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1850年代南ウェールズ製鉄業におけるダウライス製 鉄会社

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1850年代南ウェールズ製鉄業におけるダウライス製 鉄会社

著者 菅 一城

雑誌名 經濟學論叢

巻 59

号 4

ページ 453‑487

発行年 2008‑03‑20

権利 同志社大學經濟學會

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000012341

(2)

【論 説】

1850 年代南ウェールズ製鉄業における ダウライス製鉄会社

1)

菅   一 城   

 英国製鉄業における企業間関係についてはさまざまな見解が示されている.

J. P. アディスはカヴァースヴァ製鉄会社に関する古典的な著作のなかで 19

紀の前半から「南ウェールズの製鉄会社間に存在した関係は一種の無制限な 競争であった」と評価した2).製鉄市場におけるこのような競争的性質は

19

世紀中葉に及んでも変わることはなく,カヴァースヴァ製鉄会社の所有者で あるクローシェイが「常にダウライス製鉄会社との競争に束縛されていると 感じていた」とアディスは指摘している3).製鉄業における技術革新を競争 市場における生き残りを賭けた戦略として位置づけた

C.K.

ハイドの著作も上 記のような理解の延長上にある4).しかし,産業革命期の英国製鉄業研究の 古典である

T. S. アシュトンは自由競争の側面のみを強調する「経済史の大雑

把な解釈」を批判して「商工業には常にいくらかの競争関係が存在し,また 常に人々は競争の力を抑制し制御しようと努めてきた」として製鉄業の資本

1) 本稿の執筆にあたり,平成18年度私立大学等経常費補助金特別補助高度化推進経費大学院重

点特別経費(研究科分)の助成を受けた.

 Dowlais Iron Companyを「ダウラス製鉄会社」と日本語表記する先行研究が多いが,本稿は渡 邊泉『損益計算の進化』(森山書店,2005年)にならった.

2) J. P. Addis, The Crawshay Dynasty (University of Wales Press, 1957), p.64.

3) Ibid., p.113. 

4) C. K. Hyde, Technological Change and the British Iron Industry, 1700-1870 (Princeton University Press, 1977), pp.193―204.

(3)

家間の相互協力関係に光をあてた5).このアシュトンの著作はその議論を産 業革命期以降に敷衍してはいないが,「集団的発明

collective invention」とい

う考えを示唆した

R. C.

アレンは「企業はしばしば情報を公開することによっ て利益を得ることがあり,それは産業部門全体,共同体全体,地域全体の成 功を共有することになるからであった」として,その一例に

19

世紀中葉の製 鉄業における技術革新を挙げている6)

 このように英国製鉄業の企業間関係については相反する解釈 競争と相 互協力 が提示されているが,これまで研究者の関心を集めることはなかっ た.本稿は南ウェールズの製鉄業に焦点を合わせてこの点を検討する.さて 冒頭に紹介したアディスの見解にもかかわらず,産業革命期あるいは

19

世 紀の前半においては南ウェールズの製鉄会社間に相当の相互協力関係が見出 せることはすでに

C.

エヴァンスが詳細に示している7).しかし,1850年代 に入って南ウェールズの有力な製鉄会社のうちのいくつかが閉鎖に追い込ま れ,また同時にダウライス製鉄会社(Dowlais Iron Company,以下D. I. C.)がこ の地域において他の追随を許さぬ大企業に成長することも広く知られている.

この

2

つの事実は,競争と相互協力という

2

つの側面が上記のアシュトンの 指摘のように両立していただけでなく,1850年代に

2

つの側面の一方から他 方へと大きく重心が移動したのではないかという考えを想起させる.本稿の 目的はこの

D. I. C.

を中心に製鉄会社間の関係の変化を検討することによって

1850

年代の南ウェールズ製鉄業における企業間関係を考察することにある.

本稿が利用するのは,グラモーガン公文書館に所蔵される

D. I. C.

が受信した 書簡である8)

5) T. S. Ashton, Iron and Steel in the Industrial Revolution, 3rd edn(Manchester University Press, 1963), pp.162―185. 引用部はp.185.

6) R. C. Allen,“Collective Invention,” Journal of Economic Behaviour and Organisation, Vol.4 (1983), pp.1―24.

7) C. Evans, The Labyrinth of Flames: Work and Social Conflict in Early Industrial Merthyr Tydfil (University of Wales Press, 1993).

8) 書簡の一部は M. Elsas (ed.), Iron in the Making: Dowlais Iron Company Letters, 1782-1860, (Glamorgan County Record Office, 1972) としてまとめられている.以下,ここに収録されている部分を引用す る場合は掲載箇所を併記する.

(4)

 本稿は,南ウェールズの製鉄業地域の中心都市マーサー・ティドヴィル周 辺の大手製鉄会社 ペナダラン製鉄会社,プリマス製鉄会社,カヴァース ヴァ製鉄会社 と

D. I. C.

の関係を中心に考察する.マーサー・ティドヴィ ルは石炭,鉄鉱石,硝石,珪素などの天然資源に恵まれるという製鉄に絶好 の立地条件を備え,産業革命初期から大小の製鉄会社が立地した.なかでも ゲスト家が所有し,本稿の対象時期にオーナーの経営から専門的経営者の経 営へと転換した

D. I. C.,クローシェイ家が所有するカヴァースヴァ製鉄会社,

アンソニー・ヒルが所有するプリマス製鉄会社,トムソンとフォーマンが共 同経営するペナダレン製鉄会社は,本稿の対象時期の代表的な製鉄会社であ る.マーサー・ティドヴィルは南ウェールズ製鉄業の中心地ではあるが,南 ウェールズ製鉄業の全てを包含していたわけではない.本稿の対象も厳密に 上記の

4

社の関係に限られるわけではなく,南ウェールズの他の地域の製鉄 会社との関係も含まれる.また本稿は,マーサー・ティドヴィル近郊のダウ ライスと,ロンドン,そしてイングランド南部ドーセットの荘園とを頻繁に 往来した所有者シャーロット・ゲストに宛てて総支配人エヴァンスがほぼ毎 日送った詳細な経営報告の書簡など,D. I. C.の関係者が発信した書簡に負う ところも大きい.

 上記のアシュトンやエヴァンスの研究を概観すると,製鉄会社間の相互協 力関係は

3

つの局面に見出される.第

1

は製品の相互供給であり,発注,生 産体制,原材料供給の不安定な時代において,余剰の製品をもつ製鉄会社か ら製品を必要とする製鉄会社への製品の売買は頻繁に行われていたと考えら れている.第

2

は価格協定であり,とくに

1826

年までは四半期ごとに半ば公 的に製品価格の調整が行われ,それ以降も製品価格が不安定になると随時に 同様の試みがされていたと考えられている.第

3

は労賃の協定である.製鉄 が熟練工の技能に多くを負っていた

19

世紀前半には優秀な技能をもつ労働者 の確保が重要であったが,とくにストライキが生じた場合には製鉄会社間で 相互協力して労働者の要求に対抗したと考えられている.そこで本稿も

1850

(5)

年代を対象として以下の

3

点の問題を検討する.第

1

に,製鉄会社間に生産 単位として相互協力的な一面があったのか.第

2

に,販売戦略の面において 製鉄会社間に相互協力的な一面はあったのか.第

3

に,労働者と対峙する局 面において製鉄会社は相互協力して

1

つの利害共同体を形成していたのか.

これらの

3

点の検討を通じて,南ウェールズ製鉄業の企業間関係を再考察す ることが本稿の目的である9)

1

 1850年代の

D. I. C.

と南ウェールズの製鉄会社の関係の変化を象徴するの がこの企業の所有関係であり,D. I. C.は製鉄会社による相互共同所有の残滓 を一掃してゲスト家の独立した所有物となった.そこで本節は,生産におけ る競争と相互協力について検討する前に,所有関係を中心に

D. I. C.

を概観す

10).当時の

D. I. C.

はマーサー・ティドヴィル近郊の一山村ダウライスに位

置しながら英国国内だけでなくアメリカ,ドイツ,ロシア,キューバ,オラ ンダ,ハンガリー,イタリア,インド,スウェーデンにも製品を輸出する世 界的な製鉄会社であり,溶鉱炉,鍛造所,圧延所だけでなく炭鉱など各種の 鉱山も所有し,出荷の窓口となる港湾都市カーディフに事務所を置き,ロン ドンをはじめ英国各地に代理人を置く大企業であった.製鉄業は大規模な初 期投資を伴うことが多く,しばしば同業者などの共同出資による一種の連結 的な共同事業として出発することが多かった11).D. I. C.も

1759

年に

9

名の

9) 1840年代までの製鉄会社の関係についてはAshton, op. cit.; Evans, op. cit.; M. J. Daunton, “The Dowlais Iron Company in the iron industry, 1800―1850,” Welsh History Review, Vol.6, No.1 (1972),

pp.16―48. などが検討している.本稿はおもにDaunton (1972) を参考に1850年代の製鉄会社の

関係を検討する.

10) ダウライス製鉄会社については多くの先行研究がある.本稿はおもにE. Jones, A History of

GKN, Vol.1, Innovation and Enterprise, 1759―1918, (Mcmillan, 1987) ; J. A. Owen, The History of the Dowlais Ironworks, 1759―1936, (Merthyr Tydfil Library, 1972); 安部悦生『大英帝国の産業覇権 イギリス鉄 鋼企業興亡史』(有斐閣,1993年);両角成広「一九世紀中葉,南ウェイルズ製鉄業の構造的特徴」

経済史研究会編『欧米資本主義の史的展開』(思文閣出版,1996年),55―82頁を参照した.

11) M. W. Flinn, Men of Iron : the Crowleys in the Early Iron Industry, (Edinburgh University Press, 1962), pp.6―7.

(6)

共同出資者が始めた小さな溶鉱炉を出発点としている.その後半世紀余りの あいだに急成長を遂げるとともに代々支配人を務めたゲスト家が株式を買い 集めたため共同所有の側面は希薄になっていたが,1850年初頭の時点でも全

16

株のうち

9

株を経営者ジョン・ゲストが,2株をラムニ製鉄会社の経営者 でありジョン・ゲストの甥でもあるエドワード・ハチンズが,そして

5

株を

D. I.

C.

設立時の出資者でペンティアーク製鉄会社の経営者であるルイス家の当主 ウィンダム・ウィリアム・ルイスが所有していた12).1850年代はゲスト家の 所有が確立する最終段階であった.ジョン・ゲストはまず

1850

8

月にルイ スの持ち株を買いとり,さらに翌

1851

7

月にハチンズの持ち株を買い取っ て,

D. I. C.

の単一の所有者となった.また,ルイス家が

1850

年まで

D. I. C.

の 株式を所有していたのに対して,D. I. C.あるいはゲスト家はペンティアーク 製鉄会社の株式を

1810

年以前に実質的に手放しており,1851年

7

月の段階で

D. I. C.

は近隣製鉄会社の相互共同所有関係から名実ともに離脱したのである.

 所有の変化につづいて経営にも変化が生じた.D. I. C.で財を成したジョン・

ゲストは

1832

年から下院議員に選出され,また英国各地に荘園や邸宅を所有 した.とくに

1850

年からイングランドのドーセットに所有する荘園で病床に 就き,ダウライスを不在にせざるをえなくなった.これ以降,ジョン・ゲス トの後妻シャーロット・ゲストと総支配人ジョン・エヴァンスが

D. I. C.

の経 営に当たり,エヴァンスからゲスト夫妻へあてた多数の書簡が残されている.

さらに

1852

11

26

日にジョン・ゲストが他界すると,未亡人のシャー ロット・ゲストが,年若い遺児に代わって,ジョン・ゲスト個人の遺産であ

D. I. C.

の実質的な継承者となるとともに,この地域の製鉄業界の指導者と

なった13).シャーロット・ゲストはまず,それまで

D. I. C.

に事業の縮小再編 をも迫っていた懸案の借地契約の更新を果たし,翌

1853

年には後述する大規

12) E. Jones, op. cit., pp.239―242.

13) シャーロット・ゲストは,たとえば,この地域の製鉄業者や名士を代表して,中央政府に治 安判事の候補者を推薦している.Glamorgan Record Office, D/DG/A/1/273(以下GRO, 273のよ うに略記),Lady Charlotte Guest to Lord Palmerston, 30 December 1852, f.305.

(7)

模なストライキにも対処した.しかし,シャーロット・ゲストは

1855

4

10

日に長男の個人指導教授であったチャールズ・シュライバーと再婚したの

を契機に

D. I. C.

の経営から離れ,翌

1856

年にジョン・エヴァンスが引退す

ると,同社の経営はジョン・ゲストの遺児の管財人であったジョージ・トマ ス・クラークとヘンリー・オースティン・ブルースに委ねられた.クラーク は土木技師を経て政府衛生委員会に奉職した人物で,上述のルイス家の縁戚 であり,管財人としてダウライスに常駐した14).ブルースはジョン・ゲスト から選挙区を継承して下院議員となったジョン・ブルースの子息であり,ロ ンドンに駐在して

D. I. C.

の商取引を監督した.製鉄の経験のない

2

人の管財 人は

1851

年にアバナント製鉄会社から引き抜いた機械技師ウィリアム・メニ ラウスをエヴァンスの後任にあて,メニラウスの主導のもとで

D. I. C.

は生産 設備の近代化を推進することになる.このように

D. I. C.

の経営は,1850年 代のわずかな期間に,ゲスト家に適切な後継者がいなかったことを契機とし て,所有者から分離し,技術的専門知識を有する有給の経営実務者である総 支配人に委ねられるという転換を果たした.

 製鉄会社の相互協力関係の変化を企業の所有関係から論ずるならば,企業 の買収についても言及しなければならない.製鉄会社間の相互協力関係は,19 世紀前半のあいだは個別企業がその独立性を失うほどの水準に達することは なかったが,1859年に

D. I. C.

はマーサーの

4

大製鉄会社の

1

つペナダレン製 鉄会社を買収している.それまで

D. I. C.

は他の製鉄会社を買収したことはな かった.ただし,1840年代から買収が検討されるようになっている.つまり

1841

年にサーハウィ・アンド・エブ・ヴェイル製鉄会社,1846年にはペナダ レン製鉄会社の買収を検討したが,前者は補償額が障害となり,後者は借地契 約更新の方便として隣村のペナダレン製鉄会社と登記上の合併を目論んだも のだったので法的規制が実現を阻んだ.これに対して

1859

年の合併は生産設 備の近代化が遅れて経営難に陥ったペナダレン製鉄会社が売却を申し出て,D.

14) E. Jones, op. cit., pp.262―263; Owen, op. cit., p.31.

(8)

I. C.

は高額の補償金を用意してこれを買収している.では,それまで地域内の 製鉄会社の相互協力関係の上に発展を遂げた

D. I. C.

が,1850年代に,近隣の 製鉄会社の共同所有から個人所有へ,また所有者の直接経営から専門的経営者 による経営へと転換し,さらに近隣の製鉄会社を買収するまでに変化したのは なぜなのだろうか.本節ではこれを鉄生産の視点から検討する.

 19世紀前半の鉄生産における相互協力は,たとえば納期を守るため,ある いは繁忙な生産体制において労働力を休ませるために他社と製品を融通する 形で行われ,特定の事情が生じたときに随時に加工製品を売買あるいは貸借 するだけでなく,恒常的に製品,とくに銑鉄を相互供給し,あるいは

1

つの 発注を複数の製鉄会社で共同受注する形でも行われていた.

 19世紀前半に相互供給が実現した理由は大きく

2

点ある.第

1

に,製鉄会 社間で製品特化が進んでおらず,製品の互換性が高かったため相互供給が可能 だった.第

2

に,個別の製鉄会社の生産規模が小さいので発注が多い場合には これに応じることができず,また,財務的な余力がないので発注が少ない場合 に在庫品として蓄積しておくことができなかったためである.これに加えて,

大製鉄会社である

D. I. C.

の銑鉄供給に依存して鉄鎖などの製品に加工してそ

れを

D. I. C.

に供給する鉄工所も存在したが,このような意味での相互依存関

係は例外的であり,また,

1850

年代にどのように変化したのかも明らかでない.

 もしも製鉄会社が異なる製品に特化していれば,製品の相互供給は不可能に なり,相互協力関係が希薄化した一因としてあげられるはずである.本稿は

D.

I. C.

の史料にのみ依拠しており,他社が何をどれだけ生産していたのか把握で

きないが,1850年代に製鉄会社間で急速に製品特化がすすんだと考えるべき 根拠もない.まず,銑鉄の相互供給に関しては

1850

年代でも大製鉄会社はい ずれも銑鉄生産に従事しており,近隣他社と品質の格差がなければ製品特化 の問題は考慮する必要がない.他方,銑鉄から各種の鉄製品に加工する場合,

1850

年代の

D. I. C.

は鉄道軌条を中心に生産したが,これはイギリスや諸外国

の鉄道建設が短期間に集中したためであり,

D. I. C.

の製品特化と断定できない.

(9)

このことは

D. I. C.

が近隣の製鉄会社と鉄道軌条の受注を競っていた事実から も推測できる.また,D. I. C.は鉄鉱石から銑鉄を生産した段階で出荷するこ ともあれば,銑鉄を鉄道軌条以外に機械などにも加工した.たとえば,後述す る生産体制近代化の中心となった新型の機械設備の多くも自社生産によるもの であった.製品特化が進んだ可能性を否定することもできないが,相互協力関 係の変化を単独で説明できるほど製品特化が進んだと考えるべき根拠もない.

 製品特化が進まなかったとしても製鉄会社の生産能力が向上すれば製品の 相互供給関係が変化する可能性がある.つまり生産能力が向上すれば短期的 に受注が集中しても対抗できるはずである.さらに,長期的に大規模な生産 能力の余剰が生じ,また財務的に余力があれば,短期的に生産能力を上回る ほど受注が集中する場合に備えて銑鉄の在庫を備蓄できるはずであり,近隣 の同業他社から銑鉄を購入する必要がなくなると推測できる.実際に,D. I.

C.

1840

年代末から生産技術の革新とともに原材料の安定的な確保に取り組 み,1850年代末にはマーサー・ティドヴィル周辺の競合他社の合計にほぼ匹 敵するまでに生産力を増強している15).1850年代の

D. I. C.

の生産体制近代 化は先行研究が多くの紙幅を割いており,以下はそれらに基づく.

 D. I. C.の生産体制近代化の契機となったのは

1840

年代末の借地契約の更 新であった.自由貿易論者として急進的な論調を展開した自由党下院議員で もあるジョン・ゲストは,南ウェールズ屈指の大貴族である地主ビュート卿 に嫌悪され,借地契約の更新が危ぶまれるほどであった16).最終的には契約 は更新されたが,D. I. C.は契約更新に失敗した場合は製鉄会社を閉鎖する可 能性も含めて,事業の再編に着手し,溶鉱炉の改修,工場の新設から炭鉱の 新設,貨物鉄道路線の敷設にまで及ぶ大規模な刷新を実現した.

 なかでも銑鉄の生産力に直接影響を及ぼしたのは溶鉱炉の改修・増設であっ た.その最初の試みが

1851

年の大型送風機

1

基の設置で,

D. I. C.

の技師トゥ

15) E. Jones, op. cit., p.243.

16) D. Jones,“Lady Charlotte Guest: Victorian businesswoman,” History Today, Vol.23, No.1 (1973), p.42.

(10)

ルーランの考案・設計による当時世界最大のものとされたが,1840年代から

1850

年代半ばまでは生産量に大きな改善はなかった17).新任の総支配人メニ ラウスは溶鉱炉の大型化に尽力し,銑鉄の生産量は

1856

年の溶鉱炉

1

基あた り週

107

トンからわずか

1

年で

48

パーセント増加して

1

基あたり週

158

トン に達し,計

18

基の溶鉱炉で週

3,000

トン近くの生産を実現した.しかし,銑 鉄を棒材に加工する攪拌工程の生産力は週

1,200

トン程度であった.この点

では

D. I. C.

1856

年に発表されたばかりのベッセマー製鋼法の特許使用権

を世界で最初に取得した製鉄会社として知られているが,実用化に成功する のは

1860

年代になってからのことであり,この段階ではおもに攪拌炉の増設 や攪拌の機械化によって生産量を週

2,000

トンまで増強した.また,最終工 程である圧延については

1852

年には「アイヴァー工場」,1859年には

2

年が かりで建設した「ゴート工場」と呼ばれる圧延工場を新設し,新型の大型機 械を導入した18).この工程は鉄の冷却時間によって製品の規模が制約されて いたが,新型の大型発動機によって圧延加工を高速化して大型製品,とくに 長い鉄道軌条の加工を実現し,生産量も週

2,000

トン近くに達した19).  このように生産力,とくに製錬工程,圧延工程の生産力増強は技術革新に 負うところが大きく,また攪拌工程でもベッセマー製鋼法の実用化に向けて 技術的挑戦が行われたが,これらを南ウェールズの製鉄会社の相互協力の成 果と断言することはできない.メニラウスはマーサーでの技術交流に強い関 心を示して,1857年には自ら南ウェールズ技術者協会の発足に尽力し,初代 会長を務めた.また

1859

年にはエブ・ヴェイル製鉄会社に倣う形で溶鉱炉の 排熱を製鉄所各所のボイラー運転に活用する技術を導入した.しかし,1850

年代の

D. I. C.

の技術革新は南ウェールズをこえた広範な地域の技術力に依存

している.たとえば

1851

年に導入された大型送風機の新型シリンダーは,イ ングランド南西部トゥルーロのペラン製鉄所で開発されたものである.また

17) たとえばGRO, 268, John Evans to Lady Charlotte Guest, 14 January 1851, f.607.

18) GRO, 272, John Evans to Sir John Guest, 8 April 1852, f.423など.

19) E. Jones, op. cit., pp.255―256.

(11)

1850

年代の

D. I. C.

の技術的挑戦の象徴である製鋼法の研究はヘンリー・ベッ セマーの考案に基づくもので,D. I. C.はベッセマーをロンドンからダウライ スに招聘して実験を重ねさせた20)

 生産の安定性に関わる問題はもう

1

つあり,それは原材料の確保であった.

1850

年代には地元産の鉄鉱石,石炭はともに限界に達した.原材料の不足は 地元での製鉄会社間の資源獲得競争ではなく,遠隔地からの供給経路確保と 製鉄会社間の相互供給を促していた.

D. I. C.

はイングランド西部フォレスト・

オブ・ディーンの鉄鉱山と炭鉱を賃借した.さらに,プリマス製鉄会社がイ ングランド北部カンバーランドに所有する鉄鉱山からも鉄鉱石を入手してい た.たとえば,1850年にジョン・ゲストは支配人ハワードに「ヒル氏が鉄鉱

1,200

トンを手配してくれることになっている.ホワイトへヴンから

1

ンあたり

5

シリング

6

ペンスの手数料の内容で,カーディフで契約を済まし ておいた」と指示している21).また,プリマス製鉄会社のヒルも

1859

年に「1 トンあたり

11

シリング

6

ペンスで我が社のカンバーランド産鉱石を

2,000

ト ンお譲りしましょう(中略)鉱石の高い品質や純度を考えれば,この価格には 貴殿のご要望に沿うはずだと考えます」という商談をもちかけている22).し かし,これらの手段では十分な供給量は確保できず,その解決策は鉄鉱石供 給業者からの購入に求められた.1820年代からカンバーランドやイングラン ド南西部コーンウォールからの輸入経路が確立していたが,1850年代にはカ ンバーランドとランカシャーを中心に各地から鉄鉱石を購入することが一般 的となった.たとえば,1852年の書簡は以下のように伝えている.

   1トンあたり10シリングのダウライス産の鉱石とヨークシャー産鉱石を比較検討 するだけの価値はあるという相対価格に関する貴方の計算はきわめて正しく,ダウ ライス産は含有率が低く余計に石炭を要するので実際には18シリング4ペンスにな

20) Ibid., p.273; Owen, op. cit., p.34.

21) GRO, 266, Sir John Guest to Sydney Howard, 1 June 1850, f.636.

22) GRO, 318, Anthony Hill to George Thomas Clark, 6 December 1859, f.126.

(12)

ります.1トンあたり6シリングの手数料で動員できる限りの運搬船を派遣するよう ベイルズ・アンド・ヴォーンに書面を送付いたしました23)

このように

D. I. C.

はしばしば各地の鉄鉱石を比較検討した.とくに

1856

年 以降は供給量の豊富なイングランド北部ウェストモーランド産の鉄鉱石を大 幅に導入し,鉄生産量の増加とともに銑鉄

1

トンあたりの費用の削減にも成 功した.こうして

1850

年代後半には鉄鉱石の供給は安定したが,この問題は

1873

年に競合他社とスペインに鉄鉱石会社を設立するまで潜在的な不安定要 因として残った24)

 また,遠隔地からの原材料の購入は運搬手段の確保という新たな問題を伴っ ており,これは南ウェールズの大製鉄会社に共通していた.つまり,原材料 の供給が天候と運搬船の運航に左右され,港湾都市カーディフで陸揚げした 原材料をマーサー・ティドヴィルまで運搬する手段も必要となった.カーディ フからの陸路の運搬手段についてはタフ・ヴェイル鉄道会社に改善を要請し

つつ

D. I. C.

は自ら蒸気機関車や貨車を購入して対処した.他方,海路の運搬

手段の改善はマーサーの製鉄会社に共通する問題だった.たとえば

1854

年に

D. I. C.

の経理主任が製鉄会社の会合について以下のように報告している.

   クローシェイ氏が議長に選出され,港の積み出し設備の不適切さとビュート・ドッ ク使用量の法外な額についてきわめて力強い声明を出されました.(中略)これにつ づいてクローシェイ・ベイリー氏も同様のことを主張され,貨物便利用者に対する 不十分な対応と高額の運賃についてタフ・ヴェイル鉄道会社を非難されました25)

このような公式の相互協力に加えて,製品や原材料の運搬について,非公式 かつ個別の相互協力も行われていたと考えられる.たとえば,

23) GRO, 272, John Evans to Lady Charlotte Guest, 24 July 1852, f.501.

24) E. Jones, op. cit., pp.257―259.

25) GRO, 285, John Evans to Lady Charlotte Guest, 16 February 1854, f.1324; Elsas, op. cit., p.165.

(13)

   ラムニ製鉄会社の支配人ブラドリー氏が,ラムニからタフ・ヴェイルまで鉄,鉱 石,商品を我が社がどのくらいの手数料で運搬するか尋ねるために本日私のもとへ 参りました.私は,書面で正確にどのくらいの輸送量になるのか伝えていただければ,

すぐにサー・ジョンにお伝えして,鉄などの運搬に関するいかなる質問にも喜んで お答えするとお伝えし,ブラドリー氏は,この問題についてラムニ社の社長からサー・

ジョンに書面で問い合わせることにすると言っておりました26)

 石炭の供給は

1850

年代には鉄鉱石以上に深刻な状況にあった.石炭の場合 は,これまでの研究は

D. I. C.

が所有する炭鉱の経営効率が悪いことを問題と し,炭鉱の経営刷新努力を中心に紹介がされてきた.実際に

D. I. C.

1852

年から新しい炭鉱の掘削による解決を模索したが,これは短期的に実現する ものではなく,新炭鉱掘削の検討が始まったのは

1857

年,操業が開始したの は

1863

年のことであった27).実際には経営効率の改善は既存の鉱山での機 械化やコークスの活用などの形で模索された.また,1853年頭からアバデア 製鉄会社から購入する契約を結んで石炭を確保するなど,鉄鉱石と同様に外 部からの購入が重要課題であったと考えられる.

 自社の非効率的な炭鉱に改善を施しつつ近隣の製鉄会社からの供給に依存 するという

D. I. C.

の石炭確保の問題を決定的に解決したのは

1859

年のペナ ダレン製鉄会社の買収であった.ペナダレン製鉄会社は,埋蔵量の豊富な

2

つの炭鉱と

1

つの鉄鉱山を有するという良好な条件を備えながら,技術競争

では

D. I. C.

やカヴァースヴァ製鉄会社に後れを取り,苦しい経営状態にあっ

た.とくにロンドン市長でもあった所有者ウィリアム・トムソンが

1854

年に 死去するとフォザギルとハンキーの共同経営となり,彼らが

D. I. C.

に対して 同社の売却を申し込んだのである.D. I. C.にとって,この申し出の要点は製 鉄所ではなく,1,500,000トンという豊富な埋蔵量,溶鉱炉に適した品質,採

26) GRO, 272, John Evans to Lady Charlotte Guest, 11 June 1852, f.459.

27) E. Jones, op. cit., pp.249―254.

(14)

掘に適した状況が予測された炭鉱と鉄鉱山であった.シャーロット・ゲスト はフォザギルとハンキーが求める

50,000

ポンドの売却価格に難色を示したが,

最終的には

1859

6

月に

59,875

ポンドで同社を買収することに決定した28)

D. I. C.

は合併に伴って旧ペナダレン社の製鉄所を閉鎖したが,年産で石炭

135,700

トン,鉄鉱石

6,900

トンの増産を実現した29).この合併は

D. I. C.

を 石炭購入者から石炭供給者へと一転させた.石炭支配人ジェンキンスは同年 中にヘリフォード,シュルーズベリー,バーミンガムに販路調査旅行に出かけ,

以下のように報告している.

   「キュナード」汽船のマキヴァー氏に面会しました.マキヴァー氏は,これまで10 年間模索しつづけてきたので,もう実験を試みるつもりはなく,現在の石炭供給源 に満足しており,変えるつもりはないとおっしゃいました.しかし,マキヴァー氏は,

我が社の石炭の品質が良好であることを示すことができれば,その方針を変えるこ とにやぶさかではありません.キュナード汽船は今のところ,ホンフリー氏のトレ デガー製鉄会社から買い付けており,他の情報源から入手したところによれば最近 トレデガー製鉄会社から70,000トンの石炭を買い付け,カーディフあるいはニュー ポートから船積みする注文を出したそうです30)

こうして

D. I. C.

は石炭販売市場に加わり,他の南ウェールズの製鉄会社との

競争に参入することになった.

 なお,D. I. C.を周辺の競合他社を吸収して生産能力を拡大する強者として のみ位置づけるべきではない.同様に,D. I. C.を工業投資の志向性の高い企 業として位置づけ,証券投資を志向するカヴァースヴァ製鉄会社あるいは金 利生活者化していくクローシェイ家の対極に置くことは,長期的な両社の発

28) 支払方法については問題が残り,最終的な売買は秋ごろに完了したと考えられる.GRO, 316, Cleveson & Co. to Bircham & Co., 15 August 1859, f.243; GRO, 315, Francis Bircham to George Thomas Clark, 10 November 1859, f.250.

29) Ibid., p.249.

30) GRO, 318, William Jenkins to Dowlais Iron Co., 25 November 1859, ff.273,274.

(15)

展を対比する上では重要だが,1850年代に

D. I. C.

が置かれた状況を理解す るうえでは問題が残る31).たしかに生産体制の近代化は

1850

年代の

D. I. C.

の 重要な特徴であるが,同時に,経営の危機に直面すると工業投資を放棄して 事業の売却を視野にいれなければならなかったのも

1850

年代の

D. I. C.

の特 徴だったからである.すでに触れたように,1840年代末に借地契約の更新が 問題になったときも製鉄所の閉鎖という危機が想定された.後述するように,

1853

年のストライキの際にも

D. I. C.

は製鉄所の閉鎖の可能性に言及してい る.さらに

1854

1

月にシャーロット・ゲストは

D. I. C.

の売却を決意して いる.D. I. C.の経営はシャーロット・ゲストにとって大きな負担であった が,ジョン・ゲストの遺児は事業を継承するには年若かったため,売却以外 には負担から逃れる手段はなかった.しかし,翌

2

月に資産目録が作成され,

総額

400,000

ポンドと評価された段階で即金での売却は断念することになり,

さらに

1

年契約の賃貸の可能性も

3

月の英国のクリミア戦争参戦の布告とと もに契約者が見つかる見込みがなくなり,頓挫した32).急速に規模を拡大し つつあった製鉄会社の経営は,ロンドン社交界での活動や各地の荘園経営に も携わる所有者にとっては煩雑に過ぎ,大製鉄会社の売却は現実的な選択肢 の

1

つであり,上述のように,シャーロット・ゲストは翌

1855

年に再婚を理 由にダウライスを離れ,

D. I. C.

の経営は専門的経営者に委ねられたのである.

 技術革新と原材料確保を通じて生産を安定させた結果,D. I. C.は近隣の製 鉄会社に対して独立的な立場を確立し,製鉄会社間の少なくとも恒常的な大 規模な相互供給関係からは次第に自立したものと考えられる.ただし,この ような製品の相互供給が

1850

年代に入って完全に消滅したわけではなく,D.

I. C.

がこのような関係から完全に自立したわけでもない33).たとえ生産能力

31) 安部,前掲書,38―63頁.

32) E. Jones, op. cit., pp. 259―260.

33) たとえばGRO, 266, Sir John Guest to Sydney Howard, 4 May 1850, f.625; GRO, 280, Charlotte Guest to B. Edge & Co., 15 January 1853, f.704; GRO, 280, Anthony Hill to John Evans, 3 June 1853, f.815 ; GRO, 296, Richard Forman to Dowlais Iron Co., 23 September 1856, f.691; GRO, 316, Francis Crawshay to George Thomas Clark, 3 January 1859, f.392など.

(16)

に余剰があったとしても生産管理に不備があれば,多様な鉄加工製品を少量 かつ臨時に相互供給する必要性は残ったはずである.また,相互供給の範囲 が南ウェールズをこえて拡大していた可能性もある.たとえば

1859

年の

1

年 間に限っても,シェフィールドの製鉄会社チャールズ・キャメル商会からの 書簡の数々は,D. I. C.が同商会からさまざまな鉄製品の供給を受けていたこ とを推測させる34).同様に,D. I. C.がチャールズ・キャメル商会に製品の発 送を通知した電報の控えも残されている35).これに加えて共同受注による相 互協力も存続した.鉄製品加工の原材料として使用される銑鉄は在庫として 蓄積可能だったが,鉄道軌条はそれぞれの注文の寸法が厳密に決められてい たので在庫として備蓄できず,また需要を見越して先行生産することもでき なかった.そのため,十分な量の銑鉄をもっていても加工設備が不足する場 合には共同受注が解決策として機能しつづけた.共同受注契約は大規模な生 産能力を確保する効果だけでなく,値下げ競争を回避して高収益を確保する 効果もあったはずである.それゆえに共同受注による相互協力は

1850

年代に 入ってもつづき,1852年には

D. I. C.

とナンタグローのベイリーズ製鉄会社 が共同でロシアの大南部鉄道の鉄道軌条を受注している36)

 D. I. C.の視点から南ウェールズ製鉄業の構造を考察すると,1850年代は 製鉄会社の相互協力関係の大きな転機であった.製鉄会社は決して集団とし て

1

つの生産単位を形成していたわけではないが,小規模な生産能力,不十 分な原材料,変動する受注などの不安定要因に対して,製鉄会社の相互所有 的な関係に基づいて,銑鉄や加工製品の相互供給や共同受注を通じて生産を 安定化してきた.しかし,1850年代の

D. I. C.

は,相互所有関係から離脱し,

また所有と経営を分離させるとともに,生産能力,資源確保力の向上を通じ

34) GRO, 316, Charles Cammell & Co. to Dowlais Iron Co., 11 January 1859, ff.326, 327; GRO, 316, Charles Cammell & Co. to Dowlais Iron Co., 24 January 1859, f.329; GRO 316, Charles Cammell &

Co. to Dowlais Iron Co., 10 February 1859, f.330など.

35) GRO, 316, Dowlais Iron Co. to Charles Cammell & Co., 5 August 1859, f.343.

36) Earl of Bessborough (ed.), Lady Charlotte Guest, Extracts from Her Journal, 1833―1852 (London, 1950), pp.284―288.

(17)

て生産を安定化し,製鉄会社間の相互協力関係から独立した存在へと次第に 変容したのである.

2

 次に,製品販売の局面では製鉄会社間の相互協力関係はあったのだろうか.

前節では,生産能力が向上することによって長期的に大規模な生産能力の余 剰が生じ,その結果として,短期的に生産能力を上回る受注が殺到する場合 に備えて銑鉄の在庫を備蓄できるようになり,近隣の製鉄会社との相互供給 関係から自立する可能性があることを指摘したが,これがそのとおりに機能 するには在庫を売却せずに備蓄できるだけの財務的な余力がなければならな い.アディスによれば,多額の資本を有するカヴァースヴァ製鉄会社は製品 を売り急ぐ必要がなかったので,激しい価格切下げ競争が生じてもこれと無 縁な立場を維持し,市場が適切な価格水準まで回復して健全な販売競争の機 会が生じるまで待つことができた.つまり,

   ダウライスのゲストやプリマスのヒルのような人々が近隣の製鉄会社よりも値下 げをしなければならないような圧力がかかる状況が生じた.この戦略に対するクロー シェイの最終的な見解は距離をおいて反対するというものであった.クローシェイ の基本的な姿勢は,いかなる価格戦争にも参入することを拒否するというものであ り,ここにこの姿勢と売れ残りの鉄を在庫備蓄するクローシェイの傾向の接点を見 出すことができる.(中略)ウィリアム1世は価格戦争の原因が過剰生産ではなく製 鉄会社の経営難にあると考えた.ヒルは,自らがきわめて正直かつ明晰な認識にし たがって言明したように,1週間分の生産量すら在庫に残すことができず,作った先 から売りさばかなければならなかったのである37)

ここで,アディスは,「1週間分の」在庫も残すことができずに価格を切り下

37) Addis, op. cit., pp.64―65.

(18)

げても売却を進めなければならない側に

D. I. C.

を分類している.マーサー・

ティドヴィル周辺では最大規模の製鉄会社である

D. I. C.

の実態はアディスが 指摘したとおりだったのか.1850年代に生産規模を急速に拡大するなかでも

D. I. C.

は他社と激しい価格競争を展開していたのだろうか,あるいは製鉄会

社は相互協力関係を活用して低価格競争を回避することができたのだろうか.

 しかし,D. I. C.がどのような販売戦略をとったのか往復書簡やその他の史 料から明らかにすることは容易ではない.まず,ダウライスあるいはロンド ン市場における

D. I. C.

の在庫の量に関する情報は断片的である.在庫量は 本来の在庫と出荷を待つものが合算されている可能性が高い.鉄市場の記録 は

1

か月あるいは

1

季の合計であるのに対して,D. I. C.の史料に残されてい るのは特定の年月日の数値であるため,他社の製品との比較も難しい.さら に本稿が依拠するのは往復書簡のうち受信した書簡に限られるので,その内 容は必ずしも販売の実態を示していない.また,顧客から発信された書簡が,

製鉄会社間の紳士協定に言及するとも考えにくい38).そこで本稿は製鉄会社 間の書簡を中心に価格協定の有無を検討する.

 先行研究は,19世紀の前半までは製鉄会社のあいだでしばしば価格協定が 結ばれ,D. I. C.が価格協定を支持するのが

D. I. C.

の一般的な方針であった としている.この事実は,カヴァースヴァ以外の製鉄会社が「抑制されない 競争」を展開したというアディスの見解とは必ずしも矛盾せず,D. I. C.をカ ヴァースヴァと同じ側に分類するという変更を施せば,激しい価格切下げ競 争が展開されたからこそ資金力のある大製鉄会社はそのような競争から距離 をおいたと解釈することもできる.そこで本節で実際に検討するのは次のよ うな問題となる.つまり,多くの製鉄会社は激しい価格競争に巻き込まれ,

例外的に大製鉄会社のみがそのような価格競争と無縁だったと理解してよい のか,換言すれば,販売の局面においては製鉄会社間の相互協力関係は機能 しなかったと考えてよいのかという問題である.

38) Daunton, op. cit., pp.24―25.

(19)

 アシュトンが産業革命期の製鉄会社の相互協力関係を強調したときに重視 したのは

1826

年まで南ウェールズの製鉄会社が価格協定を裁定していた四季 集会と呼ばれる会合であった.1826年以降も過剰な価格競争を回避するため に価格あるいは生産量を抑制する必要性が製鉄会社のあいだで認められ,何 らかの協定が結ばれた可能性がある.実際に

1852

2

20

日には価格維持 を目的とした生産量の一律削減の是非を議論するために製鉄会社の会合が催 されている.しかし,実際にはこのような制限的慣行に対して消極的な姿勢 をとる製鉄会社は増えたと考えられ,生産力を増強しつつあった

D. I. C.

はこ の協議に参加しなかった.この会合の翌日,議長を務めたウィリアム・クロー シェイはジョン・ゲストにあてて次のように伝えている.

   貴社のジョン・エヴァンス氏の合意のもとに召集され,エヴァンス氏が貴殿も出 席されるはずであり,もしも不可能ならばエヴァンス氏自身が出席すると約束され,

昨日モーリーズ・ホテルで開催された南ウェールズの製鉄会社の会合において,以 下の動議が可決されました.

   「本会合の見解として,南ウェールズの製鉄会社のうち大手2社とその他数社が欠 席したのを受けて,鉄生産量の自発的削減という手段に関して,これらの製鉄会社 の意見を確認できるようになるまで待ち,来る3月9日まで本会合を延期し,議長 には欠席者と連絡をとるよう求めるのが有益である」

   そこで,南ウェールズ一円で実施され,またスタフォードシャー,シュロップ シャー,北部およびスコットランドの製鉄会社も同様の協定に参加することを条件 に,鉄生産量の削減にご賛同いただけるかどうか貴殿に伺う次第です39)

D. I. C.

が生産量協定に消極的な姿勢を示したのは,D. I. C.が価格切下げ競争

を回避するための製鉄会社の相互協力を必要としなかったため,さらには価 格切下げ競争が生じてもこれに参入する必要がなかったためと考えられる.

39) GRO, 271, William Crawshay to Sir John Guest, 21 February 1852, ff.668,669; Elsas, op. cit., pp.16―17.

(20)

さらに,2週間後にはクローシェイ自らも「現状は大製鉄会社が鉄の生産量 を削減すべき時期ではないというのが私の見解です.」と述べ,競争力の強い 大製鉄会社には生産量協定に参加する動機がないこと,また,大製鉄会社とし てカヴァースヴァ製鉄会社と

D. I. C.

が同じ立場にあることを示している40). 結局,再度招集された会合もそのような状況を追認するのみであった.

   延期されて,本日モーリーズ・ホテルで開催された製鉄会社の会合において,次 の決議に決着いたしました.

   発議者フォーマン氏,賛同者ロビンソン氏:鉄生産量の一般的削減は,それ自体は 望ましいが,今般の状況下では,協定によって現時点で実施することは不可能である と本会合は考える41)

このように製鉄会社は製品価格や生産量については合意に達することはなく なった.他の製鉄会社に比べて急速に生産の安定化をすすめる

D. I. C.

にとっ て,製鉄会社の相互協力関係に基づく製品価格や生産量への規制は戦略にな じまない問題になったと考えられる.1859年に

D. I. C.

がペナダレン製鉄会 社を買収したときに,ライバルであるカヴァースヴァ製鉄会社のウィリアム・

クローシェイが唯一指摘したのもこの点であった,つまり,「ダウライス製鉄 会社の所有者によるペナダレン製鉄会社とその鉱物資源の購入についての私 の見解はキットソン氏に伝えておきました.私はただ,ダウライス製鉄所の 生産量の増加によって鉄の価格を維持するのがますます困難になると予測す るばかりです」42).このクローシェイの指摘こそ,

D. I. C.

が生産の安定化によっ て製鉄会社間の相互協力から自立しつつあったこと,換言すれば,各製鉄会 社の鉄生産が小規模かつ不安定であることが製鉄会社間の相互協力の前提で あったこと,そして,この段階では

D. I. C.

以外の製鉄会社が相互協力という

40) GRO, 271, William Crawshay to Lady Charlotte Guest, 4 March 1852, f.672; Elsas, op. cit., p.17.

41) GRO, 271, William Crawshay to Lady Charlotte Guest, 9 March 1852, f.674; Elsas, op. cit., p.17.

42) GRO, 316, William Crawshay to George Thomas Clark, 24 February 1859, f.435.

(21)

選択肢を必要としていたことを示している.

 アシュトンが産業革命期について提示した製鉄会社の販売戦略と価格設定 は

1850

年代に大きく変化した.1850年代には,生産能力を増強した大製鉄 会社は価格低迷期であっても価格回復期に備えて生産し,在庫として備蓄す るという動機をもつようになった.その結果として,それまで機能していた 公式,非公式の価格あるいは生産量の協定は機能しなくなった.価格低迷期 でも生産をつづけながら売り控えるという戦略が大製鉄会社に浸透する一方 で,その戦略を選択できない製鉄会社は厳しい価格競争を回避できなくなっ た.このようにして大製鉄会社とそれ以外の製鉄会社の双方を包括する相互 協力関係は希薄になったのである.

3

 1852年から

53

年にかけて,南ウェールズ製鉄業の労使関係は物価高騰に 大きく影響され,製鉄会社は労働者のストライキに対抗するために団結した.

つまり,製鉄会社は賃金の上昇を抑えるという動機を共有し,相互協力の行 動をとったのである.

 物価の変動は南ウェールズ製鉄業の労使関係を大きく左右した.成長を続 ける製鉄業では労働力,とくに攪拌工や採炭工などの熟練労働力が慢性的に 逼迫し,熟練労働力には高い賃金が与えられるとともに引き抜きも頻繁に行 われた.通常の状況であれば,労働力確保のための製鉄会社の競争は,労働 者に好条件を提示することによって製鉄会社と労働者の摩擦を緩和する一方 で,製鉄会社間に摩擦を生み出し,製鉄会社の相互協力を妨げたはずである.

しかし,物価の上昇とともに賃金の増額が加速すると,結果として製鉄会社 は賃金の増額を競って自らに多大な負担を課す恐れがあった.それゆえ,そ のような事態を未然に防ぐために,物価が上がると製鉄会社は連帯して賃金 増額を抑制し,労働者は団結して賃上げを要求する動機が生じたのである.

 では,D. I. C.はマーサー・ティドヴィル周辺で最大の雇用主として製鉄会

(22)

社の相互協力を促して賃金の抑制をとりまとめたのだろうか.あるいは製鉄 会社が団結したとしても,D. I. C.は主導的な役割を果たさなかったのだろう か.本節は,D. I. C.の労務管理の検討を通じて,製鉄会社の相互協力関係を 考察する.結論から言えば,製鉄会社の相互協力関係が機能するかどうかは 安定的な生産が脅かされるかどうかによって決まった.

 通常時でも製鉄会社は労働者に対抗して相互に協力した.1851年にエヴァ ンスは次のように報告している.

   クローシェイ・ベイリー氏の攪拌工は全員就業しておりません.ベイリー氏は労 働者に1トンあたり5シリング6ペンスを支払っていますが,このアバデア製鉄会 社での出来高給を4シリング9ペンスに引き下げるという通知を出し,労働者が就 業を拒絶したので,ベイリー氏は製鉄所全体を操業停止にするようです.攪拌工が 本日我が社に来訪し,就業の可能性があるかどうか心配しておりましたが,メニラ ウス氏にはしばらくのあいだは一人も雇い入れないように指示いたしました43)

このような協力関係を明示したのが解雇証明書であった.つまり,製鉄会社 が同意の上で解雇した人物に証明書を発行することによって,好ましからざ る従業員として解雇した労働者について他の製鉄会社に情報を提供し,ある いは解雇するつもりのない労働者が他社に移籍するのを防いだのである.こ れは非公式な慣行であり,記録を一元的に管理したわけでもなく,個々の製 鉄会社間の情報交換にとどまった.たとえば,1850年にポンタプールのアバ サハン製鉄会社のボーモントが

D. I. C.

に以下のような依頼を行っている.

   貴社におかれましては,賃金の増額を求めてストライキをしている我が社の労働 者が,私自身が署名した解雇証明書を提出せずに貴社で就業することをお認めにな らないようにしていただけるでしょうか.遠くマーサーまで移動した者がいるとい

43) GRO, 268, John Evans to Lady Charlotte Guest, 14 January 1851, f.607 ; Elsas, op. cit., p.100.

(23)

う報せはまだございませんが,もしもそのようなことがあった場合は,解雇証明書 がない場合は雇い入れないようにしていただければ幸いです44)

また,1852年にはエヴァンスは以下のように報告している.

   金曜日にキットソン氏とナンタグローに行き(中略)賃金についてウィリアム・

トマス・ベイリーと長時間の検討を加えました.ナンタグローの賃金通知は昨晩で 期限が終わり,ベイリーは更新の申し入れはしないことに決め,月曜日に全員にそ の旨を伝える予定で,心配なのはエブ・ヴェイル社がベイリー氏の労働者を雇い入 れるのではないかという点だけだと言っておりました45)

 このように相互協力は個別の製鉄会社間で非公式に実現するものであり,

必ずしも近隣の全ての製鉄会社を包含するものではなかった.全ての製鉄会 社を包含するには全ての製鉄会社が利害を共有しなければならなかった.通 常であればそのようなことはなかったが,例外的に全ての製鉄会社が

1

つの 不安定要因を共有することもあった.それは

1853

7

月から始まったストラ イキであった46)

 1852年からの物価急騰を受けて,労働者は賃金増額を要求し,怠業が慢性 化した.D. I. C.は

1852

9

20

日に

10

パーセントの賃金増額を約束し,

同日にうち

5

パーセントの増額を実施し,同年末の最終週に残りの

5

パーセ ントを実施した.1853年

3

月にはさらに

10

パーセント,そして

6

月に再度

10

パーセントの賃金増額が実施された.D. I. C.はあいつぐ賃金増額をもって しても労働者の不満を解消することができず,労働者は,会社が直営の売店 を設置し,補助金を支給して適正な価格水準で食料品などを供給するよう訴

44) GRO, 266, James Beaumont to Dowlais Iron Co., 2 November 1850, f.21a; Elsas, op. cit., p.70.

45) GRO, 272, John Evans to Lady Charlotte Guest, 1 August 1852, ff.507, 508.

46) このストライキの詳細についてはE. Havill,“The respectful strike,” Morgannwg, Vol.24 (1980), pp.61―81.

(24)

えた.しかし,本当の問題は,D. I. C.の賃金増額が近隣の製鉄会社,とくに カヴァースヴァ製鉄会社の労働者に不満を抱かせ,これらの製鉄会社におい ても労働者が賃上げを要求するという事態を招き,同様に,他の製鉄会社で の賃金増額が

D. I. C.

の労働者による賃上げ要求の根拠となったことである.

シャーロット・ゲストは,直営売店の要求に対しては自由放任の原則を掲げ て反対した47)

 結局,ペナダレン製鉄会社の炭鉱労働者がストライキに入ったのを受けて,

7

1

日にロンドンのゲスト邸で四大製鉄会社の所有者が集まった.その結 果は以下のとおりであった.

   以下の決議を採択し,出席者が代表する各製鉄会社でこれに基づいて行動するこ ととする.ペナダレン製鉄会社の労働者が,(それまで3週間にわたって要求しつづ け)すでに実施の約束を取り付けていた1ポンドあたり2シリングの増額に代えて 3シリング6ペンスのさらなる賃金増額を要求して,雇用主に対して一切の事前通知 なく突如として就業を停止したために,製鉄所や鍛造所は操業停止に陥り,上記の 参会者は,この要求が一般的に全ての製鉄会社での賃金増額を意図したもの以外の ものではないと考える.

   近日了解した10パーセント(合計で30パーセント)以上の増額は製鉄業界の現 状から考えるに全く受け入れることはできず,上記の参会者は来る4日に全ての労 働者に対して,この理不尽な要求を撤回し,ストライキ中の全ての労働者が職場に 復帰しなければ,経営者側は9日に全製鉄会社において,これ以上の賃金増額を認 めないというのが製鉄会社所有者の公式の決定であり,事前通告の回答期限をもっ て全ての製鉄会社を閉鎖する覚悟であり,各製鉄会社の労働者が来る9日までに回 答するよう求めることを議決する.

   さらに,原材料の備蓄の不足によって操業停止に陥ることなく,これらの決議の 精神に沿うように各社とも行動するよう議決する.

47) E. Jones, op. cit., pp.276―277 ; D. Jones, op. cit., p.45.

(25)

   さらに,周辺およびマンモスシャーの製鉄会社にこの議決を採択し,これに基づ いて行動するよう呼びかけることを議決する.

   ペナダレン製鉄会社に協力し,これ以上の賃金の増額を認めないという決定に基 づいて行動するために,来る4日から通告の有効期限に至るまでの全てあるいは一 部の期間におけるペナダレン製鉄会社の損失額の相当分を各製鉄会社が(課税評価 額に基づいて)分担して拠出し,損失額はヒル氏が査定することを議決する48)

この案に唯一反対したのがシャーロット・ゲストであった.7月

6

日のシャー ロット・ゲストの宛て先不明の書簡の控えは,以下のように伝えている.

   ペナダレン製鉄会社の状況の困難さについては十分に把握しており,市場価格の 下落や現今の政治的危機によって生みだされた製鉄業の展望に照らし合わせて賃金 の問題について譲歩することの影響についても十分に把握しております.

   しかし,去る金曜日に提示された方策を実施することに同意はできません.(中略)

このような方策は正義と良識の双方に等しく反するものだと言わざるを得ません.

   我が社の労働者は,昨今の苦難と誘惑の時期に誠実かつ堅実に働いてきました.

その労働者に対して,近隣の製鉄所の労働者がとった行動の責任を求め,あるいは そうする代わりに,近隣の製鉄所の労働者を失業の窮地に追い込ませることを強い ることはできません49)

このように,ゲストは,ペナダレン製鉄会社のために

D. I. C.

の労働者に圧力 をかけることは正義と常識に反すると主張して,ここでも製鉄会社の経営の 独立と自由を強調したのである.

 製鉄会社の相互協力が実現しなかったため,間もなくペナダレン製鉄会社は 労働者の要求どおりに賃金増額を実施し,

4

社の閉鎖は回避された.シャーロッ ト・ゲストは,その結果としてプリマス製鉄会社の労働者が同様の増額を要求

48) GRO, 279, Arrangement, 1 July 1853, f.511.

49) GRO, 280, Charlotte Guest, 6 July 1853, f.730; E. Jones, op. cit., 276―277; Owen, op. cit., p.45.

(26)

し,全

4

社が同じ賃金水準となって平等化が実現するが,伝統的に賃金水準の

高かった

D. I. C.

の労働者が他社の増額を理由に再び増額を要求するだろうと

予測した.この予測どおり,プリマス製鉄会社の労働者はストライキに入り,

数日後に増額を実現した.さらに

7

20

日には

D. I. C.

の鉱山労働者が一律に 週

4

シリングの増額を要求した.D. I. C.では,総支配人エヴァンスが自ら労 働者の代表に面会し,2シリングの増額を回答するとともに,他社の増額が

D.

I. C.

の賃金との平等化を目的としたものであること,鉄価格が下落してこれ以

上の増額を許さない状況にあることを説明した.しかし,炭鉱労働者はストラ イキに入り,これが最終的に

2

か月に及ぶ長期のストライキとなった.

 これを受けて,7月

25

日に他の

3

製鉄会社は,D. I. C.の労働者が職場復帰 しなければ直近の

10

パーセントの増額を撤回し,各社の労働者がこれを受け 入れないならば全

4

社が閉鎖するという通告を発し,1か月以内の回答を労 働者に迫った.また,D. I. C.は外部から石炭を購入して製鉄部門の操業をつ づけたが,それにもかかわらず生産量が減少した分については他の製鉄会社 が分担して週

1, 350

ポンドあるいは鉄

1, 350

トン相当の支援を行った50).同 月初頭のペナダレン製鉄会社のストライキの際には製鉄会社の閉鎖に反対し たシャーロット・ゲストも,自社のストライキに対しては強硬な姿勢をとり,

製鉄会社の連帯を受け入れた.3日後のエヴァンスによるサーハウィでの交 渉の長文の報告は製鉄会社の相互協力がマーサー・ティドヴィルを超えて広 範に形成される過程を如実に示している.

   火曜日のカーディフでの会合で議決されたことを伝えると(中略)即座にブラウ ン氏は,エブ・ヴェイル製鉄会社の所有者の一人として,直ちにストライキに対す る共同戦線に加わり,割り当てられた分担金を現金で,あるいは(中略)鉄道軌条 の現物で供出することに合意するとおっしゃいました.さらにブラウン氏は,フォ ザギル氏と会談していないにもかかわらず(中略)フォザギル氏もエブ・ヴェイル

50) Owen, op. cit., p.32.

(27)

社の共同所有者としてダウライスを支援するマーサーの製鉄会社に加わることに異 存はないはずであるとおっしゃいました.(中略)その後,長時間の会談と議論を経 て,ブラウン氏は,ナンタグロー製鉄会社に赴いてC.ベイリー氏とヘンリー・ベイリー 氏に面会し(中略)さらにホンフリー氏がハバック氏とR. P.デイヴィス氏を伴って 午後2時に来訪する予定なので(中略)帰社を見合わせたほうがよいとおっしゃられ,

私はそれが最善であると考えました.

   ブラウン氏が帰社されたのは午後3時のことで(中略)ヘンリー・ベイリー氏が 私の提案を公正なものであり,他の製鉄会社諸氏も共同戦線を張って各社とも分担 金の供出に参加すべきだと言っているとおっしゃったそうです.(中略)長時間の気 疲れのする会談を経て,私はホンフリー氏とブラウン氏に,同道していただいてヒ ル氏と面談するよう説得し,ようやく合意していただきました51)

しかし,実際には短期間で製鉄会社の連帯行動を実現するのは容易ではなかっ た.上記の書簡の

2

日後,ジョン・エヴァンスは以下のように伝えている.

   残念なことですが,当地の情勢には何らの改善もなく,火曜日以来一人の炭鉱労 働者も攪拌工もおらず,全国に散らばってしまい,ほんの少数しか当地には残って おりません.その多くが他の製鉄会社で就業しているのではないかと危ぶまれます.

ペナダレン製鉄会社の鉱山で働いていた者が20名おりましたが,昨日解雇されまし た.炭鉱労働者は現場にいたので製鉄会社が連帯していることを知らずに転籍して いるのではないかと思われますが,これが発覚を妨げ,労働者の名前は帳簿に記載 されておりません.労働者の一員である職長は伝達された通知を履行しないでしょ う.当社でさえも,きわめて多くの労働者が炭坑に入り込んでおり,他社の通知が 出されて一斉に同じ条件になるまでは何の効果もないでしょう.私は昨日ラムニ製 鉄会社で石炭帳簿を改めたところ17名の名前が記載されておりましたが,確実にそ の4倍の労働者が日々就業しております52)

51) GRO, 279, John Evans to Lady Charlotte Guest, 28 July 1853, ff.517―519; Elsas, op. cit., pp.48―49.

52) GRO, 279, John Evans to Lady Charlotte Guest, 30 July 1853, f.521; Elsas, op. cit., pp.49―50.

(28)

この事件はストライキを敢行した炭鉱労働者と製鉄会社との対立を中心に先 行研究では紹介されている.鉄生産工程で重要な役割を担った攪拌工と製鉄 会社のあいだにも対立が生じていたが,こちらは全く異なる様相を呈した.

   キットソン氏と相談した結果,我々は攪拌工の要求は容れるのが最も賢明であると 考えます.彼らの慣習的に使い続けてきたものとは全く異なる別の鉄を使うように強 制して彼らとの雇用契約をこちらが破っており,法廷でこの点が争われる場合にはこ れが少なくとも彼らの収入を1 / 7減らしていることは認めざるを得ないからです.今 般の状況下では,今後3週間分のためとしてこれに見合うだけの銑鉄と石炭を備蓄し ておくのが賢明であると考えます(とくにベイリーやその他の製鉄業者から鉄道軌条 の支援を要請され,10日から12日で納品しなければならないので)53)

このように攪拌工との対立について製鉄会社は強硬姿勢をとらなかったが,相 互協力は見られた.同月

6

日のエヴァンスの書簡は以下のように伝えている.

   ブラウン氏,ホンフリー氏と面会してサーハウィから帰社したところですが,両 氏に対して攪拌工に対する当社の対応を説明し,比較検討のための持参した鉄製品 の見本を提示いたしました.両氏とも当社よりもはるかに良質な製品を生産してい るという意見で,私と同様に,両氏とも,通常時であればこれは製鉄業全般にとっ てきわめて重要な問題であり,この問題を最優先して議論すべきである(中略)と いうご意見でした.(中略)もしも両氏の擁護を得ても敗訴することになれば,製鉄 業者全員がきわめて劣勢に置かれることになります54)

他方,炭鉱労働者については早くも

8

1

日には一部が職場に復帰しはじめ,

53) GRO, 279, John Evans to Lady Charlotte Guest, 31 July 1853, f.523; Elsas, op. cit., p.50.

54) GRO, 279, John Evans to Lady Charlotte Guest, 6 August 1853, ff.533,534; Elsas, op. cit., p.51;

GRO, 279, John Evans to Lady Charlotte Guest, 6 August 1853, f.535; Elsas, op. cit., p.52 も同様の 趣旨の書簡である.

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