他方 、 「歯(B)が生成した」と き、歯は、しか るべき大きさ、形、鋭さ、硬さ 等 の 「形態 (σxA同) Jをもっている(Z 4)。 こうした形態は、生成を目的 (機能)におい て捉えず、生成を質料的 (物理的)に理解する場合でも把握可能である。 しかし、アリス トテレスはこうした形態を、目的困(機能)を参照する仕方で捉えなけ ればならないとす る(cf.Ph.B9:199b35-200a7)。 つまり 、目的因(機能)に適合する形態 として把短しなけ ればならないのである。 これは、目的因(機能)を先ず把握すること から当然帰結するこ とである。 機能を果たすのに必要であ る限りで、形態は問われるからである(PA Al:

640b33-641a5)。 そして、こうした目的因に適合する限りでの形態は、目的因と等しいと される形相因と考えてもよいであろうは日。

さて、こうして先ず結果(原因づけられる事象)が把握され、始動因が探求される訳で ある。 しかし、こうした原因の 探求は、AからBへの恒常的生成変化の 事例 からAを帰納 的に探り当てるという探求とは区別されなければならない。始動因は、目的図・形相因と

「種(形相) J として同一である(Ph.B7 : 198a26)。 結果(原因づけられる事象) Bを目的 因(機能)において捉えた場合 、その 形相(機能に適合する形態)を授与するものが始動 因なのである(cf.EToos OÈ OEl O['()ETQl Tl TÒ K lVOÛV -fíTO l TÓO E庁TOlÓV Oε可 TOσÓVOE, Ph. r 2: 202a9) (Z b)。 つまり 、始動因の 探求はこうした概念的な枠組みの中でな されなければならないのである。

それは人工物の例でいえば、家を「家財の保護Jと いう 目的において捉えた上で、その 的に適合する形態を与 える「家 の 始動因」が" r大工」として、より厳密には「家を製 作できるもの (TÒ OlKOOOμlKÓV, Ph.B5:196b26) Jとして捉えられることに示されるであ ろう 。 こうした枠組みの中で、始動因は探求され特定されることに なるのである。 つまり 家の原因と なる「大工Jとはいか なるものであるかが探求されるのである。 こうした概念 的枠組みをもたない探求 とは、次の よう な探求である。 つまり 、Aが家を建てているのを 観察し、Aを「色の白いもの 」と 捉える場合である。 r白いもの 」は、家を建てているA に付帯している限りで原因とされるだけで、端的には原因ではない(Ph.B5:197a13-14) 。 つまり 、Aに付帯する限りで実際に 家を作るのであるが、A から離れて家を作ることはな

(24)

いのである。 アリストテレスは、概念的枠組みの中で捉えられた「大工( 家を製作できる 者) Jを自体的原因と呼び、 「色の白いもの」を付帯的原因だという(Ph.B5:196b26-27)

。 付帯的原因は「偶然Jと呼ばれるべきものである(Ph.B5:196b23-24,197a12-15,32- 35,ß6:198a5-7)。

個々の事象の連関の恒常的連関として原因連関を捉える試みは、厳密にいえばアリスト テレスの付帯的原因から原因を探る試みといえるであろう。 何故なら、個々の事象11.多様 に ( r大工J r笛吹きJ r色白」…)記述されうるからである。 何らかの概念的枠組みな しにを原因を探る試みは不可能であり、可能であるとするなら既に概念的枠組みを前提し ているはずである。

さて、こうした始動因と目的因との連関は、概念的枠組みの中で、或る種の必然性を示 している。 r家を製作できるものJが家の原因であるのは、いわば分析的に必然だからで ある。 確かに、個々の自然事象連関において、必然性はない。 しかし、このように探求さ れる始動因は、何らかの妨害さえなければ、自然( 始動因) は常に一定の目的ヘ生成させ るものとして一般的に把握されているのである(Ph.B8:199b14-18,25-26) 。 そして\ 個々 の事象で連関が成立しない場合は、質料の妨害として個々の事象で処理されるのである

(cf. GA�4:770b9-17)。

質料図の探求も、やはり目的因 (機能) の把握が先行する。 質料因は、目的因 (機能) にとって ( 或いはそれに適合する形態にとって) 、必要な本性的性質をもっ物として探求 される。 この場合も、目的因と質料因との概念的な関係において探求されている。 人工物 の例でいえば、鋸の質料は鉄であるとされるけれども、それが探求される過程は、録の機 能 (木の切断) に必要な性質(硬さ等) を本性的にもつものとして特定されているのであ る(Ph.B9:200al0-13) 。 目的因と概念的関係にある質料因とは、目的因に必要な性質を本 性的にもつ限りでの物であり、鉄そのものではない。

さて、こうして概念的に探求された四原因が自然法則に定式化され、今度はそれを通じ て個々の自然現象が説明されることになる。 既に触れたように(2) 、自然法則が必然的で ありとき、個々の現象はそれに包摂される限りで必然的なのである。 しかしながら、この とき「四原因の連関Jの個々の事例を説明する以上のことが含まれていることに注意した い。 つまり、自然学は、定義の構成要素として定式化される事象の四原因だけでなく、事 象の属性についても扱うのである( 1TEpi TWV σuμ供ßIlKÓTωVKGTd T1iv TOl aljTrlv qOT

K

oùσlav, PA Al:641a24-25)。 しかし、事象の属性も、事象の定義から帰結する限りで必然

1 9

(25)

的である。 定義の構成要素ではないけれども定義から帰結する属性は、自体的属性(

ùnÓPXOVTa Ka8'aùTá )と呼ばれる。 (自体的属性の存在を示す)命題の諸項が、益延を

通じて、ま蓋に基づく関係をもつことが示されることによって、必然性が確保されるので ある(APo.A6:75a29-31)。 こうした自体的属性への着目は、定義を確定する段階において

も役立つけれども、自体的属性の存在が必然的とされうるのは、 確定した定義を介して論 証されるときである(cf.de An.Al:402b16-403a2) (27) 0

自然学は、こうして数学を範型とした必然的知識の体系として構想されたものとみるこ とができる。

(26)

第2章 アリストテレスの目的論的自然学

前章第3節で、 r自然学』第2巻7章は、自然学の方法論を与えるものであることを論 じた。 アリストテレスの自然学は四原因をすべて探求し、 その探求は目的因を焦点として

なされるのである。 そうした探求方式の提示に続くアリストテレスの考察を検討したい。

これまでの解釈は、 「自然学」第2巻8章をアリストテレスの自然目的論、第9章を自然 事象における必然性の考察とするものであった(特に8章については、 今日の物理主義の 諸形態一一排除主義・ 還元主義・ 非還元主義一ーをめぐる活発な議論を背景として、実に 多くの研究がなされている)。 しかし、 そうした解釈は、 必ずしも明確ではなく、テキス トに照らして正確ではない。

r自然学J第2巻7章から9章に到る一連の考察は、アリストテレスの目的論的自然学 の構想、であると位置づけられる。 自然を四原因のそれぞれとして把握することがその主題 である。 自然が目的因(=形相因)であることは考察の支点となることであり、それ自体 は論じられない。 第8章は、始動因としての自然の問題であり、第9章は(先行する自然 学者に由来する)質料因としての自然の問題である。 このように一連の考察を考えるとき、

アリストテレスの自然学の方法論は全容を示すことになる。

『自然学」第2巻8章の問題を、 これまでの自然目的論という多義的解釈にかえ、 自然 を始動因と捉えることに確定し(第1節)、自然を始動因と捉えることへの障害となる見 解についてのアリストテレスの検討を考察する。 r自然学」のこの部分はこれまで様々な 解釈がなされてきた事情があり、訳出して詳細に考察する(第2-3節)。 そして、第2 巻8章の残りについて考察する。 第2巻8章は、これまで雑多な考察の集積とされていた けれども、自然を始動因と捉えることにあると見ることで、一連の考察が全体として理解 されることになる(第4節)。 最後に、自然を質料因として捉えることを主題とする第2 巻9章について考察する。 それは自然事象一般の必然性の問題を扱うものではない。 先行 する自然学者のいう「必然性(物理的必然性)Jを質料因として位置づけることにその眼 目がある(第5節)。 アリストテレスの目的論的自然学については近代科学的視点からの 批判がある訳であるが、それについては次章で検討する。

第l節 アリストテレスの自然目的論

2 1

(27)

アリストテレスは自らの課題を、 「何故( いかなる仕方で〕、自然がr何かの為に」

(ある)原因( TWV tvεKá TOU OrTlωv )であるのか(B8:198bl0) Jと設定している。 そし て、最終的にこの間いに応じて、自然はfr何かの為にJ (ある)意味での原因( OlT[O

tJfC; fvξKá TOU )Jであるとされるのである(B8:199b32-33)。 研究者は、この課題を、自然

の目的論であると考えてきた。 そのこと自体決して誤りとはいえない。 しかし、単に自然 の目的論といっても、そのことで何が意味されているのか明確とはなっていない。 先ず、

目的論といわれるいくつかの可能性を取り上げ、その中からアリストテレスの課題を限定 しておくべきである。

目的論という場合、 目的を論じていると考えられがちである。 fAはBの為にある」と いうAとBの事象の連関を想定れば、目的と呼ばれるのは、Bである。 他方、Aについて は、更に分節を要するけれども、ともかく「目的Bの為にあるもの」である。 つまり、 目 的論は、 fAはBの為にあるJという連関においてBを論じていると考えられるのである。

しかし、それはアリストテレスの課題ではない。 問われているのは、 f r何かの為にJ (ある)原因( TWV è'vεKá TOU alTlwv,cf.alTla WC; tvεKá TOU )Jである。 つまり、fA はBの為にあるJという連関においてAに当たるものが問題なのである。 他方、目的( TO

TεÀoc; )としての原因が問題であるのであれば、 r r何か ( X) の為に』という場合のそ

の何か ( X) としての原因(向 。rTl口内06 tvεKO ) Jと表現されるのである(B8:199a30- 32.cf.B2:194a28-29)。 そして、もちろん、 この二つ (A · B) は異なるのである(cf.TÓ TE yàp 06 È'vεKa Kal TÒ TOÚTOU ÈvεKロðla�Épεl, GA B6:742a20-2D (1) 。

では、アリストテレスは目的を問題としないのか。 確かに、 fAはBの為にある」とい う連関において、Aは問題とするけれども、Bは問題としないことはありえない。 しかし、

自然が目的図( n arTla n 06 ÈVεKa )であることは、「形相図としての自然(内中心σlC; WC;

μoP�ri ) Jとして前提されていることであると考えられる(B8:199a30-32,cf.Bl:193a30-

b18,B2:194a12-13)。 つまり、自然が目的因 (=形相因) であることを論述によって確定 しようとしているのではないのである。

さて、fAはBの為にある」という連関において、Aとしての原因が論じられるとして も、アリストテレスの目的論が明確になったとはいえない。 原因はすべて、 四原因に定型 化(還元) されると論じたばかりであり(B7:198a23-24)、関われる原因がその何に当たる のか問題にすべきである。

ところで、アリストテレスは、別の著作で、 fAはBの為にある」という連関における

(28)

A、つまり、 「それ(目的)の為にあること ( TÒ TOÚTOU ÈVεKα) Jの二義性を指摘して いる。 その一つは、(a)始動するもの( Ö8EV D K(VncrlS )であり、もう一つは、(b)目的 が使用するもの(

xprÌT口l 00 {VEKa )である(GA B6:742a2 2-24) 0 (a)は、生み出 す もの( TÒ YεVVnTLKÓV ) と言われ、(b)は生み出されるものへの道具( TÒ òpyavlKòv T�

yεVVωμV� ) と言われる(GA B6:742a24-25 ) 。 そして、(a)は笛を学ぶ者の教師 、(b)は 笛を学ぶ者にとっての笛 だと例示される(GA B6:742a26-27 ) 。 笛を学ぶ とは、笛吹きにな る過程にあることを 意味 する。 このと き、目的図は「笛吹き( と な ること ) Jである。

(a) 教師は笛吹き(目的) にな るまで生徒を導く者であり、(b)笛は笛吹き(目的) にな るのに必要 であり有益な物である。

さて、こうした二義性は、 rAはBの為にある」という 連関におけるAとしての原因

( r何かの為にJ ( ある)原因) の二義性を示唆する。 Aとしての原因とは、前述の二義 性(a)(b)に応じて、(a)始動するものとしての原因、(b)目的が使用するものとしての原 因である。 四原因のうち残る始動因と質料因は、それぞれ(a)(b)に位置づけてよいであろ うω 。 つまり、アリストテレスの課題として、自然が始動因であること 、或いは自然が 質料因であること という二つ の可能性が 考えられるのである。

アリストテレスの課題を示す「自然が「何かの為にJ (ある〕原因である」という表現 から考えられるのは以上のこと である。 自然が始動因であることを論じるのか、或 いは自 然が質料図であることを論じるのかについては、実際の議論によって明確にされなければ な らない。 その意味は、 r自然学J第2章7巻までの概要は本論前章 で振り返ったけれど も、その範囲ではその何れの原因であると も判断できないということ である。 例えば、自 然が質料因であるという 見解は先行する自然学者のものであり、アリストテレスの見解 で はない。 それゆえ、自然が始動因であることを論じているのだという解釈は成立しない。

アリストテレスは自然が 形相でありか質料であるかという論争において、形相説に優位性 を認める(B1)。 また 、 「偶然論(B4-6 )Jの中で、自然は ( 或 る目的に適合する結果を もた らす)始動因であるとされる(B5:196b21-2 2,B6:198a2-4,5-13,cf.B4:196a30) ω 。 しか し、自然が質料であるという見解を放棄した訳ではないのである(B8:19 9a30-31)。

アリストテレスの実際の議論によって、初めて、自然が始動因であることを論じてい る ことを確定できる。 議論の中から特に次の二点を指摘してお きたい。 一つは自然 と 技術の 類比である。 一連の議論の中で、この類比は三回なされる。 と ころで、技術によ る製作に おいて、技術 (者)が始動因の位置を占めることは明 らかであるω 。 もう一つは、先に

2 �

(29)

(前章第4節)四原因の探求方式との照応である。 すなわち、議論に見られる次のような 原因としての自然理解は、始動因の探求方式に照応するのである。

自然によるすべてのものは、常に或いは多くの場合にそのように生じる TTdvTG Tb中úcrεl lÌ QlEl OUTωy(yVETGI可WS E1Tl TÒ 1TOÀ心(B8:198b35-36) 自然による生成は、何かの妨げがなければ、盆笠そのようにある

EV OÈ TOlS中UσlKOlS aEl OÜT�S, avμ� Tl Èμ1Tooiσn (B8:199b25-26)

*始動因の探求方式(B7: 198b5-6)

何が必然的に (端的に或いは多くの場合に)目的を生成させるか

ÒTl EK TO心OE aváYKn TÓOE ( TÒ oÉ ÉK TOÚOE lÌ à1TÀ�S lÌ ws E1Tl Tら1TOÀÙ )

さて、 アリストテレスの目的論とされてきた『自然学」第2巻8章の課題が、自然が始 動因であるという点にあることを予め概観した∞ 。 しかし、 アリストテレスの目的論と は、自然が始動因であることを意味すると言っている訳ではない。 アリストテレスの自然 事象に関する目的論の全容は、むしろ四原因の探求方式に求めるべきである。 つまり、目 的因を焦点として他の原因を探求する仕方である。 四原因説とは、自然の探求において、

自然が四つの仕方で原因であることなのである。 先行する自然学者の自然把握といえる

「質料としての自然」さえも、 アリストテレスのこうした目的論の中でしかるべき位置を 占めることになる。 つまり、先行する自然学者の「必然性Jを、目的の生成にとって必要 なものとして、質料因に位置づけるのである。 しかし、これは後続の第2巻9章の主題と なる問題である。

第2節 目的論的自然始動因説への難問

アリストテレスは先ず自らの課題に対する難問を吟味する。 アリストテレスは課題に向 かうとき、予め難問を総覧吟味するという方法をとるが、そうした方法に則っているので ある。 難問となるのは、(1)自然は或る目的の為に作用するという見解への否定と、(2) 自然は必然的に作用するという見解の主張である( TlωÀÚEl T1ÌV �úσlVμlÌ tVEKá TOU 1TOlεIy_. .. aÀÀ'... É� avóYKnS ) 0 (1)は、自然が或る目的の為に働く始動因であるこ

参照

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