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高松塚古墳壁画の難解五題

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Academic year: 2021

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高松塚古墳壁画の難解五題

著者 網干 善教

雑誌名 阡陵 : 関西大学博物館彙報

巻 34

ページ 2‑3

発行年 1997‑03‑30

URL http://hdl.handle.net/10112/00024147

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高松塚古墳壁画の難解五題

網 干 善 教

歳月のたつのは早いもの、昭和47年 (1972) 3月21日に、奈良県高市郡明日香村平田所在の 高松塚古墳で、星辰・日月・四神・人物群像の 壁画を発掘してから、今年 (1997年)は25年に なる。四分の一世紀である。

高松塚古墳の壁画は発掘調査の当初から大き な関心がもたれ、考古学のみならず、文献史学、

民俗学、美術史学、天文学その他関連諸学問領 域から多くの意見が発表された。また、中学校 や高等学校で使用される日本史の教科書の口絵 にも掲載され、現地では史跡公園としての整備 もすすみ、現在も多くの見学者が来訪される。

高松塚古墳は、昭和47年6月17日、史跡に指 定、昭和48年4月23日、特別史跡に、昭和49年 4月17日、壁画を国宝に、出土品は重要文化財 に指定された。

ところで、発掘調査の過程では一見してすぐ その意味が判明する事象もあれば、ある程度の 時間を置いて、調べたり、分析したりして、漸 く判明することもある。 10年とか20年の時間と 手数をかけることによって見通のつくこともあ る。また、いつも心にかけているが、どうして も解釈の糸口をみつけることのできない課題も ある。高松塚古墳も場合も、一見して理解のでき たものもあれば、星辰の様相や東西両壁の人物 像の位置(床面からの高さ)の問題、海獣葡萄 鏡の同型鏡、遺体の葬位などは、資料を検討する なかで大体のことは理解ができた。ところが、最 初から話題となった正確な築造時期(年、月)

や被葬者の想定などは、種々の意見が述べられ ているが、これらの問題は確定できそうにない。

ことによっては永遠の謎となる可能性もある。

そこで、発掘調査当初から注意して観察し、

問題意識をもってみている壁画についても、甚 だ難解な課題が多くある。そのうちの若干を挙 げて将来に備えたい。

その1つは、天井の星辰図である。星辰の思 想的背景は恐らく中国占代の分野説によるもの であるとは推定できるが、現在中国にみられる

『新儀象法要

J

や 「蘇州南末淳祐天文図」など

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の星辰図と対比すると、何かの星辰図を手本と していることは間違いない。では、その粉本と なったものは一体何であるかということを究め たいが、これは至難なことかも知れない。

2つ目は、高松塚古墳の石榔内の東西両壁に 男、女像各4人が群像形式で描かれていた。そ れはそれでよいが、何故、 4人なのか、 4人の 群像は何を意味しているのか。すなわち 3人以 下ではいけないのか、 5人以上ではいけないの かということである。有名な唐の永泰公主墓の 壁画には多数の女子像が描かれているし、高句 麗の双橡塚や徳興里古墳など壁画でも、多くの 人物が描かれている。それに対して、高松塚古 墳の東西両壁の男女群像は共に4人というのは 何か特別な意味があるのだろうか。単に適当に 4人描いたとは考え難い。何かの理由があるだ ろう。それをどう考えるかという課題である。

先般、朝鮮民主々義人民共和国の開城市郊外に ある高麗第31代恭慇王陵の側壁面に各面に4人 の人物像が描かれてあり、そのレプリカが開城 博物館で作製しているという情報を得て、開城 に赴き実見することができた。確かに4人の人 物像が描かれてはいるが高松塚古墳のものとは 異なり、これをもって高松塚の問題を追究する

ことは困難であると思った。

25年間、なぜ4人なのかの手懸をつかもうと

思って考えてきたが、今のところ確かな解答は

. 

得てない。「八侑」や8人8列に並ぶ「盾乾陵会 葬人像」をはじめ、中尾山古墳で考えた八角形 ことを想定してみたこともあるが、今なお解答 を得ていない。

3つ目に東西両墜の女了群像図を見てみよう。

裳に注目してみると、両者共に、手前側に描か れている2人は縞文様のカラフルな裳を着用し ているのに対して、遠方側の2人は共に単色と 思われる裳をつけている。これはどういう違い なのか。身分差なのか、職種差なのか、あるい は別なことを表現しているのかという問題であ る。特に問題とする必要はないという意見もあ るかも知れないが、意識的に描き別けられてい

. 

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るということであれば、考えてみることも課題 であろう。ただ、難題の一つであるから、将来 どのように展開したらよいのかという方向性が 定まらない。同様なことは上衣についてもいえ る。色別が何を表現しているのかということに も疑問が生じ、さらに男子像についての同様な 問類にも発展するかも知れない。

次に、 4つ目に持ち物である。男子像の8人 共に各々持ち物が描かれている。そのうち東壁 の南端と南より 3番目、西壁の南より 3番目の 人物は袋状のものをかける。また、東壁の蓋を もつ人物、北端の茶色の袋を担うもの、西壁の 南から2番目のやや長い茶色の袋を担うもの、

そして西壁の胡床、向って右端の杖状のものを もつ人物、同様に女子群像も各々2人宛に持牧 が描かれている。この持物の種類は何を表わし ているのだろうかということである。壁画発見 当時、 「貞観儀式』や 「文安御即位調度図」など と類似すると指摘されたことがあったが、これ には反論もあった。また、永泰公主墓や中国の 壁画古墳の出行図との共通性も指摘されたが、

これも問題にならなかった。高松塚古墳壁画、

特に人物論を述べる場合は、この点もふくめて 考えるべきであろうと思う。ただ、これは難解 かも知れない。

5つ目の課題を挙げておこう。高松塚古墳の 東壁中央に青龍図が描かれている。青龍は四神 のうち、束方の星宿から生れた図像であるが、

その青龍の頸に頸輪のような文様が描かれてい る。この頸に巻く帯状のもののなかにX状の文 様がある。

ところで、奈良西の京薬師寺本尊台座の東面 に表現されている青龍の頸の部分をみると高松 塚古墳のものと同じ帯状のものがあり、そこに

x

印の文様が刻まれている。集安の四神図の青 龍屈にも高松塚古墳の青龍図と同じものが描か れている。また、江西大墓の青龍阻をみると同 じ位置に現状の頸飾を描いている。そして高松 塚古墳の青龍図と同じ頸飾が青龍図ではなくて、

朱雀図の頸に描かれたものもある。さらに、玄 武図の蛇の頸にも同様のものが描かれた例が、

西安東郊高楼村で1995年発掘された高元珪(756 年歿)の墓室壁画や1952年西安郊外の緯十路で 発掘された蘇思筋 (745歿)の墓室北壁壁画など 朱雀図や玄武図に多くの事例がある。

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高句麗江西大墓青龍図

四神の思想といい、こうした頸部の表現の共 通性をみると、表現の偶然の一致ではなく、何 らかの共通の意味があり、それが彼我の壁画に みられるものと思われる。それは一体何を意味 しているのだろうかという疑問をもつ。

所詮、考古学研究は発掘調査をすれば何でも 判明するというものではなく、湯合によっては 難解の課題が生じてくるものである。それがま た研究の深化につながるものであろうと思う鳥

参照

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