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(1)

コルンバアヌスとベネディクトゥス : 中世修道院 史におけるコルンバアヌスの地位

著者 竹内 直良

出版者 法政大学史学会

雑誌名 法政史学

巻 10

ページ 14‑43

発行年 1957‑12‑28

URL http://doi.org/10.15002/00011838

(2)

コルンバ

ヌスとやヘネディ

クトヲ

ーーー中世修道院史におけるコ

y y バアヌ久の地位

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コルンパアヌスとベネデfクトゥスとは共に六世紀に活動した修道者として中世キリスト教史に有名であるが、この

二人の性格、活動、及び修道戒律は極めて著しい而も興味ある対照をなしているように思われる。ムんもベネディクトv

スは六世紀の前半期にイタリアに住み、コルンパアヌスは同世紀後半から七世紀初にかけてフランクで伝道しているか

ら二人の間には距離的

にも

時間的にも多少の隔りはあるが、当時にあっては両者の編纂した修道戒律は夫々多数の支持

者を持って居り、延いてはこれがケルト的、ローマ的両修道生活様式の勢力圏在示すものであった。然るにコルンバア

ヌスの戒律はこれに半世紀先んじて作られたベネディクトゥスの戒律に僅か一、二世紀のうちに駆逐されて全く消滅

し、コルンパアヌスは単にアイルランド出身のフランク地方における伝道者叉はリュクセイ、ボピオの修道院建設者と

してその名を留めたに過ぎないが、ベネディクトゥスは以後西方修道院の祖として永く尊崇され、ベネディクト修道会

はカトリマク諸教団中重要な一存在として現在に至っている。かかる両勢力の激変は一般に知られる如く両者の戒律そ

のものの内容に原因することはいうまでもないが、単に戒律のみが二人の業績を決定する要件であろうか。他に認むべきものはないか。更に又

、コルンパアヌスの存在は中世キリスト

教発展の土にどのような意味を持っているであろう

か。この小文はこれらの問題に対する私の貧しい所見であるが、然しこたによってケルト的キリスト教がロ1マ的教会

の諸制度の中に包合され、遂に西欧全教会が教皇に統一されて行く過程の一小部分を多少なりとも明かにすることが出

(3)

調淵1rl

来るのではないかと思う。この意味から、以下二人の活動とその範囲、両戒律の内容、

き主としてコルンパアヌスを中心にして考えて見たい。 ロJiマ教皇との関係の三点につ

ベネディクトウス(窓口。告のさとき

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はその戒律製作の事業を除いては殆んど目先い活動を演じていない。最古にして唯一の彼の伝記であるロ1マ教皇グレゴリウス一世の「対話篇」第二書によれば、彼はイグリアの

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の貴族の家に生れ、勉学の目的でロ1マに来たが同市の堕落した風潮を嫌って遁世の志を起し(以上序文)、乳母を伴う

て開口虫色。に来り、次いで単独ロIマから四十哩離れた∞

22 25

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)に至って洞箔内に隠遁生活を行うこと

年、 その 間〉 色。

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主と称する院長の主宰する修道院に住む問。

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が運ぶパンで日々を送った(第一章)。

然るに彼の徳行が次第に知れ渡り、附近の一修道院(一

5 8 4 P

。修院と一式わる)の院長に推薦されて止むなくその職H

に就いたが、彼の指導が厳格に過ぎるという非難をうけ却って毒殺される危険を感じたので、同所を去って再び以前の

孤独生活に戻った。然しスビアコでは彼を慕う弟子たちが日毎に増加したりで彼はここに十二の修道院を設け、夫々に

院長を指名して十二名の修道士を与え、彼叉少数の弟子を手許に置いた(第三章)。然るにその後彼の名声が益々高ま

るにつれて附近の教会の司祭司

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の嫉妬をうけ叉もや毒殺されんとし幸に事なきを得たが、遂に意を決してこ

の地を見捨て佳少の弟子と共にの

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山 口

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。)に移り、土民の信仰するアポロ神殿を改築して修道院と

した(第八章)と記されてあり、次に同地におけるゴ1

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fラとの会見(第十四、第十五章同妹∞の『。

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との面会(第三十三章)、戒律の作製(第三十六意同最期(第三十七意)についての記述がある。これによって察すれ

ば彼の生涯は俗界を逃れた隠遁生活への追求に終始し、異教に対する積極的な或は攻撃的な精神は殆んど見れない。而

もその行動範囲は中部イタリアの至って小さな区域に過ぎなかったのである。グν

ゴリ ウス はと の第 二書

「車 ベネ ディ グト ゥス 伝」 を執 筆す る

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(ベ ネデ ィク トゥ スの 後継 者)

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ウス がと の「 対話 篇」 を書 いた のは 五九 一一 一年 末か ら五 九四 年春 であ ろう と一 式わ れて いる から ベネ ディ クト 守 一 五

Hosei University Repository

(4)

蹟をととさらに記述するのを目的としたように思われる。との態度は本丈中にも自ら反映しており、第一ー書、第十章の「トヱア

ルティナ市の司教フォルトウナアトゥスの伝(口。司。

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st ω ゆ 笠 ω。。句。)」の中に、グレゴHY

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よっで山上から水を湧出させたとと(策五章)、一ゴ

lト人が水中に落した鎌(片色。仰の仲

25

)をベネディクトゥスが通力を以て浮

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が氷

上を歩いたとと(管七章)、修院建設の際彼の祈りによって

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石が持上ったとと(第九章)、倒壊した垣の下敷となり骨折の重症 を負うた若い弟子が被の祈祷によって直ちに健康体に復したとと(第十一章)、ベネディクトゥスは院外における修道士の行為を 看破する眼力を持っているとと(第十三章)、悪鬼になやむ一聖職者が彼によって回復したとと(第十六章)、モンテカシノ修道

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れた後、死体が墓から

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- ク ト守スの祈の力に土つて無書-地中に戻つたとと(慎.二十四章)、守へネJアイクト守スが

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(第二十九章.)、一一修道士の悪鬼を迫い出したとと(第三十章)、アリウス、祇に属するN

川 凶 -

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ト人に持された一農民 がベネディクト

の一瞥のみで解放された

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見えるべネ

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であるが、他に求むべき史料がない以上、我々は本書の記事を以て一応満足しなければならないであろう。

ベネディクトゥスと異ってコルンパアヌスハ。。EBげ

ω

ロロ少。・合同町)の活動舞台は極めて広大である。彼の生涯に関

する 最古 の史 料は

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)が六四三年或はそれ以前にリュクセイ(

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三代修道

院長

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とボピオ(目安

5

・図。認。)の第四代修道院長国各♀

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に提出した「聖コルンパアヌス修道

院長伝(ざ

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ωとであろう。ヨナはボピオの修道院に六一八年に入ったからコルンパアヌス

(六一五死)から直接教を受けたわけではないが、著作の年はコルンパアヌスの死後二十八年以内であるから、グレゴ

リウスのベネデfクトゥスに対する場合よりも時間的な隔りは短く、ボピオの第二代修道院長〉2

巴P

リュクセイの

第二代修道院長問

5g

包ロ切などその他親しくコルンパアヌスに接した人々から資料を得て居り、叉作中の人物批評に

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(5)

ついては勉めて公正な態度を持しようとしているから、この伝記は比較的正確なものと認めてよいであろう。(何件丘 目 。

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・U HOHNlMω・)もとよりコルンパアヌスが行ったと伝えられる数

々の奇蹟はここにも記されて居り、特に侍童口。目。色目的のために祈祷によって岩から清水を湧き出させたという話は

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HONHIHONN〉ベネディクトゥスの行った奇蹟と極似する(対話篇、第二書、第五章)。けれどもヨナはコルンパア

ヌスの行動を忠実に描写し、その間に数個の奇蹟を織り込ましたのであって、全体の物語の進行にはさほど目障りとな

学的良心を知る参考なるで・あろう)。

コルンパアヌスはアイルランドのレンスタ1

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の訓戒をうけて遁世の士山を起し、。。

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入ったが、単調な孤独生活宥嫌い、同志十二名を引卒して大陸への伝道に志し(年二十才、』。ロ

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1アを経てフランク領ガリアに入り、オストラシア、プルグンディアを支配するのロ 8 ・uロ)プリグニ

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の庇護をうけてぐ。富岡5

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)地方の古城〉ロ

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院に集り来った多数の弟子を指導しつつ彼等が終日終夜連続的に祈樽

する様手配し、叉、修道戒律(河内問己

ω 8 0 ロ 。

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ろを作ってその生活方針を定めた。透か西欧一隅の島国から来て

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多くの修道士を短時日に集め、これを教育したことは彼の優れた手腕を一示すものであるが、この頃コルンパアヌスは外

部の複雑な政治界に関係しなければならなくなった。これはベネデfクトゥスが周囲の修道士や司祭から嫉まれたよう

な小さな事件ではなく、彼の場合は当時のフランク王室内の葛藤に巻き込まれたことから始る。

コルンパアヌスがアイルランドからガリアに来たのは五九0年代の初めであるが、当時はクロ1fスがフランク王

国を建ててから百年程経過

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た後で)国土はその孫。

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Hosei University Repository

(6)

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g尚己己の娘)であったが私チルペリックは愛人司忠弘内関口ロ弘ぬに唆

かされてガレスウィングを殺した結果、プルンヒルダとフレデグンデとの不利は延いて両国の対立となり、フランク園

内はとかく不穏であった。コルンパアヌスを保護したグントラムは五九二年に子なくして死し、その遺領(プルグン

ディア)はシジパIトとプルンヒルダとの子打開

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片岡(アウストラシア王)に併合され、チルデパート死して

(五九五)その子

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ディアを領したが、

後者の王宮内で絶対権力を持つものは祖母のプルンヒルダであった。テオデリックは初めコルンパアヌスに好意を持っ

ていたが、素行修まらず、六

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と結婚したに拘らず翌年これを棄てて放縦な生活に入っ

た為、屡々コルンパアヌスに訓戒された。一方プルンヒルダはテホデリックが王妻を持つことによって王宮における己

の権力が失墜することを恐れ、暗にこれを擁護する態度に出たので、自然コルンパアヌス、プルンヒルダ聞の不和を生

じ、テオデリックは祖母に組した。かくてコルンバアヌスと二人との衝突は避け難いものとなり、前者は後二者を破門し(彼は司教でないから原則としてはとの権限はない)、一方太后プルンヒルグはフランクの司教たちを味方としてコルン

パアヌスと彼がアイルラントから伝えた異国的な宗教上の諸慣習を非難すると共に、「従来王室がコルンパアヌスの修

道院に与えていた一切の恩恵を停止する」旨を説べ、更に彼をぐ

20 5E 2 ( 回

8A

。ロ)に住ませ王命を待たしめたが、

彼はこの際離国を決意し、少数の弟子を伴うてリュクセイ修道院を去

った

9彼のこの退去は六一

O

年であるからプルグンド地方の滞在期間は約二十年ということになるが、この間彼は王室貴族

を初め一般庶民より篤く崇敬され、或は己の子弟の教育を彼

に委

ね、或は自ら彼の前に峨悔告白をなし、清純な生活を送

ろうとするものが日々増加したに拘らず、遂にかかる結果を来した理由は、彼がアイルランド人としての自己意識が極

めて強烈であり、アイルランド風の修道思想を徹底的にこの地に実施しようとしたので、現地入の反感をうけた為と考

えられる。云うまでもなくアイルランドにあってはキリスト信者の生活そのものが修道生活であり、叉所謂修道者と称せられるのものは特に厳格な禁欲生活・を喜ぶのに反し、フランクにおける当時のキリスト信仰は全く形式化し、内面的霊的問題まで思考することを好まない。コルンパアヌスが「処罰の程度に関する

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)」を著しこれが矯正につとめたのもかかる事情によるものであるが、フランク人にとってはこうした

(7)

窮屈極まる異国的な信仰生活は望ましからず、且この地方ではあり勝ちなテオデリッグの品行問題を執劫に攻撃される

ことも亦不快である。要するにコルンパアヌスのフランク王国退去はアイルランド的、フランク的という二つの宗教生

活様式(特に後記する復活祭の問題を伴う)の桐異に原因するが、之に加えて一方にはメログインガ朝の歴史を通じて

最も権謀術数に長け、王宮内で椋腕を振ったプルンヒルダがあり、他方には精力的で非妥協的な而も性急に事を処理せ

んとするコルンパアヌスが居たことが万事を不可避的な方向にまで進展させた理由があったと考えられる。-1彼が司

教でもなく、玉や太后を破門にしたことなども、彼の性格の一端を一示すものであろう。!l

これよりコルンパアヌスは王命を受けた何

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の引卒する一隊に議衛されて〉

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の地を離れようとしたが(この時リュクセイの弟子に宛てた書簡明

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く)、暴風に悩まされて船は進まず、再び上陸しての巴。忌包囲(ニューストリア王、かのブルンヒルダと対立したフ

レデグンデの子)の王宮に立ち寄り、次いでフウストラシアの吋

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§2 ニの許に行き、ラインを湖ってスイスに

入り、コンスタンス湖畔に定住して偶像崇拝の原住民を教化したが、右の宇ワデパートが一アオデリックのために吋己-

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く、遂に意を決して弟子。巳

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アイルランド人)をこの地に残し、自らは弟子〉仲

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と共にアルプスを越

えてイタリアに入り、ロンパルト王bm

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毘からボピオの地が与えられ、この地で一年後六一五年死んでいる。

以上によって見れば、コルンパアヌスの活動はベネディクトゥスに比すべくもなく雄大であり、その足跡は中部ガリ

ア、ライン上流、スイス地方より北イグリアにまで及んでいる。而もこの間彼に接するものはグントラム、テオデリッ

ク二世、クログIル二世、プルグンド王室の権力者プルンヒルダ、更にロンパルド王プギルルフなど当時の代表的人物

であり、これらの諸王はすべて大なり小なりに彼から宗教的感化をうけて居ることは、ベネディクトゥスが単にゴ1ト

王トティラと会見したに止るが如きと大なる相異である。従って、かのベネディクトヴスがスピアコ、モンテカシノと

移住しつつも比較的平和な生活を送り、妹スコラスティカと夜を通じて静かな会話をつづけたという様な経験をコルン

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Hosei University Repository

(8)

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パアヌスは持たず、生涯を通じて最大の努カを払ったリュクセイの修道院に永住することは許されず、貴族司教たちに

憎悪の眼を以って遇せられながらイタリアヘ去っ

ている。ヨナによれば「彼がリュクセイ退去の際は食料の欠乏甚し

く、オルレアン市においては各教会は門戸を閉じて彼を避け、弟子の旬。常

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及び他の一名が市中を駈廻ったが容

易に食物を得ることは出来なかったo」とある。尤もヨナは附記して「一般人がコルンバアヌ払の奇蹟を知って内心は尊敬しつつも、王の怒を怖れて心ならずもこのアイルランドの聖僧と関係づけることを遠慮した。」と云っているが、

恐らく宗教界は勿論のこと一般庶民でさえ、も、この西方島国からの他国者に対して一種の憎悪感を持ち、彼はかなり広

範囲に亘って孤立せざるを得ぬ状態にあったと想像されるのである。

ところで彼がここまで追いつめられたことは右に述べたような単なる生活様式の相違という問題だけではなく、彼の

極めて激しい気象、無遠慮な態度が世人の反感を

買っ

たことも考えねばならないであろう。コルンバアヌスがパリの郊

外でプルンヒルダからテオデリックの子供らに祝福を与えられんことを請われた時、彼は肘合えて「これ等は淫売屋より

出たるものなれば、王位をうけることなかるべしと知れ。(〉片山】】

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の招待をうけた時、食卓で司教から「何故に郷里に帰還さるるや」と問加点て、「テオデリッグの犬めが我が同志たちより我を放逐せり。(の州

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っている。このような向う見ずの言動が彼の永年にわたる努力の結果を水泡に帰せしめた大きな原因ではなかったかと

思わ れる

彼が少年時代、出家の希望を母に骨げた時、母ぱ漢に週間れ闘の上に身を担げ3伏)して彼の決意を概えさう・としたが、彼は母の身

体を踏み越え、「との世では再び会わぬであろう」と一式いつつ・去ったといろ。修道思想が流行した当時には、我々にとっては非

けれども以上の理由によって、コルンバアヌ,スの伝道事業は無効に終ったということは出来ない。コルンパアヌスその人は追放されたけれども、リュグセイの修道院はその後も栄え、彼の後には円

2E 25

の修道院に居た

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(9)

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グンド人である。)が之に代る予定であったが師コルンバアヌスに従ってト記の如く共にボピオに来り、コルンパ

アヌスの死後ボピオの院長となり、

一方

リュクセイの院長は開

5S Eg

(元パンゴールの修道士で、さきにコルンパ

アヌスと同行した人)がなり、次いで毛色円借

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がその後を襲うた頃、同院は益々隆盛に赴く一方、各地にコルンパ

アヌスの精神を継承する修道院が現われてくる。即ち

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などはその重なものであろう。但し右の設立者及びその弟子たちはコルンパアヌスその人に対する尊敬と思慕のあま

り修道生活に身を投じたもので、いずれもコル

ンパ

アヌスの戒律を日常生活の基準としては居るが、これらの修道院相

互間には何等の精神的な融合も連絡もなく、個別的な、云わばばらばらな存在に過ぎなかった。而も彼等がフランスや

スイス、北イタリアなどにおいて、アイルランド的な、即ち異国的な生活様式を護って行かねばならぬところに無理が

あったように思はれる。従って時代を経るに従い、コルンパアヌス的な生活が次第にこれらの地方から払拭されていっ

たのは止むを得ぬことであった。

Hosei University Repository

(10)

コルンパアヌスもベネディクトヴスも共に戒律を編纂して修道士の生活を規定している。このうち、ベ、ネディクトゥ

スの戒律について世間川1翻訳、や研究などが発表されているから、本小文ではコルンパアヌスの戒律を主にして、両者を

比較検討したいと思う。

べ、

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クト

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の戒律は全七十三章、その内容は整然としており、各章の記述は敦れも具体的であり、旦、懇切で

ある。これに反してコルンパアヌスの戒律(全十章)は不整備であり(特に第十章は著しく定大である。)、修道士の

精神生活を重視し、彼らの行動を常に監視して処罰を厳にするが、修道院の統制、集団的修道生活の方法、相互の関

係、融和などに関しては殆んど注意を払っ

てい ない

十章内容一章(服従、第ご章(沈

)、第三章(食)、第四章(

の抑圧)、管主章(抑圧)、第

六章(貞潔)、第七章(祈祷順序)、第八章(熟慮慎重)第九章(禁欲)、第十章(各種の罪過)であろ。

先ず修道生活の三大要件である服従、清貧、貞潔について比較して見ると

服 従

ベネディクトヴスの第五章、コルンパアヌスの第一章に見え、共にルカ伝一

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六「汝等に聴く人は我に聴くな

り」の何を引用して年長者の命令には直ちに服従すべきことを規定する。

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コル、「次に年長

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最初の言葉に対し《年長者が一式ひ初むるや否や》、これを聞きし一同は服従すペく起立せざる

べからず。何となれば服従は神に献げられしものなればなり。(巴色白色。包宮山

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かくの如く、服従に対する見界は両者全く同一であるが、唯重大な相異点は、ベネディクトゥスにあっては、服従す

ることによって「修道院に住み、修道院長を首長とすることを希望する(

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含包含窓口?とのであり、更に第二章の「修道院長は如何なる人であるべきか」において詳細にその職責を

定めているが、コルンパアヌスにおいては単に年長者(

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山。ァこの語は単数形で唯一回のみ使用されている)に服従

することを命ずる。つまり前者は修道院の組織と命令系統とを重んじ、すべて修道院長に統率されることを言外に含め

るのであるが、後者コルンパアヌスでは、当時の修道院(即ちリュクセイの)の年長者は自己即ち院長であり、自己の

自由意志によって院内万端の事務は運営されて行くから、 2骨者の如く特に院長の権威を強調し、叉院長によって統御さ

れる一修道院なるものを推定する必要はない。要するにコルンバアヌスの戒律は、コルンパアヌスという強力な権力者の存在下にあってのみ施行さるべき便宜上の、一式わば当座の規定であったように思われぬL

貞 潔

ベネディクトゥスの戒律には第四章に「貞潔を愛せ。(の

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宮自白

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)」の一句があるのみであるが、コルン

パアヌスは第六章にマグイ伝五ノ二八に見える「色情を起さんとて婦を見る人は既に心の中に之と姦淫したるなり」の

句を 引用 し、 貞潔

を単に肉体に止めず精神の問題とする。されば「もし心に貞潔たらずんば肉に貞潔たりとも何の利あ

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」とさえ云うのである。我々はここにもコ

ルンバアヌスの妥協を許さぬ強烈な性格を見出すのであるが、一方これに対してベネディクトグスが貞潔の問題を単に

一一語に止めたのは明か異様に感ずるけれども、もしベネディクトザスの修道院が修道士に∞宮ゲニ

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(修 道院 定住

第五十八章、第六十一意)との。ロ

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(操行改選、第五十八章)とを強制し、院長の下に強力な

一 一 一 一

Hosei University Repository

(12)

二四

組織の中に立つならば、貞潔という困難な問題は自ら解決される筈であるGつまり前者は個人の自律的な貞潔を要求す

るが、後者は統制ある集団生活内にあって自ら行わるべき貞潔を示そうとするのである。

清 貧

ベネディクトゥスは第三十三章の「修道者は私有物を持つべきか」において院長の許可を得ない一切の私物を禁じ、

第五十五章「修友の衣服、靴について」において私有物を禁ずる一方、日常の必需品であるk

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書板(宮ヴ三宮〉が院長から与えられる。叉入院時には所有財産を「或は予じめ

賞者に与えるか、或は正式に修道院に寄附し、みずからは一切何物をも保有せざる(

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五十八章

に定める。然るにコルンパアヌスはかくの如く、清貧生活の具休的内容を示すことなく、その戒律第四章に「まことに彼

等が余分のものを持つことのみならず、《持たんと》欲することも非難すべく、その財産《を云ふ》に非ず、《その》

意慾《そのものが》問題となるなり。(ZE

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)」と云い、更に「修道士にとりて食欲は療病《の如きもの》なりと知れ。(ω己g常

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・-::どとして、あくまで精神の問題に重点

を置いている。

その他コルンパアヌスの戒律にあっては、第二牽「沈黙について」の項においても「《一広ふことが》可能なりし時に、

正し き《 一一 百葉

》を 一式 ふを 欲せ ず、 却

って多弁を以て、邪悪なる、不正なる、汚れし、無益なる、有害なる、不確実な

る、虚偽の、闘争的なる、侮辱的なる、不潔なる、作り話の、不敬なる、暴々しき、ひねくれたる《言語》を語ることを

好むものは、正しく罪悪とさるべきなり。((『

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U・』と述べ、叉、第五章「虚栄心を制

圧すべきこと」においても、ルカ伝一六ノ一五、一八ノ一一の何を引用し、人の中に高くせらるるもの、即ち自らを正

(13)

しとするパリサイ人の態度を例に挙げて虚栄と高慢とはすべての普の破壊者

(宮

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匂肯定〉であるとする。

叉、第九章にあっても苦行や禁欲の具体的内容は説かず、「修道者は裁く者ではなく、常に裁かるる者の地位に立ち、口論することなく、他人の忠告(。。ロ巴ロロB)を聞いて之に服従すべき」ことを説いている。

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、「倣慢にして頑迷なる

素質のものには堪え難き苦行も、謙遜し柔和なることを喜ぶものには慰轄となる。(

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になさざること(好き勝手なことを行うなの意か〉《即ちこれなりo

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宮・)」というようにあくまで内面

的、精神的な生活のみを強調するのである。

かく観察してくると、コルンパアヌスは修道士が行動を開始する以前に先ず内省すべきことを要求していることが認

れるが、かかる内省の為に彼は第八章「熟慮慎重について(巴め色

ω2

2日。ロぬとにおいて、議口と悪とを識別する能力を

めら神から与えられるよう祈るべきであるとし、その善悪の内容について述べている。

これを要するに、コルンベアヌスはリュクセイの修道院において、配下の修道者に対し先ず内省的自律的な生活を奨

励したが、共同生活に必要な日々の祈薦や作業

に関

する時間的区分の如きは第

三 義

的なものと考えたのではなかろうか

と思われる。そうしてかかる自律的内省が必要であった理由は、コルンパアヌスの修道院において各修道士は通常夫々

の個室に住んでいたためであろう。コルンベアヌスの戒律第七章に「されど祈博するものは定められし時に一同直ちに

集合す、という定時祈稽の順序(次第)を心得置くべく、これが終了後、各々は自己の個室にて祈祷せざるべからず。

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3の文字が使用されてある

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じれはベ、ネディクトヴスの戒樟第二十二章に「各々は各自の寝台に眠るべ

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二五

Hosei University Repository

(14)

一 一

いる。ペつまり前者には未だ東方的修道生活様式が残存し、個別的な膜想や祈一障の時間があったのに反し、後者におい

ては集団的共同的な生活(修道院は所謂。。ロ開店尚三芯であるという観念に立つ。戒律第三章を見ょ。)に主眼点があ

った事が察せられるのである。

次に毎日の飲食物、睡眠について見る。

食事,コルンパアヌスの戒律第一二章によれば、「修道士の食物は廉価《通常口問》にして夕刻なるべし《夕刻にとるべ

し》。満腹と飲物の酪町とを避けよ口(の

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」とある。一方ベ、ネディ

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ウスの戒律には第四章に「大食せ

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・)」と規定しつつも、更に第三十九章では「約一リプラのパンは一日《の食料》に充

分なるべし、これは《一日》一回食事の時も、中食夕食の時も038Zロ

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なるべし。叉もしあらば果物、新鮮なる野菜を第三品として附加すべし。(開同問。己口。

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)」 と記 され てあ る。次長物としては勾くベネディクトヴスの戒律第四章に「乱酔せざること(

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・どとあり、更に第四十章に「一日一へミナの葡萄酒にて各人は充介なりと信、ず。(の古色ggE

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・)」と記されて弘るo一方コルンパアヌスの戒律では、前記のように「醗町をさけよ」との規定はあるが、

当時の彼の修道院ではピリペルが常時飲用されていた。故に飲食に関する限り、コルンバアヌスの修道院はベネディクト

ヴスのそれと比して特に禁欲的であるということは出来ない。

次に睡眠時間について見るに、コルンパアヌスの戒律には起床と就寝の時間に関する規定はなく、唯第九章の終に記

された「修道士の完全性について(巴内宮昆

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(15)

く、限り終へて後、起さるる、が如きことなかるべし。(〉

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光の中にすべてのものがなさるる様に(

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と」とあり、従って日設後直ちに就床したものと想像され

る。叉第八章には「冬期即ち十一月一日より復活祭までは適度に塩梅して夜の第八時に起床せざるべからず。(出

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(この間修友は用便に行け)、夜の聖務に続く様に時間が定めらるべし。(

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-)」と記され、更に夏期

のイタリアでは必要な少時の午陸、所謂包

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があり(第四十八草川これらの時聞を合計すれば、冬には八、九時

(持)問、夏には七、八時間となり、修道士にとっては充分な休養が与えられている。従って食事の場合に比し、睡眠に関し

てはコルンパアヌスは甚しく禁欲的であるが、彼が食事においては寛に、睡眠においては厳にしたのは、郷里のアイル

ランドやガリアの東部がイタリアに比して気温が著しく相異している為ではなかろうかと思われる。

最後に刑罰について見るに、コルンパアヌスにあっては極端にまで苛酷の様に感ぜられる。彼の処罰方針については

戒律第十章の「諸種の罪過について(ロ

2

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巴宮古の己

325

どに一ホされているが、本章は他章に比してその内容は

甚だ長く、叉、他章が常に精神的方面のみを述べていることを思えばこれは余りにも不調和である。従って本章はコル

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ンパアヌスの筆ではないという説もあり、ムワ直ちにその真偽の程を決定することは出来ない。けれどもこれは察するに

直接彼の筆ではないにせよ、彼の意考を休した弟子たちの記したものではなかろうかと思われる。つまり、当時コルン(ぬ)パアヌスの修道院(戒律第九章「修道士の完全性について」以下はボピオの修道院の記録と云わる〉において種々の過

失或は大小の犯罪があった時、コルンパアヌスがこ・れに適当な処罰を命じ、弟子たちがかかる実例が今後にも起るであ

ろうという事を予想して、その都度記憶のために書き遺したものがこの第十章ではなかろうかと想像される。これは単に私の推察に過ぎないが、この第十章は他章に比してあまりにも些細な問題が取扱われて居り、而もこれらが何等整理

二七

Hosei University Repository

(16)

二八

されて居らず、順序不同雑然とし、中には罰則と見倣されぬ文章も混入し、罰として加えられる鞭打についても或は

宮 円

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或は

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或は

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という異った文字が無造作に用いられていることなどによって考えられる。

,ところでコルンパアヌスの修道院において驚くべき苛酷な休罰が行われたことは史上有名であるが、本章に記載され

た重なものを見ても

食事の際祝福をうける規定を守らず、ア1メンを答えざるもの

会食時必要もなき話をなすもの自己の所有物なりと言い張るもの(註、修道院の共産生活に反す)

彼の嘗める《自分の今使用する》スプーンに十字の印をつけざるもの

常よりも大戸に話すもの若き修道士にしてランプを点し、十字の印をつける様年長の修道士に提出せざりしもの

無駄の仕事をしたるもの

詩篇を読する前に咳を止めざりしもの

聖休拝領の際、聖杯に歯を当てしもの

供犠《ミサ》の順序を守らざりしもの

その際爪を切らざりし司教

髪を剃らざりし助祭

聖務中に笑ひしもの供犠をなす司祭及びこれに奉仕する助祭にして朕をぎよろっかせしもの

!ー以上の者執れも夫々罰として六回鞭打す。外出の際《他人より》祈一酵を求めんとせず、祝福をうけて後、自ら十字の印をなさず、十字架の方へも行かざる

もの

仕事の前後に祈りを忘れしもの

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