制転換期の台南地域社会
著者 岡本 真希子
雑誌名 社会科学
巻 41
号 4
ページ 53‑88
発行年 2012‑02‑24
権利 同志社大学人文科学研究所
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000012702
植民地地方行政の開始と台湾人名望家層
─ 統治体制転換期の台南地域社会 1) ─
岡 本 真希子
本稿は,帝国日本が台湾で植民地統治を開始した際の状況を,台南民政支部・安平民 政出張所などの台南地域の地方行政機関と,台湾人事務取扱委員・保安局評議員・安 平六社社長などの下級行政補助的機関に関わった台湾人名望家層の動向に着目し,主 に「台湾総督府公文類纂」を用いながら検討する。その際には,地方行政を,上から 与えられる固定的なものとして捉えるのではなく,流動的なものであり,かつ,台湾 人名望家の存在を無視しえないものとして検討する。また,台湾人名望家自身の作成 した文書を検討することにより,台湾人社会の主体的な台湾人社会の動向や意識を台 南に即して明らかにする。
1 はじめに―課題と資料―
1.1 本稿の視角
本稿の課題は,帝国日本が台湾で植民地統治を開始した際の地方行政の状況を,台湾 南西部の台南の地域社会との相関関係のなかに検討することである。検討の際には,主 に二つのファクター,すなわち主に「内地人」(日本人)2)官僚により構成される地方行 政機関,台南地域の台湾人名望家層3)に着目して分析する。
周知のように,帝国日本は 1895(明治 28)年に台湾北部の台北に台湾総督府を置き,
50 年間に及ぶ植民地統治を展開した。しかし,それ以前の台湾は,17 世紀以降,歴代外 来政権の統治下にあり,なかでも台南は,最も早く外来政権が根拠地を置き,オランダ統 治時代(1624−1661 年)にゼーランディア城(赤嵌楼),鄭氏統治時代(1661−1683 年)
に主府がおかれ,清朝統治時代(1684-1895 年)には主要な都市として機能した。また,
台南は 17 世紀に始まる漢族の移民と開拓の嚆矢となった地域であり,台湾が海路を主要 な交通手段として台湾外の地域(中国大陸や東南アジアなど)と交流するなかで,安平 港を持つ港湾都市として主要な役目を果たしていた。台北が日本統治に伴い新たに創設
された植民都市 “ 島都 ” であるならば,台南は日本統治期以前台湾の政治・経済・文化の 中心地であり,“ 古都 ” たる趣を持った都市といえる4)。
“ 古都 ” 台南は,台湾総督府のある台北から遠く離れており,したがって地方行政機関 こそが,台湾人社会と向き合いながら,植民地統治を遂行するための中心的役割を担う こととなる。他方で,長い伝統と港湾都市としての機能を持つ台南の台湾人地域社会は,
清朝期から日本統治期へと二つの時代を架橋するなかで,新たな植民地統治と向き合う ことを余儀なくされた。こうしたなかで地方行政機関は,台湾人名望家層に補助的役割 を与えて取り込むことを画策してゆく。
台湾総督府設置後も,1910 年代半ばまでは台湾各地で武装抗日運動が展開され,1919 年までは軍人が総督に就任した前期武官総督期に該当する。こうした点から見れば,地方 行政機関とその補助的役割を付与される台湾人名望家層の関係は,統治体制への “ 協力 ” の領域を形成し,台湾人名望家が地方行政へ包摂されたかのようにも見える。しかし,明 確な抵抗の意志を示す武装抗日運動以外の側面,一見すると粛々と遂行される植民地地 方行政下の日常生活のなかにおいても,台湾人の主体的な姿が読み取れるのではないか。
本稿では,そうした側面に着目しながら,多様な台湾人社会の様相と主体性を探り,植 民地期の台湾政治史の足跡をたどりたいと考える。
ここでいう台湾政治史とは,若林正丈の提示した概念に基づく。若林は台湾政治史研究 の方法論を整理するなかで5),「日本植民地主義の政治史研究」の問題意識を以下のよう に整理している。すなわち,1980 年以前の日本の戦後学界における「日本統治下植民地 の政治」に関して蓄積されてきたのは,「抵抗闘争史ないし民族運動史の研究」であり,
その問題意識(旧モデル)は,「a.日本帝国主義=現地権力」・「b.植民地人民(買弁/民 族ブルジョワジー/農民・労働階級)」から構成される,いわば「日本帝国主義対植民地 人民という二項対立図式」であるとする。そして,1980 年以後の研究の新モデルにおい ては,「a.近代日本の政治体制/政治過程(藩閥政治→政党政治)」・「b.政治リーダーの 植民地統治理念(特別統治体制→内地延長主義)」・「c.植民地統治体制(台湾:六三法→
法三号)」・「d.植民地」の存在が明らかとされたとする6)。そして,dレベル部分こそが,
「植民地台湾政治の内部構造に踏み込んだ研究」とする。さらに植民地台湾における統治 機制のひとつとして,「交換・仲介を通じてコントロールするシステム」をあげ,その狙 いは「エリートの協力の調達,それを通じた非エリートの服従/黙従の調達」であり,そ の「制度/手段」のひとつとして「地方行政」を位置づけている。
本稿では,こうした提言を受けながら,地方行政を舞台に台湾人名望家層との相関関係
のなかに台湾政治史を描くことを試みたい。その際には,地方行政を,上から与えられ る固定的なものとして捉えるのではなく,流動的なものであり,かつ,台湾人名望家の存 在を無視しえないものとして検討する。なぜなら,植民地期台湾の政治史は,統治者の 視線や思考のみで貫徹しえるものではなく,地域社会とのせめぎあいのなかで,ゆらぎ を伴いながら形成されてゆくと考えるからである。ただし,本稿がこうした視角をとる のは,植民地統治の苛酷さを相対化するためではない,ということを強調しておきたい。
そうではなく,武断統治期の苛酷な植民地統治下においても,地域社会のなかに脈々と 続く日常生活をおくりながら,台湾人社会の利害を考慮し交渉の機会や場を探るような,
台湾人の主体的な歴史を明らかにしたいからである。
1.2 資料について
本稿が使用する主な資料は,台湾総督府が作成した公文書「台湾総督府公文類纂」(い わゆる「台湾総督府文書」)である7)。同文書を用いた研究の先駆的な業績としては,台 湾総督府文書の整理・目録作成に長期にわたって寄与してきた中京大学社会科学研究所 の檜山幸夫の編著による一連の研究があげられる。これらの研究では,同文書中の日本本 国(「内地」)との往復文書なども駆使し,本国と台湾の双方を視野に入れた,いわゆる
「帝国史」の視点から台湾史を構築している8)。しかしながら,これらの研究は,総督府 のある台北を中心とした研究が主流であり,台北以外の地域に十分な関心を払ってきた とはいえない。
他方で,地域に即した研究としては,台湾の地方自治体による地方史編纂作業が代表 的であるが9),これらにおいては,「台湾総督府公文類纂」の利用は十分でない。その理 由としては,第一に,総督府本府の政策立案過程資料が注目されがちで,地方行政機関 が本府に提出した資料は従来は十分には注目されてこなかったこと,第二には,同文書 の大部分は日本語資料であり,そのうえ毛筆の草書体(いわゆる「崩し字」)で書かれた
「 候 文」が多く含まれるため,日本語を母語としない研究者や,崩し字解読の訓練を受 けていない場合,その利用には一定の困難を伴うことが考えられる。
そこで本稿では,「台湾総督府公文類纂」に含まれる,総督府の地方行政機関が作成し た文書,とりわけ「旧県公文類纂」を活用する。「旧県公文類纂」とは,統治初期の 1895
−1901(明治 28-34)年に,各県やその下部機関が作成した文書である。作成期間は限定 的だが,その分量は合計 783 冊に及び,しかも旧台南県文書はそのうち 376 冊で全体の 約 50%を占めている10)。これら「旧県公文類纂」を紐解くと,地方行政や地域社会の様
子が浮かびあがるとともに,資料の書き手には,内地人官僚・職員のみならず,台湾人 が含まれている点が特徴的である。
「旧県公文類纂」を利用して各地方における植民地統治の状況を明らかにする研究は,
十分とはいえないものの11),近年蓄積されつつある。たとえば,同文書を所蔵する国史 館台湾文献館(台湾・南投)は,隔年で「台湾総督府䈕案学術研討会」を開催し成果を公 刊してきたが12),そのなかには「旧県公文類纂」や臨時台湾土地調査局文書などを使用 して,植民地統期初期の台湾各地の状況を明らかにする成果も現れ始めている。ただし,
これらの研究では,下級行政機関の実施した旧慣調査や土地調査などのいわゆる調査事 業に関心が集中しているとえよう13)。
台湾で行われた旧慣調査事業については,これまでの主要な研究対象は,後藤新平長 官の肝いりで岡松参太郎京都大学教授をブレーンとして設置された臨時台湾旧慣調査会
(1901-1919 年)の刊行物・立法作業などであり14),後藤・岡松などの政策中枢の主要ア クターに着目した,いわば植民地統治政策の思想史とでもいうべき領域が形成されてき た。これに対して,「旧県公文類纂」を用いた上記の新たな研究成果では,研究の視点を 各地方行政の “ 現場 ” に置くことで,当該社会の実態をあぶり出そうとしている。しかし ながら,これら諸研究の主な対象は,調査事業の実施過程や内地人側の視点であり,台 湾人社会の対応は十分に検討されていない。
そこで本稿では,とりわけ台湾人名望家の存在に着目し,彼らが作成した履歴書や意 見書なども用いることで,地方行政機関の視点に回収されない台湾人社会像,統治政策 の客体にとどまらない主体的な台湾人社会の動向を検討し,地方行政機関との相関関係 のなかに複眼的な検討を試みる。
以下,本稿では,まず,日本統治初期に台南地域に設置された台南民政支部について,
その設置過程と報告書,および同支部が台湾人名望家に任命した台湾人事務取扱の動向 について検討する。さらに台南市内の食糧確保問題と義倉について着目し,これらにつ いての地方行政機関と台湾人名望家との相異を明らかにする(第 2 節)。つぎに,さらに ミクロな検討対象領域として,安平地域を設定する。台南民政支部の一出張所である安 平民政出張所,安平の台湾人を評議員に任命して設立された行政補助組織の保安局,台 湾人名望家層が作成した意見書などを検討し,末端地方行政機構と台湾人名望家層とが 共存する地方行政の状況と,両者の利害調整の過程を明らかにする(第 3 節)。これらの 検討を通して,統治体制転換期における台湾人名望家層の意識についても,適宜言及し てゆきたい。
2 台南民政支部と台湾人事務取扱委員
2.1 台南陥落と台南民政支部設置
日清戦争の結果,1895(明治 28)年 5 月 8 日に批准交換された日清講和条約(下関条 約)により,台湾と澎湖諸島は清国から日本へと割譲され,帝国日本の一部とされた。以 後,植民地統治体制の構築は,植民地官僚組織である台湾総督府が,軍と共同する形で,
北部から進められていった。
同年 5 月 10 日に樺山資紀が初代台湾総督に任命され,21 日には台湾総督府仮条例が制 定されて,民政局・陸軍局・海軍局の 3 局から構成される台湾総督府が設置された。軍 隊は 29 日に北白川宮を師団長とする近衛師団が台湾北部の塩藔海岸に上陸,6 月 2 日に は清国全権・李経方と樺山総督の間において台湾・澎湖列島の受渡が完了すると,近衛師 団は翌 3 日に基隆,7 日に台北城を占領,17 日には台湾総督府が始政式を挙行した。こ こに,台北に台湾総督府を据えた,帝国日本の 50 年にわたる台湾統治が始まった。
地方統治体制の構築という点では,同年 6 月 28 日に地方官仮官制が制定され,3 県 1 庁が設置された。台湾全土に台北県・台湾県・台南県の 3 つの行政地域に分けて各県知 事を任命,澎湖島には澎湖島庁を設置して島司を任命し,そのいずれもが内地人から任 命された。8 月 24 日には「民政支部及出張所職制」が定められ,「台湾及台南ニ民政支部 ヲ置キ支部ノ管内須要ノ地ニ民政支部出張所ヲ置ク」として,台南民政支部を置き,そ の下に安平・鳳山・恒春・台東に出張所を設置することとなった。
さらに総督府と軍は “ 全島平定 ” をめざして南進軍を進めていった。このころ台南には,
台湾民主国が根拠地を置いて日本への抵抗を継続していた。台湾民主国は,1895 年 5 月 25 日に台北で唐景崧を総統として成立したが,台北陥落後に唐が大陸に逃亡すると,本 拠地を台南に移し劉永福を総統として,約 4 ヶ月間にわたり,日本に対する抵抗を継続 していた。しかし,10 月 21 日,海軍が安平の砲台を攻撃して台南に入ると,劉永福は台 南を離れて逃亡し,23 日には清国兵約 5,000 人が安平から金門へと送りだされた。
樺山総督は,台南地方巡視のために 10 月 24 日に台北を出発し,同時に台南民政支部長 の古荘嘉門や,安平出張所所長の西郷菊次郎など,総勢 300 名が台南へ向かった15)。一 行は,26 日に台南安平港に到着すると,11 月 1 日に台南民政支部と安平出張所を開庁し た16)。このように,台南において植民地行政機関が活動を開始したのは,6 月初めの台北 占領・施政式開催から約 5 ヵ月後を経てからのことであった。
11 月 1 日に開庁した台南民政支部は,5 課・21 係から成る官僚組織であった。本部に,
庶務課(庶務係・戸籍係・兵事係・学務係・社寺係),財務課(収税係・地籍係・官有財 産係),農商課(農務係・商工係・水産係・山林係・水利土功係),会計課(出納係・用 度係・築造係・運搬係),警察課(保安係・警務係・監獄係・衛生係)を置き,このほか 支部長直属の係として内記係・往復係・外事係の 3 係が設置された17)。
台南民政支部長の古荘嘉門の渡台前の経歴は,野口真広の研究に詳しいが,古荘は熊 本県出身で熊本国権党の初代総理となり,衆議院議員として政界で活動していた人物で あり,同党は日清戦争中にすでに台湾領有を想定していた。従前より古荘は,軍隊に付 随しその保護のもとで「殖民的一隊」となって渡台することを希望して政界中枢に働き かけており,ついに念願かなっての渡台であった18)。
2.2 台南民政支部による地方行政
①「台南民政支部報告書」
台南民政支部は,開庁当時から,約 1 ヶ月毎に定期的に報告書を作成していた。表 1 は,それらを一覧に示したものである(「機密報告」・「行政事務報告」・「概況報告」など の名を冠したこれら報告書は,以下,一括して「台南民政支部報告書」と略し,「文書冊 号−文書番号」と略記する)。これら一連の「台南民政支部報告書」は,総督府からの内 訓による要請を受けて,台南民政支部が定期的に作成したものである19)。ここからは,本 府が政策遂行上で何を重視し,地方行政機関がそれに応えながら地方情勢を分析した内
表 1 台南民政支部および安平出張所関係の定期報告書
文書 文書名 日付 管轄地域
冊号 番号
27 1 台南民政支部臨時報告(台南民政支部) 1895-11-25(明治 28 年) 台南 27 2 開庁以来十一月ニ至ル台南民政支部機密報告(台南民政支部) 1896-01-04(明治 29 年) 台南 27 3 明治二十八年十二月中台南民政支部機密報告(台南民政支部) 1896-02-17(明治 29 年) 台南 27 4 明治二十九年一月中台南民政支部行政事務報告(台南民政支部) 1896-03-17(明治 29 年) 台南 27 5 明治二十九年二月中台南民政支部行政事務報告(台南民政支部) 1896-06-04(明治 29 年) 台南 27 6 明治二十九年三月中台南民政支部行政事務報告(台南民政支部) 1896-06-04(明治 29 年) 台南 79 14 台南民政支部管内概況報告(台南県) 1896-07-15(明治 29 年) 台南
9686 2 台南民政支部行政資料 1896 年 台南
27 7 安平出張所開所以來ノ行政事務報告(台南民政支部) 1895-11-12(明治 28 年) 安平 27 8 明治二十八年十月十一月中安平出張所機密報告(台南民政支部) 1895-12-25(明治 28 年) 安平 27 9 明治二十八年十二月中安平出張所行政事務報告(台南民政支部) 1896-01-22(明治 29 年) 安平 注: 文書冊号 27 は『台湾総督府公文類纂』自開府到軍組織中・永久乙種・第 16 巻、文書冊号 79 は同文書・明治 29
年・乙種永久保存・第 10 巻、文書冊号 9686 は同文書・明治 29 年・台南県公文類纂永久保存・第 23 巻、をさす。
容が明らかになる。
27-2 から 27-6 文書は,毎回 12 項目を掲げて記載されているが,その 12 項目とは,
「一 行政事務執行ノ成績及其景況並将来施行ヲ要スル事務ノ種類」
「二 法令諭告及官吏ニ対スル民心ノ嚮背」
「三 施行上参考トナリ若クハ妨碍トナルヘキ官民ノ稟申及謡言風説」
「四 新旧両政府ノ施為施設ニ関シ人民ノ感触」
「五 本島人及清国人ノ動静其他地方盛衰ニ関スル景況及因由」
「六 内地人又ハ本島ニ於テ起シ又ハ起サントスル事業ノ得失成績及其景況並ニ営 業土地売買其他緊要ノ事項」
「七 外国人民間事業其他土地及家屋売買ニ関スル景況及其他外交上必要ノ事項」
「八 生蕃人ノ出没暴行其他風俗人情ニ就キ施行上参考トナルヘキ事項及其接遇ノ 方法」
「九 清国人及本島人ニシテ本島ヲ去ラントスルモノゝ挙動及其財産処分方」
「十 官吏ノ勤怠品行並人民トノ交際其他総テノ関係」
「十一 貨紙幣ノ流通及交換高並贋造又ハ変造貨紙幣等ニ関スル事項」
「十二 宗教上ニ関シ人民信仰ノ程度及布設ノ方法其他宗教ノ種類」
というものであった。項目「一」の部分は,さらに「市街里堡庄行政」・「戸籍」・「学事」・
「窮身救済」・「地籍」・「官有財産」・「農事」・「商業」・「山林」・「水産」・「水利土功」・「臨 時修繕」・「衛生」などの項目が掲げられている。このように,「本島人」・「清国人」・「内 地人」「外国人」・「生蕃人」などの各民族を視野に入れ,民心の動向を探ろうとするもの となっていた。ただし,これらの大小の項目すべてに詳細な報告内容があるわけではな く,報告すべき事項があれば記載するという方式をとっていた。
②食糧確保問題と義倉の利用
最も早期に作られた「27-1 文書」からは,開庁とともに台南民政支部が直面した問題 が旧台南城内における食糧確保であること,その解決策として,台湾人社会の伝統的な 義倉20)の利用が挙げられている。
同支部による「窮民賑済ノ為メ義倉米払下ノ実況」と題する報告書は以下のように言 う。すなわち,台湾民主国が退却した戦後の旧城内では,運輸が途絶えて物資欠乏が生じ
価格高騰が見られ,とりわけ米穀は「殆ント其極点ニ達シ中等以上ノ人民ト雖トモ米食 ヲ得ルニ容易ナラス」「窮民日ニ多キヲ加ヘ飢餓日ニ迫ルノ勢」にある,そのため,日本 の南進軍の「入城ノ際差押ヘアリシ当城内ノ義倉ニ儲蔵セシ旧来ノ籾米」を,総督・副 総督に許可を請うてから,民政庁開庁にあたり窮民に賑まった,そして,米価騰貴を抑 えるための義倉の籾米の配布方法は,
「各区ノ委員
4 4 4 4 4
ニ下渡シ委員ハ又タ之ヲ各米舗ニ与ヘテ白米トナシ籾米壱千石ヲ以テ 白米四百石ヲ得ルノ割合ニテ各米舗ヨリ米券ヲ出シ壱枚三升毎升貳拾文ト定メ之ヲ 各区委員ニ納メ委員ヨリ更ラニ之ヲ窮民ニ配布セシメタ」〔引用部分の傍点は本稿筆 者補足。以下の引用資料の傍点もすべて本稿筆者による〕
というように,各区に委員を設けて米舗を経由する形で米券を配布した。その結果,窮民 たちは「米質悪シキニモ拘ハラス価格低廉ナルカ故ニ相争フテ之ヲ購フニ至ル」状況だっ たので,民政支部はさらに「米穀運送許可ト記シタル旗」を 40 本製作,この旗を「各区 ノ米舗ニ附与」して,「城外各地ヨリ米穀ヲ運搬スルノ便ヲ与」えたところ,米舗は運搬 許可を得て「城外各地ヨリ牛馬車ヲ駆リテ米穀ヲ運搬シ来ル」とともに,「戦後恐ヲ抱キ 未タ城内ニ運ヒ来ルヲ得サリシ城外各村落ノ人民等」も,米穀運搬のための「城門ノ往 復随意ナルヲ知リ俄然各自籾ヲ担ヒ米舗ニ至ルアリ或ハ白米トナシテ市中ヲ売廻ハルノ 行商アリ」という状況となり解決に向かったという 21)。
この過程から明らかとなるのは,台南民政支部は,台湾人社会が日本統治以前から貯蓄 していた義倉内の米を利用し,区委員(後述)・米舗などの人材を活用することで,戦乱 を経た旧台南城内の食糧不足をしのげた,ということである。ただし報告書の認識では,
「米穀輸入ノ道大ニ開ケ其欠乏ヲ補フニ余アル」状況を可能としたのは,「畢竟嚮キニ旗 號ヲ与ヘテ其輸入ヲ勧誘シタル結果」であり「城内ノ人民貧富ヲ論セス大ニ其堵ニ安ン シテ歓喜」したとして,民政支部の “ 旗配布作戦 ” の妙味を自画自賛していた。
緊急時の食糧供給源となる義倉の重要性については,総督府本府でも認識しており,行 政遂行上の重要調査事項の一つとしていた。翌 1896 年 1−2 月中に台南民政支部が本府 民政局に提出した文書22)では,台南地域の義倉について,その役割は特に「市街地」で は,「自備ノ用意ナク凶年又ハ土匪騒乱運搬杜絶ノ時ニ当リ民困云フヘカラサルヲ慮リ義 倉ヲ設ケ之ヲ救済スル」ものであり,その運営には「毎年蓄穀ヲ糶売シ新穀ヲ糶買シ交換 貯蓄シ或ハ運転シテ其利潤及民人ノ寄附セル金穀ヲ併セ増蓄スルノ規程」があると述べ,
その重要性を指摘していた。その管理者については,「管理衙名」を記す項目が設けられ ていたように,官有物
4 4 4
と見なし,民間のものという認識は示していない。また,その歴 史上の起源については,「今ヲ去ル凡二拾年前
4 4 4 4 4 4 4 4 4
ノ設立」と述べ,比較的新しいものとして 位置づけている。
しかし,こうした義倉と台湾人名望家に関する総督府の位置づけは,台湾人の側から 見れば異なるものであった。以下では,台湾人名望家の動向を,台南民政支部および義 倉問題との関連から見てゆく。
2.3 台南市街区の台湾人事務取扱委員
①台湾人事務取扱委員23)の選出
「台南民政支部報告書」の記載からは,台南民政支部が,従来の台湾人社会のどのよう な人材・資源を活用しようとしていたのかが浮かびあがる。
1895 年 11 月の状況報告(27-2 文書)では,台南民政支部は「開庁以来日猶浅ク未タ遽 ニ市町村吏員ノ如キモノヲ挙ケテ行政機関ト為スヲ得ス」といい,そのため,台南の中 心部において,
「先ツ試ニ市街ヲ五区ニ分チ各区ヨリ五名ヲ抜キ諸般ノ事ヲ諮問シテ施政ノ参按ニ 供シ傍ラ其能否淑慝ヲ弁識シテ取捨易置ヲ為シ漸次市街吏員ノ名実ヲシテ相称ハシ メントス」
といい,本国の市町村吏員の代替的役割として,諮問役を 5 名を選抜した。また,市街 地以外の「里堡庄」でも「目下各里堡ノ耆老ヲ招致シ」,清朝期の旧安平県に設置されて いた地方有力者である「総理又ハ地保ノ良否ト成績ヲ紓曲尋問中」であるという。その 目的は,「他日適応ノ里堡吏員ヲ挙クルノ地歩ヲ卜メントスル」ためとしていた。
総督府の調査によれば,これら清朝時代の総理・地保・耆老などは,各地方行政地域 の大小に合わせて設置され,住民の推薦や公選などで選ばれており,清朝時代の官衙と の間で公判や戸籍調査の補助にあたり,あるいは,地域の廟の神事の際に金銭面の統括 などといった活動を行っており,有効な人材資源と目されていたことがわかる24)。
翌 1896 年 3 月までには,これらの「市街里 保 庄事務取扱委員」(取扱係とする資料も ある)の充当が終わった。民政支部直轄 1 市 38 里保庄から,市部 5 区に市街事務取扱委 員 5 名,里保庄事務取扱委員 43 名(里 29 名,保 3 名,荘 11 名)が「精選」された。彼
らは平均年齢 45.5 歳(最年少 20 歳,最年長 64 歳)の各地の在住者であった(27-6 文書)。
市街地事務取扱委員に任命された台湾人の 5 名(表 2)は,台南民政支部の要請に答 申する形で管轄区域に関する報告書を提出していた。漢文で書かれたこれら月報告書は,
区民を訪問して知りえた民情や,治安・衛生・物価などの状況を報告している(図 1 参 照)25)。
こうした状況は一見すると,台湾人名望家層が総督府の植民地地方行政を下支えして,
統治政策を推進したかのように見える。しかし彼らは,ときには自己の権利を主張し,自 ら提案して実現にこぎつけるなど,主体的に地方行政機構に働きかけてもいた。こうし た側面につき,以下では,前述の義倉の問題とともに見てゆきたい。
②義倉の自主管理要請と歴史の奪回
前述のように,台南民政支部は,清朝期の義倉を官有物と見なし,戦乱の事後処理期 には台湾人が貯蔵していた義倉米を放出してしまい,かつ,その歴史を比較的新しいも のと見なしていた(前掲 9685-1 文書〔1896 年 1-2 月中作成〕)。
これに対し,台湾人側は新たな動きを起こした。すなわち,1896(明治 29)年 7 月 30 月付で「管内ノ紳士相議決シ各区ノ委員連署シ
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」,同年 11 月に「義倉條規趣意書並義倉
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定規ノ認可ヲ出願
4 4 4 4 4 4 4 4
」したのである26)。
この「義倉條規趣意書」と「義倉定規」が,「台湾総督府公文類纂」に残されている27)。 これら資料で台湾人事務委員たちは,義倉に関する歴史的経緯や台湾人社会との関係を 主張しているが,それは前述した台南民政支部のそれとは異なるものであった。
「義倉條規趣意書」30)は,表 2 の各区委員 5 名が「議案提出者」として連名で末尾に署 名している。その冒頭では,「我同胞ニシテ而カモ居ヲ一邑一市ニ仝フスルモノ一朝天災 地変ニ遭遇シ不時ノ困苦ニ陥ル如キ」際には「傍観坐視スルニ忍ビン」とし,「必スヤ人々 相憐レムノ情ヨリシテ之レガ救済ノ法ヲ講セザル可ラザルナリ」と述べ,「我台南」にお いても「今ヲ去ル百数十年前」に義倉が設置され,以来,義倉によって「幾多窮民ノ危 急ヲ水火ノ中ニ救助セラレシヤ其功績枚挙ニ遑アラザルナリ」と,その功績を強調する。
そして,以下のような義倉の「沿革」を列挙している。すなわち,義倉は「乾隆年間ニ 先哲諸士ガ同志相図リ
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城内考棚後部旧縣頂」(乾隆年間は 1736-1795 年)に設立したもの で,同治 2(1863)年に戦乱で運輸杜絶・米価暴騰の際に窮民救恤・兵士への食糧供給で 蓄積がなくなったものの,「同治七八年ノ間市街ノ慈善家有志紳商ハ再ビ応分ノ米金ヲ義
4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4
集シ之ヲ蓄蔵維持
4 4 4 4 4 4 4 4
」してきたものである,これらの来歴を示す書類は日清戦争のさなか
図 1 台湾人事務取扱係が台南県知事に提出した報告書(第 5 区・呉磐石。1897 年 9 月 30 日提出)
表 2 台南市街事務取扱委員名簿
区別 住所 姓名 年齢 備考
市街 第 1 区
城 内 単
花街 洪宗漢 43 歳
1895 年 11 月 18 日 台 南 市 各 区 委 員 任 命、改め 1896 年 10 月 2 日各同区事務係 任命。1895 年「土匪 事件」尽力につき 20 円・台南市街に共同 便 所 設 置 に 当 り 義 捐 金 募 集 の 協 力 勧 誘に成功した功で 5 円賞金授与。1897 年 4 月紳章授与。
泉州出身。商業。1906 年 6 月死去。
市街 第 2 区
城 内 上
横街 鄭朝宗 40 歳 泉州出身。1897 年 5 月死去。
市街 第 3 区
城 内 宮
後街 張建功 60 歳
福州出身。商業。1862(同治元)年台南移住、1862・1864
(同元・3)年に彰化戦乱「討伐」の軍功により五品拝受。
1897 年 4 月街長拝命。1905 年死去。
市街 第 4 区
城 内 竹
巷口街 邱玉坡 59 歳 1900 年 7 月死去。
市街 第 5 区
大 西 門 外 宮 後 街
呉磐石 45 歳
泉州出身。商業。父・本人とも清朝期に都司経験。清朝期 に四品を受ける。私費で道路橋梁費捻出、私設で貧困者・
病人・老人・寡婦などへの救恤・慈善事業を行う。1897 年 5 月検疫委員・11 月台南弁務署参事。1899 年台南城外保甲 局長。1909 年 11 月死去。
註 資料出典は、住所・姓名・年齢は 27-6 文書より作成。備考は、鷹取田一郎『台湾列紳伝』(台湾総督府、1916 年)
288-289・305・310-311 頁、「呉磐石並商朝鳳ノ二名参事任命ノ件(元台南県)」(『台湾総督府公文類纂』明治 30 年・台南県公文類纂永久保存(進退)・第 11 巻。9533-12 文書)、「台南県蔡国琳外十六名ヘ紳章附與」(『台湾総 督府公文類纂』明治 30 年・甲種永久保存・第 6 巻。126-12 文書)、より作成。
で紛失してしまい,当時の事務処理者も官撰で事務処理にあたっていた紳士も戦乱で逃 亡してしまったので,調査の根拠はないが,
「不肖等〔5 人の台湾人委員〕之レヲ市内ノ耆老及旧政府ノ小吏等ニ就キ訊問調査ヲ 為スニ其詳細ハ素ヨリ明了ナラズト雖トモ建設ノ主旨タルヤ政府ガ資金ヲ投ジテ以
4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4
テ経営セラレタルニ非ズシテ全ク市ノ紳商有志ガ先哲ノ遺志ヲ継ギ米金ヲ義捐シ維
4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4
持存在セラレシモノ
4 4 4 4 4 4 4 4 4
ナリト」
という。このように,義倉は台湾人紳商の主導した義捐による民有物であり,清朝によ る官有物ではないことが強調されている。
清朝時代における官有物か民有物かという点は,日本統治期になってその所有権が誰 に帰すかという点で,大きな違いをもたらす。なぜなら,日清戦争の結果締結した講和 条約の第 2 条には,台湾内の清国の官有物はすべて日本国のものとすることが明記され ていたからである。
続けて「義倉條規趣意書」は言う。「我先哲ガ今ヲ去ル百数十年ノ昔ニ当リ此貴重スベ キ此義侠ノ名誉アル義倉ヲ設置」した理由は,義倉を「将来ニ遺シ以テ彼ノ子孫ヲシテ 其遺志ヲ継カシメ無窮ニ維持セシメラルゝノ意ニ外ナラザルベシ」といい,さらに同治 年間にいったん途絶えた義倉を再興して「我等ニ伝ヘラレタルモノ」として,
「我等ハ必ズ先哲ノ素志ヲ継ギ同治ノ中興諸氏ニ対スルモ此義倉ヲ補充シ一朝異変 ニ供スルノ設備ヲ為シ以テ再ビ我等ノ子孫ニ遺伝スベキハ是レ我等ノ義務ナリ」
と述べ,義倉は創建以来一貫して連綿と続いてきたものであり,それを担ってきたのは 先人の遺志を尊重してきた台湾人社会の努力であると主張していた。
そして,積極的な義倉の自主管理を求め,「有志紳商慈善家ハ単ニ之レガ保存ニ汲々タ ルノミナラズ一層奮ヲ旺盛ナラシムルノ術策ヲ講セサル可ラズ」と主張,その手段とし て,
「其保存維持法ノ如キハ従来政府ニ委託セシト雖トモ元来此設立タルヤ各紳商有志 ガ一片義侠ノ捐資ニヨリテ成立存在セシモノナレバ我台南市外ノ紳商有志ハ其保存
4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4
維持ノ方法ヲ討議究査シ一定ノ條規ヲ設置ケ之レニ準拠シ長ク後来ニ継続スルハ其
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当ヲ得タルノ順序
4 4 4 4 4 4 4 4
」
であり,「従来ノ如ク唯政府ニ放任委託スルハ成立ノ性質上其序ヲ誤ルモノ」と否定して いた。彼らは「一定ノ條規」による原則の明確化・明文化,将来にわたる保障を主張し たのである。
これが,全 20 条から成る「義倉定規」29)である。その要点を列挙すると,「当地義倉 ハ台南市街民設義倉ト称ス」(第 1 条),義倉の目的は天災地変凶作などの「不時ノ凶歳」
に際し「当市街ノ窮民ヲ扶助スル」こと(第 2 条),米穀蓄蔵所の位置(第 3 条),「義倉 ニ関スル諸般ノ評議ヲ為スタメ」に「評議員ヲ置ク」とし,その定数は 20 名,評議員・
選挙有権者は台南市街に 3 年以上居住する者で毎年粟米 5 斗以上ないしは同等の金員の 寄附者に限定,20 歳未満の者は選挙権がなく,被選挙人は選挙有権者の互選によること
(第 4 条),評議員の任期は満 5 年で満期後は再選投票を実施(第 5 条),義倉に関する事 務処理のため幹事 4 名・臨時雇書記 1 名の役員の設置,幹事は名誉員で手当はなし(第 6 条),幹事は評議員の選挙により選出,任期 3 年で再選も可能(第 7 条),毎年春秋 2 期 に評議員会を開設(第 8 条),会頭・副会頭各 1 名を置き評議員の互選により選出(第 9 条),各評議員は必要な議題があるときは 5 名以上の賛成者を得て臨時開会を会頭に請求 可能(第 11 条),毎年末に県庁に処務報告を行う(第 12 条),市街紳士紳商の義捐範囲 を財産に応じた比率で決定(たとえば財産 5,000 円以上 7,000 円以下の者は毎年 1 石以上 を義捐,など。第 16 条),義捐人名簿の作成と年末の県庁への報告(第 17 条),義倉米 施行方法は,窮民の状態を視察調査の上で評議員の議決による,寡婦孤児への特別払い 下げ方法,特約した米商経由で証票下付による時価半額の販売,これらの方法は知事の 事前認可を要する(第 18 条),などである。
この「義倉定規」は,台南在住者で義倉への代価を支払ったものへ選挙・被選挙権を付 与し,選挙と協議を基本方針とする民主的かつ自治的な手段による管理を目指すもので,
相当広範囲における台湾人評議員の裁量発揮を企図していたといえる。
ここからは,領台以来の戦乱と植民地統治開始のなかで,台南民政支部により簒奪さ れた義倉の財産・運営権や歴史を,台湾人事務取使委員たちがイニシアチブをとりなが らその奪還をせまり,かつ,台湾人の自治的領域の拡大を目指す姿が看取できる。
この要求に対し台南県側は,「審議ノ上」で同 11 月 22 日に許可し,以後は「土人の名 望アルモノ二十四名ヲ撰定」し,「本県監督ノ下義倉ニ関スル諸般ノ事務ヲ処弁」させ,
領台以来 3 回の払下げを経て 1898 年の 3 月現在までに,義倉内残存石高は 912 石 9 斗 6
升 7 合を「前記委員之ヲ保管セリ」という30)。
ただし,義倉の起源については,1898 年 2 月に再び総督府から各県に対し義倉調査指 令31)が出され,翌月それに応える台南県知事磯貝静蔵の報告書32)において,以下のよう にいう。義倉の嚆矢は 1711(康熙 50)年に官側主導で形成された社倉であり,1788(乾 隆 53)年に官側主導で社倉を廃し「紳商富豪ノ捐穀ヲ加ヘ」て義倉 1 箇所を台南城内に 建設したが,これも 1862(同治元)年に戦乱の中で「尽ク官兵ノ糧食ニ宛テタルヲ以テ 平定ノ後殆ンド廃止ノ姿ニ帰」し,そのため再び当時の官僚が有志に「勧告シ富裕ノ度ニ 応シ」て義捐し,さらに 1875(光緒元)年に新たに赴任した官僚が従来の義倉を「倉庫 狭隘ニシテ府民ヲ賑恤スルニ足ルベキ米穀ヲ貯積スル能ハサル」として,「紳商ノ有志者 ヲ諭シ」て大きな倉庫を増建し 4 万石を貯蓄可能として,それが現在に至る台南城内第 二区の龍王廟街にある義倉である,というものであった。歴史を遡って詳細な沿革を述 べてはいるが,その観点は,あくまで義倉は官側の主導に依るという点で一貫していた。
ここでいう官側とは清朝官吏であるが,清朝の官僚制度の基本法則である科挙制度に おいては,地方官には本籍出身者を任用しないきまり=「本籍回避」があるため,台湾に おける清朝官吏は,大陸など台湾外から赴任した者で,台湾出身者ではない。したがっ て台湾総督府は,義倉の創立・改廃を主導したのは台湾出身者ではなく外来者である清 朝官吏とみなしており,台湾在住者の名望家にあたる紳商階級は,あくまでその要請に 応じて義捐を醵出する客体にすぎないものとしてみなしていた。
この後も,この要求を提出した 5 名の事務取扱委員は,翌年 10 月の制度改変後にも継 続して区事務取扱係として任命され,また,「台湾住民ニシテ学識資望ヲ有スル者」に対 して授与される紳章制度33)においても,1897 年の初授与者の中にこの 5 名全員が含まれ た34)。歴史観では一致していなくても,台南の植民地地方行政機関は,台湾人名望家の 義倉自主管理の要望を聞き入れ妥協し,限られた人材を利用し続けることで,地方行政 の維持をはかったといえよう。
台湾人名望家層についてみるならば,地方行政の補助的役割を与えられ総督府から紳 章を授与されるような,一見すると「御用紳士」的な存在であっても,総督府側の意志 に必ずしも唯々諾々と従うのではなく,「我台南」における「我先哲」との歴史的継続性 を認識し,総督府に対して台湾人による義倉の自主的管理と自己の歴史の奪回を試みる ような側面があったことが指摘できる。
3 安平民政出張所・保安局と台湾人名望家層
3.1 安平民政出張所設置とその陣容
安平民政出張所は,台南民政支部と同日の 1895 年 11 月 1 日に開庁した 。ただし同出 張所は当初から暫定的機関として設置され35),同年 12 月 31 日に廃庁となり,同出張所 吏員全員が台南民政支部の所属となった。その活動期間はわずか 2 ヶ月間にすぎないが,
以下では同出張所の活動を通して,よりミクロな地域の状況を見てゆく。
同出張所の陣容は,1895 年 11 月 19 日時点で表 3 のようである。4 つの係に 12 名の内 地人,5 名の台湾人が勤務した 。こうした小規模な地方行政機構のなかで,主要な地位 は内地人が占めており,台湾人はあくまで補助的存在という構成であった。以下,判明 する限りの個々人の履歴を見てゆく。
①内地人職員
所長である西郷菊次郎は,1861 年に西郷隆盛の長子として生まれ,12 歳から約二年半 に及ぶ米国留学生活を経て帰国,1877 年に西南戦争で薩摩軍として明治政府と戦うも負 傷して右脚膝下を切断,敗れて叔父であり政府軍側の西郷従道に投降,こののちは 1884 年に外務省に入ったが,1894 年 12 月に依願免官となり,日清戦争後の 1895 年 4 月 1 日 に陸軍雇員に命じられ大本営附となり澎湖島に上陸,5 月 21 日に台湾総督府参事官心得 に任ぜられ,7 月 18 日に安平支庁長(心得)となった36)。樺山総督と同郷の薩摩出身で ある。
ついで各係長の陣容を見る。松本庄八(第一係長)・仙石吉之助(第四係長)の人事に ついては,1895 年 9 月 16 日,西郷所長自身が本府民政局長・水野遵あてて,この両者に つき本府民政局の文書・経理課長と協議ずみであるので至急安平出張所勤務する旨を希 望しており,その結果,西郷の希望どおり決定した37)。
松本庄八の原籍は埼玉県,「平民」出身だが,任命前の履歴は不明である38)。
仙石吉之助は,宮城県仙台市出身,士族,1867 年生まれで,1883 年仙台区木町通小学 校訓導(〜 1885 年),1885 年宮城県尋常師範学校入学,1889 年同校を卒業・教員地方免 許状を取得,1895 年 1 月まで宮城県内の尋常高等小学校訓導を歴任した。この間,宮城 県庁の推薦で東京工業学校機械工芸部に入学・修業(1890-1892 年),1894 年文部省検定 で尋常師範学校工業科教員免許状を取得している。1895 年 1 月,約 12 年間の訓導生活を 依願退職で終えた。だが同年 5 月 12 日,陸軍省雇員を命ぜられ大本営附で台湾に派遣さ
れ,以後,約 15 年にわたる台湾生活が始まる。同年 6 月 16 日基隆上陸,18 日に台湾総 督府雇員心得となって台湾総督府官房に勤務(中央会計部勤務),そして 9 月半ばに上述 の人事結果を受けて,10 月 15 日から安平民政出張所に雇員として勤務,現金前渡分任官 として会計事務を分担した。その後は,1896 年 4 月以後台南県属・総督府民政局属・同 局技手などを経て,1902 年台湾総督府国語学校助教授,1907 年彰化庁属,1909 年退官し
表 3 安平民政出張所の職員事務分担(1895 年 11 月 19 日現在)
係別 係中の分担 官等 俸給 担当者氏名
(本務)
担当者氏名
(兼務)
第一係
係長 雇員 月俸 70 円 松本庄八
職員に関する事項 諸報告に関する事項
雇員 月俸 30 円 荒田読之介
桂直寿 文書往来並受付に関する事項
文書の保管及図書の管理に関する事項 諸報告に関する事項
雇員 月俸 25 円 大田原発次郎 文書保管及図書の管理に関する事項
衛生医務に関する事項 雇員 月俸 40 円 松井滋雄
衛生医務に関する事項 総督府臨時傭 日給 35 銭 小野沢雷八
町村吏員に関する事項 岡田兼二郎
戸籍に関する事項
水間武五郎 軍隊に関する事項
計 5 名
第二係
係長 陸軍通訳 月俸 70 円 岡田兼二郎
農工商に関する事項
本所臨時傭 1 ヶ月手当金 20 円 桂直寿
大田原発次郎 土木に関する事項 本所臨時傭 1 ヶ月手当金 20 円 水間武五郎
仙石吉之助
外国人に関する事項 松本庄八
計 3 名
第三係 係長
雇員 月俸 45 円 家永泰吉郎
民事に関する事項 岡田兼二郎
刑事に関する事項 水間武五郎
諸令達に関する事項 岡田兼二郎
計 1 名
第四係
係長 雇員 月俸 30 円 仙石吉之助
金銭の出納に関する事項 調度に関する事項
雇員 月俸 25 円 久徳福弥 保管物件に関する事項
炊事に関する事項
雇員 月俸 15 円 田中隆槌 人夫の進退に関する事項
各種税金に関する事項 岡田兼二郎
計 3 名
諸事調査に関する項 本所臨時傭
1 ヶ月手当金 15 円 張錦帆 1 ヶ月手当金 20 円 林詠修 1 ヶ月手当金 12 円 陳春耕 1 ヶ月手当金 9 円 蔡蘭友 1 ヶ月手当金 12 円 洪錫金
計 5 名
註 本資料は「安平出張所職員事務職員分担ノ件(台南県)」(『台湾総督府公文類纂』明治 28・29 年・台南県公文類 纂永久保存(進退)・第 1 巻。9523-49 文書)より岡本作成。
た39)。
岡田兼二郎(第二係長)は,陸軍通訳の身分で淡水支庁詰の通訳官であったところ,西 郷所長から 1895 年 9 月 15 日付で民政長官水野遵に対して岡田の採用希望書が送られ,こ の結果,安平民政出張所勤務となった40)。同出張所では農工商に関する事務を担当する 第二係長であり,一見すると従来の通訳業務とは無関係のように見える,しかし岡田は,
後述するように安平に設置された保安局で監督役を務めながら,台湾人評議員たちとと もに地域の実地調査に赴くなど,台湾人と最も接近しながら業務をこなす役割を担って いた。
家永泰吉郎(第三係長)は,佐賀県東松浦郡唐津町で 1868 年生まれの士族出身,大分 県尋常中学教諭から 1895 年 5 月 5 日に陸軍省雇員を命じられ,通訳官として大本営附と なり,6 月 4 日基隆到着,7 月 16 日に台湾総督府雇員心得,1896 年 4 月台北支庁書記官,
5 月総督府法院判官,苗栗庁長・新竹庁長などを歴任し 1914 年退官した41)。
係長以外では,荒田読之介は,陸軍省雇員の身分で既に安平兵站部附で勤務していたと ころ,西郷所長が 9 月 20 日に本府に対して,荒田を安平民政出張所勤務とするよう稟請 した。しかし実現しなかったために再度 11 月 6 日に稟請,この際の西郷所長いわく,同 出張所は「目下人少ニシテ事務整理上不便不尠」,荒田はすでに出張所開庁以来執務をし ているし,給与についても同出張所では陸軍省雇員よりも増俸して 30 円で雇用するとい う。結局,同年 12 月 7 日に安平民政出張所詰の雇員(月俸 30 円)となった42)。軍部と 総督府の出先機関を安平地域で掛持ち勤務していた荒田が,人手不足に悩む西郷所長の 要請により,2 ヶ月がかりで引き抜かれたことがわかる。
大田原発次郎は,1869 年 3 月生まれ,原籍は栃木県那須郡,士族出身である。1895 年 5 月 7 日,やはり陸軍省雇員・通訳官として大本営附を命ぜられ(月俸 20 円),同月 24 日に宇品港を出発,6 月 3 日に基隆上陸,7 月 23 日に台湾総督府附陸軍省雇員となり,9 月 19 日に台湾総督府雇員に任命された(月俸 25 円)。翌年 9 月以降,台南県属・阿緱庁 属などで 1907 年まで台湾総督府の地方庁に勤務した43)。
衛生医務に関する事務を担当した松井滋雄は,東京日本橋区出身の士族,1885 年 12 月 東京医科大学卒業,翌年に医術開業免許を受領し,東京日本橋蠣殻街で医術を開業,1895 年 8 月に台湾総督府雇員となり翌年 8 月辞職,続いて台湾公医を拝命し 1897 年 9 月に辞 職した44)。本国での医業経験を台湾で生かした経歴となっている。
岡田とともに第二係で農工商に関する事務を担当した桂直寿は,1867 年生まれ,鹿児 島県鹿児島市出身の士族で,1879 年山下小学校入学,1882 年に卒業,翌 1883 年三州義
塾45)に入学し 1887 年 3 月に卒業後,1890 年まで同塾にて助教,しかしまもなく遊学の ため東京上京して,同年 9 月に日本法律学校に入学,翌 1891 年 3 月事故により退校・帰 郷した。同年 5 月に鹿児島県庁の雇(月俸 10 円)となり,農商務課土木掛勤務,1892 年 8 月に雇を免じられた。同年 9 月,鹿児島県興産会社事務員(俸給 12 円),1894 年 7 月 に辞退(俸給 15 円)した。台湾には 1895 年 12 月に臨時傭として任命されている。経歴 からみると,西郷所長と同郷の鹿児島士族出身で,渡台前には県庁において農商務・土 木関係の勤務経験があり,渡台後も農工商に関する事務についている46)。
第二係で土木に関する事務を担当した水間武五郎は,1865 年生まれ,やはり西郷所長 と同郷の鹿児島県鹿児島市出身の士族である。1884 年に明治法律学校に入学するも 2 年 後の 1886 年 11 月に病気退校,しかし翌 12 月に北海道の釧路集治監47)に任命,1887 年 5 月に看守長となった。1889 年 8 月,東京の警視庁警部となり京橋警察署詰,1891 年 11 月に非職,しかし 1892 年 1 月に北海道炭鉱鉄道株式会社書記(〜 1893 年 6 月)として 再び北海道で勤務した。1895 年 5 月,陸軍省雇となり(月手当 20 円),10 月 3 日に侍従 武官に随行して渡台し,同月 29 日に安平出張所へ転勤(月俸 20 円),12 月 15 日に総督 府雇員となった(月俸 20 円)48)。
調度や保管物品に関する事務を担当した久徳福弥は,1868 年生まれ,高知県出身,1888 年 12 月に軍隊に入隊し,1890 年 6 月陸軍被服工長学舎(陸軍の靴工養成機関)入学し翌 年 11 月卒業すると,1895 年 3 月の満期退営まで陸軍内の輜重関係部隊(軍隊において,
前線に輸送・補給するべき兵糧・被服・武器・弾薬などの軍需品を扱う部隊)に所属し た。1895 年 7 月 8 日台湾総督府中央会計部臨時雇(日給 75 銭,のち 90 銭),10 月 12 日 台湾総督府雇員(月俸 25 円)・安平民政出張所詰を命じられ,物品会計係となった。翌 年 4 月以後,台南県属・鳳山県属・弁務処主記などを歴任,1913 年退官,1916 年時点で も台南庁打狗(高雄)居住49)。渡台前の輜重関係の経歴が,渡台後の物品管理事務と適 合している。
以上,安平民政出張所の人材の供給源は,本国から直接投入されるのではなく,陸軍 雇・通訳などの身分で軍隊とともにすでに渡台しているもの,もしくは総督府の本府・地 方庁などで勤務しているものであった。人材のスカウトには,西郷所長自らが関係各部 署に交渉し人材を集めており,所長と同郷(薩摩)出身者や,渡台前の経歴や渡台後の 勤務振りが評価されて,安平民政出張所に引き抜かれている。台湾領有から半年近くを 経た時期に始まる安平の地方行政は,渡台者のなかから,人脈・経験などを勘案して選 出されていたといえよう。こうした状況は,帝国日本の植民地官吏任用制度が試験に基
づく資格任用制度を基本とするにもかかわらず,統治初期の台湾ではこうした原則の例 外地となっていたことを反映しているといえよう50)。安平出張所においては,植民地統 治開始に伴い,軍隊とともに渡台した者のなかからかき集めるようにして,地方行政機 関スタッフが構成されたのである。
②台湾人職員
台湾人職員は,11 月 1 日の開庁時に臨時傭人として 6 名採用されているが,そのうち 5 名には,本名ではなく,名前に「×助」という内地風の名前が用いられていた51)。西 郷所長いわく,彼らは「曩ニ近衛軍隊戦争中夙ニ帰順シ各々辮髪ヲ断チ本人等ノ望ミニ 依リ右ノ如ク各名ヲ与ヘ仝軍隊ニ於テ新竹方面ヨリ当地迄使役シ来リタルモノ」であり,
軍の「引揚ニ際シ当出張所ニテ引続キ使役方依願ヲ受ケ改名ノ侭給仕小使方ニ使役シ居 ルモノナリ」という。軍隊の新竹(台湾中部)からの移動に伴いながら台湾人を末端で 使役し,彼らは辮髪を断ち内地風の名で呼ばれながら台南まで同行している様子,そし てこれら傭人の年齢がみな 20 歳前後であることがわかる52)。
次に,11 月 19 日段階では,台湾人 5 名が傭人として勤務しており,彼らは「本地人ニ シテ専ラ諸事調査ノ為メ本処臨時傭員ヲ命セシモノ」という53)。
このうち林詠修については,翌年 7 月の人事関係文書において,「当市〔台南市のこ と〕名望家ニシテ学識ヲ有シ且ツ篤実ノ聞エアル者ニテ曩ニ元安平支庁ニテ採用之有経 歴モ有之土地人民直接ノ関係ヲ有スル内務課殖産係魚䭢其他調査上ニ付適当ノ人物ト被 存候」54)といい,台南地域出身の台湾人名望家であったことがわかる。しかし,その他 の台湾人傭人については,詳細は不明である。
以上のように,同出張所の台湾人職員は,開庁当初は軍隊とともに台南まで移動してき た者を引き継いで雑役用に雇用していたが,次第に台南地域在住者から現地調査のため の雇用へと,推移していったことがわかる。では,出張所外において,地方行政に関与 した台湾人はどのようなものであったのか。以下では,こうした側面をさらに見てゆく。
3.2 保安局と台湾人評議員
①保安局の設置
保安局は安平地域の六社(社は本国の村に相当)を対象地域として,在地の台湾人名望 家を取り込み組織された,下級行政機関の補助的存在である。その開始は 1895 年 12 月 9 日,廃止は同月 31 日で,活動期間は 1 ヶ月足らずだが,前掲「台湾総督府公文類纂」27-9
文書には,その活動日誌が残されている。
台湾人名望家層を取り込んだ組織としては,台北で設置された保良
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局(台南とは名称 が異なる)が代表的な存在として有名である。台北の保良局は,台湾総督府設置後にも 台北市内の治安が荒廃していたことから,辜顕栄・李春生などが総督府側に設立を建議 し,1895 年 8 月から翌年 6 月までの短期間活動した55)。その性格については,抗日運動 を重視する従来の研究からは「反民族的な買弁的組織」として批判されてきたが,楊永 彬の研究では,その構成員の経歴なども詳細に分析することで,「民政と地方行政の空白 時期」に暫定的に形成された,台湾紳商と日本統治機関の相互の試行錯誤の産物と位置 づけている56)。本稿もこうした視点に刺激を受けつつ,安平六社の保安局の具体的活動 に即して分析したい。
保安局の設置理由は,西郷所長いわく,「当土ノ如ク言語不通ニシテ官民ノ情実互ニ不 明ノ地ニ於テハ之ヨリシテ種々ノ錯誤出来シ為ニ不都合ヲ醸出スルコト人民直接ノ官衙 ニ於テハ往々免レサル処ナリ」という前提のもとで,いずれ「愚民ノ感情ヲ害シ大ナル不 都合ヲ生セザルコトナキヲ保スベカラス」との危惧から,「錯誤ヲ未芮ニ防御円活ナラシ メンガ為メ官民ノ中間ニ在リテ官ニ便シ民ニ益シ所謂上意下達下意上通ノ目的」をもっ て,安平出張所内に保安局を設置し,「通訳官岡田兼二郎ヲシテ之ヲ監督」させることと した57)。前述のように,岡田兼二郎は,安平民政出張所の第二係長であり,もと陸軍通 訳官である。
保安局規則は,出張所長告示第七号によって制定され,以下の全 14 条から成った。
「 保安局規則
第一条 保安局ノ目的ハ安平六社内ノ安寧ヲ保チ業ヲ勧メ家ヲ富マシ大日本帝国々 家萬歳ノ基礎ヲ翼賛センカ為メ官民ノ中間ニアリテ上意下達下意上達ヲ円活 ナラシムルニアリ
第二条 保安局ハ安平民政張所長ノ監督ヲ受ク
第三条 保安局ノ位置及場所ハ安平民政出張所長ノ指定ニ従フモノトス 第四条 第一条ノ目的ヲ達センカ為メ保安局ニ左ノ役員ヲ置ク
董事 壱名 書記 壱名 評議員 五名 局丁 壱名
第五条 評議員ハ有識家若クハ名望家ニシテ其社内ノ模範トナリ大日本帝国ニ帰順 ノ赤誠ヲ表スルノ実アル者ヲ各社ヨリ壱名ツヽ名誉職トス
第六条 評議員ハ名誉職トス
第七条 評議員中ヨリ互選ヲ以テ董事ヲ撰挙シ安平民政出張所ノ認可ヲ受クルモノ トス
第八条 評議員ハ董事ヲ輔佐シ書記及局丁ハ董事若クハ評議員ノ指揮ヲ承ケ庶務ニ 従事スルモノトス
第九条 董事ハ安平民政出張所若シクハ審判官ヨリ下命ノ事務及諮詢ノ問題ヲ評議 員ト審査討究シ処理若クハ答申スルノ責任アルモノトス
第十条 評議員ハ安平民政出張所長ノ召集アルトキハ遅々ナク出頭シ局務ヲ処理ス ルモノトス
第十一条 董事ハ勧学若クハ勧業又ハ土地ノ盛衰其他土地ノ安寧ヲ保持スルニ付キ 必要ト認ムル事件ハ評議員ト審議ノ上安平民政出張所長ニ建議スルモノト ス
第十二条 董事及評議員ハ人民ノ訴訟ニ関シ若クハ局名ヲ以テ人民ニ布告シ又ハ人 民ノ謝儀報酬ヲ受クルコトヲ得ス
第十三条 董事書記及局丁ハ祭日若クハ日曜ヲ除キ毎日出勤シ局務ニ従事スルモノ トス 但出勤時間ハ安平民政出張所長ノ認可ヲ受クルモノトス
第十四条 董事書記及局丁ハ都合ニ依リ安平民政出張所ヨリ報酬ヲ受クルコトアル ベシ」58)
要点を述べれば,安平民政出張所の監督を受け(第 2 条),役員は董事 1 名・書記 1 名・
評議員 5 名・局丁 1 名の計 7 名から構成(董事は評議員と重複。第 4 条),評議員は有識 家・名望家で社内の模範人物,かつ「大日本帝国ニ帰順ノ赤誠ヲ表スル」者を各社から 1 名ずつ選び,名誉職とする(第 5・6 条),董事は評議員の互選で選出し,安平民政出張所 の認可を受ける,同出張所からの諮詢に対して評議員とともに審査・討究し処理・答申す る責任がある(第 7・9 条),勧学・勧業・土地盛衰・安寧秩序に関わるときは董事は同出 張所に対して建議可能(第 11 条),などである。この規則からは,台湾人名望家を董事・
評議員などの名誉職としながら,安平民政出張所の行政の補助的役割を担わせようとい う意図がうかがえる。
②保安局の陣容と活動
保安局の役員の陣容は,董事=蔡崇玉,書記=李耀謝,局丁=載裕,評議員は 4 名=
籃歩青・盧啓章・周宣郷・盧振清であり,それぞれの勤務状況は(表 4 参照),董事・書 記・局丁はほぼ全日勤務し,評議員は 4 名中 3 名が交代で出勤した(1 名のみ出勤皆無)。
董事の蔡崇玉は,董事選抜以前の 1895 年 11 月 2 日,すでに安平出張所から安平六社の 総理に任命されていた(手当金 1 ヶ月 6 円)59)。また,翌 1896 年 3 月までには既述の台 湾人事務取扱委員(前章 2.2 の③参照)の一人として,効忠里(安平地域に該当)担当と して選出されていた(前掲 27-6 文書。効忠里妙寿宮社に居住)。ここからは,蔡崇玉が総 督府側からは重要な名望家として継続して認知されていたことがわかる。なお事務取扱 委員任命時の蔡崇玉の年齢は 63 歳で,他の事務取扱委員たちより比較的高齢であった。
評議員の籃歩青は,安平市仔街に居住し,1841(道光 21)年 3 月生まれ,1849 年学堂 に入り郭逢元のもとで三字経四書を 2 年間,1851 年学堂に入り劉永川に詩経易経を 2 年 間,さらに 1853 年に学堂に入り李同科に 1854 年まで唐詩などを学んだ。1898 年には,従 前から安平市仔街の「商民」として記載されている人物である60)。清朝期の伝統的な学
表 4 保安局役員の出勤日(1895 年 12 月)
日付
出局者
董事 書記 局丁 評議員
蔡崇玉 李耀謝 載裕 籃歩青 盧啓章 周宣郷 盧振清
9 日 記載なし
10 日 記載なし
11 日 ○ ○ ○ ○
12 日 ○ ○ ○ ○ ○
13 日 ○ ○ ○
14 日 ○ ○ ○ ○ ○
15 日 日曜
16 日 ○ ○ ○ ○ ○
17 日 ○ ○ ○ ○
18 日 ○ ○ ○ ○ ○ ○
19 日 ○ ○ ○ ○ ○
20 日 ○ ○ ○ ○
21 日 ○ ○ ○ ○
22 日 日曜
23 日 ○ ○ ○ ○ ○
24 日 ○ ○ ○ ○ ○ ○
25 日 記載なし
26 日 ○ ○ ○ ○ ○ ○
27 日 ○ ○ ○ ○
28 日 ○ ○ ○ ○ ○
注 本表は「写 保安局日記 訳」(前掲 27-9 文書所収)より岡本作成。