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「黙せる詩」Muta poesisをめぐって : ベッローリ の美術家列伝における絵画の理想

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「黙せる詩」Muta poesisをめぐって : ベッローリ の美術家列伝における絵画の理想

著者 清瀬 みさを

雑誌名 人文學

号 174

ページ 1‑21

発行年 2003‑12‑20

権利 同志社大学人文学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000004599

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﹁ 黙 せ る 詩 ﹂ Muta poes is を め ぐ っ て

││ベッローリの美術家列伝における絵画の理想││

清 瀬 み さ を

はじめに

十七世紀イタリアを特徴づける美術文献は︑美術家列伝であった︒しかし︑その課題は︑もはや前世紀にヴァザー

リが集大成を遂げたトスカーナ芸術の栄光の記録を繰り返すことではなく︑国際的な視野を広げつつ彼の列伝に編年

史的な増補・補完をすることにあった︒まず一六四二年にバリョーネ︵GiovanniBaglione1571−1643︶が︑ヴァザーリの

第二版に続く一五七二年から一六四二年までの︑外国人をも含めた美術家約二百名を︑ついで一六七二年にパッセリ

︵GiovanniBattistaPasseri1610−1679︶がバリョーネの後を受けて一六四一年から一六七三年までの三十六名を扱ってい

ママを中心に展開した︑ニロエリスムの終焉期からー場︒期それらは︑反宗教改革に磁おける国際的な文化のバ

ロック開花の時代についての貴重な証言である︒

しかしその後を受ける筈の一六七二年にベッローリ︵GiovanPietroBellori1613−1696︶が上梓した﹃当代の画家︑彫刻

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﹁黙せる詩﹂Mutapoesisをめぐって

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家︑建築家列伝﹄Vitede’pittori,scultoriedarchitettimoderniは︑従来の列伝形式を改め︑後の時代の指導理念となる

古典主義美術理論を表明するとともに︑古代から自分の時代までを新たな歴史意識で構築しなおす試みとなってい

主ってゆくフランス古典義をに理念的な基礎を提供担勢︒わしかも︑イタリアに代り趨ヨーロッパ近代美術のし たと考えられる︒小論では︑同時代の実際の美術動向︑とりわけフランスの画家プッサン︵NicolasPoussin1594−1665︶

の活動と並行して形成されていくベッローリの美術理念と美術史観の分析を通じて︑彼の列伝執筆の意図とその歴史

的な意義を探ってみたい︒ベッローリの教養と列伝執筆の素地を概観したうえで︑列伝成立の事情を確認し︑列伝の

前書きと序論を中心に考察する︒

一ベッローリの教養と列伝執筆への素地

ベッローリは︑一六一三年︑ローマに生まれた︒父はロンバルディア出身の小農であったが︑彼の教養形成に決定

的な感化を及ぼしたのは︑母方の叔父フランチェスコ・アンジェローニ︵FrancescoAngeloni1559−1652︶である︒アン

ジェローニは︑ボローニャの美術界と縁の深かった人文主義者であり︑枢機

鑄ドーィデンラブルイア・トリーポッニ

︵IppolitoAldobrandini1536−1605︑後のクレメンス八世︶の秘書官であった︒古今の美術に等しい情熱を傾け︑古代のメダ

ルと︑同時代ではとりわけファルネーゼ・ギャラリー装飾を中心とするアンニーバレ・カラッチ︵AnnibaleCarracci1560

−1609︶の素描約六百点の収集で名を馳せ︑古代美術論や歴史的著作などの文筆活動でも知られる

︒ベッローリは︑

この叔父のもとで育ち養子となった︒叔父の薫陶を受けた古代通ぶりと人脈から︑後になって︵一六六〇年ころか ﹁黙せる詩﹂Mutapoesisをめぐって

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ら︶スウェーデン女王クリスティーナの司書兼古代調査官︑そして一六七〇年には教皇クレメンス十世の古代ローマ 遺跡監督官CommisariodelleAntiquitàdiRomaに抜擢されている︒

同時代の美術家との交流︑そしてベッローリ自身の美術家としての眼の形成に重要な出発点は︑ローマで叔父の親

友であった画家ドメニキーノ︵Domenichino/DomenicoZanpieri1581−1641︶に師事したことであろう︒一六三三年には当

地の聖ルカ・アカデミーに入会を果たしている

生やンサップ家画てったわに涯︑︒くかもとは動活のてしと家画カ ルロ・マラッタ︵CarloMaratta1625−1713︶ら美術家︑美術理論家︑収集家︑パトロンたちと密着した交流と対話を絶

やさず︑常に美術制作や修復の現場に接し︑画家の図像プログラムに着想を与えたことが伝えられている

︒それら

の古代研究︑美術家との親しい交流が︑机上の空論に終わらない彼の芸術理解につながっている︒

列伝へと通じる活動は︑一六四一年に叔父の詩作﹃歴史﹄Istoriaの序文執筆に始まり︑美術に関しては︑翌一六四 二年バリョーネの美術家列伝中の﹁アンニーバレ伝﹂に付した序文︑﹁絵画によせて﹂AllaPitturaと題したカンツォ

ーネ︑さらに一六四七年にヴァザーリの列伝第二版の再版に︑トスカーナ大公に献じた序文︵詩﹁永遠の祭壇の上

で﹂Sopral’Aradell’Eternitàも担当している

にばえ例︵め始し筆執もてし関術︒美代古︑はに半後代年〇四六一一 六四五年には︑﹃ティトゥス帝凱旋門についての覚書﹄NotaeadArcumTiti︑五十年代後半には︑友人マラッタの指

揮下に修復が行われたヴァティカンのラファエッロ︑そしてアンニーバレ・カラッチのファルネーゼ・ギャラリーを

つぶさに見聞しフレスコ画論を起草している

述象︑的意寓︑的学文の題主︑記︒の物人の中画︑は容内のられそ徴

的意味の図像解釈などを含む作品解説であるとともに︑修復論の先駆的存在としても注目される︒また一六六二年に

は︑ある旅行家の伝記も執筆している

彫ーで﹁画家︑刻デ家︑建築家のミカ︒四さらに一六六年アに︑聖ルカ・イ

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﹁黙せる詩﹂Mutapoesisをめぐって

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デア︑自然にまさる自然美の選択﹂Discorsosull’ideadelpittore,delloscultore,del’archittto.Sceltadallebellezzenaturali superioreallanaturaと題した講演を行い︑自己の芸術理念を表明している

︒これが︑彼の列伝序文となる︒

二列伝の出版と稿本

一六四〇年代後半には列伝執筆の意思を持っていたと思われるが︑当初は彼もヴァザーリの編年史的な補完を意図

し︑周囲もそれを期待していたようである

rloCaにリ先︵シッレノマ者編の版二第ー触︒ァヴの版再年七四六一たれザ Manolessi︶の示唆をはじめ﹁ヴァザーリの列伝の続き﹂という発言が散見される︒執筆開始の時期︑伝記間の執筆順 序についてはドナウの研究に詳しいが︑現在まで解決を見ていない︒列伝中﹁読者へ﹂Allettoreと題した前書き

に︑画家プッサンの勧めで執筆を決心したとあることから︑遅くとも画家の没年一六六五年には列伝執筆の相当分量

が進んでいたと考えてよいであろう︒またベッローリは︑一気呵成に執筆するのではなく︑完璧を期して資料を収集

し推敲を重ねるタイプの文筆家であった︒友人宛書簡から︑少なくとも一六四〇年代後半以降に起草し︑一六六〇年

には列伝が部分的に完成し︑ドメニキーノ伝は完成間近かであり︑フランチェスコ・アルバーニ伝が執筆予定であっ

たようである︒印刷に入った一六六八年に︑ベッローリは︑ローマあるいは特定の地方の画家ではなく︑自身の判断

によって敢えて若干名を列伝に選択したと述べている︒また一六七〇年には︑列伝がアンニーバレ伝から始まり︑そ

の部分はすでに刷り上がり︑残りも印刷中であること︑ラテン語の銘文入りの肖像画を添えていることを語ってい

︒ sispoetaMu詩﹂るせ黙﹁をめぐって

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列伝の初版は︑一六七二年にローマのマスカルディから出版されたが︑第二部については出版のあてもなく︑断続

的に原稿執筆をしていた︒その草稿は︑一六九六年にベッローリが歿した後一七〇四年までは遺産相続人のもとに所

在が確認されており︑一七三五年にはクロザのもとに︑そして一八四七年に所有者ド・モンブレから今日知られてい

る部分がルーアン図書館に寄贈された︒

ベッローリ歿後の列伝出版は︑一七二八年に︑ベルナルド・デ・ドメーニチ︵BernardodeDomenici︶によるルーカ・ ジョルダーノ︵LucaGiordano1634−1705︶伝を補遺に付した版がナポリで刊行されている︒さらに一八二一年には︑ベ

ッローリに帰されるカルロ・マラッタ伝を加えた版がピサで出版されている︒ボレア校訂版は︑刊行されなかった列

伝第二部にあたるグイード・レーニ︑アンドレーア・サッキ︑マラッタの章を含む︒

三列伝の構成

一六七二年に上梓したこの書﹃当代の画家︑彫刻家︑建築家列伝﹄が︑フランス王立絵画・彫刻アカデミーの保護

会長である宰相コルベールに捧げられたのは︑献辞中に述べられているように︑フランス人画家エラール︵CharlesEr-

ard1606−1689︶の意向を汲んでのことであった︵図1︶︒形式的には︑美術家列伝の伝統にしたがい献辞︑読者への前

書き︑序論︑すでに故人となった美術家十二名の伝記で構成されている︒ベッローリと親密な関係にあったエラール

は︑フランスの手本であった聖ルカ・アカデミーにおいて︑この年フランス人として初めて会長に就任した人物であ

る︒ローマを舞台とするイタリアとフランスの力関係を如実に象徴する出来事である

︒そして︑献辞中に︑フラン

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﹁黙せる詩﹂Mutapoesisをめぐって

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ス人画家プッサンを古代ギリシアのアペレスにたとえ︑

軍隊と文学では隆盛を誇っていたフランスが︑ついにこ

の画家の絵筆によって︑誉れ高きイタリア絵画と肩を並

べるに到ったというベッローリの評価は︑美術史上の分

岐点を同時代人が証言する︑きわめて重要な発言であ

る︒

内容的には︑読者への前書きが列伝の趣旨︑序文が列

伝の美学的プログラムとなるべき古典主義的美術理念︑

列伝中のアンニーバレ伝序文が美術史観の表明︑そして

個々の伝記が作家の生涯と限定的な作品の考察による十

七世紀美術史の実証的な研究となっている︒

読者への前書きは︑列伝の趣旨の説明である︒まず︑

従来の編年史を放棄し︑特定の作家に限定した理由であ

るが︑ベッローリによると美術家の列伝は︑単に読み物

であってはならず︑そこに記された傑作に倣おうとする

指針を読者に与えるようなものでなければならない︒そ

してヴァザーリのようなフィレンツェおよびトスカーナ

1 扉絵 コルベールの紋章を描く「黙せる詩」の絵画

﹁黙せる詩﹂Mutapoesisをめぐって

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贔屓は非難されるべきである︒またヴァザーリやバリョーネのように︑玉石混合のおびただしい作家を取り上げるこ

とは︑いたずらに読者の混乱をまねく無駄な労力である︒したがって模範となるべき作家を厳選し︑扱う作品もルキ

アノスが建築家ヒッピアスをただ一点の作品︵浴場︶によって見事に論じきったことに倣うべきである︒また作品の

深読みや思い込みは避け︑言葉による作品の翻訳者に徹し︑作者の創意と工夫を示し︑その才能と優れた技を記録に

残す︒記述の方法は︑プッサンの助言により︑ラファエッロのフレスコ画を論じた方法に従い︑全体的な創意invenzi-

oneuniversaleそして作品中の人物の構想concettoと動作moto︑感情表現を伴った行為azzioniを論じる︒以上が列

伝形式に関する趣旨である

刊行されたベッローリの列伝は︑当初の意図では︑絵画の復興者であるアンニーバレ・カラッチから始まる同時代

の歴史を扱う第一部となる予定であった︒ベッローリは列伝中において何度も執筆中のフランチェスコ・アルバーニ

︵FrancescoAlbani1578−1660︶およびグイド・レーニ︵GuidoReni1575−1642︶伝を含む続巻を予告している︒絵画に比べ

て彫刻さらに建築は一層のこと︑憂うるべき現状にあると述べていることで︑画家伝が中心になる理由を暗に示して

いる︒しかし︑予定された第二部は︑出版社のあてがなかったので刊行されなかった︒ドナウによると︑ベッローリ

の死後出版されたカルロ・マラッタ︑グイド・レーニ︑アンドレア・サッキ︵AndreaSacchi1599−1661︶伝のほか︑ア

ルバーニ︑ルドヴィコおよびアントニオ・カラッチ︑グエルチーノ伝を執筆していたらしい︒アンニーバレ・カラッ

チ伝中にも︑この画家が育てた弟やアルバーニ︑グイード・レーニ︑ドメニコ・ザンピエーリ︵ドメニキーノ︶︑ジ

ョヴァンニ・ランフランコ︵GiovanniLanfranco1582−1647︶︑アントーニオ・カラッチ︵AntonioCarracci1583−1618︶らの

伝記は個別に執筆していると述べている

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﹁黙せる詩﹂Mutapoesisをめぐって

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美術家十二名の内訳は︑アンニーバレ・カラッチ︑その兄 アゴスティーノ︵AgostinoCarracci1557−1602︶︑ドメニコ・フ ォンターナ︵DomenicoFontana1543−1607︶︑フェデリゴ・バロ ッチ︵FederigoBarocci1528/30−1612︶︑カラヴァッジョ︵Caravag- gio/MichelangeloMerigida,1573−1610︶︑ルーベンス︵PieterPaul Rubens1577−1640︶︑ヴァン・ダイク︵AntoonvanDyck1599− 1641︶︑フランソワ・デュケノワ︵FrançoisDuquenois1594− 1643︶︑ドメニキーノ︑ランフランコ︑アレッサンドロ・ア ルガルディ︵AlesandroAlgardi1595−1654︶︑そしてプッサンで

ある︒すべて故人となった画家九名︑彫刻家二名︑建築家一

名で︑ボローニャ派の画家とフランドル人およびフランス人

が大半を占め︑フィレンツェ人は皆無である︒それぞれの伝

記は︑序文︑美術家の生涯︑作品の記述︑様式的考察︑美術

家の人となり︑その他の逸話で構成されている︒

各美術家の伝記冒頭には︑エラールを代表とする画家の手

になる合計四十三点の銅板画の挿絵が付され︑コルベールへ

の献辞と各伝記に肖像画とその美術家の特性を象徴するラテ

2 アゴスティーノ・カラッチ伝挿絵「黙せる詩」

﹁黙せる詩﹂Mutapoesisをめぐって

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ン語の銘文入り寓意像が添えられている︵図2︶︒コルベールへの献辞には﹁黙せる詩﹂︑つまり絵画を表す寓意像が

コルベールの紋章を盾に描いている︒それぞれの画家の肖像と対になった寓意像の銘文は︑アンニーバレ・カラッチ

が﹁名声LaFamaBuona﹂アゴスティーノが﹁黙せる詩MutaPoesis﹂︑フォンターナが﹁幾何学Geometria﹂︑バロッ チが﹁不断の研鑽StudioVigilanti﹂︑カラヴァッジョが﹁実践Praxis﹂︑ルーベンスが﹁歴代の王はわれわれに特典を 賜るDantNobisPraemiaRegestatioSapens﹂︑ヴァン・ダイクが﹁賢明なる模倣ImitatioSapiens﹂︑デュケノワが﹁︵絵 画・彫刻という姉妹芸術は︶同じ葦︵のペン︶によって結ばれるCalamoLiganturEodem﹂︑ドメニキーノが﹁想像力 ConceptusImaginatio﹂︑ランフランコが﹁自然Natura﹂︑アルガルディが﹁三姉妹︵絵画︑彫刻︑建築︶TresSore- res﹂︑プッサンが﹁光と影LumenetUmbra﹂である

四序論におけるイデア論

序論﹁画家︑彫刻家︑建築家のイデア︑自然にまさる自然美の選択﹂は︑一六六四年の聖ルカ・アカデミーにおい

て︑芸術の根源となるイデアを論じつつ︑理想美を達成した古代礼讃を表明した講演録である︒この講演は︑列伝執

筆中に行われたものであり︑当初から列伝の序論として構想されたものと考えられる︒ベッローリは︑アリストテレ

ス︑クインティリアヌス︑キケロ︑プルクロス︑プリニウスらの古典作家やアルベルティ︵LeonBattistaAlberti1404−

1472︶をおびただしく引用し古典の権威を振りかざしながら論を展開する︒ここで展開するイデア論は︑現実からあ

まりに遊離したマニエリスム︑またいっぽうで自然を無批判に模倣する通俗的なカラヴァッジョ︑さらに幻想や気ま

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﹁黙せる詩﹂Mutapoesisをめぐって

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ぐれにとらわれる同時代の建築つまりバロックを断罪し︑古典を規範に挙げつつ現実と理想との調停を見いだそうと

する試みであった

ベッローリにとって︑あるがままの地上の自然は不完全な存在である︒現実の人体よりも彫刻された人体の方がよ

り完全さにおいて勝る︒芸術は自然の模倣であり︑人間の行為の再現であるが︑現実は不完全であるのでアリストテ

レスが﹃詩学﹄Peripoie¯tike¯sにおいて述べているように︑人間の﹁本来あるべき姿﹂を︑そして﹁優れた人間の行 為﹂を表現しなければならない︒そこで︑優れた美術家は精神menteの内に形成した美の規範unessempiodibellezza superioreであるイデアを模倣しつつ︑欠陥のない色彩coloreと線lineamentoによって自然を修正する︒ただし︑こ

の美の規範であるイデアは︑マニエリスムの理論家の想定するように先験的・形而上学的に精神に宿るものではな

い︒ベッローリは︑キケロの﹃雄弁家﹄に記述されているあまりにも有名なゼウクシスの例を引用する︒プリニウス

の﹃自然博物誌﹄を出典とする複数の美女から理想美を抽出する逸話である

神るす成形に中の精︒が身自家術美﹁﹂

イデアは︑自然の中から選択的に作られるべきである︒こうして﹁イデアは自然から生じ︑自然にまさり︑芸術の根

源となる︒そのイデアは︑知性というコンパスによって測られて手の尺度となり︑想像力に鼓舞されて︑画像に命を

与える︒﹂Questaidea,originatadallanaturasuperal’origineefassioriginaledell’arte,misuratadalcompassodell’intelletto,di-

vienemisuradellamano,edanimatadall’immaginativadavitaall’immagine...その美の規範を完璧に実現した時代こそ

が古代であるために︑自然を観察することと並んで美術家は古代を学ばねばならない︒また美のイデアは唯ひとつの

ものではない︒最高の画家は︑物事にそれぞれふさわしいイデアによって形式を与える︒具体的には︑人間の行為を

描くことであるから︑感情とそれにふさわしく対応する表情や動作と行為を視覚化しなければならない︒ ﹁黙せる詩﹂Mutapoesisをめぐって

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さてこのベッローリのイデア論の本質は︑彼自身がアルベルティ︑そしてラファエッロの名を挙げるように︑基本

的に古代の文学論︑具体的にはアリストテレスの﹃詩学﹄を絵画論に転用したルネサンス人文主義の主張する﹁選択

的・理想的な自然の模倣﹂である︒アリストテレスのこの理念は︑人文主義の流れのなかで文芸理論から美術理論に

転用され︑芸術の道徳的価値を次第に強調しつつ﹁絵画は詩のように﹂という言葉で繰り返し語られてきた︒直接的

に︑ベッローリの理論構築の下敷きとなったのは︑ボローニャの美術理論家ジャン・バッティスタ・アグッキ︵Gian

BattistaAgucchi1570−1632︶が友人アンニーバレおよびその弟子ドメニキーノの勧めで執筆した﹃絵画論﹄Trattatodella Pitturaである︒それは︑一六〇七年から六一一五年頃に執筆されたが︑断片のみ知られる︒ベッローリは︑叔父アン

ジェローニの友人であったアグッキの著作の断片をドメニキーノ伝のなかに収録しているが︑アグッキの絵画論も︑

やはりアリストテレス︑アルベルティに負う︒この人文主義的理念を根拠に︑アグッキは︑現実の美術動向に分析と

価値評価を下している︒つまり理想的な自然を具体化した古代礼讃︑そしてラファエッロ以降のマニエリスムによる

没落の後に現れる美術の復興者にして︑教養ある理性的な人々の精神に喜びを与える高貴な画家アンニーバレという

歴史的位置付けと︑あるがままの自然の模倣に終始し大衆の感覚を喜ばせる通俗的で下等なカラヴァッジョという価

値評価である︒それが︑ベッローリの列伝構想に重要な着想を与えたにちがいない︒

さらにこのアグッキの直接的な下敷きは︑ベッローリのアゴスティーノ伝に収録された︑ファベリョ︵Lucio

Faberio︶によるアゴスティーノ追悼文であった

の物然自﹁るれ溢に養素的学文ノ︒ーィテスゴア︑はョリベァフお よび人工物の思慮ある模倣の技professionegiudiciosoimitatoredellenaturaliedartificialicose﹂を賞賛している︒

では︑ベッローリのイデア論は︑同時代の美術の分析とどのように係わっているのであろうか︒時代は︑すでにカ

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﹁黙せる詩﹂Mutapoesisをめぐって

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ラヴァッジョの自然主義とカラッチ一門の人文主義的絵画の両者によってマニエリスムを克服し︑ローマを舞台に感

覚的で演劇的なベルニーニのバロックと理性的なプッサン芸術とが︑くっきりとしたコントラストをなしつつ頂点に

達していた十七世紀の半ば過ぎである︒この問題は︑列伝中のカラッチ伝序文に解答の糸口が見いだされる︒

五ベッローリの十七世紀美術史構築

ベッローリは列伝の序文において︑理想美を達成した範例として古典古代を賞賛し︑ローマ帝国の崩壊とともに美

術は醜悪で奇怪なものに陥ったが︑ラファエッロによって再び栄光の時代を迎えたという︒それは︑ギベルティ以来

の伝統的なレトリックと歴史観にのっとるイデア論の展開である︒この書の本体である十二名の美術家列伝は︑十七

世紀絵画史が中心になるが︑アグッキがすでに価値評価の方向付を行ったルネサンス以降の美術を洞察し︑古代から

自分の時代までの一貫した美術史を構築する試みである︒個々の美術家に関する情報源は︑十六世紀末から十七世紀

初頭に関してはバリョーネに︑その他パッセリ︑スカネッリ︑マンチーニらの列伝︑そして美術家の親族や知人によ

る証言と自己の見聞である

コワ︑ランフラン︑ケアルガルディ︑ノュ︒とそのうち少なくもデ︑ドメニキーノ︑プ

ッサンについては︑個人的な交友が基礎になる︒ベッローリの作品記述は︑主題や寓意の解釈︑主題にふさわしい形

式の是非︑行為に表れた人間の感情表現の適切さの分析に重点が置かれている︒

ベッローリは︑まず列伝巻頭のアンニーバレ伝序文において︑ラファエッロ以降衰退した美術の復活をアンニーバ

レに宣言する︒ベッローリによると︑﹁最高の線描ultimilineamentidell’arteによって美の極致を極めた﹂ラファエッ ﹁黙せる詩﹂Mutapoesisをめぐって

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ロの後︑最初は名誉と名声を誇った美術家に端を発する悪癖︑つまり﹁自然の研究をないがしろにし︑マニエラ︵技

巧︶すなわち空想的なイデアによって︑芸術を堕落させ技術的慣例によって描いた﹂美術家︑つまりマニエリストが

芸術を破壊した︒ここで堕落の発端としてイメージされているのは︑反宗教改革期のカトリック教会が宗教美術に求

められる品位や節度といった適切さdecorumを欠くというかどで︑カラヴァッジョとともに批判していたミケラン

ジェロであろう︒ヴァザーリにおける英雄ミケランジェロではなく︑古代と自分の時代を結ぶ架け橋としてラファエ

ッロを賛美する価値基準は︑ベッローリによって十七世紀以降の古典主義の決定的な基調となる︒さてラファエッロ

以降の美術の没落はイタリア全土に及ぶ︒けれども︑ようやくフランドルのルーベンスが美術に﹁色彩﹂を取り戻し

た︒この時イタリアでは﹁自然に隷属する﹂カラヴァッジョと﹁空想にとりつかれ自然を省みない﹂ジュゼッペ・ダ

ルピーノ︵Giusepped’Arpino/GiuseppeCesari1568−1640︶が反目しつつ権勢を振るうという嘆かわしい状況であった︒こ の憂うるべき状況の中で美術を復活させた天才l’elevatissimoingegno︑それがアンニーバレである︒

ベッローリの十七世紀美術にたいする判断は︑おそらくはバロックの旗手にして教皇庁の寵児ベルニーニ︵GianLo-

renzoBernini1598−1680︶を念頭においているのであろうが︑同時代の彫刻と建築に浴びせる批判は鋭い︒批判の対象

となる点は︑バロック様式の本質をなす恣意的な空間や線の湾曲︑古典的な調和や秩序からの逸脱である︒ところが

一方ではルーベンス︑バロッチ︑ランフランコを列伝に取り上げ︑カラヴァッジョですら初期の色彩や技術的な水準

を認めていることから︑同時代のバロック絵画に対して必ずしも全く拒絶的であったわけではない︒むしろ︑ルーベ

ンスの色彩の美しさや明暗の対比の見事さや︑情熱性の賞賛は︑バロックの理解につながっている︒しかし︑ルーベ

ンスに対して素描を欠くという批判︑さらに彫刻や建築に向けた批判は︑逆に感情よりは理性を︑恣意性よりは古典

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﹁黙せる詩﹂Mutapoesisをめぐって

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的規範︑秩序と調和を︑色彩よりは素描を重んじるというベッローリの古典主義的立場を浮き彫りにする︒彼の求め

るそのような古典主義的理想を︑荘重な歴史画でもってあますところなく︑彼の目前で体現していたのが敬愛してや

まないプッサンであった︒したがってベッローリの構築する美術史観において︑古代︑ラファエッロを継承する正統

な美術の発展史の軸線は︑アンニーバレに始まりアゴスティーノ︑ドメニキーノを経てプッサンに結ぶ︒当代一の歴

史画家プッサンこそが︑ベッローリにおける﹁自然にまさる自然美﹂の完成者であり︑同時代のアペレスなのであっ

た︒

六ベッローリとプッサン

ベッローリとプッサンの親交は︑遅くとも一六四〇年頃から六五年に画家が他界するまでの四半世紀に渡る︒ベッ

ローリの列伝の構想や記述に示唆を与えたのもプッサンであれば︑一六四二年のバリョーネの列伝序文においてはま

だアンニーバレにもカラヴァッジョにも等しい賛美を捧げていた彼が︑のちにその選択眼の欠如︑未分化な趣味を恥

じたのも︑芸術理念を共有したプッサンの影響があるだろう︵図3︑4︶︒その交流の時期は︑古代とラファエッロ

を規範に︑カラッチ︑ドメニキーノから影響を受けた画家が︑パリ滞在をおよその境に︑作品でいうならふたつの

︽七つの秘蹟︾連作を通じて︑初期のヴェネツィア的色彩︑バロック的な激しい運動表現や対角線の構図を放棄し︑

聖書を中心的な主題として独自の荘重な様式を完成していく過程にあたる︒﹁マニエラ・マニフィカ﹂manieramag-

nifica︵壮大様式︶という言葉で形容されるプッサン絵画の本領は四十年代以降の聖書を中心とする主題の深い洞 ﹁黙せる詩﹂Mutapoesisをめぐって

― 14 ―

(16)

察︑それにふさわ

しい抑制された感

情と動作を備えた

人物群︑そしてそ

れと緊密に対応し

あう背景とで組み

立てられた幾何学

的ともいうべき堅

牢な画面構成を特

色とする︒理知的

なプログラムによ

って一切の恣意性

を排除した明晰な

歴史画である

﹁哲学的画家﹂

peintrephilosophe

と称せられた理知

3 プッサンの自画像

― 15 ―

﹁黙せる詩﹂Mutapoesisをめぐって

(17)

的な画家プッサンは︑絵画論を執筆する希望は持っていたよ

うである︒ベッローリは︑画家の断片的な覚書である﹁絵画

論﹂OsservazionidiNiccolòPussinosopralapitturaを伝記の

末尾に付している︒それは︑オリジナルな思想でも体系的な

理論でもなく︑クインティリアヌス︑タッソー︑マスカルデ

ィ︑カステルヴェトロ︑アルベルティ︑ガルッチら古今の修

辞学的文献や美術理論書の断片を引用した︑伝統的な人文主

義的芸術理念の表明である

︒しかしベッローリにとって問

題であったのは言葉で表明した思想ではなく︑プッサンが絵

筆によって視覚化していった﹁自然にまさる自然美﹂つまり

人文主義絵画の理想であったはずである︒ベッローリは画家

の言葉と作品制作を目撃しつつ後を追う形で︑彼らの共有す

る芸術理念を体系化し︑プッサン芸術を歴史の中に組み込ん

で普遍化した︒プッサンは絵画を描くことによって︑いっぽ

うベッローリは美術家の列伝を綴ることによって︑同じ人文

主義芸術の理想を具体化したのである︒そのプッサンこそ

は︑ベッローリが列伝において構築を試みた十七世紀美術史

4 プッサン伝挿絵「光と影」

﹁黙せる詩﹂Mutapoesisをめぐって

― 16 ―

(18)

を同時的に実現してゆく範例なのであった︒

むすび

ベッローリの美術家列伝の構想は︑ヴァザーリ以来の列伝のパターンとなっていた玉石混合のおびただしい情報を

連ねるのではなく︑また単なる読み物でもなく︑理想美のイデアに照らし合わせて批評に値する厳選した美術家を︑

しかも限定的な作品のみによって論じるものであった︒彼の国際的な視野の広さ︑十七世紀美術史観︑その根底を支

える古典主義は︑ラファエッロ礼讃︑カラヴァッジョ批判も含めて後の時代の美術理論と創作に新たな地平を開い

た︒そこに通底するのは︑アルベルティ︑そしてアグッキを介して理解された︑アリストテレスの理想的自然の模倣

という理念である︒ルネサンス人文主義を基調としながら︑同時代のマニエリスム︑自然主義︑さらにバロック美術

の作家と作品を批判的に克服するという要請を含んでいたために︑いっそう意識的に理性的・道徳的な色彩を帯び

た︒ベッローリを名誉会員に迎えるフランス王立絵画・彫刻アカデミーは︑彼の思想を教義化することによって十九

世紀までヨーロッパを支配する堅牢な古典主義的絵画理念を固持した︒またそれは︑プッサンに象徴されるイタリア

からフランスへという美術の勢力交代劇を照らしだす鑑であるとともに︑イデア論を基盤に展開されているために現

実の歴史に方向性と︑時間的︑空間的な普遍性をも与えることが可能になったのである︒

本稿は︑一九九五年五月二十七日に︑同志社大学において開催された第四十回美術史学会全国大会での発表原稿をもとにして

― 17 ―

﹁黙せる詩﹂Mutapoesisをめぐって

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いる︒二〇〇〇年六月にはローマのヴィッラ・メディチのフランス・アカデミーで﹁古典主義的理想︱ベッローリの時代におけ

るローマとパリの芸術的交流﹂というテーマのシンポジウムが開かれ︑近年︑その成果が相次いで発表されている︒ローマのフ

ランス・アカデミーからはL’idéalclassique,LeséchangesartistiquesentreRomeetParis,Rome,2000が︑またベルとウィレットが

﹃ベッローリの時代の美術史﹄Bel,Janis&Willette,Thomas:ArtHistoyintheAgeofBellori,Cambridge,2002を上梓している︒小

論では︑若干の加筆修正を加えるにとどめ︑近年の新たな研究資料を吟味したうえで︑稿を改めてベッローリの列伝に関する諸

問題を考究したい︒

注盧

十七世紀イタリアにおける美術家列伝の歴史的概観とベッローリ列伝の位置づけについては拙稿﹁十七世紀イタリアの美術

家列伝をめぐる一考察︱ベッローリの歴史的意義について︱﹂﹃文化学年報﹄第四十四輯一九九五年二七一︱二八四頁

を参照されたい︒

ベッローリの美術家列伝については︑ボレアの校訂版﹃当代の画家︑彫刻家︑建築家列伝﹄GiovanPietroBellori,Vitede’pit-

tori,scultoriedarchitettimoderni,Torino,1976を用いた︒ 蘯

アンジェローニは創造力豊かな文筆家であるが︑ベッローリの古典的素養に感化を与えたであろう著作としては︑一六四一

年のコインを通じたローマ史や故郷の歴史と聖人伝を扱った一六四六年のテルニ史が挙げられる︒

聖ルカ・アカデミーにおけるベッローリの活動は六十年余りであり︑一六七一年にアカデミーの秘書︑一六七五年以降は討

論会の議長を務めている︒一六八九年にフランス王立絵画・彫刻アカデミーに入会したときも﹁画家﹂として登録している

が︑ベッローリ自身の絵画作品は現存しない︒

たとえば︑マラッタが制作したアルティエーリ宮クレメンツァの間の装飾プログラムを考案しているし︑パスコリによる

と︑画家ジュゼッペ・キアーリ︵GiuseppeChiari1654−1727︶は︑壁画装飾の注文を受けたときにまずベッローリを探しに

出かけたと記している︒LionePascoli:Vitede’Pittori,ScultoriedArchitettiModerni,Roma,1730−36,I,p.211ff.

バリョーネの美術家列伝の正式な題名は︑﹃一五七二年グレゴリウス十三世の教皇在位期から一六四二年ウルバヌス八世の

治世にいたるまでの画家︑彫刻家︑建築家︑版画家列伝﹄Levitede’pittori,scultori,architettiedintagliatoridelpontificatodiGre- ﹁黙せる詩﹂Mutapoesisをめぐって

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(20)

gorioXIIIdel1572finoa’tempidiPapaUrbinoVIIInel1642,Roma.1642.

ヴァティカンのラファエッロの間については︑一六五〇年代後半に執筆した﹃ウルビーノのラファエッロによるヴァティカ

ン宮殿教皇居室の画像について﹄DescrizionedelleImmaginidip.daRaffaellod’UrbinonelleCameredelPal.Vaticano,Roma,

1695︑そしてアンニーバレ・カラッチについては︑﹃アンニーバレ・カラッチのファルネーゼ・ギャラリーについて﹄Argomento dellaGaleriaFarnesedipintadaAnnibaleCarracci︵1657︶. 眩 叔父と共通の友人の旅行家で東方の骨董収集家であるピエトロ・デッラ・ヴァッレ︵PietrodellaValle1586−1652︶の﹃旅行 記﹄Viaggi︵2ed.︶に﹁ボニーノBonino﹂の偽名で記した﹁ピエトロ・デッラ・ヴァッレ伝﹂VitadiPietrodellaValleである︒ 眤

聖ルカ・アカデミーでの講演録は︑他に一六七七年の﹁絵画および彫刻の栄光について﹂Glihonoridellapitturaetdellascol-

tura,discorsodiGiampietroBelloriが記録に残る︒ 眞

美術家列伝の嚆矢であるヴァザーリの﹃美術家列伝﹄第二版の正確な題名は﹃アレッツォの画家︑建築家ジョルジョ・ヴァ

ザーリが記した最も優れた画家︑彫刻家︑建築家の肖像画と一五五〇年から六七年までの現存作家をあらたに加えた伝記﹄La

Vitede’piueccellentiPittori,ScultorieArchitettori,scrittedaM.GiorgioVasariPittore&ArchitettoAretinodinuovoampiate,coni

rittrattiloroeconl’aggiuntadelleVitede’vivietde’nostri,dall’anno1550insinoal1567.

列伝執筆の期間については︑以下のドナウに従った︒Donahe,TheIngeniousBellori,ABibliographicalStudy,Marsyas,3,1943−

45,pp.107−138.

フランス王立絵画・彫刻アカデミーは一六六四年︑ルイ十四世の肝いりで文化の国粋化のために創設され︑ローマのフラン

ス・アカデミーは一六六六年に開設された︒ローマのフランス・アカデミーは国力とあいまって活況を呈し︑一六七六年に

はイタリアきっての名門である聖ルカ・アカデミーと形式的に合併した︒ベッローリは両アカデミー合併に伴う式典におい

て﹁絵画と彫刻の栄光﹂Glionoridellapittura,esculturaと題した講演を行い︑フランス国王の芸術保護を賞賛している︒一

六八九年には︑ベッローリはパリのフランス王立絵画・彫刻アカデミーに会員として迎えられている︒

Bellori,Vite.p.8.

ibid.p.92f.

眸 これらの寓意像は︑チェーザレ・リーパの﹃イコノロジア﹄Iconologia,1593の伝統に基づきつつ︑ルネサンス以降の絵画か

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﹁黙せる詩﹂Mutapoesisをめぐって

(21)

らさまざまな人物モチーフの引用がなされている︒銘文と寓意像の解釈については︑近年ペイスとベルによる詳細な研究が

なされている︒Pace,Claire&Bell,Janis:TheAllegoricalEngravingsinBellori’sLives,inBell,Janis&Willette,Thomased.Art

HistoryintheAgeofBellori,ScholarshipandculturalPoeticsinSeventeenthCenrturyRome,Cambridge,2002.寓意像と銘文につ

いては︑いずれ稿をあらためて論じたい︒

一六四二年のバリョーネの列伝序文として寄せた詩﹁絵画によせて﹂では︑まだ絵画を忠実な模倣者︑自然の生き生きとし

た似姿と定義し︑詩の全編を通じて︑自然の模倣を推奨している︒またアンニーバレやドメニキーノのみならず︑カラヴァ

ッジョにも賞賛を惜しまない︒ここでは同時代のバロックの趣味が色濃く反映している︒

GaiusPliniusSecundus,NaturalisHistoriae,XXXV.66.

アグッキ︑カラッチ一族︑ベッローリの親交は︑アンニーバレの墓碑銘をアグッキが書き︑ベッローリが活字にするという

ふうであった︒Funeraled’AgostinCarracciofattoinBolognasuapatriadagl’IncaminatiAcademicidelDisegnoscrittoall’ill.mo.

etR.mo.Sig.CardinalFarnese,Blogna,1603.

Vitee’Pittodri詩刻年に没した画家︑彫家七︑建築家列伝﹄︑家画三六人でパッセリによるローマ活一動し︑一六四一年﹃らか ScultoriedArchitettichehannolavoratoinRomamortidel1641finoal1673deG.B.P.pittoreepoeta,Roma︵Gio.Lod.Bian-coni︶,1772.ウルバヌス八世の侍医マンチーニ︵GiulioMancini1558−1630︶による列伝は﹃絵画論考﹄Leconsiderazionisulla pittura,AccademiadeiLincei,Roma,1956−57.バルディヌッチ︵FilippoBaldinucci1625−96︶︒スカネッリの列伝は﹃絵画の小 宇宙﹄FrancescoScanelli,Microcosmodellapittura,Cesena,1657︒ 睛

ベッローリとプッサンの関係については︑拙稿﹁フランス近代絵画の成立とプッサン人文主義絵画の伝統をめぐって﹂︑

﹃文化学年報﹄一九九〇年第三十九輯二三六︱二五六頁を参照されたい︒

ベッローリの列伝に付されたプッサンの絵画理念の断片の解釈については︑Blunt,Anthony:Poussin’sNotesonPainting,Jour-

naloftheWarburgandCoutauldInstitute,I,1937−38,p.344−351,Ivanoff,Nicola:Laparola«idea»nelle«OsservationidiNicolo

Pussinosopralapittura,Ilmitodelclassicismonelseicento,Firenze,1964,p.91−99らの詳細な研究が挙げられるが︑ここでは概

観にとどめておきたい︒ ﹁黙せる詩﹂Mutapoesisをめぐって

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主要参考文献 Schlosser,Juliusvon:DieKunstliteratur,Wien,1924︵1985︶:Laletteraturaartistica,Firenze,1964︵1979︶:Lalittératureartistique,

Paris,1984.

Pevsner,Nikolaus:AcademiesofArtPastandPresent,Cambridge,1940︵NewYork,1973︶︵中森義宗他訳﹃美術アカデミーの歴

史﹄︑中央大学出版部︑一九七四︶

Mahon,Denis:StudiesinSeicentoArtandTheory,London,1947︵Conneticut,1971︶ Venturi,Lionello:StoriadellaCriticad’Arte,Firenze,1948︵辻茂訳﹃美術批評史﹄︑みすず書房︑一九七一︵第二版︶︶ Panofsky,Erwin:Idea,EinBeiträgezurBegriffsgeschichtederalterenKunsttheorie,Berlin,1960︵中森義宗他訳﹃イデア﹄︑思索社︑

一九八二︶

Lee,RensselaerW.:Utpicturapoesis:ThehumanisticTheoryofPainting,NewYork,1967︵森田義之︑篠塚二三男訳﹁詩は絵のご

とく﹂︑中森義宗編﹃絵画と文学︱絵は詩のごとく﹄に所収︑中央大学出版部︑一九八四︶

Pallucchini,Anna:PerunasituazionestoricadiGiovanPietroBellori,Storiadell’arte12,1971,p.285−295.

Fontaine,André:Lesdoctrinesd’artenFrance,Genève,1970.

Bellori,GiovanPietro,Levitede’pittoriscultoriearchitettimoderni,Torino,1976.

Bazin,Germain:Histoiredel’histoiredel’art,Paris,1986.

Kultermann,Udo:GeschichtederKunstgeschichte,1966,Wien/Düsseldorf︵Frankfurt/M./Berlin/Wien,1981,2ed.:München,1990︶ Kultermann,Udo:KleineGeschichtederKunsttheorie,Darmstadt,1987︵神林恒道︑太田喬夫訳﹃芸術論の歴史﹄︑勁草書房︑一九

九三︶

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﹁黙せる詩﹂Mutapoesisをめぐって

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