一鎌倉文庫からの再出発︵本橋︶ 一︑はじめに
終戦に至るまでの新人時代の三島由紀夫は、読者に恵まれた作家
だった。﹃花ざかりの森﹄︵七丈書店、一九四四年一〇月︶の単行本刊
行によってデビューを飾る三島の傍らには、恩師である清水文雄をは
じめ、文学に親しむ学習院の生徒たちがいた。彼等は三島にとっての
﹁顔のはっきり見える読者﹂ 1として、三島文学に多大な影響を与えた 2。
しかし、終戦によって、三島は学習院圏内にいた読者を失った。文
学者の戦争責任が追及され、日本浪曼派が批判された戦後には、日本
の古典精神を称揚する﹃輔仁会雑誌﹄、﹃文芸文化﹄などに掲載された
諸作品は、文壇のモードと乖離した作品と見なされた 3。三島自身も、
戦中には﹁天才気取り﹂であった自分が終戦後には﹁誰からも一人前
に扱つてもらへな﹂かったと回想しており、時代の変化に伴う作風の
変更を余儀なくされた 4。
このような状況下で三島が新たな立脚点として選んだのが、鎌倉文 庫であった。そこで三島は一人の編集者と出会う。木村徳三である。
木村徳三は改造社から鎌倉文庫に移った後、雑誌﹃人間﹄の刊行に
尽力した編集長である。三島の文才にいち早く目をつけ、持ち込まれ
た短編小説﹁煙草﹂を﹃人間﹄︵一九四六年六月号︶に掲載した。三
島の初期作品のみならず小中学生時代の綴方や作文に目を通していた
木村は、戦後における三島の良き理解者であると同時に、三島の作品
を方向づける人物であった。そして、三島は作品を世に送り出すため
に、木村の批評を受ける。
特に戦後間もない頃の三島文学は、メディアと三島の読者意識など
様々な要因が組み合わさることで形成された。しかし、初期の三島文
学に関する先行研究はこうした事実を考慮せず、作品の成立を作者の
内面にのみ求めている 5。例えば﹁夜の仕度﹂︵﹃人間﹄一九四七年八月
号︶は、初期の三島が文壇進出を窺い、木村の綿密な指導を受けた作
品だが、作品単体で取り上げられることは極めて稀である 6。
本稿では、雑誌﹃人間﹄の性格を踏まえながら﹁夜の仕度﹂の成立 早稲田大学大学院教育学研究科紀要 別冊
26号― 1二〇一八年九月
鎌倉文庫からの再出発
―三島由紀夫﹁夜の仕度﹂論―
本 橋 龍 晃
二鎌倉文庫からの再出発︵本橋︶
過程を分析し、初期の三島文学における﹁夜の仕度﹂の位置を考察す
る。三島が新たな発表の場を獲得するために編集者や読者とどのよう
な応答を経て作品を執筆したのか、その一端を浮かび上がらせること
は、三島文学を新たな視座から読み直す試みの前提となるはずだ。
二︑雑誌﹃人間﹄と三島由紀夫
三島にとって雑誌﹃人間﹄とは、どのようなメディアだったのか。
鎌倉文庫の雑誌﹃人間﹄は、一九四六年一月一日に創刊された。鎌
倉文庫は貸本業によって文人らの生活を支えるだけでなく、積極的
に文学作品を世に送り出す方針をとった。戦後の紙不足の状況にあ
りながらも、雑誌﹃人間﹄は戦後の出版ブームを支えた一大事業と
なった 7。
一九四六年には、岩波書店の﹃世界﹄、筑摩書房の﹃展望﹄をはじめ、
戦後の言説空間を担っていく雑誌の多くが創刊された。戦争に疲弊し
た人々は、鎌倉文庫などの貸本屋を通じて様々な文学作品を読み、新
たなメディアに注目していく。その中でも﹃人間﹄は文壇的・商業主
義的な方針からは一線を画し、あくまで﹁文人のための文人の﹂出版
社という方針を取った 8。その中心的な存在が、木村徳三であった。
東京帝国大学仏文科から改造社に入社し、﹃文藝﹄の編集に携わっ
ていた木村は、戦前から井伏鱒二や阿部知二など多くの作家の知己を
得て、編集者としての手腕を振るっていた。戦時中の改造社解散に伴
い養徳社に移った木村を待っていたのは、鎌倉文庫の役員である川端 からの勧誘だった。
木村は鎌倉文庫でどのような雑誌を目指していたのか。﹃人間﹄は
小説や評論だけでなく、詩や戯曲など様々なジャンルを扱っていた。
文学の領域のみならず、思想系や芸術系を幅広く取り入れた﹃人間﹄
の特質は、木村の日本文学への批評意識に支えられていた。木村の回
想を引用しよう。
私が新しい文芸雑誌―文学・思想・芸術を総合する一種の文化
雑誌的な文芸雑誌の実現を意図したのは、︵中略︶当時、神格化
に近い評価を受けていた志賀直哉氏の文学がヨーロッパでは全く
通用せず、志賀氏はマイナーポエットにすぎないという評価しか
与えられていないことを聞いたことにあった。︵中略︶由来私は、
志賀作品を極上とする私小説が連綿として現代文学の厚い底流を
占めている現状を疑問視し、不満の気持を持ち続けていたので
ある 9。
木村は文壇的な﹁私小説﹂、すなわち作者の身辺雑記的な作品を批
判し、世界に通用する新たな日本の文学的潮流を生み出そうとする。
﹃人間﹄は若い知識層を読者として想定し、外国文学の紹介 0、外国文
学に対抗しうる長編小説の掲載を企図して出版された。単に人文系
ジャンルの網羅的な掲載だけではなく、読者の眼を海外へと向けさ
せ、日本文学に新たな潮流を生み出すことが﹃人間﹄の使命だったの
である。このようなメディアの勃興を目にした三島は、戦後に入って間もな
三鎌倉文庫からの再出発︵本橋︶ く作品を様々な出版社に持ち込み、掲載を懇願する。一九四四年に初の単行本﹃花ざかりの森﹄を刊行して一定の知名度はあったが、あくまで学習院圏内での評価にすぎなかったため、有名雑誌への掲載を目論んだのだ。戦後になって、モードの変わった文壇に認められるには、
有名雑誌から作品を世に送り出し、存在感を示さなくてはならない。
発表する媒体の社会的価値は、新人の三島にとって切実な問題だった
のだ。しかし、三島の熱意とは裏腹に、作品を掲載するメディアはなかっ
た。﹃文藝﹄の編集者だった野田宇太郎は、三島から﹁よく、作品集
を出したいがよい出版社はないかとか、用紙はこちらで持つが、出す
ところはないでしょうかなどという相談﹂を受けたと明かしている !。
また、﹃展望﹄に携わっていた臼井吉見は﹁﹁展望﹂をはじめて間もな
く、三島の小説が八篇もちこまれ﹂、臼井が﹁一種の天才だ﹂と評価
したところ、中村光夫が﹁マイナス百五十点だ﹂と言い放ち、掲載が
見送られたと述べている @。
こうした状況で、三島は川端のもとに﹁煙草﹂と﹁岬にての物語﹂
を持ち込む。川端は木村に両作品を見せ、木村は﹁作為﹂がすぎる﹁岬
にての物語﹂ではなく、﹁素直で、新人作品にはめずらしく達成度が
高﹂い﹁煙草﹂を採用した #。三島の﹁新人﹂という立場が考慮された
のである。この掲載決定により、三島は鎌倉文庫と距離を近づけるこ
ととなる。
しかし、﹁煙草﹂は掲載が後回しにされただけでなく、文壇から肯 定的な評価を得ることが出来なかった $。そこで三島は川端や木村に指
導を仰いで改稿を重ねることで、﹃人間﹄への掲載を実現するだけで
なく、文壇に評価される作品を生み出そうとする。川端と木村の立場
に寄り添い、両者の文学観を取り入れた﹃人間﹄に相応しい作品を執
筆すること。三島が戦後に採った戦略とは、掲載の決定権を持った二
人から﹁庇護﹂を得ることで自らの作品を﹃人間﹄に掲載することだっ
た %。文壇への進出を熱望する作家の意図、そこから生じる対メディア、
対編集者意識によって、構想されるテクストの性格が規定されていた
のだ。以上のように、三島は川端、木村の意図に沿う作品を構想する。特
に、木村から指導を受けた﹁夜の仕度﹂は、三島が﹃人間﹄の方針に
実作をすり合わせていく過程を窺うことができるテクストである。し
たがって、草稿や創作ノートを含めてその成立過程を分析する必要が
ある。
三︑﹁主人公﹂の変更
戦後になって三島が最初に執筆したのは、彼自身初となる長篇小説
﹃盗賊﹄︵真光社、一九四八年一一月︶だった。執筆に際し、三島は自
らの小説理念を創作ノートに書いている。いわく、﹁僕は現実に絶対
にありえないロマンチックな心理をあくまでリアルに具現しようとす
るレアリスト﹂を目指したのである ^。
その具体的な方法とはいかなるものか。川端への書簡を参照しよ
四鎌倉文庫からの再出発︵本橋︶
う。三島によれば、戦前に自らが依拠した日本浪曼派などの﹁浪漫主
義は表現の凅 ママ渇から必然的に耽溺的な古典主義﹂に陥ってしまう。そ
のため、﹁内面的衝動をリアルに客観的に作品の上に具体化するので
はなく、一旦無機質なものに還元してメカニックに構成し排 ママ列﹂する
ことが必要だという。﹁内面的衝動を一瞬一瞬の形態に凝結せしめて、
時間と空間の制約の外で、人工的に再構成﹂すること、つまり人間の
心理や無意識をさらに分解し、その構造を論理的に﹁人工的に再構成﹂
することによって作中人物の心理にリアリティが生まれると考えたの
だ &。三島にとって心理のリアリティとは、論理的に心理が説明可能か
否かにかかっていたのである。
注意したいのは、心理を﹁人工的に再構成する﹂ことがなぜ心理
を﹁リアル﹂に再現できるのか、なぜ論理性が必要なのか説明されて
いないことだ。それゆえに﹃盗賊﹄は川端から指導を受けて三度も改
稿を重ねるも、こうした小説作法と実作の乖離を自覚し完成を放棄す
る。この段階では心理と論理の関係など、多分に曖昧さを残したまま
だったのだ。
こうした経緯を経て構想されたのが、﹁夜の仕度﹂である。三島は
﹁小説の稀代の﹁読み手﹂﹂である木村から﹁技術上の注意をいろいろ
と受け﹂たと述べ、﹁夜の仕度﹂が﹁木村氏との共作と云つても過言
ではないほど、氏の綿密な注意に従つて書き直され補訂された﹂と明
かしている *。﹃盗賊﹄の頓挫を経験した三島にとって、編集者からの
指導を受けることは作品掲載のために必要不可欠だったのである。 あらすじを確認しよう。戦中の労働奉仕から一時的に帰ってきた主人公の芝は恋人の頼子と再会し、逢瀬を重ねる。頼子は芝との接吻によって結婚を決意し、芝と肉体関係を結ぶ計画、すなわち︿夜の仕度﹀
を進める。頼子と共に暮らしている頼子の母は、頼子の策略によって
かつて恋愛関係にあった牧野博士と旅行に行くよう仕向けられてい
た。頼子は母と牧野博士が外出する間に芝と結ばれようとしていたの
である。頼子の母はかつての自分と頼子を重ね合わせ、頼子の意図を
知りつつも外出する。芝が頼子の実行した︿夜の仕度﹀に気付いて戦
慄したところで物語は終わる。
作家の伝記的事実を踏まえれば、﹁夜の仕度﹂は三島が戦中に経験
した失恋が反映されたテクストであり、作者の実体験が作品の成立に
大きく影響したことは否定できない (。ただし、完成稿の﹁夜の仕度﹂
が当初構想されていた物語と異なっていることには注意が必要だ。
﹁夜の仕度﹂はもともと﹁夏のさきがけ﹂というタイトルで構想さ
れていた。草稿は残されていないが、物語の大枠は﹁夜の仕度﹂の創
作ノートから窺うことが出来る。﹁夏のさきがけ﹂では、芝と頼子の
接吻のあと、芝が頼子の母と肉体関係を持つ場面が確認できる。
二階の寝室へかへつた頼子は、自分が守り了せたものの誇りに
ついて考へた間はわづかにすぎなかつた。それを全く価値のない
ものに思はせるやうな不安がつきあげ、ひろがつてくるのだつ
た。彼女は闇のなかで冬のやうに身をふるはせてゐた。/庭にお
ちてゐる階下の芝の部屋の灯が消えたら 自分はおしまひだと思
五鎌倉文庫からの再出発︵本橋︶ つた。/彼女は祈りつゞけた。五分たつた。十分たつた。母は上つて来なかつた。つひに、その灯はきえて芝生の庭はひつそりとした。頼子は祈りつゞけてゐる。何もきこえない。頼子は朝まで祈りつゞけたであらう。︵/は改行、以下同様、﹁﹁夜の仕度﹂創
作ノート﹂︵整理:佐藤秀明、﹃決定版三島由紀夫全集一六﹄新潮
社、二〇〇二年三月︶より引用︶ )
﹁夏のさきがけ﹂は芝と頼子の接吻の後、芝が頼子を誘惑する設定
が見られる。頼子はその場では貞操を守るが︿夜の仕度﹀を進めてい
く。そのうちに芝と頼子の母が関係を結ぶのだ。頼子の祈りが結末部
分に据えられていることから、物語全体が頼子の内面に回収されてい
ることが分かる。
﹁夏のさきがけ﹂を改稿した初稿の﹁夜の仕度﹂では、頼子の母と
芝の関係が削除されており、完成稿に近い設定に変更されている。興
味深いのは、完成稿において主人公であり、三島の実体験を反映した
存在とされる芝の設定である。創作ノートの﹁最後の一行﹂と書かれ
た頁には、頼子の︿夜の仕度﹀に戦慄する芝の内面が書かれている。
戦争のせゐだ。おれのせゐぢやない。︹﹁戦争のせゐだ。おれ
のせゐぢやない。﹂抹消︺それにしても、男がすべき夜の仕度を たつた一度の接吻を処女が見事に整へてしまつたのだ。
頼子の︿夜の仕度﹀を︿戦争﹀という枠組みから意味づける語りが
構想されていたが、三島は一度削除した。だが、﹁戦争のせゐだ﹂と
いう文言は、完成稿で採用されることとなる。 構想段階では、二人の接吻の後に﹁芝の猥談、挑発、誘惑、悪習を教へ込む﹂場面が存在する。芝が自ら頼子を誘惑した一方で、芝が頼子の︿夜の仕度﹀に戦慄することとは矛盾している。三島もこの問題を自覚しており、﹁*頼子に夜の支 ママ度をさせる心理的生理的必然性な
かるべからず。︵この描写必要なり︶﹂と創作ノートに書き込んでいる。
﹁頼子に夜の支 ママ度をさせる﹂という記述は、芝が頼子を誘惑し、︿夜の
仕度﹀を意識させてしまうことだと考えられる。構想段階で問題と
なっていたのは、︿夜の仕度﹀に戦慄するはずの芝が頼子と接吻する
内的な必然性がなかったことなのだ。このような構想はどのように変
更されたのだろうか。
創作ノートには、﹁◎夜の支 ママ度改稿﹂と記された頁があり、そこに
は﹁主人公を客観的に扱ひ、即日帰郷で肺病と分りし男にする﹂と書
かれている。
﹁夜の仕度﹂の初稿でも芝の肺病の設定は確認できない a。したがっ
て、創作ノートは推敲や木村とのやり取りを経て加筆されたと推察さ
れる。﹁夏のさきがけ﹂の末尾が﹁夜の仕度﹂に反映されていないこ
とから、創作ノートの﹁夏のさきがけ﹂がはじめに書かれたと考える
べきだろう。三島は創作ノートに構想を書き、草稿を完成させて木村
に批評を乞うた。そして、創作ノートに新たな案を加筆し、第二稿に
着手したのである。
注目すべきなのは、﹁主人公﹂という部分である。佐藤秀明が指摘
した通り、﹁夜の仕度﹂は三人称で書かれ、主人公の芝だけでなく頼
六鎌倉文庫からの再出発︵本橋︶
子や頼子の母まで心理描写が及んでいるために﹁作品から遡及的に想
定される﹁作者﹂として浮かび上がってこない﹂ように思われる b。だ
が、改稿過程を踏まえると、試行錯誤を経て芝が﹁客観的﹂に扱われ
る﹁主人公﹂として設定されたことが浮かび上がってくる。
創作ノートにある﹁主人公﹂とはどのようなものか。三島の主人
公に対する見方は、﹁夏のさきがけ﹂と初稿の﹁夜の仕度﹂を比較す
ることで浮かび上がる。﹁夏のさきがけ﹂が頼子の祈りで物語が終わ
るのに対し、﹁夜の仕度﹂は芝の戦慄で幕を閉じる。﹁主人公﹂の内面
と物語の結末が密接に結びついているのだ。こうした変更を踏まえれ
ば、主人公の内面とテクストの関係をめぐる三島の認識が見えてくる
だろう。三島は、物語全体が主人公の内面によって意味づけられると
考えたのではないだろうか。石原千秋は小説における﹁主人公﹂の機
能について、以下のように論じている。
主人公の魅力は物語を作り出し、また同時に、読者をある一つ
の物語に拘束する働きを持つのである。その時、読者は物語を
支える因果律が主人公の内面によって規定されることを忘れてい
る。いや、そもそも物語が因果律によって成立していることを忘
れている。このことが、小説が物語によって構成されていること
をも忘れさせる c。
﹁夏のさきがけ﹂における頼子の祈りは、物語の因果を統合する。
﹁夏のさきがけ﹂は︿夜の仕度﹀をしながらもそれを果たすことが出
来なかった頼子の内面によって物語が成立するのだ。読者は頼子の内 面を中心に物語全体を意味づけ、頼子の悲劇として読むことになる。
頼子に︿夜の仕度﹀をさせつつ頼子の母と関係を結ぶ芝には、内面描
写が及んでいながらも﹁頼子に夜の仕度をさせる心理的生理的必然
性﹂が描かれておらず、物語全体を統括する機能が備わっていなかっ
た。つまり、構想段階の﹁夏のさきがけ﹂と初稿段階の﹁夜の仕度﹂は、
いずれも物語を統括する主人公の心理的必然性に乏しく、物語全体が
意味づけられていなかったのである。
以上のように、三島は﹁夜の仕度﹂を構想する上で﹁主人公﹂の内
面と物語の因果を結び付けようとしていた。そして、改稿を経て頼子
ではなく芝が﹁主人公﹂として設定される。﹁主人公﹂の変更によって、
物語はどのように変化したのだろうか。
四︑小説作法としての︿戦争﹀
改稿後の﹁夜の仕度﹂では、芝と頼子の母の関係が削除されている
だけでなく、芝が﹁即日帰郷で肺病﹂を持った青年として﹁主人公﹂
とされている。なぜ﹁肺病﹂が﹁主人公﹂と関連するのだろうか。
昭和初期において、﹁肺病﹂は﹁破滅的な、しかも天才的な生き方
をする者の病というイメージ﹂が付されていた d。柴山五郎作によれば、
肺病の猛威を知るためには﹁教育ある才能ある有為の人物、若くは後
来有為の人物となるべしと嘱望さるる青年﹂がいかに﹁肺病﹂に感染
しているかを見ればよいのだという e。スーザン・ソンダクの論じたよ
うな、現実の病とは乖離した﹁隠喩としての病﹂が流布していたので
七鎌倉文庫からの再出発︵本橋︶ ある f。
﹁夜の仕度﹂において、﹁肺病﹂は芝の貴種性を象徴するのみならず、
芝が頼子と接近する誘因として語られている。語り手は﹁肺病﹂の診
断が下されたことをきっかけに頼子に欲望を抱く芝の内面を語って
いる。
それは軍隊用語で肺尖カタルのことだつた。その時彼がうけた
打撃と、それ以後彼を支配してゐる慎重さと投げやりのまじつた
生活態度と、ましてや、その打撃が頼子に対する欲求を決定的に
したことを、感づかれたくない芝は、磊落な調子でさう答へた。
芝は﹁肺病﹂と診断されたゆえに徴兵を免れている。﹁誤診﹂の可
能性はあるが、重要なのは実際に﹁肺病﹂かどうかではなく、﹁肺病﹂
が戦中において﹁死の病﹂であり、生と死の領域を行き来する貴種と
して芝を﹁主人公﹂たらしめる機能を有していたことだ g。
﹁主人公﹂である芝の内面はどのように語られるのか。﹁夏のさきが
け﹂の構想段階で削除された戦争に関する語りは、﹁夜の仕度﹂にお
いて再度登場する。物語の末尾において、︿戦争﹀を理由にして頼子
の︿夜の仕度﹀を解釈しようとする芝の内面が語られる。
―事のあらましを聞いてゐるうちに、彼は頼子の顔をまともに
見てゐるのが怖くなつた。/これは僕のせゐぢやない、僕の知つ
たことぢやない。彼は懸命に自分に云ひ聞かせてゐた。これは戦
争のせゐだ、戦争がこんな真似を僕たちに強ひるのだ。/それに
しても男がすべき夜の仕度を、一、二度接吻をうけたばかりの純 潔な少女が見事に整へてしまつたとは何事であらう。かくてなほ芝の責任は免れ得ないのだらうか。
﹁肺病﹂を理由に帰郷を命じられた芝は、︿戦争﹀によって傷心した
人物として語られ、頼子の︿夜の仕度﹀に戦慄して物語は終わる。﹁夜
の仕度﹂は、芝が戦争下で成立した頼子の︿夜の仕度﹀によって自己
を揺さぶられる物語なのだ。﹁夜の仕度﹂と﹁夏のさきがけ﹂を比較
したとき、頼子の内面から︿戦争﹀にすべての原因を見出そうとする
芝の内面によって物語が統括されるよう変更されたことがわかる。
三島は芝に﹁肺病﹂という設定を付すことで、﹁主人公﹂としての
資格と︿夜の仕度﹀に至る整合性をもたらした。ただし、繰り返すが
三島が一度採用していた︿戦争﹀という意味付けを完成稿で採用した
点は見過ごすべきではない。創作ノートを見れば、頼子に︿夜の仕
度﹀をさせてしまう芝の﹁心理的必然性﹂が欠如しており、そのうえ
で三島は﹁戦争のせゐだ﹂という文言を削除している。つまり、三島
は当初から︿戦争﹀が芝の心理を意味づける要因とは捉えていなかっ
たのだ。芝は徴兵を免れて頼子に欲望を抱き、食卓で話題に上った︿戦争﹀
という語に過剰に反応している。戦争の話題になると、戦争に行かな
い自分が﹁叱られてゐるみたい﹂に感じられ、﹁烈しい嫉妬なしには、
戦争が済むと共にかへつて来る大勢の健康な血色のよい若者たちを思
い浮かべることができな﹂くなってしまう。芝は戦争から拒まれた心
理的空白を埋めるために頼子を必要としていたのだ。このように見れ
八鎌倉文庫からの再出発︵本橋︶
ば、芝と頼子の関係は︿戦争﹀によって媒介されていると読むことが
できる。だが、芝の帰郷命令による傷心は、芝が﹁頼子に夜の仕度をさせる﹂
理由にはなり得ても、︿夜の仕度﹀に戦慄する理由にはならない。最
後の場面で、﹁主人公﹂である芝の︿夜の仕度﹀に戦慄する必然性が
なければ、物語全体は宙づりになってしまう。そして、芝の心理は物
語内で意味づけられることのないまま終わりを迎えてしまう。
一方の頼子が︿夜の仕度﹀を進めていくのは、戦中の政策が大き
く影響している。戦時中は軍事力拡大のための人口増加政策が採ら
れ、﹁生めよ殖やせよ﹂のスローガンが掲げられた。厚生省が若い未
婚の男女を対象に﹁優生結婚相談所﹂を日本橋三越に開設したのが
一九四〇年であり、知識人たちは﹁優生学﹂に基づいて早婚を奨励し
た。﹁廿四歳強で結婚したのでは一寸優良多子家庭は難しい﹂ hという
警鐘が鳴らされ、結婚相談所の開設によって恋愛を前提としない結婚
が増加する一方、従来通りに恋愛結婚することがかえって神聖化され
ていく。﹁一、二度接吻をうけたばかりの﹂頼子がロマンティック・
ラブ・イデオロギーの枠組みから﹁私﹂の接吻を捉え結婚を決意する
のは、同時代の思想状況に合致した判断だった。
芝と頼子の心理は︿戦争﹀という文脈において生起した。しかし、
テクスト内で芝が頼子の︿夜の仕度﹀に戦慄してしまう理由は語られ
ていない。一度不採用にした︿戦争﹀という意味付けが採用され、頼
子が︿夜の仕度﹀に至る心理的な必然性を読み取ることはできる。し かし、芝が頼子の︿夜の仕度﹀に戦慄する心理を分析するためには、
︿戦争﹀とは別の文脈が必要だったのである。
三島はどのような枠組みから芝の心理を考えていたのか。テクスト
の語りを分析しよう。﹁男がすべき夜の仕度﹂、芝の手について﹁女を
抱いてゐる男の手ではなかつた﹂など、語り手は男性中心主義的な
ジェンダー規範の枠組みから語っており、芝も自らの﹁男らしさ﹂の
欠如を認識している。そのことがよく表れているのが、末尾の一節で
ある。
芝は蒼ざめた自分の手をかくした。そして血色のよい多くの若
者がかへつてくる戦後を想像した。芝はその手に、手相見のやう
に、彼のあらゆる不幸のしるしを読んだ。
芝は自らの身体を眺め、戦争に赴く若者との差異を痛感している。
この部分は創作ノートの段階から構想されており、三島が芝の身体レ
ベルで要求される男性性の欠如について明確に意識していたことが窺
える。しかし、自らの男性性の欠如やロマンティック・ラブ・イデオ
ロギーに翻弄される芝の心理は一度削除したはずの︿戦争﹀へと回収
され、男性性の欠如による苦悩と物語全体の因果関係が結びついてい
ない。ここで注意したいのは、物語の末尾における語り手と登場人物の関
係である。﹁夜の仕度﹂は頼子や頼子の母の内面にも介入する三人称
視点の語りが採用されていたが、先に引用した﹁これは僕のせゐじや
ない。︵中略︶戦争のせゐだ﹂という語りを見ると、芝の内面は一人
九鎌倉文庫からの再出発︵本橋︶ 称視点で語られている。この場面では語り手の持つ情報量は芝の情報量と等しくなり、頼子の行動を︿戦争﹀と意味づけてしまう芝を﹁客観的﹂に分析できていない。芝の戦慄とそれに関する語りは、戦時下の男性に求められた身体レベルでの男性性、戦力充足のために奨励された早婚、そして早婚のために﹁男らしさ﹂が要求されることへの違和感を男性の視点から描いた物語として可能性を持っていた。しか
し、物語末尾の﹁戦争のせゐだ﹂という文言により、物語は︿戦争﹀
という異常事態における人間の心理によって意味づけられることと
なった。つまり、﹁夜の仕度﹂は身体レベルで要求される男性性について苦
悩する心理を描こうとしたテクストから、︿戦争﹀という異常事態お
いて成立した男女の心理のすれ違いを描いたテクストへと姿を変えた
のだ。完成稿にもジェンダーの問題は描かれているが、結末部分にお
いて、芝の心理と︿戦争﹀が結びつき、物語は芝の心理によって意味
づけられている。この意味において、︿戦争﹀が物語を統括している
のである。
このように、三島の構想にあった心理分析の問題は、︿戦争﹀によっ
て物語全体が意味づけられ、頼子の︿夜の仕度﹀に戦慄する芝の心理
が、男性性の欠如に苦悩する内面と物語が結びつかずに完成へと至
る。﹁夜の仕度﹂における改稿は、どのような磁場において成立した
のか。また、一連の改稿過程は三島にとってどのような意味を持って
いたのだろうか。 五︑︿戦争﹀と心理の﹁リアリティ﹂
改稿を経て、﹁夜の仕度﹂は︿戦争﹀によって意味づけられること
になった。前述のように、三島は﹃人間﹄への掲載を目指して編集長
である木村から指導を受け、改稿していた。ここで、﹁夜の仕度﹂を
﹃人間﹄というメディアの文脈に置きなおしてみよう。
一九四六年四月刊行の﹃人間﹄第一巻第四号には、﹁文学者の責務﹂
と題された座談会が掲載された︵荒正人、小田切秀雄、佐々木基一、
埴谷雄高、平野謙、本多秋吾﹁︿座談会﹀文学者の責務﹂︶。木村が主
催したこの座談会は、後に惹起する﹁主体性論争﹂や﹁政治と文学論
争﹂の口火を切る i。
木村は日本における戦争と文学の問題に関心を寄せていた。当時の
メディアや文学者の戦争責任について、木村は以下のように述べて
いる。
しかし、ジャーナリズムの一般的風潮として、大半の作家に対
しては同情的でありながら、糾弾されて然るべき少数の文学者に
対しては明白な執筆拒否がなされ、協力者と目された主だった人
たちの寄稿をも暗々裡に遠慮する傾向にあった。/私はむしろ、
老大家はともかく、当時第一線の流行作家に、戦時中の体験、内
面、生活の実際を率直に、書くなり、語るなりしてもらいたい気
持ちが強かった j。
こうした問題意識から、木村は平野謙を介して座談会を開く。﹁文
一〇鎌倉文庫からの再出発︵本橋︶
学者の責務﹂では、文学者が戦争への抵抗を見せなかったことの一因
として、日本における近代的自我の不確立が挙げられている。海外に
おける日本文学の評価の低さを把握していた木村にとって、︿戦争﹀
の問題と主体性や近代的自我を巡る問題は実作によって清算すべき課
題だった。
三島が木村から受けた批評の具体的な内実は明らかになっていない
が、木村の指導を受けた後に執筆された完成稿の﹁夜の仕度﹂は、︿戦
争﹀の採用、そして﹁主人公﹂の変更によって、﹃人間﹄という発表
の場において﹁戦時中の体験、内面、生活の実際﹂を示すテクストと
なる。三人称の語りを採用しつつ芝を実体験に近い人物として変更し
たのは、身辺雑記としての﹁私小説﹂を批判的に見ていた木村と﹃人
間﹄というメディアへの掲載を意識していたからではないだろうか。
三島は戦前からフランス文学を受容しており、堀辰雄やレイモン・
ラディゲから影響を受け心理小説に傾倒していた。三人称視点の語り
手が作中人物の内面を語り、読者に人物間の心理の機微を開示する小
説を生み出そうとする k。三島の初期作品には、﹁夜の仕度﹂や﹃盗賊﹄、
﹁サーカス﹂︵﹃進路﹄一九四八年一月︶など、特権的な語り手が作中
人物の心理分析をする構造を持ったテクストがいくつも見られる。こ
うした三島の小説作法と木村からの指導及び﹃人間﹄というメディア
への意識が組み合わさりながら﹁夜の仕度﹂は成立したのだ。
﹃人間﹄から発表された﹁夜の仕度﹂には、高見順の﹁生きること
と何の関係もない﹂という言辞をはじめ否定的な評価が相次いだ l。﹁お そろしくバランスのいい小説﹂として微妙な評価をした中島健蔵は、
全知視点の語り手が作中人物の心理を語る形式を認めながらも、﹁作
中人物の中にまんべんなく喰いこみながら、結局どの人間もほんとう
には生きていない﹂とし、﹁作家の態度としてバランスがとれすぎて
いて、つまり薄手なところがある﹂と指摘している m。発表の場を意識
して採用された三人称の語りと主人公の変更は、文壇からの否定的な
評価に繋がってしまった。作中人物が﹁生きて﹂いるかのように見せ
るためには、芝の内面を︿戦争﹀とは別の文脈からより詳細に分析す
る必要があったのだ。
三島の持っていた心理のリアリティに関する方法論は、﹁夜の仕度﹂
の執筆体験と文壇からの反応によって変容を迫られる。後に三島は
大岡昇平との対談で、日本における心理小説の可能性を以下のように
語っている。
ヨーロッパの小説を持って来る場合に、日本の現実と照し合せ
て、どうしても抽象的になってしまう。なんとかしてその抽象性
にリアリティーを与えなければならない。それがあなた︵大岡昇
平―引用者注︶の場合は、自然描写であり、私の場合は﹁男色﹂
でしょう、どっちにも、共通するものがあると思うんです n。
﹁夜の仕度﹂の段階では、芝の心理の根本的な原因として三島の実
体験から生み出された︿戦争﹀の問題が措定されていた。たしかに戦
時下においてこそ、芝と頼子の︿夜の仕度﹀をめぐる心理のズレは成
立する。しかし、木村から指導を受けて改稿し、三島の実体験を踏ま
一一鎌倉文庫からの再出発︵本橋︶ えて生み出されたテクストは、文壇から﹁生きることと何の関係もない﹂と酷評された。
作中人物の因果関係を統括する装置と考えられていた︿戦争﹀は、
物語のプロットを成立させる機能を果たす。戦時下のイデオロギーに
よって︿夜の仕度﹀を決意する頼子と、︿戦争﹀によって﹁男らしさ﹂
の欠如を自覚し、頼子を﹁誘惑﹂することで﹁男らしさ﹂を回復しよ
うとする芝の心理が語られる。三島は﹁夜の仕度﹂の執筆を経て、主
人公の心理が物語の因果を統括する手法をとった。だからこそ、頼子
の︿夜の仕度﹀の結果としての芝の戦慄、すなわち物語の結末として
﹁主人公﹂の心理を描いたのだ。
しかし、﹁夜の仕度﹂には同時代の文壇の読者を納得させるだけの
リアリティはなかった。﹁ほんとうには生きていない﹂作中人物を﹁生
きて﹂いるかのように感じさせるためには、︿戦争﹀を心理の﹁原因﹂
として描くだけでは不十分だった。三島は﹁夜の仕度﹂の芝の心理に
リアリティを与える装置を考案する必要に迫られるのである。論理こ
そが小説内の心理を﹁リアルに具現する﹂手法だと述べていた小説作
法は、文壇からの否定的な評価に繋がってしまった。ここで三島は、
心理が﹁リアル﹂であると判定する読者の文脈を踏まえる必要に迫ら
れる。作中人物の心理を文壇の読者にとってリアリティのある文脈で構築
すること。三島は新たな読者に直面し、﹁男色﹂という﹁日本の現実﹂
に即した設定を用いることで主人公の心理にリアリティを付与しよう と試みる o。心理によって物語の因果を構成するだけでなく、文壇の
モードに即したテクストを生み出す必要性があった三島は、﹃仮面の
告白﹄︵河出書房、一九四九年七月︶や﹃禁色﹄︵新潮社、一九五一年
一一月~一九五三年九月︶など﹁男色﹂を描いたテクストを生み出す。
初期の三島文学と三島の方法論は、メディアや編集者、文壇との関係
の中で成立していくのである。
六︑おわりに
三島は﹃人間﹄への掲載と文壇への進出を企図して﹁夜の仕度﹂を
執筆していた。心理のリアリティをめぐる方法論と編集者や発表媒体
への意識が重なってテクストは改稿される。初期の三島文学は、メ
ディアや編集者、さらには文壇の反応を作者が意識することで形成さ
れていくのだ。
ただし、﹁夜の仕度﹂は必ずしも否定的にばかり評価されたわけで
はない。木村と同じように身辺雑記的な﹁私小説﹂から距離を取って
いた林房雄は、﹁今の日本文壇が喪失してゐる貴重なもの﹂を見出し、
高く評価した p。三島の特権的な語りを用いて作中人物の心理を描く
手法は一定の評価を得ており、﹁夜の仕度﹂は三島が自らの手法を結
晶化しつつ文壇に新規性を打ち出すための作品と見るべきであろう。
﹁夜の仕度﹂の﹁共作﹂によって︿﹁人間﹂に小説を書いた三島君﹀ qと
して一定の知名度を獲得し、木村や川端との師弟関係を強化する。文
壇進出を企図していた三島には、編集者やメディアの方針に沿う作品
一二鎌倉文庫からの再出発︵本橋︶
を発表するための戦略が必要不可欠だった。
﹃仮面の告白﹄を発表した三島は、﹃人間﹄と距離を取る。﹃青の時代﹄
は木村からの執筆依頼を固辞して﹃新潮﹄︵一九五〇年七月~一二月
号︶から発表され、﹃人間﹄は一九五一年八月に廃刊となる。三島は
雑誌の社会的価値と自ら依拠すべき媒体を見抜いていたのだ。
このように、初期の三島文学は編集者や読者からの批評を受けてそ
の都度変容していく。﹁夜の仕度﹂の執筆体験とは、三島の方法論と
実作が心理のリアリティをめぐって変容していく、重要な一契機だっ
たのである。
注1 石原千秋﹃漱石と三人の読者﹄講談社現代新書、二〇〇四年一〇月。
2 習作期の平岡公威と学習院の︿場﹀については、杉山欣也﹃﹁三島由紀夫﹂の誕生﹄︵翰林書房、二〇〇八年三月︶を参照。
3 松本徹は、日本浪曼派付近にいた三島の評価が戦後には﹁無になるどころか、マイナスとなった﹂と指摘している︵﹁戦争、そして占領の下で﹂﹃三島由紀夫論集1 三島由紀夫の時代﹄松本徹、佐藤秀明、井上隆史編、勉誠出版、二〇〇一年三月︶。
4 三島由紀夫﹃私の遍歴時代﹄講談社、一九六四年四月。
5 例えば、野口武彦﹃三島由紀夫の世界﹄︵講談社、一九六八年一二月︶、佐藤静夫﹃戦後文学の再検討﹄︵新日本出版、一九七三年八月︶などが挙げられる。
6 三島が木村から指導を受けた点は、佐藤秀明﹃三島由紀夫 人と文学﹄︵勉誠出版、二〇〇六年二月︶が指摘している。しかし、具体的な改稿過程は論じられていない。
7 小田切秀雄は﹁私や友人たちが、一番感激したのは﹁人間﹂の創刊だった﹂と述べている︵﹁戦後の記念碑的雑誌﹁人間﹂﹂﹃東京新聞﹄ 一九九二年一一月一八日夕刊︶。
8 巖谷大四﹁鎌倉文庫の足跡﹂﹃特集 鎌倉文庫﹄彷書月刊第二巻第八号、弘隆社、一九八六年七月二五日。
9 木村徳三﹃文芸編集者の戦中戦後﹄大空社、一九九五年七月。
0 外国文学に関する記事・評論・特集として、第二号の磯部佑一郎﹁昨年度のベスト・ノヴェル﹂︵一九四六年二月号︶、第三号の﹁シーモノフ氏を囲みて︹座談会︺﹂︵一九四六年三月号︶、第五号の佐藤朔﹁フランス文学の新潮流﹂︵一九四六年五月号︶などがある。
! 野田宇太郎﹃灰の季節﹄修道社、一九五八年五月。
@ 中村光夫、臼井吉見﹁現代作家論︵五︶三島由紀夫﹂﹃文學界﹄一九五二年一一月号。
# 前出﹃文芸編集者の戦中戦後﹄。 $ 前出﹃私の遍歴時代﹄。 % 石川巧﹁作家としての︿立場﹀をつくるということ―﹃川端康成/三島由紀夫 往復書簡﹄を読む―﹂﹃九大日文﹄第一二号、二〇〇八年一〇月︶。
^ ﹃決定版三島由紀夫全集一﹄︵新潮社、二〇〇〇年一一月︶所収の﹁﹁盗賊﹂創作ノート﹂を参照。
& 川端康成宛書簡︵一九四六年三月三日付︶。 * 前出﹃私の遍歴時代﹄。 ( 戦時中の三島の失恋体験と﹁夜の仕度﹂の関係については、村松剛﹃三島由紀夫の世界﹄︵新潮文庫、一九九六年一一月︶が論じている。
) 論文中の引用文について、引用者による注記は丸括弧で示し、それ以外の表記は底本に拠っている。
a 山中湖文学の森三島由紀夫文学館所蔵の﹁夜の仕度﹂異稿を参照。
b 佐藤秀明﹁﹁作者﹂についての提起―﹃仮面の告白﹄を例として―﹂﹃三島由紀夫の文学﹄試論社、二〇〇九年五月。
c 石原千秋﹃近代という教養 文学が背負った課題﹄筑摩選書、二〇一三年一月。
d 福田眞人﹃結核という文化―病の比較文化史﹄中公新書、二〇〇一年
一三鎌倉文庫からの再出発︵本橋︶ 一一月。
e 柴山五郎作﹃日本伝染病小史﹄医界時報社、一九一二年八月。
f スーザン・ソンダク﹃隠喩としての病い エイズとその隠喩﹄富山太佳夫訳、みすず書房、二〇一二年九月。
g 二つの領域を行き来する作中人物を﹁主人公﹂と定義したのはロトマン︵﹃文学と文化記号論﹄磯谷孝編訳、岩波現代選書、一九七九年一月︶である。
h 伊藤清﹁子澤山は大威張﹂﹃戦時下の新結婚﹄牧晴雄編、朝日書房、一九四四年二月。
i 紅野敏郎は、この座談会が﹁政治と文学﹂の問題、転向の問題へ接続すると指摘している︵臼井吉見監修﹃戦後文学論争 上巻﹄番町書房、一九七二年一〇月︶。
j 前出﹃文芸編集者の戦中戦後﹄。 k 三島文学の特権的な語り手については武井・トゥンマン・典子﹁﹃盗賊﹄―ラディゲの﹃ドルジエル伯の舞踏会﹄との接点を通して﹄―﹂︵﹃三島由紀夫論集
近代文学﹄第九七集、二〇一七年一一月︶を参照。 島〇一年三月︶、藤田佑﹁三由二紀夫﹃獅子﹄論﹂︵﹃日本〇版、誠出勉 2史﹄三島由紀夫の表現松隆本編、佐藤秀明、井上徹、
l 高見順、中島健蔵、豊島与志雄﹁創作合評︵八回︶﹂﹃群像﹄一九四七年一一月号。
m 前出﹁創作合評︵八回︶﹂。
n 三島由紀夫、大岡昇平﹁犬猿問答―自作の秘密を繞って﹂﹃文學界﹄一九五一年六月号。
o 日本における﹁男色﹂文化については古川誠﹁同性愛の比較社会学﹂︵﹃セクシュアリティの社会学﹄上野千鶴子ほか編、岩波書店、一九九六年二月︶を参照。なお、﹃仮面の告白﹄や﹃禁色﹄と三島の方法論の関係や評価については別稿に譲りたい。
p 林房雄﹃我が毒舌﹄銀座出版社、一九四七年一二月。
q 奥野健男﹃三島由紀夫伝説﹄新潮社、一九九三年一一月。 ※ 引用した三島由紀夫の文章は﹃決定版三島由紀夫全集﹄全四二巻・補巻・別巻︵新潮社、二〇〇〇年一一月~二〇〇六年四月︶から引用し、ルビや傍点は省略した。また、旧漢字は読みやすいよう新字に適宜改めた。本研究を進めるにあたり、三島由紀夫のご遺族の方の許可を得て山中湖文学の森三島由紀夫文学館所蔵の未公開資料を閲覧することが出来た。この場を借りて厚く御礼申し上げる。