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留学生の受け入れに関する諸問題と提言−日本語教育と 日本文化の教授の重要性を中心に−

国語教育講座   勝俣隆

過去何回かに亘り、留学生に対して、日本語や日本文化の教育を行う機会を得た。専門 が日本の古典文学なので、過去の留学生に対する教育においても、日本の古典文学の教授 を中心に教育を行ってきた。特に一昨年10月から昨年9月までの一年間、文部科学省の

日本語日本文化研修留学生2名を受け入れ、さらに大学院研究生1名と学部の留学生1名 の指導をしたことは、様々な意味で留学生教育について考える機会を与えてくれた。そこ で、今回、それらの教育実践を踏まえて、留学生受け入れに関するさまざまな問題点を指 摘し、併せて今後の留学生教育はどうあるべきかという提言を行いたい(注1)。

一、過去の留学生に関する教育実践における諸問題

最初に留学生に対して、日本語・日本文化の教育を実践したのは、京都で大学院生をし ていた時、外国人に日本語や日本文化を教授する私立の日本語学校の非常勤講師として、

アメリカの大学を卒業した私費留学生に対して、日本の古典文学を教授した時であった。

男子3人・女子4人で、私とほぼ同年代かやや上であった。全員がアメリカの大学で日本 語や日本文化について学習済みで、日系の親や祖父母を持つ人もいて、日本語は流暢で、

筆記を除けば、読み・話し・聞き取り能力はほぼ完壁だった。

全員が日本の古典文学を勉強したいということだったので、話し合いの結果、先ず井原 西鶴の『世間胸算用』を読むことにした。テキストは、武蔵野書院刊行の大学用教科書を 使用した。留学生の受講者に本文を読ませ、大体の内容を発表させ、難しい語句や時代背 景・風俗等の説明を私が加え、さらに受講者の質問に私が答える形で進めた。短編集なの で、大意を掴み易く、また話の内容は西鶴らしいユーモアに溢れていて、親しみやすい上 に、語彙等の表現面でも、現代語に比較的近い点があるので、あまり抵抗なく理解し、味 わうことが出来たようである。西鶴が生きていた時代の大阪(当時の表記は大坂)は、日 本の経済の中心地であり、現在流行のデリバティブ、いわゆる先物取引も堂島の商人が世 界で初めて創案したものであり、西洋のチェック(小切手)に当たる手形が、既に17世 紀の日本で一般的に行われていたことに、アメリカの学生は驚きの色を隠さなかった。も ちろん、そうした時代背景の説明だけでなく、日本の古典文学の面白さを理解してもらえ たことが大きな成果であった。ユーモアに対する感じ方も、西鶴の作品では、日本人と何 等変わることは無かった。日本の古典は外国人にも十分に理解してもらえるということを 実感した時であった。ある留学生は、暦の説明をした時、なぜ、日本人は、「睦月・如月・

弥生等の美しい名前で、月を呼んでいたのに、それを止めて、味気ない数字だけで表すよ うに変えたのか。非常に勿体無いことだ。」という趣旨の発言をした。よく、日本人は日本 の良さを外国人に指摘されて、初めて自覚するということが言われるが、全くその通りだ

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とつくづく感じた心我々が忘れてしまっていること、あるいはあまりに当たり前で気が付 かないところを外国人に指摘されて初めて気づくということは確かに思い当たるところで あるわ留半生を受け入れることのメリットの一つが恐らくここにあろう心留学生の日を通 LてみたU本文化の姿、あるいは、留学生が耳で開き、目で確かめた日本語の表現のi面白 さ・素晴らしさが、 i苦学生の気づきを通して、受け入れた日本人側に再認識されるのであ る。 日本人同士で、は気づ、かない点が留学生の指摘で分かるということは、実に素晴らしい ことでないか3 これこそが、異文化で、育った人との交流の成果の一つで、あろう。

勿論、逆のこともある口日本人の欠点や日本の文化の悪い点についても、留学生から多 くの指摘を受けた。日本人では当然のことが留学生には奇異に感じられることが沢山ある のである。しかし、それもまた、日本人としての自分を反省する良い機会にもなる。

西鶴が一段落した後で、同じく、近世文学の巨匠、近松門左衛門の『女殺し油の地獄』

をi涜むことにしたD 今回は、活字でなく、江戸時代の版本を使い、変体仮名で解読するこ とにした。テキストは、京都大学文学部蔵のものを使ったD これも、最初こそ、しばらく 手間取ったものの、直ぐに慣れて驚くべき速さで読むことが出来るようになった口変体仮 名も、外国人留学生には、特に問題にならないということをこの時実感した。これは、後 で述べる別の留学生の場合にも、全く同様に当てはまった。日本人にさえ難しい変体仮名 も少し訓練すれば、留学生にも十分に読解できるということは、彼らの言語能力が優れて いるばかりでなく、文字としづ伝達手段や文学という芸術が持つ普遍性を改めて感じさせ てくれた。

われわれ日本人の多くは、日本語は世界の多くの言語の中で難しいものだと思い込んで いる。しかし、私の考えでは、日本語は決して難しい言語ではない。日本語で一番難しい のは、表記の面であろう口漢字・平仮名・片仮名・ローマ字という四種類の文字を常時混 合して使う言語は、おそらく他の4000とも6000とも謂われる言語には他に例がな いであろう。実際、留学生の言語能力を見て、一番感じるのは、会話がほぼ完壁な留学生 でも、その筆記した文章を見ると、助詞の使い方の誤りや、漢字の間違いが大抵見つかる ということである。つまり、日本語を正しく書くことは確かに難しい面があろう口しかし、

日本語を会話したり、日本語で書かれたものを読むことは、他の言語に比べてさほど難し い訳でない。使用する文字数の多さ(常用漢字だけでも、 1945字ある)というのは、

確かに26文字しかないアルファベットと比べれば、初期段階での負担は大きい。しかし、

これは、既に別稿(注 2) でも指摘したが、漢字は表意文字であるので、漢字を見れば、

全くの新しい熟語でも内容の推測がつくのであり、一度基本の漢字を覚えてしまえば、後 は比較的楽に日本語の習得が可能なのである。一方、アルファベットしか使わない言語に おいては、表音文字のd性格上、一語一語覚えなければ言語は基本的に習得できないのであ って、語葉の習得に対する負担は、漢字の場合より遥かに大きいのである口

日本語が易しい言語であるというもう一つの理由は、その単純な音韻構造にある。いわ ゆる直音である五十音と、濁音・半濁音・鼻濁音・劫音・イ足音・擬音しかなく、音韻の数 は200に満たない口それに対して、たとえば、英語は3000以上の音韻を有する言語 だと言われる。それに、日本語は開音節請なので、子音の後に必ず母音が来るという極め て単純な音韻の形態を持つ。一方、英語等は閉音節語で、あって、母音の後に子音が来るの が基本だから、複雑な上に、日本語に存在しない音韻や子音で終わる単語の発音は日本人

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には極めて難しいのである。つまり、日本人には、英語の3000以上の音韻は正確には 発音不可能なのである。特殊な訓練をして、始めて 英米人の英語の発音に近づくことが 出来る。しかし、それでも完壁にはなかなかし、かない。 rlJと rrJ、rbJと rvJの区 別はよほど訓練しないと正確には出来ない。それほど英語は発音が日本人には難しい言語 なのである。日本人が英語に上達しない最大の原因がそこにある。つまり、英語の音韻は、

複雑すぎて、日本人には聴き取れないので、その結果、話すことも困難なのである。また、

英語は大母音推移等の大きな音韻変化を歴史上蒙っているので、表記と発音の不一致が極 めて大きい言語である。 ドイツ語・スペイン語・イタリア語等がローマ字の発音にごく近 く、表記と発音のずれが少ないのと好対照を成している。つまり、発音の面から言えば、

ドイツ語や関音節語のスペイン語・イタリア語・ポルトガル語等の方が日本人には、ずっ と発音が易しい言語なのである。日本人にとって最も発音の難しい言語の一つである英語 が世界を席巻してしまったことが、日本にとっての大きな不幸である。まだドイツ語やス ペイン語・イタリア語等が世界共通話になっていた方が日本には幸せであった口(注3)。 その逆に、外国人にとって、日本語は音韻構造が単純なので、発音が極めて分かりやすく、

実際に発声しやすい言語である。やや難しいのは、促音の「つ J ぐらいで、他は、発声が 困難なものは少ない。それ故、日本語は、発音の面では、世界の言語の中でも非常に易し い部類に属する。

また、日本語の敬語法の複雑さも、日本語の難しい理由としてよく挙げられる。しかし、

これも言われるほど、難しいものではない。勿論、完壁な敬語を使用するのは、日本人に とっても難しい。しかし、少々誤用があっても、意味を取り違えられる虞れはまずない。

その上、最近では、日本人自体の敬語法がある意味では乱れ、ある意味では、簡素化して きている白敬語が身分的・年齢的な上下関係、に基づくものであることはいうまで、も無い口 身分制度が厳格な時代には、日本語の敬語は、非常に厳格な規制力を持っていた。たとえ ば、明治時代には、親に対しでも尊敬語を使うのが一般的で、あった。しかし、戦後、民主 主義がまがりなりにも普及し、家父長制度が制度上はなくなり、いわゆる華族制度等の封 建的身分制度も崩壊すると、家庭や社会での年齢的・身分的な上下関係が極めて希薄に成 ったことは否定できない口また、マスコミ等でも、過剰な敬語の使用を止めようという傾 向が強まり、敬語の使用が少しずつ減少に向かっている。その結果、少し前までは尊敬語 を使用していた場面で、尊敬語を使用せず、丁寧語で済ますような表現が増加している。

本来、尊敬語は動作主に対する尊敬を表す言葉だから 聞き手に対する尊敬を表す丁寧語 とは別物なのだが、代用して使うような表現がかなり増えている。特に、動作主と聞き手 が一致する場合は、丁寧語が尊敬語と誤解されて使われていることもあるが、それが頻繁 に行われれば、むしろ、その形式が正しくさえなってしまうのである口たとえば、日本人 の学生が教師に対して使う表現で、「先生も、行く ?Jとは、さすがに頻繁には聞かないが、

たまには耳にするし、丁寧請を含んだ「先生も、行きますか?Jは、しばしば耳にする言 い方である。尊敬語である「先生も、いらっしゃいますか?J と頻度は変わらなし、ぐらい 多い口「先生も、行く ?Jには、身分的年齢的上下関係、がほとんど意識されず、友達関係の ような感じで話す場合に使われる表現であることはいうまでも無い。「ほとんどjと言った のは、「先生Jとしづ表現に既に、尊敬の意味があるから、敬語としてはそれで十分だとい う無意識的な判断があるかも知れないと思ったからであるの「先生も、行きますか?Jは、

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fますJという γ箪表現が、動作主への尊敬認と誤解されている例であろう。しかし、使 用者の多くは、それが誤用だとしづ意識があまりないと思われるのであり、上述したよう に、恐らく、日本語の敬語は、丁寧誌が尊敬語に取って代わっていくという傾向を強めて いくと思われるo

r

先生も、いらっしゃいますか ?Jは、意識して尊敬の意味合いを出そう として使う時の表現で 現在の大学生も大半は 本来の尊敬語がどういうものかは頭で理 解してはいるのである。しかし、実際の敬語の使用にあたっては、常時どう使うべきか頭 を悩ますのが面倒で、簡便な丁寧語の表現で間に合わせているというのが実情でなかろう か。

このように、敬語法は、日本人にとっても面倒で厄介な表現法であることは間違いない が、時代と共に簡略化の方向にある。本来、人間関係を円滑に進めるための潤滑油の役割 を果たすのが、敬語の役割であろう。だから、留学生の場合は、少々使い方が間違っても、

人間関係に亀裂を生じさせるような失礼な言い方さえしなければ良いということも言える。

そもそも、敬語の基本は三つしかなし、から、その法則を留学生に理解してもらえさえすれ ば良いのである。つまり 尊敬語は動作主に対する尊敬、丁寧語は聞き手に対する尊敬、

謙譲語は動作の対象に対する尊敬という三点である。もちろん、留学生の能力や語学力に よっても敬語の使用については、大きな差があろう。従って 留学生の学力に応じて、か なり本格的に敬語法を教えるか、あるいは、もっと簡略に、丁寧な言い方としての fです・

ますj表現を使うように勧めることで、少なくとも、会話の相手(聞き手)への敬意はj

生まれる訳だから、相手を怒らせるような失礼な表現をしなくても済むことになろう。

また、これらアメリカの留学生からは、アメリカの文化や社会について、多くの知識を 得ることが出来た。日本のマスコミは、海外の報道が極めて少なく偏っていることや、日 本がアメリカと比べてし、かに安全な国かというようなことを様々な実例と共に知ることが 出来た。こうした、生の声を通して、国際理解が出来ることが、留学生との交流の大きな メリットであることは、よく言われることではあるが、実際の交流を通して、実感できる のであるO

次に、四国の国立新居浜工業高等専門学校に勤務していた時、マレーシアや中国から留 学生が来ていたが、中国人の男子学生に日本語を教授する機会を得た。テキストは中級程 度の日本語の会話の本で、中国語と対訳になっていたものである。ほとんど日本語の発音 等に問題はなかったが、「学校Jを「がこう Jのように発音し、「がっこう J と促音を入れ て発音するのが苦手だったので、その点は、指摘して直してもらったo また、同時に私の 中国語の発音で訊きたかったところ等を聞いて、発音の訂正等が出来た。留学生を受け入 れるメリットの一つが、留学生から留学生の話す正しい母国語の発音等を教えてもらえる 点にあるのも、間違いないところであろう。但し、これには、問題がある。留学生は、日 本に、この場合であれば、工学の勉強に来ているので、あって、中国語を教えに来ているの ではないということである。だから、たとえ、留学生が嫌がらなくても、留学生の母国語 の学習等は、ほんの付けたしでなくてはならない。語学を勉強したければ、やはり先ず自 分で勉強し、どうしても独りでは限界がある部分や、発音上の疑問点など、ネイティプ・

スビーカーでないと分からない部分だけを尋ねるような形にしないと、迷惑を掛けること になる。留学生の教育、留学生の利益を最優先に考えるべきことはいうまでもないことで ある。

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それでも、例外もある。高専には寮があり、その宿直も月に一・二度回ってきたo 寮生 の居室を見回る時間があり、その中国人留学生の部屋を訪れた時など、他の中国人留学生 も来ていて、私が行っている日本語教育のことが話題になり、その使用している教科書の 中国語の部分を私が読むと、もう一人の中国人留学生がとても喜んでくれて、それをきっ かけにすっかり親しくなることが出来た。私たちが外国へ行った時、日本語を話す外国人 に出会うとほっとし、嬉しくなる感覚を、恐らくその留学生も感じたのであろう。外国語 に囲まれている中で、母国語に出会うと安心感を覚えるのである。留学生の母国語をそう いう形で使うのは、留学生との交流を深めるために非常に大事なことと考える。

二、長崎大学における留学生との交流(教員研修留学生について)

長崎大学で最初に留学生と交流したのは、教員研修留学生に対する、日本語・日本事情 の授業を二回担当した時である。中国人一名、韓国人一名、インドネシア人二名の計四名 で、全員男子学生であったo 図書館でインドネシア諾の挨拶の言い方等を事前に調べてお き、授業の始まりの時に、日本語・中国語・韓国語・インドネシア語で挨拶をした。たっ たそれだけのことでも、四人はとても喜んでくれた。特に、インドネシアの留学生は、日 本人から滅多にインドネシア語などで挨拶されることもないから、大変うれしそうだった。

たとえその発音がへたくそでも良いのである。重要なのは、言葉を通して心の交流をする ことである。

私がその時感じたのは、留学生との交流は、日本語並びに留学生の母国語を通して行わ なくてはならないということである。日本語は、留学生が留学している日本という国の国 語で、あって、日本人と留学生が交流するためには、必要不可欠な言語であるからである。

次に留学生の母国語というのは、留学生にとって最も身近な言語で、あって、留学生のアイ デンティティーを示すそのものであるからである。留学生と真の交流をしようと思えば、

留学生の母国語を覚える必要があると思う。しかし、実際には、なかなか大変なことでる から、せめて挨拶ぐらいでも、留学生の母国語でしてあげれば、留学生との人間関係、は随 分異なるはずで、ある。

日本では、国際交流で必要な言語というと、短絡的に英語に結び付けて語られることが 極めて多い。外国語と言いながら、実際は英語しか考えてないような制度や試験等が非常 に多い。国際語というと、英語しか念頭にない政治家や官僚、学者で満ち溢れている。小 学校・中学校・高等学校のいずれでも外国語教育ではなく、英語教育のことしかほとんど 考慮されていなし10 その上、外国人なら、誰でも英語を話し、英語で話しかければ、どこ の国の人とも話しが出来ると思い込んでいる日本人が多い。しかし、英語は日本人が考え るほど世界に普及している言語ではない。言語人口では中国語の方が多く、スペイン諾と 英語が同程度の言語‑人口を持つ。ヨーロッパで一番話されている言語も英語ではなく、ド イツ語である。もっとも、ソ連の崩壊後、旧ソピエト圏を含めて、ロシア語に代わり、英 語が第一外国語になった国は多い。学校教育での第一外国語・第二外国請の学習人口では 英語が一番多いのは紛れも無い事実である。しかし、そうした学習人口を加えても、英語 が片言でも話せる人口は、せいぜい14億人程度だろうと言われている。世界人口 62億 人の四分のーにも満たないのである。つまり、世界の四分の三以上の人々は、英語とは全

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く無縁の世界で暮らしているのである円昨年、ハンガリーから来た留学生は、 f日本人は外 同人とみると英語で話し掛けてきて、『英語・英語』で嫌になる。外国人を見れば英語しか 話さないと思うのは、実に失礼だj と言って、非常に怒っていた。彼女は英語はペラベラ なのだが、英語を教えるアルバイトを頼まれでも、全くやる気は無いと言っていた白これ は、日本の学校教育における英語偏重、並びに日本政府の米国追随政策の弊害であろう。

この点については、「提言jの項で、意見を述べたい。

さて、その時の講義では、日本の神話を留学生の出身国である、中国・韓国・インドネ シアの神話と比較する内容で説明した。そして、し、かに日本の神話と留学生の出身国の神 話が関係、が深いかということを述べ、昔からの交流を大切にして、これからも友好を深め ましようという形で、終わった。講義は簡単な数字等に留学生の母国語を交えながら、日本 語で、行ったので、どれだけ理解してもらえたか不安があったが、後で、指導教官の先生から、

留学生は結構楽しんでいたようだとお聞きして安心した。たとえ一部始終が正確に伝わら なくても、授業者が最も得意な言語、即ち母国語としての日本語で教授することに意味が あるのだということを実感した。

現在、日本への留学生に対して、日本語でなく英語で授業を行うという風潮が広まって いる。しかし、種々の理由から、私は、これには賛成できない。一つには、授業者が日本 人であれば、ごく一部の人を除いて、英語による十分な教授は不可能だと考えるからであ る。第二に、日本に留学しでも、日本語を話せないのなら、日本に留学した意味が半減し てしまうと考えるからである口留学は、単に、学問を修得するだ、けで、なく、留学先の人々 と心の交流をし その国の文化に触れ、その異文化を味わい、自分の国の文化と比較し、

新たな人生への価値を見出す点にあると思うが、日本語を知らなければ、それらを十分に 行うことは不可能だと考えるからである。第三に、英語による授業なら日本で聴く必要は ないし、英語圏に留学した方がよほどためになると思うからである。日本に留学するなら、

日本でなければ出来ないことを学修するのでなければほとんど意味が無いと考える。この 点についても、「提言jで述べたい。

なお、他にも、教員研修留学生の歓迎会が以前から開カ亙れており、最近は、他の私費留 学生や日本語・日本文化研修留学生等も含め、教育学部全体の留学生歓迎会が開かれるが、

これも留学生との交流を行うよい機会である。日頃、交流する機会のない他の留学生とも 話が出来るし、いろいろと異文化を知って勉強になる。例えば、インドネシアから来た留 学生が「この料理には豚が使つでありますか。jと逐一尋ねる様子を見ていると、日本人の 食生活と違い随分不自由だと感じる一方で、イスラム教の戒律を厳格に守る信仰心の強さ に圧倒される気持ちも抱くものである。現在も、一般の学生にも通知をして参加を呼び掛 けているが、こうした集いには、教育学部の日本人学生に是非参加してもらい、国際理解

̲ ̲ A助として欲しいと思うo

三、長崎大学における留学生の受け入れ(日本語・日本文化研修留学生)

文部科学省の国費留学生の一環としての日本語・日本文化研修留学生二名を平成 13年 10月から 14年9月まで一年間受け入れた。カナダとハンガリー出身で、二名とも女性で、

母国の大学に在籍中で、あった。カナダの留学生は、日本の言語・文化・文学からアニメ等

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に至るまで幅広く興味を持っており、教育学部の授業で、もミ私の専円である古典文学以外 にも、日本語上級・近代文学・書道・国語学・陶芸・哲学等の授業を受講した。一方、ハ ンガリーからの留学生は、歌麿の版画に特に関心を持っと共に、日本語と日本文化全般に ついて、興味を抱いていた。授業では、古典文学以外は、日本語上級・美術史等の授業を 受けた。二人とも、ゼミに参加し、発表もした。また、次の項で述べる大学院研究生と共 に、留学生三名に対する特別授業を行った。さらに、各人について、興味に合わせて、個 別授業も行ったoゼミでは、他の日本人学生と一緒に授業を受け、交流を深めた。最初は、

中世小説(お伽草子)の『楊貴妃物語』、次に同じく、『紙王物語』を読み進めたD どちら も変体仮名で書かれたもので、最初は苦労していたが、半年も経つとめきめきとカをつけ、

日本人の学生を上回るほどの解読が出来るようになったo これは、以前、京都で大学卒業 生に実施済みで、あったので、大丈夫だと判断して実施したのだが、実際に、素晴らしい能 力を示した。終わりごろには、日本人の学生が行った翻字の間違いを指摘できるまでにな った。特別授業では、三人の希望を訊いて、やはり変体仮名の勉強をすることにした。平 安時代の作品、『伊勢物語~ w枕草子~ w源氏物語~ w 土佐日記~ w更級日記』等を手始めに、

中世・近世の様々な文学作品に出てくる変体仮名の翻字作業を行った。最初はやはり苦労 したが、二三ヵ月すると、見る見る上達し、半年もするとほとんど問題なく読めるように なった。もともと言語能力に優れているのであるうが、日本人にも難しい変体仮名がすら すら読めるようになると、私も嬉しかったし、本人たちも喜んでいた。もっとも、ハンガ リーの留学生はもっと現代日本語をもっと勉強したかったようなので、その点で、は、十分 には満足出来なかったかもしれない。

これは、受け入れた後で感じた点であるが、選考の時の提出書類には、将来日本語教師 になりたいとか、古典文学に興味があると書いであったので、ふさわしいと思って承諾し たのだが、実際には、選考の際有利になるように幅広く書いたり、あるいは、出身大学の 教師が全員同じ文面で推薦文を書いたりすることが行われているようで、必ずしも文面ど おりに信頼することは出来ないということが分かつた。ただ、古典文学に興味があるとい うのは、事実で、あったが、教師になるつもりはないとのことで、あったo 理由をきくと、ハ ンガリーでは、教師の給料が安くて、アルバイトをしないと生活できなし、から、誰も教師 になりたがらないという返答なので、驚いてしまった。小・中・高、大学を問わず、教師 はみな通訳等のアルバイトをしながら生計を立てているという。ロシアの教師が給料の遅 配で、図っているというニュースは入ってくるが、ハンガリーのニュースは、残念ながら、

日本のマスコミはまずほとんど何も取り上げないので、私たちは全く無知であることを、

思い知らされたので、あったo

個人授業では、カナダの学生は女流文学で恋愛物が読みたいということなので、古典作 品からいくつか例を挙げた結果、相談の上、『とはず語り』を読むことにした口本文を原文 で読んでもらい、現代語訳も併せて読んでもらった後で、大意を要約してもらい、さらに、

内容についてのこちらからの質問に答えてもらい、最後に解説をした。また、疑問点があ れば言ってもらい、説明を施した。また、人物関係、が複雑なので、系図等も使って説明し た。作者の自由奔放な生き方に、かなり共感を持って読んでいたようである口一方、ハン ガリーの学生については、最初、国文学と絵画の関係について、いろいろな事例や挿絵を 使って、どういう法則が見出しえるかを解説した。また、後半からは、卒論の題目が

r w

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楼十二時~ (歌麿画)の浮世絵の考察jであるのを受け、『吉原十二時』を読み、吉原での 一日がどういうもので、あったかを一時(二時間)ごとに、文章で確認し、『青楼十二時』の 十二枚の浮世絵と照らし合わせて、浮世絵の中の人物の動作や服装・調度などがどのよう な意味を持つのか、検討していったD この文章は、極めて難解なもので、それ故に、江戸 時代においてさえも読者がほとんど居なかったとされる代物である。難解である理由は、

次の通りである。一つには、作者が日本語の古語を研究していた国学者で、あったため、江 戸時代では既に使われていなかった古めかしい表現を故意に使ったり、古語の中でも使用 頻度が非常に少ない表現をわざと使用して、街学的な調子で書いている点。二つには、江 戸後期の遊郭の様子を描いたものであるので、江戸の終わりごろの花街についての知識を 十分に持たないと理解しがたい点口三つには、し、たるところに古典の引用がなされており、

古典文学について詳しい知識がないと十全な理解が困難な点。そこで、この個人授業では、

留学生が先ず本文を読み、私が現代語に訳し、さらに、語句や全体の内容について説明し、

留学生から質問を受け、さらにそれに答える形で進めた。挿絵があったので、それと文章 を対比させて、挿絵が本文のどの場面を表しているのか、留学生に答えさせ、それに対し て訂正や補足をして、説明を加えた。難語については、どうし、う意味で、使っているか、詳 しく説明した。おそらく、他では絶対に巡り合わないような表現が多かったから、日本語 の実用面では、あまり役に立たなかったろうが、日本語の表現の豊かさは実感したはずで ある。勿論、一番重要な『青楼十二時』の浮世絵との比較は、遊女の服装・姿態・持ち物・

部屋の様子に至るまで、『吉原十二日寺』と詳しく比較し、卒論で使えるように協力した。私 は、近世文学や遊女の研究が専門ではないので、近世文学専攻の先生から資料をお借りし て、それを基に説明したが、私自身、専門外の分野について大変勉強になったo

留学生を受け入れる場合の問題点のーっとして、自分の専門と完全に一致することはあ まりないということが挙げられよう。一般的に、外国、特に、欧米の研究者の研究範囲は 極めて広い口これには、幾つかの理由があろう。先ずーっには、欧米の学者は、複数の言 語を読み書き話せる人が非常に多い。もともと、ヨーロッパの言語は、インド・ヨーロツ パ語族に属するから、言語的親縁関係、にあり、文法・統語法・語葉・文字・発音等の共通 性が高し、から、複数の言語の習得はそれほど困難ではないのである。たとえば、英語・オ ランダ語・ドイツ語を並べてみれば、その類似性には驚くべきものがある。昔、大学のド イツ話会話の授業で、 ドイツ人教師が、「オランダ語はドイツ語の方言です。」と言ってい たのが実感できる。それ故、欧米人がバイリンガルで、あっても驚くには当たらないのであ る。さて、複数の言語を流暢に使いこなせれば、複数の言語・複数の文学・複数の文化を 研究対象にすることが可能となるD 従って、欧米人の研究者に fご専門は何ですか。 Jと訊 いた時に、「インド・中国・朝鮮・日本の文学と陶磁器です。jなどという答えが返ってき ても、驚いてはならないのである。日本人には、とても不可能と思える広範な研究対象は、

欧米人には不思議でも何でもないので、あって、むしろ、

r w

万葉集』巻ーのO番までの歌が 専門です。jなどと言ったら、目を丸くするであろう。二つには、上述の例にあるように、

欧米人の進取の気性、視野の広さと言った積極'性が、挙げられよう。同じ島国でありなが ら、イギリスが植民地経営によって世界帝国を築き、英語を植民地に強制し、世界共通語 と言われるものにまで発展させ、背広に代表されるイギリス文化を世界に広めたのに対し、

日本は、日本の外には、ほとんど日本文化も日本語も広められなかった閉鎖性と一脈通じ

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るところがあろう。これは、留学生の場合も同様で、専攻している分野が極めて広いので ある。カナダの学生は第一専攻が言語学、第二専攻が、日本語・日本文学・日本文化であ ると言っていたo 誰もが、最低二つの専攻を持つのだというo 日本では、あまり例のない ことである。だから、もともと留学生の関心と一致する方がむしろ珍しいとも言えよう。

逆に言えば、留学生のテーマが自分の専門と一致しないからと言って悩む必要は無いのか も知れない。精神衛生の面からも、ある程度重なっていれば十分だぐらいに気楽に構えた 方が良いのではなし、かというのが、私の体験からの結論である。それが嫌な人は、留学生 の受け入れは引き受けない方が賢明だと思う。なぜそんなことをいうかというと、ハンガ リーの留学生の場合、上述のごとく、書類の記載事項と不一致があり、受け入れた後で、

先方の希望と必ずしも一致していないことが分かり、授業の内容等でかなり悩んだからで ある。留学生の受け入れは、異文化との接触そのものであるから、ある程度太い神経を持 っていないと精神的に参ってしまうという側面があることは否定できない事実である。日 本人に通じることが、留学生に通じないことは沢山ある。西洋の個人主義の徹底さに砕易 することもある。逆に、西欧やアジアといった留学生の出身地を問わず、日本人がとっく に忘れている、謙虚さや礼儀正しさ等を留学生から示されて驚くことも少なくない。要は あまり深刻に考えずに、留学生の良い面に目を向けることだと思う。

四、長崎大学における留学生の受け入れ(学部学生、大学院研究生)

平成 13年4月から学部学生一年次へ1名、平成13年9月から大学院研究生として1 名、併せて2名の留学生を受け入れた。二人とも中国出身で、女性である。学部学生は、

入試を受けて入学したので、授業は他の日本人学生と全く同じ形で受講しており、特別な 個人授業はしていなし、。奨学金や授業料免除の申請等で推薦状を書いたり、留学生課から の連絡を伝えたりといったことが、指導教官としての仕事であり、たまに、本人から申し 出が有った時に、相談に乗る程度である。日本語が流暢に話せて、ほぽ完壁なので、日本 語教育の点で問題になることは全くない。やはり、日本語がきちんと話せ、読め、書ける 留学生は、意思の伝達という面で困らないので、望ましいと思う。上述したように、生活 指導から授業までの留学生の受け入れに関して思うことは、日本語がきちんと理解でき、

話し、読み、書く十分な日本語能力を留学生が持っていることが、極めて肝要だというこ とである。それは、留学生本人にとっても、受け入れ教官にとっても望ましいことに違い ない。

大学院研究生については、私の専円である神話研究と専攻が一致したので、受け入れを 決めた。先ず、日本神話の代表である『古事記』を留学生と一緒に読んで、その内容につ いて、解説し、質問を受け、さらに解説するという形で、個人指導を行った。その過程を 通し、神話研究の方法や問題点を指摘し、留学生は、おおよその方法を身に付けることが 出来た。非常に真面白な学生なので、よく指導に従い、よく勉学に励み、一年半で著しい 進歩を遂げ、疑問点について的確な質問をするなど、学業が大いに向上した白これも、こ の学生が日本語をほぼ完墜にこなせて、意思疎通の面で問題がないがためである。再三、

指摘するが、日本へ留学生を受け入れに当たっては、日本語教育を徹底すべきである。そ れが、本人が十分な学習成果を得るためにも、不可欠である口英語で間に合わせるような

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形では、まともな成果はとても期待できないであろう。

この大学院研究生は、三で紹介した日本語・日本文化研修留学生の受け入れと一年間時 期が一致したために、一緒に三人を対象として、指導することも多かった。三人一緒に変 体仮名を読む授業を行い、ゼミにも参加した口また、彼女は時間の許す範囲で、私の授業 を聴講した。また、個人指導の中で、日本の文学・言語・文化について、いろいろと教授 したが、逆に中国の学問・教育等の実情について、種々の知識を得ることが出来たことも 大きな収穫で、あった。国際交流は、いかなる文物・書物より、やはり生の声が説得力があ

ることは否定できない。

また、本礼儀正しさという面では、日本人学生よりも遥かに感心することが多い。多く の日本人が失ってしまった古きよき時代の「礼節j というものを、留学生の中に見出すこ

とも、留学生受け入れから得られる良い経験の一つである。

この留学生は大学院に進学するので、さらに学業の伸長が期待されるし、周囲の日本入 学生にとっても私にとっても、いろいろと良い刺激になるものと思われる。

五、提言

以上、今まで留学生に対して、日本文学や日本語、日本文化の教育や生活指導を行って きた体験から、感じたことや、問題点を指摘してきた。そこで、最後に、それらを踏まえ て、今後の留学生受け入れのあり方について、提言を行ってみたい。

1、日本語能力の重視と日本語教育の徹底を

留学生受け入れに当たっては、日本語能力を今以上に重視し、日本語が不得意な者に 対しては、受け入れ前、受け入れ後を関わず、徹底的な日本語教育を施すこと。そし て、帰国までには、日常生活を初めとして、大学の講義等が日本語で十分に理解でき るだけの能力まで、高めることo これは、本人が日本に留学し、専攻する学問を修得 するためには日本語能力が不可欠だからである。そのためには、留学生センターの日 本語教員の数を増やし、もっと充実する必要がある。

2、日本語を通しての学業達成と心の交流を

留学生が日本誌をきちんと習得すれば、様々な良い効果が期待できる。一つは、上述 のように留学の第一目的である学業修得が実現できることであるが、二つには、指導 する教官や学生、あるいは町に住む一般の日本人とも十分な交流が期待できる。これ が英語を媒介としてであったなら、とても深い交流などは出来ないであろう。さらに、

日本語を修得した留学生は、少なくとも日本に対して悪意を持つことは少なく、今後 の日本と留学生の母国の平和的交流に寄与してくれる可能性が高いという良い面があ る。ある外国語を修得すると、その人物が、その言語を話す国に対して、敵意を持つ ことが激減するとし、う傾向が指摘されているからである。

3、授業は日本語で行うべき

留学生に対して、日本人教師が英語で授業を行うべきでない。もちろん、科目として の英語の授業は別であるが、その他の授業を英語で、行っても、意味がほとんど無い。

留学生としても英語による授業を受けたいのなら、わざわざ国立大学の授業料が世界

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一高い日本ではなく、もっと安い、あるいは無料の国々で、かつ英語圏の大学へ留学 すればよいのである。日本に留学するからには、日本でなくては学べないことを学び たいとしづ気持ちがあるはずである。まして、日本語や日本文学、日本史、日本文化 等を学びたいのなら、日本語能力は不可欠である。そうでなくても、日本に留学する 必然性があるのなら、その留学の意義を確かなものにするため、日本語の能力を十分 に備える必要がある。そもそも留学生の多くは、中国人や韓国人等のアジア人で、あっ て、彼らの母国語は英語でないし、中国人留学生の中には外国語として英語を全く学 習してきていない者も少なくない。さらに、日本人の教員の英語力から言っても、日 本語と同等に十分な指導が英語で行える人はごく限られている。いい加減な英語では かえって有害で、ある。それに、日本に留学しながら、英語の授業を受けるのであれば、

日本留学の意義が半減する。上述の如く、日本語を通して初めて日本人の教員や学生 等との本当の意味での心の通い合いが出来るので、あって、英語を通してでは、十分な 意思疎通にならない。もちろん、留学生の母国語でもよい訳だが、中国語や韓国語等 が十分に話せ、書け、読める人はまだ日本人には少ない。だから、日本に留学してい るとし寸現実を直視すれば、日本語を通しての交流が最も望ましいのである。 N H K などは、 f外国人が一人でもいれば英語で会議をするjなどと宣伝しているが、これほ ど馬鹿げた考えは無い。日本人がアメリカに行った時、日本人が一人しかいなくても、

どうして日本語で会議をしてくれょうか。多数決の原理から言っても、数の多い方の 言語を使用するのが当然である。日本に来れば日本語、中国に行けば中国語、アメリ カに行けば英語で会議をすれば良いのである。多数が少数者に従うのは、植民地で奴 隷が主人に仕えるのに等しし九精神までアメリカの奴隷になりたいのなら、英語を使 えばよい口それに、外国人なら誰でも英語を話すとしづ先入見が誤りであるのは、上 述した通りである。世界全体では、英語を話さない人の方が圧倒的に多いのである。

日本人の英語病は、アメリカとの交流のみが頭にあるもので、真の国際交流には妨げ になっているとし、う事実を認識すべきだ。

4、留学生の母国語を学んで、心の交流を

受け入れの教官は、挨拶程度でも良いから、留学生の母国の言語を学んで、留学生と の会話に使用すべきである。留学生の母国語が留学生と心を通い合わせる架け橋であ る。英語を介さない、日本語と留学生の母国語を通しての交流こそが、真の異文化交 流になると確信するからである。言うまでもないが、留学生が英語圏出身なら、当然、

英語を心の交流に使うべきである。

5、高校段階から、英語に代わり、中国語や韓国語等を学べる制度作りを

私は大学の授業で国際理解論という科目を担当している口その中で、外国との交流に 使う言語が話題になった白大学生(教育学部2年生全員)の話に次のようなものが多 くあった。高校等の修学旅行で、九州地区は、地理的近接感から中国や韓国が旅行先 になることが多い。その場合、日中・日韓共に、英語を媒介として交流しているそう である。しかし、実際には、英語力がなく、十分な交流になっていないとしヴ感想を 多数の者がレポートに書いていた。私は、授業の中で、そうし、う場合なら、日本側は 中国語や韓国語を、相手は、日本語をそれぞれ学んで交流すべきだと述べた。それに 対して、確かに言われてみれば、どちらも母国語でないのだから、英語を媒介にする

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必要.は全く無いという意見があったo ただ、現実問題として、日本では、高校段階の 学校教育で、中国語や韓国語を学んでいるところは極めて少ない口しかし、韓国では、

高校段階の第ご外国語として、日本語を学ぶ学生は世界一多く、 100万人を越えてい る口日本でも、中学までは英語を必修にしても高校段階では、英語を取らず中国語や 韓国語を選択する制度があっても良いのでないか。大学でも、第一外国語も、英語以 外からも選択できるようにし、第一外国語が中国語、第二外国が韓国語といった選択 肢があっても良いはずだ。なお、ここで中国語・韓国語を取り上げたのは、なんと言 っても、古くから交流のある最も間近な国だからである。ロシアも交流は近世からに しても距離的に近い大国だから、ロシア請も将来的には当然視野に入れるべきであろ つO

6、大学の活性化のために留学生受け入れを

留守:生を受け入れることで、さまざまな良い効果が日本人学生に与えられ、大学が活 性化するのは上述のように事実である。日本人学生は異文化に触れることで、大きな 刺激を受け、学問への情熱を鼓舞されたり、外国と比較しての、日本の大学の優劣等 を直に聞き知ることが出来るのである。上述の国際理解論の授業の中で、留学生に母 国の大学や教育について話してもらう機会を設けたが、中国人留学生から、中国の大 学では入学後3ヶ月間、男女を問わず厳しい軍事訓練があるという話を聴いて、これ だけ世の中が悪くなってもまだ日本の学生は幸せかと思ったり、カナダでは5ヶ月間 も夏休みがあるという説明を聞いて羨ましく思ったりするのである。もちろん、どの 留学生も流暢な日本語で話すのであり、日本人学生は、自らの外国語能力と比較して、

なぜ2から 3年の学習で、日本語がそんなに上達するのか不思議で、秘訣を知りたい とも思うのである。私が図や表や文章を使って、日本と外国の比較をするよりも、留 学生から生の声を聴く方が迫力があってよいという意見がかなりあった。したがって 留学生が授業の中で、意見を発表したり、母国について説明したりする機会を与える ことは、授業の活性化という点でも、非常に有効な手段であると考える。ただし、た とえば中国等の広大な国では地域によって事情が大分異なるようであるから、留学生 の発三は、あくまで、留学生の出身地に関する一つの見方に過ぎないというふうに考 え、必ずしも中国全体を代表するものではないと弁えておかないと、偏った情報を与 えてしまって危険な側面もあるのではなし、かとも感じた。

7、生活面の指導はチューターの活用を

今まで、指導したり受け入れた留学生は女性が多かった。生活面のこまごましたこ とになると、男性の私ではやはり指導しにくいこともあったので、チューターのお世 話になった。幸い、女性の院生ばかりだ、ったので、同性という面で話しやすかったこ とがあるようだ。留学生の寮にも、最初の来日の日に事務から頼まれて案内しただけ で、あとは遠慮した。チューターは、留学生の精神面の支えとしても重要だと思うの で、文部科学省の規定では、半年だそうだが、何とか一年は保障していただきたい口 今回も無理にお願いして、延長していただいたことを心から感謝したい。

8、留学生受け入れ教官は、自分が出来る範囲で、あるいは、チューターや、自分の 家族等の協力を得て、日本文化についても、教授すべきである口留学生の多くは、日 本自体や、日本文化に興味関心を抱いて来日しているのであり、話で聞いていたもの

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と、実際に見聞するもので、は大いにさがあるはずだし、実物を見学してもらい、また、

行事等にも参加してもらって、日本を理解してもらうことが必要と考える。私の場合 は、ゼミで行う七夕の行事や百人一首のカルタ会等に参加してもらった。願い事を梶 の葉に書いたり、歌えお懸命に覚えたりして、楽しんで、いた。取った札の数は日本人 学生の平均を上回るもので、あったo チューターには、綾取り等を指導してもらった。

これも喜んで、いた。そういった小さな心の交流が、大きな国と国との平和的交流に繋 がっていくと確信している。

1、本人のプライパシーの問題があるので、留学生の氏名・年齢・詳しい出身地等は 一切書かず、説明に最低限必要な国籍と性別のみにした白

2、拙稿「情報時代における国語(日本語)表記のあり方について J(長崎大学教育学 部教育実践研究指導センター年報、第7号、平成7年3月)

3 、鈴木孝夫著『日本人はなぜ英語ができないか~ (岩波新書、 1999年 7月)では、

言語系統が全く異なるだけでなく、宗教・世界観・風俗習慣まで含めて、日本語と 英語、日本人と英米人は根本的に異なるので、「英語は日本人にとって、本当はひど

く難しい外国語なのです。だから生半可な勉強ではものにならないのも当然なので す。Jと指摘している。、

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参照

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